ホームに入ってくる電車の風圧を感じたから前に歩きだしたはずだった。敬二は後ろに並ぶ年配のサラリーマンにいきなり腕を掴まれたため立ち止まる。その時鼻先に強い風が吹きつけ、大きな警笛を鳴らしながら電車が入ってきた。はっと我に返り後ろの人たちの顔をみると、皆も驚いた顔をして敬二の顔を見ていた。すいませんと聞こえない声で会釈をし、列を外れた。
きまりが悪かったので電車を見送った。今度は一番前ではなく真ん中に並んで電車を待つことにする。後ろに重心をおいて立っている。来た電車に乗り込むとつり革を持って目を瞑った。
これは会社と反対方向に行く電車だと思うところからいつも始まる。終着駅まで乗っておりると、そこは見知らぬ海辺の町だ。スーツ姿で鞄をさげた自分が歩いている。会社を無断欠勤して海を見にきた。防波堤のそばを虫取り網をもった少年が走り去っていく。その少年は防波堤の隙間を身軽に通り抜け見えなくなった。時間が止まったように車の走らない国道。路肩を歩くと古い民家のひさしが敬二の頭をかすめる。かつて空想した道が記憶に残り、この海辺の町の地図は頭に入っている。今日は国道の突き当りまできた。じゃりじゃりと砂を踏む音と波の音しか聞こえない。波打ち際に立つ。乳白に霞んだ水色の空と一〇〇メートル先の波けしブロックの構図はお気に入りだった。柔らかい光がまわり、海面が空を映している。磯には茶色の藻がそこここに打ちあがり、一艘のボートが舫いにつながれている。ボートに近寄りはするが、中は覗かない。
そこで目を開ける。電車の扉が開く一瞬前のタイミングだ。敬二はホームへと吐き出された。通勤のとき、心臓に嫌な感じがするようになった。あれはいつ頃からだろうか。敬二は階段を上りながら考えた。違和感が数日続き、やがて叫びだしそうなくらい不安に襲われ敬二は脂汗を垂らしながら……。なんだっていい、会社に行けさえすればと定期が入った財布を改札にポンと打ちつけて会社への通りにでた。
敬二の会社はパソコンメーカーのサポートセンターだ。出社するとタイムレコーダーにICカードをタッチする。社内にこういう端末がいくつかあり、身分証を兼ねたICカードをスキャンさせなければ使用できない。
サポートセンターは本社とは別のビルにある。フロアは壁や仕切りがなく、そこに七〇人余りが働いている。パソコンとモニターが載った机が四列並びフロアの真ん中の太い柱を境に振り分け配置されている。五~六名で班を作り毎月シフトを組む。社員、派遣スタッフ全員が若い。三一歳の敬二でも中堅になる。班長というポストにいて、サポート業務と班の管理をしている。いまは始業二十分前で、オフィスには数十名の社員がすでに来てそれぞれ仕事中に摂る水分の準備や朝のコーヒーを飲んでいる。
九時になるとメッセージで応対していた電話が切り替わりコールが鳴り出した。ひとりふたりと電話を取り始めた。敬二は自分の班が全員電話を取ったのを見届けてからインカムを着け、点滅する電話を取った。
はい、と言った瞬間、
「どれだけ待たすんじゃ。なんで二四時間対応にしない」
客の声はすでに怒っていた。サービス業なら二四時間対応が当然だといいたいのだろう。声の感じは六〇歳くらいの男性であった。
「お前んとこのパソコン、買って一週間もたってないのに壊れて動かんやないか」
敬二はそのひと言で今日は嫌な一日になる予感がした。途端にインカムを通して聞こえる声が、やがてシャカシャカというイヤホンの音漏れのように意味を持たない音になる。
敬二はモニターに表示される時間表示を見やった。サポートセンターでは受ける電話は十五分で終わるように言われている。この客はそれでは終わりそうにないと思った。音が止んだ。
「お客様、それでは型番を……」
敬二の声を遮って、
「お前は何回同じこと言わせるつもりなんだよ!」
機種を聞きだす手順に進もうとすると、客は故障そのものより、ここのサービスに対するクレームへ話を変え始めた。フリーダイヤルは何回かけても繋がらない、対応時間が九時から一九時と短く、日曜祝日は休んでいることなど。敬二はひと言ひと言にすみませんと詫びを言った。それは謝るというより相槌のようなものだった。一瞬話に間が空いた。画面に変な表示がでて動かなくなったと言い出した。敬二は口元が緩んだ。
「お客様は今どんな画面をご覧になっていますか?」
客は口をつぐみ、画面の内容を言おうとしない。怪しいサイトでウイルスでも仕込まれたのだろう。
「お客様、ウイルスソフトはお入れになっておられましたでしょうか?」
ウイルスに感染したのなら解決できる。客にその確認を促した。客は自分の息子にセットアップを任せたのでウイルス駆除ソフトを入れているかどうかも知らないという。敬二はなるべくゆっくりと「お客様のパソコンはウイルス駆除をしなければならないので、業者に頼むか、息子さんにしてもらうしかないですね」と言った。続いて、ここではそういうサービスをしていないことを言おうとした。
「それだったら、昨日電話したときになんで言わない。外付けなんたらいうの買ってデータがどうのとか、そいつのおかげでY電機に行ったがあいつが言ったこと伝えても店員が分からんと言うから朝まで待って電話したのに、昨日と言うことが違うってどういう事なんだ」
敬二はちらっと班の部下たちのほうをみた。
フリーダイヤルは自動受付機能があり、客がそこから自分の相談内容にあった番号をプッシュして、オペレーターに繋がる仕組みになっている。継続の客の場合は、それまでのサポートをみんなが共有できるようにしてある。この客はサポート継続のところを新規相談から入ってきたためにヒアリングで時間を余計にとられた。
やっと氏名、電話番号を訊き、パソコンに客の履歴を出した。担当したのは、神田という部下だった。そこにはバックアップを取ったのち修復するようにしたと書いてある。神田のミスとは決めつけられないが、敬二が今きいた客の話が本当なら解決はできない。敬二は数秒の間沈黙してしまった。客は敬二の短い沈黙が否を認めたと解釈したのか、再び激しく怒り出した。一日時間を無駄にさせられたこと、Y電機まで行った交通費のことなどを言い始めた。悪い流れになったと思った。神田が間違ったかもと敬二が思ったことを客が見透かしたのだ。
上を出せと怒鳴った。自分が責任者だと言っても納得しない。客の声はインカムを着けた耳の中で割れるほどのボリュームだった。電話対応を始めてから時間は五十分を過ぎていた。敬二は電話を保留にしてセンターの統括をしている上司の柿沼のところへ行った。
自分が起こしたクレーム処理を柿沼に頼むのは初めてだった。パソコンで仕事をしていた柿沼の横に立つと敬二は咳払いをした。柿沼の前にくるといつも緊張する。敬二に気づき黒いチタンフレームが動き薄いレンズ越しに見上げてきた。四一歳の柿沼はフルマラソンに何度も出場する市民ランナーで体は細く引き締まっていて、一年中日焼けした浅黒い肌をしている。
敬二はなるべく手短に説明しようとした。柿沼は敬二からすぐに視線を外し、自分の仕事を中断された不快を右手のパーカーのボールペンで机を打つことで表した。敬二はその音に何度も言い淀んでしまった。話し終えて、再度柿沼を見た。目をつぶり眉間に皺をよせている。考えをまとめているようであり、問題を起こした敬二に対して叱責の言葉を探しているようでもあった。柿沼は再び目を開くと敬二の班の方へ歩き出した。インカムを着けると、敬二に向かって、自分の足元を指さし隣にくるように指示した。
柿沼は保留のボタンを押し繋いだ。長く待たされたクレーム客の怒った声が隣に立つ敬二にも聞こえた。聞き役に徹して、相槌も穏やかに打っていた。それが突然一変する。それは柿沼の発した第一声だった。
「いまお伺いしたことにお答えはできますが、すべて有料になりますがよろしいでしょうか? こちらはパソコンの不具合をサポートし解決するところで、お客様は間違い電話をなさっています」
電話口の声が沈黙したのがわかった。あっけにとられたのは、敬二だけではなく電話の向こうのクレーム客も同様のようだった。柿沼は再度、ここでのサポートはあくまでパソコンの不具合の原因を突き止めることで、レッスンや代行をするところではないと相手の了解を得るように噛んでふくめるように言った。客は神田や敬二の対応を非難しているようだった。
「それは違います。わたしどもは現物を見ずに、電話を通じてどんな現象が起きているのかをお客様から聞き出せて初めて、原因として考えられるものは何かを検索するのです。お客様の協力がなくてはわたしどももどうすることもできないのです」
きっぱりと言った。相手は次第に押し黙り、柿沼が一方的に話すような展開となった。電話はすぐに切れた。
すみませんと、敬二が頭を下げると柿沼は、相手のペースに乗ってはだめだと言って自分の席に戻って行った。みていると柿沼は客とのやりとりの後とは思えない落ち着きで仕事の続きに戻った。
羞恥心で顔が赤くなっているのではないか。敬二は掌で首の後ろを撫ぜる振りをして顔を隠した。傍で聞き耳を立てていた女子スタッフたちが声を押し殺しながらも興奮気味に喋りだした。
「わたし、なんか感動した。統括かっこいいと思わない」
「うん、思う。わたしなんて、客に謝れと言われれば謝り、謝って済むことかと言われれば、どうすればいいのでしょうかと訊き、最後にそんなこと自分で考えろって言われるんだよね。こっちが強く出られないの知っててワザと困らすこと言ってくる。もういちいち傷ついたりしないけど……」
そう言いながら、ふたりとも柿沼のほうを見ている。
敬二はあそこまでこじらせてしまったことが不本意でならなかった。専門知識でこちらの不備をついてくる客ではなく、最初にちゃんと客の話を聞きとっていれば、すぐに処理の終わる相手だった。自分は貧乏くじを引いただけだ。そういう思いとは裏腹に、あれほどまで激昂したクレーマーを黙らせた柿沼がいる。敬二はこれまでも柿沼の仕事でみせる技のようなものを見てきた。それを模倣することで仕事の効率があがりもした。
パソコンの共有ファイルに今回のやり取りの詳細を記録する。自分の対応では事態の収拾がつかず柿沼と代わるくだりをタイプしていると、また気分が下がるのが分かった。
その時、柿沼に呼ばれた。さっきの失態についてまた何か言われるのかと思って柿沼のデスクの横に立った。
「申し訳ありませんでした」
深く頭を垂れた。
柿沼はパソコンの画面を名残り惜しそうにみながら、敬二の方に椅子を回転させた。
「わたしの仕事の一部をやってもらいたいと思う」
敬二の言葉を無視するように言った。
「君にはグループ長としていくつかの班を任せようと思う。まず君の班は神田に班長になってもらう。それからこの四つの班を加えた計五つの班のマネジメントを君にお願いしたい」
指で五冊のファイルを指しながら続けた。
はあ、と生返事をする。
「はやく言えば、わたしの補佐をやってもらいたい。君にやってもらっているマニュアルも完成するし、試験運用も兼ねた抜擢だと思ってもらってかまわない」
敬二は微笑んだ。しかし、柿沼は表情を変えることなくフォルダーに挟まれた書類を差し出した。ざっと目を通すと、同じ班にいる神田と他の班の班長四人はよく似たキャリアだった。新卒で本社採用され数年後サポートセンターへ出向という経歴だが、共通しているのは五名とも本社の部署を短期間で異動させられている。
柿沼は最後にグループ長はメンバー全員の成果について連帯責任を負うと言った。サポートセンターの成果を数値にできるのは相談解決件数で班の目標の数字を下回れば、その班のメンバーにノルマが加算される。サポートに要する時間にも目標があり、超えると手当が引かれていく。敬二は少しきついなと感じた。柿沼からミーティングなど必要な打ち合わせは今日から始めてよいと言われた。最初はやはり神田からだろう。さきほど自分がてこずった客の状況を尋ねたかったのもある。
自分の席に戻り、神田のファイルを開いた。証明写真の神田はあどけなさの残る明るい表情をしていた。いまよりふた回りはスリムでもあった。本社に入社して三年。営業、営業管理、総務とうつり、サポートセンターには去年転属していた。当時、目立たない存在ながら話しかけるとちゃんと受け答えもするし、色白で太ってはいたが、柔和な性格で歳も近く、無口で独身というところも敬二と似ていて親近感を持てたことなどを思い出した。
神田のことはここに書かれていること以外何も知らない。同じ班になってからも一度も食事や飲みに行ってなかった。敬二と神田以外は女子で彼女たちは派遣スタッフなので敬二はこの半年職場の誰とも仕事以外の付き合いをしていなかったことになる。ファイルをめくっていくと、勤怠管理のページがでてきた。欠勤こそないが、遅刻と早退がここ二カ月で急増していた。そういえば、女子スタッフたちが最近の神田は人格が変わったみたいだと噂していた。神田は身だしなみができていないという。風呂に入っていないのか臭いもする。襟元が黒ずんだカッターシャツを何日も着て来る。近くに寄らないでほしいと、直言する女子スタッフもいた。そのときすごい形相でその女子スタッフを睨みつけた。過剰反応だろうと気にもとめていなかったが、いざグループ長の立場になると思うと、気になってきた。
電話で対応中の神田を観察する。ぶつぶつと独り言を言っているようにみえ、明らかに変だ。オペレーター同士の回線は割り込みができる。さっきの敬二のようにしつこいクレーマーに捕まっている者を発見したときに他の人が事態を把握するために使うのだが、神田の回線に本人に知られない様に割り込んでみた。神田の通話回線には相手はいなかった。神田の電話は受信しないように受話器を上げて、こちらには話をするふりをしていたのだった。
これは困ったことだと思った。席を立つと休憩室に向かった。すると隣の給湯室から休憩中の女子スタッフの話し声が漏れて聞こえてくる。神田の話だった。敬二がなんとなく神田の噂を知っていたのも、おそらくこんな調子で耳に入っていたのかと改めて思う。いままでと違うのは、今日は少しも聞き逃すまいと思っている敬二自身のほうだ。
「わたし実は神田君から映画や食事に何度も誘われてたんだよね」
「うそ、いつ頃」
「神田君が転属になってすぐくらいから、ついこの間まで。ずっと断ってたんだけど、それがぷっつり誘われなくなったの」
神田に誘われたと言った女子スタッフは今の神田がすさんでいるのは自分のせいなのではと言った。
「そんなの気にしすぎじゃない。仮にそうだとしても責任はないよ」
「そうじゃないの。わたし怖いの。逆恨みされて襲われるんじゃないかって」
「そう思う根拠は?」
「視線。仕事しててふと、顔を上げると必ず神田君がこっちをみていて目が合うの。気分を損ねたらだめだって思って、笑いかけるんだけど、神田君は無表情のままで見続けてくるの。ほんとに怖くて、家に帰る道で何度も振り返ったりするの。最近の異常さは限度を越えてる」
「一度、班長に相談してみれば」
ここで敬二が緊張した。
「そうだけど、ああそうってスルーされそう」
どっと力が抜けた。冷たい印象は与えているだろうと思っていたが、やはり話しづらいと思われていたのだ。
神田の出退情報を調べた。一八時退社とある。時刻は一八時になり、即、神田は無言のまま帰っていった。
敬二は急いで片付けると、そのあとを追って会社を出た。神田は会社から少し歩いたところで、駅へ向かう道をそれた。敬二は不意を突かれた。すぐ追いついて駅前の居酒屋に連れ込もうと走り出す寸前だった。考えていたら見失ってしまいそうなのでとりあえず後をつけることにした。
駅から離れるほどに住宅が増えてくる。車がすれ違うのがやっとの細い道の角を何回か曲がる。神田が最後に曲った角に立ち、姿を確かめる。この道は川沿いの倉庫街に突き当たる一本道だ。敬二は煙草に火を付けてから歩き始めた。それにしても足が速い。職場での神田は壁に沿って伏し目がちにこそこそと歩く印象しかなかった。顔をまっすぐにあげて大股で歩く後ろ姿に違和感を覚えずにはいられない。この辺りは河口近くなので鉄鋼倉庫や重機の置かれた会社が軒を連ねる。いったいここに何があるのだろうと神田から視線をはずし辺りをみまわしていると、神田はぴたっと足を止めた。神田が立ち止まった目の前に朽ちたバラック小屋がある。その前で数秒じっと立っているかと思うと、小さい戸口に体をねじ込むようにして中に消えた。敬二も遅れてその場所に立った。神田が入ったのは看板も暖簾もないが食堂のようだ。木造板張りで、建ってから一度も外壁工事をしたことがないとわかるぼろぼろの店だった。板を渡しただけの細い通路が川に張り出して店の正面まで続き、覗き込むと家の三分の一は川の上に突き出すように建っていた。
敬二はすりガラスにぼんやり映る自分の姿をみながら迷った。通りがかりで入るような店ではないので、入ると後をつけてきたことが神田にばれる。もっと中の様子が見えないかと、足を一歩前に出した。ぱきっという乾いた音が鳴る。足を上げてみると、板が凹んで割れかかっている。バランスがくずれガラス戸に手が当たって大きな音がした。むこうに黒い人影が映った。ガラス戸が開けられる気配がした。
目の前に、敬二の肩口にも満たない背格好の初老の男が立っている。上目づかいに敬二を見上げ、ぎゅっと口をへの字に結んだまま、店に入るよう促した。
店の中は間口からは想像できないほどに広かった。その訳はL字に曲がった構造のせいだ。継ぎ足しを繰り返して横に伸ばしていったのだろうか。ベニヤ板の壁が増築された時期を表すように奥に行くほど色が明るくなっている。入ってすぐ横の壁には、横幅一メートルはある鏡が取り付けられている。鏡の下の方に寄贈、一九六〇年と書かれた字が読めた。延長されたスペースのほとんどが青いカーペット敷きのこあがりになっていて、そこにおよそ三〇人ほどの男たちがいくつかのグループになって酒を飲んでいる。アルコールの臭いと煙草の煙、それと敬二の胃袋を猛烈に刺激するすき焼きのような甘辛い匂いが体にまとわりついてきた。匂いが漂ってくる方をみると、敬二の両手を広げたくらいの大鍋があった。その大きさが店には不釣り合いな印象を受けた。中に黒い汁と肉片らしきものがぎっしりと煮込まれていた。
「いらっしゃい」
後ろから声がした。テレビの中の音声と間違うほど可憐な場違いな若い女の声だった。胸まである長い真っ直ぐな黒髪の女だった。胸元が大きく開いた白いワンピースを着ている。その服にしてもエプロンもつけず、長い髪を結わえもしないでいる女の存在すべてが、この食堂にアンバランスだった。
向かい合った女は敬二を少し見上げる。視線を落とすと、女の胸の谷間に視線が吸い込まれる。女が喋るたび毛先が谷間を出たり入ったりする。髪の黒さが肌の白さを強調し、蛍光灯の光を受けた肌が眩しい。敬二はワンピースに包まれた女の体に触れたくなる衝動をこらえた。
ここは初めてですかと女が訊いてきた。敬二は食堂の女に平常な気持ちを奪われていて、声を出そうとするのだが、虚しい吐息しかでてこなかった。そこに敬二を残して食堂の女は、青いカーペットの方に行ってしまった。
「生活はどうなの。アパートの隣が迷惑だと言ってたでしょ。それはどうなったの」
女はそう言うと客のひとりの肩に手を置いた。床に座ったその男に体を近づけて向かいあっている。すると、それが何かの合図であるかのように、いくつかに分かれて飲み食いしていた客たちが話を止めて、ふたりを取り囲む。
「引っ越していきました」
おおっという低いどよめきが起こった。
いったい何が始まったのかと敬二は身構えた。女を取り囲んだ輪の中に神田がいる。敬二の来店に気づいているはずだが、神田は意識的に目を合わせてこない。
「よかったわね。じゃあ、今度はあなた」
女は輪の中のひとりを指さした。アパートの男が立ち上がり、指された男と場所を入れ替わる。その男はグレーの上下の作業服を着て、歳は五〇歳前後にみえた。
「嫁さんが俺に内緒でカードローンをしてた。リボ払いの限度額が越えて、通知がきたんです。いや、浪費と違います。子どもの予備校の学費や光熱費なんかを全部クレジット払いにしていて、毎月定額の支払いにすることができるやつです」
男はそこで言葉を切った。
「俺はリボ分を全額返済してそのカードを解約すると言いました。百万くらいですが、自分には大きい額です。そしたら嫁さんが激しく怒り出した。俺はただ、リボ払いは管理が難しいからやめようって言っただけなのに。それがきっかけにお金がないのがもう耐えられないって言うんです」
彼の妻は自分と結婚する前に好いてくれた男がいて、現在その男は中小企業ながら執行役員になっていることを言い出したらしい。
「俺も嫁さんもバブル景気の時に職場で出会って結婚したんですけど、バブルが終わると会社をリストラされ、子どもが生まれたばっかりで仕事もできない嫁さんを食わすために今の工場に再就職して二〇年。高い時に買ったマンションのローンは七〇歳まで払わんといかん」
敬二はカウンター席に座り男の話に耳を傾けていた。そこから厨房の中が丸見えだった。さっき自分を店に迎え入れた初老の男が発泡スチロールの箱に手を突っ込み、何かを掴みだしている。薄くなった頭皮に脂まみれの髪がべったり貼りついている。敬二はこの初老の男と女がどんな関係なのか気になった。初老の男は父親とは到底思えなかった。親子以上に歳が離れているのと、容姿がまるで違った。では、初老の男が店主で女が使用人かといえば、むしろ女が店主で初老の男は下男のように見える。それは初老の男が店の喧騒にもまるっきり興味なさげだったからだ。
敬二は再びカーペットの方を見た。初老の男に気を取られている間に、話の筋が分からなくなっている。
「アイバーソンがそう言っていた」
男はそこで話を終わった。なんだって、リボ払いからアイバーソンなんていうNBAの選手のところに話が行くのか。敬二の頭は混乱した。数人から拍手がおこり、リボ払いの男は元の輪の中に帰っていった。
女が次に指名したのは神田だった。神田は少し間をおいて、静かに立ち上がり輪の中心に歩み出た。一度みんなをゆっくり見回し、女のところで止まった。敬二はいま気づいたのだが、女は足先を太腿に載せる蓮華座の姿勢で座っていた。白いワンピースの裾をふんわりと膝のところまで被せている。両腕を脱力して下に垂らし、目は細く開かれ、口元は笑っている。
「僕が人生で一番やりたくなかった仕事ってわかります? テレアポですよ。毎日毎日電話帳をみて何かのセールスのために電話を一日中かけまくる。子どものとき、セールスの電話に出てる母親の対応を見て思ったんです。母親は優しい人で僕に手をあげたこともない。それが家にかかってくるその手の電話にでると人が変わったように冷たく言い放つ。いらん、かけてくるなと、おそらくセールスだと分かった瞬間にそう言って一方的に切っている。母親にとって電話の向こうの声は人じゃない。だから、自分を取り繕う必要がない」
神田がこんなに雄弁だったとは知らなかった。敬二は体を神田の方に向け、聞き逃すまいとした。
「ボケ、死ね、はなくそ。これは僕が働いている職場でほとんど毎日言われてる言葉です。テレアポよりひどい仕事についているんです。サポセンと言われています。買ったばかりのコンピュータが動かないという相談でした。まず機種を特定するのに、ノートですか、デスクトップですかと訊ねます。すると、ノート、ノートあるよ、といいながら電話口で紙をめくる音がするんです」
がやがやと笑い声があがる。
「サポセンに電話をかけてくる人たちは電話口にいる僕たちをどう思っているのか。世の中、社長や部長は偉い人、平社員、フリーターは偉くない人。序列や順位は決まっているし、分かり易い。でも、どんな人でも上になるとき、偉い人になるときっていうのがある。それは消費者になっているとき。僕はこの消費者の下に常にいる存在なんですよ。消費者を怒らしちゃいけないと会社は言う。どんなに間違ったことを言っていても、そうですねと一旦引き取ってから説明する。そうしているうちに時間が経つ。問題が解決できても時間がかかったら怒る。解決できなければキレる。消費者ってそんなに偉いですか? なんでも許されていいんですか! 電話越しの絶対安全なところから製品の不良を口実に明らかに攻撃を仕掛けてくる輩! こいつらは絶対に許せない。一日中会社の尻ぬぐいをやらされ、クレームを喜びに変えろとか誇りを持てとか、処理の件数を上げろとか言われて。涙が……、自分が……、涙を流しているんです。気づいたら、通勤電車の中とかで。なのに自分の感情が分からない。感情を押し殺し続けていると、悔しさも悲しさも感じなくなる。だから最初は何で濡れてるんだろうって、顔を触って思ったんです」
神田は何かを思い出しているようにしばらく沈黙した。
「ここに僕をつけてきた人間がいる」
と、突然、敬二を指さした。他の客たちも一斉に指差す先を見る。いごこちが悪くなり目をそむけると神田がつかつかと近づいてきた。敬二のすぐ近くに顔を寄せる。そしてあごを引いてぐっと挑戦的な目つきになり睨み付けた。
神田はこの日を境に姿を消した。
敬二は夢をみた。あの車座の饗宴の中心に食堂の女がいる。女は白い小袖に緋袴の装束をまとい、神事を司る巫女のようだ。初老の男が発泡スチロールの箱の中身を女にぶちまける。それは粘り気のある透明な液体だった。
蓮華座に座っていた食堂の女は、軟体動物のように体をくねらせる。ぶちまけた液体のせいで白い着物が濡れて透け、乳首がはっきりみえる。女は自分で胸を揉みしだき、そのまま背をそらして頭頂部を床につけた。背中が持ち上がりブリッジの体勢になる。そこに三〇人の男たちが折り重なるように群がった。のたうちまわり、男たちはバタバタと気を失い、あるいはトランス状態になり倒れこむ。敬二も吸い寄せられるように女の胸元に屈みこんだ。すると、白い手で敬二の胸を突いて追い出そうとするのだった。いらん、かけてくるな。いつのまにか、敬二はインカムをしてその声を聴いていた。
どうして自分は男たちの輪から追い出されたのだろう。そのことにがっかりしている自分に気づいた。
神田が無断欠勤しだして三日目の午後、電話は繋がらずメールの返信もない。敬二は食堂へも行ってみた。客もだいたい同じ顔ぶれで、食堂の女がカーペットに上がる時間も同じだった。敬二はまだ輪の中に入ることができず、カウンターの椅子に座って話を聞いていた。夕方から0時の閉店時間まで粘ったが神田は姿をみせなかった。
無断欠勤四日目の朝、敬二は上司の柿沼に呼ばれた。柿沼はいつものようにパーカーのボールペンを手に机をコツコツと叩いている。感情を顔に表わさない代わりに、こうしたしぐさに感情が出る。この男はこれまで人を評価したことなどあったのだろうか。
「君の部下の神田が無断欠勤していると総務から聞いたが、いつからだ」
「今日で三日になります」
「わかっていると思うが、君のグループから長欠者がでたら君の管理責任が問われる。この職場では何よりタフさが必要だ。客のクレームにいちいち、しおたれているような奴は不要なんだよ」
柿沼はボールペンの先を机にコツコツと突き立てる手を止めない。いつもならここで委縮して思考停止になるのだが、この日は意識が飛んでいた。食堂の女や男たちの前で、神田のせいで詰め腹を切らされ、追い込まれた自分の話をしている状況を想像していた。
柿沼が敬二の目の前に投げつけた書類の音に我に返った。欠勤者の届出書だった。柿沼はこれを書いて提出しろと言いつけると、乱暴に席を立ってどこかへ行った。書類は机からすべって床に散らばった。床に落ちた書類を拾い上げようとしたとき、パソコンがスリーブから復帰して画面が見えた。何かの表が開きっぱなしになっている。人名リストだった。一番上に神田の名前がある。他にも本社から異動してきた一〇数名の名前が並んでいる。画面中央に「R対象」とある。見てはいけないものだと直感した。誰もいないか前後左右をふりかえる。
敬二は休憩室のパイプ椅子にもたれ掛かるように座り、今しがた柿沼のパソコンの画面に見た文字の意味を頭の中で反すうしてみた。リストの文字が頭の中で何度も浮かび上がってくる。神田の欄には退社勧奨の優先度を示す◎のマークがあった。自分が預かる他の班長の四人の名前にもすべて◎がついていた。なにより驚いたのは、備考欄に◎の者が辞めた場合はひとりあたり一〇万円のボーナスが加算されるとあった。それを受け取るのはリストラされる社員ではなく、柿沼だ。彼が統括になってから立てつづけに数人の社員が退社した。記憶の点と点が繋がった。このサポートセンターは本社のリストラ要員の送り部屋なのだ。
ぬるくなったカップコーヒーを口に運ぶ。グループ長の辞令を能力を評価されての昇進だと思い込んでいた自分の愚かさに吐き気をもよおしてきた。
空になった紙コップを手の中で握りつぶす。結局は自分もあの食堂に集まる連中と同じ側なのだ。
そうだ!
敬二は勢いづいてパイプ椅子から立ち上がった。大股で廊下を歩き自分の机に戻った。柿沼に渡された書類を机に投げると、神田の机のところへ回った。神田の隣の席にいた部下は電話の最中だったが敬二の動きに驚いて振り返っている。右手を左右に振って、何もないと合図を送った。それから神田の端末の電源を入れる。パスコードはさっきの書類と一緒に渡された。何かおかしなことになっていないか調べろということだろう。コードを入れてエンターを押すとアイコン画面がでてきた。
敬二が探しているものはそこにあった。神田が撮ったらしい食堂の女の写真ファイルだ。以前、神田がデジカメのコードをパソコンに繋いで写真を観ているのを注意したことがあった。神田はふて腐れたようにコードを抜いたが、その後も電話も取らずパソコン画面にじっと目を凝らしていることが多かった。
マウスを持ったまま手が止まった。それは女の裸の写真だった。窓から光が差し込んでいる。逆光になった女の顔はシルエットになり、顔の輪郭に沿って産毛が金色に光っている。別の写真は女の口元を写していて、神田らしき男の指が女の口の中に入っている。イチゴのように舌が唾液で濡れ、そこから漏れる息が男の鼻先に感じられるかのようだった。神田があの食堂の女とセックスをしている。いったい誰が撮影を……。撮影者は神田本人だった。大きくぶれた写真が行為の激しさを際立たせていた。まわりを気にしつつも何枚か拡大してみた。それは神田の上にまたがり獣のように体をのけ反らす食堂の女その人だった。カバンからUSBを取り出し、神田のコレクションらしきファイルは全部コピーをし、神田のパソコンから削除をかけた。
自宅に帰ってから、敬二はパソコンに持ち帰ったUSBメモリーをコピーして、神田と食堂の女の情事を見ていた。写真は店の床の上や厨房の中、奥の居室と思われる畳の上、ありとあらゆる場所でふたりは交わっていた。よくみると神田は常に何かを口に含んでいる。赤黒い塊が口から垂れ下がり、神田のたるんだ体の上に赤い筋を作っている。また、食堂の女の手が鷲掴みにした塊を神田の腹に載せたり、次のカットでは、それを神田にしがみつくようにして胸で押し潰すような写真もあった。
それを見ながら敬二は神田に猛烈な嫉妬を覚えた。数度しか会ったことのない食堂の女に抑えがたい欲望を感じた。なぜ、神田のような冴えない男を相手にするのか、その恍惚とした表情を敬二に向けてくれまいかと下腹を絞られる思いで画面を見つめた。
いったい男たちにとって食堂の女は何なのか。三〇人の男たちとも同じことを……。敬二は男たちの仲間に入りたいと思った。それと同じくらいコミュニティーを破壊したい衝動に駆られた。
敬二は閉店後に食堂を訪れた。店は灯りが消されていたが、中に人の気配がしたので裏口に回った。川岸に建つ食堂の裏口はデッキの一部が川に張り出しており、木造のそれはギシギシと歩く度に音をたてた。ガラス戸越しに中が何とか見えるところに来た。敬二の目に飛び込んできたのは、暗がりでもつれ合う裸の男女のシルエット姿だった。神田かと目を凝らしたが、それにしては体が小柄すぎた。暗がりに目が慣れてくると中の様子も見て取れた。しかし、敬二はそれをみて、えっと小さく声を漏らした。相手は、この間厨房の中で見かけた初老の男だった。尻の肉は削げ落ち、皺だらけの皮膚、薄くなり横に撫で付けた頭髪が動く度に不自然に顔に零れ落ちる。女は低い声で何かを呟きながら、だらんとした男のペニスにむしゃぶりついている。よく聞くとそれはすべて男を侮蔑する呪いの言葉だった。目は吊り上り口から泡が飛び出すほどに興奮を高めた女に男は海岸に打ち上げられた流木のように見えた。
敬二は一歩二歩と後ずさりをして裏庭にでた。暗闇で積み上げていた発泡スチロールの蓋があたって落ちた。その途端、耐えがたい悪臭が立ち込めた。おそるおそる中をのぞくと、家畜の内臓、魚の臓物、プレス機でつぶされた様な牛の頭部……。
敬二は空っぽの胃からすっぱい液がこみあげてきて、もどしてしまった。丼鉢に一杯に注がれる黒いスープの正体はこれだったのか。
そういえば、女子スタッフたちが神田の体臭や口臭をほとほと嫌がっていたことを思い出した。これを食べ続け、体から臭いが立ち込めた男だけを食堂の女は求めているのかもしれない。最初は慈愛に満ちた女を演じ、つまはじきにされた男たちを飼い慣らし、臓物の血で煮詰めた悪食で内部から腐らせていく。事実上の支配者になろうとしているのではないか。
突然店の入口の戸がガラガラと音を立てた。カブのエンジン音が遠ざかっていく。敬二が表に回ると、店に灯りがついている。戸の隙間から覗くと、食堂の女が厨房に入って何かしていた。胸元が大きく開いたTシャツを着、髪は汗でところどころ濡れて貼りついているものの、さっきの淫蕩に耽っていたときとは、全く別人の雰囲気を醸していた。
戸を二、三回軽くノックした。敬二は遅れてきた客を装い、腹ペコなので茶漬けでもいいから食べさせてくれと頼んでみた。
「鍵はかかってませんよ。どうぞ、入って」
その声は最初に聞いたときと同じ、可憐で屈託のない響きだった。
戸を開けて顔を覗かすと、にっこり微笑んでくる。もしかしたら、さっきの女とこの食堂の女は別人ではないのかと疑わしく思えてきた。店の中は醤油の香ばしい匂いに満たされていた。大鍋がぼうぼうと音を立てるガスの火で煮えている。
食堂の女は、当店一番の人気メニューを仕込んでいるから、出来立てを食べて欲しいと言った。そして大鍋からグツグツと煮えた黒灰色の汁を丼によそって出した。
敬二はそれが何であるかは分かっていた。だが、これを断って食堂の女の気分を損ねたら先に進めないと思い直し、何も知らないフリをして盛られた肉片を口に入れた。水風船のように薄い皮が弾けた。破れ目から大量の肉汁が流れ落ちる。それはまだ固まっていない血だった。
敬二は咄嗟に吐き出そうとした。すると、女は間髪を入れずに自らの口を敬二の口に重ねてきた。目の前の女の表情を見ようと体をよじる。すでに顔は上気し、目は三白眼になっている。体を離そうと押し戻すのだが、女は物凄い力でしがみついており、敬二のワイシャツのボタンを力づくで引きちぎろうとしていた。その手を払いのけると、今度はズボンの上からペニスを鷲掴みにした。
敬二は抗うのをやめた。乱暴に女の薄いTシャツをまくり上げ、ブラジャーを押し下げて乳房に食らいついた。食堂の女も敬二の髪の毛を掴んで強く押し付けてきた。
女は敬二の喉元に鼻を擦り付けながら、
「なんだ、お前はちっとも臭いがしないじゃないか」と言った。その声は低く、それまでの声とは違っていた。
敬二は顎のところでうごめく女の頭の匂いを嗅いだ。シャンプーやコロンの匂いではない、ほとんど悪臭といってもいいような臭いなのに、敬二は匂いを嗅いだ瞬間に女を押し倒して自分のものを彼女の中に押し込んで果てたいと思った。実際、女の股ぐらに手を滑りこませると下着ごとはぎ取っていた。
女はいつのまにか両手に豚か牛の臓物を持ち、自分の白い乳房にべったりと載せた。
「これは豚の大腸、これが牛の膀胱、これが子宮……」女の声は震えていて音階となり笛のような音をだした。
敬二の胸にトロ箱の中身をぶちまける。長い小腸を首に垂らし、自ら下の服も脱ぎ捨てて裸となり、敬二に覆いかぶさる。臓物は二人の激しく動く皮膚の間で吸着し、つぶされ、辺りに飛び散った。そうされながら敬二はここで殺されるのではないかと思った。
逃げるなら今だ。この女を力任せに投げ飛ばせばいい。しかし、この快感を断ち切る理性はない。どうしたことか、全身の穴という穴から臓物の汁と同じ臭いをしたものがとめどなく流れ、自分が女と臓物と同化した錯覚に陥っていった。
敬二は自分が臓物の一部になっていることに気づいた。女の熱く燃えたぎる臓物の中に頭の先からぬるぬると入ってしまうと、この快感は死と直結している。
女が罵る言葉を吐き始める。
お前は犬だ。惨めな野良犬だ。だれもお前を尊敬などしない。この世からいなくなっても誰も悲しみなどしない。女の手に切れ味のいいメスでもあるのか、敬二の胸や腹は紙で切ったような線が走り、そこからピンクの液体が滲みでている。
不思議と痛みはない。それどころか絶頂感はさらに高まっていく。とっくに射精はしている筈なのに、敬二のペニスはまだ女の体にしっかり掴みとられたままだ。女から侮蔑の言葉を吐かれるたび、それまでの人生が重さを感じない無意味なもののように思えてきた。それは理性や常識でねじ伏せ抑えつけてきた物が吹き飛び、生まれ出たままの自分に戻っていくようだった。
気づくと、自分のベッドで寝ていた。時計はアラームのなる二十分前だった。深い眠りについていたのか、昨夜の記憶がない。いや、食堂の女とのセックスの記憶は鮮明なのだが、どうやってあの血まみれの体に服を着て家に帰ったのか。風呂に入って体を洗ったのかどうか。あれは夢だったのか。風呂場に行き、湯船にお湯を貯める。洗面台の前でスエットを脱ぐと、胸や腹に赤い線が縦横に走っていた。そして、風呂場の排水栓に肉片らしきものが引っ掛かっていた。
会社に行くと柿沼に呼び出された。
神田が会社を辞めることになったと言う。無断欠勤が続き会社に損害を与えたからクビになったのだと言った。あらたに、本社から人が来るので部下として加えてもらいたいと言ってきた。
敬二は柿沼の鼻先で大きく息を吐いた。柿沼が顔を歪めた瞬間、握り拳で顔面を殴りつけた。柿沼のチタンフレームのメガネが飛び、その拍子に椅子から転がり落ちた。突然のことで言葉もでない柿沼にさらに覆いかぶさると、胸ぐらを掴んで、
「ほお、それでこんどそいつがクビになるのはいつごろだろうねぇ。カキヌマサン」
フロアじゅうに響く声量で怒鳴った。
男子スタッフが四、五人で敬二を羽交い絞めにしてきた。それを振り切って、また柿沼に突進していく。
恐怖に顔を引き攣らせ、床を這っていこうとする柿沼の傍らにパーカーのボールペンが転がっていた。敬二はそれを拾いあげると、柿沼の手の甲に思いきり突き立てた。
柿沼の悲鳴とどよめきが広がるのを尻目に、敬二は会社をでた。その足は川沿いの食堂に向かっている。もう女を誰とも共有はしない。食堂の女を連れ出すと決めた。会社は警察に通報しただろうか。そんなこと構うものかと拳に力をいれる。一緒に逃げようと言えば、女はきっと来る。嫌はない、絶対に。
食堂には誰もいなかった。鍵は閉められ、いつも開いているはずの勝手口も戸締りされていた。
食堂の女が消えた。
再三の会社からの呼び出しにも無視を決め込んだ。なぜか警官が家に来ることはなかった。敬二の日課は毎日食堂に行くことだけだった。あれから店はずっと閉まったままだ。初老の男も姿をみせていない。
ひと月近くたったある日、食堂の女が死体で発見されたとニュースで見た。敬二は飛び出すように家を出て食堂に向かった。黄色いテープで立ち入り禁止にされた店を数人の捜査員が頻繁に出入りしていた。その一人が女物と思われる透明のクリーニング店のビニール袋に入れられた服を持っていた。開口部が大きくあいた白いワンピース。その服には見覚えがあった。最初に会ったときに食堂の女が着ていた服だ。思えば記憶にある服は全部白だったような気がする。白い服は何度も赤黒い血に染まり、再びクリーニングされ白に戻されていたのか。
近所に住んでいると思しき年寄りが、敬二の横に来て、
「裏の川になげこまれていたらしい。発見が遅れたのは、ナイフで内臓がえぐり取られてなかなか浮かびあがってこなかったからだ」と教えてくれた。
それからまもなく、事件の続報をテレビでみた。犯人逮捕の速報として。警察署に血の付いた手提げ袋を持った男がやってきた。男はその場で逮捕された。犯人が自首してこなければ迷宮入りになっていたかもしれないほど謎の多い事件だったと、関係者のコメントをアナウンサーは含みのある言い方で伝えた。テレビ画面は神田の顔を大きく映しだした。
ある平日の夕方、敬二は満員の通勤電車の中にいた。肩先まで伸びた髪の毛をゴムで括り、顎に髭を蓄えた姿はかつての同僚が見ても絶対気づかないだろう。座席に座り顔を上げ、通勤客の顔を見回す。視線を合わす者はひとりもいなかった。だれもかれも、自分を欺き押し殺した者ならではの無表情が並ぶ。敬二はうつむきボタンを留めていないポロシャツの胸元に手を入れる。何度か掻き毟る仕草をすると、斜め前のOL風の女が顔をしかめた。しかし、敬二に見られていると気づくと慌てて表情を戻した。もう一度胸を掻き毟ると、指先に線上に盛り上がった傷跡に触れた。
敬二は目を瞑った。海辺の町。国道が終わり、磯の匂いのする波打ち際のボートの前に立つ。ためらうことなく舫いを解く、ボートは静かに海に向かって動きだした。敬二はそれを追いかけ海に入る。ボートの縁に手をついて中をのぞき込む。中に透明なビニール袋に入った黒い汁塊がタプンタプンと揺れていた。
敬二は目を開いた。足の間に薄汚れたトートバッグが置いてある。ゆっくりと右手をバッグの中へと沈めていった。