一番下の弟

若林 亨


 敏子が玄関の鍵を開けた。ハンドバッグの中から財布を取り出し、その中から鍵を取り出してゆっくりと鍵穴に挿し込んだ。
 三人の子供たちはそれをじっと見ていた。鍵穴が一瞬横を向き、カチッという音の後に再び縦に戻って鍵が抜かれるまでの間をじっと見ていた。
 みんな申し合わせたように無言だった。家の中に入って靴を脱ぐ間もしゃべらなかった。ローカを歩きリビングへ向かう。そこでようやく敏子が口を開いた。ちょっと話があるから着替えたらリビングに集まってね。
 夫文雄の七回忌法要を終えて敏子はほっとしていた。次の十三回忌はどうなるか分からない。文雄側とはだいぶ疎遠になってきている。三回忌の時はまだ遠い親戚にも声をかけていたので寺の座布団が足らないくらいだったが、今回は椅子席でさえ余っていた。案内を出す人を絞った結果そうなった。文雄側四人と敏子側六人。もう文雄側とは付き合わない方がいいと思っている。年賀状のやり取りだけで十分だ。
 最初に洋一がリビングへやってきた。喪服のままだった。ネクタイを少し緩め、オヤジが死んでもう五年になるんだなと言いながら冷蔵庫から缶ビールを取り出し、グラスに移し変えてうまそうに飲んだ。洋一は来年大学を卒業するとかばん製造会社で働くことになっている。そこは恋人の亜紀の実家で、亜紀の父からぜひ会社を継いでほしいと頼まれているのだ。それが結婚の条件だと。大量生産される日用のかばんではなくて、ひとつひとつ職人が手作業で作り上げた婦人用のおしゃれな鞄を作っているのだが、売れ行きは良くないようだった。そこでデザイン一新も含めた思い切った改革をしようということで洋一に白羽の矢が立ったらしい。大学でマーケティング論を学びながら同時に美術専門学校にも通って洋画を描いている。学費は家庭教師の掛け持ちで稼いでいる。そんなところが亜紀の父に気に入られたのだ。
「あんたが一番お父さんに似てるわね」
 そう言って敏子も自分のグラスにビールを注いだ。
「顔はぜんぜん似てねえよ」
「そうね。でも活発なところが似てるのよ。毎日毎日朝から晩までどこかへ出かけて行って忙しそうにしてるでしょ。そんなところがね」
 敏子はもう法要後の席でかなりビールを飲んでいた。けっして強い方ではない。それでもかなり飲める。赤くなってからが長いのだ。テーブルの上でほおづえをついてひとり言を言い始める。どうしてみんなあたしを無視するの。どうしてあたしの前に座ってくれないの。もっと話し相手になってほしいのよと。文雄が死んでから一人で酒を飲むようになりこの少女返りが始まった。時には一晩中話していることもある。背中を丸め顔を突っ伏して甘えた声で話し続ける。さびしいのよ、たまらなくさびしいのよと。
 しばらくして浩がやってきた。
「なんだよお母さん、またビールかよ」
 そう吐き捨てて冷蔵庫からコーラを抜き取ると、しょうがねえなあとばかりに椅子に座って斜めから敏子をにらみつけた。
 浩は受験生だ。地元の国立大学を目指している。この前の模擬テストでは合否ラインにいま一歩届かず、進路指導の先生からも気合を入れ直してがんばれとはっぱをかけられていた。
「話ってなんなんだ。酔っぱらう前に頼むよ」
 一分一秒が惜しいんだとばかりに早口に言った。
「試験は来年でしょ、今頃からぴりぴりしてたら体がもたないわよ」
「数学が伸びないんだよ。あとは数学だけなんだ。数学が平均点までいけばなんとかなる」
「あんた小さい時から計算が苦手だったじゃないの。無理しないで数学のないところ受けたらいいじゃない」
「近くの国立はどこも数学があるんだ」
「私立でもいいのよ。お金だったらなんとかなるわよ。今日来てくれたおじさんたちにも借りられるし」
「いいよ、俺は国立で」
 浩は座ったまま椅子を引きずって背中を向けた。敏子と一番相性が悪いのは浩だったが、それは多分に受験のせいだ。高校に入ってから少しずつ成績を伸ばしてようやく地元の国立大学を受けられるまでになったのに敏子のつれない態度が浩をいらつかせていた。なんとかなるわよ、無理しなくていいのよ、好きにしたらいいのよ。酒を飲むとよけいにそうなる。最後には受験なんてどうでもいいじゃないのと。
 かおりがようやく二階から降りてきた。すっかり普段着に着替え、お気に入りのバンダナを巻いて人気アニメのキャラクターを真似ている。懐石料理では物足りないとばかりにポテトチップスの袋を破いてがつがつと食べ始めた。小学校六年生になってようやくひとりで寝るようになった。それまではなんだかんだと理由をつけて敏子の布団にもぐりこんでいたのだ。眠る直前まで大好きなアニメのことをしゃべっていたかった。誰かがそばにいて聞いていてくれればいい。だから一方的にしゃべっていた。それは敏子も同じだった。さびしくなったときはさびしいさびしいとつぶやきたかった。気が済むまでつぶやきたかった。返事が欲しいわけではない。ただ邪魔せずにそれを許してほしいのだ。
「みんな今日はお父さんのためにありがとうね」
 三人がそろったところで敏子は改めてそんなことを言った。
 全開になっている窓からひょろひょろと風がやってきてテーブルの端で止まった。今日に限って風はすべてそこで止まる。そこには椅子があった。洋一、浩、かおりが順番に使っていた子供用の椅子。しかしかおりが小学校に上がってからは不要になりいつしか物置に変わっていた。
「本当にありがとうね」
 敏子は繰り返した。
 何度か風がやってくるうちに椅子は微妙に向きを変えて、あたかもそこに誰かが座っているような表情を見せ始めた。
 四人のまなざしがその椅子に集まった。
「実はね」と敏子がつぶやいた。
「お父さんが死んだときあたし妊娠してたのよ」
 敏子のつぶやきも風だった。椅子の上にわだかまる。
「でも産めなかったの。産みたかったんだけど産めなかった。八週目だったかしら。あんたたちに内緒でこっそりとね、病院へ行ってね。生まれてたら今五歳だわ。保育園の年長組ね。あんたたちと同じあの保育園に行って毎日毎日楽しく遊んでるはずだわ。お友達がいっぱいいてね。迎えに行ってもなかなか帰ろうとしないの。あそこの庭って広いでしょ。ぐるぐる回ってはしゃいでるの」
「やめろよそんな話」
 浩が吐き捨てた。勢いよくテーブルを叩いたのでコーラの瓶が大きく揺れた。
「なんなんだよ、気持ち悪いじゃないか」
「ごめんね。でもいつか話そうと思ってたの。聞いてほしかったの」
 敏子は両手でほおづえをついて視線を宙に浮かせた。
「産もうと思ったら産めたのよ。でも産まなかった」
「ひょっとして話があるっていうのはそのことかよ」
「うん」
 テーブルの端の子供用の椅子。そこには何かがあるようだった。
 敏子はすぐに視線を椅子に戻してまばたきせずに見つめ続けた。まばたきをすればその瞬間に自分の中から大切なものが消えていくような気がしていた。いま子供たちに生まれてこなかったひとつの命があったことを伝えた。自分の中だけにとどめていたものを初めて吐き出した。
――ママー。
 どんな声で呼んでくれたんだろうと思う。
――ママ、ママー。
 どんな風に甘えてくれたんだろうと思う。
――マーマー。
 誰に似てたんだろう。
――ママ、ママー。
――ママ、ママー。
「お母さん、お母さんってば」
 かおりに呼ばれていることに気づいて顔を向けた。
「ねえお母さん、その子って男の子だったの、女の子だったの」
「分からないわ。調べてないから」
「きっと男の子だ。男の子だよきっと」
 子供用の椅子の上に陽だまりができていた。敏子の視線とかおりの視線が交わってできたもの。
 陽だまりが動いた。
「あたし、弟が欲しかったんだ。ずっと欲しいって思ってた。だからその子は男の子だよ」
 かおりはうれしそうに男の子だと決めつけた。そして名前を決めようと言い出した。
「ばかなことを考えるな」
 浩が怒鳴りつけた。コーラの瓶がまた割れそうに揺れた。
「お母さん、話ってそれだけなのか」
「うん、それだけよ。聞いてくれてありがとう。あんたたちが大きくなるにつれてその子もあたしの中でどんどん大きくなっていったのよ。だからいつか言わなきゃって思ってた。よかったわ、ありがとう。ようやく話すことが出来てうれしいわ。なんだか本当に産んだような気持ちになってきちゃった」
「ちぇっ、ばからしい。付き合ってられないね」
 浩はかおりの食べていたポテトチップスを横取りしてがばがばと口の中へ放り込み、それをコーラで流し込んでわざとらしく大きなげっぷをした。
「かおり、名前を付けてあげて」
 敏子はかおりの方へ向き直って言った。
「あたしが付けていいの」
「いいわよ」
「やったー。あたしね、本当に弟が欲しかったのよ。一緒に遊びたかったの。かわいらしくてやんちゃでめちゃくちゃおしゃべりな男の子。あーどうしようかな。迷うな」
「ゆっくり考えたらいいわ」
「うん」
 大きな風がやってきてリビングを一周した。太陽が雲に隠れ始めたようだ。あたりはななめに薄暗くなっていった。
 勝手にしろと吐き捨てて浩は勢いよくリビングを飛び出して行った。
 かおりはしばらく一点を見つめながら名前を考えていたが、これだとばかりに顔を向けた時にはもう敏子はキッチンへ移動していた。

 微分積分の応用問題がようやく解けたので浩は気分転換にカップラーメンでも食べようと自分の部屋を出た。午前零時を回っていた。
――そんなところに乗せちゃ崩れるわよ――。――だめだめ、次はあたしの番でしょ――。――あたしの番だって言ってるでしょ――。
かおりの部屋から声が聞こえる。だれかと話をしているようだ。
こんな時間に何をしているんだろうと立ち止まりかけた時、「あー」という叫び声とがちゃがちゃと積み木が崩れるような音が同時に聞こえてきた。
――もう一回最初からやり直しね。今度はお姉ちゃんからよ。順番は守らなくちゃだめよ――。
浩は気持ち悪くなってドアをノックした。
「おいかおり、何やってるんだよ」
「あら、ひろ兄ちゃん、まだ勉強してたのね。うるさくしてごめんなさい。開けていいわよ」
浩はドアを押した。
「ユウ、ひろ兄ちゃんが来たわよ。一緒に遊びましょ」
かおりは笑っている。床に散らばった積み木を一ヶ所に集め、こうやって土台をしっかり作っておかないとすぐに崩れるわよと言いながら真四角の大きな積み木を四つ並べた。
「さあユウの番よ。最初は同じ大きさのものを積み上げていくのよ」
「おまえ何やってるんだ」
「ユウと遊んでるの」
「ユウ?」
「あたしたちの弟よ。この前お母さんが言ってたでしょ。生まれてたら保育園の年長組だって」
浩は部屋の中を見回した。かおりの他には誰もいない。ただ見慣れないものがたくさん置いてあった。サッカーボール、風船、人気アニメの変身ベルト、おもちゃの刀、自転車の補助輪と前かご、前かごの中にはプラスチックのバットとゴムボール、そしてベッドの上には青い水玉模様のパジャマと怪獣の絵のバスタオル。男物ばかりだ。
「まさか本気じゃ……ないよな」
浩は気持ち悪そうに聞いた。
「ユウってあたしが付けたの。英語のYOUよ。でもカタカナで書いてね。こいつけっこう頭がいいわよ。カタカナなんかすぐに覚えるんだから。ね、ユウ」
「だから本気じゃないよな」
「あたしちょっとおトイレ行ってくるからひろ兄ちゃん変わってよ。さっきからおうち建ててるんだけど途中でユウが壊してしまうのよ。三角形の使い方が分からないのよね。教えてあげてね」
そう言ってかおりは部屋を出て行った。
だれもいなくなった。いるはずがない。かおりが出て行ったら話し声も聞こえないし物音もしない。当たり前だ。
浩はもう一度ゆっくり部屋の中を見回して気持ちを落ち着かせようとした。まさか本気じゃないだろう、ふざけているだけだろうと。
見回しているうちに三角形の積み木が気になりだした。三角形は最後の屋根に使うのに決まってるじゃないか。まずは一階を頑丈に組み立てるんだ。それから二階。そして最後に三角形だ。
そっと積み木に手を伸ばそうとしている自分に気づいて浩は慌てて首を振った。かおりのやつばかなことをしてやがる。勉強の邪魔だ。迷惑だ。かおりが戻ってきたら怒鳴りつけてやろうと思ったが、それもばからしくなって部屋を出た。カップラーメンを食べる気はなくなっていた。

 平日、浩は授業の後、夜の八時まで開いている私設図書館の自習室を利用してから帰って来るので、敏子やかおりと一緒に晩ごはんを食べることはなかった。冷蔵庫の中から自分用のおかずを電子レンジで温めてそれを自分の部屋へ持って上がって食べている。受験勉強をするようになってからはだれともあまりしゃべらなくなっていた。緊張感を保つために余計なことに気を取られたくないのだ。しかしかおりが自分の部屋で夜中に独り言をいうようになってからはどうにかそれを止めさせなければならないと思っていた。かおりの部屋にあった男の子の遊び道具や男物のパジャマが気持ち悪くて仕方がなかったし、何より「ユウ」が気になって勉強に集中できない。
いつものように真夜中のキッチンで夜食の皿を洗っていると、敏子がトイレから出てきたので呼び止めた。ちょっと話があるんだけど、と。
「なあに」
「かおりのことなんだけど」
「うんうん」うなずいて敏子はリビングに腰かけた。
いつのまにか子供用の椅子の背には水色のカバーがしてあった。肘掛のところにも同じ模様のカバーだ。まるでそこにだれかが座っているかのように敏子はあたたかなまなざしを送っている。
浩は向かいに座った。
「ちょっとかおりが変なんだよ。夜中にひとりでしゃべってるんだ。ひとりでしゃべってひとりで遊んでる。積み木を並べたりボールを投げたりして。ベッドに男物のパジャマが置いてあるんだ。バスタオルも」
「ユウがいるのよ」
「ユウってまさか」
「あたしが産まなかった一番下の弟よ」
「ばかなことを言わないでくれよ。お母さんがそんなことを言うから」
浩は体をこわばらせた。冗談じゃない。一番下の弟なんているはずがない。
突然何か得体の知れないものがやってきて母とかおりをとりこにしてしまった。幼稚くさい芝居ごっこではなくて本気にさせている。積み木をしている。ボール投げをしている。怪獣ごっこをしている。カタカナの勉強をしている。自転車にも乗っている。そしてここで一緒に食事をしている。
母とかおりともうひとりのだれかが一緒に仲良く遊んでいる様子が目に浮かんできて慌てて首を振った。ありえない。
とにかく勉強の邪魔になるからかおりの独り言を止めさせてくれと敏子に頼んだ。
「かわいらしいわよ。だれにも似てないけどね」
「だからやめてくれって言ってるんだ。今大事な時なんだ。こっちまでおかしくなるじゃないか」
「ほら、そこがユウの席。食べるときはいつも行儀よく座ってるわ。かおりが面倒見てくれてるの。かおりったらね、お姉ちゃんじゃなくてお母さんになったみたいなの。一緒に作って一緒に食べて」
ユウの椅子の上で何かがもぞもぞと動き出したような気がして浩は思わずばかやろうと叫んだ。

 かおりの部屋にはどんどんとユウのものが増えていった。半ズボンにTシャツ、パンツ、靴下、帽子、タオル。あっという間に衣装ケース三つ分が一杯になった。それが部屋の隅に積み重ねられてある。おもちゃは床に散らばっていた。次から次へと新しいもので遊ぼうとするから片付かないのだ。勉強机もやってきた。机といっても背の低い応接用の小さなテーブル。かおりが納屋から引っ張り出してきたものだ。
勉強ははかどっていた。カタカナもひらかなも全部読めるようになったので書き方へ移っていた。覚えが早いというのがかおりの自慢だった。足し算引き算は十の位まで進んだ。
食卓も変わってきた。食事の時にはユウの椅子の前に小さな取り皿がひとつふたつと用意された。料理によっては四つ五つと増えることもあった。会話も弾んだ。敏子とかおりが一方的に話しかけるだけだったが、大勢が一度に話しているようなざわざわとした会話だった。保育園の話題が多かった。ユウは毎日ともだちと遊ぶのが楽しくて楽しくて仕方がないのだ。先生も大好きだった。えこひいきをしないやさしい女の先生だ。年長組になったので年少のおともだちに手の洗い方やうがいの仕方を教えている。引っ込み思案の子が多い中でユウは役割を持っていた。今は来月開かれるカーニバルの練習に忙しい。
「身長って寝てる間に伸びるのよ」
ハンバーグの乗った大きな皿をテーブルの真ん中に置いて敏子はかおりに話しかけた。
「知ってる知ってる。この前テレビでやってたもん。ボキボキっていう感じで伸びるんでしょ」
「ユウもボキボキっていってる?」
「う~ん、分からない。でも起きた時いつも布団から足がはみ出てるから伸びてるのかも」
かおりは三人分の小皿を並べてひとつひとつに箸を添えた。
「あらもうお箸だけで大丈夫なのね」
「あたしが特訓したのよ。持ち方はまだまだ変だけどちゃんと食べられるわよ。ね、ユウ」
かおりはその方を向いて言った。
「感心ね。それに食べた後はちゃんと歯磨きもするのね」
「ううん、それはまだよ。教えてないもん」
「だって歯ブラシが増えてるじゃない」
毛先の丸い小さめの歯ブラシが洗面台の一番上に置かれてある。敏子はてっきりかおりがユウの分として買ったのだと思っていた。毛先の向きがころころと変わっているので常に使っているように思えた。
「あたしは買ってないわよ」
かおりはさらっと受け流して食事の準備を続けた。
その日は珍しく浩が早く帰ってきた。書庫整理のため図書館が臨時休業していたのだ。
夕飯は終わりかけていたがテーブルにはまだハンバーグがいくつか残っていた。
「今食べる?」
敏子が聞いた。
浩は「う~ん」とどちらともとれるような返事をしてテーブル全体を見回した。
「今食べるんだったら置いておくわよ」
それには返事をしなかった。ユウの小皿を眺めたまま、「もう寝たのかな」とつぶやいて浩はゆっくりと二階へ上がって行った。

 ゴールデンウィークに浩は数学の特訓を受けた。塾の講師を学校へ招いての特別補講は疑問点の解消を目的としていたが、そこでかなりの手ごたえをつかんだのだ。部屋でも気合が入っていた。「よーし、その調子だ」「行けっ」「突っ走れ!」などと叫んでいる。
今度はかおりの方がやかましいと言い出した。
ばかみたいに大きな声が一時間も二時間も続く。激しい物音で部屋の壁が揺れる。ぶつぶつ言いながら歩いている。目が血走っている。あたしの部屋をちらちらとのぞく。気持ち悪い。なんとかしてほしい。
自分もやかましくして浩に怒鳴られたことがあるので我慢してきたのだが、毎晩続くようになって限界が来た。それで今夜とうとう敏子を叩き起こしたのだ。
リビングに座ると二階のどたばたがよく分かった。何かを床に叩きつけるようなどすんどすんという重たい音が響いてくる。柔道の受け身なのかプロレスの真似なのか。まるで戦闘映画のようだ。
かおりはもううんざりとばかりに天井を見上げた。
「ひろ兄ちゃん勉強のし過ぎで頭がおかしくなったんじゃないの。大丈夫かしら」
「大丈夫よ」
敏子は自信ありげに答えて微笑んだ。二階からの物音は全く気にならないとばかりにゆっくりとお茶を飲んでいる。
「本当に大丈夫なの」
かおりはポテトチップスをかじりながらもう一度尋ねた。
「心配ないわ。遊んでるだけだから」
「遊んでるって、ひとりでどたばたしてるだけじゃないの。子供みたいに」
「そうよ。子供に戻ってるのよ。子供に戻って遊んでるの。楽しそうじゃないの。それに……ひとりじゃないし……」
物音が途絶えた。
急に静かになってかえってエネルギーをため込んでいるような不気味な緊張感が漂った。
「今日はお母さんと一緒に寝たい」
かおりは声を震わせた。

 浩は家の中を走り回っていた。子供用の歯ブラシを持って「歯を磨け!」と叫びながらそこらじゅうのドアを開けたり閉めたりしてユウを捕まえようとしている。でもなかなかつかまらない。すばしっこくて柔軟。浩の動きを先回りして読んでいる。
「お母さん手伝ってくれよ。あいつもう一週間も歯を磨いてないんだ」
何度頼まれても敏子はただ眺めているだけだった。椅子から立ち上がろうとしない。
そのうち浩は根負けをして、歯ブラシをテーブルの上に放り投げた。虫歯になってもしらねえぞと吐き捨てる。
実は僕も弟が欲しかったんだと浩が敏子に打ち明けたのは三日ほど前だった。ユウのために歯ブラシを買ったけれど受け入れてもらえるかどうか自信がなかったのでしばらくは使わなかった。歯先を濡らしただけだった。かおりがあまりに楽しく遊んでいるのを見ているうちに自分もユウと一緒に遊びたいと思うようになった。でもとっかかりがつかめない。一緒に遊べるはずだと自分に言い聞かせるまでにしばらく時間がかかった。ユウは一番下の弟なんだと思い込むまでに。
「僕ってけっこう面倒見がいいんだよ。この前の祭りのときだって町内の子供たちに囲まれてただろう。腹話術の真似ごとみたいなことをやったらめちゃくちゃに受けて大変だったんだ。指先も器用な方だからさ、竹とんぼなんか簡単に作れちゃうんだ。教えてやったよ。綿菓子を作るのも得意さ。あれって簡単そうに見えるけど丸くするのってけっこう難しいんだ」
「そうね、お祭りの時は人気者だったわね」
「みんなと遊んでたらとても気持ち良くてさ。小さい子供っていいなあと思ったよ」
「あんた小学校の先生になりたいって言ってたこともあるのよ」
「え、僕が」
「覚えてないのね」
「全然。そうか、小学校の先生か」
ふたりで向き合って話をするなんて久しぶりだった。
やわらかな日差しがそっと肌をなでていく、そんなおだやかな昼下がり。
「あんたも小さい頃は大変だったのよ。嫌がってなかなか歯を磨いてくれなかった」
敏子は浩が放り投げた歯ブラシを手に取ってそっと歯先をなでた。
「歯医者さんに連れて行くのがまたひと苦労でね。柱にしがみついて離れないの。ものすごい力でしがみついているのよ。柱ごと連れて行けみたいな感じで」
「そうだったっけ」
「今でも歯医者は嫌いでしょ」
「大嫌いだ」
ふふふふふ。
はっはっはっは。
ふたりの笑い声が家中の壁に跳ね返ってぐおんぐおんと大きくなった。
「よし、今日から僕がユウの教育係だ。遊ぶだけじゃなくてちゃんと勉強も教えてやる」
「かおりと取り合いしないでね」
「かおりなんてだめだ。適当にじゃれ合っているだけじゃないか。遊び方も一方的で下手くそだ。やっぱり男同士じゃないとだめなんだな」
浩は再び歯ブラシを持ってユウを追いかけ始めた。
「おーい、ユウ。今日から僕の言うことを聞くんだ。かおりとは絶交しろ。僕の言うことだけを聞くんだぞ。分かったか、ユウ」
しばらくしてかおりが帰ってきた。この日は朝から友達と人気アニメ映画を見に行ったのだ。キャラクターそっくりの衣装を着て映画の後のイベントにも参加してきた。バンダナ、リボン、アイマスク、ハンカチ、スカーフ、ブレスレット、キーホルダー。買ってきたグッズをテーブルの上に広げ、あたしアニメの声優になりたいと興奮している。
「かおり、ちょっと話があるんだ」
浩はそばに寄った。
「ひろ兄ちゃんも見に行ったらいいわ。感動するわよ」
「かおり、ユウのことなんだけど」
ユウと聞いてかおりは敏感に反応した。
「ユウに何かしたの」
一瞬にしてスイッチが切り替わった。真顔で浩を見つめる。それからテーブルの上の歯ブラシに気がつくとすべてを承知したかのようにふふ~んとのどを鳴らしてまた浩を見つめ直した。
「それでちゃんと磨けたの」
「嫌がって口を開いてくれないんだ」
「よかった。あたしも苦労してるのよ。ひろ兄ちゃんがさっさと磨いたらあたしの立場がないものね」
かおりは歯ブラシを小刻みに震わせながら、あたしがこうやって磨いてあげるからひろ兄ちゃんなんか相手にしないでねと言った。ひろ兄ちゃんにやられたら口の中が血だらけになるわよ。
「ならねえよ」
「ばい菌がいっぱいたまってすぐに虫歯になるわよ」
「ならないって」
「嫌だったらかみついてもいいのよ。警察呼んでもいいのよ」
「かおり、そんなこと言わないで一緒にユウの歯を磨こう」
「いやよ。あたしがひとりでやるわ。あたしの弟なんだから」
「僕たちの弟じゃないか」
「あたしひとりの弟よ」
かおりは歯ブラシを持ったまま二階と一階を行ったり来たりしてユウを探した。風呂、トイレ、押し入れ、納屋、キッチンの棚、靴箱、床下そして庭に置いてあるポリバケツの中まで。けれどなかなか見つからない。
リビングが少し暖かくなってきたのはかおりが動き回っているからだけではなかった。ユウの椅子に陽だまりができてまるで呼吸をしているかのようにぽくっぽくっと膨らんでいる。
「なんだ、ここにいるんじゃない」
庭から戻ってきたかおりはほっとしたように隣に座った。

 浩は一日に一時間だけユウと遊ぶことに決めた。時間をやりくりしなければならず、その分勉強に集中することができた。たいがいは勉強が終わってからの深夜になるのだが、かおりにも気を使ってなるだけ荒々しいことは控えた。相撲や怪獣ごっこは我慢した。それでもかおりに追いつきたい一心で、かるた、お絵かき、積み木、風船、しりとり、折り紙、てまり、あやとり、もぐらたたきとなんでも詰め込んだ。かおりが先に教えたことを繰り返し教えるのはしゃくにさわる。だから文字を読ませることはしなかった。五歳にしてはもう十分覚えていた。それがまた腹立たしかった。積み木も本当はしたくなかったが、ユウがやりたいというので仕方なかった。三角形の使い方もいつのまにか学習していてひとりで屋根つきのそれらしい家を作り上げた。手伝おうとすると怒った。浩はもっと他のものも作りたかったが、ユウは家にしか興味がないようだった。機嫌を損ねてはいけない。せっかくなついてきたのだ。かおりにはかなわないなと思いながらも浩はユウといる時間を楽しんだ。
ある夜のことだった。勉強がひと段落したので浩はユウを探した。いつもはかおり部屋にいるのだが、時々ぽつんとダイニングの自分の椅子に座っていることがある。この日もそうだった。薄暗い中で座っていた。
ユウ、と声をかけた。反応がない。
近づいてみて驚いた。完全に固まっているのだ。顔からは生気が消え失せ、まるで置き去りにされた男の子の人形のように寒々しくそこに座っていた。
ユウ、どうしたんだよ。
呼びかけずにはいられなかった。何度も呼びかけて顔を近づけた。しかし目を合わせてくれない。遊ぼうと誘っても乗ってこない。そればかりか全身から水気が抜けてざらついた感じになり、顔にはひび割れが走って今にも崩れ落ちそうな古い地蔵に化けようとしていた。
ユウ、何をしてるんだ、ユウ。
必死に叫んだ。
何をしてるんだ。どこへ行くんだ。
ユウ、戻ってきてくれ、ユウ。
すると足の裏が床から離れ、体がふわっと浮き上がるのを感じた。叫び声のひとつひとつが固まったまま目の前で漂っていた。ユウには届いていなかった。それでもなお叫ぼうとすると声のかたまりは次々と床へ落ちて砕け散り、みるみるうちにかさを増してリビングの中のものを飲み込んでいった。
椅子が飲み込まれていった。テーブルが飲み込まれていった。窓も飲み込まれていった。
もう声が出ない、苦しいと思ったその時、ローカ側のドアが開いて敏子が現れたのだった。
豆電球の明るさの中、敏子はぼさぼさの髪の毛をいじりながら、
「こんな時間になにしてるのよ。目が覚めたじゃないの」
とテーブルの脇をなぞるようにして浩に近づいてきた。
浩はすとんと床に足をつけた。体重が戻った。
なんだ、椅子もテーブルも窓もそのままじゃないか。
でもユウはいなくなっている。
「ユウと話をしてたのね。楽しそうな声が聞こえてきたわ。でもね、あまり夢中になっちゃだめよ。ユウだって疲れるわ」
「うん、分かってる」
浩は落ち着きを取り戻した。すると急に恥ずかしくなり、持っていたハーモニカを後ろ手に隠した。今夜はユウと一緒にハーモニカを吹こうと思っていたのだ。この前ホイッスルを渡したら面白がって何回も何回も吹いていたのでハーモニカならもっと喜ぶと思った。見本にちょっと吹いてやったら興奮して抱き着いて来るに違いない。よしこれで一気にかおりとの距離を縮められる。そう思ったのだ。
今夜はあきらめなさいと言われても浩は納得できなかった。かおりもどんどん新しいことをやってユウの気を引こうとしている。遊べるときに遊んでおかないとだめだ。次の機会なんてやってこないかもしれない。ユウは突然いなくなってしまう。そういう存在に思えた。
浩は二階へ戻ってかおりの部屋をノックした。
「おい、まだ寝てないんだろ」
ハーモニカを口元に用意した。
「ちょっと頼みたいことがあるんだ」
しばらくしても反応がないので、よしとばかりにドアを開けると、かおりは部屋の真ん中で背中を丸めて座っていた。大事そうにタオルケットを抱きかかえている。
首だけひねってにらみつけてきた。
「出ていけ」
その声は老婆のしわがれた声だった。
「何しに来たんだ、出ていけ」
そう繰り返してますます体を丸くしていった。敵からわが子を守ろうとしているかのように。
「ちょっとだけユウと遊びたいんだ」
浩はおだやかに声をかけた。
「いやだ」
「ちょっとだけでいいんだ」
「いやだ」
「ひとりじめするなよ。かおりだけのものじゃないだろ」
「あたしだけのものだ。あたしだけの弟だ。あたしが育ててるんだ」
「ばかな芝居はよせ」
虫歯のことはかおりにまかせた、もう追い回したりはしない、歯ブラシも変えていい、好きにしてくれ、だからちょっとだけ。
浩はタオルケットをのぞき込もうとする。するとかおりは、くるくると体を回転させながらますます強くタオルケットを抱きしめる。
「だから頼むよ」
浩は情けない声を出した。いまさっきユウのまぼろしを見たばかりだからどうしても遊びたいのだ。
「いや、いや、いや」
「少しだけでいいんだ」
「今日はもう寝てるから」
「三十分だけ」
「しつこいわね」
かおりがあっかんべーをした。その拍子に手が離れ、膝の上で丸められていたタオルケットがはらはらと床に広がっていった。
よこせ、と浩はタオルケットに覆いかかる。
やめて、とかおりも抵抗する。
力勝負ではかなわない。
かおりはとっさに部屋を飛び出し、階段の上から一階に向かって、
「お母さん助けてー」
と叫んだ。敏子を味方につけようと思ったのだ。
「ユウが死んじゃうよ、助けてー」
浩もすぐにやってきた。
「お母さん、大丈夫だ。かおりの一人芝居だ。心配ない」
階段の一番上でふたりはもみ合いになった。「返してよ」「だめだ」「返してよ」「だめだ」
かおりはタオルケットの端をつかんで強引に奪い返そうとした。
それがだめだと分かると今度は全体重をかけて浩の腕にぶらさがった。
浩の体が大きく傾いた。チャンスだった。
手首にかみついた。
「痛い!」と一瞬浩がひるんだ。
タオルケットがふわっと宙に浮いたのをかおりは見逃さなかった。ここぞとばかりに浩の腕の中へ飛び込んでタオルケットを奪い返そうとする。
ふたりの体が壁にぶつかって大きな音を立てた。
だが次の瞬間にはもうタオルケットはふたりのどちらの腕の中にもなくて、階段の一番上から転げ落ちていくところだった。
ギャー。
ヒェー。
叫び声とはうらはらにタオルケットは丸まったままころんころんとかわいらしく階段を落ちていく。
ぼてん。一番下で止まった。
浩とかおりは慌てて階段を下りた。同時に一階からは敏子がやってきた。
「いい加減にしなさいって言ったじゃないの」
少しだけ怒っている。先ほどよりももっと乱れた髪で、もっと眠そうな顔でふたりを代わる代わるながめると、ふたりが何か言いだす前に転げ落ちてきたタオルケットをやさしく両手で抱え上げてダイニングテーブルまで運んで行った。

 敏子はこの日もひとりで洗濯物を干した。朝の洗濯はかおりの役目ということになっていたが毎日さぼっている。ぎりぎりまで寝ているから時間がないのだ。
梅雨に入って寒い日が続いていた。だらだらとした長雨で洗濯物が乾かない。雨の日は応接間が干し場になるのだが、六畳一間では全くスペースが足りなかった。文雄が生きている時は来客用としてそれなりに使っていたが文雄が死んでからは物置になってしまった。いったん物を置き始めるとみんな自分の部屋からいらないものを持ってくるのであっという間に狭くなった。ビニールテープで縛りつけられた少年マンガとDVDの詰まった段ボール箱は浩の部屋からやってきた。スキー板、アイスシューズ、鉄アレイ、腹筋マシーンは洋一の部屋から。木琴、ウクレレ、タンバリンなどの鳴り物はかおりの持ち物。
湿気の多くなった部屋からローカへ出ると立ちくらみがした。寝不足が原因なのは分かっている。その寝不足の原因も分かっている。
何回も何回もあくびをしているうちに三和土の隅に真新しい女物のショルダーバッグが置かれてあるのに気がついた。見慣れないものだった。我が家のものではないということはその形状からすぐ判断できた。丸い。指で弾けばどこまでも転がっていきそうなほどに丸い。そして軽そうだった。光沢のあるシルバーが軽みを出している。肩ひもは竹のようにぴんと伸びていて、それがまたよけいにその宇宙船のようなバッグを軽く見せていた。真ん中にチャックがなければ鞄だとは分からない。オブジェのようだ。
昨夜敏子が戸締りをした時にはなかった。そのあと洋一が帰ってきたはずだった。
敏子は階段に目を移した。二階の洋一が気になったのだ。
浩とかおりがユウの取り合いをしなくなり二階のドタバタがなくなったので敏子は少しさびしくなっていた。ユウが可愛がられていると自分も可愛がられているように感じていた。ユウが追い回されていると自分も追い回されているように感じていた。もっとユウと遊んでほしかった。もっとユウとじゃれあってほしかった。
どうしたんだよという声が聞こえた。
あたしをひとりにしないでほしい。さびしくさせないでほしい。
何をぼーとしてるんだよ。
両手で肩をつかまれた。抱きしめられると思った。抱きしめられたい。抱きしめて欲しい。心の隙間を埋めて欲しい。
ぐらっと体が傾いた。そのまま洋一にもたれかかった。
気がつくとリビングに座っていた。自分の腕を枕にして少し眠ったようだった。コップ一杯のお茶が目の前にあった。
「なんだか疲れてるみたいだな」
洋一の声を近くに聞いた。
「仕事休んだ方がいいぞ」
「うん」とうなずいた。
気持ちが落ち込んでいる。何もしたくないし何も考えたくない。ただひとりぼっちだという寂しさに襲われているのだ。ユウが家族の一員となってにぎやかになったはずなのにさびしくてたまらない。
今朝も浩は、「やばい、遅れる」と叫んで朝ごはん抜きで慌てて家を飛び出した。そのあとかおりも腫れぼったい顔のままロールパンを少しかじっただけで家を出て行った。空気が舞っているのはまだそのあわただしさの余韻が残っているからだろうか。
敏子は会社に欠勤の電話をした。すると途端に力が抜けて再びテーブルに突っ伏した。この姿勢が一番楽なのだ。
「亜紀さんとはうまくいってるようね」
窓の外をぼんやりながめながらあてずっぽうのようにつぶやいた。
「何の問題もないさ」
洋一からは力強い返事が返ってきた。
敏子はこれまで三回ほど亜紀と顔を合わせている。合うたびに洋一にぴったりだと思う。ヨーロッパの古い街並みが似合いそうな上品な香りがした。風をまとってさっそうと現れ、いつも美しく輝いていた。
玄関に置いてあるシルバーのバッグを思い出した。亜紀に似合う。
「あんたって商売に向いているのかしら」
「向いているさ。都会のど真ん中でセンスのいい商売をするんだ。俺にぴったりだ」
また力強い返事が返ってきた。
「でも潰れそうなんでしょ、亜紀さんの会社」
「やり方が下手なんだよ。俺が変えてやるさ。今の時代、店を構えていらっしゃいって待ってたってそうそう買いに来てくれるもんじゃない。ましてや職人仕上げの高級品だ。高級品には高級品の売り方がある。売れないからって安物作って日銭をかせごうとしたらブランドがだめになってしまう。逆に敷居を高くして金持ちだけを相手にするんだ。おやじさんには何度も言ってやったんだけど従業員の生活があるからって冒険しないんだよ。職人上がりのくせにプライドがないんだよな」
窓の外が明るくなった。洋一の自信満々な態度がリビングからあふれ出したようだ。
洋一とこうしてふたりだけで話をするのは久しぶりだった。毎日夜遅くに帰って来るし、朝はゆっくり寝ていた。日曜日は逆に朝早くから出かけていく。でもいつも身近にいると感じていた。望めば話し相手になってくれると思っていた。
「あんたはもうひとり弟が欲しくなかったの」
敏子の声はうつろに漂いユウの椅子まで届いて消えた。
「生まれてたら今五歳よ」
「五歳か。でも俺には関係ないね。浩とかおりが騒いでるみたいだけどそのうち冷めるさ」
「でも楽しそうじゃないの」
「俺は今どうして亜紀の会社を立て直していくのかそのことばかり考えてるんだ。絶対に成功させて俺のキャリアにしてやる。小僧たちのお遊戯に付き合ってる暇なんかないんだよ」
洋一はリビングを去ろうとした。
「ユウがあんたの部屋へ遊びに行ったらよろしくね」
敏子はそのうしろ姿に声をかけた。今度ははっきりとした声だった。
洋一は足を止めた。その声が毛穴から全身にしみ込んでくるように感じたのだ。
「だいぶ疲れているようだからしっかり寝ろよ」
その自分の声もまた全身に返ってきた。テーブルの端が気になった。ユウの椅子で何者かがもぞもぞと動いている。それが窓から差し込んでくる朝の光の仕業だと分かっていても、そこに何か大切なものが生まれようとしているように思えた。
「母さん、頼むから寝てくれ」
洋一はちょっといらいらしながら先に敏子をリビングから追い出した。

 亜紀が突然訪ねてきた。梅雨の晴れ間の日曜日。透けそうで透けない淡いグリーンのシャツに真っ白なスカートをはいてさっそうと現れた。ショルダーバッグはあの日玄関に置いてあったシルバーの宇宙船だ。腰のあたりで揺れている。
敏子がまず顔を合わせた。あらーっと両肩をつかんで久しぶりの再会を喜び、相変わらずきれいねと声をかけた。おせじではなかった。たしかにきれいだった。どんな髪型をしても、どんな洋服を着ても決まる。やはりヨーロッパの古い街並みが似合うと思う。
回りくどい挨拶は省かれた。亜紀はもちろん洋一に会いに来ているのだ。
敏子と入れ替わりに洋一が出てきた。
洋一は亜紀を見るなり、「な、な、なんなんだよ」と慌てた素振りで亜紀の体を玄関から遠ざけようとした。何しに来たんだよと言ってしまったのがいけなかった。亜紀の抵抗にあった。足を踏ん張って動こうとしない。家の中をのぞき込もうとする。
「今日に限って何よ。お客さんなの」
「そうなんだ。お客さんなんだ」
「誰よ」
「誰よって、だれでもいいじゃないか」
洋一は早口になっていた。
「メールしてから来てくれよ。びっくりするじゃないか」
「あら、いつ遊びに来てもよかったんじゃないの」
「それはまあそうなんだけど」
洋一の動揺を見透かすかのように階段の上から「よう兄ちゃんどうしたの」というかおりの大きな声が響いてきた。洋一はさらに慌てた。真顔になって亜紀を見つめる。
亜紀も真顔になっている。
「よう兄ちゃん、ユウが外で遊びたいって言ってるの。今日はひろ兄ちゃんいないし、あたしもこれからお友達と映画見に行くのよ。よう兄ちゃん代わってよ。今からユウがそっちにいくからよろしくね」
ユウという名前がとげとげしく聞こえた。
洋一は家の中へ飛び込んで敏子に頼んだ。ユウが外へ出そうになったら止めてくれ。二階へ連れて上がってくれ。かおりには大きな声を出すなと言ってくれ。亜紀には会わせないでくれ。
「いやあ、かおりのやつがちょっとおかしくなっちゃってね。時々変なことを口走るんだよ。それで困ってるんだ」
戻ってきた洋一はそう言いながら亜紀の体を持ち上げて強引に家から遠ざけようとした。しかしだめだった。地中に埋め込まれているようでびくともしない。
「かおりちゃんのお友達が来てるのね」
納得したような言い方だったが唇はとんがっていた。
「そ、そうなんだ。かおりのおとうとが来てるんだ」
「おとうと?」
「あ、違う違う、おともだちだ。かおりのおともだちが来てるんだ」
「だったらいいじゃない。会わせてよ」
「会わせてよって急に言われても」
「あやしいわねえ」
亜紀の顔が鼻先まで近づいてきた。
「頼む。今日のところは帰ってくれ」
洋一は頭を下げた。
亜紀は全然納得がいかないといった表情のまま一歩だけ後ろに下がって、今のうちヨーロッパで勉強してきたらどうだという父の意見を伝えた。費用は全部出すって言ってるわ。もちろんあたしも一緒よ。パリがいいかしら。ミラノがいいかしら。なるだけファッション性の高い街がいいわよね。バッグとのコラボなんだもの。
その話は以前洋一の方から言い出したことだった。今のうちに吸収できることはなんでも吸収しておきたいと申し出たのだ。
「ねえ、お父さんの気が変わらないうちに行っちゃいましょうよ。二週間ぐらいでどうかしら」
楽しそうに亜紀は言った。このバッグ評判いいのよ。どこで買ったの、高かったでしょうってみんな羨ましがってるわ。洋一さんのセンスね。あたし鼻高々よ。
バッグを揺らしながら洋一を見つめる。
ありがと、ありがと、ありがと。
洋一は心の中で答えた。声には出さなかった。その余裕がない。今にもかおりが飛びだしてきて亜紀を家の中へ連れ込むんじゃないかとひやひやしている。
パリ、ミラノ。どっちでもいい。行かせてもらおうじゃないか。亜紀、そのバッグはそう宇宙船のイメージなんだぜ。宇宙船が重力に負けないで地球をさまよう姿なんだ。どうだ、異星人になった気分だろう。空を飛びたくなってくるだろう。俺のオリジナル第一号だ。世界にひとつ。亜紀、似合ってるぞ。
必死に亜紀に話しかけようとしたが声は出なかった。今日ばかりは早く立ち去ってくれないかと思っている。
「その話はまた次の時に」
なんとかニュートラルに言ったつもりだったが、亜紀にはイレギュラーに伝わった。
やっぱりなんかあやしいわと二階を見上げるなり、
「かおりちゃ~ん」
と声を張り上げた。
かおりの部屋の窓ががばっと開いた。そこから体を乗り出してかおりが手を振る。
「あ、あ、あ、あ、頼む、今日のところは帰ってくれ。事情はあとでゆっくり話すから」
洋一は亜紀の両肩を強く押そうとしたが押しきれない。亜紀さ~んというかおりの声が強力な磁気となって亜紀を引き付けている。
「一緒に遊びましょうよ」
窓から落っこちそうになりながらかおりは手招きをしていた。早く早くとばかりに高速の手招きだ。
「誰と遊んでるのよ」
「ユウ!」

 洋一は勢いよく上半身を起こしてあたりを見回した。こんな目覚め方をするのは初めてだった。興奮している。バッグのデザインが思い浮かんだ時以上に興奮している。
すぐにユウを探した。
昨日、強引に亜紀を帰らせた後、かおりの部屋でユウと遊んだ。かおりが映画を見終って帰って来るまでの間、積み木やトランプ、腕相撲、プロレスごっこなどをして過ごした。こんなに楽しいとは思わなかった。かおりや浩が夢中になるのもよく分かった。遊び相手になっているという感覚ではなくて、ユウが自分の中へ入りこんできてこちらを楽しませてくれるのだ。くすぐったくてむずがゆくて、しびれっぱなしで鳥肌が立つ。気がつくと恍惚となっていた。自然に声も出た。
ユウ、そのまま角を合わせて丁寧に積み上げていくんだ。今までで一番大きなおうちを作ろう。
ユウ、ジョーカーは一番強いんだから最後まで持っておくんだ。え、なんだって、顔が怖いって。はははは、それがジョーカーだよ。
ユウ、サッカーが好きなんだってな。今度一緒に公園へ行こう。俺が教えてやる。俺が教えてやるよ。
ユウ、どこへ行くんだ。もっと遊ぼう。
ユウ、
ユウ。……
あたりを見回してユウがいないと分かると、立ち上がって部屋を出た。
かおりの部屋をノックする。もう学校へ行っていると分かっていたが、一応ノックしてからドアを開けた。
おもちゃが散乱していて床が見えなくなっていた。昨日この部屋でユウと遊んでいた時はこんなに散らかってなかった。トランプを並べたり床を転げまわったりするくらいの空間はあった。それなのになんだこれは。ただ遊んだらいいってもんじゃない。片付けをしてはじめて遊びは終わる。そういうもんだろう。
かおりにまかせておいてはだめだと洋一は強く思った。ユウのためにはならない。ユウには無限の才能がある。昨日の数時間でよく分かった。俺にまかせておけ。英才教育で立派に育ててやる。末は博士か大臣だ。ああ、それにしてもユウはあのあと夜遅くまでかおりと遊んだんだな。俺とでは遊び足らなくてその分かおりと盛り上がっていたんだ。悔しい。腹が立つ。
洋一はかおりの部屋を出てとなりの浩の部屋に入った。ユウに関係するものは何もなかった。受験勉強に集中しているようだ。
階段を下りてリビングに行った。ここがユウの原点だった。
風がやってきた。ユウの椅子にからみつく。次の風もまた同じようにユウの椅子にからみつく。からみついてからみついてそれはやがてもぞもぞしたものになり、ふにゃふにゃしたものになり、しゅわしゅわしたものになり、形が定まらないまま膨らんだり縮んだりを繰り返しながら椅子の上で模様を作り出していくのだった。
すぐに曲線が現れた。丸いところ、とがったところ、へこんだところ、くびれたところ。
色が付き始めた。薄紅、水色、黄土色、乳色。
模様は次第に質感を蓄え、何かがいると感じさせた。命の気配だ。そのまま呼吸が始まったようだ。
誰かが椅子に座っている。こちらを向いて微笑んでいる。
もう呼びかけるしかない。
「ユウ!」
風が一気に強まった。リビングがその風に満たされてぱんぱんに膨れ上がった。
まぶしい。
でも心地よかった。床にたまったほこりがするすると横滑りしながら空中へ舞い上がり、いくつもの銀河を走らせた。朝の光はいまここに新しい世界があることを知らせようとしていた。
「ユウ、きのうはありがとう。これから俺もよろしくな」
そう呼びかけて洋一は新しい世界の扉に手を伸ばした。ユウに近づき、ユウを抱きしめようと思った。
その時、ローカ側のドアが開いた。
「かわいがるのはいいけどほどほどにね。ユウも疲れるから」
湯呑み茶碗を持って敏子が現れた。ふらふらしながらユウの隣に座り、頭が痛いのよねとつぶやいた。病人メイクのような青白い顔は生気を失い、ため息ひとつが余力の限りを尽くしているようで痛々しかった。しわくちゃのパジャマが痩せ細った体をよけいに細く見せていた。
かげろうが漂っているようだと洋一は感じた。敏子の姿を借りたかげろうがぼんやり漂っているようだと。
「病院へ連れてってやろうか」
敏子が首を振ったので洋一は、じゃあいつもの鎮痛剤でも飲んでおけよと水屋の引き出しから薬袋を取り出して敏子の前にそっと置いた。そっと置かないと敏子が消えてしまいそうだった。
「浩にもかおりにも言ったんだけど、あまり遊び過ぎちゃだめよ」
かげろうの声があたりの空気を少しだけ震わせた。
「遊び過ぎて気持ち良くなったら休んでね。無理に付き合わなくていいのよ。ユウは毒を持ってるの。はしゃぎすぎたらあんたたちにも毒が回るわ。だからほどほどにね」
かげろうはまるでそこが遠い昔からの自分の定位置であるかのようにテーブルの上にのっぺりと広がっていった。

 梅雨が明けた。そして夏休みに入った。
ユウを連れて海水浴に行こうとかおりが言い出した。家の中で遊ぶことに飽きたから外へ連れ出したいのだ。ユウは男の子だから日焼けするべきだと理由を付けた。
浩もすぐに乗ってきた。この前の模擬試験で数学がかなり伸びていて総合成績で初めて志望校の合格ラインを越えた。平日のユウの相手を全面的にかおりにゆずり勉強に集中したおかげだった。十分に満足できる結果だった。だから自分自身へのほうびがほしかった。
日帰りで行ける海水浴場は一ヶ所しかないのでどこにしようかと迷う必要はない。行くか行かないかだけだ。車の運転は洋一しかできなかった。だから洋一を説得する必要がある。浩とかおりがふたりで頼みに行くと洋一はあっさりと了承した。いつでもいいぞということだった。
敏子だけは渋った。あんたたちだけで行ってきなさいよと言う。体調が悪いからではない。仕事があるからでもない。早く子離れしたいと思ってるの、落ち着いて考えたいことがあるの。そんなことを言って首を振り続けた。
結局海水浴には兄弟だけで行くことになった。
その日はおにぎりをたくさん用意して朝の七時に洋一の車で家を出た。片道二時間余りの車中はとてもにぎやかだった。
ユウはすぐに泳げるようになるわよとかおりが力説する。毎晩お風呂で鍛えてるから顔を浸けるのは大丈夫。息継ぎの仕方も教えたという。
ボートを借りて沖へ出ようと浩が言う。
「ユウは海が似合うと思うんだ、海の真ん中で真夏の太陽を浴びて金色に輝くってかっこいいじゃないか」「ひろ兄ちゃんってけっこうロマンチックなのね。ガリ勉だと思ってたけど」「ユウのおかげで目覚めたんだ、大学に入ったらヨット部に入る」「ヨット?」「そうヨットだ、ユウを乗せて大海原へ出航だ」「あたしも連れてって」「だめ」「どうして」「かおりは泳げないだろ」「泳げるわ」「ビート板につかまってばたばたしてるだけじゃないか」「それってずいぶん前のことでしょ。今はちゃんと泳げるわ」「見せてもらおうじゃないか」「見せてあげようじゃないの」
窓を全開にして国道を一直線に走った。時々現れる道路標識は確実に目的地に近づいていることを知らせていたが、景色はほとんど変わらなかった。大きく区切られた田んぼには緑色の稲が同じ方向に背を伸ばしていた。葉物を敷いた畑も緑が美しかった。田畑の中に点在する一軒家と倉庫。トラクター、稲刈り機、リヤカー。それらはあっという間に後ろへ飛ばされていく。道は山が近づくにつれてゆるやかなカーブになり、遠ざかるとまた直線に戻る。荒れ放題の草むらを横切るときはむせかえるほどの草いきれがどっと流れ込んできた。
みんながおにぎりを食べ始めるとさらににぎやかになった。時々びゅーんとスピードが上がるのは洋一のいたずらだ。かおりは喜んだ。もっともっととスピードアップをせがむ。
海水浴場は雑木林に囲まれた狭いところにあった。洋一も浩もかおりも初めてではない。だれかに連れられて来た記憶がある。でもそれが誰と一緒だったのか、いつだったのかは思い出せなかった。三人が別々の記憶を持っていてひとつにまとまらなかった。
駐車場にはもうぎっしりと車が並んでいた。駐車場といっても出入り口があるわけではなく、駐車スペースが決められているわけでもなかった。土地の所有者がこの季節だけ無料で開放しているただの空き地だった。誘導員もいないため一台がアンバランスな止め方をするとそこから列が乱れて全体のバランスが崩れてしまう。いくつかある駐車場のどれもがそんな感じだった。
三人は車を降りて雑木林の隙間から砂地へ出た。そこはまるで水晶でも散りばめてあるかのように太陽の照り返しでまぶしく輝いていた。色とりどりのパラソルが開き、その下には海へ向かってデッキチェアーが並んでいた。ビニールシートは風にあおられて砂の海に泳いでいる。バーベキュー、ビーチバレー、おいかけっこ。笑い声はみんなふはふはと漂って気体に変わっている。
水際のなだらかな曲線はどこまでも伸びていた。そのはるか先の曲線を見失うあたりからは半透明のさざ波が光り立ち、少しずつ幅を広げながらゆっくりとこちらへ向かってやってくるのだった。
三人の記憶が一致した。父と母に連れられて一度だけやってきたことがある。父の運転だった。途中浩が車酔いをしてしまった。かおりは水を怖がってなかなか海へ入ろうとしなかった。ようやく膝まで浸かったところで泣き出してしまった。洋一は遠泳を楽しんだ。遊泳禁止のブイを無視してかなり遠くまで行ってしまい、回りを心配させた。十年ほど前のことだった。
砂地をしばらく歩いていると足が砂の中にめりこんで歩きにくくなってきた。さらさらの砂だった。風が吹くたびに足跡は消されていく。なかなか前へ進まないと感じるのは砂地の模様が少しずつ変わっていくからだ。
適当なところにパラソルを立てて場所取りをしてから脱衣場へ向かった。何軒かの海の家が座敷を広げて営業していたが客はひとりもいなかった。どの店も雑木林の陰になっているので薄暗く、ゴザ、テーブル、看板、メニューのどれもが使い古したもので不衛生に感じられた。屋台の鉄板にはビニールシートがかけられてあるし店の人がどこにいるのかも分からない。
「たしかあの時はみんなで焼きそばを食ったんだよな」
洋一は浩に確かめたが、浩は首を振った。
「おにぎりだった。今日みたいにたくさんおにぎり持ってきて砂の上で食べてた」
「そうだったか」
「お父さんが作ったやつとお母さんが作ったやつが全然違ってたんだ。お父さんのはでかいんだよ。とにかくでかい。でも中になにも入ってない。お母さんのはサンドイッチみたいに中にいろいろ入ってるんだ。断然お母さんの方がうまかったよ」
「そうだったかなあ」
洋一は首をかしげながらかおりにも視線を送ったが、かおりが覚えているはずはなかった。まだ二歳だった。
そのかおりがあっと叫んであたりをきょろきょろ見回した。
「ユウがいない。ユウがいないよ」
両手に持っていた荷物を地面に落として雑木林の中を走り始めた。
「ユウ! ユウ!」
かおりの甲高い声が雑木林を駆け巡る。
「ユウ!」
「ユウ!」
ひと回りして戻ってくると勢いよく洋一と浩の腕を引っ張った。
「何してるのよ、ユウがいなくなったのよ、探してよ。あたしはこのあたりを探すからよう兄ちゃんは駐車場、ひろ兄ちゃんは砂浜を見てきて」
泣きそうな声になっている。
「アイスクリーム食べてからにしよう」
浩がのんびりと言った。
「何ばかなことを言ってるのよ。早く早く」
かおりはいらついた様子で足踏みを繰り返した。
「俺はバニラだ」
洋一ものんびりと言った。
「何言ってるの。ユウが迷子になってるのよ。おぼれてるかもしれないのよ。誘拐されたかもしれないのよ」
「それじゃあ、僕もバニラにしようかな」
浩の声があまりにも間延びしていたのでかおりは「ひろ兄ちゃん!」と怒鳴った。
「ユウは抹茶でいいんじゃないか」
洋一の声もまた間延びしていた。
「あいつ抹茶って感じだもんな」
「抹茶だ、抹茶だ」
「他にないだろう」
「絶対抹茶だ」
そしてふたりがかおりに向かって「おまえはストロベリーだよな」と声を合わせた時、一番近くの更衣室のドアがゆっくりと開いた。

 ユウの海水パンツを選んだのはかおりだ。金色はさすがに目立っている。砂地を歩けば砂を光らせ、海に入れば海を光らせた。
かおりが言った通りユウは水を怖がらなかった。顔を浸けることも出来たし立ち泳ぎで前へ進むこともできた。波打ち際ですばしっこく泳ぐ小さな魚を見つけては両手を突っ込んで捕まえようとした。だれかが手伝おうとすると必死に拒んだ。最後まで自分でやりたいのだ。砂の上に寝転がるのも好きだった。体中を砂だらけにして海で洗い流し、また砂だらけにして海へ入る。同じことを何回も繰り返して喜んでいた。ビーチボールの上でバランスを取ることを覚えるとそれをまた何回も繰り返した。
かおりはまだすねている。ユウがいなくなったのは更衣室でひとりで着替えていたからだった。洋一も浩もそれを知っていたのに教えてくれなかった。自分ひとりが必死になってユウを探していた。だまされただまされたとすねている。ストロベリーのアイスクリームだけが品切れになっていたことも気に食わなかった。
「そろそろ昼飯にしよう」
洋一が声をかけた。
「あたしいらない。ユウと遊ぶから」
「ちょっとは休ませてやれよ。海に入りっぱなしじゃないか」
「これから目を開ける訓練をするのよ。お風呂じゃ出来てたのにここじゃぜんぜんだめなんだもん」
「嫌がってるじゃないか」
「嫌がってないわよね。目を開けてちゃんとお魚捕まえるんだもんね」
かおりはテーブルに置かれてある幼児用の麦藁帽子に向かって話しかけた。そして「さあ行くわよ」と浮き輪を腕に引っ掛けて海へ走って行った。
洋一は日焼けオイルを全身に塗ってデッキチェアーにねそべった。亜紀を連れてきてもよかったかなと思った。かおりの暴走を見張る役目にぴったりだ。亜紀だったらユウの面倒もみてくれるだろう。日焼けなんかしたら街を歩けないわと言いながらもほどほどに付き合ってくれるだろう。そうだ、来年春のキーワードは「軽み」だ。麻が流行する。麻の肌触りに会うようなバッグが求められるはずだ。しなやかさ……見た目の自己主張は抑えた方がいいだろうな。ポケットは内側にまとめよう。ファスナーやフックも隠した方がいい。底だけ頑丈にしてあとは自然にしわが寄るくらいがいい。物をたくさん入れるんじゃなくてあくまでもアクセサリーとして持ってもらう。パーティー用として……。夏が好きだ。おやじも夏が好きだった。そういえば日焼けサロンなんかに行っておふくろのひんしゅくを買っていたな。酒もギャンブルもやらないから時間があり余ってたんだ。だから休みの日でも朝早くから車を走らせてどこかの道の駅でうまそうな魚を買い込んだりしてた。それがまた大量に買って来るもんだからおふくろ困ってたな。趣味といえば車に乗るぐらいだったかな。たしかに運転はうまかった。あれはいつだったっけ。急に雷が鳴って土砂降りの雨になって回りが真っ暗になった時があった。でも大渋滞の中をおやじは対向車線をうまく使ってするするっと抜けてった。あの時ばかりは拍手喝采だった。相当自信があったんだな。……そうだ、たしかあの日もどこかの道の駅で新鮮な魚を買い込んで帰って来る途中だった。急にバイクが前を横切ってきた。慌ててハンドルを切ったけど間に合わなかった。車体が横向きになってそこへ大型トレーラーが突っ込んできて吹っ飛ばされた。桜が舞っていた。……
キャーという叫び声が記憶と現実の両方から聞えた。
洋一は目を開けた。まぶしい。これが現実だった。まぶしく光る砂浜の上をかおりが前のめりになって走って来るのが見えた。
「キャー、助けてー。よう兄ちゃん、ひろ兄ちゃん助けてー」
金切り声で叫んでいる。転ばないように両手でバランスを取りながら、叫ぶときだけ顔を上げて必死に近づこうとしている。でもなかなか近づいてこない。スローモーションのようだ。
ようやく洋一たちの前に来たときは叫び疲れたのか走り疲れたのか、シートの上に倒れ込んでしばらく息を整えていた。ユウが流されたのよ、それだけ言うのが精いっぱいだった。
「かき氷買ってこようか」
寝転んで音楽を聞いていた浩がヘッドフォンを外してかおりに声をかけた。
「ユウを助けてよ、流されたのよ」
「かき氷食ってからでいいじゃないか」
「ばか、何言ってるの」
かおりは泣きそうな顔で洋一に助けを求めた。
洋一は立ち上がっていた。かおりの指さす方向を確認すると笑顔でうなずき、大股で歩き出したかと思うとすぐに駆け足になり、そのまま勢いよく頭から海へ飛び込んでいった。
浩も起き上った。バスタオルと麦藁帽子を持って、洋一のつけた足跡をなぞるようにゆっくり波打ち際へ近づいて行った。
遊泳禁止のブイまでは百メートルぐらいしかない。往復するにはちょうどいい距離だ。みんな自分のペースで泳いでいる。波が来たら波に流され、横風が来たら横風にあおられてのっぺりと泳いでいる。
かおりは水際に座り込み、指先で波を弾いた。
「最近お母さん変だと思わない」
気になっていることを口にした。
「うん、変だと思う」
となりで浩が答えた。全く化粧をしなくなったこと。頭が痛いと言い続けていること。リビングのテーブルに突っ伏して寝ていること。ビールばかり飲んでいること。ふたりは多くの共通項を持っていた。その中でも特に「ごめんなさい」と謝ってばかりいることが気がかりだった。だれに謝っているのか分からない、何に謝っているのかも分からない。食事中も謝っている。布団の中でも謝っている。時には涙ぐんで謝っている。謝りながら笑いだすこともある。
そういえば少し前から変だったなとふたりは確かめ合った。その少し前がいつなのかははっきりしなかった。
気温はぐんぐんと上がり、砂浜も海もますますまぶしさを増していった。
「大丈夫かしら」
かおりは打ち寄せる波を手のひらで強く押し返して言った。洋一がなかなか戻ってこない。沖へ泳いで行ったきりだ。
ユウに平泳ぎを教えようとしていたのだった。かえるみたいに泳ぐんだよというと、分かったと言ってすぐにがに股で水を蹴った。飲み込みが早かった。少し前へ進めるようになるとひとりで泳ごうとした。そして遠くへ行こうとした。すぐに足は届かなくなり、慌てて戻ろうとしたところへ大きめの波が来た。ふわっと体が浮き上がった。ユウは大喜びだった。しばらくするとまた適当な波がやってきて、今度は浮き上がったところで体が回転した。一瞬ユウの体が波に消えた。かおりはもう絶対に戻ろうと思った。波が来るたびに沖へ流されていくのが分かった。ユウは次の波が待ちきれないとばかりに遠くの白波目指して泳ごうとする。
「キャー」
かおりの悲鳴が沖をつんざいた。
「キャー」
かおりは立ち上がってバシバシと水際を走った。
「よう兄ちゃんが戻ってきた。よう兄ちゃんが戻って来たよ」
かおりが手を振るその先には小さな水しぶきが立っていた。その水しぶきは影を伴っていた。まだ遊泳禁止ブイのはるか先ではあったが、かおりの目にははっきりとその影が洋一のものだと分かった。時々背中を見せながら悠然と泳いでいる。自信たっぷりに泳いでいる。よう兄ちゃんだ。
かおりは胸のあたりまで海に浸かり、今度は「ユウ! ユウ!」と叫んでさらに大きく手を振った。洋一の影のすぐ横にはほんのわずかな、ピリオドぐらいの黒点があった。あまりに小さく、砂浜からは確認できるはずもなかったがかおりにはそれも分かっていた。ユウが泳いでいる。洋一と並んで泳いでいる。波に任せて気持ちよさそうに。洋一を頼って満足そうに。
「それ以上行ったら危ないぞ」
浩が後ろから声をかけた。
「かき氷買ってこようか」
「うん、あたしはストロベリー」
「ユウは抹茶だよな」
「うん、あいつ抹茶って感じだもん」
そう言ってかおりは笑った。

『ヨーロッパ旅行はパリに決めました。十日間の予定。日程を調整しましょう。今から家に行ってもいいかしら』
亜紀からそんな内容のメールが届いた。洋一はすぐ、『OK。いちいちメールしてこなくてもいいよ、好きな時に来てくれれば』と返信した。
すぐに亜紀がやってきた。薄緑のワンピースは細い波型のラインで腰のあたりにアクセントをつけていた。髪はアップにしてつばの広い帽子を斜めに乗せている。バッグはあのシルバーの宇宙船。涼しさを演出している。ワンピースの薄緑がそのまま影となって地面に落ちていた。
この前は門前払いを食らったので亜紀は一応メールしてからやってきたのだ。洋一と会うのはあの日以来だった。今日も家の前で拒否されたらどうしようかと心配していたが、いきなり洋一に腕をつかまれて家の中へ連れ込まれたので面喰ってしまった。リビングに通され無理やり窓側の椅子に座らされた。
「よく来てくれた。今日は亜紀に紹介したいやつがいるんだ」
洋一は上機嫌だった。そしていつになく落ち着きがなかった。よ~しよしよしとつぶやきながらせわしなくテーブルの回りを歩き回っている。一リットル入りのお茶のペットボトルを亜紀の前にどすんと置いて、まあ飲んでくれと勧めたがコップを忘れた。慌ててコップを持ってきて注ごうとしたら今度は勢い余ってあふれさせてしまった。
「紹介したい人って誰なの」
亜紀は尋ねた。お茶は飲む気になれなかった。向かいの椅子をなで回しながらにやにやしている洋一が気持ち悪かった。となりの部屋や二階を気にしながらそわそわしている洋一もどこか頼りなく思えた。普段とはだいぶ様子が違う。
「ねえ、紹介したい人って誰なのよ」
語尾を強めて洋一を急かした。ただじらされているだけで少しもわくわくしなかった。洋一は相変わらずにやにやしているし、その思いだし笑いの顔を突然近づけてくる。
「洋一さん!」
亜紀は叫んだ。叫ぶと同時に椅子から立ち上がった。
「なんなのよ一体」
洋一は機が熟したとばかりにリビングを飛び出し、階段の下から二階へ向かって「浩! かおり! 降りてこい」と声をかけ、戻って来ると今度は隣の部屋に向かって「母さん、ちょっと来てくれよ」と声をかけた。その間もずっとにやにやしている。
まず浩が降りてきた。勉強の途中だったのでめんどくさそうにリビングへ入って来たが、椅子の並びを見たとたんうんうんとうなずいて笑顔になった。「こんにちは」と元気よく亜紀に挨拶をしたあと適当な椅子に座り、洋一と同じようににやにやを始めた。
かおりは最初から笑っていた。「亜紀さん、今日からよろしくね」とテーブルを一回りしてから人数分のお茶を注いで椅子の前に置いていった。
一、二、三、四、五、六。
洋一、浩、かおり、敏子、そして自分。
あれひとつ多いんじゃないのと亜紀は思ったが、これから紹介される人の分なのだと思って納得した。
最後に敏子がやってきた。パジャマ姿だった。髪はばさばさで青白い顔。力なくふらふらと入って来るとすぐ洋一に抱きかかえられた。
亜紀は表情をこわばらせた。亜紀さ~んと茶目っ気たっぷりに抱き着いてきたこれまでの敏子とはまるで別人に思えた。口を半開きにして力なく微笑んでいるその顔には血の気がなく、死を連想させるほどに弱々しかった。
「こ、こんにちは」
亜紀は声を震わせた。
「おふくろは今ちょっと具合が悪いんだ。でも大丈夫。毒気が抜けたらすぐに元気になるさ」
洋一が代わりに返事をした。
網戸を通してさらっとした風が吹き込んでくる。八月末にしては随分と涼しい。
全員が座ってもひとつだけ空席があり、敏子、洋一、浩、かおりの四人はその椅子をながめてにやにやを続けている。だれも何も話そうとしない。ただ椅子をながめ、その椅子にまつわりついている風をながめ、そしてその風が淀んでいく様子を楽しそうにながめている。
カーテンがあおられた。
まぶしいと亜紀は思った。
「亜紀、紹介しよう」
洋一が立ち上がった。
「こいつが俺たちの一番下の弟だ。ユウっていうんだ。よろしくな」
表情を引き締めてそう言うと、空席の方へ顔を向けて、
「さあユウ、あいさつするんだ。できるだろう」
と促した。
「え?」
亜紀はとっさにショルダーバッグを胸に抱きしめて身構えた。紹介しようと言われても新しい人は誰もいない。リビングには敏子、洋一、浩、かおりと自分の五人がいるだけだ。なのに洋一は紹介しようとしている。空席に向かって挨拶するように促している。
「さあ、あいさつするんだ」
洋一は繰り返した。
「洋一さん、何をしてるの」
亜紀はまた声を震わせた。
「亜紀さん、ユウと一緒に遊びましょうよ」
今度はかおりが言った。
「誰なのよそれ」
「亜紀さん、ユウは真っ黒に日焼けしてるでしょ。この前みんなで泳ぎに行ったんですよ。楽しかったなあ」
浩が続けた。
「だから誰なのよ」
亜紀は三人の顔を代わる代わるながめてますます体を縮めた。
「亜紀、改めて紹介するよ」
洋一はテーブルをひと回りしてから誰も座ってない椅子の後ろで立ち止まり、
「ユウって言うんだ。俺たちの一番下の弟なんだ」
と力を込めて言った。
「亜紀悪かったな。この前来てくれた時に紹介しようと思ったんだけどばたばたしててできなかったんだ。かわいい奴だよ。ほら、見ての通りだ。最初は人見知りするかもしれないけどすぐに慣れてくるから大丈夫。慣れたらもうたまらないんだ。一緒にいるのが楽しくて楽しくて」
浩とかおりが必死にうなずいている。
「来年小学校なんだ。だから今みんなでいろんなことを教えてる。そうだ、亜紀も手伝ってくれよ。こいつ勉強も運動も抜群にできるんだけど後片付けができないんだ。遊んだら遊んだまま、勉強したら勉強したまま。次から次へと散らかして知らん顔なんだ」
「洋一さん……」
亜紀は泣きそうな声になっていた。
「ねえふたりだけで話をしましょうよ。ふたりだけで……」。
それだけいうのが精いっぱいだった。もう誰を見ていいのか分からない。どこを見ていいのか分からない。気持ち悪くて逃げ出したかったが足がすくんで動けなかった。
「ユウ、喜べ。ともだちが一人増えたぞ。大きいお姉さんだ。大きくてきれいなお姉さんだぞ」
洋一は椅子の後ろから両手を伸ばし、幼な子の両脇をかかえて持ち上げるような格好をしたまま亜紀の前までやってきた。
「はじめまして、ユウです。よろしくお願いします」
腹話術で幼い声を出しながら自分でペコッと頭を下げた。
「やめて!」
亜紀はバッグを頭の上へ振りかざした。
「ユウです。ユウです」
「キャー」
ショルダーバッグを投げつけた。洋一の胸に当たって落ちた。
ほおづえをついたまま静かに様子を眺めていた敏子がようやく口を開いた。
「亜紀さん、びっくりさせてごめんなさいね。これからユウをよろしくお願いします。遊び相手になってやってね」
しかしその目は亜紀を見ているのではなかった。どこも見ていなかった。見えるものを見ているのではなくて見えるはずのないものを見ている、そんなしずかなまなざしだった。
「みんなで仲良くね」
敏子は微笑んだ。
レースのカーテンが庭の方へ大きく膨らみ、リビングの中にわだかまっていたものが外へ流されていった。

 洋一、浩、かおり、ごめんなさいね。あんたたちに謝らないといけないことがあるの。聞き直してほしいことがあるの。ユウのことなの。ユウってかおりが名付けてくれたのよね。ありがとう、いい名前ね。あんたたちの一番下の弟。生まれて欲しかった。生まれて元気に育ってほしかった。生まれてたら今五歳。来年はそう、小学校ね。でも産めなかったの、どうしても。それはね、お父さんの子供じゃないからなの。今まで隠していてごめんなさいね。あんたたちがあんなにもユウと楽しく遊んでいるところを見てたらとても言い出せなかったのよ。最初は心配だった。ユウを受け入れてくれるかどうか不安だったわ。ふざけるな、ばかやろうって当然よね。でもみんなすぐに仲良くなってくれたわ。戸惑うくらいに仲良くなってくれた。もううれしくてうれしくて。今頃になったけれどお父さんのこと誤解のないように話しておくわね。お父さんはやさしい人だったわ。いつもあたしのことを思ってくれていたわ。どこかに行きたいって言ったらすぐに車で連れてってくれたし、何かおもしろいことしてよって頼んだら物真似なんかして笑わせてくれた。だれの物真似だと思う。町内の人の物真似よ。そんなことする人あるかしら。町内の役や月当番なんかも全部お父さんがやってくれたでしょ。そこで観察してたのね。似てるのよ、本当に。あたしがさびしそうにしてる時はどんなに夜遅くでも話相手になってくれたし、ひとりになりたいときはそっとしておいてくれた。お酒だって自分はほとんど飲まないのにあたしにはどんどんと注いでくれたわ。だから気持ちよく酔えた。けんかすることもなかったわね。だってけんかにならないんだもの。分かるでしょ。本当に幸せだった。夢見心地でいられた。でもね、そんな毎日でもふっと気持ちがどこかへ飛んでしまうことがあったのよ。最初は分からなかった。お酒のせいかなって。でもだんだん息苦しくなってきたの。変だなと思った。そわそわした感じ、いらいらした感じ、物足りない感じ、人恋しい感じ、そんなんじゃないの。全部違うのよ。そういうことだったらお父さんが解決してくれた。お父さんにすがればよかった。なんて言ったらいいのかしら。空気にはさまれてぺちゃんこになってしまいそうな息苦しさなの。実際に息苦しいんじゃないの、不安なの。とにかく不安なの。ちょっと風が吹いただけで体がぐるぐると回転しそうだったし、太陽に当たれば溶けてしまいそうだったし、影に入れば自分も影になってなくなってしまいそうな感じ。気が付いたらひとりで「怖い!」って叫んでたわ。怖い怖い怖い怖いって。お父さんに正直に言えばよかった。正直に言って助けてもらえばよかった。でもね、あまりにも今までとは違う自分になっちゃったんでどうしていいのか分からなかったの。だれにも知られたくなかったし誰にも迷惑をかけたくなかった。自分でなんとかしようと思ったの。……あたし悪いことをしたわ。一度だけ悪いことをしたわ。怖くて怖くて仕方なくて夜中にふらっと家を出てどこかの辻でしゃがみ込んでいたら、大丈夫ですかって声をかけられてついてったの。ただ怖いということから逃げ出したかっただけ。他には何も望んでなかった。でも間違ってたわね。ますます怖くなったんだもの。ますます逃げ出したくなったんだもの。それからお父さんの顔を見るのがつらくてうつむいてばかりいたわ。あんたたちの顔を見るのもつらかった。あの頃は生きてなかった気がするわ。息をするのもつらい感じだった。そんなときにお父さんがああいうことになってはっと目が覚めたの。怖いなんてあたしの単なる思い込み。息苦しいなんてあたしの単なる勘違い。一人芝居だったのよ。お父さんが分からせてくれた。……。産むことが出来たかもしれない。お父さんの子供じゃないって分からないもの。それこそあたしの単なる思い込み。産むことが、出来た、かも、しれない。そう、あたし大切に育ててきたのよ。お父さんに見守られながら大切に育ててきたの。一周忌、三回忌、七回忌。それでようやく今産むことが出来たの。五歳になったユウを産むことができたの。ありがとうね、仲良くしてくれて。ごめんなさいね、今まで黙っていて。ユウはあんたたちの、一番下の弟よ。

 ハンバーグ、ウインナー、フライドポテト、エビフライ。
メロン、バナナ、ヨーグルト、オレンジジュース。
みんなユウの好物だ。テーブルの上に並んでいる。大皿に盛られたサラダにはドレッシングがたっぷり。ユウが食べやすいようにしてある。
「はーい、お待ちどうさま」
敏子がイチゴとチョコのデコレーションケーキを持ってリビングに入ってきた。ろうそくが六本立っている。
「さあ始めましょう」
敏子の合図でリビングの電気が消された。
「あら」
「おいおい」
「忘れたわね」
「はははは」
再び明るくなった。
「ごめんごめん。俺の役目だったな」
洋一は苦笑いしながら六本のろうそくにライターで火をつけた。
「亜紀さんも来るんでしょ」
敏子が確かめた。
「ああ、ちょっと遅れるらしいけど」
「よかったわ。この前はあんなひどい状態だったから」
敏子はすっかり回復していた。この日のために押し入れの奥から二十数年前に買ったドレスを引っ張り出してきた。胸元がかなり開いている。文雄と結婚してから一年ほど社交ダンスを習っていたことを思いだしたのだ。着られたことがうれしかった。ただステップはみんな忘れていた。適当に回転していたら浩に止めてくれと言われた。
「ほおづえついてひとりごと言ってるよりこっちの方がいいでしょ」
「どっちも気持ち悪いんだよ」
「今日亜紀さんが来たらいらなくなった洋服をもらおうと思ってるの。いいものたくさん持ってるみたいだし。あたしと亜紀さんってスタイルが似てるでしょ。結構着られると思うのよ」
「げっ、全然違うと思うけど」
洋一は来月亜紀と一緒にパリへ行く。帰ってきたら亜紀の会社で働き出す。同時に家を出て一人暮らしを始める。
浩はぐんぐんと成績が伸びていた。もう数学の不安もなくなった。このままの調子で行けば志望大学への合格は間違いない。
かおりは本気でアニメの声優になりたいと思っている。DVDを見ながらいろんな声を出して練習している。ミュージカルにも興味を持ち出した。
「さあ、始めましょう」
敏子が再び合図を出した。
リビングの電気が消される。
一本一本のろうそくが自分の回りだけをゆらゆらと照らしていた。明りが重なっている部分にイチゴが揺れる。影の部分でチョコレートが揺れる。
「ハッピーバースデートュー、ユウ」
「ハッピーバースデートュー、ユウ」
そして今、ろうそくの炎が一気に吹き消された。

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