残念でたまらない
奥野忠昭
私は今、折口信夫の「死者の書」について評論を書いている。評論は小説よりももっと読んでもらえる人が少ない。しかし、清水さんは必ず読んでくれた。評論を書くときは、清水さんが読んでくれるからと思って、それを励みに書いていた。だが、今回はそれができない。何を励みにすればいいのか、と戸惑いながら書いている。
私より何年も歳の若い清水さんが先に逝くなんて、思いもしなかった。何と不条理なことか。残念でたまらない。
清水さんと出会ったのは、私が文学学校のチューターをし始めて間もないころ、生徒として私のクラスに入ってこられてからである。その後、「せる」というグループに私が加わると同時に彼も「せる」に加わった。それからずっと「せる」でいっしょだった。ずいぶんと長いお付合いである。
彼は最初から作品の鋭い読み手だった。それに、彼の読み方と私の読み方とはどこか似かよっていた。彼の評価するところ、彼の批判するところは、ほとんど私もその通りと思えた。だから、一期だったが、私のクラスのサブチューターをしてもらったことがある。だが、サブチューターは詩人でなければいけないと言われ、やむを得ず、彼につづけてもらうことができなかった。
「せる」というグループは、文学以外の個人的な付合いはほとんどしない。別に禁止しているわけではないが、自ずとそうなっている。そういう付合いの嫌いな者たちが集まったのだろう。だから、清水さんとも文学関係の会合以外で話をした覚えはほとんどない。ただ、私の個人的なことで、グループの中では、彼に一番世話になった。私は教育関係の仕事に携わっていたので、彼が新人研修に使ったという、会社での文章の書き方のテキストをもらったりした。また、二年前、私が病気で入院したとき、いち早くお見舞いに駆けつけてくれた。それに、つい最近では、私が文章の書き方の本を出したとき、彼に書評を頼んだ。いい書評を書いてくれた。そのお礼を言おうと思っていた矢先、彼が入院し、亡くなってしまった。私の本への書評が彼の絶筆になるなんて。なんてことだ。ほんとに。残念、無念としか言いようがない。
普通なら、ここで、彼にどうか安らかにお眠りください、と言うところだが、私はそうは言いたくはない。黄泉の国にいてもどうか「せる」だけは読んでほしい。それに、私の評論は絶対に。できれば、私の夢の中に出てきて、その感想を聞かせてほしい。お願いだ、ぜひ、そうしてほしい。そうすれば、私はまた、君が読んでくれると思って評論が書き続けられるのだから。
悼む
尼子一昭
清水康雄さんの訃報に接し、驚きとともに、手元にある「せる」の会合の記録を調べてみた。
それによると清水さんは平成二十六年五月の定例会(芥川賞受賞作「穴」についての読書会)に出席し、それが元気な姿を見た最後となっている。
以降の六月定例会を欠席、七月の「せる」九十六号の合評会も欠席であった。特にその号は清水さんも編集委員のひとりとして発刊にかかわっていた。
私のもとに携帯メールで、欠席する旨の簡単な連絡があったのみで、詳細な事情については一切ふれていなかった。気にはなったが健康についての不安は、それまで何も聞かされていなかった。また直ぐに顔を見せるだろうと思っていた。
それが九月末に、突然の逝去の知らせである。信じられない思いであった。病気や入院のことを誰にも知らせなかったのは、清水さんのダンディズムであったのだろうか。
ふりかえって見れば、清水さんは「せる」創刊号(一九七八年九月)から、共に歩んできた仲間であった。現在まで残っている創刊メンバー五人のうちの一人である。そして創刊より一貫して、「せる」の代表(外部連絡先)の任にあたってくれた。
文学賞の受賞や候補作になったとか、あるいは商業誌に転載されるとかの連絡を受けて、滞りなく事務をこなしてくれた。実務能力は抜群であった。
清水さんは、同人誌のメンバーとしてはきわめて特異な存在でもあった。同人誌は当然のごとく、小説を書くこと、発表することを目的として集まっているグループである。しかし、清水さんは創刊以来、これまで一度も小説を発表したことがなかった。
エッセイは断続的に何度も発表している。これだけエッセイを書くのだから、小説を書いたらと言ったこともあったが、笑っているだけだったという記憶がある。
エッセイの内容は長い会社勤めの経験を反映したものがほとんどであった。会社のシステムやそこに働く人々を素材として、切れ味の鋭い目で見ながら、それでいてユーモアを忘れない語り口で描いていた。読み手を大いに楽しませてくれる、まさにエッセイの名手であった。エッセイの掲載者がいなければ、清水さんに頼めというのが我々の共通の認識だった。
最近のエッセイは小説に近くなってきていた。ノンフィクションから逸脱して、フィクションがかなりの部分を占めていた。どうやら、ご本人もそのことには気がついていたようだ。小説を書こうと思われたのだろうか、一年ほど前に、大阪文学学校の昼のクラスに再入学された。清水さんはリハビリだとも言っていた。風の便りで聞いたところによると、小説を発表したとのことであった。いよいよ、「せる」に小説を書いて登場されるのかと思い期待していた。その期待は実らなかったが、文学学校で最後に書いた小説を遺稿として掲載することができた。
同人誌は書くばかりでは成立しない。書く事とともに続けていくためには、組織と会計基盤の確立が必要となる。
清水さんは、「せる」の運営に実社会で培った力を大いに発揮してくれた。「せる」も会計的危機があったが、その時に、収支のバランスシートをいくつかの試案として提示してくれた。それが今日の安定の礎となった。
まじめで、お酒も飲まず(飲めなかったらしいが)タバコも吸わない人であった。合評会や定例会の後で、我々が酔って口角あわを飛ばして、かなり脱線気味の議論をしている時に、的確で鋭い意見を言ってくれる貴重な存在でもあった。酒も飲まずに、酔っぱらいにつきあってくれるのは、さぞかし大変だったのではないかと思ったが、ご本人はあまり苦にする様子はなかった。
几帳面なまじめさを感じることは他にもあった。
「せる」の合評会は、天王寺の旅館で土曜から日曜日にかけて、宿泊をともなって開催している。清水さんは宿泊することなく、土曜日に日帰りすることが多々あった。理由はその都度、色々あったが多かったのが日曜日の早朝から、町内会の総出の掃除や草むしりなどへの参加であった。町内会の行事などサボればいいのにと言うと、いやそんな事はできないと真顔で返された。
清水さんの所属している町内会では、いわゆる町内会長とされる人を将軍といい、各班長が藩主という名称であるらしい。印象からして、かなり前近代的な組織のように思われる。まったく、お疲れ様としか言いようがない。
長い年月をともに、同人誌づくりにたずさわってきた清水さんを失った喪失感が広がる。
清水さんの誠実な人となりと、「せる」の持続に果たしていただいた功績の大きさをふりかえり、その逝去を悼む。
清水康雄さんのこと
津木林洋
話は三十七年前に遡る。
前年の一九七七年の九月に一年間の本科を終えて、大阪文学学校を離れていた私に、後期のチューターだった奥野忠昭さんから葉書が届いた。奥野クラスの修了生たちがやっている読書会に参加しないかという打診だった。
それまで一度も読書会というものを経験したことがなかった私は興味を惹かれて、会場まで足を運んだ。
そこで初めて清水康雄さんに出会った。黒縁眼鏡を掛けた顔に笑みを浮かべながら、よく通る声で話す。何のテキストだったかは忘れたが、彼の言うことが鋭くて的確で、へえーと驚いたことは覚えている。
フランスのヌーボーロマンという作品群を知ったのもその読書会だった。彼は海外文学も数多く読んでおり、私も負けじとばかり読書の幅を広げることに懸命になった。
読書会を発展させて同人誌を作ろうという話になった時、私の背を押したのも彼の存在が大きかった。その頃私はすでに名古屋を本拠とする同人誌に所属していて、作品発表の場があったにもかかわらず参加を表明したのは、自分の作品が彼にどう読まれるかを意識していたからに他ならない。
「せる」を作る時、奥野さんが、書き手ばかりではなく的確な批評のできる読み手も揃えたいと考えたことが、ずばりと当たったことになる。
「せる」では同人同士の付き合いは密にせず、いわゆる〝淡交〟で行くことに暗黙の内になっており、私も彼のプライベートはほとんど知らなかった。よく聞いたのは仕事のことだった。
当時、コンピュータがメインフレームからオープンシステムにダウンサイジングされる時代で、彼は経理の仕事の一環として会社のシステム変更の担当をしていたようだった。同人仲間でコンピュータの話のできる相手は、理系の大学を出た私しかいないと思っていたのかどうか、トラブル続きでうまく行かないという話を具体例を挙げて笑い話のように聞かされたものだった。
システム立ち上げの仕事が終わると、その後人事の仕事に携わった。「ジョハリの窓」という自分を見つめる心理モデルを教えてもらったのも、その頃だった。
どんな仕事でもそつなくこなすだろうと思わされるのは、活字体のような筆跡を見ても分かる。「せる」創刊の時、誰を対外的な表の顔として代表者にするかとなって、自ずと彼になったのは、当然のことだったのだ。
毎月顔を合わせていた人間が急に例会に来なくなる。何らかの病気かもしれないと心配してメールや電話をしても、全く応答がない。人には言えない恥ずかしい病気かも、と笑い話をしていたら、九月の終わりに突然大阪文学学校から電話が掛かってきた。妹さんから連絡があって、清水さんが九月十一日に亡くなったと言うのだ。
絶句した。
退職後のだらだら生活をリハビリするために、三十数年ぶりに大阪文学学校に再入学したことは聞いていた。そのために連絡があったのだろう。「せる」の誰にも連絡がなかったのは、文学学校から漏れ伝わるだろうとの思いがあったに違いない。いかにも彼らしい身の処し方と言えば言える。死に際を煙がすっと消えるように静かにしたいとの思いだったのだろう。
一ヵ月ほど経って、私の留守中に、妹さんから電話が掛かってきた。家内が出た。家内は、結婚当初「せる」の例会に出席したことがあり、村上春樹の作品をすべて読んでいる家内と彼の間で、ファン同士の親密さがあったのだ。
そのことを告げてお悔やみを述べると、妹さんが一時間ばかり話をしたという。その中で、彼が大学卒業後就職した会社を辞めてから、腎臓病で数年間療養をしていたことや、怪我で手術をしたときの輸血でC型肝炎になって、最後は肝硬変で亡くなったことを知った。死後の処理のすべてを生前に書類にまとめ、妹さんはそれを実行するだけだったらしい。
文学学校再入学は、リハビリとは言いながら、内心期するものがあったに違いない。「せる」に載った最近のエッセイは多分にフィクションを含み、エッセイ風小説と言っても過言ではなかったから。
小説を書くという土俵の外から的確なコーチのように批評を送ってくれる存在から、自身がプレイヤーになって土俵の中に入ってこようとした矢先に病に倒れたことは、本人にとっても無念だったろう。残された我々は、彼の声なき声を聞いて、創作に励むしかない。
書き続けてこれたのは
西村郁子
わたしが「せる」に参加したのは、五〇号の少し前だったと記憶している。発行年月日を調べると一九九九年五月とあった。十六年前になる。
せるはプレ会員を招いて例会で合評をしているが、当時わたしもプレ会員で合評を受けた。そのときの作品に清水さんは「この作品に対して、良いと言うか、悪いと言うか迷っています」と開口一番に言われた。作品としては、筋も文章もめちゃくちゃで読みにくい、けれど、何か作者が伝えたいものがあるというのは伝わるというのが批評だったと思う。以来、わたしは清水さんの深い読みに度々甘えた。荒削りであっても書かねばならないという気持ちがあれば汲み取って読んでもらえる。
プレ会員から同人のメンバーになってもその傾向は続いていた。そして、ある作品の時、わたしは合評会の場で大泣きしてしまった。自分の母親のことを書いた作品で、順番に批評を受けていく最中、わたしはどうして、これほどまで伝えたいことがあるのに、それを伝えることがなんでできないのだろうか……。と聞きながら思っていた。すると、自分でも制御できない感情の波がきて、はらはらとかしくしくなどという泣き方ではなく、ひひぃん、ずぅび、ひひぃん、ずぅぶぶと、息を吐いても吸っても横隔膜の痙攣が収まらないのだ。直前に発言した尼子さんは自分の批評のせいかと気にされていたが、そういうのではないと断言できる。隣にいたなりたさんには、だれそれの小説で泣き人形っていうのがあるけど、それみたいと言われる始末。奥野さんには、君、もう酒を飲むなと止められるが、お茶しか飲んでいない訳で、あんなに合評会を白けさせたことがあっただろうかと、思い出しても恥ずかしくなる。
そして清水さんの番になった。
「この作品には、内的必然性がある」
その時、まだ泣いていたと思うが、そりゃこれほどまでに泣き散らしているのだから、そらそうやなあと、納得ともつかない妙な気持で聞いていた。
わたしの作品を読む(読まざるえない)、すべての同人の皆さんに感謝の気持ちはたえないが、ことのほか、清水さんの言葉は次の作品に向かう大切な燃料になったのは間違いないと思う。
せるの清水康雄さん・
清水康雄さんのせる
藤岡純一
清水康雄さんは、昭和五十一年四月大阪文学学校本科入学。本科前期半年の担当チューターは、フランス文学研究者で小説家の松原新一さん、後期半年の担当チューターは、奥野忠昭さんで、本科時代に提出された創作は、残念ながら復元できないが、三島由紀夫ばりの緊密な表現が印象に残る短編だった。
文学学校卒業一年後、奥野忠昭チューターの呼びかけに応え、同人グループ発足メンバーの一人となり、昭和五十三年九月の会誌「せる」創刊号以来、清水さんには、「せる」誌の奥付に編集代表として名義をいただいていた。
普段は読み手の限られる同人誌だが、掲載作品が脚光を浴びると、問い合わせ・引き合いがあり、仕事のかたわら、その対応を実務家肌でこなされていた。
「せる」誌では、メンバーの責務である創作作品の提出はなく、エッセイを断続的に投稿されるに留まった。特にスタート直後から十年余りにわたり、会誌に設けられた〈COM ON〉欄で定例会での小説合評の記録を引き受けられ、会誌の品質向上に寄与いただいた。
定例会や合評会では、どのような傾向の作品に対しても、精読のうえ、的確な批評を展開され、また、ときに議論の白熱する事態には、冷静な審判役や作品批評のとりまとめ役となった。
清水さんは、大学卒業後、入社した会社で生じた労使紛争で集団離職の一員となって、文学学校入学時には、すでに電鉄系列の広告会社に転職。以来、経理を経て、人事を担当。親会社派遣の役員陣は、人事異動のたびに新米社長が誕生し、決まって社内組織の改編に手をつけるため実りのない仕事がふりかかってくる、苦労話を再々聞かされた。
定年を迎えた後、再び経理事務に従事され、つつがなく再雇用期間も終えられた。
会社員と創作作業との二股稼業の困難さを体現される当たり前の存在だが、「せる」同人の中では、書かないことはメンバー資格にもかかわりかねない課題であり、その長年の課題に答えをつけるべく、実に三十余年の歳月を経て一昨年文学学校本科に再入学された。
母親の死別で真に独り身となって、かつ、再雇用期間も終了し、長年の課題の解決に専心できる環境になって、たった一年、志半ばの急逝である。人生は、なんと不都合にできていることか。
お酒を飲まない(飲めない)・タバコも吸わない・浮いた話もない、ロマン派から最も遠い人柄。知識と良識の持主として、的確な指摘で創作作品の数々が清水氏のやすりにかけられて、磨き上げられていった。そのひとつひとつが積み重ねられて、「せる」の継続に繋がっている。
追悼コメント
「あぁ、そうなんだ。もうそんな時代になっちゃったんやなぁ」
私と清水さんの最初の会話です。清水さんと私の母が同じ年齢だという返答です。それから清水さんは私にとって母と同じ年齢の人、という覚え方をし、認識していきました。
清水さんの作品を読んだことはありませんが、彼の批評とエッセイはいつも伝えたいことが明確で優しい口調、入りやすい文体が特徴でした。文芸誌を買っての読書会のとき、彼は必ず本を購入していました。読んだ、という証しがほしいから買うんだよ、と教えてくれました。家には読み終えた本が沢山あって、それが彼の頭の中にある本と同じ量なんだなぁと思いました。本だらけの部屋に埋もれて小説を読んでいる姿が想像できました。
私の作品の合評会のあとには個人的に長い感想メールをくれました。出版社に出そうとした作品をいつも最初に読んでもらっていました。私が書けなくて落ち込んでいるときも何度も励ましてもらって、わざと違う話題をふってくれて気分転換をさせてくれました。私が送ったメールの返信はもう来ません。最後に会った編集会議での時に一緒にご飯を食べに行けば良かったなぁと今でも思います。目に浮かぶのは、彼が嬉しそうに言った言葉です。
「今までずっと、村上春樹と係わってきたけれど、彼の奥さんの名前、高橋陽子っていうんだって。知らなかったよ」 (高橋陽子)
あなたと最後に言葉を交わしたのは「せる」九十五号の合評会だったと記憶しています。個人的な会話を交わす機会はあまりなかったあなたですが、あの時は珍しく別れ際に僕の作品について評価してくれましたね。
闘病中の僕は「遺作にできますかな」と軽い冗談をとばしたつもりが、あなたは真面目な顔をして、遺作などとマイナス思考はダメです。と諭されたのが今に思い出されます。
そんな、あなたが亡くなったことを知らされたとき、俄には信じられませんでした。合評会での理路整然とした、その批評は定評のあるところだったあなたですから、合評会にはやってきて、片隅で皆の意見に耳をかたむけているのではありませんか。僕はそんな気配を感じております。こんど耳元でそっと囁いてください。「きてるよ」と。 (谷垣京昇)
清水さんとは「せる」の会合でしか会うことはなかったのですが、清水さんの勤めていた会社が私の勤める会社にとってお客様だったので、仕事の話をよくしました。
決算の話、新入社員の不思議ちゃんの話、リストラの話、どの話もサラリーマンとしての実直さと滑稽さと哀愁を漂わせていました。それらは、時々「せる」の後ろを飾るエッセイに通じるものがありました。
この人はどんな小説を書くのだろう。話を聞くたび読むたび思ったものです。やっと読める待望の小説が遺作だとは。
清水さん、作品の感想は空の遠くに送っておきますね。感謝を込めて。 (谷口あさこ)
ゴルフ・ラウンドを一度も実現できなかったのが、残念なことのひとつ。
おたがい組織内遊泳の必要で続けていたレベルの趣味なので、スコア自慢もゴルフ場の情報交換もしないままとなった。
もし、グループせるの同人の中にもう二人ゴルフ人口が増えていれば、一パーティできて、同行ラウンドができただろうに……。文学とゴルフは、相当な距離がある。
〈起承転結〉はストーリーの王道だが、ゴルフに例えれば、起(一打め)のドライバー・ショット、承(二打め)のアイアン・ショット、転(三打め)のアプローチ・ショット、結(四打め)のグリーンでのパットと対照できる。場面転換の転と転がすの転は、ベクトルが正反対だけど、アプローチショットでもまま予想外の方向に転がしてしまうことがある。起こりうることとはいえ、信じられない、本科入学時からずっと同行してきたものとして。 (藤岡純一)
「せる」に入って最初に出会った事件が清水さんの批評だった。大阪文学学校で三年ほどお世話になり、チューターをはじめ様々な人たちの批評を耳にしてきていたが、清水さんのそれは、はじめて触れる緻密さ鋭さであった。「まだ、このような人がいたのか!?」と密かに感嘆したおぼえがある。
清水さんの緻密さは,読書会の担当時にも発揮された。村上春樹作品を取り上げることが多かったが、必ずと言っていいほど、きっちりとテーマや登場人物の関係などを分析してこられ、それをプリントアウトして参加者に配られていた。
二年ほど前のこと、会社を退かれたあと、実に何十年かぶりに文学学校に再入学をはたされた。改めてご自分の文学や、これからのことを取り組みはじめられた矢先だったはずである。同人仲間は皆、今までとはまた違った清水さんの文章に出会えるのを楽しみにしていた。そう思うと、あまりにも突然の訃報は、返す返すも残念というしかない。 (益池成和)
清水さんの書くエッセイには、上質な音楽を聴いているような心地よさがあった。計算されつくしているけれど全くそれを感じさせない、バラバラのピースが収まるべきところにピタリと収まったような爽快感があった。
今回の訃報は計算通りだったのか、それとも計算違いだったのか。あまりにも突然で喪失感が大きいけれど、優しい口調で作品批評してくれる笑顔ばかりが思い出されるのは、もしかすると計算通りだったのかもしれない。
いつも作品を細かく丁寧に読み込んでくれたこと、いろいろな話をしてくれたこと、たくさんの感謝の念が、どうか届きますように。ご冥福をお祈りいたします。
(よこやま さよ)