プラネタリウム開演のアナウンスが流れたときに、高志くんが現れた。
「ごめんごめん、道が混んでて」
見慣れない細身のスーツを着ている。その長身によく似合う。緑の作業着を着ている自分が恥ずかしい。キョロキョロとロビーを見回す。土曜でも夕刻の科学センターは空いていて、壁面に掛けられた日本人ノーベル賞受賞者たちだけが写真の中から好奇の目を向けていた。
「遅れるってメールくれたらよかったのに。そしたらロッカー行って着替えてきた」
「運転しながらメールできないよ。それに早紀ちゃんが仕事中だってことはわかってるんだし、べつに着替えなくてもいいよ」
そうか、この人は仕事中のわたしを訪問するつもりでスーツなんか着てきたのだ。仕事場を訪問する時は、身だしなみに気をつけて。
高志くんの生真面目さに口元が緩む。
「今日は早番だったから、もう仕事中じゃないんだよ」
仕事中じゃなくてもここは早紀ちゃんの職場だし、と、まだ呟いている。
「それより、プラネタリウム始まっちゃった。次の回まで二時間あるけど」
わたしが言うと、高志くんは眉根を寄せた。
「僕のせいだな。ほんとにごめん」
わたしは慌てて首を振る。
「どうせこの回は混んでるし。それに子どもが多いとどうしても騒がしいしね。次の回は閉館ギリギリだから、いつも空いてるの。かえってよかった。二時間、館内案内させていただきますよ」
わたしたちは待ち合わせのロビーから移動して、鉱物の部屋に入った。十畳ほどの小さな部屋では、館内の照明よりも少し明度を下げている。そのおかげで岩石に含まれた鉱物たちが、まるでラメでも入っているかのように光って見えるのだった。
中央には小ぶりの世界地図が置いてあり、どの地域でどんな岩石が採れるのかが図示してある。薄暗がりでも読めるように細い光が天井から文字盤に下りていて、それだけで部屋全体が幻想的に見える。普段は人気の高い展示だが、わたしたちが入ったときには他にだれもいなかった。
高志くんは、小学生のころ石を集めすぎて、学習机の引き出しを開けた母親に怒られるどころか泣かれたことがある、と言っていた。ここならわたしを待っている間、時間を持て余すことがないだろう。
やっぱり着替えてくる、と言って高志くんを残した。彼はうなずいて、ここはすごいね、子供の頃とはずいぶん違う、と呟いた。わたしは笑って、手を振った。
従業員のロッカーは地下にある。県立科学センターの地上三階は一般公開されているけれど、地下には関係者しか入れない。地上で設備の維持をしたり、展示の解説をしたり、小学生に「おもしろ実験教室」などを開催するわたしたちのような職員が着替えに下りてくるほかは、白衣の研究者しかいない。ここには研究室が並んでいる。
高志くんと約二十年ぶりに中学の同窓会で再会したとき、彼はわたしの勤務先を知って「研究者?」と聞いたのだった。早紀ちゃんあのころの夢が叶ったんだね、と言われて、返事ができなかった。
同窓会のあと、数人で小さな居酒屋に入った。となりに座った高志くんに「早紀ちゃん、まだ独身?」と聞かれたときも、すぐに返事ができなかった。「まだ」独身なんじゃなくて、「また」独身なんだけど、と考えていたらどうでもよくなって、ずいぶん遅れて「そう」と返したのだった。
それから二人きりで会うようになって、わたしは研究者ではなく単なる職員であること、それから離婚歴のあることを、とてもびくびくしながら話した。高志くんはそのどちらともに、同じように素っ気なく「そうなんだ」と返事をした。そのことについて、彼から尋ねられることは何もなかった。そんなのどうってことないよ、っていうフリ。よくある反応。いつものこと。わたしはいつも、どんな相手とでもそんな上っ面だけの会話にならざるを得ない。
従業員休憩室、と書かれたドアを開ける。ここで従業員、と呼ばれているのは職員だけで、研究者は自分の研究室にロッカーがある。助手のぶんも研究室にあるから、白衣の人が研究室以外の部屋に出入りすることはほとんどない。
高志くんがプラネタリウムを見たい、と言ったのだ。わたしは自分のロッカーを開けた。
彼はとても無邪気な顔をして、あの星の見えるやつ、と言ったのだった。あの星の見えるやつ何だっけ、あれ見たことないんだよね。
プラネタリウム。わたしが言うと、ああそれ、プラネットだもんな、そうそう。それ見たい。と彼は、はしゃいだ。
作業着を脱ぐ。ハンガーに掛けてロッカーに入れる。ひきかえに、どこにもオシャレな要素のない白のカットソーを手に取った。
あのときの表情は、結婚したい、と言ったときと同じだった。高志くんのワンルームマンションで、わたしがピザを焼いて待っていた日。先週のことだ。おいしいおいしいと食べ尽くして、高揚した目で彼は言ったのだった。結婚したい。早紀ちゃんが待ってくれる家に、僕は帰りたい。
ありがとう、でも少し待って。少しだけ。わたしはそう返事をした。高志くんは、当然だよ、早紀ちゃんがじゅうぶんだと思うだけ、考えてくれればいいから。そう言った。
彼のスーツ姿を思いながら、カットソーを着て、ジーンズを履いた。こんな格好で一緒に歩いたら迷惑だろう、という思いが湧く。たいして美人でもないくせに、と昔だれかに言われたセリフが耳元で聞こえる。そのうえ子どももできないくせに、よく結婚しようなんて考えたわね。三度も流産するような女、たとえ美人だったとしても、できそこない、だっていうのに。
だからわたしは希望して、ここの職員になったのだ。もう二度と結婚することはないから、一人きりで生きていくのだから、好きなものに囲まれて生きていこうと思ったのだ。たとえ研究者ではなくても。
頭を振って、ロッカーを閉めた。待たせている。鍵をかけて、それをカバンに放り込みながら廊下を早足で歩いた。
「お待たせ」
「うん」
振り返った高志くんが、とても嬉しそうに笑う。
「鉱物、どうだった?」
わたしが聞くと、彼は二度うなずいた。
「石の中身がこんなにきれいだとは、知らなかったよ。それにこの展示はおもしろいね。鉱物名のボタンを押すと、その鉱物を持つ石が光るなんて、それだけでキレイだしわかりやすい。だれが考えるの、こういうの」
「わたしよりも、ずっと偉い人」
そっか、と笑って高志くんはわたしの目をのぞきこんだ。
「早紀ちゃんは化石の担当だったよね」
うん、と言ってわたしたちは鉱物の部屋を出た。化石はとなりのブースにある。
「担当っていっても普段、化石のところにばっかりいるわけじゃないよ。生きものの世話もするし、小学生に液体窒素の実験なんかをやってみせたり、顕微鏡の調節をしてあげたり、けっこう忙しいんだから」
ガラスケースに入った最初の化石が現れる。
鉱物の部屋とは違って、化石はオープンスペースに展示している。明るく、広い展示スペース。化石の多くは鉱物化して残ったものだ。そのふたつは不可分だ。それなのに「鉱物」と「化石」で分けている。でも職員の気持ちとしては分け切れなくて、せめて隣同士に展示しているのだという。その思いを受け止めたくて、仕事中のわたしは時間さえあれば、小部屋とガラスケースの前を行き来しているのだった。
「アンモナイトだ。これは教科書でも見たし、ザ・化石、って感じだね」
「このあたりは示準化石ばっかりなの」
「それ何?」
ガラスケースに顔を近づけて、高志くんが聞く。背が高いから腰を大きく曲げなきゃいけない。
「出てきた化石によって、いつ、その地層が堆積したかがわかるの。アンモナイトみたいに、生きてた時代がある程度限定される生物の化石が出てきたら、その地層はその生物の生きていた時代のものだってわかるでしょ」
高志くんは、なるほど、なるほど、と呟いて、化石の下に置いてある年代のプレートを読んでいる。
「ああ、アンモナイトって一種類だと思ってたけど、いろいろあるんだ。それぞれ生存期間が違うってこと?」
顔を上げて、わたしを見る。わたしはうなずいて、彼のとなりで同じように腰を曲げて、ガラスケースに顔を近づけた。
「ここにはそれぞれの繁栄期しか書いてないけど、実際の生存期としては、ゴニアタイト類は古生代デボン紀中期からペルム期、セラタイト類はペルム中期から三畳紀。この、いかにも教科書に載ってるようなアンモナイトは三畳紀中期から白亜紀」
高志くんはふふふ、と笑った。
「かっこいいな、早紀ちゃん。それにひきかえ、全然ピンと来てない僕」
わたしは腰を伸ばして、目線を上げた。高志くんもつられるようにして腰を伸ばす。ちょうどその目の高さに掲示してある長いボードを、わたしは指差した。
「わからなくて当たり前。だからここにちゃんと、年表を用意しております」
「あ、ほんとだ」
しばらく高志くんは、無言でプレートと年表を見比べていた。腰を曲げたり伸ばしたり。
英語の先生になりたい。高志くんは中学のとき、日直が毎朝やらなければならない五分間スピーチでそう言った。同窓会で再会した彼は、本当に高校で英語を教えていた。だからよけいに、自分が研究者でないことを言い出せなかったのだ。いっそまったく違う職業に就いていれば、あのように恥ずかしい思いをしなかっただろう。ああ、わたしはなりたいものに、一度もなったことがない。そんなふうに思い知らされることなどなかっただろう。
「アンモナイトゾーン、終了。化石っておもしろいもんだなあ。何億年もむかしの生きものが、今になって掘り出されるんだね。しかもそいつが土の積もった年代を教えてくれるなんてね」
声がしてはじめて、自分がぼんやりしていたことに気付いた。高志くんがサンゴを指差している。
「ここからは、示相化石、っていうんだね。えっと、地層が堆積したときの環境がわかります、って」
それを受けて、わたしは口を開く。仕事中のように化石の解説をしていると、気持ちが落ち着いてくる。
「山から海の生物の化石が出たら、そこはむかし海だった、ってことがわかるでしょ。高志くんの言うとおり、何億年もむかしからやって来て、当時の地形や気候なんかまで教えてくれるの。でもそういうの、ほんとにおもしろいと思う?」
高志くんはうなずいて、おもしろい、と言った。
「よかった。友達の中には、何がおもしろいのか全然わからない、って言う子もけっこういるの。わたしはとてもおもしろいと思ってるんだけど」
遊びに来てくれるものの、どのブースでも一分と立ち止まらなかった数人の友人の顔が思い浮かんだ。ほかの話題、たとえばテレビドラマやおいしいレストランの話であれば意気投合して盛り上がるのに、仕事の話になると決まって「早紀の仕事だけはよくわかんない」と言われるのだった。それでも、家庭や子どもの話題をあからさまに避けられているのより、そうして不思議がられているほうがずっといい。
「すごく初歩的な質問なんだけど」
高志くんはサンゴの化石を眺めながら、やや恥ずかしそうに言い淀んだ、
「あのさ、化石ってどうやってできるの? 生きものがただ土に埋もれるだけでは、分解されてなくなっちゃうんじゃないの」
それは一日に何度もされる質問だった。そのたびにわたしは、同じように答える。けれど何度答えても、いつも初めてのことのように自分の耳には届くのだった。
「たとえば死体が横たわる。死体の上に砂や泥が積もる。肉の部分は変化して失われる。骨や歯のような固い部分が長い年月をかけて、ぐうぜん鉱物になる。そうすれば化石となって残る。いくらほかの条件がそろっても、鉱物になるか、炭化するか、琥珀に取り込まれるか、何かそういう劇的な偶然がなければ、化石にはならないの」
「ああ、さっきの鉱物。あれ化石なの」
「あれが化石なわけではなくて、鉱物として残った生物や植物が化石っていうか。あ、でも鉱物の展示の中に化石はあったよ。植物の化石」
高志くんは興味深そうに、へええ、と長い声を出した。それから、何か口の中で呟いた。
「なに?」
わたしが問うと、彼はクスっと笑った。
「今になって思い出したんだよ。fossil。英語で化石のことフォッシルって言うでしょ。あの語源はラテン語の『掘り出されたもの』なんだ」
掘り出されたもの、と言いながら、高志くんはまたガラスケースをのぞきこんだ。
掘り出されたもの。掘り出された死体。それこそが化石だ。
わたしはその語源を知っていた。どの時代でも、野ざらしになった死体は土や泥にうずもれる。そこから偶然によって化石になった死体は、それだけではまだほんとうの意味で化石ではないのだ。死体は掘り出されて初めてフォッシル、化石と呼ばれる。
よく言われる、掘り出された化石などほんの一部だけであって、まだ見いだされていない多くの化石があらゆる時代の地層の中で眠っている、という言葉は矛盾を抱えている。掘り出されない化石は、化石ではないのだ。偶然を重ねて化石になった死体は、最後に「掘り出される」というおそろしい確率の偶然を経ないことには、化石と呼んでもらえないのだ。
語源を専門書によって知らされたとき、わたしはぐるぐるとそんなことを思った。そして、うしなわれたわたしの三人のあかちゃんのことを考えた。たしかにおなかにいて、そのあと死体になり、ひきずり出されたわたしのあかちゃんのことを。ひきずり出される前に起こるべき偶然が起こらなかったせいで、どのようにも呼ばれることがなかった、ぬめりとした物体のことを。
偶然なんですよ。そのときお医者さんが言ったのだ。ちいさな細胞がちゃんと分裂するかどうかは、偶然が決めるんです。今回はその偶然が起こらなかっただけで、あなたのせいではありません。
偶然が起こらなかったせいで、生きて明るいところに出られなかったあかちゃん。正確にはまだ人間の形になる前にひきずり出したから、死体ともいえない。あかちゃんと呼ぶのはおかしい。
たくさんの偶然を経て、取り出されて、初めてあかちゃんと呼べるのだ。冷たい死体はわたしのおなかに横たわる。何度でも。偶然は起こらず、それは形をとどめない。わたしはそれらを呼ぶことができない。
ため息が聞こえたと思ったら、それは自分の口から出ていた。高志くんが振り返って、ごめん、と言う。
「没頭してた。ごめん」
慌てて首を横に振る。違うの、と言って笑顔を作った。
「高志くんはすごいなあ、と思って。そんなふうに熱中して全部読む人、珍しいから。それ頭に入ったら、明日からわたしの代わりに化石の解説できるよ」
それでやっと、高志くんの表情もやわらいだ。
「覚えられるわけないよ。でも、覚えて早紀ちゃんとこういうおもしろい話をしたいなあ、とは思ってる」
「覚えなくてもできるけど」
そう言ってわたしが笑うと、高志くんは大きくうなずいた。
「きっと、楽しいよ。毎日いっしょに暮らせたら」
わたしの表情はどうだっただろうか。せめて微笑みを残したままでいられただろうか。わたしは高志くんの目を見つめたまま、返事ができなかった。高志くんは、ふい、と目線を逸らせた。
「楽しいよ、高志くんといっしょにいるの」
その目線を追いかけて、わたしは言った。それは本心だった。別に彼の気持ちを損なわないために無理に言ったわけではなく、わたしは彼といっしょにいて、路線による混み具合の違いや、どこのお寿司やさんが一番おいしいかといったようなちいさな日常はもちろん、彼の勤務先である学校でのできごと、たまに起こるクラスのもめごとや、テストの点が上がらない生徒などについて神経質すぎるほど真剣に考えている彼の言葉を聞くのが好きだった。それに加えて化石や鉱物、幾度となく地球に訪れた絶滅期のことなどが話題にのぼるのだとしたら、経験したことがないほど楽しい時間になるだろうと思えた。高志くんはガラスケースにくっつけるようにしているその真剣なまなざしそのままに、もううしなわれてしまった数々の生きものたちのことを考えるだろう。うしなわれたものについて自分の時間を割いてくれるだろう。そしてわたしたちは上手にそれを共有できるだろう。
「ごめんね」
なぜか高志くんが謝った。
「答えを急かすつもりはないんだ。あまり気にしないで」
わたしは静かに首を振った。
「次、行こうか」
高志くんがわたしの前に立って歩き始めた。スーツの背中はいつもより広く見える。こんな背中を、わたしは見たことがあっただろうか。
夫だった人のことは、思い出そうとしても重なったベールの向こう側のように、輪郭さえはっきりしない。何かがそれ以上考えることを遮ってしまう。
高志くんが立ち止まる。恐竜の骨組みと、そこから肉付けをして復元したティラノサウルスの前だった。
「大きいな」
五メートルある天井の、すれすれまでその恐竜は立っている。肉食で、二足歩行が可能だった。こんなものに出会ったら、食べられる以外にない。
「動かないってわかってても、ちょっとこわいな」
高志くんがそう言って見上げている。そのとなりに二歳くらいの男の子を抱いた男性がやって来たが、男の子がぎゃあ、と言って泣き始めたので声をあげて笑いながら立ち去った。
「わかるなあ。僕もあのくらいの年なら泣いただろうな」
「こわがらない子のほうが珍しいからね」
そのとき、背後から名前を呼ばれた。振り返ると、先輩の吉田さんが禿げた頭をポリポリかきながら笑顔で近付いてくるところだった。
「カレシ?」
吉田さんはニコニコ笑った口を動かさないままそう聞いた。腹話術のようだ。
「まあ、はい。そうです」
わたしが答えるのと、高志くんが名乗って頭を下げるのとが同時だった。
「背が高くてオトコマエだねえ。この人は若いのに勉強熱心すぎて、婚期を逃すんじゃないかと心配しとったんだが、こんなカレシがいるんなら安心だ」
安心、安心、と言って吉田さんはハハハ、と笑った。わたしも合わせてハハハ、と声を出した。
「まあ、ゆっくりしていってちょうだいよ」
高志くんが、ありがとうございます、と軽くまた頭を下げて、吉田さんはやはりニコニコしたままで、ロビーのほうへ歩いて行った。
「あの人がプラネタリウムのチーフなの。今日の最終回は、たしか吉田さんが担当だったはず」
「へえ。優しそうな人」
「年はまだ五十代だからこんなこと言うと失礼なんだけど、お父さんみたいな人なの」
高志くんは、ゆっくり何度もうなずいた。わたしの両親がすでに亡くなっていることを思っているのだろう。よかったね、とわたしに微笑んだ。
それから二階、三階を案内した。彼は音の伝わりかたや振り子運動について、じっくり時間をかけて観察した。興味を持ってくれない人との二時間は持て余すけれど、彼との二時間はあっという間だった。むしろ足りないくらいだった。三階で巨大磁石にくっついた小指ほどの金属片を何とか取ろうと引っ張っているとき、プラネタリウムの案内アナウンスが流れた。
「さあ、受付開始よ。行かなくちゃ」
持っていた金属片を名残惜しそうに手放して、彼はうなずいた。
「もうそんな時間なんだな」
プラネタリウムの最終回が終われば、閉館だ。人のいなくなったブースから、清掃員がモップがけを始める。わたしたちはあちこちで会釈をしながら、別棟のプラネタリウムへ向かった。
球体の建物が見えると、高志くんは嬉しそうに指差した。
「特別な場所、って感じがする」
プラネタリウムの受付には、十人ほどしか並んでいなかった。
「こんにちは」
受付をしている同僚に声をかける。彼女はにっこり笑って、デートですか、と言った。
わたしは、まあ、と曖昧に返事をしてから、想像以上の少なさね、と囁いた。彼女は微笑んだままうなずいて言った。
「最後、吉田さんだからおもしろいんですけどね。ただ説明するだけじゃなくて、お客さんとやり取りするんです」
ふうん、と言ってチケットを受け取る。
「どうぞ、楽しんで来てください」
「ありがとう」
すぐに重い扉が開いて、入場が始まった。円形に並んだ座席を見て、高志くんが声を上げる。
「中も丸いのか。どこが見やすいんだろう」
わたしはいちばん壁に近い、つまり円の中心から遠いところを指した。高志くんが座ってから、となりの席に腰かける。体重を軽く背もたれに掛けるだけで、ほとんど水平になるまで体が倒れる。
「寝ちゃいそうだ」
高志くんが笑う。
「ご来場ありがとうございます」
アナウンスが始まった。吉田さんの声だ。
「これから、約十五分間プラネタリウムの投影を行ないます。投影中は暗くなりますので、席の移動はご遠慮ください。気分が悪くなったときは、大きな声で係員をお呼びください。また、携帯電話などの光や音の出る機器は電源をお切りください」
ごそごそ、ととなりで高志くんが動いて、携帯電話を取り出す。そしてきちんと電源を落としてカバンに片付けた。
真ん中の投影機を囲んで、十数人がまばらに座った。十歳くらいの子どもが一人で、あとは全員大人だった。
「さあ、ぼくはこれが見たかったんだ」
ひそひそ声で、高志くんが言う。その言葉にうながされるように、照明が落ち始める。
「みなさん、このお部屋の中は、外と時間の流れかたが違います」
吉田さんがそう言うと、丸い天井に時計が浮かび上がった。針は午後八時を指している。
「これから、どんどん時間は進みます。空が暗くなると、何が見えますか」
ほし! とたった一人の子どもが答えた。
「星が見えたらいいですね。では針を進めてみましょう」
時計の針がくるくる回り始めた。指先が見えなくなるほど暗くなった、と思ったら高台から街を見下ろしたときのような夜景が広がり、暗闇がどこかに消えた。
「空が暗くなると、街の明かりが見えます。ちょっといじわるでしたね。でもさっき答えてくれたように、星もちゃんと出ていますよ」
数えられるくらいの星が、たしかに見える。
「これが、わたしたちの普段見ている星空です。これではあまりにもさみしいですから、今日は街の明かりを消してみましょう」
吉田さんが楽しそうに言うと、魔法のように街の明かりと時計が消えた。
「うわあ」
高志くんの声がすぐ横でする。わたしたちの頭上には、もう天井がない。街の明かりが消えた瞬間、わたしたちの体は星空に溶けた。
すごい、すごい、と小学生の声がする。
「ね、すごいね。見えないだけで、本当は毎日これだけの星空が広がっているのです」
あ、天の川だ。高志くんが呟く。
「さて、ではこの星空の中から、星座を探して参りましょう」
星空の中に、吉田さんが操るポインタが現れた。ポインタは北の空へと移動する。
「このあたりに、ひしゃくの形をした七つの星があります。探せますか?」
ほくとしちせい! と小学生が叫ぶ。
「よく知ってますね。見つけられました? 一、二、三、四、五、六、七」
ポインタが星をつなぐ。
「これが北斗七星です。北にある、ひしゃくの形の七つの星、という意味です。実はこれ、おおぐま座という大きな星座の一部なんです」
空に大きなクマのイラストが浮かび、星の上に重なった。おお、とどこかで声がする。
それから何度も吉田さんのポインタが星をつなぎ、星座のイラストが浮かんだ。多くの星座が頭の上にあった。高志くんが、ああ全然知らなかった、と言った。
ひとしきり星座の紹介をしたあと、吉田さんは、さて、と言った。
「わたしたちの地球がある『太陽系銀河』には、約二千億から四千億の恒星があるといわれています。けれども今のところ、生物が住んでいるのは地球しか見つかっていません」
そのとき小学生が、はいはい! と声を上げた。
「質問です。太陽系以外の銀河に地球のような星はあるんですか?」
吉田さんは、おおらかな、あたたかい声で返す。
「どうでしょうか」
しばらく、考えるような間があって、吉田さんは話し始めた。
「多くの星が一度に死んでも、たとえ偶然を経て地球のような生物をたくさん抱える星が生まれても、宇宙全体のエネルギーは常に一定なのですが、それについてのおもしろい仮説があります。それは死んだように見えた星がどこかとても遠いところで生まれなおしているからだ、というものです」
吉田さんの声は、あたたかさを増す。
「ですから地球のような偶然に満ちた美しい星がもっと、うんと遠くにあって、こちらの地球で失われた命があちらの地球で生まれている、という想像も可能ではないでしょうか。なにしろ、宇宙全体のエネルギーは一定なのですから。それに、そう考えると、なんだか元気がわいてきませんか」
プラネタリウムで映し出された広い宇宙のあちらこちらに『地球』があって、ベルム期や白亜紀を順番に繰り返しているような気がした。アンモナイトや恐竜をはじめとする、すべてのうしなわれたものたちがそこでは生まれているのだった。
「少しずつ、夜が明けていきます」
吉田さんがささやくように言った。だんだん星が見えなくなって、東の空から太陽が顔を出す。すっかり星の姿はなくなった。
「明日の午前七時です。みなさん、おはようございます」
おはようございます、と小さな声で答えた。高志くんがわたしを見て、笑っておはようと言った。
「おはよう」
明日の朝に、わたしはそう答えて彼の手を握った。
(了)