人には適齢期というものがあると思う。
生まれた時から死ぬまでのなかで、ある事を行うのに、ふさわしい年ごろのことを適齢期という。それは全ての人に共通して訪れるものである。
現在の私は参拝適齢期である。神社仏閣めぐりを行うのに最適の年齢をむかえている。
六十歳後半からが該当する年代だと思う。そう考えると日本の定年制というのも、うまく出来ているのかもしれない。会社勤めに終止符を打って、心身のやすらぎを求める頃である。余生という言葉もある。
春の風に誘われて吉野山に行くことにした。参拝する神社は金(きん)峯(ぷ)山(せん)寺(じ)と吉(よし)水(みず)神(じん)社(じや)である。
大阪から近鉄電車に乗って二時間近くかかる。かなり遠方のことでもあり、今回は友人を誘わず、ひとりで行くことにした。
吉野駅で下車し、吉野ロープウェイに乗りかえる。平日であったにもかかわらず満員である。
上昇するロープウェイの窓から眼下を眺めると、山上へむかう七曲坂の道をリュックを背負った人達が、木々の間に見え隠れして登っている。元気のいい人がいると思う。若い人だけではなく、同年配の人も多くいる。
三分程でロープウェイは終着駅に着く。ゆるやかな上り坂を歩いて、金峯山寺の仁王門の前に立った。
金峯山寺は、修験道の開祖とされる役行者(役小角)が千三百年前に創建したと伝えられる金峯山修験本宗の総本山である。本堂である蔵王堂に、ご本尊の三体の金剛蔵王権現立像を安置している。日本最大の秘仏とされている。仁王門修理勧進のため平成二十四年から十年間にわたり、毎年一定期間に特別開帳される。
今回の吉野参拝も、特別開帳時にあわせた。行ける時に行かないと、たぶん今後、拝観する機会がないだろう。
仁王門の急な階段をあがり、堂々たる威容の蔵王堂の大伽藍の前に立つ。拝観券を購入し蔵王堂に入ると、正面の開けはなたれた扉のむこうに、巨大な厨子に納められた三体のご本尊が、参拝者を見下ろすようにそびえ立っていた。
青黒色と炎のような赤に彩られた金剛蔵王権現立像は高さが七メートルはあるという。
右手で三銛杵を持ちあげ、左手を剣印で腰にあてている。過去、現在、未来の三世にわたって救済のため悪魔を降伏させる忿怒の形相は圧倒される迫力である。
その前に跪き合掌する。これまで、どれほどの人達がここに身を置いたことだろうか。遠き過去から現在までの時の流れに身を浸し、はるかなる久遠の未来に思いを馳せる。
金峯山寺を後にして吉水神社にむかう。
吉水神社は元吉水院として役行者が創立した修験宗の僧坊であったが、吉野山に南朝を開いた後醍醐天皇らを祀る神社となった。
神社内の日本最古の書院建築の前に立つ。吉野の地にとけこみ、周囲の自然の一部となっている書院である。
古色蒼然とした建物内を拝観順路にしたがって進み、義経・静御前潜居の間で足を止めた。兄頼朝の追っ手から逃れるため、一代の英雄といわれる源義経と静御前が弁慶と共にここに隠れ住んだ。ふたりで過ごした最後の場所である。
眺めていると薄暗い光の中に義経と静御前が、何ごとか語りあって寄りそう姿が浮かびあがる。跪き頭をたれる弁慶。
幻影である。
時は流れ移ろいゆくが、ここは過去の人達が生きて呼吸していた場所である。いつ朽ち果ててもおかしくないと思わせる茶褐色の柱や床板に囲まれたひと間があるかぎり、いつの時であれ訪れた人はここで生きた古の人達と交感することが出来る。
潜居の間を過ぎると、後醍醐天皇玉座の間である。御簾の内に、まわりの畳より一段高い玉座がある。
宝物展として、天皇ゆかりの御物や義経の鎧、静御前の鐙、弁慶の槍などが展示されていた。
吉水院は安土桃山時代に豊臣秀吉が、吉野で盛大な花見の宴をした時の本陣でもあった。秀吉愛用の金屏風や湯釜、青磁の壺なども残されている。
それらを気のすむまで眺めてから、書院の外に出た。
春の風が山から吹きおろし頬をやさしく撫でて心地良い。吉野の山肌をうめつくす様々な木々がパノラマのように広がっている。春は吉野の神木である桜が、秋は紅葉がうめつくし、絶景をつくりだす。吉水神社の名勝一目千本からの景観である。
帰路、柿の葉すしをみやげものとして買う。
自宅に戻り、夕食にビールを飲みながら柿の葉すしを食べた。
だが、もうひとつのみやげものがあった。花粉である。その夜から花粉症が始まった。