主人と子どもを送り出して、勤め先のカフェに向かう。働きはじめて三ヵ月、週に四日ほど働いている。朝の十時から、忙しさにもよるが、たいてい夕方五時ごろまでだ。私はこの仕事を気に入っている。あまり拘束されず、オーナーも気さくな方で、自転車なら数分で行けるところなのだ。
琵琶湖に面した公園の中を走っていく。毎朝見る琵琶湖の水は最近の晴天つづきで、昨日よりもまた減っているようだ。
砂場では女の子が遊んでいた。すると女の子は急に立ち上がり、手にしているどろだんごを母親に見せようと駆け寄ったとき、おだんごは女の子の手から落ちて、壊れてしまった。あっと言って、泣きそうな顔で立っている。
母と娘の様子を見て、私ははっとしてブレーキをかけた。母親は娘に近寄って、しゃがんでなだめている。ほんの一、二分だったろうか、自転車を止めたまま、二人の行動をじっと眺めていた。
そしてハンドルを切り返すと、急いで家に戻った。何の躊躇もなく、自分でも不思議なくらいに。家に着き、暗い物置小屋に追いやられていた古い箪笥の引き出しを開けた。カビ臭さが漂った。引き出しの奥にそっと手を伸ばすと、硬く冷たい物が指先に当たった。傍には紙包みらしき物があって、それぞれ取り出してみる。あった。四十数年前につくったどろだんごだった。むき出しになったどろだんごは、もうどろだんごではなく、白く乾ききった土の玉で、その形も丸みをとどめず、表面の多くの土がはがれており、引き出しの底に落ちていた。やっぱり、あったんだ。もうひとつの紙包みは黄ばんで褪せていた。なんだろうと開けてみると、ほとんど使っていない赤色の油絵の具だった。ぐにゃっと曲がってかたまっていた。これ、なんだっけ。絵の具を紙に包みなおして上着のポケットに入れた。だんごは引き出しの中にそのまま戻しておいた。
私は急いでカフェに向かった。自転車をこぎながら、あの頃の記憶を辿っていた。どろだんごのことはここ数年忘れかけていた。主人の転勤で引っ越しする際も、どうしても捨て切れなかったものなのに。主人の浮気や息子の不登校、義父母との折り合いのまずさなどいろいろあった。ひとつが片付きそうと思ったら、次のひとつが浮上した。この繰り返しの数年だったような気がする。事の断片が未消化のまま、他の断片に転移していく、すべて解決済みとはいえないけれど。
「おはようございます」
ドアを開けると、コーヒーのいい香りがした。オーナーはいつも通り、琵琶湖が見える特等席に座って、朝食をとっている。開店準備を終えて、ほっと一息ついているようだ。
「おはよ」
彼は身体を斜めにして、変わらないトーンで笑みをくれる。パンとコーヒーを口にしながら新聞を広げて一面、二面とぱらぱらめくっていく。
「遅れて、すみません」
「珍しいね。どうしたの?」
「ちょっと」
紙面が滋賀版の面に広げられていた。
「さて、今日は何センチかな?」
オーナーは天気予報の欄を手のひらでかくし、笑う。天気予報と並んでたった一行、小さく琵琶湖の水位が載っているのだ。琵琶湖に直接たずさわる関係者らには必要な情報かもしれないが、たいていの人は、大暑時の水不足や台風がもたらす大雨といったとき以外は、おそらく目にすることはない。私の周りでも、そういった情報が載っていることすら知らない。
「もう、意地悪なんですから。今朝は見ていません。マイナスですよ。それもかなり」
窓越しの風景に視線を移す。青空にきらきら光る湖面。竹生島に行く定期便だと思われる船が小さく見える。
「梅雨に入ったというのに、雨、全然ですね」
私はため息をついた。
「まだ、六月半ばだから。これからだよ」
そう言ってオーナーは手のひらを返す。
「マイナス二十センチだって。由美さん、どうする?」
「えっ、そんなに。たいへん」
「ハハハ」
「笑い事じゃないです。オーナーだって生粋の滋賀県人でしょ。もっと琵琶湖に関心と愛情を持ってもらわないと」
「わるい、わるい。でも、琵琶湖の水位が気になるって、ほんとうに変わってるね。たしか、生まれも育ちも横浜だったよね」
「そうです」
「でも、どうして?」
「なんというか、琵琶湖って、海のように大きいけど、穏やかで守られているという感じがするから。水位が満たされていると、とくに。海って、やはり怖い。放り投げられてしまうような感じがして」
窓越からの琵琶湖を見る。
「瀬田川のところで琵琶湖の水量を調整しているということを聞いて、ショックでした。でも、よく考えてみれば当然ですよね」
「やっぱり、変わっているね」
オーナーは呆れた口調で、天気欄のところから他の記事に視線を移していた。
「近くで、誘拐があったようだね」
「誘拐事件ですか? どこで?」
「うん、米原で。未遂だったようだけど」
事件は、学校近くのところで帰宅途中の小学生二年の女子が、見知らぬ車に乗せられるところだった。近くの人が見て怪しいと思って、走って声をかけてみたところ、車はそのまま逃げたようだ。
「まだ、犯人は捕まっていないんですか?」
「そのようだね」
パンを口にして、コーヒーを流し込もうとしていた。
「実は私も小さい頃、誘拐されたことがあるんです」
「えっ、何?」
「幼稚園に通っていた頃だから、五歳のときかな。その時の記憶ってほとんどなくって。その部分だけが欠落しているというか」
「本当に?」
「本当です」
「で、どうだったの?」
オーナーは壁時計に目をやって、あっ、もう時間だ。後でゆっくり聞かせてと言って席を立った。
琵琶湖を見に来た。天気予報では今晩から雨が降るということらしい。陽が出ていないため、夕方、六時だというのにうす暗い。なぎさ公園の木立の中をくぐり抜けて歩道をはさんで汀に辿り着く。この時間になると、近くの観光ホテルの客室にぽつりぽつりと灯りが点り、ジョギングの人が通り過ぎる。このあたりに棲みつく何匹かの猫といえば、釣り道具を持たない私に対して、そっぽを向いたままだ。
水辺に降りる。水際にある石が目印だ。石はバレーボールの球ぐらいの大きさで、ちゃぷちゃぷ波打つ湖面から半分顔を出していれば水位0の地点である。今日の新聞でマイナス二十センチとあったから、波打ち際がはるか向こうに遠ざかってしまった。今晩からの雨でどれくらい水位がもどってくれるのだろう。早くプラスの域になって気持ちの貯金をしたかった。他人が聞いたら笑うだろう。
横浜から滋賀の湖北に嫁いで、もう十五年になる。嫁いだ当初は、田舎の風習や低くたちこめた灰色の空に慣れるのに時間がかかった。誰も相談する友達もいなかった。唯一なぐさめられたのは、琵琶湖だった。はじめて見たとき、湖とは思えなかった。向こう岸が見えない一直線の水平が左右いっぱい広がる光景に、ただ驚かされた。
靴下を脱いで、水際からさらに進んでみる。さらっと包み込む湖水が冷たい。目を閉じて、つま先立ちになって全身に風を受け、さらに気持ちが落ち着いていく。ひたひたと水が満たされ、打ち寄せる静かな波が私の中に伝わってくる、郷愁や幸福といったものだろうか、漠としてつかみきれない。そして、波がある種の匂いを運んでくるのだった。その匂いは砂と土の入り混じったようなものだった。
そういえば、誘拐事件のこと、夕方にたくさんのお客がきたものだから、話せずじまいだった。誘拐のところだけはほとんど記憶がない。わずか数時間のことだったけど。
あの頃の思い出、いや出来事といったほうがいいのかもしれないが、はっきりと脳裏に浮かび上がってくる。引き出しの奥で四十年以上もじっとしていたどろだんごや赤色の絵の具は、私の記憶を少しずつ呼び起こしてくれた。
そしてその記憶の中で数十年前の父の姿と今、私が患っている結核がぴたっと重なった。むかし父が患っていた結核に時を経て私も感染していたからだった。半年前の市の健診をきっかけに、わかった。発病はしていないので、仕事は続けられるけど、投薬での治療が必要となった。結核のことを調べてみたら、何十年も前に感染していた結核菌が発病することもあると知った。
今は手の中で解決できることなど、何ひとつない。幼稚園に通ったあの二年、すこし大げさかもしれないが、後の私をつくってくれたように思う。その間にいくつかの死もあり、私にとっての大切な時間であったことを。
*
あの出来事を辿ると、どろだんごを思い出す。四、五歳の頃だ。幼稚園の砂場が、私の一日の大半を過ごす場所だった。
幼稚園は横浜の高台にあって、そこから民家の屋根屋根が斜めにずっと港まで続いていて、そこには赤い靴の女の子の銅像があった。はるか向こうには、富士山が見えた。母がよく、ここは一等地だからと口にしていた。アメリカが買い取った土地で、同じ敷地には教会があり、幼稚園もその土地を借りていた。
私は、母が勤めている幼稚園に通っていた。朝一番に母と一緒に来て、夜遅く帰った。以前は家の近くの保育園に通っていた。その園舎からは薄明かりの中、走って迎えに来る母の姿がよく見えた。いつも遅れてくるので、私はすっかり待ちくたびれていた。見かねた母の勤め先のシスターでもある園長先生が、それではうちの園にくればいい、ということになり転園した。
急な坂道を母に手を握られ、幼稚園に向かう。幼稚園に着くと、私は急いで砂場のフェンスにかけより富士山の姿を見る。母は「今日はよく見えるね」と私の頬をなでて、仕事に入った。その瞬間から母娘として交わってはいけないという約束だった。約束を守る代わりに、毎朝、サクマのイチゴミルクを三粒ポケットに入れてくれた。
他の園児たちは私よりもおそくに来て、午後の二時ごろに帰っていく。最終のスクールバスの後ろを眺めながら小さく手をふると、バスは瞬く間もなく海に沈むかのように姿を消してしまう。母の仕事が終わるのを待つ。ふだんは帰る頃は六時か七時頃で、遅くなると九時頃になる時もあった。教室で待つことはなく、いつも砂場にいた。園児のいない教室には、片付け終えたブロックの箱や積み木があって、壁がありドアがあり、どれも終りがあって、残された私に居場所などはなく窮屈だったからだ。外には風や音、花や木々の匂いがあって、終りがなかった。朝の時間も合わせるとひとりでいる長さが六時間にもなった。でも私はもともとひとりっ子だし、ぜんぜん寂しくはなかった。砂場があれば大丈夫だった。砂場は、私の一日の大半を過ごした特別な場所であった。ひとりで遊ぶには広すぎることはなかった。砂は自分の思い通りに形をつくっていける、山にも川にもなるし、ダム、プリン、動物だってつくれてしまう。でも、私はいちずにどろだんごを毎日つくっていた。あの時代、子どもが大人になるうえで誰もが通過する登竜門として、だんご遊びは欠かせない存在だったように思う。
水を含んだじゃりじゃりした砂を両手いっぱいにすくってていねいに丸め、ぎゅっと押さえ乾いた砂をかける。そして指先でこすっていくと、角がとれてきて少しずつだんごの形に近づいていく。さらにこすっていくと、黒光りしてツヤが出てくる。つぎに砂場にはない、ふわふわの砂を探しにいく。あるときは園舎の裏の軒先にある、埃をかぶったような少しの風でも飛んでいく粒子の細かい砂を使う。黒光りした団子にまとわせて、さらに指先でこすっていくとピカピカに光っていく。もうその時間になると陽もとっくに暮れて、外灯の明かりだけを頼りにつくっていく。冷たい白色灯は、冷たいどろだんごを浮かび上がらせてくれる。
職員室の明かりが消えると、私は砂場の縁にどろだんごを埋める。最初はシャベルで掘って、後は手で掘り続ける。前につくったどろだんごを傷つけないためだ。もうすでに、何日も前から十数個くらいは埋めてあって、一番古いのは二週間くらい前のもので、誰にも見つからないように順番に埋めていく。砂場の底は不思議と掘っても掘ってもどこまでも下に続いていた。ある時、テレビでウミガメが砂浜に上がって産卵する映像を見て、「あっ」と思った。同じだ、と。器用に手足を動かして掘って埋めている姿が健気で、シャベルがあればもっと楽なのにと思った。
日中、他の園児も砂場で遊ぶわけだから、見つかっても仕方ないのに、一度も見つからなかった。
「さあ、帰るわよ」と母が言って、私の手を包んでくれた。「こんな冷たい手をして」
水場は砂場から離れていた。私は手をパンパンしただけで、洗わなかった。
母はいつも最後まで職員室に残っていた。これは後で聞いた話だが、母はその当時、幼稚園教諭の正式な資格を持っていなくて、なにかと大変だったようだ。手のかかる雑務をこなし、また園長先生から個人的に懇意にされているというふうに見られてか、周りの先生からの嫉妬があったようだ。
横浜の街の夜景を見る間もなく、バスの時間に間に合うようにと母の手に引っ張られて外灯の少ない暗い通りを急ぎ足で掛けていく。母はいつもせかせかしていた。バス停に着く頃になると、私の両手は白く乾いて突っ張っていた。
その頃の住まいは、くぼ地と呼ばれる一画にあり、四畳半くらいの部屋がひとつあるだけの四軒長屋だった。いくつかの坂が集結しているすり鉢状のこの一画は、雨が降るとたちまち雨水が家の周りにあふれ返った。
帰ってくると、いつも父がいた。父は軽度な結核を患っていて、何年かずっと働けずに家にいた。ほぼ毎日、近くの医院で注射を打ってもらっていて、私もときどき付いていった。
長屋住まいというのは、母と私のように帰宅の遅い者にとっては、生活しにくい環境だった。足音を立てずにそっと廊下を歩かなければならず、ドアの開け閉めも静かにしなければならなかった。廊下は裸電球がひとつぶら下がっているだけで、部屋の南京錠の鍵穴もやっと見えるくらいだった。
家は金銭的に苦しかったようだけど、私は平気だった。共同トイレに、共同流し、長屋にはいろんな匂いが漂っていた。焼き魚や卵焼き……。隣には大きいおばあさんが一人で暮らしていた。いつも絨毯のような厚手の長いスカートをぞろぞろと、廊下にすれるかすれないかという具合にはいていて、手にはいつもポットのような物を持っていた。おばあさんの部屋からも、沁みついた服からも、何かこげたような匂いがしていた。母に聞くと、あれはコーヒーというもので大人が飲むものだよ、と教えてくれた。顔は全然覚えていない。
それにしても、部屋には少なくともベッド、茶箪笥、本棚、白黒テレビが乗った冷蔵庫などがあったのに、よく何年もの間、せまい部屋で三人が暮らしていたなと思う。部屋での食事の時間がまったく思い出せない。誰が食事をつくっていたのかさえ。部屋の記憶がほとんどなかったのは、父が先に寝ていることが多く、灯りをうす暗くしていたせいだろうか。裸電球には新聞紙が巻きつけられたままだった。その分、外での記憶のほうが鮮明だ。
なかでも父との散歩は楽しかった。行くところはきまって山下公園で、停泊している氷川丸に乗ったり、海を眺めている赤い靴の女の子の銅像を見たりした。銅像の前で父はよくこの童謡を歌ってくれた。詩の内容はわからなかったけど、なんだか切ない歌だなと感じた。
私は父と行く銭湯も好きだった。その理由は、お風呂の中でよく遊んでくれたからだ。タオルを湯ぶねにふわっと浮かべると、上手に空気を包みこみ、湯ぶねの底までもぐりこませ、そのタオルのふくらんだ部分をぎゅっと握ると、目に見えないタオルの小さな穴から空気の泡がぶくぶくと水面にひろがった。いつも高台から眺めている星空のようだった。
また、道すがら大きな洞穴のある場所に連れて行ってくれた。洞穴は山の周囲にいくつかあった。父に聞くと、防空壕というものだった。道沿いの小高い山の断面にむきだしの姿で現れる。道行く人々は、ただの風景として通り過ぎていく。
防空壕は大人ひとりぶんの高さで、ずっと奥に続いている。「お母さんには、内緒だからね」と、父の後について入っていく。ただの洞穴で他にはなんにもなく、いつもじめじめしていた。砂場と同じ匂いがした。壁面の赤土をさわったり、しゃがんで外の風景をじっと眺めたりして、これといってなにをするということもなかった。でも、この場所に父と一緒にいることはとても心地よかった。そういえば、ふだん無口な父だったが、ここでは氷が解けたように口がなめらかでいろんな話をしてくれた。少年時代に経験した、B29や東京大空襲の話から、マッチ売りの少女まで。「お母さんが心配するから、さあ、行くよ」と言われるまで、わずかな時間を過ごしていた。
誰一人いなくなった砂場で、どろだんごをぜんぶ掘り出して並べてみる。いつも数えながら並べてみるけれど、埋めたときより数が足りないような気がする。
何日も土の中にあっただんごは、湿りけがあり重たくて石のようにかちかちで、ちょっとした衝撃でも壊れてしまう。そっと手のひらにのせ、さらにだんごの表面を指先でなでると黒光りしてくる。たくさんのどろだんごの中から気に入っただんごがあると紙でくるみ下駄箱の奥にしまった。ときどき母にも見せたくなって、職員室に足を運んだ。職員室のドアを開けると、いつも輪転機のシャカシャカした音がしていて、インクと玄米茶の入り混じった匂いがしていた。周りの先生たちは、みんな上手くできたわね、とほめてくれた。奥にいた母は「だめだめ、持って来ちゃ」とほめてくれない。それどころか、「砂だらけになるから、入ってきちゃだめ」と怒られる。それでも、だんごを見せたくてたびたび職員室に行った。
そして掘り出しただんごをまた埋めるのだが、数えてみるとやっぱり減っている。下駄箱や通園かばんの中を探してみるけど、見つからない。心当たりのある場所をぜんぶ探し終えた頃には、辺りはすっかり暗くなって、砂場に並べていただんごも見えなくなってきた。私は慌てて元の穴に戻した。
それにしても、それらはどこへいってしまったのだろう。埋めてあっただんごがなくなるのは、自ら砂や土に戻ってしまったのだろうか、そう考えたほうが自然なような気がする。
私はどろだんごをつくることで、ひとつ覚えたことがある。静かに待つということは、すべてを受け入れるということだ。それも相手は不意にやってくるのだ。クリスマスを直前に控えた頃の火事だってそうだ。砂場にひとりでいる時、となりの教会の方からバチバチという音がして、そちらに目を向けると、教会と幼稚園の境に植えてあった多くのもみの木の一本が勢いよく燃えていた。火はとなりの木に燃え移ろうとしていた。黄色く燃えていてきれいだなと感じつつ、だんだん怖くなってきた。周りには誰もいない。火事をはじめて見た日だった。この火事の時もそうだが、私は事あるごとに職員室に行った。
職員室にいる母や先生たちは、どうして不意にやってくる相手を見ようとしないのかと思ったほどだ。建物の中にいるからだろうか、いや、大人たちはいつも忙しいから、不意の相手を見過ごしているのではないだろうか。
この二年の短い間に、私は三つの死と交わった。いずれの死にまったくの関連性などないけれど、静かに待つということで、受け入れてしまったのだと思う。
ひとつめの死も、まったく不意のことだった。雨の降る放課後の時間だった。砂場で遊べないので、私はたまたま体育館にいた。その頃、天井の修理で二、三人の男の人たちが蜘蛛の巣をつたうクモのように動いていた。
その日の作業員は一人だった。「いつもひとりだね。今日はおじさんもひとりだよ」と私の頭をなでて、梯子を立てて天井へ上っていった。入り口の重い扉の近くで、その作業をずっと見ていた。いつもより糸をつたうスピードがすこし速いなと思っていたら、その瞬間、「あっ」という声がして、両手両足が宙に浮いていた。仰向けになったカブトムシのように見えた。
ストップモーションのように見えた。そして、下に引っ張られるように落ちた。館内にドスンという音が鳴り響いたが、すぐに止んだ。その人のところへ近寄ってみたが、まったく動く気配がなかった。
落ちたんだ、と思って職員室に行くと、先生たちは「こんどは何かな」と穏やかな雰囲気、事情を話すと、一人の先生が「本当?」と言って、体育館に急いだ。
そして救急車が来て、その人を運んでいった。次の日、そのことを母に聞くと、「亡くなったのよ」と教えてくれた。「でも、どうして命綱してなかったんだろうね」とぽつりと言った。ついきのう、話しかけてくれたばかりなのに。私の耳の奥にまだおじさんの声が残っている、「おじさんもひとりだよ」と。私は自分の声にその言葉を託して静かに耳に入れてみる。そうすることで、ひとつの死を受け入れるしかなかった。
私が砂場にいる時、フェンスの向こうにはいつも同じ背中があった。彼は私のことを知らないが、私は彼のことをよく知っている。彼は車椅子に乗っていた。白いエプロンの女の人に毎日、車で送ってもらい、そこで絵を描いていた。私の景色には必ず彼がいて、いつも絵筆を動かしていた。私は彼がどんな絵を描いているかとても気になっていた。
彼の家は幼稚園の近くにあった。大きな屋敷で広い日本庭園があり、大きな犬が二匹放し飼いされていた。元気で好奇心おうせいな犬たちは、なにかと遊びのほこさきを探しているようでいつも走り回っていた。ときおり私がフェンス越しに手をだしたりすると、すぐにしっぽを振って二匹が寄ってきた。そのときに何度か向こうの縁側のところで車椅子の彼を見たことがあるのだ。いつもひとりで、空を見上げていた。遠くから見ていたせいで、年をとっている人なのかと思えば、若かった。首にコルセットをしていて、車椅子にいろんな装置が付いていた。絵を描くうえで必要だったのだろう。
ある日、幼稚園の敷地から出て、お兄さんの後ろに立った。イーゼルに大きなキャンバスを立てて横浜の街を描いていた。たくさんの屋根が並んでいた。
その後も私は彼の後ろに立って、絵をじっと見ていた。絵を描く場所は決まっていて、絵の構図も同じだった。一点の作品をゆっくり描きあげていたようで、白黒だった絵には日ごとにいろんな色がのせられていった。色が重なっていくのに遠い空も海も透き通って見えた。
お互い話したことなかったが、たった一度彼の手から絵筆が落ちてしまったとき、私は拾って彼の手に渡した。
「ありがとう」と言った。「いつも砂場にいる娘だね」
「うん」
「砂場で、なにして遊んでいるのかな?」
「どろだんご」
だんごを彼に見せた。
「ピカピカだね」
「もっと、つるつるになるの」
「そう、出来上がったら、お兄さんにも見せてね」
「うん」
「何色が好き?」
「赤色」
「じゃあ、これあげる」
彼は絵の具箱から赤色の絵の具をとり出すと、私の手のひらにのせてくれた。
「どうして?」と私が聞くと、「赤色はもう使わないから」と言って、また描きはじめた。
しばらくして、私の景色から彼はいなくなっていた。私は出来上がったどろだんごを見せたくて、彼の家に行った。家の前に大きな花輪が飾られ、黒っぽい服の人たちが屋敷を出たり入ったりしている。お葬式だ、きっと彼だと思った。筋ジストロフィーという病気だった。その後、彼の家の前を通りかかった時、二匹の犬もいなくなっていた。
年長組の同じクラスに、咲ちゃんというかわいい女の子がいた。口数が少ない大人しい子で、母親に抱きかかえられて通園していた。私も小さかったが、咲ちゃんはもっと小さかった。いつも隣同士で、首をかしげ、肌は透き通るような乳白色で脚は夏でも白いタイツのようなものをはいていた。凹凸がなく、まるでストローのような脚だった。上履きはみんな白のシューズと決まっていたが、咲ちゃんは赤いスリッパをはいていた。魔法使いサリーちゃんが好きで、スリッパやお弁当箱、椅子の座布団にサリーちゃんの顔があった。
クラスのみんなが遊んでいるときでも、隅っこの席でニコニコしながら座っていた。すこしは歩けるようだが、長い距離の歩行やボール遊びなどはできなかったようだ。席が隣の私は咲ちゃんがどんな病気になっているかも知らず、咲ちゃんの腕を引っ張ったりしたりすると、先生が血相を変えて飛んできて、腕が抜けちゃうからダメでしょと怒られる。人形の腕でもあるまいし、と思っていたら、腕がちぎれてしまうということはないにしても、重い難病だったようだ。
夏休み前のお昼の時だった。机を合わせて数人で食事をとる。咲ちゃんも一緒だった。みんなで、指を組んでアーメンと目をつぶって頭を下げる。
祈りを終えてお弁当を広げようとした時だった。めったにしゃべらない咲ちゃんが不意に口を開いた。「明日から入院しなくてはならないの。みんなとは今日でお別れなんだ」
みんな、手が止まって咲ちゃんを見た。周りのグループの笑い声がはるか遠くに聞こえた。隣のグループ席にいた先生はこちらに視線を向けて、さっと立った。笑い声が一瞬にして止んだ。「みなさんに、お話しがあります。とても残念なのですが、咲ちゃんが明日から入院することになりました。しばらくの間、会えなくなるけど、咲ちゃんが早く帰って来られるよう、みんなでお祈りしましょう」
私たちは再び指を組んで、マリア様に祈った。ここはクリスチャンの幼稚園なのだ。明日からさびしくなるなと思った。いつもひとりでいても平気な私なのに。はじめて、祈りというものを実感した時だったのかもしれない。
しばらくのあいだ、サリーちゃんの椅子は隅っこに置かれていた。夏休みが終わり、九月になっても、十月になっても、咲ちゃんは帰ってこなかった。秋も終わりかけた頃、咲ちゃんのお母さんが幼稚園に来て、玄関先で先生と大事な話しをしているようだった。二人ともお互いに頭をぺこぺこ下げ合い、あいさつをしているように見えた。それから咲ちゃんのお母さんは娘の荷物をひとつ残らず集めると、急いで帰っていった。
いつの日だったか、一度間違えて、お気に入りのどろだんごを隣の咲ちゃんの下駄箱に入れてしまったことがあった。咲ちゃんは紙に包んであったどろだんごを大事そうに手にして「これ、由美ちゃんの?」と私に返してくれた。「あっ、ごめんね」と私が言って、
「どろだんご、見てみる?」
私は紙の包みを差し出した。
「うん」
咲ちゃんがちいさく頷いた。
私が包みをゆっくり開けると、黒光りしたどろだんごがあらわれて、咲ちゃんのパッチリした目がよりおおきくなった。
「触ってもいい?」
「いいよ。持ってごらん」
私は咲ちゃんの両手にそっと渡した。
「わっ、ヒヤッとして重たい」
「指で触ってみて」
「すごい。つるつる」
「磨けば、もっとピカピカになるよ」
「いいな、砂場で遊べて」
「あげる」
「本当に? うれしい。その代わり、お昼の玉子サンドあげる」
「ほんと? ありがとう」
その後、咲ちゃんは幼稚園に戻ってくることはなかった。もう誰も咲ちゃんの話はしなくなっていた。
そんなある日の事、先生は大きなダンボール箱を前にして子供たちを教室に呼び集めた。中にはヒヤシンスの球根が入っていた。年長組には毎年、この時期になると一人にひとつずつヒヤシンスの球根が配られる。先生は配り終えると、空になった箱を足元に置いた。カサッと音がしたので、私は箱の中を覗いてみた。すると箱の底には球根がひとつ残っていた。あっ、咲ちゃんのだ、と言いながら、その球根を取り出した。私はそれも一緒に育てることにした。毎朝、水を取りかえながら、ふたつの球根はそれぞれ何色の花が咲くのか楽しみだった。新しい年を迎え、卒園式の練習がはじまった頃、ヒヤシンスの白い根っこもずいぶん伸びていた。花が咲いたら咲ちゃんにも見てもらいたいと思っていた。卒園式とうじつ、私は赤色、咲ちゃんのはピンク色の花を咲かせていたが、その日もとうとう咲ちゃんは来なかった。私はふたつの鉢を家に持ち帰り窓辺に並べた。
その後、母から聞いた話だと、骨の病気で小学校へ上がる前に亡くなったそうだ。私は咲ちゃんのヒヤシンスを長屋の片すみに植え替えた。あげたどろだんごはとうに土に還ってしまったのだろうな。そして咲ちゃんも。
*
一昨日の話せずじまいだった誘拐のことを思い起こそうとしていた。
「なかなか思い出せなくて」
「あまり無理して思い起こすこともないんじゃないかな、君のためにも。脳も忘れさせようとしてるんだよ」
オーナーはそう言って、私にコーヒーを淹れてくれた。
「でも、思い出したいんです」
自分でも驚くぐらいにはっきりと口にしていた。オーナーは目を丸くして、そうと言った。
こんな気持ちになったのは今回がはじめてだった。封印していた過去といえば大げさかもしれないが、無意識のうちに私の心の奥底にある鍵のかかった箱に閉じ込めてしまったという感じなのだろうか。窓から外の風景を見る。昨晩ふった雨もすでにやんで、陽も射している。たくさんの雨が降ったせいか、空気もすがすがしく、琵琶湖の向こうの比良山もくっきり見える。眺めていると、高台の幼稚園から見た風景を思い出した。あっ、この風景の構図、似ていると。高台といい、山、屋根、海……。
あの日の覚えていることと言えば、砂場にいた私に後ろから誰かが声をかけ、車に乗せられて、遠くへ連れて行かれたということだけだ。夕方でもないのに薄暗くて寒い冬の午後だった。そして何時間後かに解放してくれたこと。警察も本格的な誘拐事件として扱うかどうかのタイミングだったらしいこと。車から降ろしてくれたところが幼稚園の門の前で、パトカー二台の前に母と二人の警察官がいたということだけ。日が暮れる頃だったせいか、赤色回転灯が妙に毒々しかったことを覚えている。警察の取り調べなんかもなかったように記憶している。たしか、このことは新聞の地方版には載ったみたいだから、犯人の名前も出ていたのかもしれない。その後のことはなんにも知らないし、父や母もその事についていっさい触れなかった。
「そう、そんなことがあったんだ。怖かったでしょ。その犯人、顔見知りだったとか」
「うん……。でも、怖くはなかったと思う。顔はぜんぜん覚えてないわ。手袋をはめた大きな手で頭をなでてくれたことは覚えているわ。そうだ、その人、油の匂いがしていたような気がした。わたし、昔から匂いにはすごく敏感なの」
「油? ガソリンとか灯油とか」
「そう。灯油の匂い。そうだわ」
私はポケットに手を入れて赤い絵の具に触れた。そしてポケットの中でそれをぎゅっと握った。
冬の季節だったから、灯油の給油車が幼稚園にも来ていた。門の前に車を停めて、灯油の入ったドラム缶を園舎の裏まで運んでいたのを覚えている。砂場の横を通っていくときのあの匂いと同じだった。
ふと横浜に住んでいる両親に聞いてみようと思った。そうだ、二人に聞いたらいいんだ。「どうしたのよ、今更そんなことを聞いて」と言われるだけだろう。でも時も何十年も経っていることだし、懐かしい思い出のひとつとして語ってくれるのではないかと思った。早速、今晩にでも電話してみよう。
母は私が思っていた以上に記憶していた。私の問いかけに、そうね、そうだったわねと少し間を置きながらこたえてくれた。「お母さん、だいたい分かったわ。ありがとう」と言うと、「当然よ。いつまでたっても私の娘なんだから」と受話器の向こうで母は笑っていた。
その日も、埋めてあったどろだんごを掘り出して並べていた。「きょうも一人なんだね」聞き覚えのある声が後ろからした。顔や姿は覚えていない。「遊びに行こうか?」
「行かない。おだんごがあるから」
「咲ちゃんに会いたくない?」
「えっ、咲ちゃんに会えるの?」
「海の向こうにいるんだ」
「ほんと?」
「咲ちゃんが待っているよ、早くしないと、船が出ちゃうよ」男の人は私を急かせた。
私は咲ちゃんにどろだんごをあげたくて、並べておいただんごの中から、上手にできたものをひとつ選んでポケットに入れた。
お兄さんは私を白い車に乗せて、港に行こうと言った。バス以外の車に乗るのは生まれてはじめてだったし、咲ちゃんにおだんごを渡せると思うと胸がどきどきした。
港には、赤い靴の女の子の像があって、氷川丸が停泊していた。風が強く船が大きくゆれていた。人もまばらだった。お兄さんと私は埠頭の先まで歩いた。
「咲ちゃんは?」
「この船で咲ちゃんところまで行くんだ」
「うそ。この船、動かないもん。お父さんがそう言ってた」
「もう少ししたら、動くよ。ぐんぐん進んで、咲ちゃんのところまですぐだよ」
ずっと海を見ながら待った。私はしんぼう強かった。いつも砂場で何時間も待っていられる私だから。
その後、どうしたのだろう、どこへ連れて行かれたのだろう。どこかの浜だったか、海がすぐ目の前にあった。黒い波が打ち寄せてくる、なんども、なんども。波の向こうに咲ちゃんがいるなんて、信じられない。怖かった。海に連れて行かれたら、死んでしまうと思った。
「帰る」私は言った。
お兄さんは海を見ながら黙っていたが、しばらくして「帰ろうか」とぽつりと言った。
ふたたび車に乗せられた。彼は黙ったまま正面の一点を見ていてハンドルを握りしめていた。私はポケットから咲ちゃんに渡せなかったどろだんごを出して、ハンカチで包んだ。教会からいつもの、六時の時刻を知らせる鐘がガランガランと鳴った。
暗くなった幼稚園の門の前には、母と警察官がいた。私を乗せた車は十メートルくらい手前で停まって、彼は私の前に手を伸してドアを開けてくれた。
翌日、私は誘拐のことと三つの死についてもオーナーに話した。オーナーは窓越しの風景を眺めながらじっと耳を傾けていた。
「犯人、よく由美さんをかえしてくれたね」
「そういえば、灯油の配達、別の人に代わってたわ」
「その男、生きていたら、もう七十、八十歳だよね。その後、どんな人生を歩んだのだろうな」
「……」
その男はとうの昔に亡くなっていると、私は直感的に思った。
オーナーは冷めたコーヒーを口にして、「なんとなく、わかったような気がする。由美さんのことが」オーナーは私に視線を向けた。
「なにがわかったんですか?」
「難しいな……」とコーヒーカップを手にして「誰もが生きていくうえで、特別な時間というものがきっとあると思うんだ」
「特別な時間?」
「うん。由美さんで言えば、五歳の頃に経験した三つの死と誘拐になるんだけど。おそらくたいていの人は、日々いそがしい時間の中で、大事な場面というのを、知らず知らずのうち過去に葬ってしまっていると思うんだ。とくに大人はね」
「……」
「砂場で過ごした一人の時間というのが、そうだったんじゃないかなって」
「どろだんごをつくっている時間――」
「君はずっと待っていたんだ。どろだんごに思いをこめながら」
「なにを待っていたの?」
「さあ、それは君にしかわからないよ」
オーナーは席を立ち、そろそろオープンにしようかと言った。
開店時間よりもすでに一時間が過ぎていた。
「もう、大丈夫でしょう」
医師は私の肺の写真を見ながら、こちらを向いた。
「本当ですか?」
「肺にあるこの影は、幼少の頃に発病して自然に治った結核の痕でしょう。何十年も結核菌を抱えたまま発病しないこともありますが、あなたの場合は、一度治ったはずの結核の菌が残っていたのだと思われます。大丈夫だと思いますが、念のため、一年後に検査してみましょう。今回、発病する前に治療できて良かったですね」
医師は私にそう言った。写真には、それほど大きくはないが、靄がかかったような白い影があった。
「学校や職場でなんども集団検診を受けてきましたけど、異常があるなんて言われたこと一度もなかったです」
「集団検診の場合、よく見過ごされることがあるんですよ」
「肺の隅っこに菌がずっと閉じ込められていたんですね」
「そういうことです」
私は医師の話を聞きながら、長い間、肺に封じ込められていた結核菌のことを想像してみた。父からもらった菌だから、きっと悪さなどしなかったのかなと考えたりもして。そして何十年もの間、古い箪笥の引き出しの中にあった白く乾ききったどろだんごのことを思い出していた。
外に出た。目がうるうると潤んできた。あっ、涙だ。どうして涙なんか出るのだろう。どちらかというと私は泣かないタイプの人間なのに。祖母や友達の葬儀だって、一度も泣いたことはなかった。どうしたわけか涙が出てこなかった。ひとりっ子だったし、むかし砂場で鍛えられたのかと思ったほどだ。涙が出ないぶん、そのあとになってもずっと胸の中にしまい込んでいるように思われた。涙は、辛い思いを忘れるためにあるのだ。
そっと指で涙をぬぐった。私の中にあった結核菌はまるで追いやられた思い出の塊のように感じた。
今夕も琵琶湖に来た。0地点の水際の石まで水位は届いていない。それでも打ち寄せる静かな波が心を落ち着かせてくれる。目を閉じ、波が運んでくれる砂と土の匂いを感じとった。もう会えない人だって、今だと何ひとつ隔てることもなく心に浮かべることができる。満たされた気分だった。
手提げかばんから、紙に包んだ四十五年前のどろだんごを取り出す。咲ちゃんに渡せなかったあのだんごだ。紙包みからあらわれたどろだんごは原型をとどめず、白く乾ききった表面の土、砂がぱらぱらとはがれ落ちた。
水際まで近づき、そっとどろだんごを押し寄せる波に乗せた。だんごは、最後の息を吐くようにぷくぷくと泡を吹いて静かに沈んだ。自ら衣を脱ぐ様に一枚一枚はがれていって、小さくなっていく。はがれた砂や土は波に運ばれ沖へと流れていった。そのうち、どろだんごはゆっくりと消えていった。
了