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三ヵ月の研修が終わって、初めて一人で仕事をする日。武藤康二は担当する高校に車を乗り入れた。助手席にはアルミのアタッシュケースがある。倒産した前の会社で使っていたやつだ。それを手に取り、外に出る。秋晴れで青みの強い空が高く感じられる。
校舎に入り、廊下を行くと、右側の壁に大きな掲示板があった。SRAのポスターが真ん中に貼ってある。
富士山を背景に頭の大きいアニメの兵士がこちらを向いて敬礼をしていた。キャッチコピーは「この日本を守りたい」。下の空きスペースに「午後4時から視聴覚教室で説明会。先着40名にiPadを無料進呈」と手書きされている。その下に「特殊法人・志願兵勧誘協会(SRA)」の文字が見える。
イケてないなと呟いて、康二は中に入っていった。
進路指導室の教諭に挨拶をする。
「iPad、届いてますでしょうか」
「視聴覚教室に運んでおきましたよ」
「よかった」
康二は教諭の後について、視聴覚教室に向かった。
教諭がドアの鍵を開け、照明をつけてくれる。席が階段状になっており、百インチほどのディスプレイが正面に吊り下げられている。その下に段ボール箱が置いてあった。
康二はアタッシュケースを傍の演台に置くと、早速段ボール箱を開けた。ポリエチレンの袋に包まれた薄いiPadが縦に詰め込まれている。隙間には充電器が無造作に突っ込まれていた。
一つ一つ袋から取り出し、机の上に置いていく。作業の途中で、天井スピーカーからベルの音が聞こえ、「本日、国防軍兵士勧誘のためSRAの職員が見えられています。関心のある生徒は視聴覚教室にお出で下さい。先着四十名にiPadが進呈されます」と放送が続いた。
康二が四十台のiPadを並べて、ビデオ映像のセットをし終わった時、一人の生徒がドアから顔を覗かせた。半分刈り上げの頭に突っ立った髪の毛、ニキビ面をしている。
「ホントにもらえるの?」
「もちろんですよ。どうぞ、どうぞ」
生徒は入って来ると階段を上って、一番上の席に行った。iPadのスイッチを入れている。
「これWiFi専用?」
「そうです」
「ちぇっ」
気に入らなくて帰るかなと思っていたが、生徒は画面を指で擦っている。
そのうち、生徒がぞろぞろと入ってきた。太いズボンのポケットに両手を突っ込んだり、シャツの裾を外に出していたりする男子たちに混じって、女子も何人かいた。席に座ってiPadをいじり、一つ前の型かと呟いている者もいる。
午後四時を過ぎても二十八名しか集まらない。課長は予算上、四十台しか用意できないが、それ以上来るはずだと言っていたのだが。人気がないのだろうか。
康二は教室の外を覗いて、他に来そうもないと分かるとドアを閉めた。
演台のマイクの前に立つ。
「本日は、SRAの説明会にお出でいただきまして、ありがとうございます。まず始めに国防軍のビデオを観ていただきます。その後、説明をして、質疑応答に行きたいと思います。それでは始めます」
康二が機器のスイッチを入れると、大きなディスプレイに映像が映し出された。日章旗を背景に「活躍する国防軍」というロゴが流れ、「君が代」が聞こえてくる。集中させるために照明を落とすことというマニュアルを思い出し、康二は小走りにディスプレイの前を横切り、照明のスイッチを切った。教室が暗くなる。
映像は、最新型のヘリコプター航空母艦の映像から入り、そこから次々と戦闘ヘリが飛んでいき、青い空を背景に編隊飛行をする場面、一転して富士山の裾野を何台もの戦車が疾走する場面へと続く。機関銃を撃っている場面では、実弾演習という字幕が下部に出た。
生徒たちが歓声を上げたのは、尖閣諸島の領海に侵入してきた中国の艦艇を国防軍の艦艇が取り囲み、領海外に追い出した映像だった。
その後、シリアにおけるムスリム国壊滅作戦に後方支援として参加している国防軍の物資輸送や東日本大震災の時の救援活動の様子が映し出されて十五分間のビデオが終了した。
照明をつけると、演台に十二インチのタブレットPCを置き、スイッチを入れた。画面に説明のための文章を映し出し、それに時々目をやりながら康二は話し始めた。
「ビデオをご覧になってお分かりのように、国防軍は我が国の領土、国民を守る最後の砦なのです。憲法が改正されて、ますますその重要性が高まってきています。若い君たちが国防の担い手となって、我が国の平和を永遠に守っていってもらえますように、SRAがそのお手伝いをしています……」
それから話は、志願兵の待遇へと続いていく。宿舎があるので住居費はもちろん食費も無料、被服費も医療費も無料、要するにもらった給料はすべて小遣いになる。全額、親に仕送りをしてもいい。
そこでちいさな笑いが起こった。
「実際、かなりの兵士が全額仕送りしていますよ」と康二が言うと、「体のいい身売りかよ」という声が飛び、どっと笑いが弾けた。
車の大型免許や重機の免許も取れるといった話に続いて、卒業予定者には最も響くであろうメリットの説明に入った。
「この度、安保関連法が改正されまして、四年間兵役につけば、除隊後、四年間の大学の学費免除、さらには奨学金も支給されることになりました。大学は国公立、私立を問いません。奨学金は月十万」
みんなすでにその情報は知っているのか、反応が鈍い。康二はいささかがっかりした。
説明が終わると、一人一人に名前を言ってもらって、今後の進路の抱負を聞いた。康二はPC画面に九十六名の卒業予定者のリストを出し、出席者をチェックしていく。
その中の一人に康二は目を付けた。
溝田雅史。身長185センチ、体重83キロ、高校の学業成績はトップクラスになっている。国防省から提供されている資料によると、四十三歳の母親が一人、中学三年の妹が一人の母子家庭。生活保護を受けている。
体格といい、家庭環境といい、まさにリクルートされるために生まれてきたような男である。康二は自分のキャリアの一人目を、この男にしようと決めた。
「それではここから質疑応答に入ります。聞きたいことがあったら、何でも聞いて下さい。手を上げるのが嫌だったら、iPadのSRAアプリを立ち上げて、そこに書き込んでもらっても構いませんよ。こちらのタブレットに届きますから」
生徒たちの何人かがiPadの画面をタップし、指でタイピングをしている。
――訓練は大変ですか。
と画面に文字が出た。
「自分の命、仲間の命を守るための訓練ですから、いい加減なことはできません。はっきり言って楽ではありません。ただ、一緒に訓練する仲間がいますから、頑張ることができます。同じ苦労をしているので、その結びつきは大変強くなります。そうなると訓練が大変という感じもなくなっていくものです」
康二はにこやかに言った。
――訓練期間は? 宿舎は自分で選べるの?
「前期三ヵ月、後期三ヵ月の計六ヵ月です。前期では教育部隊に所属して基礎訓練、後期は実戦部隊に所属して、それぞれの適性と希望に応じて科目を選べます。教育部隊は宿舎を選べませんが、実戦部隊はある程度希望を聞いてもらえます」
――海外派兵は強制ですか。
この質問が来たかと康二は身構えた。質問者は溝田雅史だった。志願という形を取っている以上、強制ではないのだが、そのことを言ってはならないとマニュアルには書いてある。研修の係官もそのことを強調していた。
「日本という国は世界から孤立して生きていくことはできないのは、皆さんもお分かりのことと思います。食料しかり、原油しかり。大部分を輸入に頼っています。貿易は世界の国を相手にしなければなりません。世界のどこかで戦争が起こって、貿易の流れが滞ってしまうと、日本は直ちに干上がります。日本の存立が危ぶまれるのです。そのため日本はアメリカを始め西欧諸国と手を組んで、そういう事態を回避することに努めなければなりません。国防軍を海外派兵するのは、まさにそのためであり、集団的自衛権の範囲内なのです。もっとも、国防軍は後方支援の実績を積んできており、前線に出て敵と戦うことは求められておりません。ですから、海外派兵と申しましても、決して危険ではないのです。もしそういう要請があっても、安心して手を上げていただければいいのです」
康二はタブレットに映し出される文字をちらちら見ながら、声を張り上げた。
「結局、どっちなんですか」と女子の一人が言った。
「先程も言いましたように、海外派兵と申しましても後方支援に徹していますので、危険ではありません」
「強制なんですか」
「手を上げるのに躊躇されることはないと思いますよ」
「おめえ、頭悪いなあ」と男子生徒の一人が質問する女子に言った。「強制じゃないけど、強制されるのと同じだということだよ」
「そうなんですか」その女子が康二を見た。康二はタブレットの画面を指で擦った。
「今までの実績では、海外派兵で定員が埋まらなかったことはありません」
「ほら、見ろ」
質問した女子は納得のいかない顔をしている。康二はその間を捉えて、「他に質問はありませんか」と次に移った。
体力に自信がない者はどうしたらいいとか、親を説得するのをサポートしてくれるのかといった質問があって、質疑応答は終了した。
説明会に来てもらった御礼を述べ、「iPadはそのままお持ち帰り下さい」と康二が言うと、生徒たちはiPadを手にぞろぞろと降りてきて出入り口に向かった。
「溝田さん」
康二は頭一つ飛び出ている溝田を呼び止めた。溝田は怪訝な顔をして立ち止まった。ご指名だよと男子生徒が笑いながら、溝田の背中を押した。
「ちょっと話があるから、残ってもらっても構わないかな」
溝田は小さくうなずいた。
康二は手早く机に残っているiPadを回収していく。しかし、数えると九台しか残っていなかった。確か二十八名しか来なかったはず。康二は舌打ちをした。誰かが余分に持って行きやがった。これだから底辺校は馬鹿にされるんだ。
まあ、いいかと康二はすぐに自分を納得させた。今さら三台を回収しに回るのも面倒だし、出席者を三十一名にすれば済むことだ。
残ったiPadを袋に入れ直して段ボール箱に詰めていた時、ふと溝田の手を見ると、iPadを一台だけ持っている。彼には妹がいたな。
康二は最後の一台を箱には入れず、それを持って溝田に近づいた。
「これ、妹さんにあげて。プレゼント」
溝田は戸惑いの表情を浮かべた。
「妹さん、すでに持ってるの? それとも一つ前の型だからいらないか」
「いいえ、そんなことは……」
「だったら持って帰って。私も一つでも少ない方が荷物が軽くなって楽になるから」
とiPadを差し出すと、溝田はおずおずと受け取った。
「ただし、他の生徒たちには見つからないようにしてね」
そう言うと、溝田は笑顔を見せた。
「溝田さんは建築会社を希望してたよね。建築設計をやりたいって、もらった資料に書いてあったけど」
「はい」
「どう、希望通りに行けそう?」
「難しいです」
「だったら、四年間国防軍に入ったら? 夜は時間があるから受験勉強も十分できるし、それから大学の建築学科に入学したら? そんな人、いっぱいいるよ」
「僕もそのことは考えているんですが……」
「だったら迷うことないじゃない?」
「ただ、お袋が……」
「お母さん、反対なの?」
「はい。憲法が改正されて、いつ他の国とドンパチになるかもしれないから、絶対に行くなと」
「だから海外派兵を心配してたんだ」
康二は彼の背中を軽く叩き、「ここだけの話だけどね」と声をひそめた。
「国防軍は今のところ志願兵だけで構成されているから、強制はあり得ないのよ。分かる? だから、海外に行きたくなかったら手を上げなければいいんだよ。それでもプレッシャーを感じたら辞めればいいんだから。誰もそれを止められないよ。ただ途中で辞めてしまうと、メリットは受けられなくなるけどね」
溝田は足下を見つめて黙り込んでいる。
「きみがメリットを受けるために国防軍に入りたいんだったら、私がお母さんを説得してみようか」
「……いいんですか」溝田が顔を上げた。
「もちろん、それが仕事なんだから」
今から行こうかという康二の提案に、溝田は驚いたようだったが、善は急げということで康二は押し切った。新たに日時を決めるよりも、その方が康二にとっても都合がいいのだ。
溝田の通学用自転車を車のトランクに入れて一緒に行こうかと提案したが、近くですからと彼は自転車に乗って帰って行った。
車のナビに溝田の住所を入力して、高校を出る。五分も走らせないうちに、古ぼけた二階建てアパートの前でナビが到着を知らせてきた。建物の名前はどこにも見当たらないが、溝田の乗っていた自転車が置いてあったので、康二は車を止めた。
路上駐車をして車から降り、アパートの錆びた鉄製の階段を上った。一番端の二〇五号室に「溝田」の表札が掛かっている。
ノックをするとドアが開き、溝田が姿を現した。どうぞという声に、失礼いたしますと意識してはっきりと言い、康二は中に入った。煮物の匂いがする。横のコンロの前に小太りの女の子が立っており、菜箸を手に、康二に小さく頭を下げた。
「iPad、ありがとうございました」
「気に入ってもらったら、こっちも嬉しいですから」
ピンクのジャージーの上下に、黒いエプロンを付けている。中学生の妹に違いない。
アパートは二間しかなく、溝田の後について奥の和室に入った。痩せて顔色の悪い女性が敷き蒲団の上に座っていた。トレーナーにロングスカート姿で、ほつれた髪を手で押さえており、四十三歳という実年齢よりも十歳は老けて見える。
溝田が蒲団を避けて、茶色い畳のところに座った。
康二は母親の前に正座をして「志願兵勧誘協会の武藤と申します。この度はご無理を言って訪問させていただきました。申し訳ございません」と頭を下げた。
「こんなむさ苦しい所にお出で下さいまして、ありがとうございます」と母親も敷き蒲団に両手をついた。
康二は背広の内ポケットから名刺入れを取り出し、一枚を抜いて母親に差し出した。
母親は名刺を受け取ると、しばらくそれを見つめてから、
「話は大体息子から聞きました。兵役に就けば大学の学費免除、奨学金も出るというのも、前々から息子が申しておりました。本来なら私が働いて息子を希望通りの大学にやらせる、それが親の務めであることは重々承知しておりますが、この身体ではそれもままならず、息子には本当に申し訳ないと思っております」
母親がそこで喉をヒューと鳴らしながら咳き込んだ。溝田が枕元にあったL字形の物を母親に手渡す。母親はそれを口にくわえ、一押しした。
「お母ちゃん、無理せんと横になったら」と後ろから妹の声がした。康二はあわてて「どうぞ、お休みになって下さい」と手で示した。
母親は自分の呼吸を確かめるようにじっとしていたが、しばらくして「大丈夫です」と顔を上げた。
「息子は一級建築士になるのが夢なんです。建築士になって私と清美のために家を建てると申しております。それには大学に行くのが早道だとは分かっておりますが、学費免除に釣られて国防軍に入ることは心配なんです。後方支援がいつ何時そうでなくなるのか、誰にも分からないじゃありませんか。私には息子が唯一の希望なんです。息子を死ぬかもしれない所に送り出すつもりは一切ありません」
やはりそう来たかと康二は思った。まずここはマニュアル通りにすべきだろう。
「お母様のおっしゃることはよく分かります。自分の子供を死ぬ危険のある所に送り出すことを望む親は誰一人おりません。それは間違いないです。私にも息子がおりますが、みすみす死ぬ危険のある所に送り出す勇気はありません。ただ、我が国が他国から攻められて日本人の命が奪われる事態になったら、兵士でなくても戦えとは言うつもりでおります。お母様のおっしゃっていることは、そういうことではありませんよね。日本人の命も奪われていないのに、他国に行って戦争して死ぬ、そういう目に遭わせたくないということですよね」
そこで言葉を切ると、母親はうなずいた。
「政府はその点を考慮して、海外派兵をしても決して前線に出ないように後方支援に徹するように法律で縛っております。現に今まで死者は出ておりませんし、有志連合の欧米各国からは国防軍の働きを称賛する声が届いております。悪の台頭を許さず、各国が協力してその芽を摘んでいくという積極的平和主義に貢献しているのです」
母親の表情が曇ったのを見逃さなかった。
「と言っても心配ですよね」と康二はくだけた口調になった。「大丈夫ですよ。息子さんが来年入ったとして、四年の内に海外派兵に駆り出されることは、ほぼないでしょう。もっとベテランの兵隊を連れて行きますからね。それに、ここだけの話ですが、手を上げなければいいんですよ。海外派兵には参加しないと意思表明をすれば、連れて行けませんから。あくまでも志願兵ですからね。もしもそれで居づらくなったら、最終手段として国防軍を辞めることもできますから」
母親が小さくうなずいた。康二はアタッシュケースからパンフレットを取り出し、国防軍の給与や待遇、除隊後の様々なメリットについて説明した。溝田が就職したら生活保護を受けている母親の扶養者から外れるので減額される。しかも民間会社に就職して同居するとなったら、生活保護を打ち切られる可能性もある。しかし国防軍に入ったら、世帯が別れることになるので減額はあっても打ち切りはない。
康二はタブレットPCに、民間会社の平均給与と国防軍の給与、それに減額された生活保護費の金額を打ち込み、四年後までの総収入の違いを折れ線グラフにして見せた。保護費が打ち切られない場合は百万、打ち切られた場合は三百万ほど、国防軍に入る方が高かった。しかも衣食住が無料であることを考えると、さらに違いが大きくなる。
「娘さんは来年高校ですよね。学費は無償ですが、それだけでは学校生活ができませんよね。息子さんが国防軍に入ると、余裕を持って娘さんを高校にやれると思いますが、いかがでしょうか」
「清美、ちょっと来なさい」
母親が手を上げた。妹がやって来て、エプロンを付けたまま康二から少し離れたところに腰を降ろした。
「あんた、どう思う」と母親が妹に顔を向けた。
「あたしは反対。お兄ちゃんに死んで欲しくないもん。軍隊に入るということは殺し合いをするってことでしょう。そんなところに入るよりも普通の会社に入ったらいいよ。あたしの高校のことを心配してるんだったら、あたし、中学卒業でいい。あたしも働く」
「何言ってるの、あんたは」母親が語気を荒げた。「高校はどうしても出なきゃ駄目。中卒でいいなんて、何のために私が頑張ってきたと思うの。中卒がどんなに惨めな思いをするか、あんたは分かってんの。何も分からないで、そんなことを言うもんじゃない」
この情況をどう収めるべきか、康二にはうまいアイデアが浮かんでこない。
「でも、お母ちゃんはお兄ちゃんが軍隊に入ることに反対なんでしょ?」
母親が口をつぐんだ。
「お兄ちゃんが建築系の会社に入って、そこで経験を積みつつ、大学に入るお金を貯めて、あたしも働いて給料を入れたら、三人で生活できるよ」
それでは間違いなく生活保護が打ち切られるし、正社員は狭き門、非正規雇用全盛のこの時代にそんなにうまくは行かないことを数字で示してみようかと康二は考えたが、そんなことをすると逆に妹が意地になるかもしれないと躊躇した。
「俺、やっぱり国防軍に入るわ」溝田がぽつりと言った。「民間に就職するよりもどう考えても有利だし、俺が四年の兵役が終わって大学に入る頃には、清美も高校卒業して就職していると思うから、それでお母ちゃんと暮らしていけるやん。それに武藤さんが海外派兵に手を上げる必要はないって言ってるし、それならお母ちゃんや清美の心配もないわけだし」
妹は下唇を噛んでいるが、何も言わなかった。
「本当に海外派兵に志願しなくても大丈夫なんでしょうか」と母親が尋ねた。
「派兵されるといろいろと手当が付きますからね。それに惹かれて手を上げさえしなければ外国に行くことはないですよ」
そうですかと呟いて、母親が黙った。康二はアタッシュケースから一枚の書類を取り出した。親の同意書である。成人年齢を十八歳に引き下げる法案が今の国会で通りそうだが、施行は早くても来年の四月以降だ。成人年齢が十八歳になれば親の同意書は必要なくなるのだが、今回はどうしても必要なのだ。
「息子さんの入隊にはお母様の同意が必要ですので、ご決断されたのなら、この書類にご署名をいただきたいのですが」
康二は書類を母親の目の前に差し出した。母親はそれを手にとって、じっと見つめている。
「俺、もう決めたから」
「清美、何か書くもの取って」
康二はペンケースから素早くボールペンを取り出して、母親に渡した。そしてアタッシュケースを下敷きにするように蒲団の上に滑らせた。
母親が背中を丸め、署名欄に溝田春子と書き入れた。よし、と康二は心の中でガッツポーズをした。印鑑を押してもらい、同意書をクリアファイルに入れる。続いて溝田にも入隊申込書に署名してもらい、手続きは完了した。
「ありがとうございました。早速手続きをしまして、一ヵ月後くらいには案内書を送付させていただきます。息子さんはこんなにご立派な体格をされていますし、学業成績も優秀ですので、四年と言わず上級士官を目指されるのも一つの道かと思いますよ」
「いや、それはいいです。一級建築士を目指します」と溝田が答えた。
「いやあ、それは残念」
そう言って康二は笑い声を上げた。
事務所に帰って課長に報告すると、「いい人材をリクルートしたなあ。最初の仕事としては上出来だよ」と褒められた。気分よくパソコンに向かい、溝田のデータを打ち込んで、事務所を出たのは午後八時過ぎだった。
マンションに帰ると、妻の由奈は夕食を食べずに待っていてくれた。
「どうだった」
「一人ゲット」
「やったじゃない」
「課長に褒められた」
「うまく行きそう?」
「うん、大丈夫だと思う」
「よかった」
由奈の伯父の口利きでSRAに再就職したので、そう簡単には辞められないのだ。
康二は寝室に行って、ベビーベッドで眠っている太郎の顔を覗き込んだ。触るのなら、手を洗ってからにしてよという由奈の声が聞こえてくる。はあいと答えながら、康二は太郎の頬を指でつついた。生まれたての頃は猿のようにしわくちゃだったのが、一ヵ月経って肌はぷるんぷるんしている。お前のためにもお父さんは頑張るよと呟いて、康二は寝室を出た。
2
久しぶりに定時に帰ることができて、康二は三歳になったばかりの太郎と一緒に夕食をとった。先割れスプーンで煮物を食べていたので、康二は自分の箸を持たせてみた。
「まだ箸は早いわよ」と由奈が言う。
それでも使い方を教えていた時、テレビからニュース速報を知らせる音が鳴った。
画面に顔を向けると、芸人たちがトークをしている番組の上部にテロップが流れ始めた。
――シリアに派遣され後方支援に当たっていた国防軍に、死者が出た模様。
どきりとした。ついに出たか。康二は急いでチャンネルをNHKに合わせた。七時のニュースをやっている。アナウンサーが横から渡された紙を手に「ただ今入りましたニュースによりますと……」としゃべり始めた。内容は速報と同じだった。死者の数が十名というのが新しい情報だった。
康二は席を立って自分の部屋に行き、アタッシュケースからスマートフォンを取り出した。メールボックスには何も届いていない。
それを持って、ダイニングルームに戻る。
「心当たり、あるの?」
「いや」
食事どころではなくなった。
事務所に電話をすると、課長が出た。
「テレビ、ご覧になりました?」
「いや、何かあったのか」
「シリアで日本の兵隊が死んだらしいです」
「ホントか!」
「十人らしいです」
しばらく間があった。
「ホントだなあ。YAHOOで流れてるよ」
「どうしましょう」
「あわてるな。こんなことは想定内だから。こちらでも情報を集めて、はっきりしたことが分かったら連絡する」
電話を切ってから、康二はタブレットPCでニュース速報をチェックし、ツイッターで検索し、念のために外務省や国防省のホームページまで覗いたが、新たな情報は得られなかった。
九時になってNHKのニュースを見る。政府から正式な発表があったということで、冒頭から後方支援で死者のニュースが取り上げられた。負傷者も十数人いるようだ。ムスリム国の支配地域にあったモスルをアメリカ軍が奪還し、そこの治安活動中に自爆テロに遭ったということだった。
途中でアナウンサーが「亡くなられた方の氏名が判明しました」と手元の紙を見た。どきどきする。
「第十普通科連隊所属、辰巳悠太3曹。第一〇二特科直接支援隊所属、大前悟2曹……」
覚えのない名前が続く。もうあと二人かと思った時、
「第三七普通科連隊所属、溝田雅史陸士長」
と聞こえ、下のテロップにも文字が出た。ミゾタ、康二は小さく呟いた。
「どうしたの、知ってる人?」
太郎を寝かせ付けて戻ってきた由奈が康二の顔を覗き込んだ。
「俺が最初にリクルートした男」
「そうなんだ」
由奈は椅子を引いて康二の横に坐り、テレビ画面に目を向けた。アナウンサーが死亡者の氏名を繰り返している。
「なぜだ」訳の分からない怒りが湧いてきた。
「どうしたの」
「こいつは海外派兵には絶対に応じないと言ってたんだ。除隊したら大学に入って一級建築士を目指すって言ってたのに……」
「気が変わったんじゃないの?」
「母子家庭なんだよ。母親と妹のために家を建てるって言ってたんだ」
「そのお金を貯めたいっていうのもあったんじゃないの?」
「金なんて、行かなくても貯まるんだよ」
康二は思わず大きな声を出した。由奈は唇をすぼめ、眉を大きく上げると、立ち上がってダイニングルームを出て行った。
事務所に電話をしたが、誰も出なかった。課長の携帯電話に掛けようとして、あわてるなと言われた言葉を思い出し、康二は指を止めた。
湯船につかっていても、なぜだという言葉が頭から離れない。ひょっとしたら建築士をやめて士官を目指したのか。
ベッドに横になっても、康二はなかなか眠ることができなかった。太郎の夜泣きにいらいらし、毛布を持って居間のソファーに移ろうかと思ったが、自分が怒っていることを由奈に知られたくないという気持ちがそれを押しとどめた。
睡眠不足のまま七時に起き、真っ先に玄関ドアに差し込まれた朝刊を取った。
第一面には、「国防軍、戦後初めての戦死者」と大きなゴシック体の見出しが躍っている。康二は死者の名前を確認してみた。やはり溝田雅史の名前がある。国防省と外務省共同の公式見解として事件が報道されているだけで、それに対する政府のコメントはどこにも出ていない。テレビのニュースも新聞以上のことは伝えていない。
大変なことになったという思いを抱えたまま、康二は家を出た。
事務所ではさすがに戦死者の話で持ちきりだった。
課長のデスクに行き、「実は……」と言い掛けると、「分かってる、溝田雅史だろう」と課長が言った。
「データベースにアクセスして、君が最初に勧誘した人物だと分かったんだ。まあ、気を落とすな。これからはこういうことが、まま起こってくるだろう。その一回目だったということだ」
「この事務所で勧誘した兵士は、他におりました?」
「いや、いない」
康二は課長に気づかれないように、ゆっくりと溜息をついた。
自分のデスクに戻ってパソコンを立ち上げる。心なしか、同僚の誰もが遠巻きに自分を見ているような気がした。とにかく仕事をしよう、康二は自分に言い聞かせてキーボードを叩いた。
昼休み、テレビのニュースで、総理大臣の記者会見の映像が流れた。
「この度、国防軍の兵士十名が卑劣なる自爆テロにより亡くなるという痛ましい事件が起きました。ご遺族の方々の心中をお察しいたしますと、痛恨の極みであります。治安維持という平和を構築する活動を妨害するゲリラには、これからも鉄槌を下さなければなりません。彼らの死を決して無駄にしないように、国防軍はアメリカ軍と緊密に連携を取って、世界に平和をもたらす活動を続けなければなりません。それがひいては日本の平和を守る道なのです。これしか道はないのです」
そこで総理大臣は握り拳で演台を叩く素振りを見せた。康二はそれ以上見ていられず、自分のデスクに戻った。
ツイッターにおかしなツイートが流れたのは、その日の夜だった。
フォロワーからのリツイートで、〈死はいつも他人の死〉というアカウントのツイートが流れてきたのだ。リツイート数が一万を超えている。
「自爆テロで死んだというのは嘘。本当は米軍との共同作戦でモスルを攻撃し、戦死したのだ。政府は法律違反を隠すために、米軍と口裏を合わせて事実をねじ曲げている。我が国防軍の兵士は勇敢に戦って死んだのだ。その栄誉を称えずして、何が平和に貢献したと言うのか。これでは死んだ兵士が浮かばれない」
本当だろうか。康二はすぐに〈死はいつも他人の死〉のプロフィールを見てみた。本人の情報は何もない。ツイートもたった五つだけだった。リツイートで流れたツイートが一番最初で、後の四つには作戦の日時、作戦全体の人数、国防軍兵士の参加人数、行軍の経路、戦車や航空機の名前、台数など細かく記されていた。どうみても架空の話だとは思えなかった。作戦に参加した国防軍兵士の一人が書いたか、もしくはその兵士から情報を得た者が書いたと思わせるものだった。
五つのツイートは午後四時過ぎにまとめて書かれており、それ以後のツイートはない。康二はそれでも〈死はいつも他人の死〉のアカウントをフォローすることにした。
裏切られたと康二は思った。海外派兵は後方支援のみと言い続けて勧誘してきたのに、これでは騙したことになる。
康二はタブレットPCを由奈に渡し、〈死はいつも他人の死〉のツイートを見せた。
「これ、本当にホントのこと?」
「分からん。でも嘘とも思えないだろう」
「正式に発表があるまで、信じちゃだめよ」
「法律に違反してるんだから、正式に発表されるわけがないだろう」
思わず強い口調になって、由奈は口をつぐんだ。
翌日には〈死はいつも他人の死〉のツイートがニュースになり、マスコミが官房長官に事実かどうかを問い質した。しかし官房長官はそれをデマだと一蹴した。デマであることを明らかにするために後方支援の詳細な情報を出すべきでは、という質問には「アメリカ軍の機密情報が絡んでくるので、それはできません。それにそういう情報が公開されると、現地にいる国防軍に危険が及ぶ恐れがあります。まさに特定秘密に当たりますので公開はできません」と答えた。
「それではどうしてデマだと認定できるのですか」
「あり得ないことを否定するために、デマという言葉を使ってるんです」官房長官がいらついた声を出した。テレビを見ながら、答えになっていないと康二は呟いた。
一緒に見ていた課長に「本当のところはどうなんでしょう」と聞いてみた。課長は顎に手をやると、ひと呼吸置いてから、
「公式見解がない以上、我々はあくまで後方支援の中で死んだということを信じるまでだ。余計なことを考えずに仕事に邁進するように」
と言った。
その日の夕刊に「国防軍兵士、前線で死ぬ?」という見出しの記事が出た。その中に「戦後初めて国防軍兵士が敵を殺したのか」という文章があった。ツイートの中の「国防軍兵士は勇敢に戦って」という言葉を思い出し、康二はそれ以上記事を読むのをやめた。
〈死はいつも他人の死〉のアカウントはいつのまにか削除されていた。
国会の予算委員会で野党の議員が、国防軍を法律に違反して前線に送り込んだのではないかと政府を糺したが、総理大臣は決してそんなことはないと繰り返すばかりだった。
新聞もテレビも、法律違反があったかどうかの論調ばかりで、戦死はいつかは起こることという受け止め方だった。ワイドショーでは、今度のことで政府を追及するのは日本の国益に反すると述べるコメンテーターが登場し、もっぱら戦死者のプロフィールが詳しく紹介された。それはまさに英霊の扱いだった。溝田の紹介が始まると、康二は休憩室の席を立った。
一週間後にシリアから遺体が帰ってくることになり、康二は課長から国の主催する葬儀に出席することを求められた。
「遺族も出席するのでしょうか」
「そりゃあ、遺族が出席しなければおかしいだろう。欠席したら、それこそ政府に抗議しているように見えるからな」
「私が出席する必要があるのでしょうか」
「絶対というわけではないが、勧誘した人間が最後まで面倒を見るのは、職務の一環だろう。職務に忠実な姿を見せておくのも今後の仕事に役に立つはずだ。どこで誰が見ているか分からないからな」
そう言われると、嫌だとは言えなくなった。いっそのこと業務命令と言われる方がましだった。
あの母親に会った時、俺は何と言えばいいのだろう。考えれば考えるほど心が重くなった。仕事に身が入らない。担当の高校への事前訪問も先延ばしにして、康二はデスクの前に座っていた。課長も同僚も声を掛けてこなかった。
溝田雅史は金に釣られて海外派兵に応募したのだ。俺があれほど手を上げさえしなければ海外へ行くことはないと言ったのに、金に釣られやがった。自業自得だ。康二は自分をこんな状態に追い込んだ溝田に怒りさえ覚えた。と同時に、マニュアル通りに、危険のない後方支援と言い続けてきた自分にも腹が立った。
夜は眠られず、太郎の夜泣きに、何とかしろと大声で由奈を怒鳴ってしまった。その声にますます太郎が泣き出し、由奈はベッドの太郎を抱き上げ、背中をぽんぽんと叩きながら、寝室を出て行った。康二は起き上がって、ベッドに腰を降ろした。
しばらくして由奈が一人で戻ってきた。
「今晩はあっちで太郎と寝るわ。あなたはここでゆっくりと休んで」
「いや、俺があっちへ行こう」
康二が立ち上がろうとするのを、由奈が手で制して横に坐った。そして右手を康二の腰に回し、ぴったりと寄り添ってきた。その温もりを感じていると、ようやく気持ちが落ち着いてきた。
康二は再び横になった。由奈は康二の唇に軽くキスをすると、明かりを消して寝室を出て行った。
葬儀は当初、日本武道館でまとめて行われることになっていたが、遺族からの要望で十人のうち四人はそれぞれの地元で開催されることになった。溝田雅史もその一人だった。
所長と課長と康二の三人が出席することになり、黒の礼服に身を包んでタクシーに乗り込んだ。
葬儀が行われるのは葬儀会館ではなく、普通の大きな会館だった。タクシーが近づくにつれ、制服を着た国防軍兵士の姿が目立ってきた。黒服ではなくカーキ色の服が、普通の葬儀ではないことを思わせた。
三人はタクシーを降りると、出入り口横のテントの中に設けられた受付に向かった。国防省関係と一般・親族に分けられており、国防省関係にはカーキ色の制服姿がずらりと並び、康二は所長、課長の後ろについた。
腕に腕章を巻き、カメラを手に動き回っているのは新聞記者だと思われた。テレビ局から来たのか、肩にビデオカメラを担いだ者が受付にレンズを向けている。
香典は所長が出し、康二は筆ペンで課長の隣に記帳するだけだった。
出入り口の傍には「故溝田雅史二等陸曹 葬儀式場」という大きな看板が立てられていた。陸士長から二階級特進している。それを横目に見ながら、康二は中に入った。
ロビーは人で溢れていた。カーキ色の制服ばかりではなく、濃紺の制服を着た男たちもそこかしこに屯していた。お、来てると言って、所長がその方に歩いて行った。
「いつもお世話になっております」
所長が濃紺組の一人に頭を下げた。五十半ばの厳つい顔をしている。康二も課長と一緒に頭を下げた。
「いよ、ご苦労さん」
「この度は大変なことになり、私たちも心を痛めております」
「まあ、いつかこうなるとは覚悟していたから、残念ではあるが仕方がないな」
「私たちの業務に支障が出ることが心配なんですが……」
「そうね、一時的には志願者が減るかもしれんが、そのうちに慣れるだろう」
「……ところで」と所長は男の耳元に口を近づけた。「本当のところはどうなんでしょうか」
男の眉間に皺が寄った。
「何のことだ」
「いや、なんでもありません」
所長があわてて手を振った。そして頭を下げてその場を離れようとした時、
「心配するな。そのうち法律が変わるから」
という男の声がした。
少し離れてから、あれが連隊長だと所長が教えてくれた。
遺族控室の表示に従って、三人はホール横の通路を歩いて行った。鼓動が早くなってくる。母親に面と向かった時、何と言おうかと頭の中で何度も場面を思い浮かべたが、言葉を発している自分が想像できなかった。母親の怒りに対して、ひたすら頭を下げるだけだと腹をくくるしかなかった。
控室には国防軍兵士の姿はなく、喪服姿の男女が数人いるだけだった。ソファーに腰掛けて女同士で話している一人が母親に違いないと思ったが、康二はその方に近づけなかった。
所長が近くにいた男に、喪主の方はと小声で尋ね、男がソファーの女たちを手で示した。所長が礼を言い、近寄っていく。康二は大きく深呼吸をした。
「お母様でいらっしゃいますか」
所長が座っている二人の女に声を掛けた。
「はい」と母親が顔を上げた。三年前より若々しく元気そうに見えた。
「わたくし、志願兵勧誘協会の事務所長をしております、川上と申します」
所長は内ポケットから名刺入れを取り出すと、一枚を抜いて差し出した。
「ああ」
母親は名刺を受け取ると、立ち上がった。
「この度は、まことにご愁傷様でございます。心よりお悔やみ申し上げます」
康二は所長、課長に倣うようにして頭を下げた。
「ありがとうございます」
母親が康二を見たが、その表情には何の変化もない。俺のことを忘れているのかと康二は思った。
「どうぞお力落としのございませんよう……」
所長が再び頭を下げ、その場を離れようとした時、
「息子さんはどうして海外派兵に応募されたのでしょうか」
と、思わず康二は口走ってしまった。課長が上着の裾を引っ張った。
「………」
「手を上げなければ、こんなことにならなかったのにどうして……」
母親が初めて康二に気づいたように、じっと見つめてきた。
「私にも分かりません。私は息子に、絶対に手を上げないように何度も言ったのです。泣いて頼みました。しかし息子の答えはいつも同じ。お国のために行かなくてはならない、というものでした。それも笑って答えるのです。私がいくら、死んだらどうするのと訴えても、兵隊はそれが本分だからと取り合ってくれなかったのです」
その時、「出てって!」という悲鳴に近い女の声がした。見ると、入り口のところに紺色のセーラー服を着た女子高生が立っていた。妹であることはすぐに分かった。
妹は小走りに近づいてくると、「出てってよ」と康二の胸を突いた。母親が後ろから妹を抱きかかえた。妹はそれでも康二を殴ろうとして手を伸ばした。
「あんたのせいよ。お兄ちゃんが死んだのは、あんたのせいよ。お兄ちゃんを返してよ。お兄ちゃんを返せ。あんたさえお兄ちゃんを引っ張らなかったら、お兄ちゃんは死ななかった。死神! あんたは死神よ。あんたさえいなければ……」
妹がぽろぽろと涙を流し始めた。母親が妹を抱きすくめ、その頭をゆっくりと撫でた。
康二は課長に背中を押されて、その場を離れた。
遺族控室を出たところで、「気にするな」と課長が小さな声で言った。「戦地補償もあって十分な金が出るんだから」
その言い方に康二は反吐の出る思いがした。
館内放送で葬儀の開始が予告され、康二たちは広いホールに入った。続々と入って来る制服の兵隊たちは前の方に行くが、三人は一番後ろの席に腰を降ろした。
壇上には白い菊が敷きつめられ、その真ん中に大きな遺影があった。国防軍の制服を着、軍帽を被っている溝田雅史だった。その上の高い所には日章旗と旭日旗が掲げられている。上手には椅子が並べられ、黒い服を着た男女が座っていた。その中にセーラー服姿が遠目に見えた。
三百ほどの席が一杯になり、さらに立っている者もいる中、司会の言葉に続いて三人の僧侶が下手から現れた。紫色の衣に金襴の派手な袈裟を着ている。真ん中の椅子に腰を降ろし、三人の読経が始まった。
スピーカーから流れる読経を目をつむって聞いていると、先程の妹の声がそれに重なってくる。「死神」と言われたことが堪えていた。確かに俺が溝田を引っ張らなければ、彼は今頃建築会社で働いて、将来の夢に向かって突き進んでいたはずだ。まさか死ぬとは思わなかったというのは言い訳に過ぎないのだ。康二は大きく息を吐いた。
焼香が始まって、「お前は行かなくてもいい」と課長に言われたが、康二は「行きます」と答えて通路を降りていった。真ん中に据えられた階段から登壇し、右手の遺族席に向かって頭を下げた。母親が礼を返す。妹はハンカチを目に当てて、しゃくり上げていた。
康二は焼香台の前で遺影を見上げた。溝田は口許を引き締め、こちらを見ている。
ミゾタ、どうして海外派兵に応募したのだ。お前の本分は一級建築士になることだろう。母親や妹のために家を建てることだろう。国のために命を捨てることではないだろう。
焼香が終わると、三十人余りの軍楽隊が入ってきて、演奏を始めた。重く沈み込むようなメロディーだったが、どこか勇壮な響きもあった。それがすむと、今度は軍楽隊と入れ替わるように着剣した儀仗(ぎじょう)を持った兵隊たちが二十人ほど入ってきて、指揮官の号令一下、捧げ銃(つつ)を行った。そこへ軍帽を被った軍人が下手から現れた。先程の連隊長のようだ。捧げ銃をしている兵隊たちの前に立ち、マイクに向かう。司会者の「日本国総理大臣の弔辞を読み上げます」という声に、連隊長は手に持った白い紙を広げた。
「弔辞、故溝田雅史二等陸曹の御魂に見(まみ)える為、ここに哀悼の誠を捧げます。貴殿は国防軍の海外派遣の要請に自ら進んで応募され、後方支援の任務を立派に果たされました。不運にも、卑怯な自爆テロにより命を落とされたことは返す返すも無念の至りであります。しかし、あなたの命は決して無駄にはいたしません。我が国日本がこれからも世界の平和に積極的に貢献していく、その礎となられたことを私たちは決して忘れません。貴殿は我が国のために命を捧げてくれた英霊であり、その名は永遠に靖国神社に刻まれるのです。どうか安らかにお眠り下さい」
次に母親がマイクの前に立った。
「溝田雅史の母親でございます。この度は息子のためにこのような立派な葬儀を執り行っていただき、ありがとうございました。さぞかし息子も喜んでいることと思います。本当にありがとうございました」
そう言って母親は深々と礼をした。
葬送の曲が流れ、康二たちは立ち上がってホールの外に出た。
出棺を待っていると、突然「まさしー」という女の声がスピーカーから聞こえてきた。康二は思わず天井に目をやった。雑音が聞こえ、次に「まさ」と聞こえたところで、ぷつんと音が途切れた。
しばらくしてホールの扉が開き、旭日旗に覆われた棺が国防軍兵士たちに支えられて出てきた。その後ろには遺影を持った妹と、ハンカチを目に当て、俯きながら歩く母親が続いた。テレビカメラがその様子を撮影している。
康二は数珠を手に掛け、目を閉じて合掌した。
葬儀は日曜日だったため、次の日は休んでもいいと言われ、康二は朝から自分の部屋に籠もっていた。食事もとらず、クッションに頭を載せてカーペットの床に寝そべっていた。
今まで人材派遣業だと割り切って仕事をしてきたが、本当は人を死に追いやるかもしれない仕事だったのだ。後方支援に徹するなどと騙されてきたのも腹が立つが、いずれ法律が変わって国防軍が前線で戦うことも普通になるだろう。そうなってもお前は志願兵を勧誘する仕事を続けることができるのか。所長や課長は気にするなと言うが、それはお前たちが俺と同じ経験をしていないからだ。この手で一人の人間を死に追いやったら、そんな気楽なことが言えるわけがない。死神、確かにあの子の言う通りだ。そう言われても仕方がない。俺の他に勧誘した奴らはどういう気持ちでいるのだろうか。
康二は何度も同じ思考を繰り返した。辞めるべきか辞めざるべきか。三人の生活のことを考えると、踏ん切りがつかない。
ノックの音がした。
「晩ご飯、できたけど食べない?」
スマホの時間を見ると、七時を過ぎていた。
「すぐ行く」
しかし康二は起き上がらなかった。
このまま仕事を続けて、また俺の勧誘した男が死んだ時、俺は耐えられるのだろうか。今度は母親から死神と指差されるかもしれない。今まで俺が勧誘した男たちは三百十六人。仕事を続ける限りその人数は増えていく。いま辞めればその数は変わらないし、時間が経てば除隊か何かで確実に減っていく。死神と指差される可能性も減っていく。
再びノックが聞こえ、「入ってもいい?」という声がした。それに答えないでいると、ドアがゆっくりと開き、由奈が入ってきた。
「大丈夫?」
由奈が膝をつき、康二の顔を覗き込んできた。
「ああ」
由奈が体を寄せるように横たわり、康二の胸に頭をもたせ掛けた。
「お仕事、辛ければ、辞めてもいいのよ」
康二は由奈の頭を抱いた。
「太郎を保育園に預けて、私も働くから」
なぜだか涙が溢れてきた。「ありがとう」と言うのが精一杯だった。
次の日、康二は出勤すると、すぐに課長のデスクに行き、「辞めさせてもらいたいのですが」と切り出した。ためらっていては絶対に言い出せないと思ったからだ。
「うん?」
「辞めさせていただきます」
「退職するということ?」
「はい」
「一昨日のことが堪えている?」
康二は返事をしなかった。
「取りあえず、話をしよう」
課長は立ち上がって、ミーティングルームに向かった。他の同僚たちが怪訝そうな顔で康二を見ている。
部屋に入って、ロの字形になった机の一辺に並んで座った。
「君の気持ちはよく分かるよ」と課長が言った。「誰だってあんなことを面と向かって言われたら、落ち込むからなあ。こっちは別に相手を戦地に送ろうと思ってやっているわけじゃないのになあ。条件を示して、それで相手がその気になったら志願してもらう、ただそれだけのことなのに」
そこで課長は様子を窺うように言葉を切った。
「それで辞めてから何か仕事の当てでもあるの?」
「いいえ」
「奥さんはどう言ってるの」
「辞めてもいいと……」
「ほう……ところで息子さんは今いくつ」
「三歳です」
「可愛い盛りだなあ。二人目を作る予定はあるの?」
「できれば欲しいと思っています」
「それなら辞めない方がいいんじゃないの。こんなことを言ったら何だけど、ここほど給料のいいところはそうはないよ。準公務員の扱いで倒産はないし、年金も別建て、退職金も景気に左右されずに満額出るし。辞めないで欲しいなあ」
「………」
「確かに自分の勧誘した人が亡くなったら、ショックなのは分かる。俺だってショックを受けるだろう。でも、それは割り切った方がいいんじゃないか。海外派兵に応募するのは自由意志なんだから、そこまで自分の責任だと思うのは考えすぎなんじゃないか。しかも今のところまだ後方支援の段階なんだから」
「でも、法律が変わって戦えるようになるんでしょう」
「たとえ戦えるようになっても、志願するのは自由意志だよ。ようく考えた方がいいよ。もし我々の仕事がうまく行かなくなって徴兵制に切り替えられたら、命令一下、どこにでもやらされるんだよ。君の息子が十八歳になったら兵隊に取られ、戦地に送られることを誰も拒否できなくなるんだよ。それでもいいのか」
康二ははっとした。確かにそうだ。憲法が改正され、軍隊を持つことが明記された以上、政府の意向によって徴兵制に切り替えることは簡単なのだ。今はまだ志願者が多いので、そういう声は上がってはいないが、今回の戦死報道で志願者が減っていくと、そういう議論が起こってくるだろう。課長の言う通り、徴兵制になると太郎が前線で敵と戦う羽目になることもあり得る。
「こんなことを言ったら、メディアから袋叩きにされるかもしれないが」と課長は声をひそめた。「前線で戦うのは底辺にいる連中に任せたらいいんだよ。そのために色々なメリットを与えてるんだ。ある意味、格差是正にもなるんだ。あの母親や娘だって、ミゾタの派遣手当が毎月九十万も入っていたんだし、死亡保険金も特別割増になるし、遺族年金だってたっぷり入るんだよ。そういう金が必要な人間が戦地に行けばいい。我々のような人間の子供が戦地に行く必要など、これっぽっちもないんだ」
頭がこんがらがって、うまく整理ができない。
「あわてて結論を出さなくてもいいよ。しばらく時間を置いて、それでも辞めるという意思が変わらなければ、君の意思を尊重しよう。それでいいか。今回は辞意を引っ込めてくれるか」
「……はい」
「よし、よかった。我々の仕事は誰からも後ろ指を差されない、立派な仕事なんだ。それを忘れないように」
「どうだった」
家に帰ると、由奈が聞いてきた。
「慰留された」
「それで?」
「取りあえず撤回した。時間を掛けて考えてくれと言われた」
「そうなんだ」
康二は課長の話を伝えた。
「そうよねえ。課長さんのおっしゃる通りだわ。志願する人が少なくなったら、徴兵制になるもの。そうなったら太郎も兵隊に取られるんだわ。戦地に送られて戦って死ぬかもしれない。絶対に駄目よ。そうならないためにも、あなたが頑張って志願する人を増やさなくちゃ」
「そう思うか」
「うん。ミゾタさんには可哀想なことをしたけど、志願制なら自分の意思が貫けるんですもの。徴兵制にしたら絶対にいけないわ」
三ヵ月後、康二は高校の視聴覚教室に立っていた。手許のタブレットPCにはまだ電源が入っていない。机に肘をついたり、頭をつけて寝そべっている生徒たちをにこやかに眺めながら、康二は話し始めた。
「国防軍は我が国の領土、国民を守る最後の砦なのです。憲法が改正されて、ますますその重要性が高まってきています。若い君たちが国防の担い手となって、我が国の平和を永遠に守っていってもらえますように、SRAがそのお手伝いをしています……」