骨伝導って言うらしいですよ

清水康雄



「ご覧いただきたいものがあるのですが、今、よろしいですか?」
 バインダーを抱えるように持った平泉真帆が立っている。室内には、珍しいことに二人しかいない。マーケティングと情報システムチームは大会議室で、新入社員の入社時研修を行っている。営業統括チームは隣の打合せ室で明日の売上・利益予算会議の付議資料作りをしていた。もう一人、庶務担当の田部という女性がいるのだが、おなか痛ということでお休みだった。これは定例行事であった。
「武山竹男ってご存じですか?」
「知っているよ。レタス男だろう」
「レタスってなんですか?」
「十年ぐらい前に退職した元社員。その理由が、レタス栽培に従事するためというので、レタス男。うちのホー
ムページをリニューアルするときに、タスクチームでいっしょだったんだ。武山がどうかしたの」
「SB社のグループ会社の取締役になっていらっしゃいますよ」平泉がA4サイズのペーパーを差し出した。SB社は、IT企業の最大手のひとつだ。役員一覧の中に彼の名前があり、その経歴の中に当社の名前があった。
「二十八歳ですって、すごいですね。うちだったら課長ぐらいかな。どうします、報告します?」
 平泉真帆は、入社二年目にはいったばかりだ。広報関係を担当している。広報といっても、社内誌の編集と新聞記事の切り抜きが主なものだった。それ以外に外部からの調査やアンケートなどの調整を直属の係長と相談しながら行っていた。具体的には、回答部署とスケジュールを決め、仕上がった調書等を供覧し、その後依頼先へ返送することだ。社外に出て行く情報をコントロールすることは重要なことなのだが、各部署の庶務担当者は日々の業務に追われ、往々にしてこの種の仕事は手を抜く。期限も守らなかったし、そのうえ間違いも多かった。ところが、彼女が担当するようになってそれらが一変した。
 平泉の父親は、親会社の専務それも人事担当役員である。出向組、特にキャリアにとっては、なやましい存在というわけだ。どこも部門長が配属を嫌がり、結局、経営企画室お預かりということになったらしい。ちょっと天然気味で、おっとりとしていて、多忙なときにはイラつくこともあったが、笑顔がチャーミングだったので、利害関係のない若い男たちには人気があった。アンケートの回答が遅いと、直接、責任者のところへ行って、にっこりと微笑みながらおもむろに催促する。それだけで、書類の質が向上するとともに、作業効率の改善がなされた。
 彼女は、週末に、社名等の関連事項をキーとしてWEB検索もしていた。そこで武山が引っ掛かったのだ。
「武山のことは、特に報告する必要はないと思うよ。この業務の目的は、商号や商標の侵害そしてWEB上の風評の把握だから。それに川田さんが、嫌味にとるかもしれないし……」
「川田本部長ですか?」
「武山は川田さんの部下だったんだ。『リクルートの退職理由の本音』によると、七割弱が人間関係だそうだ。そういえば川田さん、武山のことを慇懃無礼だと言っていたな。ちなみに吾輩は教条主義者だそうだ」
「キョウジョウって、なんですか」
「狂気のキョウに情欲のジョウじゃないよ。要するに融通がきかないっていうぐらいの意味かな」メモに「教条主義」と書く。「ハイハイって言わないのが気にいらないのかな。どうでもいいことだったらハイぐらい言うけど、どうしても譲れないことって、あるだろう?」
「私、出し巻き卵にお砂糖を入れるの、譲れません。出し巻きにお醤油をかけて食べる人なんて信じられない」と、平泉が口を尖らせながら言った。
「それはそうだ。お砂糖の入っていない出し巻きは、出し巻きではない。ましてや醤油をかけるなんて出し巻きに失礼だ。出し巻き卵には、出し巻き卵のプライドがある。君の言うとおりだ」
 彼女が微笑みながら頷く。
「そう言えば、川田本部長のところよく人が辞めますね」
「そうだね。川田さん、うちに来てたぶん十年以上になるのかな、出向組でも一番の古参だけど、未だにうちの会社と馴染まないとこあるだろう。これって不幸なことだよ、個人的にも会社的にも。元々賢い人なのだから、いろいろな事業を経験した方がいいって、パパに言っておいてよ。次はあの人、温泉好きだから、九州あたりの湯治場に近いところがいいかもね」
「温泉、いいですね」と、彼女が言った。
            *
 あれは、確かノストラダムスの終末説や、PCの日付データに不具合が生じ世界中のコンピュータ・システムがダウンすると騒がれていた頃だ。あれから十年経つのか。
 九階の第二小会議室だった。
「農業するんだって?」
「ええ、正確には、長野でレタス作りを手伝おうかと思っています」と、武山が言った。
「退職理由が百姓するって、ユニークだね。武山らしいよ」
「入学時代の友人が、一緒にやらないか、と声をかけてくれたんです。彼のおやじさんが、脳卒中で左半身が麻痺してしまったんだけど、幸いなことに比較的軽度で、今なら息子にノウハウを教えられる、だから帰ってこい、と言ってきたそうで、一人じゃ心もとないし、イーコマースを立ち上げて、産地直販をする計画もあり、そっちは僕の方が詳しいし、最近あまり野菜、喰ってないから、健康にはいいかなぁ、と思って」と言うと、武山はニキッと笑った。
「面倒臭いから用件を済まそうか。要は、武山の辞意を撤回させろということや。今朝、総務局長に呼ばれたんや。俺、今は人事じゃないのに、おかしな話さ。担当が気に入らないのなら、今度の異動で変えてやると伝えろ、ということなので、一応言っとくよ」
「人事のイメージが強いんですよ、課長は。覚えていらっしゃいますか、面接のときの質問。『あなたが自覚していて、人に隠している欠点はありますか?』変なことを聞く人だなぁ、と思いましたよ。両手両足で足りないぐらい就活したけど、そんなこと聞いた人は誰もいない。聞く方も答える方もだいたいマニュアルどおりの応対ばかりなのに」
「それでどう答えたの?」
「なんだ、覚えてないのか……」
「悪いね。質問なんてその場かぎりのアドリブ、何を聞いたか、いちいち覚えてないよ。あえて言えば、アホな質問に、どう対処するか、その反応を見たかったのかな。で、どう答えたの?」
「分かりません。そんなこと考えたことがありません。強いて言えば、それが私の欠点かもしれません」
「それでよく通ったものや」
「相変わらずですね。ところで、話は変わりますが、これ、分かりますか?」
 武山が、幅3cm程度、長さ10cm強、厚さが1cmはないスティック状の機器を、内ポケットから取り出した。表面はつや消しのシルバー、TOSHIBAのロゴマークの下に小さな液晶画面があり、サーチボタンが2列、さらに停止と再生のボタンが2つ並んでいる。最下部にVOICE・BARと印字されている。
「録音機だろう?」
「ICレコーダーっていうんです。最近テレビのインタビューシーンでよく見かけるでしょう。失言した馬鹿な大臣なんかに記者連中が向けているのを。ちょっと前までは、社名の入った大きなマイクやテープレコーダーだったのに。小型軽量で、しかも音質が全然違うんです」
「それで?」退職の話はもうおしまい、というわけか、まあ、いいや。二週間以前に辞表を出せば、いつでも辞めることができる。それが、もしかしたらサラリーマン唯一の権利かもしれないしな、と思った。
「ところで川田さんってどういう人物なのですか?」
「超一流大学の法学部卒、若手エリートのなかでも突出した逸材。将来本社の役員候補の有望なひとり。そんなところかな」
「またトボケテ。どうしてそんな人が、うちに出向してくるんですか」武山が、またニキッと笑った。アイツの笑い方、ムカつくな、と言った先輩がいた。
「実はミーティングメモを取ろうと思いましてね、三ヶ月ほど前にこのレコーダーを買いました。川田さん、確かにお勉強はできたのでしょう、特に法律に関しては。しかし、彼のキャリアからして、うちの業種はまったく未知の分野、ど素人ですよ。知らないことがあって当然なのに、知らないことがある、ということを認めること自体が、どうも恥だと思っているようですね。かわいそうに、それって疲れますよね。その結果が朝令暮改。とにかく指示をきっちり記録しておこうと思って、はじめは自己防衛のつもりで録音したのですが……」
 武山はここで一息いれた。そしておもむろに「自分の声、聞いたことありますか」と、独り言のように呟いた。
「質問の趣旨がよく分からないな。誰でも毎日うんざりするほど聞いているのと違うの?」
「すみません。録音した自分の声と、言ったほうが正確です」
「意識したことないなぁ」
「打合せ用のノートを補足する形で、レコーダーを利用しました。改めて聞いてみると、話し言葉っていい加減なものですね。言い間違いはあるし、同じことを何度も繰り返している。それもその都度、少しずつニュアンスにズレがある。一見、理路整然と論じているようでも、けっこう紆余曲折している。使い始めてひと月余りたった頃、議事録を作成していて、あることに気がつきました」武山は、再び間を取り、右の人さし指で小鼻の脇をさすった。考えを整理するときの彼の癖だ。
「それは、『自分の声が、自分の声ではない』ということでした。イヤホーンを通じて聞く声は、どこか他人のようでした。最初から違和感はあったのですが、それは録音機の性能の問題だと、漠然と思っていました。しかし、自分以外のメンバーの声は、自分が知っているそれぞれの声なのです。川田さんも小川も中山ちゃんも……。
 自分が認識している自分の声と、他人が耳にするそれは異なっているという事実。そのことはショックでした。大げさに言えば、『僕って何?』という感じです。自分のことが分かっていない。自分と向き合っていない。未だに、他人に隠すべき自分の欠点すら把握していない。五年経っても課長の質問に答えられない、と思いました。
 自分が毎日している仕事が、本当に付加価値を生んでいるのだろうかと、不思議に思うことが、最近よくあります。広告ってある意味では虚業ですよね。手の中には何の成果物もない。実感がない。そんな時に友人からレタスの話があったんです。先日、友人と長野に行って来ました。早朝の高原で収穫したレタスは、みずみずしくてとても綺麗でした」
 武山は両手の手のひらを眼前で広げながら言った。そこには、取れたてのレタスが確かにあるように思えた。
「これ餞別です。百姓にはたぶん必要ないと思うので。五年問お世話になったお礼です」と言って、ICレコーダーを差し出しながら、はにかむように笑った。
「アホ、それじゃ逆だろう」と、こちらも笑ってみたが微妙な間が生じた。
「ちょっと早いけど飲みに行きませんか。ご馳走して下さいよ」と、武山が言った。
 腕時計を見ると、長針と短針が垂直に一直線を描いていた。ひどく喉が渇いていることに気がつく。
「いいね、じゃー、十分後に一階のロビーで」と言って小会議室を出ようとすると、背後から武山が声を掛けてきた。
「あっ、余談ですが、骨伝導って言うのが関係しているらしいですよ。我々は空気を伝わってきた音を、鼓膜を振動させることによって認識するのですが、声帯の振動は、それとは別に頭蓋骨を通じて直接聴覚神経に伝わるそうです。その結果、自分が聞く自分の声は、その二種類の音がミックスされたものになるということです」
 会議室の扉を閉めながら、口早に話すハスキーな武山の声が、彼自身にはどんな声音に聞こえているのだろうかと、ふっと思った。

 ハスキーな声が更にかすれを増している。視線が定まっていない。普段は一重の目蓋が、左側だけ二重になり、キョトンとしている。ほぼ、完全な酔っぱらい状態に入りつつある。こうなると、武山竹男は竹ちゃんに変身する。タラコ気味の唇から吐き出される言葉たちは、慇懃な標準語から河内弁のおっさんになり、かつ、だんだんワンフレーズに近づいていく。そして、やたらと感嘆符的な繰り返しが多くなる。お得意の科白は、「どつぼですわ!」または「ボロボロですわ!」あるいは「最低ですわ!」である。その間に時折ご神託が入り込むこともあった。
今夜の竹ちゃんは、雄弁だった。
「人生において、真に自分の意志で選択したことがあるか、ないか……。それが問題なんや?」
まるでシェークスピアだ。居酒屋「地球儀」は、どさ回りの小屋へ、舞台は廻り、頭も回る。竹ちゃんが立ち上がり、団十郎の助六みたいに見得を切る。
一瞬躊躇した。――人生における主体的な選択の有無――はじめ、それが自分に対して発せられた詰問のように思えたのだ。なぜなら、竹ちゃんの大きく見開かれた腐った鰯のような目は、じっとこちらを睨んでいたからである。だが、それは立派な誤解だった。竹ちゃんは周囲のことなど一切構っていなかった。何も見ず、何も聞かず、自分の世界に入り込んでいた。ギヤーをトップにいれ、ヘアピン・カーブでも、シフトダウンすることもなく、暴走をつづけた。禿げ上がったおでこが、アルコールのせいもあり、精悍に黒光りしている。まだ三十前なのにおでこと頭部の境界線は、真夏の太平洋高気圧のように、急速に上昇を続けていた。咆哮するその様は、ふと、「シャイニング」のジャック・ニコルソンを連想させた。竹ちゃんは、焼酎とニンニクが入り交じった炎暑を吐きながら、満月に向かって吠える。「ガオー!」
「頭を使え、汗を出せ、のワンパターン。
賢くてアホな天下りのこんちくしょう。
前例大好き、既得権、命! のガリガリ君たち。
身内のはずなのに、社内交渉の方が、外部交渉よりもしんどい。そんなアホな!
一部の人間だけに仕事が集中し、暇なヤツはますます暇になる。
不満はあちらこちらでデフレスパイラル。
ジョブローテーションもよろしいが、デザイナーに営業させてどないしまんねん。早期退職者制度、グッド・ガイが辞めて、カスが残っただけやのに、株価が上がるなんて、最低ですわ!」
竹ちゃんは、確かにクリエイティブ希望だった。しかし最終学歴は有名な私学の政経学部、成績も立派なものだった。どうして美大に行かなかったのか一度聞いたことがあるが、その時、理由は言わないで、デザイナー採用なのにどうして実技をしないのか、と反撃された。デッサンだったら負けません、とも言った。これには一理あったが、現実は履歴が優先されてしまう。そのちぐはぐさが竹ちゃんらしかった。
「ボロボロですわ!」
まぁ、こうなることは予想された。餞別代わりに最後までつき合った。「どつぼですわ!」の叫び声とともに三軒目のスナックを出たときには、日付は変わっていた。

退職後の武山竹男とは、数年間は、年賀状のやり取りがあった。それらには、レタスや信州の風景が水彩で描かれていた。ほのぼのとした趣があり竹ちゃんの人柄が滲み出ていた。しかし、それらの音信もいつの間にかなくなっていた。
平泉から武山の報告を受けたとき、内心うれしかった。どういう経緯でレタスからITへ辿りついたのか分からないが、そこでたぶんやりたい仕事と出会ったのだろう。最近の若い人は、簡単に会社を辞める。トイレが汚いと言って二ヶ月で退職したお嬢さまもいた。人事にいると彼らの面接先の企業から照会の電話を受けることがある。
「どうして彼(もしくは彼女)が貴社を辞められたか、教えてほしい」というのが大半だった。ほとんどの場合、名前も聞いたことのない企業だった。武山の一年次下の男の場合、およそ二年の間に三度問い合わせがあった。中堅、中小、零細、その都度、企業のランクが下がっていった。そんなとき切ない気持ちになる。就職難の今、武山のケースは奇跡みたいなものだ。
この一ヶ月余り、よく、竹ちゃんのことを考える。
「自主的に選んだものおますか」
「自分の声、知らんのは、自分だけでっせ」
「手のひらの中にあるのは、さらさらの砂とちゃいませんか」
「自分の欠点、分かってはるんですよね」
竹ちゃんの箴言と咆哮が、度々、頭の中を駆け巡った。
休日の午睡のまどろみの中や、帰宅電車のストレスからの半開放状態の時や、重要会議の最中にも、竹ちゃんの声霊は、お構いなしに出現した。「どつぼで、ボロボロで、最低ですわ! ガオー!」
竹ちゃんに会いたくなった。骨伝導を実感し、それを咀嚼し消化しきったものと、知識としてしか係われなかったものとの差を、自分の目で確かめたかった。

今年のゴールデン・ウィークは、後半の天候が不順だった。「時は今雨が下しる五月哉」連休が明けると、例年のことなのだが、社内の上層部がザワツキだす。三月決算の企業では、六月に株主総会が行われる。そこで取締役の選任等が行われる。昨年、社長が変わり新体制になったばかりなので、今年は、サプライズはないだろう、というのが大半の見解であった。本来なら最重要機密のはずなのだが、不思議とよく漏れる。いずれ分かることなのに、初鰹に粋がる江戸っ子みたいに、この種の情報を少しでも早く入手することに、生き甲斐を感じる人たちがいる。ご苦労なことである。
「オジャマするよ」と言ってプロ・ゴルファーが入ってきた。彼もその一人である。真っ直ぐに傍まで来て、折りたたみの椅子を開く。そして「田部ちゃん、お茶いれてよ」と庶務の女性に言ってから座り込んだ。見なければいけない稟議書が溜まっていた。長居されたら嫌だな、と思った。
「奥山課長、特ダネですか?」松井課長が、身体を反転しながら言った。
「松ちゃん、まあ、そんなに慌てずに。お茶を一杯飲ませてよ」上機嫌に切り返す。
奥山さんは、当社でゴルフが一番うまい。社内コンペのハンディキャップはゼロだが、それでも三回に一回は優勝する。元甲子園球児で、東京六大学、社会人野球を経て、母校の野球部の監督をしていたらしい。地元ではかなりの有名人だということだ。そんな人が、なぜうちにいるのか、その経緯を含め、よく分からない人だった。彼は、自宅近くの打ちっばなし場で、私設のゴルフ教室を開いているらしい。教えるのが上手いらしく、親会社やグループ会社のゴルフ好きの幹部たちが、幾人も通っているとのことだった。彼は、それらのお偉いさんを「俺の弟子」と呼んでいた。
五十も後半で、課長といっても部下はいない。仕入部門の本部長付の専任課長である。ラインで専任は珍しかった。とにかく仕事をしないという評判だった。朝から晩まで順繰りに「俺の弟子」たちのところを回って、ゴルフ談義をしているらしい。ゴルフで給料をもらっているので、いつしかプロ・ゴルファーという異名が定着した。とにかく顔は広かった。人事情報の入手源はその辺りであろう。悪い人ではないと思うが、お友達になりたいタイプの人ではなかった。
「本社の東京支社長が変わるそうですよ。塩尻さんが監査室に異動で、後任は不動産事業の三原さん」と奥山課長が言った。
それは当社の社外取締役が変わることを意味していた。親会社の東京支社長が、代々その役職に就いていた。非常勤役員の変更は、社員にはあまり影響がなかった。やれやれである。
「三原さんって、どんな人ですか?」と松井が訊いた。
「ゴルフは下手だね。いくら教えても上達しない。酒飲みすぎて、運動神経がアルコール漬けになったのかもしれんな。その癖、下手の横好き、俺の顔をみたら、先生、ゴルフに行きましょうよと言ってくる」
「三原さんも奥山さんの弟子ですか。すごいっすね」と松井が揶揄気味に言った。「今年はそんなもんすか」
「松ちゃんセッカチだね。早いと女の子に嫌われるよ。それでは、今年のメーンエベントと行こうか」
「待ってました、大統領!」松ちゃんが煽る。
「実は、川田さん都落ちや、九州の山奥。陰謀説もあるが、震源地は不明、本社でも急に決まった話らしい。次の次ぐらいに、うちの社長というもっぱらの噂だっただけに、奴さん落ち込んでいるらしいよ。盛者必衰、すまじきものは宮仕え、やなぁ」と、奥山課長が、しみじみ言う。
「九州の山奥って、どこですか?」松井が言う。
「別府観光開発、鶴見岳の麓の小さな会社や」
「別府、いいですね。今年の秋の慰安会、湯布院にしましょうよ。いい温泉に旨い焼酎、最高やで」
「松ちゃんは、能天気でいいね。ここはノルマがないせいか、和やかだね。うらやましいよ、部長」
「川田さんの後任は、ご存じですか?」と尋ねると、「ないみたいでっせ……」と、奥山課長の歯切れが悪くなった。
本当にないとしたら、常務が本部長を担当し、実質は副本部長が指揮することになるのだろう、たぶん。――すまじきものは宮仕え――そうか、うちでは役員の川田さんも親会社では部長待遇、我々と同じサラリーマンの一人という訳か、あらためてその事実に気づく。
「ところで、この話はまだオフレコだよ。ここだけの話」と、プロ・ゴルファーは、大声でそう言いながら、満足げに退場していった。ここだけの話は、たぶん今日中には全社に流布していることだろう。

「明日、お休みを頂きたいのですが」と、平泉真帆が「休暇願」を微笑みながら差し出した。A5の申請書には、理由として「リセットのため」と書かれていた。松井課長の印がすでに押されている。リセットか……リセットしなければいけないのは俺の方だな、と思いながら承認印を押し、彼女に手渡す。その時、彼女が覗き込むようにしてこちらを見ていることに気がついた。視線があった。
突然、平泉真帆がニキッと笑った。彼女がそんな笑い方をするのをはじめて見た。その表情は、武山竹男とそっくりだった。

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