工場内の生産ラインを見て回っているとき、胸のポケットに差し込んでおいた携帯が鳴った。社長秘書から、社長が私と面談したいとの連絡が入った。大いに心が揺れた。直接会話を交わした記憶がない。社長は半年前に多額の融資を受けている銀行から、会社の経営建て直しに派遣されてきたのだ。
私は施設課長に就いて四年になる。重機の部品工場の生産ラインを管理する職務は、社内から設備の更新や修理に対する要望が多い。しかし外部の者と接触が少ない部署で、自分のペースで進められることに満足していた。
工場と事務所のある管理棟は中庭を挟んで並行に立っていた。中庭には芝生が張られ桜の木が植えられている。風に吹かれるたびに、ピンクの花びらが空中に舞っていた。毎年、この季節になると、仕事を終えてから、桜の木の下で花見をして、みんなで騒いだが、今年は社長から許可が出なかった。花びらが従業員の心を癒やすこともなく、寂しく散っているようにも見える。
中庭を通り抜け、管理棟三階の社長室に向かった。エレベーターを使わず、薄暗い階段を一つ一つ踏みしめながら時間を稼ぐようにゆっくり上った。社長の顔が頭に浮かび、そして社長に抵抗して辞めていった総務部長のことを思い出した。
総務部長は、社長室に呼ばれ一時間ほどしてから、興奮した状態で自席に戻ってくるなり、「社長と喧嘩して、会社を辞めると言ってしまった」と、顔面を紅潮させていた。管理棟二階の事務所全体がワンフロアになっており、施設課長の席から総務部長の顔を窺うことができた。
数日後に、辞表を提出して会社を去った。本人から詳しいことは聞かなかったが、噂では、社長から部下のリストラ対象名簿を提出するよう指示を受けたが、それを拒否をしたらしい。
辞めた総務部長が、今どうしているか知らない。六十歳前の男が簡単に再就職できるとは考えにくい。そんなに親しいわけではないが、同年代であることから、人ごとでないような気がする。
社長は私に何の用事なのか。伺い文書で生産ラインの更新を願い出ていた件だろうか。拒否されれば引き下がるしかない。強く申し出て社長の機嫌を損ねたくない。今後の仕事がやりにくくなる。
妻が生きていた頃は、いろいろ相談もしたが、五年前に癌で亡くなった。全身に癌細胞が転移し、手術を受けられずに死んでいった。もっと早く医者に診せて、手術ができていれば、数年は長く生きられたかもしれない……。その頃、私は仕事のことばかり考えていた。妻が癌に冒されていたなんて夢にも思わなかった。
妻の癌治療にお金を使ってやりたかった。結婚して一緒に貯めたお金を、使うこともできず死んでいった妻のことを思うと無念だ。最大限の治療を受けさせてやりたかった。一度は行ってみたいと言っていたスイスにも、元気なときに連れて行ってやりたかった。悔いが残る。いくらお金を貯めたところで、死んだ者には無用の物でしかない。お金は持って死ぬことはできない。
今は一人暮らし。息子と娘がいたが、どちらも成人になり、就職してから通勤が楽だと言って、会社の近くにアパートを借りて引っ越しをしてしまった。
足下の階段を見つめていると、半年前、管理棟の大会議室に、管理職以上を集めて、社長が就任挨拶をしているときのことが、脳裏に浮かんだ。人前での話し方はあまり慣れていないのか、言葉に詰まったりしていた。強い口調で、「会社経営が成り立ってこそ、従業員が安心して働ける。会社あっての従業員である。今後はデータを重視した経営のやり方でいく」といった内容だったと記憶している。挨拶の端々に難しい言葉を並べ、知的なところも見せ、会社の経営方針を訴えていた。
傾いた会社の立て直しのために就任し、社長も必死なのだろう。情に訴えても無駄で、すべてがデータに基づいた判断しかしない。何を訴えるにしても、根拠となる数字を示さなければ納得しない。
社長には、従順に従うしかあるまい。異を唱えて職を捨てるようなことはできない。
失業したとしても、少しは蓄えもあり、生活に困ることはないが、金銭面で今ほど余裕がなくなる。ユリと会う回数を減らさなければならない。
彼女はソープランド『カトレア』に勤めていた。私が店に通うのは月二回程度であったが、ユリと会っているとすべてを忘れさせてくれる。年齢二十五歳、身長百五十八センチ、スリーサイズは八二、五六、八三、スタイル抜群のスレンダーだ。顔は女優の上戸彩に似ていた。食べてしまいたいほど可愛かった。
一年前、同僚に誘われ、興味半分で行った『カトレア』の個室に現れたのがユリだった。正座をし三つ指をついて出迎えてくれた。白いブラウスに黒のスカート姿が、女子学生を相手にしているようなイメージを受けた。部屋の中は壁際にセミダブルのベッドが置かれ、奥にはマットプレーができるシャワー室になっていた。
初めてで、どう接したらいいのかわからず、おどおどしている私に、そっと唇を近づけてきた。キスをするなんて何十年ぶりだろう。彼女の背中に腕をまわし抱きしめて、唇を強く吸った。ユリはいやな表情も見せず、されるままに従った。彼女は膝を折り私のベルトを緩めてズボンを脱がそうとした。恥ずかしい気持ちもあり、自分で衣類を脱いだ。娘と同年代だった。通い始めた頃は少し抵抗があったが、徐々に薄れ、性欲が膨張し、人生の充実感を味わうことができた。
社長室へ入るには秘書課の前を通らなくてはならない。同期である秘書課長の桜井と視線が合った。
「今、社長は在室です」
普段なら、冗談を言い合う仲だが、周りに部下たちがいたからなのか、事務的な言い方だった。それでも真剣な眼差しで、何かを言いたそうだった。ちょっと不安な気持ちになる。
社長室のドアの前に立つと、背筋をおもいきり伸ばした。拳を強く握りしめドアを軽くたたいた。応答はない。一呼吸置いてからノブを回しドアを開けた。
「失礼します」
腹に力をいれて言った。
部屋に入ると、社長は机に向かって何かを書いているようだった。私を見るとペンを置き、真剣な顔の表情を崩した。笑みを含んだ顔で、そっと手を差し出し、目の前のソファをすすめてくれた。
ソファの横に立ち、社長が座るのを待った。座るのを見届けてから、対面の場所に急いで腰を落とした。目線を相手の胸のあたりにおいた。社長は私を観察しているのか、視線が突き刺さるのを感じる。
そのとき、ドアがノックされ秘書がコーヒーを持ってきた。一瞬張りつめていた気持ちがほぐれた。
「コーヒーでも飲んで、ゆっくり話をしましょう」
丁寧な社長の言葉の中には、リラックスの意味も籠もっているのだろうが、逆に肩に力が入る。
「新田さん、仕事はどうですか。困ったことはありませんか」
物腰の柔らかい言い方だった。
「生産ラインの更新が必要かと……」
空気がぴーんと張っているようだ。
「伺書が上がっていましたね。また検討してみましょう。それでは忙しいでしょうから、本題に入りましょう」
「……」
心身を楽にして、社長の話を聞こうと思うのだが、身構えてしまう。
「ぼつぼつ管理部門もいいんじゃないですか」
笑みを浮かべて話かけてきた。優しい口調である。飲み込まれそうになる。
「?……」
社長の言っている意味がわからない。年齢は私より、確か五歳くらい若かったはずである。やり手という噂が社内に駆け巡っていた。
「新田さんに、総務部長をやっていただきたいのですが、受けていただけますか」
突然の要請に声が出ない。脳裏に『部長』の二文字が広がる。定年退職まで残り三年しかなく、もう部長職はあきらめていた。それも部長職では最高位の総務部長である。うまくいけば役員に昇格できる位置。役員になれば定年はない。夢のような話である。
「どうですか。やってくれますか」
私の顔から視線を離さない。
社長の経営方針は、省力化と人員削減によって、会社の収益を上げようとしていた。厳しい合理化に異を唱えた何人かの部課長は、社長に叱責され会社を去っている。
社長に睨まれたら、この先どうなるかわからない。まな板の上にのせられた鯉である。私を潰そうと思えば赤子の手をひねるように簡単であろう。そう考えると緊張感が背筋に走る。私の実力をどこまで把握しているのか。果たして素直に喜んでもいいのだろうかと、疑問が湧いてくる。
「どうして私を総務部長に……」
伏し目がちに、視線を落とし、恐縮しながら問いかけた。
「新田さんは、部下からの信頼が厚い。それに最近、司法書士の資格を取られたそうですね。失礼ですが、その歳で試験を受けられ合格されるということは、大変な努力が必要です。その頑張りを見込んで、お願いしているのです」
笑みを崩さず、社長の丁寧な言葉の中に、拒否を許さない圧力を感じる。考える余地なんか残されていない。うなずかなければ、会社に残れない可能性もある。心の片隅に総務部長として頑張ってみたい気持ちも潜んでいる。
退職後の第二の人生に、役立つかもしれないと、毎夜、テキストや問題集と睨めっこをして得た司法書士資格。息子と娘が合格祝いをやってくれた。嬉しさのあまり、自慢げに同僚に喋ったのが、社長の耳に入ったのだろう。
『カトレア』の入り口で受付を済ませ、ユリを指名した。今日は出勤日であることは、事前にインターネットのホームページで確認していた。
指定された個室に入ると、いつものように三つ指をついてユリが出迎えてくれた。一瞬笑みがこぼれ、彼女も笑顔を返してきた。そっと手を差しだし、ユリを立ち上がらせて抱き寄せ唇を吸い、そして舌を入れた。顔を離すと、自分で衣服を脱いだ。彼女もブラウスを脱ぎブラジャー一枚になる。
「背中のホックをはずしてよ」
そう言って、身体を胸の中に預けてくる。背中に手を回し外そうとしたが、うまくいかない。「なかなか難しい」と苦笑いをし、照れくささを隠した。それでも何とか外れた。二人とも真っ裸になって、二週間の空間を埋めるように彼女を抱き寄せ、口から首筋にかけて舐めたり吸ったりを繰り返した。これがユリに会ってから行う定番である。
「マットプレーを、しようか」
ユリはそう言って、私の腕を掴みシャワー室につれていった。
「新田さん、寒くない?」
などと言って、気を遣ってくれる。こんな父親みたいな男の相手をしてくれるのも、店で教育を受けているからだろうと考えてしまうと、何だか気持ちが冷めてくる。
プラスチックで出来た、真ん中が縦に切り込まれた丸イスに座らされた。私の身体を洗った後、彼女は空気の入ったマットの上に、泡まみれのぬるぬるした液体を流した。私はその上に下向きになって寝転んだ。背中に生暖かいぬるぬるした液体を流され、ユリが乗ってきて、自分の身体を滑らすようにした。
彼女の体温が、背中の皮膚を通して伝わってくるのがわかる。彼女がどのような表情で、仕事に打ち込んでいるのか、下を向いているのでわからない。足から、お尻、そして肩口まで、柔らかい肌を押しつけてくるのが、肌の感触でわかる。この泡踊りが身体中の凝りをほぐしてくれた。特に精神面の効果は大きい。
娘と同年代のユリに泡踊りをしてもらっていると、『お金は持って死ねない。性欲があるうちに使わなければ』そんな言葉が浮かぶ。
「仰向きになってもいいか」
私は彼女の表情を見たかった。その方が気持ちが高ぶり性欲が増す。ユリからオッケーのサインを確認してから、身体を反転させると、目の前に泡にまみれたお尻がある。盛り上がった皮膚が風船のように張っている。動かしているうちに泡が流れ落ちて、風船の真ん中に割れ目を、はっきり見ることができた。
定年前の男が、電車の中で痴漢行為をしたり、立っている女性のスカートの中に隠しカメラを入れて盗撮をし、捕まっているのを新聞やテレビで見るが、今まで何十年も働いてきて、なんて馬鹿なことをしたんだと同情してしまう。
犯罪をおこせば、会社であれば懲戒解雇、公務員は懲戒免職にされ、退職金を棒に振ることになる。そうなれば妻や子どもたちから見捨てられ、家庭は崩壊してしまうだろう。どうして退職金を失う可能性のある痴漢行為を行うのか理解できない。スリルを味わいたかったのかもしれないが、あまりにも冒険が過ぎる。
給料の何分の一かを使う気であれば、危険な行為をしなくても済む。風俗店で遊べば、いくらでも女性の身体に触れられるし、スカートの中や身体の隅々まで見放題である。それも若くて綺麗でスタイルの良い女性を相手にすることができる。
ユリの泡踊りは気持ちがよい。王様になった気持ちになる。いや社長かもしれない。
昼間、会社で社長に言われた言葉が頭の中をよぎる。総務部長を受けるのは簡単だが、職務を全うできるのか不安になる。妻もいない一人暮らし。課長職のまま定年退職をして、好きなことをしながら余生を送るのもよい。反対に一人だからこそ、思いっきり仕事をして役員になって会社に残り、頂点を目指すのも人生である。
しかし、社長と従業員との板挟みになって苦労をするのは目に見えている。神経をすり減らし、今のようにユリと会って楽しむことができるのか。そんな懸念が脳裏を駆け巡る。
「どうしたの、元気がなくなってしまったじゃない」
彼女はそう言いながら、首だけを回し、私の顔を見返した。口の周りに白く泡が輪になって付着している。
「ごめん、ごめん。仕事のことを考えてしまったようだ」
「お願いしまーす」
ユリは、にこっと笑う。二十五歳といっても、子どもの部分は多分に残っていた。彼女は、そんなに大きくないおっぱいで、私のペニスの上をいったり来たりしている。
「気持ちいい?」
ユリは笑みを含んだ顔で声をかけてくる。
「ああ、いい気持ちだよ」
彼女の顔をみていると、こんな仕事をしている心理状態を聞いてみたい気にもなったが、やめることにした。何も好んでこの仕事を選んだなんて思えない。
必死に仕事に励んでいる姿に感じるものがある。親と同年配の男を、相手しなけばならない心境を考えてしまうと、可哀相な気持ちになる。しかしユリは笑顔を絶やさない。
腕を頭の後ろに組み頭を浮かし、彼女の動作を見つめた。その方が欲望が沸き上がる。ユリが全身を使って、私の身体の隅々まで泡踊りをしてくれる。彼女のぷりぷりとした形の良いお尻が目の前にあった。両腕で引き寄せて顔を押しつけた。
「新田さん、だめだよ。感じてしまうから」
ユリは困惑したように、身体をひねった。
「総務部長を受けていただけませんか」また忘れかけていた言葉が思い出された。社長の顔が浮かぶと性欲がそがれる。まだ返事をしていない。
「どうしたの。また元気がないよ。ユリに魅力を感じないの」
彼女がペニスを持って言う。ユリと会えるのは二週間に一回、遊ぶのは二時間、定期便のように通っていた。仕事が終わってから行くときもあるし、残業が続くときは休日の土曜日か日曜日に出かけることもある。
彼女と会っている間が一番リラックスできる。もちろん私が『カトレア』に定期的に通っていることは秘密である。同年代の女を誘惑しようかと思ったりもするが、別れるときが、付き合うときの何倍ものエネルギーが必要である。
同年代になると、女も閉経の時期である。閉経になると女はセックスに関しては無関心になると聞く。セックスをしなければ、しないで済んでしまうと聞くが、男はそういうわけにはいかない。セックスの間隔があくと、無性にしたくなる。風俗店の女性であれば、お金ですべてがかたづけられる。
管理棟の一階にある職員休憩室で缶コーヒーを飲んでいると、桜井が入ってきた。
「総務部長の件どうするんだ。受けるのか」
桜井は自動販売機でコーヒーを買いながら声をかけてきた。
「正直言って迷っている」
「そうだろうな。今の社長は厳しいからなあ。それでも総務部長のポストは、うまくいけば役員に上がれるチャンスだぞ」
「わかっているよ。だから迷っているんだ」
桜井の言葉は、ますます頭の中を混乱させた。
「前の社長なら、迷わず承諾したろうになあ」
彼の言葉で、前の社長のこと思い出した。温厚な人柄で、従業員の意見をよく聞いていた。会社の経営が苦しいときでも、解雇といった手段はとらなかった。そんな経営方針が不況の長引く中で裏目に出てしまった。業績の悪化に伴い、責任を取るかたちで社長職を辞任しなければならなくなった。
「このまま課長で退職して、好きなことをして、余生を暮らすのもいいんじゃないかと思ったり、また部長になりたい気持ちも心のどこかにある」
気の合う同僚の桜井だから本音が言えた。
総務部長の件は、なかなか結論が出せない。ここで断ったとしたら、今の施設課長のまま退職できる保証はなかった。平に降格されることも考えられる。いや今の社長ならやりかねない。
「桜井ならどうする」
彼の意見を求めた。
「俺は会社で働けることを一番に考える。結婚が遅くて一番下がまだ高校生なんだ。だから定年退職しても、どこかに再就職して、もう少しがんばらなくてはいけない。俺だったら、断れないよ」
桜井の淡々とした、結論ありきの言い方だった。
「一人暮らしをしている、おれとは判断基準が、少し違うからなあ」
男として生まれてきた以上、後悔はしたくなかった。総務部長は確かに大変なポストかもしれないが、裏返せばやりがいのある職務である。今まで出世なんかほど遠い、自分には関係ないと思っていたが、目の前に出世のチャンスが現れたのだ。
「新田。総務部長を受けろよ。務まらなければ、そのとき考えればいいじゃないか。このチャンスを逃せば、後で後悔することになるぞ」
桜井の言葉は芯を突いていた。出世への欲望が、一気に目を覚ました思いだった。
「君の言うとおりだ。やる前から怖がっていたら何もできない。おれたち定年前なんだから、ダメだったら辞めればいいんだ。定年が少し早くなったと思えばいい。やっぱり後で後悔したくない。総務部長職を受けることにする。今、決めた!」
そう言い切ると、今まで胸の中に溜まっていた、もやもやしたものが吐き出され、すっきりした気持ちになった。
総務部長になって、社長から受けた指示は、働きの悪い従業員の首切りだった。従業員の後ろには労働組合があり、そう簡単にクビにすることはできない。組合との労使交渉の中で、ことを進めなければならない。
秘書課長の桜井から携帯が入った。
「社長が呼んでいる。今日は機嫌が悪そうだ。慎重にな」
社長に対するアドバイスに、緊張感と不安が増す。それでも社長にいつも同行している桜井からの一言が、どれだけ役に立つことか。総務部長になって、側近として社長に接してみると、今まで課長職から見ていたのとは大きな違いだった。社長の顔色を見て仕事をするようになった。
背筋を伸ばし社長室のドアをノックした。
「総務部長、リストラ名簿の進捗状況はどうですか」
他の従業員と一緒であれば、柔らかい表情を見せるが、二人きりで、それも社長室であれば、厳しい表情で迫ってくる。
「作成をすることは何とかできるのですが、それを実行となると……、従業員の家庭事情を考えてしまうと、なかなか決断しにくいところがありまして……」
「何を評論家みたいなことを言っておられるのですか」
「はあ?」
「生ぬるいと言っているのです。会社は今、倒産の危機にさらされているのですよ」
「社長が言っておられることはよくわかります。しかし……」
名簿に名前を載せるということは、私の手でその従業員の首を切り、路頭に迷わすことである。それに従業員から恨まれ罵声を浴びせられることになる。
「言い訳は聞きたくありません。リストラ名簿を今月中に提出してください。わかりましたね」
「しかし……」
「これは社長命令です」
社長は私を睨みつけたまま、視線を外さなかった。
「席に戻って作業を続けてください。ご苦労様でした」
そう言って、社長はソファーから立ち上がると、執務を行っている机に戻った。
社長の言動に気持ちが沈んだ。総務部長職を要請されたときの、あの笑顔と丁寧な言葉遣いは、何だったのだ。眉間に皺を寄せた不機嫌な表情。役員になって会社に残れるのではないかという淡い期待感は、薄れてしまった。
「いらっしゃいませ」
個室に入ると、ユリは正座をし、三つ指をつき頭を下げた。これがこの店の決まりなのだ。彼女を立たせるとミニスカートから伸びる美脚が、気持ちを高揚させる。いつものように、ユリを抱きしめキスをした。甘い香りが鼻孔の中に入ってくる。
「マットプレーしましょうか」
私を裸にさせると、腕を持って言った。
「今日は少し疲れているんだ。マットは後でいい。とりあえずはベッドで添い寝をしてほしい」
二人は裸のまま、ベッドで横になった。エアコンが効いて、暑くもないし、寒くもない。室内は適度の温度に調整されていた。
ユリは私の首に手を回しからんでくる。頭の後ろで髪を束ねていたレースのリボンを解いた。マットプレーの時は髪が濡れるからと、束ねているが、ベッドでは肩まである髪を垂らしている。
乱れた髪が顔に振りかかっている姿が、色っぽくぞくぞくとさせる。髪が胸の上を撫で快い感触が伝わってくる。私の身体を舌で愛撫しだした。添い寝をしてくれるだけでいいと思っていたが、彼女は盛んにサービスを提供してくれる。
「今日は疲れているの? 元気じゃないよ」
心配そうな顔で聞いてくる。今日はどうもその気にならない。
「少し話をしようか」
「今日も二時間で帰るんでしょう。寝ているだけだったら時間がもったいないでしょう」
「いいから、もう若くはないから、別にセックスをしなくても、話をしたりするだけでも、楽しいんだよ」
「何もしないのは、申し訳ないよ。でも新田さんがそれでいいと言うなら、ユリはその方がありがたいけどさ」
そう言って彼女はくすくすと笑った。その無邪気な表情が可愛かった。
「店の外で会って、食事でもしようか」
「ごめん、お客さんと店の外で会ってはだめなの。それが店の決まりなの。店長は優しいし、この店でもっと働きたいから、規則は破れない」
「そうなんだ。休みの日はどうしてるの」
「おばあちゃんが一人暮らしなの。だから休みの日は遊びに行くの。喜んでくれるわ」
彼女の喋っている内容が、風俗店で働いている女性の言葉でなければ、もっと真実味を感じるのだろうが、ユリの職業を考えると新鮮さに欠ける。
「そうなんだ」
彼女に話を合わせながら、本当の話なのだろうかと考えてしまう。ひょっとしたら男がいて、一緒に暮らしていたりして、そんな思いが頭に浮かんだ。
添い寝をするだけでよいと言ったが、ユリは熱心に身体をからませ、サービスをしてくれる。そんな彼女を見ているといじらしくて可愛い。
息子や娘が成人になり、結婚して家庭を持てば、もう親の役目はなくなってしまう。一人暮らしには、今の給料で十分生活できるが、正直言って話し相手がいないのは寂しい。それに残業で疲れて帰ってきても、明かりのついていない家に帰るのは侘しい。
ひとり寂しく家にいるより、お金はいるが少しの時間でもユリと会っていると、仕事のストレス解消になる。二週間ごとに会えると思うと、毎日が充実してくる。お金なんか生活費だけあればそれでよい。死の世界までお金は持っていけない。残したって分配をめぐって、兄妹喧嘩の原因となるだけである。
「サービスはもういいから」
「了解しました」
ユリはおどけた調子で、私の横で肌を合わせ抱きついてきた。温もりが伝わってくる。
「この頃、どうしたの、今まで、元気で相手をしてくれたのに、ぜんぜん元気がないじゃない」
「仕事のことで、いろいろあって、ストレスが溜まっているんだ」
ユリの髪が口元に絡みついてくる。
「新田さん、元気を出してよ」
そう言って微笑んでから、顔を下半身の方にずらしていった。
ペニスを咥えられると、今まで横になっていたものに、ゆっくり血液が流れ込んできて、それなりの気分になってきた。
二時間という時間を、いつも精一杯サービスしようとするユリの態度が嬉しい。そんな彼女だから会いに通ってくるのだ。
家に帰ってひとりになると、社長の顔が頭に浮かんでくる。命令口調で指示を出されるたびに、こなさなければと悩む。繋縛から解いてほしい、そんな思いが続く。
仕事のことを考えると食欲が湧かない。身体が食事を受け付けない。それでも食べなければと、焼いた食パンと牛乳を無理矢理喉の奥に流し込んだ。ほとんど味がない。
会社を辞めれば、この苦境から解放されるだろう。やっと掴んだ部長職も一緒に飛ぶ。それでも身体を病んでしまえば、老後の人生計画が立てられなくなる。頭でわかっていながら、なかなか実行に移せない。三十五年間勤めてきた会社への執着なのか。それとも総務部長職の魔物に取り付かれたのか。
気持ちが落ち込むとユリの姿が思い出される。若草の香りのする黒髪。顔を近づけると口の周りにへばりついてくる陰毛。弾力のある身体。彼女を思い切り抱きしめたい。そして何もかも忘れ、愛欲の中に精神も身体も埋もれたい……。
一人暮らしをしていると、相手がほしくなることがある。付き合っている女性などいないし、この歳になって見合いするのも億劫だ。適当な人に巡り会えるとも思えない。テレビや新聞で財産目的で男に近づき結婚するや、男に毒物を飲ませて死亡させて、財産を乗っ取る悪質な女の逮捕を見ると、人ごとではないように思ってしまう。年齢と共に、身体は徐々に弱ってきている。
最近、身体に怠さを感じだした。やはり一人暮らしで、食事の栄養バランスが悪いのかなとも思っていたが、咳が二週間続いた。仕事が忙しくて休んでまで病院に行けない。風邪だろうと思って市販の薬を飲んで様子を見たが止まらない。身体全体に倦怠感を覚える。常に仕事のことが頭の中を渦巻いている。
ユリが勤めている『カトレア』は深夜の十二時までやっている。九時頃なら何とか理由をつけて会社を抜けて帰ることができる。またユリに会いに行こうかとも思うが、性欲が湧かなければ、彼女を抱くことはできない。添い寝だけでもしてもらおうかと考えたが、高い金を支払ってセックスをしないのも、寂しい気持ちになる。心から楽しめなければおもしろくない。
身体に違和感を持ったままでは、ユリを抱けない。ここは健康を優先させるべきだろう。病院に行くにしても、夜の九時以降までやっている医者がいるのだろうか。同じ受けるなら検査機器のそろった病院で診察を受けるべきである。
インターネットで調べた。会社から比較的近い場所に、夜も診察している病院を見つけた。受付が夕方の五時から八時までだった。仕事は忙しいが、何らかの口実をつければ、早く帰れないことはない。自分の身体のことを考えれば、仕事よりも病院へ行くことを最優先にしなければ……。
社長に急用ができたと、今夜予定されていた会議が流れた。これはありがたいと思った。六時に退社することができ、夜に診察を行っている病院に向かった。
初診受付を済ませ、空いた待合いの長イスに身体を横たえる。吹き抜けの天井を見上げ、大きなため息をつくと、めまいがして、疲労感がどっと押し寄せてきた。
問診に来た看護師にレントゲンを撮ってほしいと申し出た。咳と倦怠感が二週間続いていることから、自己診断で肺の病気を疑っていた。結核なら良い薬があると聞いている。まず死ぬことはないだろう。長期の療養休暇となれば、総務部長職から降格となるが、命との引き替えだと思えば、あきらめがつく。万が一、癌であったらと不安になる。心の準備ができていない。それでも病気は早期発見、早期治療が大前提である。
この病院は、待ち時間を少なく効率的に診察できるよう、医者が診察する前に、問診に基づき先に検査を行っていた。
検査室で血液を採取され、胸のレントゲンを撮ってもらった。待合いのイスに座り、診察の順番を待った。先ほどの看護師が診察室から出てきて、CTを撮るからと案内された。医者の指示だろう。
診察室に呼ばれた。入り口に掲げられているネームプレートに、院長の肩書きが書かれていた。初めて来院した病院なので、どんな人物か知らない。それでも院長という肩書きである以上、この病院の中では一番優秀な医者であるはずである。誤診する確率は低いだろう。「これは、ついているぞ」と、そんなことを思いながら診察室に入った。
透写版に一枚のレントゲンと、数枚のCT画像が貼り付けられていた。私は置かれていた丸イスに座った。
「咳が二週間ほど続いているのですか」
私とほとんど年齢が変わらない医者が話しかけてきた。
「CTを撮らせていただきましたが、右肺の真ん中に影がはっきり映っています」
医者は画像の上から、影のあるところを、持っていたボールペンで指した。指された場所に一センチぐらいの白くはっきりとした影が映っていた。
「先生、肺結核ですか」
早く病名が知りたかった。
「……もう少し検査をしてみないとわかりません。肺結核なら影の境目が、もっと滲んで見えるのですがね……」
医者は軽く首を傾げた。躊躇した言い方が気になった。
「癌ということはないですよね」
念のために聞いてみた。妻が癌で亡くなっている。癌以外の病気ならオッケーとしなければ……。医者は笑い飛ばし、当然、否定するものと思っていた。
「うーん……」
うなったまま何も応えない。一気に不安が広がると同時に、心臓音が高まった。
「もっと詳しい検査してみないと、何とも言えません。もう一度採血します。痰も取っていただけますか。検査結果が出るのは一週間後になります」
医者が言い終わるのを呆然と聞いていた。立ち上がろうとしない私を、先ほどの看護師が急き立てた。
医者が『癌』を否定しなかったことが、心理状態を不安定にさせた。会計窓口で万札を渡した。返された領収書と釣り銭を鷲掴みして無造作にズボンのポケットに突っ込んだ。
『癌』イコール『死』のイメージが頭から離れない。病院の玄関を出ようとしたが、何かこの病院に忘れ物をしてきたようで、足が前に進まない。
病院内に引き返し、先ほどの診察室の前に立った。胸の中がもやもやして落ち着かない。先ほどの看護師が患者を呼び込もうとして視線があった。「何か」と声をかけてくれた。
「先生に聞きたいことがあるのですが……」
看護師はうなずき、診察室に入れてくれた。
「肺に針を刺して細胞を取るか、気管に内視鏡を入れるなど、もっと精密な検査をしていただけませんか」
目の前の医者に、単刀直入に聞いた。中途半端のままでは帰れない。もっと詳しい検査をして、はっきりと病名を突き止めてほしい。
「患部が肺の奥深いところなので、危険が伴い難しいですね。血液検査でも、反応が出ますから、ほぼ病名を断定できます」
必死で訴える表情を読み取っているのか、医者はいやな顔もせず丁寧に応えてくれた。
検査結果が出るまでの一週間が長く感じられる。寝床に入り暗闇に自分がひとり置かれると、動悸が速くなり「来年は、死んでいるのでは……」そんな思いがして、なかなか寝付かれない。自然と瞼から涙が湧いた。
会社へ出勤していても、「癌だったら……」その思いが脳裏を占領して、何も手に付かないし、何も考えられなかった。それでも部下たちが、周囲にいるときだけは虚勢を張った。
もし癌だったら、すべてを失ってしまう。ユリとどう付き合ったらいいのか考えた。お金は持って死ねない。あの世まで持って行けない。お金か体力のどちらかが続く限界まで、ユリの店に通い、できれば彼女の上で腹上死をしたい。それが本望だ。
やはり一週間は長い。結果が出るのを待ちきれずに、『カトレア』にやってきた。いつもの通りユリは正座をして、三つ指を着いて出迎えてくれた。私の顔からいつもの笑みがこぼれない。それでも不安な心情を、ユリに悟られないように作り笑いをした。彼女は立ち上がると抱きついてきた。私は思いきり抱きしめた。
身体の芯から喜びが湧いてこない。それでもいい。死の恐怖に怯えながら、ひとりで家にいることなんかできない。いっときでも死の恐怖から逃れるために、小さいが形の整った胸に顔を埋めた。ユリの温もりを味わっていたら、そのときだけでも、心の不安から逃れることができた。
今日は結果が出る日だった。午後六時、私は病院の玄関ドアを押した。一時間前、会社の定時の退社時間である五時に、部下である総務課長の席に向かって、「用事があるから帰る!」と自分では力強く言ったつもりだ。社長に言ったような感覚になった。事務所全体に響き渡ったように感じた。
総務課長は、驚いた顔をして、「はあ……」と言っただけで、何も言わなかった。後はもう知らない。社長が来て私の席が空席であることに気づいて、「総務部長はどこに行ったのだ!」と、周辺のものたちに、怒鳴り声で聞くだろう。そのとき総務課長がどう答えるか、私は知らない。もういいんだ。命あっての物種だ。クビにしたければクビにすればいい。今日が待ちに待った検査結果が出る日なのだ。癌という恐怖に毎日怯えながら、待った日なのだ。癌だったら、その瞬間に、総務部長の肩書きは吹っ飛ぶ。社長は病人なんかに、重要ポストを任せないだろう。
こんなときに、社長の顔色なんか窺っていられない。総務部長職への執着心も薄らいだ。だから退社定時に会社を飛び出し、病院に来たのだ。
診察室のイスに座って、医者の動きから目を外さなかった。刻々と脈拍が速くなっていく。口の中が乾きカラカラだ。視線は医者の口元に照準を合わせた。
私と年齢が変わらない医者は、机の上にあるパソコンのカーソルを動かし、検査記録を探し出していた。そして、パソコン画面を少し見た後、画面を私の方に向け直し、数値が見えるようにしてくれた。
「右の肺に影が見られますが、腫瘍マーカーの数値は低いですね。それに喀痰検査から結核菌は陰性です」
医者は持っていたボールペンで数値の欄を示した。私は全身に熱いものを感じた。
「先生、それでは癌でも、結核でもないということでしょうか」
出す声がうわずってしまった。
「そういうことです……」
医者は私の質問にうなずきながら答えてくれた。それでも何か、歯切れの悪い返事の仕方が気になった。
「先生、肺の影はどういう病気なんでしょう」
また、新たな不安が忍び寄ってくる。医者はカルテの横に置かれていた医学辞書を手にした。ページのところが手垢で薄く汚れている。付箋が挟まれたところを開け視線を落とした。
「カビに冒される病気です。免疫力や体力が落ちたときに、カビに冒され肺に穴が空く病気です。心配はいりません。少し高い薬ですが、抗真菌剤を服用すれば治癒します」
医者の言葉に緊張していた身体から、無駄な力が抜けていくのを覚えた。
医者は、月一回の通院で、治療が可能だと言った。それと、服用する薬代は健康保険が適用されて、月額一万円余りはかかるだろうと説明した。
月一回の通院治療を退社時間後にすれば、仕事への影響はほとんどない。隠れていた名誉欲が頭を持ち上げ、一度は捨てようとした総務部長職に未練が出てきた。
今日は社長にリストラ名簿を提出しなければならなかった。従業員の家庭事情まで考えていたら名簿は作れない。事務的に処理した。
背筋を伸ばし、お腹に力を入れて社長室のドアをノックした。
「どうですか、名簿はできましたか」
睨み付ける視線だった。花も観葉植物も置かれていない殺風景な社長室で、二人きりになると、胸が詰まって息苦しくなる。
「何とか……ここに持ってきました」
テーブルの上に名簿を置き、社長の顔に、ちらちらと視線を送った。
「そうですか、それでは名簿に載せた従業員に対して、人員整理を始めてください」
社長は名簿を手に取り、視線を落とした瞬間、もう次の指示を出してきた。
「はあ……」
このリストラ名簿を作成するのに、どれだけ神経をすり減らしたことか。少しくらい労いの言葉を、かけてくれてもいいのではないか。そんなことを思い腹が立ったが、社長の前では、何も反論できない。自分がイエスマンに成り下がってしまったことを証明している。
リストラ対象の従業員に対し、文書通知も一つの方法だが、会議室に呼んで直接本人に伝えるのが最善の策かもしれない。それに労働組合対策も考える必要がある。
すんなりいくとは思えないが、役員になって会社に残ろうと思えば、総務部長として、成果を出さなければならない。
「よろしくお願いしますよ」
言葉は丁寧だが、顔の表情は厳しかった。言い終わると同時に、社長は腰を浮かしかけた。
「あのう……」
口から言葉が出かけたが、その先が言えない。
「なにか言いたいことでもありますか」
社長と視線が合ってしまった。今言わなければ……。
「や、役員になれる可能性は……あるでしょうか」
やっと言うことができた。従業員を呼んで人員整理に取りかかる前に、社長の口から確約がほしい。私が総務部長のポストに就いているのは、定年後も役員として、会社に残れることを期待するからである。
社長は浮かしかけていた腰を、ゆっくりソファに落とした。
「先の人事のことはわかりません。そんなこと総務部長ならわかっているはずです。あなたが部下から同じ質問されたなら、わたしと同じ言い方をされると思いますが、どうですか」
私の顔に、視線を合わせて言った。
「はあ……」
言葉につまってしまった。社長の言うとおりである。人事なんてそのときのデータに基づいて瞬時に決めるものである。前もって役職を口約束していたら、人事なんかできない。
「自席に戻って、人員整理を進めてください。お願いしますよ」
社長の言葉に、これ以上何も言えなかった。
私は、自席に戻った。疲労感を覚え、何もする気力が湧かない。社長にうまく利用されている自分が、使い勝手のよいイエスマンだけのことであって、私の実力を認めていないように思えてきた。
利用するだけ利用して定年と同時に捨てられる気がしだした。今まで慕ってくれた部下たちを、『会社倒産の危機』という大義を掲げてクビにしようとしている自分に、気が滅入った。
社長の口から、私に対して定年後も役員として、会社に残ってほしいという言葉は、一度も聞くことができなかった。
ワンフロアになっている事務所内を見渡した。部下たちは、私を無視しているのか、パソコンに視線を向け、黙々と仕事に打ち込んでいる。今回のリストラ名簿には工場内で働く技術系の従業員ではなく、私の目が届く事務系から主にリストアップしている。
私に裏切られクビにされようとしていることも知らずに、黙々と業務に打ち込んでいる姿を見ていると、胸が締め付けられる思いだった。
――おまえらをクビにしようとしているのは、おれだ! 部下のおまえらを踏み台にして役員になろうとしているんだ――
そう叫びたい心境だ。
一ヶ月ぶりに『カトレア』にやってきた。
個室に入ると、ユリが迎えてくれた。
「久しぶりじゃない。どうしてたの。浮気でもしてたの」
そう言って、唇を突き出してくる。思い切り彼女の唇を吸った。
「痛いわ」
彼女は顔をしかめた。
「ごめん」
そう言ってユリの胸に顔を埋めた。今はそうしていたかった。胸の中のもやもやした気持ちを、彼女に慰めてほしい。従業員をクビにして路頭に迷わし、中には家庭崩壊にさせてしまう原因の名簿を社長に渡してしまった。
もう引き返せない。総務部長として、会社のためとはいえ、後味が悪い。なかなか気持ちがおさまらない。
私はシャワー室で、マットの上に仰向けに寝転んだ。ユリは身体にぬるぬるした液体を付け、上に乗ってきた。そして身体を上下に動かした。小さなおっぱいを、私の胸から腰、ペニスの上を通って足の指先まで順番に滑らせていった。
彼女の視線が、ちらっと私の表情を窺っているのか、投げかけてくる。
「今日はどうしたの。しかめっ面して。あそこも元気ないし。会社で何かあったの?」
心配してくれているのか、顔を近づけてきた。
「まあ、いろいろ……」
そう言って言葉を濁した。『カトレア』に来れば、ユリに会っている間だけでも、何もかも忘れて遊べると思ったが、ダメだった。従業員をクビにしようとしながら、片方では娘と同年代の女と、欲望にまかせて遊んでいる自分に、違和感を感じだした。
こんな男が、総務部長をやっていてもいいのだろうか。社長に信頼なんかされていない。ただ利用されているだけではないのか。役員なんか夢の夢だ。ここは傷口が浅いうちに何らかの行動を起こすべきではないのか。
「どうしたのよ。ふにゃふにゃじゃない」
彼女はペニスを持っていた。私の頭の中が、仕事のことでいっぱいになり、気が抜けてしまった。
ユリを引き寄せ抱きしめた。
「このまま、少しの間、静かにしておいてほしい」
頭に浮かんだことを、整理したかった。
彼女は、私の胸の中に顔を埋め、全身の力を抜き、されるままに従った。
総務部長として、会社の苦しい経営状態を乗り切るために職務とはいえ、リストラ名簿に載せた従業員たちへの、責任の取り方について考えた。
社長の言動からして、役員に昇格して会社に残ることは無理だろう。このまま人員整理を進めれば、職場の混乱は覚悟しなければならない。そうなれば、満足感をもって定年退職を迎えることはできないし、従業員やその家族を泣かせては、格好良く定年で会社を去れない。
定年を待たず社長に、辞表を提出したとしても、後任の総務部長が、リストラ名簿に載せた従業員の首切りを進めるだろう。私の力では、もう走りかけた人員整理の動きを止めることはできない。
どう考えても、もう万事休すだ。
後ろ髪を引かれる思いで、仕事は続けられない。
……ここはやはり、辞表を書いて退職するのが、従業員への責任の取り方であり、私の最後の務めだろう。
中途退職であっても退職金は出る。これからは社長の顔色を窺うこともなく、会社のことも気にせずに。今まで貯めたお金を使って、楽しく暮らそう。毎週ユリのところに行こう。死ぬまでに全部預金を使ってしまおう。お金なんか持って死ねないから……。