今から私は逆らう。その覚悟をもう一度頭の中にいれ込む。私は今から自分の為に逆らいます。息を吸い込む。
「あの、今の周期から私、妊娠したいです」
目の前にいる何年も担当してくれている医者に言った。カルテに目を落としていた顔が私の方を見た。
「そうですか。今周期から妊娠希望ということでしたら、そうですね、吉田さんの場合は排卵障害が少しあって、自然妊娠はしにくいですので、今回の生理が始まって五日後からお薬を飲んで頂きます。そしてずっとつけて頂いている基礎体温、これも続けてください」
担当医はざっとカルテに書きこんでパソコンの電子カルテのほうにも記入した。
「では、がんばっていきましょう。お薬の説明や詳しいことは看護師から説明します」
と言った。無愛想な担当医だが、私が妊娠希望だと伝えると少し笑顔になってくれた。違う部屋に通され看護師から薬の説明、何日後にもう一度来院してもらうこと、注射を打つかもしれないこと、一回で妊娠する人もいれば、何年もかかる人もいること、それはわかりませんが、がんばりましょうね、と言われた。毎月会っていたこの看護師でさえ私が妊娠希望だと分かると途端に距離が近くなったように接してくる。いつもは「吉田さん、今月分のお薬です、次回のご予約は受付で」としか言わない人が。がんばりましょう、はい。と笑顔と笑顔で会話をする。薬を鞄にしまうとき、毎月もらう薬とは量も少ない、形も違うのに薬の感触はとても大きく感じた。自分の顔がにやけてしまうのがわかってしまって更にもっと笑ってしまう。声まで出そうだったのをなんとかこらえた。
窓が開いて自慰
高橋陽子
今から私は逆らう。その覚悟をもう一度頭の中にいれ込む。私は今から自分の為に逆らいます。息を吸い込む。
「あの、今の周期から私、妊娠したいです」
目の前にいる何年も担当してくれている医者に言った。カルテに目を落としていた顔が私の方を見た。
「そうですか。今周期から妊娠希望ということでしたら、そうですね、吉田さんの場合は排卵障害が少しあって、自然妊娠はしにくいですので、今回の生理が始まって五日後からお薬を飲んで頂きます。そしてずっとつけて頂いている基礎体温、これも続けてください」
担当医はざっとカルテに書きこんでパソコンの電子カルテのほうにも記入した。
「では、がんばっていきましょう。お薬の説明や詳しいことは看護師から説明します」
と言った。無愛想な担当医だが、私が妊娠希望だと伝えると少し笑顔になってくれた。違う部屋に通され看護師から薬の説明、何日後にもう一度来院してもらうこと、注射を打つかもしれないこと、一回で妊娠する人もいれば、何年もかかる人もいること、それはわかりませんが、がんばりましょうね、と言われた。毎月会っていたこの看護師でさえ私が妊娠希望だと分かると途端に距離が近くなったように接してくる。いつもは「吉田さん、今月分のお薬です、次回のご予約は受付で」としか言わない人が。がんばりましょう、はい。と笑顔と笑顔で会話をする。薬を鞄にしまうとき、毎月もらう薬とは量も少ない、形も違うのに薬の感触はとても大きく感じた。自分の顔がにやけてしまうのがわかってしまって更にもっと笑ってしまう。声まで出そうだったのをなんとかこらえた。
私は今からがんばって妊娠をします。と改めて心の中で何度も言いなおした。クリニックを出ると夕日やそれに反射する建物が私を応援しているような気がして我慢していた笑い声を出してしまった。
ひとりなのに。
マンションの最上階にある部屋を見上げると窓が開いていた。掃除をして空気を入れ替えたんだなぁと思い、その部屋を目指した。カギを開けて部屋に入ると誰もいないと思っていたのに彼がいた。
「わ、おったんや」
彼は腕時計をはめて鏡で自分の姿を確認していた。
「部屋、暗いのに自分の姿、わかるん」
「もう出て行くから。さっきまで夕日で部屋が明るかったからいけてる」
「そう」
私は靴を脱いで傍にある電気のスイッチをつけた。部屋がぱっと明るくなると同時に彼はいそいそと靴をはいて飛び出すように出て行った。私のことを避けているかのようだ。掃除をして部屋は綺麗なのに脱ぎっぱなしの部屋着が目について、引き上げようとしてやめた。部屋には私ひとり。ラグの上で寝転がってさっき貰った薬を出して眺めた。はやく生理がこないかな、早くこの薬が飲みたいな。照明にかざした銀色に光るシートを眺めて愛おしく撫でた。
私はあと半年で三四歳になる。彼とは三年目の付き合いになっていた。この部屋は彼の部屋だが週の半分を私が泊まっている。彼の仕事は夜から働く焼肉屋なので始発で帰ってくるか、そのまま酔っぱらったお客さんと飲みにでかけて昼過ぎにかえってきたりする。私はそんなときはここには泊まらないのだが、もうすぐ生理がくると泊まりにくいので今日は会えなくても泊まろうと思った。もう彼はいないけれど。ひとりだけれど。この日はご飯も食べずにすぐに布団の中に入ってもらったお薬のことをスマートフォンを使って調べた。製薬会社のホームページの後は実際この薬を使って妊娠活動を頑張っている人のブログだっだ。その下も、ずっと同じ。行く先々の結末が書いてありそうなので、今はこの人達のブログを見ないでおこうと画面を消した。
彼の匂いがしみこんだ布団で眠ると匂いがきつくて彼が隣にいる気分になる。今日は何時になるかはわからないけれど、私がいるから酔っぱらって昼に帰ってくることはないだろうなぁ、と思いっきり匂いを吸って耳と目にゆっくり匂いを漂わせて鼻からそっと出す。それだけで私は深く眠れる。いつ帰ってくるかわからない彼を待っていられる。帰ってくるからひとりじゃない。
朝九時に帰って来た。早くもなく、遅くもない。だから嬉しくもないし怒るわけでもなかったのでおかえり、お水飲む? とだけ言った。
彼は靴を脱ぎ出し、布団の中にいる私の元にタックルするようにやって来た。疲れてきたのがわかって思わず彼の髪を撫でた。脂で髪がべっとりしているのを撫でながら白髪が所々に生えてきたなぁと思った。腰のあたりの頭がぐっと力を押しこんできて私は倒された。あぁ、今からセックスするんだなぁとおもって口臭いなぁ、酒くさいなぁと感じながらそのまました。
彼のセックスは三年目にして体が馴染んできたのかすごく良かった。かゆいところも嫌なところも本当も嘘も分かってるので楽しかった。この三年間はセックスレスになる時期も無かった。途中から避妊もしなくなった。私はそれでよかった。それだけ彼のことを受け入れたかった。
彼は果てるときは私の体の外に出した。いくら私が毎月ピルを飲んでいるから大丈夫だといっても信用してくれなかった。体重をかけて上にのっかかっても、どういうわけか、ひょいっと体から抜けられた。
「私、妊娠したいねん」
二年が過ぎようとしているとき、思いきって言った。
「そんなん無理。わかってるやろ」
「でも、絶対迷惑かけへんから。子供がほしいねん。あんたとの子供がほしいねん。あんたが嫌なんわかる。けど、私はあんた以上に好きになったりする人、もうあらわれへん」
彼の目が泳いでいる。彼の両頬を私の手で掴んでちゃんと私を見てほしいと言う。彼の黒目は右にいって一瞬真ん中に戻って、またすぐに右にいく。落ち付いてない証拠だ。
「まだ三十三歳やろ。よし、他さがし、まだいけるやろ」
まだ、とは妊娠できる年齢のことをいっているのか、もう、ではないのか。言葉に引っかかる。
「私は、あんたがいいの」
肩を掴んで引っ張った。
「もうーやめてや。前にも言うたやろ、俺は結婚に向いてないの。結婚したらあかんの」
肩を揺らして反発してくる。
「分かってる。だから結婚せんかったらいいやん」
「そんなんしたら親御さんかなしむやろ」
彼の首に両腕を回す。私の顔を見てくれない。頭も右に向いてしまったから私には白目の部分しか見えなくなった。
「悲しませへんよ。赤ちゃんおったら。赤ちゃんは無敵や」
「あほか。その無敵の赤ちゃんが一番可哀想や」
鬱陶しそうに両腕をどけて立ち上がろうとする。
「じゃぁ、私は? 今の私は? めちゃくちゃ好きな人とおって、生活もお互い居心地いいのん分かってて、その上煩わしい結婚もしなくていい、って言うてるのに。なんで? どうしたらいいの? 私は、どうしたらあんたとの赤ちゃん産めんの?」
「わかってて俺んとこにおるとおもってたわ」
わかってたけど、気持ちが変わることあるんわかるやろ、と言おうとして同じことの繰り返しだと疲れてやめた。彼は立ち上がってかけてあったジャケットを着た。
「いってくるわ」
「いってらっしゃい」
彼がでていった後に残されたのは私と彼の見えない頑なな気持ちだった。
最初は私も一年くらいで終わるものだと思った。いつもどおりに、一年たったらこのままでいいのか不安になって、ちょっとした仕草が気になりはじめ、それを見るのが嫌になっていき、一緒に出かけるのが面倒になり他の男の人が気になり始めて、好きでは無くなるんだろうなぁと思っていた。一年すぎると自分も相手も気持ちを維持できるとは思っていなかった。職場でも三年働いたら違うところに転職を繰り返した。小学校も親の都合で小学三年生で転校して三年ずつだし、中学も三年。高校も三年。うまい具合には慣れさせてくれた。大学は四年行ったが、最後の年は友達関係に飽きて就職活動やアルバイトをしてほぼ付き合いがなかった。三年たつと新しい人間関係ができて、深くなり、飽きてつまらなくなってしまう。異性との付き合いも二年したら後は周りの環境や我慢や辛抱で一年過ぎて終わるだけのものだった。
二六歳からピルを飲み始めた。ピルとの付き合いは三年たっても飽きることはなく、三カ月に一度、あの病院にいき三カ月分のお薬を処方してもらっていた。不本意な妊娠を避けたかったし、きまった期間にきちっと生理がくるのが、自分にとってリズムがとれてよかった。
彼と付き合って二年たつころ、私はピルを飲むのを止めて基礎体温を付けて自分の体のリズムを知ろうと思った。運がよかったら妊娠するかな、と安易な気持ちでいた。そうしたら、彼の考えも変わってくれるかなと思った。
ピルを飲むのを止めてみると最初のうちは決まった期間に生理が来たが、三カ月も経つと決まった期間の間に生理が来なかった。その間に妊娠したかも、と浮足だって妊娠検査薬を試してみるが真っ白で、生理がこないと病院に行き、ホルモン剤をもらって生理をこさせる、というのが半年続いた。医師に結婚もしていないのに妊娠がしたい、と言えなかった。自分は排卵しにくくて自然妊娠はしにくい体なんだと思った。
彼とは二年たっても飽きることは無かった。知り合ってすぐの夏、一緒に寝ていたら、
「ドレッシングは最後っていうてるやろ」
とはっきり怒り口調で私に話しかけた。ドレッシングなんて今日は使ってない。顔をみると口がもぞもぞしている。
「いらっしゃい、何人様ですかぁ」
今度は優しい口調で言う。それで私は彼が寝言を言っているのだと気付く。面白くて起きたらいうてあげようと思って腕をつかんで眠りにつくと今度は片足がふあぁっと上がり、壁をドンドン蹴りあげている。壁側にいる私を器用によけてドンドンと自分の足を傷めつけているのか、壁を傷めつけているのかわからない。無意識の足が痛そうだ。私は自分の足で彼の足を挟んで制止させた。そうすると次は反対側にころころと寝転んで行って窓をドンドン叩く。足を傷めつけたいのか、窓を破りたいのかどっちなのかわからないが、大人になってこんなに寝相の悪い人もいるのだなぁと面白かった。へんに抑制しても可哀想なのでほっておいたら壁に穴があいてしまった。窓も破られそうなのでマットレスを立てかけて保護をした。
生理になって五日後から毎日与えられたお薬を飲んだ。最初の日から十五日目に受診することになっていた。ずっと続けていた基礎体温表を持って医者にみてもらう。内診してもらう時に座る椅子に腰かけて私の中を見てもらう。
「あ、これやね、ちょうどいい大きさやね十七ミリかな」
画面で動く線が定規になり一七と表示される。これが卵なんだなぁと思う。
「では、採血をして……見た感じもいい卵に育ってるから、今日か明日中に交渉もたれることは可能ですか?」
できます、と私は言った。採血をしてる時、看護師さんにも「ちょうどいい卵でしたよ、たのしみですね」といわれた。
これで彼といつも通りセックスをしたら妊娠できるんだと期待が膨らむ。簡単だなと思った。
二日後、採血の結果と交渉をちゃんともったか聞かれた。交渉はもったし、念のため二日間もしたが中に出されることはなかったのでそのことは言えなかった。採血の結果も数値がよかった。さらに注射を打ってもらった。
「このまま高温期が二週間以上続いたら、いちど妊娠判定の方をしてみてください」
こんなに簡単に命がつくれるんだなとおもった。それにしてもどうしてこの医師は私が妊娠したい、といったとき結婚してないのになぜ? と聞かなかったんだろうか。ずっと通っているからいいのか、それとも籍はいれない事実婚だとおもったのか、余計なことは聞かない主義なのか。何も私の事情はきいてこないので拍子抜けした。
生理が来てしまった。
高温期が一四日つづいたとたんにガックリと体温が下がった。ま、一回目だし、中で出してないしそんなに落ち込まないでいいよ、と自分を励ました。朝起きて体温を測ることに彼はどうしたの? と聞いたが体のリズムが知りたいから、そう、だけ言った。生理が来たのでまた病院に行かないと。ピルを飲んでいた頃より頻繁に行かないといけない。面倒だが私がいま一番望んでいることだから病院通いは苦痛ではなかった。
「そうですか。生理がきてしまいましたか。ではもう一度おなじように五日後からこのお薬を飲んでください」
私の基礎体温表をみながら医師は言った。
どうにか私の中で果ててくれないだろうか、と思った。私が上になって固めてもするっと抜いてしまう。脚で交差しても上手く抜かれてしまう。出たのをスポイトで吸って後でいれてみようか、おかしい。もう使うことは無くなったコンドームにこっそり穴をあけようか、いや、今更つけるのか。何かいい方法はないか、毎日毎日それだけで頭がいっぱいになってしまう。
「文化祭、いくねん」
彼の子供の高校の文化祭があるらしい。子供のことを話している彼の口調は優しくて、でも目を見て話はしてくれない。優しい口調が好きで、また彼の子供がもう高校三年生になったことに時間の早さを感じた。私と付き合った頃は高校受験で中学卒業式に行くとか言ってたのにな。
「そっかぁ。もう最後やね、文化祭。何するの?」
「知らんけど、クラスの出し物と、あとバンドしてるから演奏するんちゃう」
初めて聞いた。
「楽器ひけんねや! すごいなぁ。なに担当?」
「ベース」
自慢げに言ってきた。鼻も高くなっていて顎が突き出ている。
「聴きに行くんやね。それは楽しみやん」
うん、と頷く彼は可愛らしかった。子供を大事にしているのは分かっている。ちゃんと毎月養育費も払っているし、よくご飯も食べに行ったりしている。その話を聞くのは嫌ではなくて好きだ。嬉しそうに話す彼がいい。私だって彼との子供が欲しい。私がおかしいのか、自然だと思う。いや、どうして駄目なんだろう。
三十を過ぎても結婚していない人が多いと聞くが私の周りの友達は三十を過ぎるとどんどん結婚していった。直ぐに妊娠もした。なかなか妊娠出来なかった子は病院に行ったり漢方を飲んだり、効果があるといわれるものはすべてした。その子の妊娠が分かった時は嬉しくて泣いてしまった。嬉しかったが、私には協力してくれる人がいなくてさびしい気持ちもあった。結婚はしなくていい、彼との子供が欲しい。妊娠したら彼の気持ちも変わるかもしれない。小さな希望があった。
もう生理の周期は六回目になっていた。
いつもと同じ薬を飲み、卵の状態を見てタイミングを取って交渉してくださいと言われ卵の育ちが悪かったら注射をし、採血をし、薬を飲む。私の誕生日がやってくる。
夏の空気が秋の乾いた空気に変わると彼はハムスターのように縮こまって寝る。あれだけ悪かった寝相がピタッとおさまり、私の中で動かずに寝ている。それをみてると秋がきたんだなあと毎年感じて、夏が終わったんだなぁと愛しくなった。
三回目の生理が来た時に医師からパートナーの精子検査をしましょうといわれ、私は戸惑ってしまった。はい、と言って渡されたのは蓋つきの小さなコップだった。自慰行為をしてここに出してすぐに持ってきてくださいと言われた。自分にはどこまでできるだろうかと考えたが、目隠しして両腕両足を縛ってじゃないと出来ないな、そんなことできないな、と直ぐに思って蓋つきのコップをもらって帰って来た。四回目のときに医師に出来ませんでした、と伝えると、
「妊娠に協力的ではないんですか?」
といわれた。どういえばいいかごまかすことができなくて黙っていたら、いいですよ、多いですから、と言われた。結婚していて、夫が協力的ではない妻も、私の様に一人でどうにか妊娠しようと頑張っている。そういう人もいるのだと、思って心強かった。
五回目になると、卵管検査をしてみましょうということになった。あれ、してなかったんやねぇ、してると思ってた。検査、してみましょう! と医師にしては珍しく明るく、軽い口調で言われて、拍子抜けした。卵管造影は妊娠した友達に何人かしている人がいたのでどういうものか知っていた。痛い人もいれば全く痛みを感じない人もいた。私はどっちなんだろうか知りたかったし、バリウムを通すと妊娠しやすくなるときいたので少しでも確率をあげたかったので即答した。
いつもの病院では卵管造影の検査はしていないので近くの提携している産院に行った。待合室にはお腹の大きな人や、小さな子供と一緒に待っている母親がいた。その中に一人で私はいる。一人でこの場所にいるのが辛かった。病衣に着替えて点滴を受けている間に我慢できなくて泣いてしまった。
なんで私はできないんだろう。ひとりだからかな。私がしていることは犯罪なのかもしれない、ふたりではなくひとりで尊い命をつくろうとしている確信犯だ。それが分かっているから友達も家族も彼もいるのに誰にも言えない。言えば非難され、軽蔑されることは分かっている。
レントゲン室で仰向けになって液が私の中に注入されるとき痛みが走った。ベッドの横に捕まり棒があったのでぎゅっと握りしめた。あぁ、私は痛い人なんだなぁと思っただけで泣くことはなかった。これで卵管が通っていれば、妊娠しやすくなると期待した。
自分の服に着替えてまたあの待合室にいくのが嫌だった。必ず誰かが居る、一人じゃない所に一人でいることの方が嫌で更衣室でまた泣いてしまった。
レントゲン写真を一緒に医師とみた。ここが子宮でこれが卵管で、卵巣で、とペンを使っておしえてくれた。しっかり通ってますね、大丈夫です、頑張りましょうといわれた。私は、はぁ、はい、よかったですと言った。
頑張りが足りないから妊娠しないのかと思った。ちょっとした言葉にも敏感になっている。頑張りって、どうやったらいいんですか、私は頑張っていないのですか。そんなことで怒ってはいけないと思いつつ診察の最後にいつも打たれる注射が痛い。採血用の肘の内側にある血管は同じところを刺すのでつぶれてしまい、ホルモン注射を打つ左腕にはしこりができていた。いつまでなんだろう。そして機械のように忠実に高温期十四日後にくる生理で落ち込んで、五日後に飲む薬がいやになっていた。
六回目の生理が来た報告をしたときに医師は、
「いつも飲むお薬を止めましょう。そのかわり、毎日注射をうちにこちらへ来ることは可能ですか?」
「えっ、毎日ですか」
「何時でもいいんです。日曜日も来てください。もし無理でしたら自己注射という方法もあるんですが、注射器等含めて一万五千円はするとおもいます」
「通いだといつもどおりですか?」
「そうですね。八百円程度です」
どちらがお金の負担が少なくなるのか考えた。半年、誰にも言わずに使ってきた金額は幾らだろう。今回は薬を飲まない代わりに毎日注射を打って排卵時期を見てタイミングを計って、なおかつ彼には中で出してもらえない交渉をしてわずかに漏れてしまったかもしれないという少ない期待をし、ホルモン注射を打ってもらって十四日間、待ちに待って、また生理がくるのかもしれない。金額と毎日通うことの時間をざっと計算しようとして、やめた。何を迷っているのだ。
「では、通います。毎日」
仕事が終わってから通って注射を腕に打ち、仕事が遅くなりそうな時は昼休憩の時間を使って病院に通った。土曜日も日曜日も出かける予定を変更して打ち続けている。
育ちますように。
妊娠できますように。
今回こそは。
腕に注射針が刺さるたびに願いをかける。ずっと同じ腕でだと運が悪いような気がして今日は右腕、明日は左腕に変えたりした。左側にだけできたしこりが気になった。
私の体はここまでしないと妊娠できないのか。注射を打たれるたびに良い考えと悪い考えが交差する。わたしがひとりでしているからなのか。
よく聞く、予定がなかった不意の妊娠と私の妊娠希望の違いは無いはずだ。私はきちっとタイミングをはかってやっている。やりすぎもいけないと聞いたから気づかれないように間隔をあけて交渉をもっている。彼の遺伝子が悪いのかと、疑いもかけてしまう。私には見たことのない彼の子供がいるのに。
結局卵が育つまで十四日間毎日注射をした。なかなか満足できる大きさの卵が育たなかったからだ。最後に採血を取る時につぶれてしまった血管を優しく針を刺す看護師さんをみていると申し訳ない気持ちになった。毎日病院に通っていると、妊娠の報告を医師に伝えたいと思ってきた。一番最初に伝えたいのは休みの日も看護師もいない中、注射を打ってくれた医師に。何も私に聞いてこない医師に。陽性反応がでました、そういうと普段にこりともしない医師の笑顔が見られる気がした。そしてこれが私にできることだと思った。もう薬も飲みたくないし、注射も打ちたくなかった。
誰かの責任にもしたくなかった。生理の赤い血をみて落ち込みたくない。お腹がぎゅううんと痛くなってきて、あ、くるなぁと思っていても、下着に付いた少しの血を見ても着床出血だと思って一日は生理だと認めたくなかった。
彼は何もしていないのに八つ当たりされている理由が分からず、私の機嫌をとろうとしていてもっと腹が立った。一年は頑張ろうと思っていたけれど、もう駄目だ。これ以上のひとりでの不妊治療はできない。一番聞いて喜んでくれる人がいない。
左腕の注射でできたしこりを撫でる。こりっとしてきたのでぎゅっと人さし指と中指で摘む。ぎゅっと、ぎゅっと。
血が出るかなぁとおもったら毛穴から白い塊がにゅっとでてきた。
わたしは本当に半年前は妊娠がしたかった。今でもしたい。これからも出来る限り何回でも自分の子供を産みたい。今まで一番愛した彼との子供がほしい。でも気持ちがついていかない。帰り道に応援してくれていた夕日にもビルにも申し訳なかった。薬も注射も、決まった時間に毎朝体温計を測るのも嫌だ。自分の体が教科書に出てくるような女性のサイクルと同様に、正直になりすぎていて自分の体も嫌いになっている。もうやめよう、今回で最後だ。私は出来る限りのことはした。これで出来なくても誰も悪くない。
夕方、毎回くる排卵痛がきた。そろそろだ。もう自分でも卵巣からでてくるのがわかる。すごく下腹部が重い。このタイミングを逃すまいと思った。部屋の窓が空いている。電気も付いている。
今日に賭けよう、今日が最後、と意気込んでドアを開けた。
「ただいま」
「おかりなさい」
窓を開けてテレビを見ていた。缶ビールとナッツがある。
「ご飯は? 食べたの?」
「いらん」
ナッツをぽりぽり食べている。ごはん食べへんとお酒ばっかり飲んでるから精子が元気ないんちゃうん。私の中んとこまで届いてないんちゃうん。
「今日は仕事はないの?」
「忙しくなければ、休み」
私は左腕のしこりをつまんだ。
「ほんだら私も今日はご飯いらんし、お風呂先に入るわ」
お腹の痛みが継続するのを感じながら丁寧に入った。まだお腹に風船が破裂したような感じはしない。悔いのないようにしよう。
お風呂から出た後はすぐにベッドに入った。いつ彼が入ってくるか分からないが、動いたりして排卵が早くなってしまったら嫌だったから。ずんずんとお腹が張る。
まだテレビをみているのか音声が聴こえる。もう0時をすぎたところなのに。布団から目を彼の方に向けると座りながら寝ていた。座りながら寝ているのをみて可愛いと思った。窓を開けているので寒いので起こしてあげる。
「ほら、起きて」
「ん。んぁぁ」
といってまた目を閉じた。腕を引っ張って、足を揺らしてベッドまで運んだ。
「よいしょっと」
私もベッドに横になると、ごろんと私の中に入ってくる。あぁ可愛い。赤ちゃんができたらこんな風におっぱいをあげるんだろうなぁ。
冷え切った脚を絡めて温かくする。
「なぁ、おきて」
脚をわさわさする。
「なぁ、私やりたいねん、おきて」
体全体をわさわさする。
「なぁ。なぁて」
彼もごろごろと体を揺さぶって目と体を覚まそうとする。
「うん。ちょっとまって。明日にしない?」
「明日じゃなくて今がいい」
「えーーじゃぁ。それなりの」
「ええ。それなりのことはしますから、やりたいです」
彼はこっちを見上げてじゃぁいいよ、と言った。
お腹が張っているので気持ちいいとは思えなかった。お腹にあった風船がパアァンと破裂した感じがした。
排卵が始まった。ぬるっとしたのがでてきたのが分かった。
「あれ? なんか今日めっちゃ濡れてる?」
「そうやろ、めちゃやりたかってんもん。いつもとちゃうやろ」
「うん」
ここまでは普通にできる。入れてもらってから果ててくれるまで、どうやって中にだしてもらうかだ。もうタイミングはばっちりだ。彼の顔が上にある。脚を絡めても外されるだけだのでやっぱり上に乗る方がいい。
上に乗る。しばらくするともう駄目だという。そのとき駄目だというときにまだしばらく動く。彼はまだ駄目ではないのだ。
抜こうとしだした時が駄目なのだ。私の腰を持たせなくて手を握り合う。そうすると体をずらして抜こうとするから、私も体をおなじようにずらず。抜かせない。
「もう、あかんて」
「うん。わかってるけど」
「じゃぁやめてや」
「でもきもちいいから、ちょっとだけ」
「あ、あかんわ。もうあかん」
「いいよ」
いいから、おねがい。自分で腰を動かしながら涙が出た。私の中にあたたかい液体がはいってきたのが分かった。
「あ」
「あ」
掴んでいた腰の手を離したので私は彼に覆いかぶさった。しばらくぼうっとしていた。私がずっとしてほしかったのになにか空しい。
「ちょっと、重い」
どくと同時に彼を抜くと中からでてきた。彼はとても嫌そうにティッシュをとった。
「大丈夫なん」
「さぁ」
「お風呂はいってきたら」
「疲れたからもうちょっとしてから」
風呂に入って流してこいという彼に適当な理由をつけてそのまま眠ってしまった。
起きた時すっきりした気持ちになったのでいい夢をみたんだなぁとおもってトイレに行くと中から何かでてきたのがわかって、あ、そうやったんやとニタニタと笑ってしまった。
高温期になってから基礎体温表のグラフを医師に見せるのが嬉しかった。
「そうですね、タイミングはよかったんじゃないかな」
エコーと基礎体温表をみながら、医師は注射を促した。注射もこれで最後。もう打たないと思うとすすんでしこりのある左腕を出した。
「しこり出来てますよね。たくさんそこに注射を打ってたらなるんです」
じゃぁ少しよけて違うところに打てばいいじゃないか、と思いながら、
「そうなんですか、消えますか? しこり」
「しぼったらいいですよ、ましになると思います」
看護師がぎゅっと絞った。ぎゅうっとしぼりきったらにゅっと白いものがでた。
「これ。これを出し切ってください」
「なくなればいいなぁ」
看護師はすこしよけて違うところに注射をしてくれた。
「よくもんで下さい。効果ありますようにって」
笑顔で言った。
お腹が毎日重たく感じる。ちょっとしたことで吐き気がする。熱っぽい気がする。今回で最後にすると思って見るのをやめていたインターネットで妊娠の初期症状を調べて自分にあてはめる。当てはまることが多くてこれは、今回は、本当に、出来たんじゃないかと思う。毎日、高温期何日目の人のブログをみる。高温期いつまで続いたら妊娠になるのかが気になって次の日のブログもみる。さらに次、次、とクリックしていく。途中で生理になった人もいれば、まだ高温期がつづいている人もいる。そのブログを書いている人を想像してずっと先まで見て行く。生理になってブログが終わってしまう人、なってもまだ果敢に妊娠活動に頑張っている人、無事に妊娠になってからブログが終わる人、妊娠、出産、子育てまで書いて今もブログを続けている人。
なんでもっと早く見なかったんだろう。この人達と一緒に頑張れたのに。半年前の自分に憤った。
こんなに面白くて為になるものがあるなんて。
高温期一五日目。いつもより一日遅く私に生理がきた。ブログでいうと私はそのまま終わる人になりそうだ。一日目はこれは生理ではなく着床出血と言われるものだ、と言い聞かせ生理用品も付けなかった。付けたくなかった。次の日の体温はがくっと下がった。血は下着を染めるくらい量が多く、お腹が痛くてずっと横になっていたかった。トイレで渋々生理用品を付けた。
ペリっとシールを剥がして下着につけながら、やりきった、一人でできることはやったと充実感があった。トイレから出て行く私は今までの私ではない。もう基礎体温を測らなきゃと毎朝思うことも無い。病院に行くことも無い。頑張ってくれた医師や看護師に妊娠できなくて申し訳ないなと思うだけだ。ひとりで窓があいているのも確認しなくていい。窓も見上げる私もない。もう途中から彼のことは、見えてなかった。そんなことわかっていた。私はいまからやっぱりひとり。