虎夫がその男に会ったのは、深夜にパートで勤めているパチンコ店の清掃を終えての帰り道、ちょうど緑町公園の出入り口脇のバス停にさしかかったときだ。
誰かが呼びかける声に、思わず足を止め周囲を見渡した。だが月明かりのなか、見渡す路上に人影はない。二月の真夜中ともなれば冷え込みも尋常でなく、着古したダウンジャケットを透りぬけた冷気が肌を刺し、思わず身を縮めた虎夫のまえに公園内からぬっと人影が現れた。
フード付きのパーカーを着ていて容貌はよくわからないが、男であることは声でわかった。相手は虎夫には目もくれずに、道路と公園の境界にある側溝を覗き込み「ノン、ノーン」と低い声を発している。みたところ、五十歳の誕生日を迎えたばかりの虎夫には、自分よりは若く思えた。
「ノン、ノーン」男の声を凍えた風が掠っていく。公園内からはみ出した立木の枝が道路沿いに張られた電話ケーブルと擦れてパキパキと乾いた音をたてた。思わず仰ぎ見た虎夫だが、同時に相手も振り仰いでいて目が合った。
「どないしましたんや」
このような場合(とき)いつもなら、関わりないとばかりに一瞥して通りすぎるのだが、思わず声をかけたのは男の声が、特にノーンと伸ばすところがあまりにも哀調を帯びて虎夫の胸に響いたからだ。
「猫を探しています。名前はノン、まだ生まれて半年なんです。誰かに拾われていればよいのですが。もし、この寒空の下で迷い猫になっているとしたら放っておけません。あ、それからノンの特徴は左頬の鼻から口元にかけて黒っぽいですから見ればわかります」
男は一気に喋ると鼻水をすすりあげ、再び暗い側溝を覗き込んだ。
「よっしゃ。こうなったら乗りかかった船やないか。ワシも探したげるわ」
「えっ、そんなん悪いですわ」
虎夫の言葉に、男が驚いた顔で振り返る。その顔は意外に若く、四十代か、いや三十代とも思えた。
「何もいま一緒に探す言うてるのと違う。それにワシも昨日や今日この土地に来たわけやない。それなりに情報網もあるがな。こんな猫を見かけへんか、言うて網を張ったるがな」
男は納得したように頷く。虎夫が猫が見つかったときの連絡に名前と電話番号か住所を尋ねると、男は首を振り、名乗るほどの者ではありません。自分は事情があってこれから遠いところへ行かねばならない。ノンを見つけたら、どうかあなたが飼ってやってください」と言った。
虎夫の腑に落ちない表情を察してか「ノンを頼みます。可愛がってやってください。」と言って男は右手を差し出した。誘われるように虎夫は握手を交わした。相手が素手なので慌てて手袋を脱いで握ったその手は、凍えるように冷たかった。
男と別れた虎夫は、途中近道をして緑町団地の中を通り抜けることにした。昭和の高度成長期に建てられた古い公団住宅で、周囲を高さ二メートル近いコンクリート塀に囲われた団地は、一見閉鎖的に見える。それを裏付けるように、通り抜け禁止だの、部外者立ち入り禁止、だのとペンキで太書きされた立て看板が、仰々しく入り口に取り付けてある。ところが、狭い緑町の町内を分断する形で団地があるため、敷地内を通り抜ける者は結構多かった。
部外者の立ち入りを拒む立て看板を横目に、虎夫は東側の門から足を踏み入れた。このまま花壇のある中庭を突っ切れば団地の西側の門だ。西門を出れば、その先は旧集落へと続く。かつては耕作地であり、新興住宅地である東側一帯と違い、このあたりは旧い民家が多く残っていて、そのなかを軽自動車がやっと通れるばかりの道がうねうねと縫っている。
もう五、六分も歩けば自分の住む黒田荘にたどり着くはずだ。はず、というのは団地を横切るこの道順で虎夫は何度も迷っているからだ。だから、いつもは遠回りになるが緑公園沿いに迂回する市道を通る。それに今日はパチンコ店の給料日だった。マネージャーが愛想笑いで、一日も休まずに勤めてくれたよってに、僅かだがイロを付けといたからね。来月も頼むよ。とか言って差し出した薄っぺらい茶封筒は、硬貨で底が膨らんでいる。
どうでもいいけど、早く帰って焼酎のお湯割でもグイッとやらねば身体が冷え切ってしまっている。そんな思いに駆られながら、集落のなか程にある立ち飲みの居酒屋のまえにさしかかった。日付が変わって一時にもなろうとする時間なのに、そこだけガラス戸を通して明かりが洩れている。だいたいにしてこの店は変わっている。
この店、昼間は子供相手の駄菓子屋になり、いつも足の不自由な老婆が店頭におかれたパイプ椅子に腰掛けて店番をしている。ところが夜ともなれば、やたら厚化粧のママが安酒を飲ませる居酒屋に変貌するのだ。店先に置かれた二台の古ぼけたガチャガチャの機器だけが、昼も夜も据えられたままだ。
それに駄菓子屋なのに、子供の姿をほとんど見かけない。たまに昼間に通って見かけるのは、店番の老婆を囲んで話し込んでいる何人かの老人たちでしかない。
いきなり入り口のガラス戸がガタガタと軋ませながら引き開けられ、なかから女が表の様子を窺うように顔を突き出した。おなじ黒田荘に住む文江だった。
「あら、虎ちゃんやないの。いま帰り」
女の背後からは、酔った男の話し声や女の高笑いする声が往来に洩れてくる。
「おう」虎夫は生返事を返したものの足を止めることなく通り過ぎる。外に出てガラス戸を閉めた文江は小走りで追いつき、虎夫の左腕に自分の腕を絡めた。
「丁度いいところで会ったわ」
そう言い、虎夫の顔を覗き込んでくる。酒臭い息を避けるように虎夫は顔を逸らせるが「なんや、迷惑そうやな」そう言いながらも、なおも顔を近づけてくるのだ。
「えらいご機嫌やなぁ、勝ったんか」
「あかん、ここのところ負け続きでやけ酒ばっかしや」
かなり酔っているのか文江は虎夫に体をあずけ、しなだれかかるようにして歩く。昼間のほとんどをパチンコ屋で過ごす彼女は、完全なパチンコ依存症だ。生活保護を受給して暮らしながらも、そのほとんどをパチンコにつぎ込んでいるらしい。というのも、これまでに何度も生活費が足らないからと泣きついてくるのだ。パチンコの資金とわかっていても手元にカネがあれば二万、一万円と融通してやっていた。勝ったら返すというが滅多に勝つことはないうえ、たまに勝ったからといくらか返してくれるが、翌日には大負けしたとか言って返した分を借りにくるから、いつまでたってもその繰り返しが続いている。
「虎ちゃん、ウチのあげた自転車は?」
不意に文江が虎夫の顔を見て言った。
「あれな、えらい目にあったがな」
虎夫は顔をしかめて答えた。一月ほどまえのこと、通勤に乗りや、と文江がどこからから自転車を持ってきてくれたのだ。夜道を歩いての仕事場との往き帰りはあまり気分のいいものではない。その日から自転車に乗っての通勤をしていたところ、つい先日の夜にお巡りに止められて職務質問を受けた。
そこで自転車のことを追及され、苦し紛れに駅前に置き捨てられてあったのを乗ってきた、と言ったところ、交番まで引っ張られて散々しぼられたのだった。
そのことを話すと「ごめん、ごめん、こんど、ヤバないやつ持ってきたげる」と言ってあっけらかんとしている。文江はそういう女だ。
「虎ちゃんとこの道で会うのって、珍しいやん」
思い出したように話を変える文江に、虎夫は緑公園のところで会った猫を探す男との一件を話した。
「猫の名前はノンというらしい」
左頬の鼻から口元へかけて黒いとノンの特徴を告げると、文江がいきなり歩みを止めた。
「なんや、ノンを知っているんか」
「知ってる。その迷い猫ならスーパーの壁に貼ってあったわ」
文江はウチも気をつけて探したげる、と言って大きなゲップを二度した。
「せやけど、探してる男の言うことが、おかしいのや」
「なんで」
「猫をみつけても連絡は不要、そのまま飼ってくれというのや。理由は遠くへいくからと言うのや。なんかおかしいやろ」
「そういえば、スーパーの張り紙にも連絡先は書いてなかった気がする」
文江が思い出すように言う。喋りながら歩くうちに、高いコンクリート塀に囲まれた旧農家の前にきた。ゆうに三メートルはある高さで、外からは瓦葺きの屋根と庭木の先端あたりが望めるばかりで、屋敷のなかの様子は窺い知ることはできない。まるで要塞みたいな家を、虎夫は監獄屋敷とよんでいた。
いつ通っても閉まっている正面玄関の門扉脇の、柱にかかる分厚い木製の表札は灼けて焦げ茶色に変色しているが、黒田と太く書かれた墨痕の文字が辺りを睥睨している。
コンクリート塀に沿って角を右に折れると家並みが途切れて、畑のなかの農道みたいな細い道に出る。監獄屋敷の真裏になり、そこにイチジクの古木があって、まるで木霊でも宿るかのごとく、なんとも面妖なたたずまいを見せている。下方の枝は地面を這うように広がり、上になるほど縦横に絡み合うように枝が伸びていて初めて見る者には、奇異としか言いようのない光景だ。
過去に何人かの村人がこの木で首を吊っているとかで、それを忌み嫌って集落の者はあまり近寄らないが、イチジクの実が熟れるころになると虎夫には格好の代用食になった。そのイチジクの木の脇を通り抜けると、突き当たりが黒田荘だ。
黒田荘は、集落に僅かに残る田畑に囲まれて建っていて近接する住宅はない。一階に三戸、二階に三戸と計六戸で、東京オリンピックの年に建てられたというから耐用年数はとうに超えている代物だ。当時は文化住宅と呼ばれて随所で見られたようだが、いまに残るこの建物も木造モルタル塗りの外壁はひび割れだらけだ。
この地にくる以前の虎夫は、建築現場に派遣される労務者として、飯場を渡り歩いていた。ところが、近年の建築不況のあおりを受けて廃業をする飯場が多いなか、人づてにこの地で手広く人夫の派遣業を営む飯場があると聞き、仕事を求めてこの地に流れ着いたのだった。
ところが、僅かの着替えを詰め込んだリュックサックひとつ背負って訪ねた業者は、すでに一年もまえに夜逃げをしていて飯場は廃屋と化していた。
途方にくれながら、電光看板に引き寄せられるように立ち寄ったのが町はずれのスナックだった。場末そのものの雰囲気を濃厚に漂わせる店の、カウンターの壁際の席に腰掛けた虎夫の隣で、酔いどれていたのが文江だった。
小柄で浅黒い顔に大きな目は、南国風の顔立ちを思わせ、虎夫にはちょっと気になるいい女と思わせた。
そこで言葉を交わすうちに、この町へきたわけなどを話した。文江は得意げにカラオケを歌っていた初老の男を虎夫に紹介した。男は黒田と言い地元で農業を営む傍ら、文江の住む黒田荘の家主でもあった。
そんな出会いのなか、文江の取りなしで虎夫はこの古びた借家の住人になり、すでに四年になる。
虎夫の部屋は一階の右端だが、同じ一階の一軒おいて左端が文江の部屋だった。自分の部屋の玄関の戸を開けて「それじゃあ、お休み」と文江を振り返ると彼女は「ちょっと一服させてよ」と言いながら後について入り込み、そのまんま部屋に上がり込んでしまった。
「よう散らかってるなぁ。ちょっとダンゴ虫まで這ってるやん」
畳のうえに脱ぎ捨てたシャツ、ビールの空き缶、ヌードグラビアのページを開けたままの週刊誌。その奥に敷きっぱなしの万年布団。灼けて変色した畳の上を這うダンゴ虫に目を落としながら文江が顔をしかめた。
「ダンゴ虫はワシの仲間みたいなもんや。どこへいっても歓迎されへんけど、ゴキブリみたいに見つけたら殺すとまでは思われへん」
「けったいな開き直りやな」言いながら、文江は布団の上にごろりと仰向けに寝転んだ。
「文ちゃん、寝るのなら帰って寝んかいな」
「虎ちゃん、今晩一緒に寝たげるから好きにしてもええよ」
迷惑げな虎夫の言葉に、文江は半身を起こすと虎夫に酔眼をむけて言った。酔っ払いやがって、どうもならんな。虎夫はチッと舌打ちをする。
「なにアホなこと言うてるんや。いつまでも酔うてんと、送ったるから帰ろ」
「酔っ払ってないで、このままやったら、これまでの借りたお金いつまでたっても返されへんから。ここらで一度精算しとくわ」
彼女を送ろうと腰をあげかけた虎夫を見上げて言い、文江はしどけなくふたたび寝転んだ。文江はパチンコで負けが込むと、めぼしい男に声をかけてはパチンコ代を稼いでいるのだという噂が、虎夫の胸をよぎる。実際パチンコで負けがこんで持ち金がなくなると、文江は当然のように虎夫に無心をした。
集落のはずれにある養豚場で1日四時間時給八百円のアルバイト、深夜にパチンコ店の清掃で一時間働いて千二百円、一カ月まるまる働いてもざっと手取り十万円前後で、それ以外に収入のない虎夫だ。
ところが、養豚場のアルバイトもパチンコ店の清掃の仕事にしても、コネを持つ文江の口利きで雇われたのだ。そんな経緯もあって、断り切れずに一万円、五千円と貸した額もここ半年の間に五、六万にはなっている筈だ。
「あかん、ブツでは受け取れんからな」
「格好つけてんと、早よおいでや」
文江は歳の割には短めのワンピースの裾をまくりあげて、露わになった両の太股を平手で叩いて挑発する。酒が回っているせいもあるのか薄桃色の太股の肉が叩かれるたびに、たゆんでペタペタと音を発した。文江も女で勝負するには、いささか旬を過ぎてるな。そんな思いで見つめる虎夫に「どないしたんな。具合でも悪いの」文江が口先だけの心配をする。
「もう、やめろや。借金の形に文ちゃんを抱くわけにはいかんよ」
「虎ちゃん、あんた名前のわりには、あかんたれやなぁ。それとも、すっごく真面目な人なん?」
「真面目なもんか! 不真面目が服を着てるようなワシや。インスタントラーメンとパンのヘタばっかし食うてるから、にわかに言われてもそんなスタミナが出ぇへんだけや」
当然挑んでくるものと思っていたのか、文江は腑に落ちない顔を虎夫にむけた。
「虎ちゃん、相変わらず養豚場にくるトラックから、餌のパン屑あさってんの?」
養豚場には毎日、人間様の食べ物を加工するときに出る屑を積み込んだ小型トラックがくる。虎夫にとっては食料調達の時間がきたのだ。運転手が豚の餌であるパン屑や、大量のオカラを下ろして帰っていったあとは、食パンの端切れやオカラなど、めぼしいところをくすねてくるのだが、それは虎夫の貴重な食料源でもあった。
「このまえに居酒屋で会った豚舎の親方が言うてたで。餌を運んでトラックがくると、虎夫の奴目の色を変えて豚の上前をハネとる。けど見て見んふりしてるんや。とか言って笑ってたわ」
「見られていたんか。貧しき者の味方なんやな、ほんまはええ親方なんや」
「買いかぶり過ぎや。酔うといつもウチに五千円でやらせろ。って耳元で囁くんよ。ほんま好かんわ」
「五千円は酷いな、もうちょっと吹っかけたれ」
「あかん、あの親方ドケチで通ってるもん。それに、いつも生肉をニンニクタレつけて食べてるから、精力ありすぎるし匂いぷんぷんするし、これだけ出すと言われても渋々やな」
文江はいいながら、人差し指と中指とを立ててみせる。なんや、そういう問題かよ。虎夫は心中で苦笑する。
実際にトラックに積んでくる廃棄食品は豚が食うから腐ってはいないし、オカラなど結構栄養価の高いものもある。おかげでこうして生き延びているから、黙って見逃してくれている豚舎の親方には、むしろ感謝しなければならないのだ。しかし文江の言うことも、わからぬこともない。あの親方、テカテカと脂ぎった顔で、見るからに精力的な容貌だしな。
「あれって、豚の餌なのに産業廃棄物になるそうや」
ヘタにあれこれ言って、親方をとっちめる話になってもまずい。虎夫は話題を変えた。
「あの染み、見るたんびに大きくなっているみたい。そう思わへん?」
仰向けになった状態のままで、天井を見つめている文江の言葉に、虎夫も天井を振り仰いだ。窓際に近い天井板に、赤茶色の染みが地図を描いたみたいに広がっていて、中心部分から端になるほど薄茶色に変色していた。
この部屋の真上に住んでいた若者が、首を吊って十日目に腐乱死体で発見されたとか。八月の猛暑の続く日のことで、ひどい悪臭に住人が家主の黒田に連絡した。
やって来た黒田は、驚いて警察へ連絡したそうだ。発見が遅れたのは、当時真下のこの部屋が空き部屋であり、天井の染みも這い回るウジ虫にも気づかなかったからのようだ。虎夫が、この部屋の住人となる三月前のことだったと聞く。黒田は、いまだに当時の話を持ち出すたびに、大げさに顔をしかめて嘔吐する仕草までするのだ。
その騒ぎで気味悪がった他の住人は皆引っ越していき、文江だけが残っていたのだ。生前の若者と時には話をすることもあったらしいが、彼女はそのことについては多くを語らない。
「ちょっとあの染み、なんか北海道の地図に似てへん?」
「見方によっては、そう見えるかなぁ。またなんで?」
「あの子、北海道出身や言うてたから、きっと故郷へ帰りたかってんやわ」
文江はむくりと半身を起こし、虎夫を見つめてしんみりと言った。
「死んで、魂は故郷へ帰っていったんやろ」
「虎ちゃん、死んだらあの世へいく言うやろ。あの世ってほんまにあるのかなぁ」
布団の上であぐらをかいた文江は、酔いが醒めてきたのか真顔で虎夫に問いかける。
「知らんよ。そんなしち面倒くさいこと、考えたこともないわ」
それより死臭が臭ってくるような天井を眺めて、四年の間寝てきたワシはどうなるのや。この際文江をたきつけて家主に天井の張り替えをさせたろ。虎夫は一計をめぐらせた。
「文ちゃん、ええ加減に天井を張り替えてくれるように、黒田のおやっさんに言うてみてくれへんか」
「無理無理、本当はこの建物壊して建て替えるか、更地にして売りたいらしいんよ。けど、ここへ入る道が軽自動車しか入られへんやろ。周りは他人の土地で道も広げられへんから建て替えも、売りもできん。言うてぼやいてたから」
酔いが醒めてきたのか、文江は乱れた服装を直しながら言った。
「考えてもみいや、今どき一万円の家賃てある?」
わかった、わかった。という顔で虎夫は頷く。破格の低家賃でも空き家のままより、住人が居る方がいいやろ、と交渉してくれたのは文江だ。
その折りに、なにもあえて染みのある部屋でなくても、他の空き部屋にしてくれ、と頼む虎夫に、黒田は、それなら二万円と言ってニヤリとした。相手の腹が見え透いて、虎夫はこの部屋で我慢することにした経緯がある。
ところがどういう訳なのか、文江は五千円という低家賃で入居しているらしい。しかも、その家賃も長らく滞らせていても平気や。などと言っていたことがあり、強い女だと思った。
あるとき監獄屋敷の裏口から出てきた黒田が、背を丸めてこちらにやってくるのが見えた。ちょうどイチジクの古木にさしかかったときに群れて留まっていたカラスが一斉に飛び立った。そのときの黒田の驚きようが可笑しくて、見ていた虎夫は思わず声を出して笑ったことがあった。
やって来た黒田は虎夫の部屋の前を通り過ぎて、文江のところに入っていった。丁度よい具合や、窓のガラスがひび割れているの取り替えてくれるように頼もう。と思い立って文江のところにいくと、玄関の戸に鍵がかかっていた。
いま黒田が入るところを見たのに、と訝ったがすぐに、そうか、文江はいま家賃を払っているのか。虎夫は妙に納得したのだった。
酔いが醒めてきた文江は「帰って寝るわ」と言うと立ち上がり、突っ立っている虎夫に「布団たまに干しや。黴び臭いで」と言って出ていった。
明くる日の正午ごろに目覚めた虎夫は、僅かの給料がなくならないうちにと、駅前近くのスーパーへ出かけた。安売りの即席ラーメンなどを買い込み、レジをすませて正面の壁をみると様々な張り紙がしてあるのに目がいった。
将棋同好会の募集や、近隣の社寺を巡る歩こう会の予告。社交ダンスクラブの募集呼びかけから、町内の防火訓練の予告など、さながら地域の情報交換板の様相だ。
そのなかで、迷い犬や迷い猫を探す張り紙のなかに、ノンを探す張り紙があった。文江の言っていたのはこれやな。虎夫は張り紙に刷られた猫の写真に見入った。
カメラ目線で写っている子猫の左頬から口元にかけて、一見アザみたいに見える黒っぽい毛で覆われている。ところが奇妙なことに、探し主の名前が記されていない。それに住所や電話番号なども、どこにも書かれていない。
この張り紙も、夜中に緑公園ところで出会った男が掲示したとしたら、無責任やないか。保護したら大事に可愛がってくださいますよう。と書かれている文字を見つめながら、虎夫は思わず、どういうこっちゃとつぶやいた。
スーパーを出てからの帰り道、緑団地の東門ところまでくると子猫がいる。その猫の顔をみて虎夫は思わず声をあげた。「ノン!」なんと口元の黒っぽいアザのような毛はノンに違いない。近寄ろうとするとノンは団地の中へ逃げ込んだ。
虎夫も後を追って団地の敷地内へと足を踏み入れた。ノンは十メートルばかり先を駆けていくが、子猫のくせに意外と足が速い。こちらは手に提げた特売で買った、カップラーメンの入ったレジ袋がバランスを崩して思うように走れない。そのうちノンはひょいと植え込みのなかへ体を踊らせて姿を消した。
ノンを見失ったものの、これ以上団地内をウロウロすれば不審者と間違われかねない。追跡をあきらめて気づくと行く手に西門が見える。団地内をほとんど縦断してノンを追いかけていたのだ。
西門を出てまっすぐにいけば、居酒屋兼駄菓子屋の前を通る。集落内の低い瓦屋根の家並み、使われなくなった火の見やぐら。どこか懐かしいような風景のなかを歩いていると、くぐり戸から顔だけ出して、こちらを見ているどこかで見覚えのある老人がいて、軽く会釈して通り過ぎた。
やがて、駄菓子屋のまえまでやって来た。店先で丸椅子に腰掛けている、足の悪いお婆さんがこちらをむいているが無表情だ。ワシの顔忘れたんかいな。と思ったらなんや居眠りをしてるのか。ちょっとまて、お婆さんの足下にチョコンと座っているのは紛れもないノンではないか。
なんだか嬉しくなり、虎夫は足を止めた。近寄ると、お婆さんには構わず「ノン」と呼んでみた。ノンは一瞬虎夫を見上げたがすぐに身を翻して店のなかへ駆け込んだ。後を追って店のなかへ入ると、カウンターの上に置かれたアメ玉や駄菓子の容器ごしに目を配るが、誰もいないしノンの姿もない。気配に振り向くと表で居眠りをしていたはずのお婆さんが、杖に身を預けながら入り口に立っている。
「ノン、いや猫を探してるもんで」
虎夫が言い終わらないうちに、お婆さんは大儀そうに店の奥を指さした。見ると土間続きの開け放たれた裏口の外で、洗濯物が揺れていた。
そのつぎにノンを見たのは、一週間ばかり経ったパチンコ店の清掃からの帰り道だった。寒月を思わせる月夜のなかを、歩きながらなんとなく文江のことを思った。居酒屋のまえで酔っ払った文江と一緒に帰って以来、会っていなかった。
相変わらずパチンコで負けた憂さ晴らしで、居酒屋で酔っ払っているのかな。ちょっと覗いてみようと思い立った。
緑団地の東門から入り、団地内を五十メートルほど横切って西門から出ればすぐに居酒屋の前にさしかかるはずだ。西門まで十五メートルばかりのところまできて、以前ノンを見失ったのはこのあたりではないかと、虎夫は何気なく中庭に目をやり思わず息をのんだ。
植え込みに囲まれた芝生のうえに、無数の猫がいるではないか。三十匹いや五十匹はいると思えた。白猫、黒猫、茶色い毛がまだらのトラ猫など、それらが鳴き声ひとつたてず、ボス猫とおぼしい茶色のトラ猫を囲んで円陣を組んで猫座りしているのだ。首輪をつけたのもいて、この付近にいる猫という猫がすべて集まっているのかもしれない。さらに目を凝らせるとなんと、ボス猫のそばに控えているのは、もしやノンではないのか。
このまえ、居酒屋兼駄菓子屋の裏口から逃げられるという間の抜けた失敗をやらかして以来、ノンの姿を見かけていなかった。それが思いもしない突然の再会だ。
まだ子猫だし、顔の黒アザから、あれは絶対にノンだ。確信を持った虎夫は「ノン」と呼ぼうとした。ところがどうしたことか、声が出ない。喉の奥が硬直してどうしても出ない。そのうちこれだけの猫に襲われればたまったもんやない。という気になり、そろりとその場をはなれると一目散に西門に向かった。
黒々とした屋根の影が連なる集落内の道を、虎夫は夢中で歩いた。なにか忌まわしいものをみたような、それでいて滅多に見られないものを目撃した、ある種の高揚感が虎夫の脳裏を渦巻いていた。
行く手の路上に明かりが洩れていた。いつの間にか居酒屋のところまできていたのだ。虎夫は一旦立ち止まったものの、引き寄せられるみたいに入り口の引き戸に手をかけた。
普段は滅多に立ち寄ることがないのだが、先ほど猫の集会を見てから、今夜は異常に人恋しくなっていた。
「いらっしゃい。色男!」
店のママは虎夫の顔を見ると、男客なら誰がきても言うこのセリフで迎えた。タバコの煙と何かを焼く甘辛い醤油の匂いが渦巻くなかに文江がいた。
「虎ちゃん、珍しいやん」
数人の男客に取り囲まれるかたちで、文江は重ねたビールケースのうえに立て膝で座っていて声をかけてきた。彼女のトレードマークみたいな裾の短いワンピースが、これでもかというくらいめくれて下着が露わだ。
まわりの男たちの視線を意識した、文江流のやり方だ。そのうちに懐に余裕のある男が言い寄るのを待っているのだ。
カウンターに寄りかかった虎夫のまえに、プラスチック製のコップがおかれてママがビールを注いでくれた。以前に飲み客同士の諍いがあり、派手にグラスなどを手当たり次第に投げ合ったらしい。割れたグラスの破片で怪我人まで出てから、プラスチック製になったという。
虎夫は、猫の集会のことをここで言っても、誰も聞いてくれそうもないし先ほどの高揚感も薄れてしまっていた。それに、文江が酔った男たちに言い寄られるのを横で見ているのも気分が悪い。
ビール一本飲み干すと、虎夫は五百円玉をパシッと音を立ててカウンターにおいて店を出た。
自宅に帰った虎夫が一息ついていると、あとを追うように文江がやって来た。どうやら、狩りはうまくいかなかったらしい。
「ふん、シケタ奴らばっかしや」
独り言みたいに呟きながら文江は上がり込むと、万年布団の上に大の字になって寝転んだ。ここまできたなら、そのまま自宅に帰ればよいのに。そんな文江を眺めつつ、虎夫はいつもながら思う。
「虎ちゃん、あの世ってセピア色なんかなぁ」
「知らんよ。そんなこと」
「ほら、見てみぃ、あの染みの色やけど周りからどんどんセピア色に変わってきてるやん」
また、天井の染みか、虎夫は「そうかなぁ」と生返事をする。
「あの子な、定職がなくてずっとプー太郎してたけど、性格はええ子やったんよ。ウチのことをおねぇさんと呼んで気を許してくれてたから、新聞屋とか豆腐屋さんに口きいたげたけど、朝早いのが弱かったから続かんかってん」
変死した若者に、文江は思い入れがあるようだ。それからも文江は、駅前のスーパーで自転車置き場の整理員を募集してたから、店長にこねつけていかせたが結局続かなかった、などと言い、大きなため息をついた。
「時々ラーメンとか菓子パンを持って訪ねたら、ウチの目のまえで袋を破ってかぶりつくんよ。お腹がすいてたんやねぇ」
「面倒見がよいなぁ。文ちゃんは」
「最後に、遠いところへいくことになったから、とか言ってたけど遠いところってあの世のことやったんかな」
思い出すように、そこまで話して文江はむっくりと半身を起こした。
「あの子がああなったのは、ウチにも責任があるんや」
「なんで、また……」
「ウチあの子と一度だけ、寝てあげたことあるんや」
「……」
「あの子な、口開くと死にたい。生きててもしかたない。けど女性経験もなしに死ぬのだけは嫌や。言うててん。なんや可哀想になって……。もう、これでいつ死んでもいい。とか言ってすごく感激してたわ」
「だから、良いことをしてやったとか思ってるわけ?」
文江の話は唐突だ。虎夫は初めて聞く文江の言葉に、目をしばたいた。
「反対や、後悔してるんや。ウチがそんな気を起こさなかったら、あの子死んでなかったかも……」
「考えすぎやろ。かえってこの世に未練を残さずに、死ねたのと違うか」
「仕事紹介したっても続かへんし、やる気あんのんか。と言いたなる時もあったけど、なんか放っとかれへん感じやってん」
「文ちゃんは優しいからな……。あんまり思い詰めん方がええで」
虎夫は慰めながら、テッシュを差し出すと、手にとった文江は泣きながら鼻をかんだ。そのテッシュを丸めてバッグに入れながら「これノンにどう、可愛いやろ。青いから男の子にちょうどやろ」と猫の首輪を取り出して見せた。「ノンはまだ男の子と解ったわけではないやろ」と言うと、
「ついこのまえ、駄菓子屋のまえでノンと他の猫とじゃれ合って居るところを見たんよ。タマタマがついているのもしっかり見たわ」
文江は言い終わると、アハハと口を開けて笑った。
「せやけど、その首輪どうやってノンの首につけるかやな」
「努力してみるわ」
文江はそう言い残して、首輪をバッグにしまい込むと帰っていった。
その日を境に、文江の姿をみかけなくなった。最初のうちはパチンコをしに、隣町あたりまで遠征をしているのかも、ぐらいに思って気にもとめなかった。ところが一週間が経ち、次第に文江のことが気がかりになってきた。
虎夫が文江の家の戸をたたきながら名を呼んでも応答がない。夜の居酒屋にもここのところ顔を出していないらしい。文江は黙ってどこへ行ったのか。駅前の商店街や文江がいきそうな隣町の何軒かのパチンコ店へもいき、消息を尋ねても行方はわからなかった。
これまで文江に特別な感情を抱いている自覚など全くなかったが、彼女が突然居なくなったことによる、喪失感めいた思いはどうしようもなかった。携帯電話などという代物はどちらも持っていないから、文江の現れそうなところへ探しにいくしかない。毎日文江の部屋の前にいき、不在を確認するが、それからどこをさがせばよいのか途方にくれるばかりだ。
文江がいなくなって十日ばかり経った日の昼下がり、養豚所での仕事を終えての帰路だった。監獄屋敷の塀の傍を抜け、イチジクの古木のところまで来ると妙に騒がしい。
みると数羽のカラスが騒いでいる。この時期にイチジクなどないだろうに、と思いながら目を凝らせると、絡んだ枝のなかに一匹の猫がいる。虎夫の目が釘付けになった。
「ノン!」
思わず声に出して呼んだが、カラスたちと対峙しているノンにはこちらを振り向く余裕などないとみえて、うなり声をあげて威嚇している。一方カラスも盛んに激しい鳴き声をあげてノンに迫っているが、絡み合う枝が邪魔をして飛翔しながらの攻撃ができない。勢い枝伝いに攻撃を仕掛けるが、羽を使えないカラスに対して、枝の上ではノンの土俵にみえた。
両者睨み合いのなか、突然にカラスが大きく鋭い嘴で突進するのを、ひょいと飛び退いてかわしたノンの反撃のパンチが相手の首を直撃した。悲鳴をあげながらカラスは羽ばたくものの、縦横に伸びる枝の妨げられて飛び上がれない。
間髪を入れずにノンは相手の首筋に鋭いパンチをあびせ続けるなか、仲間のカラスも、滑空しての攻撃ができないのは致命的で喧しく騒ぎたてるばかりだ。そのうちバランスをくずしたカラスは、飛べないままに地上に落下していった。
「勝負ありノンの勝ち!」
思わず大声をあげる虎夫だが、ノンは次の攻撃相手に備えてまだ威嚇を続けている。そのうちカラスたちは戦意を砕かれたのか一斉に飛び立っていった。
イチジクの熟れる時期には、いつもカラスが寄ってきて喧しいのだが、今日は自分たちのテリトリーに入ってきたノンに対して威嚇を仕掛けたらしい。多勢の敵を蹴散らかしたノンの青い首輪が、勝者の勲章みたいに誇らしげに見えた。首輪! いままで、カラスとノンとの激闘に気を取られていて、ノンが首輪をしていることにまったく気づかなかった。
それも、文江がノンにつけてやろうとバッグから取り出して見せた、あの青色の首輪ではないか!
「ノン!」虎夫は大きな声でノンを呼んでみた。ノンはこちらをむいて口を動かしたが、声を発したのかどうか虎夫には聞き取れなかった。もう一度呼んでみたがノンは反応を示さず、イチジクの幹をさらに上へと登り始めた。
「ノンやめろ!」高く登り過ぎて下りれなくなって、立ち往生する猫の話をたまに聞くが、イチジクの木は四、五メートルありそうだ。ノンは虎夫の声など無視して、とうとう監獄屋敷のコンクリート塀の高さまで登ってしまった。
そこから塀にむかって伸びる枝へと移り、やがて動きを止めて塀の方を見つめている。まさかコンクリート塀に飛び移るつもりで。距離を測っているのか? 無理や、ノン止めとけ! 木の幹や枝と違いコンクリートに爪を立てることはできない。真下の地面は柔らかな土どころか、なぜか漬け物石大の石が数十個転がっている。失敗すれば猫といえども大怪我を免れないだろう。
気を揉む虎夫の眼前で、枝からノンが跳躍した。ほんの一瞬の出来事であった。塀の上に飛び移ったノンは、時々こちらを見下ろしながら悠然と歩いている。二、三メートル歩いたところでノンは屋敷内の庭木に飛び移り姿を消した。
そんなノンの一部始終を眺めていた虎夫は、我に返ると改めてコンクリート塀を見つめた。文江の持っていた首輪をノンがしているということは、ノンは文江と接触したのだ。しかし、なぜノンは警戒する様子もなく、監獄屋敷のなかへ這入って行ったのか?。
まてよ。もしかして文江はこの塀のなかにいるのでは……。そうか、そういうことだったのか。姿を消したその日から、文江はこのなかにいたのだ。ノンは首輪をつけてもらった文江になついて、監獄屋敷への出入りを始めたのやろ。それまでは、この付近でノンの姿を見ることはなかったからな。
自宅へ戻った虎夫は、敷きっぱなしの布団に仰向けに寝転んで物思いに耽った。いつもなら、焼酎の湯割りを飲みながら一息いれているところだが、文江が何も言わずに監獄屋敷の黒田のもとへいってしまったのは、少なからずショックであった。
しかし文江にすれば、賢明な選択であるのかもしれない。いや、彼女にはきっと賢明な選択なのだ。いつか文江がセピア色だと言った、天井の染みを見つめて、虎夫は思いに耽った。
しばらくして虎夫はガバッと半身を起こした。
「ワシもいくか!」
この土地から出て行こう。文江と出会ったことで、この街で暮らすことになって四年が経過した。文江には何かと世話になったが、その彼女も、新しい生きる道をみつけたのだ。
監獄屋敷へ入ったまま姿を見せないのも、過去のしがらみを清算して生き直そうと思ってのことだろう。そや、この町の暮らしに別れを告げ、自分も生きなおそう。
四年間はあっというまに過ぎたが、思いようでは長くもあった。そうと決めたら、今日にもこの町を出よう。虎夫の決断は早かった。
四年の間暮らした生活の垢は、五個のゴミ袋にいれて玄関脇においた。文江がどこからか調達してきた煎餅布団は、四つに折りたたんで壁際に押しつけて置いた。
なんだかんだと言いながらも、流れ者の自分を今日まで雇ってくれた養豚所の親方。一年ばかりだが清掃に通ったパチンコ店のマネージャー。家主でもある監獄屋敷の黒田のおやじ。それなりに世話にもなった、これらの人々にも黙って出て行こう。ある日突然にいなくなるから流れ者なんや。ワシも格好つけて出ていったろやないか。
ここへやって来たときに背負っていたリュックサックに、僅かな着替えを詰め込むと部屋の鍵を郵便受けに落とし込んで、虎夫は黒田荘をあとにした。別れを告げる相手もなく、見送る者もいない。自分にはふさわしい旅立ちに思えた。
監獄屋敷の横を通るとき、虎夫は立ち止まりコンクリート塀を振り仰いだ。屋敷内はひっそりとしていて、物音ひとつしない。文江とは最後に言葉を交わしたかったが、会ったからといって格別に語るべき言葉もない。
気を取り直して歩き始めると、行くてに居酒屋が見えてきた。ママが暖簾を出しているところだったが、その背後を虎夫は黙って通り過ぎた。
この先どこへ行くのか、見当もつけていない。とりあえず駅まで行き停まっている電車に乗ろう。電車の行き先で東に向かうか、西へ向かうか方向が決まるというものだ。
緑団地の西門が見えてきた。その真ん中で、猫が一匹こちらを向いて座っていた。ノン! 虎夫は叫ぶと足早にちかづいた。ノンは西門の中央で、通せんぼうをするみたいに虎夫を見上げている。
「ノン、おまえ見送りにきてくれたんか」
虎夫の問いかけに、ノンが口をうごかした。虎夫はしゃがむと、ノンの頭をそっと撫でた。それから愛おしむように青い首輪にも触れた。ノンとの初めてのスキンシップだった。
「ありがとうな。ノン!」
虎夫は、ふたたび立ち上がると歩き出す。五、六歩ばかり歩いて振り返るとノンがトコトコついてくる。
「ノン、もうここでええから、ワシについて来たら、おまえヘタ打ちやど」
手を振って帰るように促すと、ノンはくるりと向きを変えて歩き出した。
「あ、ノンそれからな」
ノンが立ち止まり振り返る。
「文ちゃんに会ったら、元氣で幸せに暮らすんやで。そうワシが言っていたと伝えてくれ。それから、おまえも文ちゃんと仲ような」
手を振るとノンはふたたび歩きだし、途中で一度立ち止まって振り返るとそのまま一目散に駆けだした。
ノン、おまえとは短いかかわり合いやったけど、もう会うこともないやろ。
遠ざかるノンを見つめる虎夫の視線の先に、傾く冬の陽を惜しむかのように、集落はセピア色に染まりつつあった。