宇喜多一��(いっけい)――復古大和絵の絵師たち・その二 　　　津木林 洋

　　　　一

　宇喜多一�宸ﾍ妻の花、息子の松庵(しょうあん)と共に、伏見にある瑞光寺の萱葺屋根の表門をくぐった。昨夜来の雨も明け方には止み、参道の石畳のくぼんだところには小さな水溜まりが残っている。雨に洗われたせいか、両脇の植栽の緑が艶やかに光っている。
　本堂が目に入ってきて、一�宸ﾍ立ち止まった。表門と同様の萱葺屋根でこぢんまりとした本堂は、名利に恬淡(てんたん)としていた師・田中訥言の法要を行うにはふさわしいと彼の目に映った。
　本堂の扉が開け放たれ、飾り付けのため忙しく立ち働いている僧侶たちの姿が見える。近づいていくと、住職が気づいて中から出てきた。
「雨が上がってよろしおましたなあ」
　と住職が空を見上げた。
「これも田中先生のご加護のお陰と思っております」
　そう言って一�宸ｪ両手を合わせると、「ほんに」と住職も合掌した。
　天保六年（一八三五）の今日、三月二十一日は、訥言が死んでちょうど十二年目に当たる。
　三回忌や七回忌の時は、一�宸ﾌ画名も高くなく、松庵が生まれたりして金がなかった。それで自宅に数名の知人を集めて僧侶を一人呼んだだけだった。その時から、十三回忌には師にふさわしい法要を、この手で執り行いたいと願ってきたものだった。
　それが今日実現しようとしていることに一�宸ﾍ感慨を覚えた。思えば、自分がこうして一角の絵師になれたのも先生のお陰なのだ。
　十三歳の時に弟子入りし、土佐家にある粉本の模写から始まって、古画や古絵巻物の模写で線描を、草花や鳥の写生で筆法の生かし方を、さらには唐画で水墨の技を学んだ。学んだというより、訥言の修練の姿を見よう見まねで追っている内に身についたという方が正しいだろう。
　訥言が舌を噛んで自害した時、塾で教えを請うていた頼山陽と共にその死を看取り、葬儀を取り仕切ったのも一�宸ｾった。その後、土佐家の門人から、訥言には息子がいたはずと聞かされた一�宸ﾍ、その母親の生家である小間物屋を探し当てた。訥言の離縁したお市はすでに亡くなっており、息子の佐市良(さいちろう)は江戸にいるという。そこで一�宸ﾍ佐市良に手紙を書き、弔いはこちらで懇ろに行ったが、年忌はぜひとも主になって執り行って欲しいと頼んだ。
　しかしそれに対する返事は来なかった。三度出したが、梨の礫だった。それで一�宸ﾍすべての年忌を自分で行うことに決めたのだった。

　本堂に上がり、一�宸ﾆ花は飾り付けを手伝い始めた。正面の釈迦如来座像より一段下がった左側に土佐行秀筆の妙音天像を掛け、右側には谷文晁筆の田中訥言の肖像画を掲げた。十歳になる松庵も僧侶の指示に従って桜と山吹の造り花を飾っている。一�宸ﾍその前の棚台に香炉や大乗妙典を置き、その横に訥言の模写した伴大納言絵詞三巻の入った桐箱を置いた。
　昼前に、頼んでおいた四人の楽師が到着し、礼座の横に並んで坐る。彼等が琵琶や笙、笛を取り出し、音を合わせ始めた頃、羽織袴姿の香川景樹(かげき)が姿を見せた。楽師と打ち合わせをしていた一�宸ﾍ足早に近づいた。
「先生、ようこそおいで下さいました」
　景樹は一�宸ｪ歌の手解きを受けている歌人で、訥言とも長年親交があった。
「訥言殿は一�專aのような弟子を持たれて幸せでありますな。このような立派な法要を営んでもらえることはそうそうあるまいて」
　景樹は正面の飾り付けに目をやって、何度も頷いた。そして懐から短冊大の紙を取り出すと、一�宸ﾉ手渡した。
「今日のために一首詠んで参りました」
　一�宸ﾍ受け取った料紙を押し頂くようにしてから、おもむろに四つ折りのそれを開いた。
「宇喜多一�宸ﾊし今年訥言先師の十三回忌に当たれりとて、深草なる瑞光寺にて其追�ｉcまれける。随喜にかへずよみて奉りける一首
　　　　　　　　　　　　　香川景樹
　今そしる畫はそらごとなりというめるは雲井にのこる名こそありけり」
　確かに絵は空事に見えるかもしれないが、師訥言の名は内裏に残っているのだ。一�宸ﾍそれを二度読み、「ありがたいことでございます」と再び頭を下げた。
　料紙を畳んで正面の棚の端に置いていると、松庵がやって来た。
「父上、梨影(りえい)様がお出でになりました」
　梨影とは三年前に亡くなった頼山陽の妻である。松庵を連れて堂の外に出ると、階段の下に梨影が三樹三郎を連れて佇んでいた。こちらを見上げて頭を下げる。一�宸ﾍ階段を下り、「ようこそお参り下さいました」と辞儀を返した。
「私一人で来ようと思うたのですが、この子がどうしてもと言うものどすから」
　三樹三郎は隣の松庵と何やら目配せをしている。一歳しか違わないので気が合うのだろう。去年の山陽の三年祭の時も二人して遊んでいた記憶がある。
「松庵、三樹三郎殿を案内してあげなさい」
　松庵は「上がろ」と声を掛けて階段を駆け上がっていく。三樹三郎はもどかしそうに草鞋の紐を解くと、松庵の後を追った。草鞋の片方がひっくり返っている。
「三樹三郎、履物をきちんと揃えなさい」
　梨影が叱っても三樹三郎は振り返りもしない。梨影は溜息をついて草鞋を揃えた。
「又次郎とちごて、ごんたで困ります」
「いや、今の世の中、あれくらい利かん気でないと大成しないのではありますまいか」
「そうであったら、よろしおすけど……」

　昼過ぎに法要が始まった。参列者は三十人ばかりになった。僧侶たちに混じって一�宸燉迯ﾀに控え、法華経二部を読経し、供華捻香を型どおりに行った。その後、三台塩や老君子の楽曲が演奏され、続いて香川景樹が自歌を朗々と詠じた。
　終わって参列者が庫裏横の広間に移動し、お斎(とき)が振る舞われることになった。
　二年ほど前から始まった陸奥の飢饉がこのところ全国に広がっており、米の値段が急騰していた。それに合わせるようにして他の野菜、魚等も値を上げて、食材を調達するのに一�宸ﾍ苦労した。それでも訥言先生の回忌で不調法はできないと一ヵ月も前から鮒ずしや鮎粕漬けを買い求め、今日に備えたのだった。
　一�宸ﾍ景樹や楽人たちに酒を注いで回り、参列の礼を述べた。一通り参列者に挨拶をし終わった頃、一人の若僧(にゃくそう)が一�宸�呼びに来た。
「お客様がお見えになりましたが」
　はて、主立った客人はすべてお出でのはずだが。一�宸ﾍ心当たりのないまま、若僧の後について本堂に向かった。
　階段下に小袖姿の年寄りと立烏帽子(たてえぼし)、小直衣(このうし)姿の男がいた。どこかの公家が参ったのかと一�宸ﾍ驚いて階段を降りた。二人とも見知らぬ顔である。小直衣姿の男は上背はあるが、ひょろっとしていて、顔立ちは一見、童女(わらめ)のようだ。松庵よりいくつか年上にしか見えず、立烏帽子小直衣を着るような年齢とは思われない。
「私が宇喜多一�宸ﾅすが、何かご用でございますか」
　年寄りは道帽と呼ばれる頭巾を取ると、一礼した。
「わたくし、北川梅價(ばいか)という俳諧を嗜む者でございます。こちらで田中訥言先生の回忌法要が行われていると聞きまして、是非ともお参りをさせていただきたく……」
「爺は付き添いです。是非にとお願いしたのは私でございます」
　少年が深々と立烏帽子頭を下げた。北川という公家の名前は聞いたことがない。
「どこかの公家のお方でございますか」
　一�宸ｪ尋ねると、年寄りはえっという表情を見せた後、すぐに相好をくずした。
「この晋三の服装は……」と年寄りが言い掛けると、「爺、永恭(えいきよう)です」と少年が口を挟んだ。
「おお、そうであった。晋三は元服したのであったな」
「この服装は」と少年が年寄りの言葉を引き取った。「田中訥言先生が古画の模写を通じて大成されたことに敬意を表して、有職故実(ゆうそくこじつ)に則った正装をして参った次第です」
　永恭の足下を見ると、黒漆を塗った木沓(きぐつ)らしい物を履いている。一�宸ﾌ視線に気づいたのか、
「これは境内に入る前に草鞋から履き替えました」
　と言って永恭がはにかんだ。
　そこまですることに一�宸ﾍ感激して、
「それはそれは、有り難いことで。回忌の儀はすでに終わりましたが、まだ礼座は片付けておりませんから、どうぞお参り下さい」
　と二人を本堂に上げた。
　二人が礼座の前に腰を下ろし、焼香をしようとしたので、一�宸ﾍ「火をお付けいたしましょう」と立ち上がりかけたが、「いいえ、お構いなく」と梅價が制した。
　二人は抹香を摘んで火の消えた香炉に入れ、合掌した。永恭は頭を上げると、谷文晁の田中訥言肖像画をじっと見た。
「田中先生が古画の模写をしていたことをよくご存じですね」
　と一�宸ﾍ声を掛けた。永恭がこちらを振り返る。
「先生の絵を初めて拝見しましたのは、祇園神社でございます。応挙の鶏を見に行ったのですが、その時障子の腰に描かれた先生の若松を見て、すっかり心を奪われてしまいました」
「この子は」と梅價が口を開いた。「私の娘が嫁いでいる狩野永泰(えいたい)という絵師の息子なのですが、それ以来大和絵にのめりこみまして……」
　狩野永泰は京狩野の流れを汲む絵師である。
「永泰殿のご子息でありましたか」
「永泰をご存じで……」
「ええ、もちろん。展観で何度かお目に掛かったことがございます」
「それはよかった。この子は本来なら狩野を継がなければならないのですが、自分は大和絵に進むと言って聞かず、古い寺を回っては絵巻物や杉戸絵を模写しておるのです」
　一�宸ﾍ立烏帽子を被った永恭に目を移した。
「それはまさに田中先生が若い頃に行っていた修行そのものですね。いやあ、若いに似合わず大したものです」
「どの寺に行きましても田中先生が模写に訪れたという話が残っておりまして、自分はまだまだ修行が足りないと痛感させられております」
　そう言うと、永恭が礼座の棚台に目をやった。
「あれは伴大納言絵詞でございますか」
「そうです。先生が心血を注いで模写したもので、私の宝です」
「拝見させていただいてもよろしいでしょうか」
　永恭が遠慮がちに言った。
「よろしいですとも」
　一�宸ﾍ棚台から伴大納言絵詞三巻の入った桐箱を両手で取ってきて、組紐を解いた。蓋を開け、一巻目を手に取り、巻緒を解いて二人の前に三寸ばかり広げて見せた。永恭が息を呑むのが分かった。
　梅價は絵詞に顔を近づけると、「これは本当に模写なのですかな」と言った。「と申しても、私は本物を見たわけではないが……」
「三部模写するのに一年以上かかったと聞いております」
「線が所々途切れておりますが、模写とはそこまで忠実にするものですかな」
「爺、これは剥落写しといって田中先生が始められた模写の方法なのです」
「でもお前の模写した絵巻物をいくつか見せてもらったが、こんなふうには描いておらなかったが……」
　永恭が困惑した表情を見せた。
「私の模写は大和絵の神髄を会得するためのもので、趣旨が違います。私もいつの日か本物をこのように模写したいとは思っております」
　一�宸ﾍ少しずつ広げて三巻全てを二人に見せ、桐箱に再び仕舞った。
　二人は礼を述べて帰ろうとしたので、一�宸ｪ別室で行われているお斎に誘ったが、巻物を見せてもらっただけで十分ですと答えて、本堂の階段を降りた。
　去り際、永恭が「宇喜多先生のお宅にお邪魔をして、田中先生の他の絵も見せていただきとうございます」と頭を下げた。
「いつでもお待ちしておりますよ」と一�宸ﾍ笑顔で答えた。

　木屋町二条南にある一�宸ﾌ借家に永恭がやって来たのは、それから五日後のことだった。
　六畳の画室で下絵を描いていた一�宸ｪ花に声を掛けられて玄関に出てみると、小直衣姿の永恭が立っていた。手には風呂敷包みを提げている。足下はさすがに草鞋である。
「ようこそお出で下さいました」
　花が手桶に水を入れて持ってくる。永恭は上がり框に腰を下ろして、草鞋の紐を解くと、足を手桶に入れた。
「今日は何かの行事がございましたか」
　一�宸ｪ声を掛けると、永恭は足を洗う手を止めてこちらを振り返った。
「この服のことでございますか」
「さよう。私どもが昔の衣装を見る機会はそうそうございませんからな」
「これは大和絵の心を我がものにしようと、日頃から心がけておりますゆえ……」
「それではいつもそういうご衣装で……」
「そうです」
　横で花が微笑を浮かべている。
　永恭が花から受け取った手拭いで足を拭くと、一�宸ﾍ彼を応接間に案内した。
　座布団に腰を下ろした永恭が風呂敷を解き、竹皮の包みを取り出した。詰まらないものでございますがと一�宸ﾌ前に差し出す。
「そんなお気遣いは無用でしたのに……」
　一�宸ﾍ竹皮包みを手に取った。どうやら草餅らしい。花を呼んで貰い物を引き取らせると、程なくして彼女は煎茶と草餅の入った菓子器を盆に載せて戻ってきた。それらを一�宸ﾆ永恭の間に置く。
　一�宸ﾍ早速草餅を一口食べて茶を飲んだ。
「これは志乃屋の餅ですな。いや上品、上品」
　永恭は茶を飲むばかりで餅には手を付けない。ご遠慮なくと勧めても、私は食べて参りましたからと言う。
　一�宸ｪ餅を食べ終わるのを待っていたかのように、
「あの軸は田中先生の絵でございますか」
　と永恭が床の間の掛軸に目を向けた。
「先生の考経図です」
「近くに寄って拝見させていただいてもよろしいでしょうか」
「どうぞ、どうぞ」
　永恭が膝行(しっこう)して、床の間の前に進み出た。掛軸には、上部に孔子と思しき髭を生やした人物が弟子に語っている姿、下部には玉座に座った人物と彼に礼をしている二人の人物が描かれている。
「仲尼(ちゅうじ)居(きよ)し、曾子(そうし)侍(じ)す。子曰く、先王に至徳(しとく)要道(ようどう)あって、もって天下を順(じゅん)にす……」
　一�宸ｪ考経を諳んじると、永恭が驚いた表情で一�宸�振り返った。
「それは考経ですか」
「そうです。考経は人の道の基本。絵師たる者、絵を描く前にまず人の道をわきまえなければなりません」
「それは先生の教えでもあるのですか」
「先生は口では何もおっしゃいませんでしたが、その背中を見ていると自ずと伝わってくるものです」
　永恭が感心したように頷く。
「もっとも実際に儒学を学んだのは、大叔父からでしたけどもね」
　そう言って一�宸ﾍ悪戯っぽく笑って見せた。
　それから永恭に請われるまま、所蔵している訥言の絵をいくつか見せた。維摩居士像とか嵐山雨中図、伊勢海老図など。永恭は絵の隅々にまで目をやり、時折小さく溜息をついた。さらに賀茂祭礼絵巻の模写を見せると、永恭がさらに興奮するのが分かった。巻物を最後まで広げてから、また最初に戻ってを何回も繰り返した。
　賀茂祭礼絵巻を見終わると、永恭が「伴大納言をもう一度見せていただけませんか」と小声で言った。喜んで承知し、画室から桐箱を持ってきて三巻を取り出した。
　永恭は先ほど以上にゆっくりと上巻から見ていく。始めはその熱心さを好ましい思いで眺めていたが、半時経ってもまだ中巻を開いているので、さすがに一�宸煬曹�できた。
　手を叩いて花を呼び、茶を替えさせた。長居をしていることを永恭にそれとなく伝えるためである。しかし永恭は茶も飲まず、巻物に見入っている。
「永恭殿」一�宸ﾍ我慢できずに声を掛けた。「私はそろそろ仕事に戻ろうと思いますが、貴殿は心ゆくまでここで絵巻をご覧下さい」
　そう言うと、さすがに気づいたのか永恭ははっとした顔をし、急いで中巻を巻き戻した。そして下巻の巻緒を解こうとせず、三巻を一�宸ﾌ前に揃えた。一�宸ｪそれらを桐箱に仕舞うと、「宇喜多先生」と永恭が小直衣の袖を払い、畳に両手を突いて深々と頭を下げた。
「唐突なお願いとは存じますが、その伴大納言を私めにお譲りいただくわけには参らないでしょうか」
　うん？　一�宸ﾍ永恭の申し出が一瞬理解できなかった。
「買いたいとおっしゃるのか」
「さようでございます。先生の言い値で買いとうございます」
　一�宸ﾍ途端に不愉快になった。永恭が我が家の暮らしぶりを見た上で申し出たのではないかと思ったからである。確かに狩野や四条派の絵師たちに比べれば家は借家だし、狭い。衣服も質素だろう。しかし富貴を求めて絵を描くのは絵師の本懐ではないというのが、一�宸ﾌ考えなのだ。それは田中先生も同じであった。
「この前の回忌の時にも申しましたが、この伴大納言は家宝ですゆえ、どなたにもお譲りするわけには参りません」
「私は田中先生の亡くなられた年に生まれた者でございます。ご尊顔を拝することもなく、教えを直接受けることもなく、ただ残された絵のみにて、先生の大和絵にかけた魂を受け継がなければなりません。どうか若輩の私を育てるとお思いになって、お譲りいただきとうございます」
　永恭が我が家の暮らしぶりを忖度しているわけではないことが分かって、一�宸ﾍいささかほっとした。
「永恭殿の先生を慕う気持ち、大和絵に対する情熱はよく分かりました。ただ、伴大納言を売るつもりはありませんので、貴殿さえよければ、ここに通われて模写されてはいかがですか」
　永恭が眉根を寄せて、考え込む表情を見せた。
「どうしてもお譲りいただけませんか」
「今申した通りです」
「分かりました。それでは通わせていただきます」
　永恭は神妙な顔つきで頭を下げた。

　次の日、永恭は大きな風呂敷包みを持って現れた。相変わらずの小直衣姿で、たまたま居た大家がその姿を見て、目を丸くした。
「お公家さんどすか」と一�宸ﾌ耳元でささやく。いちいち説明するのも面倒なので、そうですと一�宸ﾍ答えた。
　風呂敷包みの中身は、箱に入った絵道具とドーサ引きをした紙である。箱の中には硯と墨に、筆が十本ほど、それに小袋に入った岩絵具がいくつもあった。
「わざわざお持ちにならなくとも、私のところにある物を使えばいいですのに」
「いや、模写する時はいつも持ち歩いておりますゆえ。慣れた道具を使いたいものですから」
　永恭は小直衣を脱ぎ、持参した細紐で白小袖の袂をたすき掛けに縛った。
　一�宸ｪ桐箱から伴大納言絵詞の第一巻を出して、平机の前に広げると、永恭は硯に水を落として、ゆっくりと墨を擦った。硯も墨も見たところなかなか高価な物のようだ。狩野の末裔と思わせるだけのものはある。
　墨を擦り終わると、「透き写しをしてもよろしいでしょうか」と永恭が聞いてきた。透き写しとは、原本に直接紙を当て、線をなぞっていく模写の方法である。
「いや、それはご遠慮いただきたい」
　墨が紙を通して原本に移る恐れがある。家宝だという一�宸ｪ断るのは当然と言えた。
　永恭の表情が一瞬曇ったが、「分かりました」と答えると、持参した紙を絵巻物の横に広げた。そして細筆を取ると、冒頭の検非違使たちの姿を写し始めた。そのためらいのない筆遣いを目にして、一�宸ﾍすぐにその才能の非凡なることを見て取った。年少とは思えない筆勢は、彼が今までいろいろな所を回って古画を模写してきたということが嘘ではないことを示していた。やはり狩野の血ということであろうか。
　一�宸ﾍ自分の息子の松庵のことを思った。どうひいき目に見ても、息子には永恭ほどの才能はない。いや、自分にしてもと一�宸ﾍ心の中で苦笑した。この年頃では先生の絵を写すにしても、筆の動かし方さえ覚束ず、何度も先生に教えてもらったものだった。
　永恭が模写に集中し出すと、一�宸ﾍ画室を出て、台所にいた松庵を呼んだ。花と一緒におはぎを作っていた松庵は、手に付いた餡を舐めてから、手拭いで拭うと、一�宸ﾌ後について画室に入った。
　永恭は二人が入っていっても、巻物に覆い被さって、顔を上げない。
　一�宸ﾍ顎で、永恭の筆遣いを見るように松庵に示した。松庵は静かに近づき、永恭の手元に目をやる。途端にその目は見開かれ、食い入るような目付きになった。その表情の変化に一�宸ﾍ安堵を覚えた。相手の凄さが分かるのも、力があるということの証しなのだ。
　松庵はまた静かに戻ってくると、一�宸ﾌ体を押して画室を一緒に出た。
「あの方はどこのお方なのですか」と松庵が囁いた。
「狩野永泰(えいたい)という絵師のご子息だ」
「狩野のお方がどうして大和絵を……」
「田中先生の影響だ。先生の絵に感化されたものと見える」
「父上の弟子になられたのですか」
「いいや、伴大納言の模写に来ているだけだ」
　
　それから永恭は足繁く模写に通ってきた。一�宸ﾆしては彼の才能を見るにつけ、弟子にしたいと思うようになった。今通ってきている三人の弟子にもいい影響を与えるだろうし、何より年の近い息子にはいいお手本になると思えた。
　それである時、永恭にそれとなく伝えると、彼は即座に拒否をした。
「私は田中先生の生まれ変わりと信じております。私には先生以外の師はございません」
「田中先生から直接教えを受けた私から、学ぶものは何もないとおっしゃるのか」
「その通りです」
　永恭の口調にはためらいがない。年少の者の傲岸さと捉えるには、その才能がありすぎた。一�宸ﾍ憮然となった。
　それでも永恭が模写に通うことは拒否しなかったが、彼の方が来ずらくなったのか、半分ほど模写したところで、ぱったりと姿を見せなくなった。
　その後、土佐家の所持している田中訥言の伴大納言絵詞写本を永恭が買い求めようとしているという噂が入ってきた。しかし土佐家から五十両の提示があって断念したとも伝わってきた。いくら狩野でもその値段では手が出ないだろうと思われた。無理をせずに家に来ればいいものを、と一�宸ﾍ思ったが、永恭は二度と姿を見せなかった。

　　　　二

　翌年（天保七年）になると、飢饉がますますひどくなり、米の値段が上がっていった。三人いた弟子も謝儀が払えなくなり、出入りを止めてしまった。一�宸ﾌ絵を求める者も皆無となり、日々の米にも事欠くようになってしまった。
　それで懇意にしている倉田玉露園の主人・倉田五助に借金を申し込んだ。少額のせいもあって始めは快く貸してくれたが、度重なるとさすがにいい顔はされなくなった。
「先生、ええ加減にしてもらえまへんか。景気のええ時ならいざ知らず、このご時世、うちの店も赤字でひーひー言うてますねん。小さなお金でも積もり積もれば堪えまっさかいになあ」
「分かった。待っておれ」
　そう言うと、一�宸ﾍ自宅に飛んで帰り、小切にさっと絵を描いて、再び倉田玉露園に行った。
「ほれ、この絵を進呈しよう」
「なんどすか、これは」
　五助は小切を手にして、じっと見入った。二匹の狸が向かい合って、茶を飲んでいる漫画である。
「狸に化かされてお金がないという洒落どすか」
「どうだ。店に飾っておくと、商売繁盛になるぞ」
「あほらし。先生、禁裏の絵師さんなんどすから、禁裏の御用があらしまへんのか」
「そんな仕事があれば、お主に借金を申し込みに来るわけがないだろう」
「あらあら、えらそうに」
　五助は文句を言いながらも、今回は狸の絵を引き取ると言うことで金を貸してくれた。
　しかし同じ手は二度と使えない。米櫃の中も空っぽになってしまった。
　このまま手をこまねいていては、一家で首をくくることにもなりかねない。
　一�宸ﾍ断腸の思いで、訥言の絵を売ることに決めた。伴大納言絵詞だけは手元に置き、その他は金に換える。しかし今まで懇意にしてくれていた京洛の富家や公家も余裕がないのか、買ってはくれなかった。
　一�宸ﾍ思いあまって、名古屋の渡辺清に手紙を書くことにした。五助に、絵が売れたら必ず今までの借金を返すからと頼み込んで飛脚代を借りた。
　渡辺清は一�宸ﾌ兄弟子に当たる訥言門下の絵師で、地元の名古屋に帰って尾張大和絵の先駆として活躍していた。
　訥言の十三回忌にも上洛を乞う手紙を送ったが、膝を悪くして長時間の歩行に耐えられないからと供物料だけを送ってきていた。
　清の返書には、京、大坂に比べ名古屋はまだそれほどの窮状にはなっていないと書かれ、一�宸ﾌ身を案じていた。それで、岡谷惣助に話を通しておいたから、連絡をするようにとあった。岡谷家は六代続く金物商で、家業の他に新田開発などをして尾張藩の御台所御用を勤める富家であった。訥言が晩年名古屋で二百幅画会を催した時、一�宸燗ｯ道し、惣助に会っている。二十年近く前のことだ。惣助は訥言のよき後援者であり、彼の求めに応じて、訥言は何枚もの絵を描いている。訥言は名古屋を去る時、惣助や他の富家に対して、渡辺清と宇喜多一�宸�後援してくれるよう依頼をしたが、一�宸ｪその後、京で仕事をするようになったので、惣助との関係は途絶えたままになっていた。
　早速、惣助に手紙を書くと、折り返し返事があり、その中で惣助は訥言との昔の交流を懐かしみ、先生の御作なら喜んで買い求めたいと書いていた。さらにうれしいことには、一�宸ﾌ絵も求めたいので、とりあえず小品を送って欲しいと結んであった。
　一�宸ﾍ十数点ある訥言の絵の中から、出来のいい五点を選び、その内容と金額を手紙に書き、自分の描いた大原女(おはらめ)の絵を添えて惣助に送った。
　返ってきた手紙には五点全てを購入したいとあり、すでに十両の為替手形が同封されていた。訥言の絵の値段の合計よりも一両多い。つまり一�宸ﾌ絵は一両で買い求めたことになる。そのことに一�宸ﾍ驚くとともに、感激した。送った絵は売れてもせいぜい二朱ていどの作品でしかない。それに対して八倍の金額を付けているのだ。もちろん送り賃を含めての意味だろうが、それにしても多すぎた。
　訥言の弟子であるからこその厚遇であるのは間違いない。一�宸ﾍ為替を訥言の考経図の前に置き、南無妙法蓮華経の題目を何度も唱えてから、惣助に御礼の手紙を書いた。それを訥言の絵に添えて丁寧に梱包し、信頼できる飛脚問屋に託した。
　為替を金に換えると、まず質に入れていた花と自身の着物を請け出し、米屋や青物屋などに溜まっていた買掛金を支払った。そして倉田五助の借金もすべて返した。
「へぇー、先生の絵が売れましたんか」
「儂のじゃない。訥言先生の絵だ」
「あれ、お師匠さんの絵は先生のお宝と違いましたんか」
「背に腹は替えられん」
「そりゃまあ、お気の毒に」
　言いながら、五助はにやにやと笑っていた。
　その後、惣助から源氏物語の一場面を帖図にしてほしいとの依頼が届き、一�宸ﾍ第十帖の賢木を描くことにした。絵の注文は一年数ヵ月ぶりで、どういう場面を描くかと構図を考えるだけでも胸が躍った。絹本も吟味し、絵の具も最高級のものを使い、下絵からじっくりと時間を掛けて描いた。
　その絵は絵の具代込みで五両で引き取られ、前の十両の残りと合わせて、当分一�宸ｽちの生活を支えることになった。
　十一月に入って、米の値段が一段と上昇した。米屋に訳を聞くと、秋になっても冷害が続いて凶作が収まらず、大坂では一日に数十人の行き倒れが出る始末で、大坂三郷から他の地への米の積み出しが禁止されたためだと言う。人を雇って密かに大坂に米を買いに行かせても、取り締まりが厳しくて、捕まれば入牢させられてしまうらしい。
「そればっかりやおへんのや」と米屋の主人は声を潜めた。「お江戸でも飢饉が深刻で、各地に江戸に米を回すようにお触れが出ているそうですわ。特に大坂は御領どすから、せっせと江戸に運んでいるのと違いますか。それに来年、将軍さんが替わりはるんで、その費用を捻り出すためにも米がぎょうさん要るという噂ですわ」
　京、大坂の人間より江戸者が大事なのか。例年なら多少出回るはずの御救米(おすくいまい)も今年はほとんど出てこず、その分が代替わりの費用に使われるとは……。
　年末から年明けにかけて、京でも行き倒れの姿が目に付くようになった。特に鴨川の河原は捨て場になっているのか、あちこちに死体が折り重なり、数十羽の鴉が群がっていた。腐臭もひどく、人々は袂で口を押さえながら、急ぎ足で通り過ぎる始末だった。
　寒さが少し弛んだ二月二十日の夕刻、梨影(りえい)が突然やって来た。花に呼ばれて玄関に出てみると、丸髷の鬢をほつらせて梨影が息せき切っていた。手には手紙のようなものを握っている。
「大変どす。中齋(ちゆうさい)はんが乱妨(らんぼう)を起こしはりました」
「え」
　中齋とは大塩平八郎のことである。大坂東町奉行所の元与力である平八郎は養子に家督を譲って隠居した後、王学（陽明学）者となり、その関係で頼山陽とも親しくしていた。一�宸煖續Nほど前、山陽の主催する詩筵(しえん)に招かれた際、初めて平八郎と会い、三年前の山陽の葬儀の時にも顔を合わせていた。
「昨日、自宅に火を放って、米問屋を次々と大砲で襲いはったそうどす。でも夕方にはお役人たちに鎮められてしまいはったと……」
「何と」
「これがさっき孝右衛門さんから届いたんどす」
「孝右衛門？」
「中齋はんのお弟子さんどす」
　梨影が手に持ったものを一�宸ﾉ差し出した。一尺ほどの絹袋で、中に手紙の入っているのが分かる。袋の上書きには「天より被下候　村々小前のものに至?へ」とあり、一�宸ﾍ中身を取り出して読んだ。
「四海こんきういたし候ハゝ天禄ながくたゝん、小人に国家をおさめしめば災害并至と、昔の聖人深く天下後世、人の君人の臣たる者を御誡被置候ゆヘ……」
　木版刷りの読みにくい字だったが、内容は明らかに檄文だった。幕府上層部の堕落を嘆き、大坂では奉行所の役人たちが飢えた貧民を救うこともせず、自らの出世のことしか頭にないことを痛烈に批判していた。
　一�宸ﾍ詩筵や葬儀の時に見た中齋の顔を思い出した。激するところなど微塵も感じさせない穏やかな表情だった。それがこのように変わるとは……。今日の世情を見ていたら、中齋ならずとも武力に訴えてでもという気持ちになるのは、当然かと思えた。
　読み終えた檄文を梨影に返すと、「これを読んだ三樹三郎が中齋はんを助けに行く言うてきかんのどす」と彼女は困った顔をした。
「さすが頼先生のご子息だけのことはある」
「そうは言いましても、もし本当に助けたとなったら、死罪も覚悟せねばなりません」
　確かにその通りだろう。しかし義は中齋にあるのだから、彼を助けて死罪になっても、その死は意味のあるものに違いない。ただ、梨影は頼山陽から託された息子たちを世に送り出すことが使命なので、十歳かそこらで死なれるのは本意ではないのは明らかだ。
「分かりました」と一�宸ﾍ答えた。「私が三樹三郎殿と一緒に大坂に参りましょう。幸運にも中齋殿を助けられた暁には、私がその責を負いましょう」
　梨影の愁眉がほんの少し開くのが分かった。
「一�尢lにそう言うていただくと、助かります。どうぞあの子をお守りくださいませ」
「大坂へ行くには三十石船が早いですが、この騒動で動いているかどうか。とにかく明日の朝出発して伏見まで行き、船があればそれを使い、なければ京街道で行くことにしましょう。往来手形を手に入れて、明け六つに三樹三郎殿をこちらにお連れ下さい」
　梨影は深々と頭を下げてから、玄関を出て行った。
　奥に入ると、花が険しい顔で一�宸�にらんでいる。
「お前さま、本当に大坂に行きはるおつもりですか」
「三樹三郎殿のお供をせねばならん」
「火を放ったとなると、大坂の街は大騒動になってます。そんなところへのこのこ出掛けていくのは正気の沙汰とは思えまへん。三樹三郎様に翻意を促すのがお役目と違いますのか」
「花」と一�宸ﾍ静かに呼びかけた。「お前が心配する気持ちはよく分かる。しかし人が義のために行動を起こそうとする時、それを止める理はどこにもないのだ」
　花は何か言い掛けたが、言葉は発せず、納得しがたい表情を見せた。
「なに、心配はいらん。危ない真似はしない。中齋殿に出会う幸運は万に一つもないだろうが、もし巡り会えたら、その幸運を喜ぶまでだ」
　一�宸ﾍ早速菩提寺である華光(けこう)寺に行き、大坂の寺に襖絵を描きに行くと嘘をついて往来手形を手に入れた。

　翌早朝、梨影が三樹三郎を伴ってやって来た。三樹三郎は笠を被り、振り分け荷物を肩に掛けている。一�宸ﾍ脇差しを差して玄関に立った。先祖伝来の鎧も鎧櫃(よろいびつ)に収まってはいるが、さすがにそれを持って行くのは大袈裟すぎる。できるだけ早く大坂に着きたいので軽装にし、握り飯の他に米を三合ほど持って行くことにした。二、三日の滞在なら十分だろう。
　松庵も行きたいと駄々をこねたが、母を守るようにと厳命し、一�宸ﾍ三樹三郎を伴って、まだ日の明け切らぬ木屋町筋に出た。
京の筋を南に下り、伏見の船着き場に着いた頃には日が大分昇っていた。平戸橋付近には旅装姿の大勢の人々がたむろしており、どうやら船は運航していないようだ。それでも一�宸ﾍ船番所に出向き、確かめてみた。番人は、奉行所からの達しがあって動かせないと言う。大坂奉行所の役人たちが必死になって大塩平八郎とその一党の行方を探しており、遠地への逃亡を防ぐために人の行き来を止めていると理由を説明してくれた。
　中齋殿はまだ生きているのか。一�宸ﾍ三樹三郎と顔を見合わせた。
　一�宸ｽちが大坂に出向くと分かると、番人は「急ぎの用やなかったら、止めといた方がよろしおまっせ」と忠告してくれた。
「いや、急ぎの用なのだ」
　二人は番所を出て、京街道に入った。船が動いていないせいか、街道を行く人の姿が目に付いた。
　歩きづめで橋本宿に入ったのは昼過ぎだった。目に付いた茶屋で一服していると、客と女将の会話が聞こえてきて、枚方宿から先は通行止めになっているという話だった。
　一�宸ｪ客の側に行き、確かめると、見附の木戸が閉まっていて、鉄砲や槍を構えた役人たちが目を光らせていると言う。他の街道のことを尋ねると、四十年配の客は「それは分かりまへんけど、お役人ら、ぴりぴりして気が立ってはるさかい、裏街道を通って中に入っても、結構危ないのと違いますか。大塩の一味と間違えられて斬り殺されても文句は言えんらしいですさかい」とのんびりとした口調で答えた。
　三樹三郎にどうするか尋ねると、それでも枚方宿までは行くと言ったので、二人は茶店を出て街道を下ることにした。
　夕暮れに着いた枚方宿は今夜の泊まりを求める人々でごった返していた。二人はその喧噪の間を抜け、宿場の外れまで足を延ばした。確かに西見附の木戸が閉められており、その前に襷懸け、脚絆姿の徒士(かち)が二人、長い槍を持って立っていた。彼等を遠巻きにして五、六人の旅人が様子を窺っていた。木戸の向こう側には火縄銃を持った者もいる。今まで見たこともない物々しさである。
　ふと目を上げると木戸の遙か彼方、夕陽の名残が残る空にうっすらと煙が棚引いていた。
　一�宸ﾍ旅人の間を抜けて槍を持った徒士に一歩近づくと、彼の背後を指差して「あの煙は大坂がまだ燃えているということでしょうか」と尋ねた。
　徒士は一�宸�にらむだけで答えようとしない。さらに近づこうとすると、彼は槍をさっと倒して槍先を一�宸ﾉ向けた。一�宸ﾍ三樹三郎を自分の背後に隠した。そして懐から往来手形を取り出すと、「この手形で通ることはできませんか」と差し出した。
　徒士は槍を構えた格好で一�宸�見据えるだけで手形を見ようともしない。
「いかに」
　再度尋ねると、「ここを通りたければ奉行所の手形を持って参れ」と怒鳴った。奉行所の出す往来手形など聞いたことがない。つまりは何人たりとも通さないということだろう。
「どうする」
　一�宸ﾍ三樹三郎に尋ねた。三樹三郎は唇を噛んでいる。
　取りあえず今晩は宿場に泊まることにして、二人は踵を返した。
　木賃宿は満杯で、旅籠に入った。持参した米を渡して宿代を安くしてもらい、六人の相部屋に泊まった。
　翌日、再び西見附に向かったが、相変わらず木戸は閉まっており、昨日とは違う徒士たちが警備していた。遠くの空にはもう煙は見えない。
　三樹三郎が裏街道を行くと言えば、一�宸熄]うつもりだったが、もし役人に見つかれば捕縛されることも覚悟しなければならない。
　結局三樹三郎が断念したので、二人は京に戻った。
　日暮れに木屋町の自宅に着くと、花が安堵した表情で一�宸�迎えた。
「どうどした」
「枚方から先は通行止めだ」
「そしたら大坂には行けず……」
「中齋殿が捕まるまでは、簡単には大坂に入れないだろう。大坂町奉行所の面子にかけても捕まえて死罪にするだろうし」
「もう遠くに逃げはったんと違いますの」
「そうだといいのだが……」

　大塩平八郎が捕らえられたのは、それから四十日ほど経った頃だった。それまで大塩の一味の誰それが捕まったという話は次々に流れてきたが、平八郎父子の行方は杳(よう)として知れなかったのだ。
　大きな文字で大塩平八郎捕縛を伝える瓦版を手にして、やはり駄目だったかと一�宸ﾍ肩を落とした。記事には、大坂の支援者の屋敷に隠れていたところを見つかって爆死したとあった。その壮絶な最期が中齋の覚悟を示しているようだった。
　五月には大塩平八郎の乱に触発されたように越後柏崎で生田万(よろず)の乱が起こり、六月下旬から七月初旬には摂津能勢で「徳政大塩味方」と称した山田屋大助の一揆騒動が起こった。
　そんな世の中を見ていると、一�宸ﾍ彩管をふるう世界にだけ身を置いている自分が情けなくなった。毎朝、息子と共に木刀の素振りを三百回やっているのは、自分の中に宇喜多秀家の末裔である武士の血が流れているからであり、徳川方に滅ぼされた秀家の無念を晴らしたいという気持ちもどこかにあった。
　それで、一�宸ﾍ中齋が拠り所にした王学を自分も学んでみようかという気になり、和歌の師匠である香川景樹に相談した。王学の師を紹介して欲しいと頼んだのだ。しかし景樹の返事ははかばかしいものではなかった。
「大塩の乱を見て、一�專aが王学に惹かれるのも分からなくはないが、今のご時世で王学を学ぶのは危ないというものですぞ。大塩平八郎もご政道を正そうとしただけで公儀に楯を突くつもりはなかったようだが、結果的に楯を突いたも同然の結果になった。一�專aは大和絵の絵師であるのだから、漢学よりも和学に依って立つのが道理であると思うのだが」
「では先生は今の徳川の世をどう思っておられるのでしょうか」
「さて、そこじゃ。確かにここ数年の飢饉に対する公儀の対応は、以前に比べればひどいものだ。かと言って、古(いにしえ)の御世に戻したところで天変地異は襲ってくる。その時どういう治世ができるかは誰にも分からぬ。大事なのは、どんな御世になろうとも民百姓が安穏に暮らせることだ。まさに和学は民百姓を安穏に導くための道としてあるのだ」
　一�宸ﾍ二十年ほど前にも、田中先生と同じような議論をしたことを思い出した。当時は公儀の威光も健在だったし、武力による乱妨(らんぼう)が起こるなどとは夢にも思えなかったので、どこか議論も雲をつかむような話だったが、こうして実際に乱妨が起こってしまうと、次々と徳川の世を揺るがす事件が起こりそうな雰囲気を感じ取ってしまうのだった。
　王学は幕府から危険視されたため、表だってそれを教授しようとする学者は簡単には見つけられなかった。梨影を通して頼山陽の知り合いにも頼んでみたが、すべて断られた。中には、王学には大塩のような治世を転覆させる思想などどこにもないと迷惑がる学者もいた。
　仕方なく一�宸ﾍ書物で勉強することにした。禁書になった大塩平八郎著『洗心洞箚記(せんしんどうさつき)』も密かに手に入れて読んだ。しかし理解するのは容易ではない。やはり先達に説いてもらわなければと悶々としながらも、一�宸ﾍ書物を通して王学を理解しようとした。
　難しい内容を読んでいると、頭が凝り固まってくる。そんな時は三条の清元の師匠のところまで出かけて、一節二節謡う。天保の飢饉がひどくて収入が途絶えた時には休んでいたが、岡谷惣助の助けがあった後、再び通い出したのだ。抑揚を付けて謡っていると、頭が軽くなって、再び勉強する意欲が湧いてくる。絵を描くことではなかなかそうはいかない。精神の集中を必要とするので、疲れてしまうのだ。
　そうやって時間を掛けながら学んで分かったのは、行動が大事だということだった。朱子学の知先行後よりも王学の知行合一の方が自分にはぴったりときた。いくら知識を得ようとも、それが行動に結びつかなければ知識を得たことにはならないとする考え方は、今の世に合っていると思わせた。
　それを受けて絵師としての自分はどういう行動を取るべきか、一�宸ﾍ深く考え込まざるを得なかった。

　　 三

　天保十二年（一八四一）三月、春日絵所職の原在明(ざいめい)から書状が届いた。行方不明になっていた春日権現験記絵巻が見つかったので、その模本を作りたいという申し出だった。勧修寺経逸(かじゅうじつねはや)卿が後ろ楯になって鷹司家が模本作りを進めており、一�宸ﾌ他に共同で模写に当たる絵師として林康足や小野広隆、それに冷泉為恭(れいぜいためちか)の名前が挙げられていた。
　為恭が入っているのか、一�宸ﾍ思わず呟いた。冷泉為恭とは狩野永恭(えいきよう)のことである。公家趣味の永恭が勝手に冷泉の姓を名乗り、それに合わせて名も三郎為恭に変えてしまったのだ。藤原家につながる公家の名門、冷泉家とは何の縁もない。冷泉家からは再三、勝手に姓を名乗らないようにと警告を受けているが、為恭自身は母親が嫁ぐ前に冷泉家に仕えており、自分はご落胤かもしれないのだと嘯(うそぶ)き、一向に直す気はない。そのことは京の絵師たちの間ではよく知られた話だった。
　為恭の公家好きには眉をひそめる絵師たちも、彼の模写した絵巻物を目にすると、その画才を認めないわけにはいかなかった。
　一�宸ﾍ書状を手にしながら、為恭はいくつになるのかと考えた。私の所に伴大納言絵詞を模写しに来ていた時は、確か十三だったから、それから六年、若手の小野広隆でさえ三十を越えているのに、まだ二十歳にもなっていないのだ。もちろん原在明が為恭に目を付けたのは古画を模写する力量を認めたからに違いない。それでも為恭が選ばれていることは一�宸ﾉとって気分のいいものではなかった。いつぞや弟子になることを勧めた時の為恭の拒否を思い出した。一�宸ｩらは学ぶものは何もないと言い放ったのだ。
　一�宸ﾍ原在明の申し出を断ろうかとさえ思った。しかし春日権現験記絵巻の模写が出来る機会など一生に一度あるかないかの希有なことなのだ。それに、妻の花が大いに喜び、近所に言いふらし、息子の松庵にも「あなたの父親は春日権現験記絵巻という大事な絵巻の模写を頼まれるほど偉い絵師なんどすから、あなたも精進しなければなりませんえ」と言い聞かす姿を目にしたら、とても断ることなど出来なかった。

　中立売室町東にある原在明の屋敷は、一�宸ﾌ借家とは比べものにならないほど大きい。檜皮葺(ひわだぶき)の門構えがあり、数寄屋風の屋根をした家屋が続いている。案内された書院造りの部屋も十五、六畳はあろうかという広さである。
　先に原在明と林康足、小野広隆の三人がいて、談笑していた。
「おお、これは一�專a。ようこそお出で下された」
　頭に白いものが目立つ在明が立ち上がって、一�宸�迎えてくれた。他の二人も頭を下げる。一�宸煦･拶を返しながら中に入り、在明の勧めてくれた座布団に腰を下ろした。
　三人は先ほどの続きなのか、東山春秋展観に出品された絵の話をしている。為恭の姿が見えないので在明に尋ねると、そのうち来られるだろうと意に介した様子はない。
　為恭がやって来たのは、それから半時も経った頃だった。一人の若い武士の後ろから直衣(のうし)姿の為恭が入ってきた。ご丁寧に立烏帽子まで被っている。六尺近くの上背にがっしりと肉が付き、顔もたおやかな美丈夫ぶりである。
　若い武士は当然のように上座に座り、為恭はその隣、在明は武士を挟むように隣に座ったため、一�宸ｽちは三人と対面する恰好になった。
　在明が武士を紹介した。長澤伴雄という名の紀州藩士で、藩主徳川治宝(はるとみ)侯に重用されている古学者ということだった。この度の春日権現験記絵巻の模本作りに治宝侯はいたく心を動かされ、資金提供の他に有職故実に詳しい家臣である長澤伴雄を京に派遣したのだった。
　長澤は以前から為恭とは知り合いで、その画才を高く評価しており、今も治宝侯の依頼で善教坊草紙絵を模写してもらっているところだと述べ、
「仕事が重なるので為恭殿を連れてくるのをためらったのですが、本人がどうしても参加したいと言われるので、こうしてお連れしたわけです」
「春日権現験記絵巻という名品を模写する機会などこれを逃せば一生ございません。是非とも参加させていただきとうございます」
　為恭がうやうやしく頭を下げた。長い立烏帽子の先が畳にほとんど付きそうである。
「殿は」と長澤が再び口を開いた。「春日権現験記絵巻のような国の宝を守ることは、我が国を守ることに他ならないと仰せなのです。去年から清国ではエゲレスとの間で戦になっておりますが、我が国もエゲレスなどの外国と戦う時がいずれ来るかも知れない。そんな時大事なのは何としても国を守るという気概なのだと殿はおっしゃいます。国の宝を守るというのは、その具体的な現れだというわけです」
　清国とエゲレスが戦っているというのは一�宸ﾉは初耳だった。他の者も同じだったらしく、在明がそのことを尋ねると、三人とも長澤の方に身を乗り出した。しかし為恭だけは腕を組んで、目をつむっている。
「清国の商人が長崎奉行所を通してもたらした話なので詳しいことは分かりませんが、阿片とか申す煙草のような物を巡って争っているとか」
「アヘン？」
「そうです。それを服すると働く気力がなくなって国が疲弊するとか。エゲレスはインドからそれを大量に持ち込んで、貿易の支払に充てており、清国がそれを止めようとして戦になっておるようです」
「エゲレスは清国を乗っ取るつもりなのですか」と一�宸ｪ尋ねた。
「それは分かりません。ただ清国がそうやすやすとエゲレスに屈するとは思えませんが」
「もしエゲレスが清国を占領したら、次は我が国ということもあり得るのでは……」
「我が殿もそれを危惧されておるのです。江戸でもそれを心配されている幕臣の方々が大勢おります。此度の模本事業も、古(いにしえ)の心を守り伝えていくことが国を一つにすることになるという考えの元に行われるのです」
　長澤の話は、一�宸ﾌ、春日権現験記絵巻の模写に対する気持ちを一変させた。有職故実の勉強のためだとか、貴重な絵巻を模写する栄誉とか、そんなことは些細なことに過ぎない。もっと大きな意義があるのだ。
　そう思うと、一�宸ﾍ、為恭が参加していることに鬱々となっていた自分を恥じた。自分の絵筆を大義のために使う道があるということに目を開かされた思いだった。
「為恭殿はどうお思いか、長澤殿のおっしゃることは」と一�宸ﾍ目を閉じている為恭に尋ねた。為恭はゆっくりと目を開けると、腕組みを解いた。直衣の袖がふわりと動く。
「そういう大きなお話は私には荷が重すぎます。私はただ有職故実を勉強して、自分の絵が古画に対して間違いがないと思えるようになりたいだけでございます」
「エゲレスが攻めてきたら、勉強とばかりには行かないのでは……」
「絵筆を刀に持ち替えよと言われるのですか」
「そんなことは言っておらぬ。絵師といえども天下の大義のために働く道があるのでは、と申しておるわけです」
「ですから、私には荷が重すぎると……」
　その時、まあまあと長澤が割って入った。
「為恭殿は若年にも関わらず、古画の模写を数多く手がけ、有職故実に対する知識には並々ならぬものがあります。ゆえに今回の事業には最適かと考えて私が連れて参ったのです。その意義は重々承知されているゆえ、一�專aもその辺りで……」
　立烏帽子を被った為恭はつるんとした表情で、我関せずという態度でいる。その公家を気取った風情に、一�宸ﾍ、この男とはやはり肌に合わないということかと内心で苦笑した。

　春日大社から渡された絵巻は、二十巻中の三巻だった。一度に全部借り受けて、それを五人で手分けして模写するものとばかりに思っていた一�宸ﾍ拍子抜けがした。春日大社では一度に渡して、またそれらが紛失するのを恐れたらしい。
　一巻目は原在明、二巻目は為恭、三巻目を一�宸ｪ担当し、一月に一回、お互いの進捗状況を確認するために原家に集まることになった。林康足と小野広隆もその時には一緒に同家に来て意見を言う。次の時には担当するので、色使いなどを確認する意味もあった。
　五人の絵師を集めても一度に三巻しか模写できないとなると、いつ終わるか分からないぞと思いながら、一�宸ﾍ萌葱地の緞子を表紙にした巻物を大事に風呂敷に包んで持ち帰った。
　家に上がると、まず田中先生の肖像画を床の間に掛け、その前に絵巻物を置き、模写がうまく行きますようにと礼拝した。その後、画室に巻物を持って行き、平机の上で広げた。原家でも見たが、自分の家で眺めると、その絵柄はいっそう雅に見えた。
　花と松庵が入ってきた。
「これが世に名高い絵巻どすか」と花が一�宸ﾌ手元を覗き込んだ。
「そうだ。今から五百年も前に描かれた名品だ。とてもそんな昔に描かれたとは思えないほど色鮮やかだろう」
「ほんまどすなあ。見つかってよろしおしたなあ」
　松庵が平机を挟んで一�宸ﾌ向かい側に腰を下ろし、絵巻を食い入るように見詰めている。
「分かるか、古画の力強さが」
「はい」
「ほう、どの辺りが」
　松庵は困った顔をし、もう一度絵巻に目を近づけた。そして巻物をさらに拡げて、次の絵の場面にも見入ると、しばらくして顔を上げた。
「人物の描き方が様々で、今の絵にはない動きを感じます」
「確かにそうだ。よいところに気づいたな」
　松庵が照れたように笑った。一�宸ﾍ息子より三歳年上の為恭を思い浮かべた。三年経ってもこいつはあの男の足下にも及ばないだろう。いっそのこと絵師への道を断念させた方が……そこまで考えて一�宸ﾍ心の中で頭(かぶり)を振った。たとえ才が乏しくとも一つの道を歩いて行けば、そこに小さな花が咲くこともあるだろう。
「どうだ、松庵。模写の手伝いをしてみるか」
「はい」
　松庵は大きく頷いた。
　今回の模写は、原本に出来るだけ忠実な模本を作るということで透き写しで行うことになっていた。ただ、原本に墨が移らないように模写する紙を厚くし、墨も淡くする。その紙を下絵にして模本として残す絹布に写し取り、原本を見ながら彩色を施すのである。
　模本に限らず絵を描く時は下絵が最も重要だというのは、田中訥言から叩き込まれた教えで、一�宸ﾉもその教えは染みこんでいた。
　ただ今回の場合、下絵を何度も作り直すのは原本に負担が掛かるので、理想を言えば一回、多くとも二回までにしたいと一�宸ﾍ考えていた。そうすると普通に絵を描く時以上の集中力が必要で、花や松庵に絶対に画室に入ってこないように言い渡し、平机の前に坐ると、まず南無妙法蓮華経を唱え、ゆっくりと墨を擦った。三巻目の第一段は、関白藤原忠実が常陸守の功績を称えて扇を下賜するために面会する場面で、屋根を取り払った屋敷の様子を上空から俯瞰して描いている。その場面に紙を載せ、気息を整えてから細筆を取り、場面を大きく構成している梁をまっすぐの線で写し取っていく。
　やり直しが効かないと思うと、直線の太さを変えずに引くだけでも疲れる。確かに原本に忠実な模本を作るというのは大変な作業だと実感させられた。
　彩色する時には松庵にも色の調合を手伝わせた。顔料を混ぜ合わせて試し塗りの絹布に塗り、原本と比べて色合いが少しでも違えば調合し直す。地味な作業だが、松庵は倦むことなくそれを続け、一�宸�助けた。

　一ヵ月に一回の原家での会合では、為恭が有職故実の正確さに拘り、一�宸竭ｼの絵師たちともめることが何度もあった。原在明の模写にも描き直しを要求し、在明が苦い顔をすることもあった。埒が明かないとなると、為恭は自家から模本の絵巻物を持って来、「ほら、ここに描いてあるでしょう」と器物を示したりした。小野広隆が怒って「それなら、貴殿がすべてを模写すればいいではないか」と言い返すこともあった。
　それでも皆がばらばらにならずに一緒に模写を続けたのは、為恭の熱意がいい物を後世に残そうという一点にあることを誰もが感じ取っていたからだろう。一�宸煦ﾗ恭の公家を真似た衣装や振る舞いには鼻持ちならなかったが、その熱意には打たれるところがあった。

　その年の閏一月には将軍家斉が死んだ。オットセイ将軍と異名が付けられるほど大奥に入り浸り、幕政は側近に任せきりで賄賂を使わなければ何事も進まないなどという噂が流れていて、大飢饉にも適切な対応の出来ない幕府には、一�宸熨蛯｢に不満を募らせていた。さらには、何年か前にはアメリカのモリソン号とか申す商船が日本人漂流民を届けに来たところ、エゲレスの軍艦と間違えられて砲撃を受けた、という話も伝わってきた。異国船を打ち払うという幕府の政策には大いに賛成していた一�宸焉A良いことをしようとやって来た異国船まで打ち払うとはなんたる失態と憤慨し、今の幕閣にはそんな区別もつかない輩しかいないのかと慨嘆した。
　五月に行われた香川景樹主催の歌会で、一�宸ﾍ中村守臣(もりおみ)に、そんな自分の思いをぶつけた。
　中村守臣は出雲国の神官、古学者で香川景樹門下の歌人でもあった。出雲と京を行き来しており、京に滞在中は歌会にも顔を見せ、一�宸ﾆも親交があった。
「一�專aが憤慨するのはもっともなことです」
　と守臣は頷いた。還暦を過ぎて顔の皺は深いが、目は年を感じさせないほど鋭い。
「現に、高野長英とか申す蘭学者や田原藩の家老である渡辺崋山が、公儀の対応を批判する書を著しているほどですからな」
「渡辺崋山が、ですか」
「ご存じかな」
「谷文晁の弟子で、肖像画をよくするということで、京の絵師たちの間でも名は知られております」
「ほう。崋山は絵も描いておったのか」
「藩士を辞して絵師に専念しようとして、出来なかったと聞いております」
「藩士でなかったら、捕まることもなかったかもしれん」
「捕まったのですか」
「そうです、二人とも。公儀は二人の捕縛を内密にしておるが、人の口には戸は立てられんということですな」
　蛮社の獄として一�宸ﾌ耳に詳細が入ってくるのは、ずっと後のことである。渡辺崋山は二年半後に自刃している。
「今の公儀で異国と対抗することができますでしょうか。清国はエゲレスに攻め込まれているという話ですが……」
「ほう、そのことを誰にお聞きになった」
　一�宸ﾍ春日権現験記絵巻の模写の仕事のことを話し、その時紀州藩士から聞いたことを告げた。
「治宝(はるとみ)侯が心配されるのもむべなるかな」
　その時、エゲレスがどうかいたしましたかと一人の男が割り込んできた。堂々とした体躯の壮年の男で、一�宸謔閧燻痰ｭ見える。
「おお、茂左衛門殿」守臣が背後から現れた男を体を開いて迎え入れた。男は一�宸ﾆ並ぶように守臣の前に正座すると、両手をついて頭を下げた。
「先生、お久し振りです。もっと早く京に来るつもりでしたが、仕事が立て込んで国を出るのが遅れてしまいました」
「今日の歌会に間に合うところなど、さすがは茂左衛門殿であるな」
「恐れ入ります」
　守臣が男を一�宸ﾉ紹介した。男の名は近藤茂左衛門(もざえもん)弘方、信州松本の大名主で、飛脚問屋や酒の醸造、薬問屋など手広く商売をしており、若い頃から守臣が和学と歌を教えているとのことだった。水戸藩の御用達も務めており、徳川斉昭侯にもお目通りが適うほどで、水戸学にも通じているという。
「国を思うことにかけては、その辺の藩士にも引けを取らない人物だ」
「私などまだまだでございます」
　茂左衛門は神妙な顔で頭を下げた。
「こちらはな」と守臣が一�宸�手で指し示した。「土佐絵門下の絵師で、宇喜多一�宸ﾆおっしゃる方だ。今、紀州の治宝侯に依頼されて春日権現験記絵巻という名品を模写されておってな。歌も上手くて、私と共に香川先生の教えを受けておるのだ」
「土佐絵というのは、あの禁裏絵所預の土佐家でございますか」
　と茂左衛門が一�宸ﾌ方に顔を向けた。
「そうです」
「いやあ、そんな高名な絵師の方とお見知りおきになれるとは、光栄です」
「私の方こそ、斉昭侯をご存じとは羨ましい限りです。ぜひ斉昭侯について何かお聞かせいただきたいですな」
　その時、歌会が始まる呼び掛けがあって、別室の大広間に席を移した。二十数人が集まっている。
　床の間を背後にした正面には香川景樹が座っており、一�宸ﾍ守臣、茂左衛門と並んで景樹を斜め横に見る位置に腰を下ろした。
　景樹が歌会参加の御礼を述べると、世話役の一人が「それでは始めます」と言い、目の前に置いてある短冊の山から一枚を取り上げた。
「あしびきの山の紅葉に暮れかかる……」
　世話役は少し間を置いて、もう一度詠む。参加者はその歌がいいと思ったら、紙に書き付ける。それを繰り返していく。皆が書きつけた紙を合計して、数の多いものから順番を付けていく。
　一�宸ﾌ絵巻の歌は四席、守臣と茂左衛門はどちらも三席だった。五席までの歌に香川景樹の講評があって、歌会は酒の入った懇親会になった。
　その席で一�宸ﾍ茂左衛門の杯に酒を注ぎながら斉昭侯の話を聞いた。
「斉昭侯は名君です。気性の激しい方だが、国を思う気持ちのある者に対しては、我々のような下々であっても分け隔てなく接してくださる。国を支える民を慈しまなければ国が滅びると水戸学の教えを説き、今の公儀を時に激しい言葉で批判なさいます。そんな弱腰では我が国はエゲレスなどの異国に攻め滅ぼされてしまう、などとおっしゃって」
「徳川御三家なのに、公儀を批判ですか」
「斉昭侯は危機感を抱いておられるのです。公儀が異国に対して、その場しのぎの対応をしていることに。今の公儀にはしっかりとした軸がない、天皇を中心に据え直して、公儀が補佐に回り、異国を徹底的に排除することが大事だとおっしゃいます」
　一�宸ﾍ徳川にも天皇親政の考えを持った大名がいることに驚いた。
「ということは将軍職を返上して、天皇が政(まつりごと)を行った方がいいとお考えなのですか」
「そこまではおっしゃいませんが、日本という国が滅びれば、徳川も何もなくなるとお考えなのです」
「なるほど」
　異国により国が滅ぼされるかも知れないという危機感は六百年も昔の元寇の時以来だろう。
「まさに今こそ和学の考え方が必要な時ですぞ」
　守臣が強い口調で言うと、一�宸燒ﾎ左衛門も深く頷いた。

　　　　　四

　春日大社からようやく渡された次の巻の模写に取り掛かっていたある日、一�宸ﾌ家を訪(おとな)う者があった。
　一�宸ｪ筆を置いて玄関に出てみると、網代笠を被った旅姿の僧侶が立っていた。若い顔をしている。
「宇喜多一�寳謳ｶでいらっしゃいますか。私、桑名生まれの僧侶で帆山唯念(ほやまゆいねん)と申します。この度渡辺清先生のご紹介で先生に大和絵の教えを請いたく、上洛して参りました」
　よく通る声である。説法をするにはうってつけだと一�宸ﾍ妙な感心の仕方をした。
　唯念は懐から油紙の包みを取り出し、その中から一通の書状を一�宸ﾉ手渡した。紹介状と書かれた表書きは確かに渡辺清の筆跡に間違いない。
「分かりました。渡辺殿のご紹介ならばお引き受けすることにやぶさかではないが、その前にまず賀茂の社に参詣して旅の埃を落としてきて下さい」
「賀茂の社とはどの辺りにございますか」
「その方、京には不案内ですかな」
「はい」
「鴨川はご存じですかな」
「ここに来る時に渡ってきた川ですか」
「そうです。その川を半里ほど上流に遡ると流れが二股に分かれるところに来ますから、そこを越えてさらにしばらく行くと賀茂の社があります。分からなければその辺りの人に聞きなさい」
　分かりましたと頭を下げ、出て行こうとするのを呼び止めた。
「参詣したら、賀茂の水を汲んで持って帰ってくるように」
「はい」
　唯念が出て行った。こちらの言うことに何の疑念も差し挟まずに素直に従ったことに、一�宸ﾍ好感を覚えた。
　渡辺清の紹介状を読んでみると、唯念は画僧として仏画も描いているが、有職故実を学んで宮廷風俗画や歴史画を描きたい希望があり、それなら土佐に学ぶのがよいと考えて一�專aの許で修行することを勧めた、とあり、画才は私が保証しますと付け加えていた。
　本来なら入門希望者には、その才を見るために実地で何かを描いてもらうのだが、今回は必要ないだろう。
　半時を越えた頃、唯念が戻ってきた。網代笠を脱ぐと花の持ってきた木桶の水で手足を洗い、手拭いで拭ってから上がり框に立った。水はと促すと、にっこり笑って頭陀袋から竹水筒を取り出した。
　一�宸ﾍ花に竹水筒を渡し、唯念を応接室に案内した。部屋の隅には毛氈があり、その上に煎茶道に使う涼炉や急須などの道具が置かれていた。涼炉には火が入っている。
　部屋に入ると唯念が下座に腰を下ろしたので、今日は客人ですので上座へと一�宸ﾍ手で示した。しかし唯念は「先生の弟子にしていただいたのですから、上座に坐るわけには参りません」と動かない。一�宸ﾍ少し笑って上座に坐った。
　唯念は床の間に掛かっている掛軸に目を留めた。
「それは我が師、田中訥言先生の考経図です」
「経書でございますか」
「そうです」
　そう言うと、一�宸ﾍいきなり考経を諳んじ始めた。唯念が驚いた顔をしている。切りのいいところで暗唱をやめると、
「絵というものは絵師の心を映すものです。心が濁っていれば、どんなに花鳥風月を美しく描いてみても、そんなものは俗眼を喜ばせるだけの絵に過ぎない。本当の絵を描きたければ、まず己の心を澄んだものにしなければならない」
　唯念が深く頷いている。
「ですから、私のところに入門したら、まず考経を覚えること」
「分かりました」
　唯念が両手をついて、剃り上げた頭を下げた。
　花が水注と菓子鉢を持ってきた。水注を涼炉に掛け、菓子鉢を置くと、「どうぞ、ごゆるりと」と言って静かに出て行った。
　一�宸ﾍ毛氈の前に座り、煎茶道の作法に従って、茶を淹れた。それを唯念の前に置くと、菓子鉢の羊羹を手で示した。
「これは先日画料と一緒に頂戴した虎屋の羊羹です。茶葉は上林。どちらも禁裏ご用の品物です。水は賀茂の神水ですから、主上に供される物と何ら変わりはありません。我ら卑賤の身にあって、畏くも主上と同じ物をいただくのですから、謹んでこれを賞味いたしましょう」
　そう言うと、一�宸ﾍ床の間に対して斜めに座り直し、「御所を向いていただきましょう」と唯念にも勧めた。唯念も素直に従い、一緒に茶を喫した。
「先生がそんなにも尊皇のお志が強いとは……。小生、感じ入りました」
　飲み終わって、唯念がつぶやくように言った。
「なあに、今の幕府のていたらくを見ていたら、誰しもそんな気持ちになるものです」
　そう答えると、一�宸ﾍ大塩平八郎の乱やモリソン号の事件、さらにはアヘン戦争のことまで語って聞かせた。大塩平八郎のことは多少知っていたが、モリソン号やアヘン戦争のことは初耳らしく、唯念は興味深く一�宸ﾉいろいろ質問をしてきた。それらに答えながら話を終えると、
「今のご時世、絵師が彩管をふるっているだけでは立ち行かぬというのが、私の偽らざる思いです」
　と付け加えた。
「分かりました。私も先生と同様に世の情勢に関心を払いつつ画業に精進いたします」

　唯念は河原町にある本誓寺、通称高田御坊に修行僧として入り、時間の許す限り一�宸ﾌ許に通ってきた。
　絵の勉強はまず一�宸ﾌ所蔵する粉本を模写することだった。その時有職故実に疑問が生ずれば一�宸ｪ教え、あるいは二人で書を紐解いて調べたりした。また、土佐家に頼んで有名な絵巻物の粉本を借りて唯念に写させたこともあった。
唯念が一�宸ﾌ家に通うようになって、息子の松庵も模写に力を入れ出した。それまでは一�宸ｪいくら模写の重要性を口を酸っぱくして説いても、形ばかりの取り組み方でおざなりだったのが、真剣になった。三歳年上という年齢の近い唯念に競争意識を刺激されたのか、あるいは僧でありながら遠い桑名から京にまで大和絵の修行に来た熱意に感化されたのか、どちらにせよ一�宸ﾉとっては喜ばしいことで、特に喜んだのは花だった。二人が揃って古刹の名画の模写に出掛ける時など、朝早くから弁当の用意をしたりした。
　一�宸ﾍ松庵だけではなく唯念にも春日権現験記絵巻の模写を手伝わせた。どちらが原本の線に忠実に描けるか、の競争になり、そのことが自然と筆遣いの勉強になることに一�宸ﾍ密かに喜んだ。

　月一回の原家での集まりの時、為恭が春日権現験記絵巻の模写とは別に、皆様に観ていただきたいものがございます、と持参した風呂敷包みを解いた。桐箱があり、中には真新しい紙の巻物が何本か入っていた。
　一�宸ﾍ、原在明、林康足、小野広隆と共に、為恭がそのうちの一本を取り出して広げるのを覗き込んだ。
「ほおう」と在明が声を漏らした。
　二尺ほどの長さの紙に、曲水の宴が描かれている。松の緑も鮮やかで、一目見て宮中の行事を描いたものだと分かる。顔を近づけて目を凝らすと、建物の細部や公家たちの衣装も丁寧に描かれ、その柄や色使いも有職故実に則って正しく選ばれているのが見て取れる。
　為恭は次々と巻物を広げて見せた。全部で十二本あり、一月から十二月までの宮中行事の代表的なものを取り上げて絵にしている。
　一�宸ﾍ以前鎌倉の世の時に描かれた年中行事図を見たことがあるが、それに比べても為恭の絵は人物や建物、木々の配置に工夫が凝らされ、観る者を奥行きのある世界に誘う力がある。
「これは？」在明が尋ねた。
「清川院(せいせんいん)様のご依頼で描きました」
「何と」小野広隆が驚いた声を上げた。
　狩野清川院養信(おさのぶ)とは江戸木挽町狩野家の九代目当主で、幕府御用絵師の一人である。古画の模写にも熱心で、御用絵師の名に恥じぬ名手として京の画壇でもその名は知れ渡っていた。
　一�宸烽ｳすがに驚いた。若干二十歳の若者に幕府御用絵師の一人が絵を依頼するとは、阿闍梨(あじやり)が出家したての若僧(にやくそう)に仏の教えを請うようなものである。格式からいってもなかなか頼めるものではない。それを行う清川院も大したものだが、現に今、為恭の描いた行事図を観ると、清川院がこの男に依頼したのも頷ける。
「それで、この絵を我々に披露されたのはどういうご了見か」と一�宸ﾍ尋ねた。清川院の依頼であることを我々に自慢するためなのかと言外に込めたのは、明らかに嫉妬からである。
「もちろん皆様の忌憚のないご批評を賜りたいからでございます。有職故実につきましても、ここが違うというご指摘をいただければ嬉しゅうございます」
　為恭が真面目な表情でそう答えると、林康足と小野広隆が顔を見合わせた。有職故実云々は明らかに嫌味としか受け取れない。一�宸ｽちの有職故実に関する間違いを指摘するのは、いつも為恭だったのだから。
「為恭殿の心掛け、誠に殊勝でありますぞ」と原在明がにこやかな顔で言った。「江戸狩野家に納める絵がまずくては、京の絵師全体の評判にも関わりますからな」
「そう言っていただけると、この為恭、身の引き締まる思いがいたします」
　そう言って為恭は立烏帽子を被った頭を小さく下げた。食わせ者か純粋か。一�宸ﾍ為恭との今までの関わりを思い起こして、どちらとも分からない男だと内心で苦笑した。
　どちらにしても、この男と自分では絵に対する考え方、絵師の寄って立つ心構えが違うのは確かだ。絵は才のみにて描くものではない。そう思うと、一�宸ﾍ為恭に嫉妬したことを恥じた。
　その日は持ち寄った春日権現験記絵巻の模写に関して意見を述べ合うよりも、為恭の年中行事図巻のことで話が弾んで、時間が過ぎてしまった。

　　　　五

　春日権現験記絵巻の模写を続けている天保十四年（一八四三）三月、香川景樹が七十四歳で亡くなった。大勢の門人たちがその死を惜しんで葬儀の寺に集まったが、その席で一�宸ﾍ二年振りに近藤茂左衛門と再会した。
　初めて会った後、一�宸ﾍ信州松本の茂左衛門と何度か書状のやりとりをし、彼の依頼で、南天吉祥図や関羽図などを描いて送ったこともあった。茂左衛門は熱心に松本への遊歴を請うてきたが、模写の仕事だけではなく依頼画もいくつか抱えていたため、それに応じる時間的余裕がなかった。
　茂左衛門は会うなり、「先生、是非松本にお越しください」と誘ってきた。一�宸ｪ仕事を理由に渋っていると、傍にいた中村守臣が「是非紅葉の季節にいらっしゃい。京の紅葉も見事だが、松本の紅葉も素晴らしいですぞ。それに足を伸ばせば富士を望見できますから」と背中を押してくれた。
　富士と聞いて一�宸ﾌ心が動いた。師・田中訥言の絵には富士を描いたものはない。富士を見たことがないからだ。師の見なかった富士を一度見てみたいと思ったのだ。
　秋までに仕事の整理をすれば時間的な余裕が出来る。一�宸ﾍ茂左衛門の誘いを受けることにした。
　路銀も茂左衛門が持つと言ったが、さすがにそれは丁重に断り、近藤家に滞在することだけは相手のたっての願いなので受けることにした。

　九月になってある会合で頼梨影に会った時、息子の三樹三郎が江戸に行くことになったと告げられた。羽倉簡堂(はくらかんどう)の引き立てで昌平坂学問所に入ると言う。羽倉簡堂というのは幕府の納戸頭で儒者でもあり、頼山陽とも交遊があった。
「それは頼もしいことですな」と一�宸ﾍ喜んだ。「山陽先生も昌平黌(しようへいこう)に学ばれたことですし、いよいよ三樹殿も先生の跡を継いで、天下に並び称される文人になる道に進む訳ですな」
　ところが梨影は浮かぬ顔をしている。一�宸ｪ問いただすと、
「あの子の才は私も認めておりますが、山陽に輪を掛けて直情径行なとこがありますから、公儀のお膝元で阿呆なことをせんかと心配で」
「直情径行は三樹殿のよさでもありますからな。梨影殿のご心配はもっともですが、どーんと三樹殿を信頼されてはいかがかと」
「そうでしょうか」
「そうですとも」
　それでも梨影の心配は晴れず、簡堂に同行して大坂、奈良を巡っている三樹三郎が京に帰ってきた時に会って、意見をして欲しいと頼まれた。
　それから数日後、松本への旅の支度をしていると、梨影から三樹三郎帰宅の連絡があったので、一�宸ﾍ富小路押小路下ルにある家に出向いた。
　家には三樹三郎の兄支峰(しほう)もいて、梨影と一緒に出迎えてくれた。支峰は以前の大病後の面やつれした姿よりもいくぶんふっくらとしている。その後の回復振りを尋ねると、すっかり元気になったということだったので、一�宸烽ﾐと安心した。
　応接間で梨影から煎茶の接待を受けていると、三樹三郎が鬢をほつれさせた寝起きのような顔で現れた。
「おや、宇喜多先生、どうされましたか」
「梨影殿がお主のことが心配で、江戸で勉学にきちんと励むように意見をしてくれと頼まれたのだよ」
　一�宸ﾍずばりと言った。その方が冗談めかして聞こえるからでもあった。はははと笑いながら、三樹三郎は一�宸ﾌ前に腰を下ろした。そして梨影の淹れた煎茶を一口飲むと、
「勉学はもちろん致します。ただそれは何のためかという腹はきちんと押さえておかなくては意味がありません。私は今、国を守るとはどういうことかと考えております。そのための勉学をするつもりでいます」
「そう、それ」と一�宸ﾍ言った。「そのことを考えると、あるいは公儀に楯突くことにもなりかねない。お主は山陽先生の子息として、頼家をもり立てていく責任があると思うがいかがか」
「それはこの兄にお任せいたします」
　そう言って、三樹三郎は支峰の肩を叩いた。支峰が苦笑をする。
「とにかく梨影殿を悲しませないように」
「それは分かっております」
　梨影は涼炉の前に敷かれた毛氈の上に座って、黙って二人のやりとりを聞いていた。
「そうだ、先生。これから羽倉殿のところに参りましょう。兄も一緒に」
　羽倉簡堂は今、六角光明院の館舎に滞在しているということで、ここから歩いて四半時ほどである。早速、三人で向かった。
　館舎には簡堂と供の者たちが泊まっており、三人が挨拶をすると、早速酒宴になった。
　簡堂は一�宸謔閧烽｢くつか年上で、役人というよりも学者のような風貌をしていた。今回は老中水野忠邦の特命により但馬生野銀山の検分に来ており、幕府の財政立て直しの一環として金鉱開発を目指しているということだった。かてて加えて、幕府管轄の米倉の整備のため鴻池などの富家に献金を求めたことも明らかにした。
「天保の大飢饉はまだ記憶に新しいですからな」と簡堂が言った。「あの時は初動の対策が遅れ、さらに財政も逼迫していて有効な手立てが打てませんでしたから。備えあれば憂いなし。飢饉の来る前から少しずつでも備えをしておかなければなりません」
　ほほう、幕政の中にも少しは民のことを考えている役人がおるのかと一�宸ﾍ感心して、簡堂という男を見た。
「あの時は鴨川の河原にも数多(あまた)の屍が投げ捨てられておりましたからな。あんな悲惨な光景は二度と見たくないものです」
　と一�宸ｪ言うと、
「そうです。まず餓死者が出ないようにすること、これが第一です。ただ、近頃は飢饉ばかりではなく、国の外からも夷狄(いてき)が来る時代ですから、その備えもしなければならず、公儀にどんなに金があっても足りない情勢で、頭が痛いことです」
　酒が進み、一�宸ｪ宮中画院に属する絵師だと知ると、簡堂が席画を求めてきた。
「ちょうどいい。先生に絵を描いていただき、三樹殿がそれに賛を付けたら、江戸へのよい土産になるというものです」
　館舎の者に硯と筆、半切(はんせつ)を持ってこさせ、一�宸ﾍ大堰川の紅葉をさっと描いた。三樹三郎はしばらくその絵を眺めてから、「秋光寂々花下筵　紅葉散落大堰舟……」と賛を入れた。簡堂がその出来映えを褒め、支峰も絵と賛の、互いに世界を広げる響き合いに感心したようだった。
　一�宸ﾍ気持ちがよくなって、三味線を借りると、「往古の、ちぬと佐々田の男子どち……」と清元の「土佐絵」を謡った。声の良さと芸達者であることを褒められると、調子に乗って三曲続けて清元を唸った。
　その後、一�宸ｪ松本に遊歴することを告げると、三樹三郎が是非江戸まで足を伸ばしてくださいと言ってきた。
「翌月の終わりには江戸に着いておりますから」
「時間が許せば、伺うことにいたしましょう」

　次の日から旅の支度を急いだ。
　帆山唯念を桑名に帰し、花に後のことを頼んで、一�宸ｪ松庵と共に中山道を松本に向かったのは、九月も終わりのことだった。今まで大坂くらいまでなら旅をしたことがあるが、今度のような長旅は初めてだった。
　長旅は危険が伴う。追い剥ぎとか護摩の灰に出会う可能性もある。そんな時のための心の支えとして、一�宸ﾍ先祖伝来の鎧を持参することにした。さすがに一揃いは重いので胴の部分だけにした。それでも花は何もそんな重い物をわざわざ持ち運ばなくてもと呆れたが、これを持っていれば、ご先祖様が守って下さる、いざとなればこれを着て闘うまでだ、と言い放って、鎧櫃に入れた。
　京を出て始めの頃は、松庵が張り切って鎧櫃を背負って歩いていたが、次第に疲れてくると、宿場で人足を雇って次の宿場まで運ばせたりした。
　日帰りと違って泊まりがけの旅となると、自ずと詩歌の感興が湧いてくる。吟行をしている気分になってくるのは自然だった。
　あふ坂のせきを都のさかひぞとまたかえりみる杉の下みち
　この歌には「九月二十九日都を出てあふ坂のせきにて」と前書きを入れた。
　　大津にて
あふみぢや都の山を跡にみて立ちわかれ行くしがのうら波
　　守山にてとまる
　袖ぬるゝ草津の道を分過ぎてつゆ守山に旅ねぞをする
　　鏡山をみて
　今朝むかふかゞみの山のさやかにてみやこの空ぞおもかげにたつ
　　醒が井にやとりて
　醒が井の清きながれに向ひ居てにごりなきよのためしをぞ汲む
　　不破の関にて
　跡もなきふはの関屋の霜ふりて昔がたりの秋風ぞ吹く
　　うぬまに宿りてあかつき鳥の鳴くをきゝて
　都にてわかれ告げにし鳥が音をけさも旅路にこひうたふらん
　　山ぢにかゝりて
　しなのぢや有明の空に山越えて木曽のながれの月をみるかな
　　みどのにとまりて
　草枕露のやどりの床のうへに山はもみぢのにしきぞをして
　木曽河の岩のはざまに旅ねしてさかまく波を枕にぞかる
　　小野の滝にて
　まつが根にながれも落つる山水を小のゝ滝とは誰が名づけゝむ
　　かけはしにて
　又もこん谷のかけはし秋かけてもみぢを分くる木曽の山道

　道中、幸い鎧を使用する場面には出くわさず、一�宸ﾆ松庵は松本に着いた。
　近藤茂左衛門の屋号は堤屋といい、街道沿いに四、五間も間口があろうかと思われる店を構えていた。定飛脚出所という大きな看板が掛かり、一階屋根には茶色くなった杉玉が掛かっている。
　一�宸ｽちは街外れから案内してきた使用人と共に、店の脇にある門をくぐった。入って左手は広い庭になっており、枝振りのいい松が池に影を落としている。右手には店に続く建物があり、その奥には屋根から四角い煙突が突き出している。使用人に煙突のことを尋ねると、酒造りのためだと教えてくれた。
　萱葺屋根の大きな母屋があり、その玄関に入る前から使用人が「お出でなさいました」と大きな声を掛けた。ほどなく近藤茂左衛門が玄関から姿を現した。相変わらずの偉丈夫振りである。
「先生、ようこそお出で下さいました。長旅、お疲れだったでしょう」
「いや、旅をしていますと感興が湧いて歌を作っておりましたから、疲れを覚える暇もなく……」
「おお、さすがは先生、後でその御歌を拝見させていただきましょう」
　玄関に入ると、松庵が背負っていた鎧櫃を降ろした。
「それは何でございますかな」と茂左衛門が尋ねた。
「鎧でございます」と松庵。
「京からわざわざ運んで来られたのか」
　茂左衛門が驚きの声を上げた。
「道中のお守りとして持参いたしました」と一�宸ｪ言った。「わが宇喜多家はかの宇喜多秀家に連なる武家の出。これは先祖伝来の品物です」
「それにしてもこんな遠いところまで持ってこられるとは……」
「松庵と二人で運んだと言えば立派ですが、途中で人足を雇いましたからな」
　それでも茂左衛門は感心した様子で鎧櫃を眺めた。
　応接間で道中の見聞きした話やその時作った歌を披露した後、一�宸ﾆ松庵は庭の一角に建っているこぢんまりとした二階屋に案内された。楽平楼と名づけられた茂左衛門の書斎である。
　一階は文人墨客が集う場として、二階は国事を語る場として利用されており、二人はそこに泊まることになった。二階からは二百坪余りの庭が一望でき、ちらほらと赤く色づいている木々もあった。
夜には、母屋の方で歓迎会が催された。近在の文人や数奇者たちが大勢集まり、酒宴の後で一�宸ﾍ席画を求められた。水墨淡彩で描く吉兆図や風俗図の筆運びの軽やかさに、一�宸ﾌ手元を見ていた人たちは感嘆の声を上げた。長旅でお疲れでしょうからと茂左衛門が途中で止めようとしても、一�宸ﾍ求められる限り席画を描いた。お開きになった後、正式に掛軸や屏風絵を頼んでくる者もいて、一�宸ﾍ喜んでその仕事を引き受けた。
　翌日の夜も宴席が設けられ、その時一人の男が茂左衛門に連れられて現れた。茂左衛門と同じような背丈だが、随分と細身で眼光が鋭い。羽織袴に脇差しを差しており、一�宸ﾍ武士かといささか身構えた。
「この者は私の弟でございます」
　一�宸ﾌ前に腰を下した茂左衛門が隣の男を紹介した。
「久保田信右衛門と申します。兄から先生のことを伺って、是非ともそのご謦咳(けいがい)に接したく伊那からまかり越しました」
　信右衛門は深々と頭を下げた。
　茂左衛門の説明によると、信右衛門は母親が伊那の出であった縁で、山本村の旗本近藤石見守の家老久保田信右衛門の養子となり、養父の死後名跡を継いでいるということだった。兄と同様に中村守臣に和学を学び、歌をよくし、書にも堪能だということだった。
　天保の大飢饉の折、十里四方の村々の名主、庄屋に檄を飛ばして集会を開き、米穀の融通を説いて飢餓から百姓たちを救ったのも信右衛門だった。
「公儀の対応が余りにも遅いので、腹が立ちまして、それなら自分ができることをやろうと思った次第です」
　信右衛門は一�宸ﾉ酒を勧めつつ、今の幕府の改革について意見を述べ始めた。
「そもそも公儀の金がなくなったのは、飢饉が続いたせいばかりではなく将軍の浪費も大いに関係しております。それを正さずして貨幣の改鋳でごまかすなど言語道断。物の値段が上がるのは必定でございます。それを何とかしようと株仲間を解散させたのも大間違いで、安い費用で物が運べるどころか、運ぶ手立てが減ってしまって、逆に物の値段が上がる始末。打ち壊し、一揆が収まらないのが何よりの証拠でございます」
「おっしゃるとおりです。異国に対抗するためには国を富ませることが必要なのに今の公儀にはそれができません。国の基本は農なのに、それを疲弊させることばかりしている。守臣先生のおっしゃるように、いまこそ和学の教えを津々浦々まで広めて、農を強くして人心を異国に立ち向かえるようにしなくてはなりません」
　そこまで言って、一�宸ﾍ羽倉簡堂のことを思い出した。松本に来る前に幕政の役人に会ったことに触れ、幕府の中にも財政立て直しに取り組んでいる役人がいることを話した。信右衛門は頷きながら聞いていたが、
「私もそのような役人を存じております。ただ、頑張っているのは下の方の者だけで、上は危機感もなく問題を先送りしているばかりで……」
　その時、使用人が緊急の文が来たと言って、茂左衛門に手紙を手渡した。それを読んだ茂左衛門の顔色が変わった。
「老中が罷免されましたぞ」
「えっ」
信右衛門が兄の手から手紙をひったくった。
「なんと」
　その夜は席画どころではなく、茂左衛門や集まった文人たちも巻き込んで国事の話で持ちきりになった。老中水野忠邦の政策を批判する者、次は誰になるかという話で、誰になっても世の中がよくなることはないと悲観する者など、灯明の油を何度も継ぎ足して、夜遅くまで話が続いた。
　次の日から寒さが募ってきて、三日後、東山の方に紅葉狩りに行くことになった。幕府の政変で暢気に遊んでいる暇などないだろうと茂左衛門が危惧していた信右衛門も恵那から合流して、朝から出掛けた。
　信右衛門に問い掛けると、旗本近藤家の方でもまだどう動いていいか分からず、静観していると言うことだった。
　京ではまだ色づいてもいなかった木々が、東山では真っ赤になっており、一�宸ﾍ写生帖と矢立を取り出して、山々の紅葉とその葉を落とす渓流を写生した。
　近藤家に帰って、早速写生を元に一�宸ｪ本絵を描き、茂左衛門が詩を詠み、信右衛門がその詩を画賛として書き込んだ。信右衛門の書は兄の言葉通りの流麗な筆致で、一�宸ﾍ十分書家としてやっていけると太鼓判を押した。
　何日かして寒さが一段落した日、一�宸ﾍ茂左衛門の案内で、美ヶ原に富士山を見に行った。途中で一泊して茶臼山にたどり着いた時は、脚ががくがくしてもう二度と山登りはしたくないと思ったが、青く霞む稜線の向こうにはっきりと富士の円錐形の形を認めると疲れも吹き飛んだ。師の代わりにここに立っている気がして、一�宸ﾍ何枚も富士山を写生した。
　始めの予定では富士山を見終わったら京に帰るつもりだったが、一�宸ﾉ絵を求める者が次々と現れて、滞在すること三十数日に及んだ。その間、近藤久保田兄弟と水戸藩政や幕政について議論を重ね、時には吟行に出て歌を作った。
　滞在終盤になって、信右衛門が主家の近藤石見守に呼ばれて江戸に行くことになったと茂左衛門が伝えてきた。老中の交替で勢力が変わって主家が信右衛門の能力を生かせると考えたらしかった。
　一�宸ﾍ三樹三郎との約束を思い出し、茂左衛門を通して、信右衛門に江戸行きの同行を願い出た。信右衛門が喜んで承諾してくれたので、早速荷物をまとめ、茂左衛門や近在の数寄者たちに世話になった礼を述べてから、息子の松庵と共に江戸に向かった。鎧櫃は信右衛門の武具と一緒に馬で運んでもらった。
　向島の小梅に信右衛門の住居が用意されており、その一角に荷物を置き、到着した翌日に、湯島にある昌平坂学問所に行った。
　そこで三樹三郎の居所を尋ねると、谷中の善光寺坂にある尾藤水竹(すいちく)の邸にやっかいになっているということだったので、そこに向かった。梨影の話では羽倉簡堂(はくらかんどう)の世話になるということだったので、一�宸ﾍてっきり彼の邸にいるものとばかり思っていたので、面食らった。
　一�宸ﾆ松庵は一里ほどの距離を人に道を尋ねながら歩き、昼過ぎに尾藤水竹の邸に着いた。谷口荘と名付けられた邸は一儒学者の持ち物としては門構えからして立派で、昌平坂学問所の先生というのは大した禄をもらっているものだと一�宸ﾍ驚いた。
　玄関で訪うと、髷もほつれたむさ苦しい若者が現れて取り次いでくれた。
　しばらくして三樹三郎が奥から出てきた。京の時とは違って、三樹三郎も先程の若者と同様に着崩した着物姿で、髪もほつれていた。
「やあ、誰かと思ったら宇喜多先生と松庵殿ではありませんか」
　三樹三郎は満面の笑みで二人を迎えてくれた。早速中に通され、応接間で尾藤水竹と対面した。一�宸謔閧熹N下と思われたが、風貌はぎょろりとした目で野武士を思わせた。しかし笑うと目尻が下がり、愛嬌があった。
　一�宸ｪ梨影に成り代わって三樹三郎が世話になっていることの礼を述べると、
「父と山陽殿とは従弟同士であったゆえ、そのご子息の後ろ楯になるのは当然のことでござるよ」
　そう言って水竹は笑った。
　三樹三郎に簡堂のことを尋ねると、この度の老中交替のあおりを受け、簡堂は左遷されてしまったということだった。俸禄も半分にされた上、小普請入りになったという。一�宸ﾍ学者のような風貌の簡堂を思い浮かべ、政変による身の浮き沈みは世の習いとはいえ、惜しい人物を遠ざけたものだという思いを禁じ得なかった。
　話の中で、住まいのことが出てきたので、一�宸ｪ水竹の邸の立派なことを褒めると、彼は豪快に笑い始めた。三樹三郎も含み笑いをしている。
「この邸はわしの物ではござらん」と水竹は笑いの残った顔で言った。「林述斎先生の持ち物であった別邸を借りておるまで。わしの禄ではこんな邸が持てるわけはござらんでな」
　林述斎というのは林家八代の当主で、昌平坂学問所を幕府直轄にしてその権威を高めた人物である。
　開け放された障子の向こうを何人もの若者が通り過ぎていく。食客にしては多すぎる。そのことを尋ねると、
「小藩から出てきている者は金がないから、来る者拒まずで受け入れていると、いつの間にかあんなに大勢になっておるのです」
「先生は」と三樹三郎が小声で言った。「金はないが食客は多いのです」
「三樹、天下の秘密を暴露してはいかん」
　そう言って、水竹はまた笑った。
　すぐに帰るつもりが、引き留められて宴席になった。それも大勢が一堂に会してのそれである。
　一�宸ﾍ水竹に今取り組んでいる春日権現験記絵巻の模写の話をした。水竹はその仕事の意義を盛んに褒め、「それにつけても」と嘆息した。「ご公儀の文書を司る役目というのはつまらん仕事でしてな。前例を踏襲して遺漏なきを図る。宇喜多先生のように後世に残る仕事ではござらんからな」
　酒が言わせる言葉かと思いながら、一�宸ﾍ黙って聞いていた。
　結局その日は水竹邸に一泊し、翌日向島の小梅への帰り道にある吉原に三樹三郎と一緒に繰り出すことになった。一泊した事情を説明させるために息子の松庵を信右衛門の所に帰らせようとしたが、三樹三郎がそれを制し、三人で吉原大門を潜った。
　広い通りがまっすぐ貫いており、「春にはここに桜の木を持ってきて並べるということですから、是非その頃にまた来ましょう」と三樹三郎が言った。まだ日も暮れないのに、町人たちが何人も店を覗き込みながら歩いている。京の島原に劣らない賑わいである。
　入ってすぐ左には浮世絵や黄表紙本を売っている書肆があった。質素倹約、風紀粛清の改革を推し進めた老中が失脚しても、さすがにすぐには役者絵や美人画は復活していない。名所図絵や武者絵が並んでいる。江戸土産に浮世絵を一枚買うため松庵に選ばせると、富士山の絵を指差した。夕陽を浴びた近景の富士山で、背景に棚引く雲が一種の図案のようになっている。稜線が鋭く立っており、美ヶ原で見た遠景の形とはずいぶん違っている。
　落款を見ると、北斎改為一(いいつ)となっている。一�宸ﾍその北斎という名前に聞き覚えがあった。三十年ほど前、師・訥言の元で修行していた頃、師から名古屋での浮世絵師との絵描き合戦の思い出を何度か聞いたことがある。確かその時の絵師の名前が北斎だったはず。
「この絵師はまだご存命なのか」
　一�宸ﾍ浮世絵を指差して、店の主人に尋ねてみた。
「だれ」と言って、主人は浮世絵を見た。「ああ、画狂老人さんね」
「がきょうろうじん？」
「画に狂うと書いて画狂老人。本人がそう名乗ってんでさあ。確か八十は越えているから、いつ死んでもおかしくはないんだが、本人は百まで生きるって公言してますぜ」
「まだお元気なのか」
「ぴんぴんしてまっせ。ちょっと前にも富士を描いた絵手本を出したはず」
　そう言うと、主人は店の奥に行き、棚から藍色表紙の一冊の本を取り出してきた。
　富岳百景三編と題されたもので、見開きに墨で、様々な富士の姿が人々の様子と共に写されている。
　一�宸ﾍそれも買い求めた。思えば、師・訥言も自分のことを晩年は癡翁(ちおう)と名乗っていた。画狂老人と名乗る北斎と相通じるところがある。自分はまだまだそこまで名乗る心境にはなれない。一�宸ﾍ絵の修行の道が遙かなることを思い知らされた。
　そぞろ歩く人々の間に交じって通りを行き、横道に入ったところに三樹三郎の馴染みの店があった。彼が江戸に来て一ヵ月と少ししか経っていないのに馴染みの店を作っているということは、もう何度も来ているに違いない。
「三樹殿、ここへは何回目ですかな」
「さあ、よく覚えておりません」
「遊ぶなとは言わないが、ほどほどにして勉学に励まなければ、母上に申し訳ないですぞ」
「分かっております」三樹三郎は神妙な顔で頷いた。「ただ、ここは公儀のお偉方もお忍びで来るので、遊びだけではなく色々と勉強になるのです」
　そう言って彼は小さく舌を出した。
　店の番頭が現れて、三樹三郎を先生と呼び、三人を二階の部屋に案内した。
　三樹三郎の馴染みの遊女の他に二人の遊女を呼んで宴席になった。女たちが清元節をやり出すと、始めはその節回しを楽しんでいた一�宸ｾったが、そのうち体がむずむずしてきて、ついには三味線を借りて自分で歌い出した。女たちのやんやの喝采に調子に乗って、着物の裾を尻からげし、奴踊りまで披露した。
「先生にそんな特技があったとは」
　三樹三郎が手を叩いて大笑いした。松庵は目を丸くしている。
「遊ぶ時は大いに遊ぶ。それが私の信条ですからな」と一�宸ﾍ嘯(うそぶ)いた。
　一�宸ｪ絵師だと分かると、女たちが席画を求めてきた。二つ返事で引き受け、店の用意した道具で女たちの踊っている姿を描いた。さらに富嶽百景を意識して、富士も描いてみた。「先生、すごい」という女たちの言葉に気持ちがよくなって、雪月花も描いた。三樹三郎が「それなら私も」と雪月花の絵に即席の漢詩の賛を入れた。
　一�宸ﾍ松庵にも何か描くように言った。最初は私にはとてもと渋っていたが、女たちに囃されて筆を執った。何を描くかと見守っていると、松庵は一つ深呼吸した後、筆を下ろした。紅葉の散る中を牛車が進んでいく絵で、明らかに春日権現験記絵巻の模写に出てきた構図である。
「これはまた雅な図柄ですな。さすがは大和絵の伝統を継ぐ松庵殿ならではですな」
　次の日には三樹三郎が一�宸ｽちの滞在先にやってきた。
　信右衛門に紹介すると、彼の勤王思想に大いに気をよくした三樹三郎は早速幕府批判の説を展開し、一�宸煢ﾁわって議論は深更まで及んだ。
　結局江戸滞在は十日余りに及び、その間江戸の町を松庵と共に見て回った。そして信右衛門の松本への一時帰郷に随行して中山道を行き、京に戻ったのは師走に入ってからだった。

六

　次の年の六月、原在明が六十七歳で亡くなった。春日権現験記絵巻模写の中心的人物だったので、その事業が頓挫することを一�宸ｽちは心配したが、葬儀にやって来た長澤伴雄は笑って否定した。
「模本の完成までもう一息というところまで来ておりますので、ここで止めることはあり得ません。紀州家がついている限り、資金の心配もご無用ですから、先生方には思う存分彩管をふるっていただきとうございます」
　それを聞いて一�宸ﾙか四人の絵師たちも気持ちを新たにして、原在明の一周忌までには霊前に二十巻の模本を備えることを誓い合った。
　もっとも残り二巻の担当は林康足と小野広隆なので、一�宸ﾍ気楽な立場であった。模写した絵を持ち寄って検討する会も、冷泉為恭(れいぜいためちか)に任せることができるので、一�宸ﾍその秋、渡辺清の誘いを受けて名古屋に行った。
　松庵を連れず一人なのでさすがに鎧を持参することはしなかった。岡谷家に顔を出し、天保の飢饉の時に助けてもらった礼を述べ、惣助の斡旋で、伝馬町に家を借りた。
　旅の疲れを落とした数日後、一�宸ﾍ船で桑名に渡った。寺町にある輪崇寺の副住職になっている帆山唯念(ほやまゆいねん)を訪ねるためである。
　手紙で訪問を知らせておいたためだろう、一�宸ｪ輪崇寺の近くまで来ると、「先生」と大きな声で呼ぶ声がして、唯念が小走りに近づいてきた。
「お待ちしておりました」
　唯念はきれいに剃り上げた坊主頭を下げた。
　墨染めも新しい僧衣を着ており、二十歳を少し越したとは思えない落ち着きが感じられる。一年前からずいぶん大人になったようである。
　瓦葺きの山門を潜って中に入り、本堂で唯念の父親である住職に挨拶をした。一�宸ﾆ同じくらいの年齢で柔和な顔をしている。絵の指導をしてくれる一�宸ﾉ丁寧な礼を述べた後、「それで息子には絵の才がございましょうか」と問うてきた。
「才のない者に教えることはいたしません」
　そう答えると、住職は深く頷き、
「聞くところによりますと、先生の師であられる田中訥言先生も僧侶であったとか。それが還俗されて絵師の道に専念されたとか。先生は息子もそうすればよいとお考えでしょうか」
　なるほど、寺の住職としてはそのことが気がかりなのかと一�宸ﾍ思った。
「訥言先生は幼い頃、口減らしで寺に預けられたのです。自分の意思で僧侶になったわけではないので、還俗もそれほど抵抗はなかったのではないかと私は考えます。唯念殿がどういうお気持ちなのか分かりませぬが、還俗して絵師の道に進むもよし、僧侶をやりながら絵を描くのもよし、才を生かす道は一つではございません」
　住職は唯念を見て、「どうだ」と言った。
　唯念は一呼吸間を置いた後、
「私は還俗する気はありません。絵を描くことも仏道修行の一つと心得ておりますので、今まで通り僧侶としての仕事の合間に彩管を取るつもりでおります」
　還俗するのならいつでも引き受けるぞと思いながら、一�宸ﾍ唯念の決意を聞いていた。
　唯念に最近描いた絵を見せるように言うと、彼は自室に戻っていくつか持ってきた。白描の仏画や賀茂祭図に混じって、三十六歌仙絵巻の模写があった。一�宸ｪ譲り受けた訥言の模写本の一つに三十六歌仙絵巻があり、それを勉強のために唯念に貸し与えていたのだ。
　唯念は斎宮女御などの女歌人を何枚も模写していた。十二単の折り重なる描写や着物の柄、さらには黒髪が流れる曲線などが微妙に異なった絵だった。一目で唯念の勉強の跡が知れた。唯念はいつまでも手元に置いておくのは申し訳ないと訥言の模写本を返そうとしたが、まだまだお主には必要だと一�宸ﾍそれを押しとどめた。
　その日は住職の勧めもあって、寺に泊まることにした。近隣の庄屋や大店の主が集まり、一�宸�囲んで宴会になった。酒が入ると、一�宸ﾍ唯念の筆を借りて席画をし、興に乗って清元まで披露した。禁裏御用の絵師と聞いていた数寄者(すきもの)たちは、一�宸ﾌ腰の軽さに驚いて、やんやの喝采を送った。
　名古屋に戻ると、渡辺清の斡旋で、尾張藩勘定吟味役の馬場守信から紀貫之朝臣の画像を描いて欲しいと頼まれた。守信は本居宣長の流れを汲む歌詠みで、来年の正月十八日に貫之の祭を開きたいので、それに間に合うようにという依頼だった。
　三十六歌仙絵巻の中の貫之像を写せば、すぐにでも描けるが、そんなどこにでもいる絵師の仕事はしたくない。
　和歌の師であった香川景樹の家に貫之像と称せられる木像があった。元々は西本願寺の北方にある妙國寺の塔頭、勤持院にあった福大明神を模したもので、景樹が仏師に造らせた。景樹は考証してその像が紀貫之であると説いていたのである。その考証を聞くと、一�宸煌mかに貫之像であると納得できた。
　従って、貫之像を描くとするとその像を写す以外考えられなかった。となると京に帰らなければ描けないわけで、しかし折角尾張まで来てすぐに帰るのももったいない。他に絵の依頼もぽつぽつ入っているし、もうすぐ始まる熱田神宮の式年祭も見てみたい。幸い期日までまだかなり時間がある。
　馬場守信にそのことを伝えると、詳しい話を聞きたいと守信が一�宸ﾌ借家までやって来た。年格好は一�宸謔阡N上に見える。背が高くて細面、疳が強そうで、一�宸ﾍ場所を変えて話をした方がよさそうだと判断した。
「近くに馴染みの店がありますから、そこでお近づきの印に一献傾けましょうか」
「馴染みと言われると、茶屋ですかな」
「いけませんか」
　守信は眉根を寄せた。先日、菱形屋に登楼した時、名古屋城下の遊廓はすべて廃止されて、尾張藩士たちはこの宮の宿まで遊びに来ていると聞いた。ご改革の名残で風紀粛清が厳しく、大っぴらには遊べないらしい。守信が堅物なら、二の足を踏むのも分かる。
「京の絵師と懇意になるのも、仕事のうちではございませんか」
　一�宸ﾍ水を向けてみた。
「まあ、そういうことなら……」
　と守信が頷いた。
　菱形屋は遊廓の中でも比較的大きい方で、田中訥言も名古屋滞在中に何度かここで遊んだことがある。今でもその名前を覚えている者たちがいるくらいなのだ。
　二階に通され、まずは二人だけで酒を酌み交わした。一�宸ﾍ香川景樹の考証の話をし、世に二つとない紀貫之像を描くつもりであるから、時間をいただきたいと頼み込んだ。
「私としても香川先生の考証に異を唱えるつもりは毛頭ござらぬが、歌会の時に掲げる絵ならば皆が見知っている姿の方がよいのではござらぬか。その方が先生も早く描けるのでは……」
「歌会に間に合わないことを心配しておいでですか」
「いやいや、そういうわけでは……」
「ご心配ご無用。来年正月十八日の御邸の床の間には、私の描いた絵がどんと掛かっております。見慣れぬ像ゆえ、参会した歌詠みたちがそれを種に話に花を咲かせること間違いなしです。その時には先程お話しした香川先生の考証を得々と披露していただければ、座が盛り上がることは請け合いで……」
「なるほど、そう言われればそうかもしれませんな」
　守信が納得したところで、手を叩いて二人の遊女を呼んだ。馴染みの千代が連れてきたのは初めて見る顔だった。亀よしという名で手が抜けるように白い。顔も白粉を通して、その白さが分かるほどだ。島田髷が重そうに見えるくらいほっそりとした頬で、一�宸ﾍその儚げな容姿が一目で気に入った。
　女たちの求めに応じて席画をし、一�寰ｩら三味線を弾いて清元をうなり、亀よしがそれに即興の踊りを付けた。守信も千代から何かおひとつと促されると、それではと姿勢を正し、朗々と謡曲を謡いだした。鶴亀である。千代と亀よしに掛けた選曲であることは明らかで、一�宸ｪ女たちにそのことをそっと耳打ちすると、女たちは音を立てずに手を叩く真似をした。
　結局、その晩は二人ともそこに泊まった。守信の相手を千代に頼み、一�宸ﾍ亀よしを選んだ。
　誘ったのは一�宸ｾったので費用はこちらが持ったが、亀よしという遊女を相手にできたので、少しも散財したという気分にはならなかった。紀貫之像の画料を全部使ってもいいくらいの気持ちだった。

　何日か経って、熱田神宮の式年祭見物のため、京から倉田玉露園の倉田五助が茶屋の仲居を連れてやって来た。一�宸煦齠x五助に連れられて、その女の働いている井筒に顔を出したことがある。
「先生がちょうどここにいはるんで、来ましたんや」
「女連れとは羨ましい」
「そうどすやろ。美乃はんには何かと便宜を図ってもろてますさかい、お礼かたがたお伊勢参りを兼ねて名古屋見物をしようかと」
　美乃と呼ばれた仲居が物腰柔らかく頭を下げた。三十路を過ぎた女の艶めかしさがある。五助の好みはこういう女だったのかと改めて思った。
　折角の式年祭なのだから、大勢を集めて宴会をしようと、一�宸ﾍ馬場守信に声を掛けた。その時、お知り合いを何人か連れてきて下さいと頼んでおいた。
　祭の当日、守信は二人の男を連れてきた。一人は医者でもう一人は儒者だった。
　菱形屋の女将の提案で、宴会の前に砂持ち神事を見物かたがた、踊りに参加することになった。砂持ち神事というのは遷宮がなって、その境内に敷き詰める砂を奉納する儀式である。その時、仮装して踊ってもいいことになっていて、大勢の人々が日頃の憂さを晴らすように踊り狂うらしい。
　それは面白そうだということになって、早速店の用意してくれた衣装に着替えた。千代と亀よしの二人も一緒に行くことになって、計八人。一�宸ﾍ女物の衣装を着て島田の鬘(かつら)を被り、手には琵琶を持った。他には虎の衣装を着たり、ひょっとこの面を被ったり、傀儡(くぐつ)の恰好をしたり。亀よしは背中の見える火消しの衣装で、夜の灯りでは目立たない白さが昼日中の光の下ではぼおっと霞んで見えた。絵ではこの白さを描くのは難しいと思いながら、一�宸ﾍその背中を見詰めた。
　神宮の境内には様々な恰好をした連中が集まっており、一�宸ｽちが加わっても全く目立たない。どこからともなく三味線と太鼓の囃子が聞こえてきて、人々が思い思いに踊り始めた。一�宸熹�琶をかき鳴らし、足を上げ、体をくねらす。遊女たちも踊り出し、それにつられるように五助や守信たちも手を差し上げ始めた。踊りの熱気が充満し始めると、一種の興奮状態になって、いつまでも踊っていられるような気分になってくる。
　だが、さすがに半時も踊っていると疲れてくる。亀よしが助けを求めたのを潮に、彼女を一�宸ｪ負ぶって菱形屋に戻った。
　その夜の宴会で、一�宸ﾍ興に乗って自分も含めた八人の踊っている姿を画仙紙に描いた。墨絵なので亀よしの肌の白さは出そうもない。それでも墨の濃淡を利用して描くと、亀よしは生きてるみたいと感嘆した。

　一�宸ｪ京に戻ったのは師走に入ってからだった。早速依頼の紀貫之像を描こうと、香川景樹の邸に行き、そこに移り住んでいる息子に木像を見せてもらった。見れば見るほど堂々とした像で、一�宸ﾍその前に下絵用の紙を広げ、写生をした。三枚ほど写し取るともう出来上がったような気になって、意気揚々と自宅に戻った。
　ところがその日に青蓮院(しようれんいん)宮から二曲一隻の屏風絵の依頼があった。来年正月二十一日の内宴に使いたいとの仰せだった。禁裏の画院寄人という立場上、皇族からの依頼は絶対である。しかも二曲一隻というのはぎりぎり間に合う大きさである。向こうも間に合うと考えて依頼してきているのだ。
　一�宸ﾍ貫之像を中止し、屏風絵に取り掛かった。若菜摘みの絵で、公卿たちの衣装や柄、乗っている牛車の形など有職故実を調べなければならない。
　胸を叩いて請け負っておいてそれを果たせぬ心苦しさから、馬場守信への連絡を延ばし延ばしにしていたが、このまま放っておくわけにはいかない。
　年が明けると、一�宸ﾍ手紙で馬場守信に、仕事の現状と期限に間に合わないことへの詫びを書いた。返事がなかなか来ず、怒らせてしまったかと一�宸ｪ悶々としていると、ようやく返書が届いた。その中で、守信は一�宸�責めることは一切せず、来年の紀貫之祭で御図を拝見できることを楽しみにしていますと書いていた。
　一�宸ﾍほっとして、屏風絵の仕上げに没頭し、それが済むと間を置かず貫之像に取り掛かった。守信は来年でもいいとは言ってくれたが、その言葉に甘えず制作に励み、紀貫之像の完成したのは約束より二ヵ月遅れの三月の始めだった。特別に作らせた木箱に入れて、飛脚に託した一�宸ﾍ、その足で島原に出向き、登楼すると正体不明になるまで酔っ払ってしまった。

弘化二年（一八四五）三月?、四年に渡った春日権現験記絵巻の模写がようやく終わった。まだ表紙を付けたりする作業が残っているが、原在明の一周忌には十分に間に合う。
　一�宸ﾍ絵巻の一部分、例えば屋根の形、蔀(しとみ)、衝立の模様、人物配置、衣装の文様など今後使えそうなところを何枚も別に模写して、手持ちにした。絵師というのは戦に臨む武士と同じである、というのが一�宸ﾌ考えだった。武士が様々な武器を用意するように、絵師も下絵を描くときに使える色々な絵を用意すべし、と言うのだった。
　原在明の邸で完成を祝う内輪の会が開かれた。発注者である紀州家から担当の長澤伴雄が上洛し、林康足、小野広隆、冷泉為恭(れいぜいためちか)、宇喜多一�宸ﾌ計五人が集まった。大きな仏壇の前に二十巻の模本を積み上げ、天性寺の住職が読経し、原在明の御霊に報告した。
　それが終わると、長澤伴雄が目録の作成を誰にするかと一�宸ｽちに問い掛けた。目録とはいわば絵巻の顔である。原在明が存命していたら、彼が担当するのが筋だが、いないとなると最年長五十一歳の一�宸ﾉ回って来そうだった。
　皆が黙していると、長澤伴雄が「ここは一番年若の為恭殿にお任せしてはどうか」と提案してきた。
「それがよろしいな」と林康足が言った。「為恭殿の有職故実の知識がなかったら、もっと時間が掛かったでしょうからな」
　小野広隆も同様のことを言い、そう言われると一�宸熹ｽ対できない。
　長澤伴雄が為恭に意向を尋ねると、為恭は立烏帽子が畳につくほど頭を下げた。
「皆様方のご努力がさらに立派に見えますように全霊を尽くして目録を作成いたします」
　有職故実ばかりではなく、この四年の間に為恭の画名がぐんと上がっていることも大きかった。狩野清川院の求めによって描かれた年中行事図巻は大層な評判を呼び、その他にも知恩院日鑑を描いたり、法然上人絵伝の模写を始めたことも京の絵師たちの間では高く評価されていた。
　宴会の席で、一�宸ﾍ信州松本への遊歴の話をした。特に近藤茂左衛門、久保田信右衛門兄弟のことは力を入れて語り、夷狄(いてき)を討つためには天皇を中心に据え直して、人心を一つにすることも必要と考えている水戸藩の徳川斉昭の話もした。
「江戸や京から離れた辺地においても、勤王の志を持った人々がいることに私は感服いたしました。夷狄を討つことができないのなら、徳川に代わる者が世を治めなければならないでしょう」
　長澤伴雄が咳払いをした。
「一�專a、この場でそのような政(まつりごと)の話は控えた方がよろしいのでは……」と林康足が取りなすように言った。
「どうしてですか。長澤殿が紀州藩の方だから？　先程の私の話をお聞きになりましたか。紀州と同じ徳川御三家の水戸侯でさえ、この国の行く末を案じられているのですぞ。徳川に拘って清国のように異国に蹂躙されたら、どうするおつもりか」
　長澤伴雄がますます険しい顔をした。
「宇喜多先生は画号に豊臣可為(よしため)と記されるほどのお方ですから、そのように徳川憎しの言を弄されるのでしょう」
　為恭が涼しい顔で言う。一緒に模写をするようになって、一�宸ﾌことを「先生」などと言ったことがない。それを今使うとは揶揄の気持ちが入っていることは明らかだ。一�宸ﾍかちんときた。
「そう言われる貴兄はどうですかな」と一�宸ﾍ為恭の直衣(のうし)を手で示した。「その衣装も烏帽子も平安の公家に倣ったわけでしょう。平安の世に憧れるということは、武家の世を否定することではありますまいか」
「確かに私は平安に憧れております。ただしそれは政にではなく、雅に対してですので武家の世を否定しているわけではありません」
「その雅もわが国があってこそのもの。さらに言えば天朝様あってのもの。異国に滅ぼされたら雅どころではありませんぞ」
「それではどうしろと。絵師が彩管を捨てて何をしろとおっしゃるのか」
「時と場合によっては彩管を刀に持ち替えることも必要だということです」
「ふん、馬鹿ばかしい。絵師が彩管を捨てたら、ただの人ではないですか」
「私が申しておるのは心構えです。かの頼山陽先生が筆をもって『日本外史』で天皇親政を説かれたごとく、絵師も彩管をもって警世の絵を描かねばならないということです」
「そのような仕事は宇喜多先生にお任せいたします。私は平安の雅の素晴らしさを伝えることに専念いたします」
「貴兄は田中訥言先生を師と仰ぐのではなかったのかな。先生が生涯古画の模写に努められたのは、決して平安の雅を復活しようとされただけではありませんぞ。天朝様のご威光があまねく世に行き渡ることがわが国を強くすることだとお考えになったからですぞ」
「そのことは私も同感です。ただ現実の政を動かす力は絵師にはございません。絵師はただ人々の心に平安を与えるのみで……」
「そのような考えが絵を堕落させるのです。もっと現実を見なさい、現実を……」
「まあまあ」と林康足が割って入った。「今日は春日権現験記絵巻の完成を祝うめでたい日。原先生の御霊の前でもありますから、そのように争うのはお止めになった方がよろしいかと」
　一�宸ﾍつい激昂してしまったことを恥じた。
「確かにおっしゃる通り。原先生の霊前で話すことではありませんな。以後慎みましょう」
　酒が入って気持ちよくなってくると、一�宸ﾍ熱田神宮の砂持ち神事の話をして、その時の踊りまで披露した。

　 七

　弘化三年から四年にかけて、一�宸ﾍ田中訥言二十五回忌の準備に追われていた。施行(せぎよう)のため陶器製の宝塔を百基、仏画を百幅、自ら作ることを課し、それに専念していたのだ。その間入ってくる絵の注文をすべて断ったために、とうとう妻の花が堪忍袋の緒を切った。
「なんぼ訥言先生の回忌やからいうて、そないに宝塔や仏画を拵えなあきませんのか。供養は数やのうて心と違いますか」
「その心を表すのに数が必要なのだ。十基十幅と百基百幅、お前ならどちらにより供養の心があると思う」
　そう答えると、花は黙ってしまった。
「心配するな。回忌が無事に終われば、断った絵の注文も再び入ってくるだろう。今は全身全霊で施行の準備をすることが大切なのだ」
「せやかてそれまでにお金がなくなってしまいます」
「その時は五助から借りたらよろしい」
「言いたくはおへんけど、もう少し遊びを減らしてくれはったら、家にも余裕ができますんやけど……」
　一�宸ﾍどきりとした。
「何のことだ」
「倉田はんから聞きましたえ。名古屋ではごっつう遊んではったと」
　五助の奴、自分も女連れだったくせにと思いながら、
「あれはなあ、ほれ、紀貫之像を描いただろう。それを依頼してきた侍を接待するためだ。仕事の一環だ」
　花は口に手を当てて、笑いをこらえる仕草を見せた。
「そんな言い訳せんかてよろし。あたしは何も遊んだらあかんなんて言うてしません。度が過ぎんようにしたらどうでっしゃろと言うてますんや」
　今度は一�宸ｪ黙る番だった。
「おなごはんと遊ぶのも絵師としての仕事の一環かもしれまへんけど、せいぜい体だけは労っておくれやす」
　花の、子供を諭すような言い方に、一�宸ﾍ「分かった」と答えるしかなかった。

　二十五回忌は前回の十三回忌の時とは違って、木屋町三条北の自宅で執り行うことにした。寺を借りると金が掛かるし、自宅の六畳と三畳間を開放すれば、どうにか法筵(ほうえん)を開くことができそうだった。
　訥言の忌日は三月二十一日だったが、その日は楽師の手配が出来ずに二十四日になった。
　前回同様に正面に土佐行秀筆の妙音天像を掲げ、その前に時代物の琵琶一面を置いた。銘を「むしろ田」といい、桿撥(かんばち)面に一�寰ｩら稲に鶴を描いた物である。他に香炉や大乗妙典二十八品を飾って礼座を設けた。それらの間に宝塔百基を隙間なく並べ、部屋を取り囲むように仏画を掛けられるだけ掛けた。
　三畳間に十人、庭に十五人ほどが列席して、まず一�寰ｩら法華経二部を読誦(どくじゅ)し、供華捻香を型どおりに執り行った。その後、六畳間に並んだ四人の楽師たちが老君子や越天楽などの楽を奏し、一�宸ｪ歌を詠んだ。
　糸竹のみちをつたえしうつしゑも
　　　　君にひかれて手向けとそなれ
　法筵が済むと、松庵と手分けして列席者にそれぞれ宝塔と仏画を渡し、様子を見に集まった大勢の人々にもそれらを配り、さらには用意しておいた桶に入った金魚をすぐ傍の高瀬川に放生した。
　その間に六畳間が片付けられ、施食(せじき)が用意された。花が近所の女たちと準備に追われ、それを見かねた頼梨影が手伝いを申し出た。
　席が出来上がると、一�宸ﾍ梨影に礼を述べた。梨影は法筵の立派だったことを褒め、一�宸ﾌ訥言に対する報恩が長く続いていることを讃えた。それから話は三樹三郎のことになった。
「三樹殿は勉学に励んでおいでですか」
　梨影の顔が曇った。
「実はあの子、昌平坂を追い出されてしもたんどす」
「それはまたどうして」
「酔うて、不忍池の弁天祠にあった石塔を倒してしもたんどす。葵のご紋の入った徳川ゆかりの物やったさかい、えらい騒ぎになって。お寺さんに捕まったのを牧野先生と尾藤先生が助けてくれはったんどす」
　徳川嫌いが出てしまったかと一�宸ﾍ思った。いつかの彼女の心配が当たってしまった。
「それで不問に付されたわけではなかったのですか」
「それも尾藤先生が掛け合ってくれはったんですが、それまでも何度か同様の問題を起こしていたらしく、昌平坂の先生方も我慢ならんと言うことで……」
「それはいつのことですか」
「……ちょうど一年前のことどす」
「それでは三樹殿は今どこに」
「蝦夷どす。江差とかいうところに今はいるようで……」
「蝦夷？」
「そうどす。何や、北の方を見に行きたいと言うてました」
　なるほどと一�宸ﾍ頷いた。オロシャやエゲレスの船が蝦夷を始めとした北部の海域に姿を現し、そのため北方の国防が叫ばれている現状をこの目で確かめてみようということなのだろう。見知らぬ蝦夷地を旅している三樹三郎の姿を想像すると、その若さが羨ましい気がする。自分も今より三十歳若くて三樹三郎くらいの年ならば、一緒に蝦夷地に出掛けたかも知れない。
　そんな気持ちなどおくびにも出さず、「それはご心配なことでしょう」と一�宸ﾍ梨影を慰めた。
「あの子が道を外れたら、亡くなった主人にどうお詫びしてよいやら……」
「梨影殿、心配めされるな。三樹殿が国を思っている限り、道を外れることなどあり得ませんぞ。山陽殿が書物で天下を動かしたごとく、三樹殿もいずれその文才で世を動かすことになるに違いありません。それまでは辛抱強く三樹殿を見守ってやらねば……」
「そうでしょうか」
「そうですとも。山陽殿と梨影殿のご子息ですぞ」
　一�宸ﾌ励ましで梨影はいくらか愁眉を開いたようだった。

　行動力のある三樹三郎と比べると、息子松庵のおとなしさに一�宸ｪ飽き足らなさを感じたのも無理からぬところだった。三歳年上の冷泉為恭(ためちか)ほどの画才は到底望むべくもなく、一歳年上の三樹三郎ほどの詩才もない。確かに言われたことはきっちりと守り、努力もするが、それだけでは大成することは難しい。
　一�宸ﾍ松庵に儒学を教えていたのだが、それを誰か優秀な儒学者に任そうかと考えた。才がなくともこつこつ勉強すればそれなりの学者になれるのではないか。
　一�宸ﾍ絵を納めたことのある久邇宮(くにのみや)朝彦親王に尋ねてみた。すると親王は自分の侍読をしている池内大学を推薦してくれた。三十四歳の気鋭の儒学者であると言う。松庵より一回り年上である。
　早速親王の書状を携えて松庵と共に池内大学の家に向かった。烏丸蛤御門前にあり、一�宸ﾌ借家の倍もあろうかと思われるほどの大きさである。下女に案内されて応接間に入ると、秀でた額にぎょろりとした眼の男が坐っていた。一�宸ﾍ松庵と共に大学の前に腰を下ろし、突然の訪問を詫びてから懐の書状を取り出した。そして事情を説明し、それを大学に手渡した。
　大学は書状を広げてさっと目を通すと、「委細承知しました」と頷いた。「親王のご紹介とあらば不肖大学、喜んでご子息の教育をお引き受けいたします」
　松庵が堅い口調で礼を述べた。そこへ下女が煎茶を運んで来、一�宸ﾍそれを一口飲むと「我が弟子になろうと入門してきた者にはまず考経を諳んじさせます」と言い、いきなり「仲尼(ちゅうじ)居(きょ)し、曾子(そうし)侍(じ)す。子曰く、先王に至徳(しとく)要道(ようどう)あって、もって天下を順(じゅん)にす……」と朗じ始めた。最初は目を見開いて一�宸ﾌ暗誦を聞いていた大学だったが、そのうち一緒に朗じ出し、「親を厳(たつと)び兄を厳びて妻子臣妾(しんしよう)は、なお百姓(ひやくせい)徒役のごときなり」と最後の語句を一�宸ﾆ同時に終えた。松庵は二人に圧倒されたのか声を出さずに口だけを動かしていた。
「さすがは宇喜多先生だけのことはございますな」
「私のことをご存じでしたか」
「ええ、もちろん。親王のところに先生の児島高徳(たかのり)の絵がございましたから」
　児島高徳というのは後醍醐天皇の忠臣で、尊皇の象徴的人物である。
「一旦緩急あれば私も天朝様の元に馳せ参じる覚悟を込めて、あの絵を描いたのです」
「その緩急がいずれ来るかもしれませんぞ」と大学が声を潜めた。「水戸侯のお考えでは、いずれエゲレスかオロシャ、あるいはアメリカが力ずくでわが国に開国を迫ってくるのは必定とのこと。私もそう思っております。その時幕府も朝廷も一致団結して攘夷を敢行しなければ、清国の二の舞になると水戸侯は心配されております」
「斉昭侯をご存じであったか」
「はい」
　大学は尊超入道(そんちょうにゅうどう)親王の近侍として徳川斉昭侯に会い、その時海防の重要性を説いて斉昭侯に気に入られたという話をした。一�宸ﾍ近藤茂左衛門、久保田信右衛門兄弟のことを話し、身分にかかわらず能力のある者を取り立てる斉昭侯の度量を褒め称えた。
「平和な時はいざ知らず、一旦事がある時は、身分を越え、物事を遂行する能力のある者を登用しなければ国は滅びます」
　それから話は海防のことになり、蝦夷の防備の話では、ふと三樹三郎のことを思い出したりした。
　大学は異国に対抗するためには大砲や銃を彼等の持っている物と同等の物にしなければならず、大船も各藩で作れるようにしなければならない、そのためには幕府の規制を取っ払う必要があるとを言い、そのことも含めて水戸侯に建白書を提出したと述べた。
　一�宸ﾍ単なる儒学者だと思っていた男が、これほど国を憂う人物であることに感激していた。松庵の教育を任せるのにこれほどの適任者はいないと思い、松庵共々深く頭を下げて大学の家を辞した。

　松庵を池内大学の許に通わせることにしたものの、その後の道筋も付けておきたいと考え、長州藩の馬廻役、馬木平内兵衛(へいないひようえ)に息子を合わせることにした。
　長州藩邸は一�宸ﾌ借家から目と鼻の先の所にあって、月一回松庵を剣術の稽古に通わせていた。一�宸燻坂･(しえん)に招かれたり、掛軸を納めたりして、歌詠みでもある馬木平内兵衛とは顔見知りだった。他藩の藩士にも何人か知り合いはいたが、徳川憎しの一�宸ﾉしてみれば幕府に辛酸を嘗めさせられてきた長州を選ぶのは当然のことであった。
　息子のことで相談したいと書状に書き、馬木を家に招いた。青蓮院宮から下賜された鮎の粕漬けを出し、一�宸ﾌ愛飲している「島臺(しまだい)」でもてなした。
　馬木は小兵ながら肩の辺りは筋肉が盛り上がっており、猪首に四角い顔が乗っていた。強面だが、笑うと一瞬にして愛嬌のある表情になる。そんな男がたおやかな歌を詠むので、一�宸ﾍ親近感を抱いていた。
「先生は松庵殿を絵師になさるつもりはございませんのか」
　杯を膳に置いて、馬木が一�宸ﾌ横に控える松庵に目をやった。
「いや、もちろん絵師としてやっていけるのなら、それに越したことはないが、それだけの才があるのかどうか。禁裏の御用を賜っている私でさえ、貧乏暮らしを抜け出せないほどですからな」
　一�宸ﾍ馬木の杯に酒を注いだ。それを馬木は受けながら、
「確かにおっしゃる通りですな。我々武士の世界では親から受け継いだ禄を守っていれば、何とか世過ぎはできますが、絵の世界ではそうはいかないでしょう。飛び抜けた才があれば……えっと、今知恩院の法然上人絵伝の模写をされている冷泉……」
　馬木が言い淀んで、杯の酒を呑んだ。
「冷泉為恭殿ですな」と一�宸ﾍ言った。
「そうそう、為恭、為恭。若いのに結構もてはやされておりますな。詩筵でもその名をよく聞きます。彩管だけではなく、骨董の鑑定にも才があるようで、潤筆(じゆんぴつ)料や鑑定料をすべて平安振りの暮らしをするためにつぎ込んでいるという噂も……」
「それも絵に生かすためでしょうな。私には及びもつかないが」
「何をおっしゃいますか、先生の絵は楠公にしても児島高徳にしても警世の絵ではないですか。もてはやされなくとも分かる人には分かります」
　結局松庵の今後については、時期を見るということに落ち着いた。天下の情勢が変わり、長州藩で人を必要とした場合には、馬木が松庵を引き受けるという話になった。

　嘉永二年（一八四九）正月、頼三樹三郎が京に帰ってきた。
　知らせを受けた一�宸ﾍ早速梨影の家に出向いた。六年ぶりに見る三樹三郎は子供の面影をすっかり落とし、大人の顔になっていた。髭を剃ったのか、剃り残しの跡が青黒くなっている。体も一回り大きくなったようだ。
「先生、長らくご心配をお掛けいたしました」
　三樹三郎は両手をついて深々と頭を下げた。梨影がその横で、わずかに微笑みながら息子を見ている。兄の支峰もほっとした様子を見せている。
「何より無事に帰られたことがよかった。これで梨影殿もご安心なされたことでしょう」
「それはもう……」と梨影。
「私の留守中、母の支えになっていただき、ありがとうございました」
「これで支峰殿も心置きなく江戸に出ることができますな」
「はい」と支峰が大きく頷いた。
　支峰は以前から昌平坂学問所に入ることを許されていたが、梨影を一人にするわけにはいかないからと、延期していたのだ。
「兄上は私と違って真面目ですから、昌平坂を追い出されるような真似はしないでしょう」
「それは分からんぞ」と支峰が口許に笑みを浮かべた。「私も父山陽の血を受け継いでいるから、いつ何時その血が騒ぐことやら……」
「兄上がそんなことをおっしゃっては困ります。騒ぐのは私一人で十分。母上が心配なされます」
「冗談だよ。頼家を盛り立てていく役目を引き受けたからには、たとえ血が騒いでも出奔するような真似はしない」
「それは私に対する痛烈な皮肉ではないですか」
　そう言いながら、三樹三郎は笑っている。梨影もつられるように笑顔を見せた。
　その後、三樹三郎から彼の日誌を見せてもらい、遊歴の話を聞いた。
　関心があったのは蝦夷のことだった。三樹三郎は三年前の九月に津軽半島の三厩(みんまや)から船に乗り、竜飛岬を回って松前に向かった。津軽海峡は大荒れで船酔いに苦しめられたが、何とか松前の港に入った。しかしそこで見たものは、長いマストを突き出した鉄艦の露国の船ばかりであった。白黒の旗印でそれが分かるという。
「オロシャの船がまたどうして」と一�宸ﾍ尋ねた。「開国を迫ってきたのか」
「いや、海が荒れたので避難してきたのでしょう。ついでに水とか食料を買い込んだりはしてましたが……」
「打ち払わなければ、なしくずしに開国ということになりはしないだろうか」
「それは十分に考えられることです。奴らは上陸したついでに測量とかをしているようですから。ですが、わが国の海防は特に蝦夷など貧弱ですから、とても打ち払うことは出来ますまい」
「どうすればいいと思う」
「国力をつける以外にはないでしょう。それによって海防を堅固にする。そのためには朝廷に人心を集めて挙国一致の国に造り替える必要があると思います」
「おお、そこまで考えておられるのか」
「諸国を遊歴いたしますと、自ずと国の形が見えて参ります。これからは父の予見されたように天皇親政へと向かうべきです」
　三樹三郎はその後松前から渡島(おしま)半島の西海岸を北上し、江差に入った。江差はニシン漁が盛んで、松前よりも人が多く賑やかだということだった。三樹三郎は齋藤欧州の別邸である「雲石楼」に滞在したのだが、そこで松浦武四郎という人物に会ったという。
「私よりも一回り年上で、その時すでに六十余州を旅して、千島や樺太まで足を伸ばしていたということでした。快男児です。彼が篆刻(てんこく)を嗜んでいるということで、欧州殿の出題で、百刻百吟をいたしました」
　第一番目の題は「清晨(せいしん)」で日誌には次のような漢詩が書かれていた。
　　山青　残月薄
　　燈白　古邨寒
　　橋霜　人未過
　　満耳 水珊々
　清々しい早朝という題にふさわしい情景の浮かぶ詩である。松浦武四郎の篆刻した清晨の印が押されている。二番目は「開窓」で、「汲泉」「澆園(そのにそそぐ)」と続いていく。九十九番目は「閉戸」で最後が「太白(たいはく)」だった。
　　驩然(かんぜん)引太白
　　一百課成時
　　寒詩与頑印
　　狂跡留天涯
「驩然太白を引く、一百、課の成る時、寒詩と頑印と、狂跡、天涯に留めん」と一�宸ﾍ口に出して読み下してみた。その時の三樹三郎の高揚感が伝わってくる。
「これを一日でなされたのか」
「そうです」
「なるほど、それで清晨から始まって太白で終わるというわけか」
　太白は宵の明星を指す。
「松浦武四郎という人物に出会わなかったのなら、到底なしえなかったでしょう」
「いや、立派」
　一�宸ﾍ改めて三樹三郎の詩才に感嘆した。その才は山陽殿と同様に世の中を動かすことになるかも知れないと予感させた。
「武四郎殿も蝦夷の海防の弱さを嘆いておられました。蝦夷調査も水戸の斉昭侯の意向を受けたもので、その点では斉昭侯と同様の考えだったようです」
「やはり斉昭侯が後ろ楯になっておられるのか」
「間違いないです」
　三樹三郎は江差に一ヵ月ほど滞在したが、それはひぜん（疥癬）に罹ってその療養に努めたからで、
「先生も遊歴されますが、ひぜんには十分ご注意を。痒くて痒くて寝られませんぞ。体力が奪われること甚だしいですから」
「ひぜん持ちの遊女にはなるべく近づかないようにいたしましょう」
　そう言うと、三樹三郎は大声で笑った。

八

　翌年、一�宸ﾍ懇意にしている道具屋を通して、美濃国鏡島村の豪農、上松次郎右衛門重益から遊歴の誘いを受けた。上松家に滞在して絵を描いて欲しいという。近辺には田中訥言先生の絵がいくつも残っており、自分も含め宇喜多先生の大和絵を欲しがる者が多数おりますと書状に書いていた。
　道具屋に尋ねると、上松次郎右衛門重益は千石を超える土地を所有し、質商売も手広く商っており、有数の富家であるということだった。まだ三十歳にもなっていないが、書画骨董に造詣があり、茶道具も収集している数寄者であるらしい。
　この誘いを一番喜んだのは妻の花だった。
「こんな機会はまたとおへん。どうぞ頑張って絵を描いてきておくれやす」
　家計のやりくりに頭を悩ませている花にそう言われると、誘いを断るという選択はない。
　以前の松本への遊歴でも、かなりの絵を描いて潤筆料を稼いだが、松本は遠すぎてそう度々行けるところではない。それに比べて美濃ならば近いので要請があれば気軽に足を運べる。これからの画業のためにも、名前を売っておくのは悪いことではない。
　一�宸ﾍ要請を受ける返事を書き、一月の半ばに美濃に向かった。鎧を持参する代わりに重益が興味を持っている訥言の絵を何枚か持って行った。
　中山道の河渡(こうど)宿から舟で長良川を渡ると、降り場で上松家の使用人が待っていた。上松家は堤防を越えてすぐのところにあり、案内も必要ないほどの距離だった。
　正門は瓦葺きの、幅四、五間はあろうかと思われる立派なものである。両側には瓦を載せた板塀がずっと続いており、近藤茂左衛門の邸と比べても、ここの方が余程広いと思われる。
　邸の中には松が配置され、数寄屋風の大きな母屋が建っていた。その奥には白壁の倉が二棟並んでいる。一�宸ﾍ上松家の規模に目を見張った。
　玄関まで重益が出迎えに現れた。豪農と言うから偉丈夫を想像していたが、出てきたのは痩せた細面の男で、公家のようなのっぺりとした顔をしている。
　重益は一�宸ﾌ長旅を気遣い、招聘に応えてくれた礼を述べてから中に招いた。
　応接間の床の間には田中訥言の採桑老図が掛かっていた。そのことを指摘すると、
「先生がお出でになるというので、茶道仲間に無理を言って譲っていただきました」
　と重益ははにかんだ。
　一�宸ﾍ早速持参した訥言の絵を見せた。白鷺図、鯉図、五月雨橋図などである。重益は、これはいい、素晴らしいなどと呟き、譲って欲しそうな様子を見せた。
「訥言先生の絵よりも私の方が余程安いですぞ」と一�宸ﾍからかった。
「もちろん、先生に来ていただいたからには先生の絵を購入させていただきます。ただ、訥言先生の絵を見ると、それも手元に置きたくなるのは人情でして……」
「その話は追々することにいたしましょう」
　その後重益から商売の話を聞き、天下の情勢について意見を交換し合った。重益は清のアヘン戦争のこともモリソン号事件のことも知っており、異国の船が度々日本の海辺を脅かしていることも承知していた。様々な筋から情報を得ており、商売の先行きに直結することには敏感にならざるを得ないらしい。
　一�宸ﾌために用意された部屋は母屋から渡り廊下を渡ったところにある六畳ほどの離れだった。その日はそこでゆっくり休み、次の日は近辺の数寄者たちを集めて詩筵の会が開かれた。一�宸ｪ清元を披露すると、「先生も清元がお得意とは」と重益が目を見張った。
「実は私も大好きでして」
　一�宸ｪ三味線を弾き、重益と声を合わせて「土佐絵」を唸った。
　三日続いた宴会にさすがに疲れて一休みした一�宸ｪ依頼の絵を描いていると、重益が顔を見せた。
「先生、伊奈波(いなば)神社の初午に行きませんか」
「伊奈波神社？」
「そうです。ここから一時もかからない所にあって、五穀豊穣、商売繁盛の祈願をするのです。私は毎年そこと熱田神宮に参っているのです」
　お疲れなら籠を呼びましょうかと言うのを断って、一�宸ﾍ重益と出掛けた。
　確かにそんなに歩かないうちに山間にある伊奈波神社に着いた。檜皮葺の社がいくつも並び、大勢の人が参っていた。その古さは由緒正しい神社を思わせる。
　重益の熱心な祈願に合わせるように、一�宸熾M作繁盛を祈った。
　それから十日ほどして、今度は熱田神宮への参拝を誘われた。熱田神宮へはさすがに日帰りというわけには行かないので、宮宿に泊まることになる。
　一�宸ﾍ久しぶりに菱形屋に顔を出そうかと考えて、重益の申し出を受けた。
　上松家の使用人二人を連れて早朝に出立し、途中休み休みしながら、その日の夕方には熱田神宮に着いた。重益の定宿で旅装を解き、早速一�宸ﾍ彼を菱形屋に誘った。
「先生はいつのまに、こんな所に馴染みの店を作っていたんですか。清元といい、先生には驚かされることばかりです」
　重益は驚きながらも含み笑いをしている。一�宸ﾍ紀貫之画の依頼の話をし、砂持ち神事の踊りをおもしろおかしく聞かせてみせた。
　使用人二人も連れて飾り灯籠の灯る夕暮れの道を歩いて行き、菱形の暖簾の掛かった店に入った。番頭に続いて女将が現れた。
「あれ、まあ、先生、ご無沙汰でございました」
「今岐阜にいるので、こっちに寄ってみた。明日神宮で祈年祭が行われるようだが……」
「ええ、大勢で賑わいますよ」
　一�宸ﾍ重益を女将に紹介してから、亀よしと千代を呼んでくれるように頼んだが、女将は、亀よしはもうおりませんので別の娘(こ)をと答えた。
「ほう、身請けでもされたか」
「ちょっと事情がありまして……」
　言いにくそうな女将にそれ以上は聞かずに、もう一人は千代に任せると言って、一�宸ｽちは二階の部屋に上がった。
　酒肴が運ばれて来、すぐに千代がもう一人の遊女を連れて座敷に現れた。お多福のような愛嬌のある顔をしている。二人は三味線を抱えたまま、入り口で片膝をつき、ようこそお越しをと声を揃えた。そして三味線を座敷の隅に置くと、早速お酌をして回った。
　千代は一�宸ﾌ杯に酒を注ぎながら、
「先生、いつ以来ですやろ」
　と流し目をした。
「あの時は亀よしという女がいたが、あの娘はどうなった」
「あの娘(こ)は亡くなりました」
「何か事情でもあったのか」
「いいえ、労咳(ろうがい)がひどくなって……」
「そうだったのか」
　その後の酒宴は亀よしの面影がちらついて、なかなか楽しむことができなかった。
　重益に気に入られた千代が彼の相手をし、一�宸ﾍお多福の女と褥を共にした。
　翌日、熱田神宮の祈年祭に参ってから、一人で、遊廓で死んだ女たちの祀られている寺に参った。高さ一間ほどの合葬の墓の前で、一�宸ﾍ線香を上げ、懐から一枚の紙を取り出した。今朝方描いた亀よしの絵だった。それを墓前に広げ、南無妙法蓮華経と唱えながら、両手を擦り合わせた。その時ふっと風が起こり、亀よしの絵を飛ばした。一�宸ﾍあわてて手を伸ばしたが、絵はそのまま高く舞い上がり、本堂の屋根を越えて飛んでいってしまった。
　気に入ったので手元に置こうとしたか。一�宸ﾍ屋根の彼方を見やりながら独りごちた。

　宮宿から帰って何日か経ったある日、離れで絵を描いていると、応接間の方から賑やかな声が聞こえてきた。ほどなく使用人が呼びに来た。筆を置いてそちらに行くと、見知らぬ顔の客人がいた。四十年配の男でにこにこと笑っている。
「先生、今日は面白いお方がお見えになっています」
　と重益が言った。
「清元仙八と申します。名前の通り、清元を教えておまんまをいただいております」
　男は両手をついて頭を下げた。一�宸燒ｼを名乗った。
「仙八さんは江戸のお方で、時々こちらに見えられて、私も習っております」
「ほう、江戸ですか」
　一�宸ﾍ七年前に江戸に初めて行った話をした。向島の小梅に滞在したと言うと、仙八は「私の住んでいる浅草とは目と鼻の先で」と驚いた。
　吉原で葛飾北斎の浮世絵を江戸土産に買ったいう下りでは、「北斎先生は去年お亡くなりになりました。九十の大往生でした」と教えてくれた。「でも、後五年の命をくれたら、神技に達するだろうと言われたとか」
　一�宸ﾍ晩年の師も北斎と同じような言葉を漏らしていたことを思い出した。九十になってもまだ先を求めるのは絵師の宿命なのか。自分が北斎の年になるまで、まだ三十年以上もある。目眩がするほど先のことだ。
　仙八の質問に答えて、一�宸ﾍ、以前住んでいた借家の隣に清元の師匠がいて、その人から習ったと答えた。山路という師匠とは顔見知りだと仙八が言って、一�宸�驚かせた。
　早速、一�宸ﾆ重益は仙八から教えを受けた。重益は今「三社祭」を習っており、稽古本を前に仙八の三味線で、一節を謡う。それを聞いてから一�宸煬m古本のしるしを見ながら唸った。「三社祭」は初めての曲だったが、仙八は筋がよろしいですなと褒めてくれた。
　好きなことをやっていると一時などあっという間に過ぎてしまう。一�宸ﾍ絵描きの途中であったことを思い出し、急いで離れに戻った。案の定、墨が乾いてしまっている。筆の先も固くなっており、もしこんな所を訥言先生に見られたら大目玉を食らっただろうと一�宸ﾍ肩をすくめた。

　二ヵ月ほど上松家に滞在して注文の絵を描いた後、竹鼻村の大沢文助の招きに応じて、そちらに移った。大沢文助というのは重益の茶道仲間で、織物を扱う商人である。
　しかしそこで半月も過ごさないうちに、一�宸ﾌ体に異変が来た。それまで股の所に小さな水ぶくれが出来ていたのを痛みもないので放置していたら、脚の付け根に腫れ物ができ、それが痛みを持ち出した。歩けないのである。
　医者を呼んで診てもらうと、瘡毒(そうどく)ではないかという見立てだった。
「悪所に通う人がよく罹る病ですな」と老医がこともなげに言う。一�宸ﾍ菱形屋のお多福の顔を思い出した。
「薬を出しておきますから、それを飲んで安静にしていることですな。そのうちよくなるでしょう」
　ところが何日経っても痛みが治まらない。ますます腫れてくる。瘡毒なら遊女の中にも罹っている女がいたし、客の中にもその病を自慢している者を見かけたことがある。そのため一�宸ﾍ病を深刻には受け止めなかったのだが、症状が激しくなってくると、そういうわけにはいかない。薬を飲んでも効かず、あのヤブめと脂汗を流しながら一日中伏せっているしかなかった。
　折角逗留しているのに絵も描けないのでは大沢文助に申し訳がない。文助に頼んで宿屋を探してもらおうとしたが、文助は病人を一人にしておくわけにはいかないと応じない。一�宸ﾍそれでも、心苦しいからと頼み込むと、文助は近くの寺で療養する手配をしてくれた。住職に医術の心得があるので、そこで世話になるのがいいのではと文助が言った。
　一�宸ﾍ大八車に横になって本覚寺の山門を潜った。申禅堂脇の一室があてがわれ、年若い住職の「我が家だと思って、心安らかにお過ごし下さい。ご快復になられるまでいつまでもお世話いたします」という言葉に両手を合わせた。
　住職は腫れが引くように塗り薬も使ってくれたが治まらず、さらに高熱が出だした。右足がむくみ、意識が朦朧となった。
　そんな日が何日か続いたある日、一�宸ｪ目を覚ますと、目の前に花と松庵の顔がぼんやりと現れた。いよいよあの世への道行きが始まったかと朦朧とした頭の中で思った。この世の名残に神仏が二人の面影を呼び寄せてくれたのだろう。
「お前さま、しっかり」花が一�宸ﾌ胸を揺さぶり、額に掌を乗せた。
「父上、大丈夫ですか」松庵の声もはっきりと聞こえる。
　夢ではないのかと一�宸ﾍ体を起こそうとしたが、住職に止められた。
「お前たち、どうしてここへ」一�宸ﾍあえぎあえぎ尋ねた。
「文をもらって早駕籠で」と松庵が答える。
「よく来てくれた」堪えきれずに一�宸ﾍ涙を流した。「わしはもう永くはない。最期にお前たちに会うことができて、思い残すことはない」
「お前さま、何を弱気なことを言わはるんどすか。お前さまは宇喜多秀家の末裔であることを忘れはったんどすか。豊臣再興もならずに死んだら、あの世でご先祖様に申し訳が立ちまへんえ」
　花が叫んで、再び一�宸ﾌ胸を揺さぶった。住職が花の手を押さえ、「腫れ物の膿を取り出すために切開という方法がありますが……」と声を掛けた。花と松庵が是非にと答え、早速手術が行われた。
　かなりの量の膿が出て、ようやく熱が引き始めた。一日二回の塗り薬、清拭、食事の世話など花が献身的に看護してくれたおかげで、一�宸ﾌ体は徐々に良くなり出した。悪所で罹った病であることは花にも伝わっているはずだが、彼女はそのことには一切触れなかった。
　一�宸ｾけならまだしも、花も松庵も逗留するとなると、さすがになにがしかの滞在費を払わなければと考えたが、先立つものが何もない。そこで持参した訥言の絵を売ることにした。ただ、上松重益や大沢文助に直接売るとなると、相手はこちらの言い値で買い取ってくれるだろう。しかしそれは一�宸ﾌ本意ではない。誰かが相場として付けた値段で売買するのがお互いにとって気持ちのいい取引になるのは間違いない。
　そこで一�宸ﾍ渡辺清に書状を送り、目利きで正直な仲買人を紹介してくれるように頼んだ。数日後、名古屋からやって来た仲買人の丁寧な物言いに一�宸ﾍ信用し、持参の絵を預けた。
　仲買人を通して訥言の絵は重益と文助に引き取られ、得た金のうち三両を住職に差し出した。住職は固持したが、お布施として本堂の維持にでも使って欲しいと頼んで受け取ってもらった。
　金を差し出すだけでは住職の恩義に応えきれないと考えた一�宸ﾍ、本堂の天井に絵を描かせてもらえないかと申し出た。
「禁裏御用の先生に描いていただけるなら、こんな有り難いことはございませんが、病み上がりの先生の身が心配でございます」
「なあに、絵師は絵を描いている方が元気が出ますから心配は無用です」
　画題は、仏法護持の神将の一つでもあり、寺を火難から守ってくれるという意味も込めて雲龍図ということになった。墨一色で描けることも、その理由だった。彩色は時間が掛かるのである。
　下絵を描くための用意として、京の家に描き溜めてある雲龍図の模写を松庵に取りに帰らせた。一�宸ﾌ看護も一段落したので、半月ほど滞在した花も一緒に帰った。
　何日か経って、松庵が戻ってきた。模写図といっても原寸大ではない。南禅寺や建仁寺に通って、一�宸ｪ龍の頭や足を半紙大の紙に写した物である。それらを元に、大きな紙にまず全体の構図を描く。今回、本堂の天井画になるのだが、広さが二間四方なので、大きく躍動しているようには描けない。それで正方形を生かす意味でも、ぐるっと丸くなっている龍にした。
　原寸大の下絵が完成すると、今度は本堂に櫓を建てた。大工に指示して、左掌がぴったりと天井に付くように高さを調整した。顔を上げての運筆で体がぶれるのを防ぐためである。
　櫓が出来上がると、そこに松庵と二人で上がって、まず天井の四隅から紐を張って対角線とし、その交点に木釘を打ち込んだ。それに紐を取り付け、もう一方には筆を括り付け、長さを変えながら赤と緑と青の三重線でぎりぎり一杯の円を描いた。それを鏡に見立てて、その中に龍を描くのである。墨の色が浮き立つように鏡の中はうっすらと胡粉を塗り、本堂の床に広げてある下絵を櫓の上から見ながら、炭で写していく。もっともそれはただの目安で、その線をなぞって描くわけではない。そんなことをすれば線が死んでしまうので、本番では、筆の勢いを大事にしなければならない。時折台上に寝そべり、全体を見ながら修正を加えていく。
　準備が整うと、いよいよ龍の絵である。一�宸ﾍ半袴を穿いて本尊である釈迦牟尼仏の前に座り、住職の祈願の読経を受けた。仏の加護を祈った後、袖が邪魔にならないように襷を掛け、白足袋で櫓の上に立った。
　松庵から墨を含んだ極太の筆を受け取ると、ひとつ気息を整えてから、龍の頭に筆を入れた。墨が右腕に垂れてくるのも構わずに、角を一気に描き、顔の輪郭を作ったところで墨が掠れ、筆を交換した。そして前脚、胴体へと移っていく。自分の顔にも墨が飛び散ってくる。
　汗が噴き出てきて、それを松庵がこまめに拭った。それでも四半時が限度だった。上を向いているせいもあって、集中力が続かないのである。急ぐ必要はない。時間は十分あるのだから。胴体の途中まで描いたところで一�宸ﾍ筆を置いた。
　櫓から降りると、下で見ていた住職が、お身体は大丈夫ですかと声を掛けてきた。
「この程度で気力が尽きるとは、我ながら情けない限りです」
「いやいや、先生の筆捌きの迫力に、声を出すことも忘れてしまいました。禁裏絵師とはこのような力を持った方なのかと愚僧は感じ入っております」
「すべては仏のお力によるものです」
　一�宸ｪそう答えると、住職は数珠を手に両手を合わせた。

　完成したのは一ヵ月後である。松庵も鏡の外側に雲の図柄を描いて、画名を残した。
　櫓を解体し、下から見上げると、どこにいても龍の目が自分を睨みつけているように見える。
「まるで生きているようです」と住職が感嘆した。
　早速近隣の者たちを集めて、龍に魂を込める法要が営まれることになった。村人たちの中には、雲龍図を見上げてその場から逃げるように腰を引く者さえいた。

九

　嘉永五年（一八五二）秋、一�宸ﾍ松庵を連れて再び松本に遊歴した。前回、近藤茂左衛門の邸に滞在した時、宴席で知り合いになった今井六左衛門の招聘であった。
　途中上松家に立ち寄り、上松次郎右衛門重益に依頼されて描いた「重陽之図」、屏風絵、扇面画などの代金二両を受け取った。これを路銀にして中山道を行き、十月半ばに松本に着いた。
　今井家は酒庄屋や穀物商、貸家業などの商売をする富家で、近藤家に劣らぬ邸を構えていた。
　そこで旅装を解くと、早速宴が催され、近藤茂左衛門も姿を見せた。弟の久保田信右衛門のことを尋ねると、彼は病痾(びようあ)に罹り、十分な勤めを果たせずと主家を辞して流浪の身となっていたが、幸いにも今は病が癒えて、向島小梅にほど近い寺島村で兵学と書道の教授をしているということだった。
「それで名前も山本貞一郎と変えて、一勤王志士として努めて参りたいと申しております」
「流浪の身になっても意気軒昂でござるな」
　その後、天下の情勢の話になった。
「弟からの内密な情報によると、アメリカがわが国に開国を迫るために使節を派遣するようです」
　茂左衛門が声を潜めて一�宸ﾉ話した。
「それはまことですか」
「噂は以前からありましたが、どうやら幕府に通知があったようで……。水戸侯の話では、幕府は右往左往した挙げ句、放置ということになったようです」
「なんと手ぬるい。断固断って、それでも来るようなら武力で追っ払わねば……」
「弟も先生と同じことを申しておりました。それで江戸周辺の海防の必要性を水戸侯に具申したとか」
「さすがは信右衛門殿のことはある」
　その日はついに席画も清元もなく、集まった者たちが酒を酌み交わしつつ、国事の話で持ちきりになった。
　もっとも、次の日にはきちんとした詩筵(しえん)が開かれ、前回の遊歴で画名の知れ渡った一�宸ﾍ前にも増して絵の注文を受けた。
　絵を描く合間には前回同様に紅葉を見に出掛け、今井六左衛門の勧めもあって、今井家で年を越すことになった。
元旦、一�宸ﾍ塩尻峠まで富士山を見に出掛けた。同行したのは松庵の他、元服したばかりの十四歳の今井六左衛門の息子平太、今井家の十六歳の下僕の三人だった。
　年越しを勧められた時から元旦の富士見物を思いつき、立烏帽子と白浄衣も用意していた。
　年末に雪が降り、六左衛門は中止を進言したが、京の底冷えで慣れておりますゆえ大丈夫と、一�宸ﾍ笑って応じない。それで雪に慣れた平太と下僕を付けてくれたのだ。
　松本城下は雪かきが行われていてまだ歩きやすかったが、少し外れると藁靴が雪にめり込んで足が重たくなる。それでも空が明るく雪の気配がないことが救いだった。
　中山道の塩尻宿を過ぎて雪が深くなってくると、下僕の持っていた輪かんじきを足に付けた。山の中はさすがに人の通った跡がなく、どこが道だか分からない雪原が続いている。平太と下僕がいなければ道に迷ってしまう所だった。
　途中ぽつんとある農家の軒から氷柱が玉すだれのようになっているのが珍しく、一�宸ﾍ早速懐から写生帖を取り出して、矢立でその様子を写生した。
　道中目にした足跡といえば、狼、鹿、猪、猿、兎など動物のものばかりだった。その都度下僕が教えてくれたが、できれば実物に会いたいと一�宸ﾍ願っていた。以前、狼の絵を描いたところ、これは犬だと言われたことがあり、その悔しさはずっと残っていたからだ。下僕に、狼に会いたいと告げると、日が暮れるまで出てきませんのでと下僕は笑って答えた。
　白く吐く息が次第に荒くなり、休み休みしながら塩尻峠に着き、そこから諏訪湖を見下ろした時、一�宸ﾍ息を呑んだ。遠くに見える山並みはもちろんのこと、眼下に沈む岡谷宿も雪に覆われている。諏訪湖は凍って光り、見渡す限り白一色の世界だった。
　富士はどこかと探していると、平太があれでございますと山の切れ目より少し右側を指差した。目を凝らすと、確かに白い富士の形が霞んで見えている。一�宸ﾍ胸に迫るものを感じて柏手を打ち、礼拝した。
　それから松庵と並んで一緒に富士を写生した。
　峠でもっと富士を堪能したかったが、じっとしていると体が冷えてくるし、塩尻宿まで陽のある間に下らなければならないので、四半時ほど滞在しただけで峠を後にした。
　帰り道、先を歩いていた平太と下僕が急に立ち止まった。
「今、狼が横切りました」と平太が言った。
「え」
　平太の指差す方向に目をやると、雪を被った木々の間に黒っぽい犬の形をしたものが一頭、こちらに顔を向けてじっとしていた。なるほど、町で見掛ける犬とは違って、眼に力がある。ぴんと張り詰めた気配が漂ってくる。
「陽のあるうちに目にするのは珍しい」と下僕が言う。
「秩父の三峯(みつみね)神社の狼様がここまで出張って、私たちを見守ってくれていたのかもしれません」と平太が冗談めかして言った。三峯神社というのは狼を神の使いとして崇める神社で、ここから山をいくつか越えたところにある。
　一�宸ﾍ早速写生帖を取り出して、狼の姿を写した。さらに近づいて見ようとするのを平太が止めたが、それを振り切って近づき、さらに筆を動かした。狼は一�宸ﾌ写生が終わるのを待っていたかのように、四枚目を描き終わった直後に、ふいと姿を消した。
　狼を見た高揚感が下山の足を進めてくれたが、さすがに暮れ六つ近くになり、塩尻宿に近づいたときには、疲労困憊になっていた。とても松本まで帰る気力が湧かない。そこで一�宸ﾍ詩筵の時にちらと噂の聞いた妓楼に泊まることにした。松庵は渋い顔をしたが、年若の二人は是非にと目を輝かせた。
　小野屋というのがその店で、一�宸ｽちが入っていくと出迎えた女将が驚いた顔をした。一�宸ｪ立烏帽子、白浄衣姿の訳を説明し、富士を拝んできたと告げると、女将はさらに驚き、それはさぞかし寒うございましたでしょうと内風呂を勧めてくれた。
　五右衛門風呂に体を沈めると、体が芯から温まり、足腰の疲れも解けていった。松庵や平太、下僕もさっぱりしたところで、二階の座敷で大宴会になった。他に客もなく、店の遊女五人をすべて集め、一�宸ﾍ蒲団を三枚重ねにしてそこに坐り、塩尻高くとしゃれて見せた。女たちは潮汲み、髭奴などを踊り、おけさ、都々逸、しんせつふしを謡った。座が大いに盛り上がったところで、全員でおけさ踊りをした。松庵も平太たちも見様見真似で遊女たちに混じって、座敷の中を踊り回った。
　遊興が一段落すると、一人の遊女が、先生は京の有名な絵師さんとお聞きしましたがと話を向けてきた。それで一�宸ｪ富士山や狼の絵を見せると、狼には会いたくないけど雪の富士を見てみたいと言ったので、それでは明日また見に行こうということになった。
　松庵や平太たちはそれを押し止め、松本に帰りましょうと反対したが、潤筆料を十分に稼いだ一�宸ﾍ気が大きくなっているから取り合わない。
　翌日、松庵たちは松本に帰り、一�寤齔lが百々瀬、百々吉の二人の遊女と男衆一人を連れて、もう一度塩尻まで出掛けた。この時も富士の姿がはっきりと見え、女たちは幸先のいいことと声を上げてはしゃいだ。
　その日の晩も遊女を全員集め、一人一人の姿を描いて与え、女たちと一緒に踊り、翌朝松本に帰った。
　それから六日経って、花から書状が届いた。先月の八日に出されたもので、三十日ばかりかかっている。急ぎでないのか、最低料金なのはいかにも花らしいと思いながら書状を一読して、一�宸ﾍびっくりした。関白太政大臣鷹司政通から勅命の屏風絵を描いて欲しいという依頼があったというのである。
　今まで親王などから拝命を受けて描くことは何度かあったが、勅命は初めてであった。それだけに一�宸ﾌ喜びは大きく、西の方角を向いて書状を差し上げ、深々と拝礼した。元日二日と富士を目にしたことは、このことの前触れであったかという思いがした。
　早速松庵に、京に帰って屏風絵の委細を伺って戻ってくるようにと言いつけた。本来なら自分が帰って、直接鷹司公に伺うのが筋であったが、現在依頼を受けている絵を放り出して戻るわけにもいかない。
　松庵が戻ってくるまで、おそらく二十日ほどかかるので、その間溜まっている依頼の絵を片付けて、勅命に応えなければと一�宸ﾍ寝る間も惜しんで仕事をした。
　しかし帰ってきた松庵の話によると、来年の正月子の日の宴の時に使う屏風なので、急ぐ必要はないということだった。それで一�宸ﾍ一安心したのだが、松庵の次の言葉に仰天した。
「実は鷹司公から江戸に行って、市中の情勢を伝えてくれないかと依頼されました。もちろん隠密とか密偵という大袈裟なものではないが、人々の暮らし向きとか幕府の噂とか気づいたことを知らせてくれるだけでいいということでした。アメリカが開国を迫っているという噂は朝廷にも伝わっておりまして、何らかの動きがあれば江戸で分かるのではないかと思われているようです」
　天朝様の役に立てるならこんな有り難いことはないと一�宸ﾍ感激し、早速屏風絵依頼の御礼と共に委細承知の書状を鷹司政通宛てに送った。
　まだ描き上げていない依頼画を大急ぎで仕上げ、一�宸ﾆ松庵が江戸に向かったのは、二月二十日のことだった。近藤茂左衛門からは、是非とも山本貞一郎を訪ねてくれと言われて、その案内に下僕まで付けてくれたので、江戸に着いたその日に寺島村まで足を延ばした。
　農家の点在する中の小さな一軒家に「兵法書道指南　山本貞一郎」という看板が掛かっていた。
　訪うと中から痩せた男が現れた。十年振りの再会で面変わりしていたが、眼光の鋭さは変わらない。
「先生、お久しゅうございます」
「病は癒えられたとお聞きしたが、体調の方はいかがですか」
「今は随分よくなりまして、建白書なんぞを認(したた)めております」
「ほほう、それはまた面白いことを……」
　家に招き入れられると、早速建白書の概要を聞いた。
　貞一郎の目下の関心は、総州の石高をいかに上げるか、商品流通をいかに活発にするかということだった。そのことがひいては国益につながり、わが国の国力を増すことになると考えていた。そこで貞一郎は次の三点を建白書に盛り込むと言った。
　一．品物融通問屋を設け、一般の購買に便すること。　
二．諸株の廃止を復興し、新しく作りたる酒株だけを取り消すこと。
　三．奥州及びその他の方面よりこの地方へ入穀利便のため、更に米穀増収のため、下総国印旛沼を同国検見川へ堀割通船せしむること。
　貞一郎は三番目の事業を行うために、各村々を回って総代から委任を取り付け、それを元に各藩に働きかける算段をしていると述べた。そのために水戸斉昭侯の力を借りることになるとも。
　一�宸ﾍ貞一郎の実行力に感嘆することしきりだった。こういう人物を浪人のままにしておくのは天下の損失ではないかと思ったほどだった。
　一�宸ｪしばらく江戸に滞在する旨を述べると、貞一郎は、それではどこか安い貸家を探して参りましょうと言い、三日後、隅田川の川縁にある家を見つけてきた。
　日本橋にある呉服商の隠居宅で、隠居していた前の主人が死んで空き家になっていたのだ。小振りだが数寄屋風の瀟洒な造りで、一�宸ﾍ一目で気に入った。何よりすぐ側に川が流れているのが京の住まいと同じである。それに隅田川となると、伊勢物語の在原業平が思い浮かぶ。
　それで早速居宅を「昔男精舎(せきなんしょうじゃ)」と名付け、その名を記した小さな看板を掲げた。死んだ隠居の世話をしていた、お勝という飯炊きの老婆を雇い入れ、江戸での生活が始まった。
　当座は松本で稼いだ潤筆料でしのげるとしても、そう長くは続かない。それで絵の依頼を受けるため、摺り物を作ることにした。半紙大の紙に昔男精舎と梅の木に飛んでくる鶯、その横に隅田川を描き、余白には「わが宿の軒端の梅に鳥が来て　東なまりの初音ぞを聞く」と歌を入れた。落款は画院生徒一�帚V豊臣可為(よしため)とした。
　それを版下にして百枚作らせた。そのうち五十枚を貞一郎に託して、知り合いの富家に配ってくれるように依頼し、残りを持って、一�宸ﾍ本所にある高島千春の家を訪れた。
　一�宸ｪ田中訥言門下だった二十代始めの頃、三年ほど一緒に大和絵を学んだのが、大坂から通っていた高島千春だった。訥言の死後、高島は江戸に下り、絵師として名をなしていた。一�宸謔闢�十歳近くも年上なので、訥言門下の時でもそれほど親しくしていたわけではない。ただ、訥言の回忌の時には必ず供物料を送ってくれたので、その礼状を出すという形で繋がりはあった。
「いやあ、一�專aか。すっかり貫禄が付いて見違えましたぞ」
　出迎えた高島が皺だらけの顔に笑みを浮かべた。曲がった背中に白髪頭を載せている。
「高島先生もご壮健で何よりです」
　通された応接間には横長の掛軸が掛かっていた。何やら合戦の様子が描かれている。
「これは……」
「ああ、それは蒙古襲来絵詞の模写を頼まれた時に、一部を掛軸に仕立てたものです」
　やはりこれはわが国が異国に脅かされている心情が描かせたものだろうかと一�宸ﾍ考えたが、そのことは口にしなかった。
　四十年近く前の修行時代から始まって、その後の画作の話になり、一�宸ｪ行っている訥言の回忌を、師匠思いの立派なことと高島が褒めた。それに対して毎回の高島の供物料の礼を述べ、その後訥言の遊歴から一�宸ﾌ岐阜、松本への遊歴の話に移った。
「それで江戸に来られたのは、ここに腰を落ち着けて画作に励むおつもりなのか」
「いえ、しばらく滞在するつもりでおりますが、画院寄人(よりうど)という立場がありますゆえ、京を引き払うことはできません。まあ、江戸見物といったところでしょうか」
　鷹司政通からの秘密の仕事のことは話すわけにはいかない。
「それで」と一�宸ﾍ言葉を継いだ。「逗留するにしても先立つものが必要ですので、先生のお知り合いで大和絵をご所望の方はおられませんでしょうか」
　一�宸ﾍ持参した包みから摺り物を取り出して、そういう方々にこれをお配りしていただければ有り難いのですがと差し出した。
　高島は摺り物を一枚取り上げると、「なかなか洒脱な絵ですな。昔男精舎と名付けるとは洒落ている」と感心した。
　高島は二つ返事で引き受けてくれ、一�宸ﾍ礼を述べて辞した。
　五日後、ぽつぽつ入って来た依頼画を描いていると、松庵がお客様ですと告げた。玄関に出てみると、高島が二人の男を連れて立っていた。一人は四十年配、もう一人は前髪姿の元服前くらいの年若である。
「いやあ、先生。ご連絡いただければこちらから伺いましたものを」
「今日は絵の依頼ではなく、一�專aに弟子入り志願の者を連れてきましたのじゃ」
「弟子入り？」
「さよう」
「でも私は江戸にずっとおるわけではありませんので、弟子入りと言われても……」
「構わん、構わん。短い間でも教えてもらえればそれでいいと申しておるのでな」
　一�宸ﾍ取りあえず話を聞くことにして、三人を家に上げた。
四十年配の男は高島千春の弟子で、福島隣春(ちかはる)と名乗った。浅草花川戸で質屋を営んでいたが、幼少の頃から絵を描くのが好きで、それに熱中した挙げ句店を潰してしまった。今は浅草寺内に住んで、絵師として食べているということだった。
　年若の方は河原崎権十郎と名乗る歌舞伎役者で浅草猿若町に住んでおり、近所の隣春に絵を習っているという。幼い頃河原崎座の座元である六代目河原崎権之助の養子になったので河原崎を名乗っているが、実父は天保の改革で江戸所払いになった七代目團十郎改メ五代目市川海老蔵で、今は赦免になって一緒に暮らしていると隣春が付け足した。
「ほう、歌舞伎役者がどうして絵を……」
　一�宸ﾍ面長でくりっとした目をしている少年に尋ねた。
「好きでございますから」
「絵を描く暇があったら、芝居の稽古をしろと父上などから言われないのか」
「稽古はきちんとしております」
　権十郎が憮然とした顔をした。
「この子は」と隣春が言った。「絵を描くことによって有職故実を学びたい意向でして、それで私の許に通って大和絵を描いているのです」
「有職故実を学びたいとは、またどうして」
　権十郎が口許を小さく開けたり閉じたりして、もじもじした様子を見せた。隣春が肘で権十郎の脇腹を軽く突く。権十郎は意を決したように顔を上げた。
「芝居を改良してみたいのです。今の芝居は衣装や小道具などにしても空事のような気がしてならないのです。昔の芝居なら昔のように、きちんと有職故実に則った衣装、道具で芝居をしてみたいと思っております」
「なるほど」
　一�宸ﾍこの年若の歌舞伎役者の思いが、師の訥言と重なるところがあると思った。何の疑いもせずこれまでの形式を踏襲するだけでは、絵にしても歌舞伎にしても衰微するだけだという思いがあるのだろう。
　一�宸ﾍそう考えながらも権十郎に意地の悪い質問をしてみた。
「しかし芝居を見に来る客は一時の楽しみを求めに来るだけで、有職故実の違いなど分かる客がおりますかな」
「違いが分からなくとも構わないのです。演じる役者の心持ちが変わることによって、芝居自体が変わると思っております」
　一�宸ﾍ権十郎の目をじっと見た。視線がたじろがない。本物かもしれんと一�宸ﾍ思った。
「分かりました。どのくらいの期間になるのか分かりませんが、私の持っているものはすべてお教えいたしましょう。ただしその前に、私の弟子になる者には考経を諳んじてもらいます。それができなければ弟子にすることはできません」
　隣春と権十郎が顔を見合わせた。
「如何ですかな」
　二人は揃って、よろしくお願いいたしますと頭を下げた。
　三日後、二人がやって来て、一字も間違えることなく考経を暗誦したので、入門が許されることになった。
　京の自宅ならば、まず一�宸ﾌ持っている古画や、懇意にしている公家や名刹の所持している絵を模写させるのだが、あいにくここには何もない。高島千春の手元にある粉本も、二人はすでに手本としている。
　そこで一�宸ﾍ二人を連れて麹町にある住吉家を訪ねた。住吉家は土佐派から別れて江戸で幕府御用絵師となった大和絵の一家で、土佐家とも親交があり、一�宸ﾌ名前も知られていた。
　門人に案内されて大きな邸の中に入ると、玄関まで当主の住吉弘貫(ひろつら)がわざわざ出迎えてくれた。羽織袴姿で、一�宸ｽちの町人風の着流しとは大違いである。さすがに旗本士分格にふさわしいと思いながらも、一�宸ﾉ臆するところはない。
　柔和な顔で、自分とほぼ同年齢であることは知っていたが、相まみえるのは初めてだった。
　一�宸ｪ突然の訪問を詫びると、「一�專aが東下(とうか)されたことは摺り物で存じておりましたので、いつお見えになるかと心待ちにしておりました」と弘貫は如才なく応えた。
「いや、あれはほんの手すさびで描いたもの。お手元に落ちたとあればお恥ずかしい限りで」
「何の、何の。あの筆致は田中先生譲りの軽妙さが光っておりますぞ。さすがは筆頭弟子たる一�專aのことはあると感心いたしました」
　応接間に上がっても、弘貫の賛辞が続いた。一�宸ｪ去年描いた「賀茂競馬図屏風」や「祇園祭礼図」の出来がよかったという噂や、どういうわけか鷹司政通から依頼された勅命の絵のことも知っていて、禁裏の仕事をする一�宸�高く持ち上げた。
　話の矛先を変えるため一�宸ｪ弘貫の仕事のことを聞くと、彼は曖昧な笑い顔を見せた。
「近頃は江戸中が落ち着きをなくしているせいか、風流に目を向ける向きもなく、なかなか大きな仕事が舞い込みませんな。絵というものは天下太平でないと求める者も少なくなるのは道理で……」
「天下騒乱の時に警世の絵を描くこともできるのでは」
「そんなことができますかな。仮にできるとしても、幕府御用絵師としての立場がありますからな」
　何やら土佐家の誰かが言いそうな台詞だと一�宸ﾍおかしかった。
「こんなことを言えば何ですが」と弘貫は声を潜めた。「代替わりを待っておるのですよ。そうすればどっと仕事が舞い込みますからな」
　しかし今の将軍は一�宸謔閧熄ｭし年上なだけで、死を期待するのもおかしな話である。
「何かご病気の噂でも」
「いや、特に何も。ただの戯れ言でござるよ」
　そう言って弘貫は小さく笑った。
　本題に入るため一�宸ﾍ住吉家の所蔵する粉本類のことを尋ね、それを模写させて貰えないかと願い出た。最初、粉本は当家の家宝でありますから、弟子でもない者に見せるのはと渋っていた弘貫だったが、河原崎権十郎を紹介すると、興味を惹かれた表情になった。
「父上はあの七代目團十郎とな、ほほう」
　一�宸ｪ権十郎の意気込みを話すと、ますます身を乗り出してきた。
「いや、お若いのにご立派。そういうことなら協力させていただきましょう」
　弘貫は弟子に命じて、粉本を、持ち帰ってもいいものと当家において模写すべきものに分けさせた。その中から一�宸ｪ選別し、何枚かを包んでもらって住吉家を辞した。
「私、あの住吉家のお方は好きません」
　昔男精舎への帰途、権十郎がいきなり言った。
「それはまた、どうして」と一�宦B
「絵の仕事が増えるからと言って、将軍様のお隠れを願うなんて……」
「私も気に入りません」と隣春が言った。「権十郎が歌舞伎役者だと分かった途端、手の平を返したように粉本の閲覧を認めるなんて。七代目と繋がりを持って仕事をもらおうとの魂胆が見え見えです」
「まあ、そう嫌うでない。住吉家ともなると家格を維持するだけでも大変なのだよ。多くの弟子を抱えた当主の立場としては、彼等を食べさせなくてはならないからな」
「それは重々承知しておりますが……」

隣春と権十郎が借りてきた粉本を模写する傍らについて、彼等の疑問に答えたり、筆法を正したりしながら、その合間には自分の絵に対する考え方を伝えた。
　絵は土佐光起、雪舟、狩野探幽、李渓などの筆意に学ぶこと。
　絵巻などを写す時は抜き描きで十分。職人が色々な道具を用意するように、絵師も例えば出陣の所は何の画巻、重陽の節句はどこそこの絵巻というように、明らかなる所を写しておく。それを自分が作画する時に参考にするのである。使わなければたとえすべてを模写しても意味がない。
　常々絵を学ぶには、古人の絵の筆意に極々心を用いて写し置き、それを真似るように描くのがいい。そうして真似ているうちに、自ずと自分の流儀が出来上がっていく。
　二人に教える時間がそんなに多くないという思いに駆られ、その他様々な事柄を一�宸ﾍ言葉にして伝えた。
　もちろん一�宸ﾍ昔男精舎で絵ばかりを描いていたわけではない。時間を見つけては松庵と一緒に市中を見て回り、鷹司政通に見聞記を書いて送った。
　江戸で清元の新しい流行を学びたいと家元宅を訪れた際、「三社祭」を謡ってみせると、家元がおやという顔をし、その唄い方は誰から習われたと聞いてきたので、清元仙八のことを話した。家元は、仙八が江戸流を広めていることを腰の軽さという表現で褒めた。
　それから何日かして清元仙八が訪ねてきた。
「先生、水くさいじゃありませんか。江戸に出ておいでなら、私にも声を掛けてくださいよ」
「すまん。お主が江戸に戻っているとは知らなかったものでな」
　仙八とは岐阜の上松家で初めて会った後、京に戻った一�宸ﾌ所にやって来て、島原で一緒に遊んだことがあった。
　早速、仙八の三味線で稽古をつけてもらった。別室で絵の模写をしていた隣春と権十郎が様子を見に来たのだろう、一�宸ｪ謡い終わると二人が襖を開けて入って来た。
「先生が本格的に清元をお習いとは知りませんでした」と隣春が言った。
「絵と違って清元は難しいのだ」
「外で聞いているとどこの名人かと……」
「隣春、言い過ぎだ。それでは仙八殿に失礼に当たる」
　権十郎が笑っている。
「どうだ、権十郎も謡ってみるか。歌舞伎の稽古でも謡う機会があるだろう」
　そう声を掛けると、彼は躊躇うことなく、はいと答え、一�宸ﾌ横に坐った。
「歌舞伎？　……ということは権十郎さんってのは、実の父親があの七代目の……」
　仙八が驚いた顔をする。
「そうだ、七代目團十郎の息子さんだ。今私のところに絵の修行に来ている」
「あれ、まあ。それはどういう風の吹き回しで……」
「有職故実に則って正しい歌舞伎をしたいということだ」
「正しいかどうか分かりませんが、とにかく今までとは違うものがやりたいのです」
　権十郎が口を開いた。
「不易流行ってやつですかい」
「お主、なかなかいいことを言うなあ」
「私も一応芸人の端くれですから」
　そう言って仙八が笑った。
　権十郎の清元も一�宸ﾉ劣らない年季の入った謡い方で、仙八を感心させた。間接的に歌舞伎の修行も十分に行っていることを思わせた。

　四月の始め、訪う者があって出てみると、馬木平内兵衛(へいないひょうえ)が立っていた。旅装姿でもなく、羽織袴の普段着である。
「いや、これはまた珍しい方がお出でなって……」
　去年の正月に京の長州藩邸で開かれた詩筵で会って以来である。
「この度、主君の出府に随行して江戸に参りましたので、ちょっとご挨拶に」
「よくここが分かりましたな」
「京を立つ前に御家に伺いましたら、ご内儀がここだと」
　早速中に上がってもらい、昼時だったのでお勝に目刺しを焼かせ、香の物と酒を用意させた。松庵は隣春と権十郎を連れて、住吉家の粉本の模写に出掛けていた。
　恐縮する馬木に酒を勧めながら、一�宸ﾍ一ヵ月ほどで京に戻るつもりでいたが、思いのほか絵の注文が入り、また図らずも弟子を取ることになって、しばらく滞在するつもりであることを話した。
「それならちょうどいい」と馬木は飲み干した杯を膳に置いた。「実は主君出府に際し、調度品を新たにすることになって、納戸役が今差配しているところなんですよ。先生に屏風絵を描いてもらうわけにはいきませんか」
「それなら」と一�宸ﾍすぐに思いついた。「その仕事は住吉家に回してもらえないか。実は……」
　馬木に住吉弘貫(ひろつら)に世話になっている事情を話した。
「なるほど、そういうことなら納戸役にそのように伝えましょう」
「幕府の御用絵師なので私よりも高いかも知れないが、私からの紹介だと告げたらいくらか安くなるかも……」
「先生より高いということはないでしょう」
　そう言って笑うと、馬木は一�宸ﾌ杯に酒を注いだ。
　それから程なく、住吉弘貫から礼状と共に小振りの初鰹が届けられた。近年盛漁になったので以前ほど高値ではないとは聞いていたが、それでも金百疋くらいはするだろう。
　礼状を読んだ隣春と権十郎が自分たちのためにと恐縮したが、初鰹で元が取れたと言って笑わせ、皆で刺身にして食べた。それでも余ったのでお勝にも分け、隣近所に配らせた。

十

　四月下旬のある日、権十郎が「先生、お芝居を観に行きませんか」と言ってきた。
　話を聞いてみると、兄の八代目市川團十郎の芝居が始まるという。正月に「花三升宿初役(はなとみますやよいのはつやく)」という鏡山物と「与話情浮名の横ぐし」という世話物を上演したところ、世話物の方が大好評だったので、それを一日がかりの芝居に書き直し、外題も「与話情浮名横櫛(よわなさけうきなのよこぐし)」と改めて三月に舞台に掛けた。それが評判になったのでまた五月から上演することになった。主役を兄が務め、自分も小さいながら役が付いているので、是非にと権十郎は頭を下げた。
　芝居の当日、松庵を連れて明け六つ前に家を出た。朝日がわずかに昇った頃で、涼風が吹いて隅田川の堤を歩くのが気持ちがいい。
　半時も掛からず猿若町に着くと、さすがに人気演目の初日だけあって、木戸周辺に人が屯している。権十郎と隣春が一�宸ｽちを見つけて近づいてきた。
「先生」と権十郎が言った。「せっかくお出でいただいたのですから、父と兄に会っていただけませんか」
　権十郎の先導で木戸を潜った。猿若町の通りはまだ薄暗く、暖簾を掛けた両側の茶屋の軒先には提灯がずらりと掛かっている。それが通りを照らす様は別世界のようである。
　権十郎はその通りには入らず、真っ直ぐ行って右に曲がり、中村座の裏に連れて行った。茶屋の屋台があり、行李(こうり)を担いだ男たちが出入りしている。
　権十郎の後について中に入り、階段を上がっていき、三階の暖簾の掛かっている所に来た。
「権十郎です。先生をお連れしました」
「入ってもらいなさい」
　少し嗄れた声が聞こえてくる。権十郎が暖簾を掻き分け、一�宸ｽちは草履を脱いで楽屋に上がった。
　白粉を塗った舞台化粧の男が着流し姿で正座しており、その横には皺の目立つ顔に羽織袴を着た目力のある男が座っていた。化粧の男は鼻筋が通り、ほっそりとした顎で、今評判の八代目團十郎に違いない。
「権十郎がお世話になっております。父の海老蔵でございます」
　目力の男が両手をついて頭を下げた。顔の皺は江戸を追放されて苦労してきたことを物語っているのだろうと思いながら、
「宇喜多一�宸ﾅございます」
「禁裏御用の先生に、絵師になる気もない息子を教えていただくなどとんでもないことだと、申し訳なく思っております」
「いやいや、絵を描くことは物を見る力を養いますから、誰が修行をしてもきっと役に立ちます。ましてや私の描いています大和絵を学べば、自ずと有職故実が身に付きますから権十郎さんにとってもよろしいかと」
「先生にそう言っていただくと助かります」
　それから話は芝居のことになり、海老蔵は八代目團十郎のことに何度も言及した。いわく、私が江戸追放になった時、成田屋を支えてくれた、今の歌舞伎人気は息子のお陰、私を超えて大名跡になってくれるでしょう、等々。八代目團十郎はそれを否定するでもなく、微笑みながらゆったりと聞いている。
　なるほど父親が養子にやった五男の権十郎に関心がないのもよく分かる。絵に打ち込んでも文句を言わないのはそのためか。
　一�宸ﾍ権十郎の顔を盗み見た。彼は神妙な表情で俯いていた。
　楽屋を辞して、権十郎の案内で廊下を通り、奥に見える南京錠の掛かっている扉を開けて、直接客席の通路に出た。
　桟敷はすでに客であらかた埋まっていた。権十郎は空いている席を手で示しながら、
「上桟敷をご用意しましたので、どうぞ夕方までお楽しみ下さい。後で茶屋の者をよこしますので、その者に弁当など何なりとお申し付けください。私は今から出番の準備がありますので」
　そう言って権十郎は戻っていった。一�宸ｽちが桟敷に腰を下ろすと、後ろから声が掛かり、「ここにおりますので何なりと」と前掛けを掛けた若い男が頭を下げた。
「先生」と隣春が言った。「この席は上席ですよ。結構しますよ」
　左右に目をやると、上等な羽織を着た旦那衆や粋な着物を着た女たちが坐っていた。
「二度と来られないかもしれないな」
「まさか、先生」
　隣にいる年配の男がこちらを見る。
「それにしても、先生」隣春が小声になった。「権十郎さんは大変ですね。父親から全く期待されていない。あれでは可哀相だ」
「そのことはここでは言うな」と一�宸ﾍ隣にちらっと目をやった。
「そうですね。失礼しました」
　芝居は、義理ある弟に家督を譲って、放蕩に明け暮れている大店の若旦那が、地元の親分の妾お富と恋仲になるが、それがばれてめった切りにされるという話で、三年後偶然お富と再会する場面が山場になっている。
　優男だが悪ぶって肩肘張っている与三郎の姿と八代目團十郎がぴったりと重なって、大評判を取るのが分かる面白さだった。
　井筒屋の下男と料理人の役で権十郎が出ていたが、兄に比べてほんのちょい役だった。それでも権十郎が精一杯演じているのが遠目にも分かったので、一�宸ﾍ安心した。
　昼には幕の内弁当を食べ、小腹の空いた頃には寿司も用意され、一�宸ｽちは一日芝居を堪能した。
　終わった時はさすがにぐったりと疲れていたが、楽屋に顔を出して挨拶をし、帰宅した。
　翌日一�宸ﾍ、切られ与三郎がお富の妾宅で啖呵を切る場面を絵にして、和歌を入れ、招待のお礼として権十郎に手渡した。権十郎は感激して、「早速楽屋に貼らせていただきます」と礼を言った。

　六月四日のことだった。一�宸ｪ画室で隣春と権十郎に絵を教えていると、玄関で馬木の声がし、松庵がそれに応えて何か言っている。
　ほどなく松庵と馬木が姿を見せた。一�宸ｪ住吉家に絵の依頼をしてもらった礼を述べかけると、馬木はそれを制して、
「先生、アメリカの船が浦賀に来たことはご存じですか」
　と勢い込んで言った。
「何と！　ついに来たか」
「昨日、四隻の大きな船でやって来たそうです。大砲をいくつも持っている軍艦らしいです。まだまだ後からやって来るということで、我が藩にも一両日中に警護の御用が下るともっぱらの噂で……」
「いよいよ、戦か」
　隣春と権十郎が立ち上がって、馬木を取り囲んだ。
「江戸はどうなります」と権十郎が尋ねた。
「分からん。やつらがもっと奥まで来て、大砲をぶっ放せば、たちまち大混乱になるのは必至」
　隣春と権十郎の顔に不安の影が差した。
「よし、本日の模写は終わり。二人とも早く帰りなさい」
　二人はそそくさと道具を片付けると、一�宸ﾆ馬木に頭を下げて帰っていった。
「先生、我が藩に警護の御用が下れば、その時は松庵殿に来てもらって……」
「皆まで言うな。分かっております」
　そう言うと、一�宸ﾍ「松庵」と側にいた息子に声を掛けた。
「今聞いた通りだ。いつでも毛利殿の加勢に行けるように鎧を用意しておくように」
「はい」松庵が神妙な表情で頷いた。
　馬木が、ご用命が下ればただちに連絡しますと述べて帰っていっても、一�宸ﾍなかなか興奮が抑えられなかった。
　先程まで隣春の座っていた円座に腰を下ろすと、一�宸ﾍ心を落ち着かせるために墨を擦った。松庵の着用する鎧の袖印に、何か息子を鼓舞する言葉を書いてやりたい。書くとしたら歌しかない。
　考えを巡らせてから、一�宸ﾍおもむろに筆を取り、美濃紙に書きつけた。
　うちはなつ烟(けむり)にきゆるみともなれ　わか大やしまいくよつくすは
　それを絹本に書き写してから、松庵に鎧を持ってこさせ、お勝を呼んで鎧の袖に縫い付けさせた。
「先生、アメリカさんはお江戸に攻めてくるのでございますか」とお勝が尋ねた。
「お勝も心配か。それなら今日のところは早じまいしてもいいぞ」
「いいえ、私はもう年ですから、戦で死んでも構わないのですが、松庵様が心配で」
「松庵が？」
「武士の家に生まれたのならともかく、そうでないなら、こんな時にわざわざ毛利家に仕えさせなくともいいではありませんか。もっと世の中が落ち着いた時に……」
「お勝がそう思うのも無理はない。だが、今まで話してはいなかったが、我が家系はもともと徳川に滅ぼされた宇喜多秀家につながるのだ。武士の血が流れている。わが国が存亡の危機にある時には、蒙古襲来の時と同じく当然戦わなければならない。本来なら私も息子と一緒に加勢すべきなのだが、いかんせん還暦を迎えようという年寄りなので、却って足手まといになる。それで松庵に私の分まで奮闘してもらいたいのだ。もちろん私は江戸を離れるつもりはない」
「先生がそうおっしゃるなら、私は何も言うことはございません」
　松庵は横で二人のやりとりをじっと聞いている。
「松庵、毛利家に仕えることに躊躇いはあるか」
「いいえ、いささかなりとも」
「よう言うた。それでこそ我が息子」
　松庵に袖印のついた鎧を着せた。代々伝わる鎧がようやく役に立つ時が来たと思うと、一�宸ﾌ胸に感慨迫まるものがあった。
　馬木平内兵衛(へいないひょうえ)の使いの者が来たのは、二日後の夕方だった。毛利藩に大森海岸警護の御用が下ったので、明日中に六本木にある中屋敷までお出で下さいとのことだった。一�宸ﾍ松庵を長州藩に預けると、そのまま浦賀まで行くつもりだったので、翌朝六つ半に昔男精舎を揃って出た。途中浅草寺に立ち寄り、同行したいと申し出ていた隣春と権十郎と合流した。
　二人は松庵の鎧姿を目にすると、立派なお侍だと感心し、袖印に書きつけられた歌を読んだ。
「これは先生が詠まれたのですか」と隣春が尋ねた。
「そうだ。死を恐れては戦はできない。わが大八洲(おおやしま)が悠久に栄えるためには、死ぬこともまた必要なのだ」
　市中に入ると、大八車に荷物を満載して逃げる者たちや、背丈を超えるほどの荷物を背負い、幼子の手を引いて急ぐ家族たちの群れなどで、ごった返していた。東や北に向かう者たちに混じって、一�宸ｽちのように南に向かう者たちもいて、狭い通りをなかなか抜けることが出来ない。
　ほとんどの商家が店を閉じている中、「刀剣あります」「鎧、直します」と書かれた紙を貼りだしている店があった。
「父上、刀を持参した方がいいのではないでしょうか」
　一�宸ﾍ少し考えてから、「いや」と答えた。「実戦では刀よりも槍だ。毛利殿のところに武器は用意してあるから心配するな」
　もちろん一�宸ﾆしても息子に刀を持たせたかったが、ここで金を使ってしまうと泊まり賃がなくなって浦賀に行けなくなってしまう。そのため苦肉の言い訳をしたのだが、その時、ドーン、ドーンという花火を打ち上げるような音が響いてきた。
　人々が一瞬にして立ち止まった。
「あれは何」
「大砲だ」
「ええ！」
「始まった！」
　そこかしこで喚く声が聞こえ、静止していた人々が急にあわてて動き出した。
　一�宸熨ﾌを堅くして立ち止まり、音の聞こえた方向に目をやった。
　再びドーンという音が聞こえた。
「先生、心配いりません。あれは空砲です。今朝、番屋の方からお触れが回って来ました。何やらアメリカが合図のためにやっているとか」
　隣春が教えてくれた。
「そうか、それならいいが。相手が本当に大砲を撃ってくるとなると、こちらも大砲で応戦しなくてはならんが、大砲を据える台場さえまだできておらんものな」
　六本木にある長州藩中屋敷に着いたのは昼前だった。大門が開け放たれ、槍を持った門番が左右に立っている。武士の出入りが頻繁で、屋敷の中からは人の怒鳴り声や砂利を踏みならす足音が聞こえてくる。
　一�宸ｽちは大門に近づいた。一人の門番が槍を倒して、もう一人が側に寄ってきた。
「何か用か」
　一�宸ｪ事情を説明すると、「分かった。少し待っておれ」と答えて中に入っていった。
　しばらくして馬木が姿を見せた。鎧姿で腰には刀を佩(は)いている。
「おお、これは立派な鎧だ」馬木は松庵を見て声を上げた。そして袖印に目を留めると、大きく頷いて見せた。
「息子のこと、よろしくお願いします」
「分かりました。本来なら中に上がってもらって、留守居役に挨拶をしてもらうところですが、何せ今日は立て込んでおりますので、ここでお預かりいたします」
　一�宸ｪ浦賀に向かうと述べると、馬木はにわかに難しい顔になり、
「見物は十分に気をつけてください。ちょっとでも不穏な動きがあったらすぐに逃げるように」
「心得ております」
　馬木と松庵が中に入っていくのを見送ってから、一�宸ｽちは先を急いだ。。
　品川宿に近づいた辺りで、馬で江戸方面に駆けていく侍の姿を目にし、血相を変えて急ぎ足で逃げてくる村民たちがいたので、つかまえて訳を尋ねるとすぐ近くに黒船が現れたと叫んだ。
　一�宸ｽちは急いで東海道を折れて海岸に向かった。家屋が途切れて視界が広がった時、前方に二本の柱の先端が見えた。海が見渡せるようになって、黒船の正体が初めて目に飛び込んできた。浜辺には大勢の人間が見物に集まっており、彼等の頭の向こうには黒々とした巨大な船がゆっくりと進んでいた。二本の帆柱の間にある煙突からはもくもくと黒い煙が吹き出ており、舷側にある大きな輪っかが少しずつ回っている。
　一�宸ﾍその大きさに呆気に取られた。今まで見た一番大きな船である千石船などとは比べものにならない。よく見ると、舷側から大砲らしきものも覗いている。江戸で聞いた砲声はこの船が撃ったものなのか。
　何艘かの小さな船が黒船に近づいており、誰かが攻撃しようとしているのかと思ったが、そうではないようだ。より近くで見ようとしているのだろう。
　その時どこかの役人だろうか、鎧姿の侍が五、六人やって来て、群衆をかき分けて浜辺に降りていった。
「勝手に黒船に近づくことはまかりならん」と一人が大声で叫んでいる。向こうの方で伝馬船を海に浮かべようとしていた男たちが作業を止めた。役人が近づき、一人の男と何やら話している。
「黒船を追っ払うこともできないのに、偉そうな顔をするな」
　誰かが聞こえるような声で言う。役人がきっとした顔でこちらを向いた。
「お前たちも早く帰った方がいいぞ。アメリカさんが大砲を撃たないと保証しているわけではないからな」
「大砲が恐くて黒船見物なんかできるかい」
「その通り」
　それに賛同する声が続いた。
「先生、もう引き上げましょう」と隣春が一�宸ﾌ袖を引っ張った。
　暮れ六つ過ぎにようやく保土ケ谷宿に着き、旅籠を探し回って、相部屋を見つけた。同宿の男たちも江戸から来た見物人で、品川宿で黒船を見たことを話すと、自分たちは見ていないと言って、興味津々で耳を傾けてきた。一�宸ﾍ男たちの質問に答えているうちに興奮してきて、たとえ相手が巨大な船であろうとも、取り囲んで撃沈すべしと口角泡を飛ばした。男たちの一人は「今のお侍にそんな肝の据わった御仁がおりますかな」と冷ややかに言った。
　次の日の早朝男たちと一緒に旅籠を出た。浦賀への道は、背中に荷物を積んだ駄馬が行き交い、その間を侍が馬で駆け抜け、あるいは家財道具を積んだ大八車を家族で引っ張っている。それまで以上の混み具合で、土埃が舞っていた。
　浦賀に着いたのは陽が天頂に差し掛かる頃で、浜辺は見物人でごった返していた。役人とその手下たちが長い警棒で人々を制しながら、「いつ大砲の弾が飛んでくるやもしれんから、帰れ、帰れ」と怒鳴っているが、誰もその場を動こうとはしない。
　湾の沖合には四隻の黒船が鎮座していた。品川沖で見た時より遠くなので、その大きさに驚くことはなかったが、四隻が固まっているとやはり壮観だった。品川沖と同様に小舟が何艘かその周りでちょろちょろと動いているのに対して、黒船はぴくりとも動かない。憎々しいくらいに悠然としている。
　一�宸ﾍ懐から写生帖を取り出して、矢立の筆で黒船を描いた。隣春と権十郎が覗き込む。それにつられるようにして、周りの人々も一�宸ﾌ手元に目をやった。
「へぇー、うまいもんじゃ」と誰かが言った。それを聞いた一�宸ﾍ一枚を仕上げると、紙をめくって、今度は一隻の黒船が波間に転覆する様子を描いて見せた。どっと歓声が起こる。
　写生帖が人から人へと渡っていき、その都度笑いを含んだ声が上がった。
「先生」と権十郎が一�宸ﾌ袖を引いた。「お役人がやって来ます」
　騒ぎを聞きつけたのか、二人の役人が近づいてきて一�宸ﾌ写生帖を取り上げた。それを覗き込み、二人で顔を見合わせる。
「これは誰の持ち物だ」という声が聞こえてくる。聞かれた男が一�宸ﾌ方を指差した。
　権十郎が心配そうに一�宸�見た。
「これはお前の物か」
　側に来たぎょろ目の役人が写生帖をひらひらさせた。
「そうでございます」
「どうしてこんなものを描いた」
「誰も黒船を打ち払わないから、私がやったまで」
「打ち払いを扇動するつもりか」
「幕府のご定法は鎖国。異国との交渉は長崎と決まっております。それを破った黒船は打ち払うのが道理」
「……それができるのなら、誰も苦労はせんわ」
「いざというときに役に立たぬ武士を、我々が養っておったと言うことですかな」
　周りから笑いが起こった。役人の顔がこわばる。
「人心を惑わす行為、断じてまかりならん」と役人が大声を上げた。「番所に引っ立てい」
　後ろに控えていた手下たちが来て、一�宸ﾌ腕をつかんだ。隣春があわてて手下の腕を押さえた。
「この方は宇喜多一�宸ﾆいう禁裏御用の絵師ですぞ。そんな方を捕まえたら、後でどうなるか分かりませんぞ」
　隣春が叫ぶと、二人の役人が何やら小声で話し始めた。権十郎も心配げに見守っている。
　少し経って、「捕まえるのは勘弁してやる。その代わりさっさとここを立ち去れ。ぐずぐずしてたら引っ立てるぞ」と役人が怒鳴って、写生帖を叩きつけるようにして一�宸ﾉ返した。
　隣春と権十郎は役人たちに頭を下げ、一�宸ﾌ体を押してその場を離れさせた。
　浜辺から出ようとした時、一人の男が近づいてきた。昨晩同宿した男たちの一人だ。
「先生、やりますなあ。すかっとしましたぜ、その絵を見て」
　一�宸ﾍにやりと笑うと、写生帖を開き、黒船転覆図の頁を破って男に与えた。男は「これはありがてえ」と受け取ると、黒船見物に戻っていった。

　一�宸ｽちが江戸に帰って何日か経って、ペリー一行が浦賀を去ったという噂が流れてきた。去る前に上陸して幕府と交渉したようだが、詳しいことは分からない。
　やがて幕府が各藩に出していた江戸湾警備の沙汰が解かれ、松庵が帰ってきた。彼の口から、ペリーが軍艦で脅しをかけて、国書を無理矢理受け取らせたことを聞かされた。
　何たることと一�宸ﾍ怒りで体が震えた。
　そんな気持ちの中で、吉祥図とか花鳥図のようなおめでたい依頼画を描く意欲は全く起こらない。松庵に依頼者の許に向かわせ、画題を「蒙古襲来図」「楠公図」「夷船転覆図」など、困難に立ち向かった絵に変えてくれるのなら引き受けると伝えさせた。
　断る者よりも面白がって変更を快諾する者が多く、一�宸ﾍ我が意を得たりとばかりに作画に集中した。
「夷船転覆図」は、蒙古襲来の時に神風が吹いたのに倣って、大風で波間に転覆する黒船を描き、手前の磯には、自分と息子になぞらえて馬に乗った鎧武者とその従卒をあしらった。題名も「神風覆夷艦図」とした。
　その絵を受け取った大店の旦那から噂が広まって、同じ画を求める依頼が相次いだ。
　それに気をよくした一�宸ﾍ、「夷船転覆図」を版画にして無料で人々に配ろうと考えた。早速、版下の絵を描き、以前名を売るために摺り物を依頼した版元に、三百枚を作らせた。
　権十郎もその配布の手伝いを申し出てくれたが、中村座の店先で配ろうとしたら、父親に止められたということだった。
「父上はお上の禁忌に触れることをことさら恐れているようで……。役者というのは立場が弱いことを改めて痛感いたしました」
「江戸所払いなどの処分を受けたら、誰でも慎重になるのは致し方ない。父上を責めたらいけませんぞ。それより、権十郎は大丈夫なのか。私はこの摺り物を配って攘夷を説くつもりだが、ひょっとしたら奉行所に目を付けられるかもしれん。そんな私の許に通ってくるのは危険かもしれんぞ」
「私は平気でございます。処罰を受けたところで、父にとっては痛くも痒くもないでしょうから」
　権十郎の屈折をたしなめようと思ったが、適当な言葉が思いつかず、一�宸ﾍ黙るより他はなかった。
　一�宸ﾌ予感はそれから数日経って、現実になった。
　日本橋の袂でいつものように摺り物を配って、集まった二十数人の民衆に、
「異国に屈するような弱腰では、いずれ我が国は乗っ取られてしまう。我が国を守るためには攘夷しかない。蒙古襲来の時を思い出せ。徹底的に戦わなければ神風も吹かないのだ」
　そう説いていると、黒羽織を着て着流し姿の同心が、十手の先で掌を軽く叩きながら現れた。背後には中間(ちゅうげん)と岡っ引きが控えている。
「その方、誰の許可をもらって摺り物を配っておる」と同心が言った。
「誰の許可ももらっておりません」
「それでは駄目だ」
　同心が手下に目配せをして、人々の手元にある摺り物を回収させた。中にはそれを素早く懐に入れ、立ち去る者もいた。
　同心は一�宸ﾌ懐にあった残りの紙束も手を突っ込んで取り、同道を命じた。一�宸ﾍ同心と手下に囲まれて近くの自身番へ連れていかれた。
　そこで名前を聞かれた時、「画院寄人、宇喜多一�宦vと名乗った。
「がいんよりうど？　それは何だ、名前か」
「天朝様に仕える絵師という意味です」
　同心は手にした摺り物を見た。
「ここにはトヨトミカイとなっておるぞ」
「それは号で、豊臣可為(よしため)と読みます」
「どういう意味だ」
「我が先祖は家康に滅ぼされた宇喜多秀家であります。よってご先祖に成り代わり、豊臣の再興を期するという意味です」
「なにぃ」
　年配の中間が同心に何やら耳打ちをした。同心は小さく頷き、
「ここでは埒が明かん。奉行所で取り調べる」
　自身番に詰めていた年寄りが驚いた表情で一�宸�見た。
　北町奉行所はそこから五町ほど離れたところにあり、同心たちに囲まれて歩いている間、町衆の好奇の視線を浴びた。
　奉行所の表門を入ってまっすぐ行き、玄関を上がってすぐ右にある小部屋に入れられた。
　しばらく待っていると、継裃(つぎかみしも)に平袴を穿いた与力が一人の男を連れて現れた。先程の同心よりかなり年上である。手には一�宸ﾌ摺り物を持っている。
「もう一度、お名前を伺おう」
「画院寄人、宇喜多一�宦v
「天朝に仕えると言ったそうだが、天朝とは禁裏のことか」
「さようでございます」
「住まいは京であろう」
「さようです」
「どうして京の絵師が江戸におるのだ」
「江戸見物を兼ねて、松本から江戸へと遊歴しておるのです」
「遊歴ならば絵を描くだけで十分であろう。どうして人心を惑わすような言説を弄するのだ」
「先程の同心の方に申した通り、我が先祖は……」
「その話はもうよい。聞かなかったことにする。今時豊臣の再興でもあるまい。問題は攘夷だ。どうして攘夷をそそのかす」
　一�宸ﾍここぞとばかり持論を展開した。アメリカのモリソン号事件に端を発した蛮社の獄から阿片戦争におけるエゲレスの横暴、オロシャ船の度重なる入港、そして今回のペリー来航。異国に蹂躙されるのが目前に迫っているのに、何もしないのはまさに国を売るのと同じ。蒙古襲来の時と同じく国が一致団結して異国を排除しなければならない……。
　興奮してきて一�宸ｪ大声を上げはじめても、与力はそれを制することなく黙って聞いていた。
　そして一�宸ｪ話し終わると、
「宇喜多殿、お主の気持ちはよく分かった。ただ、ここは江戸だ。攘夷を断行するかどうかはお上が決めること。いたずらに町衆に攘夷を説くと、不安が広がって治安が乱れるのだ。分かってくれるか」
　ここで首を横に振ると、与力の立場上、穏便にできないのが分かったので、一�宸ﾍゆっくりと頷いた。
「そうしたら、もう二度とこういうことはしないようにしてくれますな」
　一�宸ﾍ再び頷いた。
「よかった。これで一件落着したが、申し訳ないが今すぐに放免とはいかない。宇喜多殿の身分を問い合わせ、身元引受人に来てもらわなければならないから、一晩仮牢に留め置きますぞ」
　表門左手横の囚人置場に一�宸ﾍ入れられた。隣の仮牢には何人かいたが、一�宸ﾍ一人だった。その晩はほとんど一睡も出来ず、時折清元を口ずさんでは無聊を慰めた。
　翌日、一�宸�引き取りに来たのは、松庵と住吉弘貫(ひろつら)だった。昨日の与力が立ち会い、弘貫に一�宸ﾌ身分を確認すると釈放してくれた。
　去り際、与力が一�宸ﾌ耳元に口を寄せてきて、「今度攘夷を説くなら、京で願いますぞ」と囁いた。一�宸ﾍにやりと笑って頷いた。
　奉行所を出てすぐ、「いやあ、一�專aが奉行所に捕まっていると聞いた時は驚きましたぞ」と弘貫が言った。
「面目ありません」
「でも、一�專aなら何かやったに違いないとすぐに納得しましたがな。それにしても攘夷とは。幕府のお膝元で堂々と攘夷を説くと、奉行所も放ってはおけませんからな」
　松庵が苦笑を浮かべている。
「ちょっとやり過ぎたとは思いますが、人々の本音は攘夷だということがよく分かりました」
「あの与力が話の分かる御仁でよかった。そうでなかったら……」
「もう二度とお手を煩わせるようなことはいたしません」
「そうあって欲しいですな」
　そう言って弘貫はからからと笑った。

　七月に入って、馬木平内兵衛(へいないひょうえ)が訪ねてきた。
　息子松庵を長州藩に迎えてもらった礼を述べると、人を集める達しがあって礼を言うのは私の方ですと馬木は恐縮し、浦賀での黒船の様子を尋ねてきた。船の大きさや浜の警備の様子を語って聞かせた後、幕府は攘夷か、それとも三百年の祖法を破って開国に踏み切るのかと一�宸ｪ問い掛けると、
「実は、幕府が幕閣だけではなく外様にも今回の黒船の要求にどう対処するか、公論をつのったようです」
「ほほう、ついにそこまでやるようになりましたか」
「老中首座の阿部正弘侯が決断したようです」
「馬木殿もお考えを意見書として提出してみたらいかがか」
「いや、私などその器ではありませんから。それよりも先生こそ何かおありでしょう。お書きになったら、私が藩主を通して上にあげますが」
「上申したい気持ちは山々だが、江戸ではちょっとまずいかと……」
　一�宸ﾍ摺り物を配って奉行所に捕まった話をした。
「いやあ、そんなことをされたのですか。何とまあ、大胆な」
「その時与力に、攘夷を説くなら京でと約束してしまったものでな」
「そうしたら帰洛されたら、意見書を出すおつもりで……」
「そのつもりです」
　先生はお若い、と呟いて馬木はしきりに頷いていたが、そういえばと顔を上げた。
「吉田寅次郎という、うちの藩を脱藩した若い者がおるのですが、そいつが浦賀に黒船を見に行って圧倒されて、慶親(よしちか)侯に意見書を出しよったのです、藩士でもないのに。藩内は大騒ぎになりましたが、慶親侯はそれを受け取って、お咎めもなく。どうやらそれが時の風潮になりつつあるようです」
　慶親侯の度量の広さに驚きながら、
「その男はどんな意見書を出したのですか」
「それはもう先生と同じです。いずれ異国と戦う時が来る。それに備えるためには鉄砲、大砲を異国と同じ物にして、軍艦も造れるようにしなければならない、というものです」
「その、寅次郎という男はいくつですか」
「二十四か五ではなかったかと。去年脱藩して奥州を見て回り、津軽でオロシャの船を見て乗り込もうとしたとかしないとか、色々な噂のある男です」
　まるで三樹三郎と同じではないか。
「長州のお屋敷に行けば、その男に会えますかな」
「屋敷にはおりません。色々なところを転々としておるようです」
「もしその男の居場所が分かったら知らせて貰えませんか。一度会ってみたい」
「分かりました。そういたしましょう」
　しかし何日経っても馬木からは連絡が来なかった。

　七月二十二日、十二代将軍徳川家慶(よしいえ)が薨去(こうきょ)したというお触れが出た。実際は先月の二十二日に亡くなっていたが、一ヵ月秘されていたのだ。五十日間の鳴り物停止も通達され、吉原も人通りがぐっと減った。様子を見に訪れた一�宸ﾍ取りあえず馴染みの店に登楼したが、三味線も太鼓も使えず、手拍子で清元をうなるしかなかった。
　芸妓たちはペリー来航の時の恐ろしさを口々に述べた。特に大砲の音が聞こえた時は大門の木戸が閉められ、「このまま焼け死んでしまうのかと、生きた心地がしなかった」と一人が耳を両手で押さえた。

　山本貞一郎も黒船を見に行っており、その後の品川御台場築造の様子も度々視察に行っていた。その築造のまずさを一�宸ﾉ憤慨することしきりだった。
「工事がなっておりません。割り付けられた自分の持ち場だけをただ漫然と造っているだけで、そこには海防に資する気概が全く感じられません。激しい浪に晒されたら、すぐに崩れてしまうような造りです。本願寺に貸し付けた金員を返済させて、本格的な物に造り替える必要があります」
「さすがは貞一郎殿ですな。目の付け所が違う。私など、つい幕府の弱腰を批難するだけに終わってしまうのだが」
「いや、先生のように檄を飛ばす御仁がなければ世の中は動きません。私はそれがうまく動くように立ち働くのが好きなだけです」
「それで、その意見を建白するおつもりか」
「そのつもりでただ今文案を練っているところです」
「ところで、この前の印旛沼から堀割を造って通船させるという事業はどうなりましたか」
「各藩の賛同は得たのですが、工事費がなかなか集まらず、そうこうしているうちにこの黒船騒ぎでしょう。どの藩も財政が苦しい上に、攘夷に備えて火縄とかの武器の調達とか、備蓄米の買い上げとかが始まって、とてもこちらまで金が回ってくる情況ではなくなりました」
「それは残念ですな」
「時の利を得なかったと思っております」
　貞一郎に落胆の色は見えない。御台場の建白書を水戸侯を通して幕府に提出するつもりと述べて、彼は帰っていった。

　勅命の屏風絵を描く時間を考えて、一�宸ﾍ九月の終わりに京に帰った。隣春と権十郎には、仕事が済んだら、また戻ってくるからと言い置いて、昔男精舎は借り上げたままにした。

　　　　十一

　京に戻った一�宸ﾍ、まず関白太政大臣鷹司政通(たかつかさまさみち)の邸に参上し、帰京の報告をした。その中で、勅命の屏風絵制作に自分を指名してもらった礼を述べ、どういう絵になるかという構想を話した。鷹司政通は一�宸ﾌ構想についていくつか質問をした後、人払いをし、出て行ったのを見届けてから高の間から降りてきた。一�宸ﾍ平伏した。
「そんなに畏まらなくてもよろしい。面を上げなされ」
　一�宸ｪ顔を上げると、政通がすぐ傍まで来ていた。直衣(のうし)に焚き込められた香の匂いが鼻をかすめた。
「無理なお願いをして申し訳なかったが、いただいた書状は大変面白かったですぞ。特に黒船来航は傑作でしたな。幕府の慌て振りが手に取るように分かって……」
「お役に立てて光栄でございます」
「やはり庶民は攘夷を望んでおるのか｣
「もちろんでございます。町民ばかりではなく奉行所の役人たちも本音では攘夷だと察しております」
「難しい問題よのう」
　政通は一�宸ﾉ、再び東下する予定はあるのかと尋ね、勅命の絵を描き終えたら、再び参るつもりであることを述べると、その時はまた書状を寄越してくれるようにと言った。一�宸ﾍ、畏まりましたと頭を下げた。

　一�宸ﾍ勅命の屏風絵に取り掛かった。画題の指定は特になかったが、正月子の日の宴に使うことを考えて、一つは禁裏の遊猟地である紫野で公家たちが遊ぶ図にした。もう一つは大堰(おおい)川の舟遊びを題材に選んだ。まず実物大の三分の一程度の紙に下絵を描いて淡く彩色を施し、それらを持って鷹司政通の許に持参した。どちらを選ぶか、政通を通して天皇の判断を仰ぐためである。
　後日、政通の使いが来て、二つとも描くようにと告げられた。六曲一隻一枚だけでも日数が掛かるのに、二枚となるとのんびりとはしていられない。早速一�宸ﾍ有職故実を調べ、実物大の下絵に着手した。

　二六時中絵筆を握る日が続いたある日、ひょっこりと頼三樹三郎が訪ねてきた。近日中に詩筵を開くので、一�宸ﾉも参加してもらえないかと要請に来たのだ。
「先生が勅命の絵の制作でお忙しいのは分かっておりますが、たまには息抜きをされてはいかがですか」
　それでも一�宸ｪ渋っていると、三樹三郎が身を乗り出してきた。
「実は今回の詩筵というのは表向きで、本当は京の備蓄米を増やすための集まりなのです」
「備蓄米？」
「そうです。ペリーが来航してから諸藩が異国との戦が起こることを危惧して、糧食を蓄え始めていることは、先生もご存じでしょう。徐々に米の値段も上がっております。このまま物価が騰貴すると米騒動も起こりかねません。ましてや京は米穀を他国に依存しているので、もし戦が起こって海や陸の運送が途絶えてしまえば、多くの民が餓死するかもしれません。そんなことにならないように今からでも米の蓄えを増やす必要があると考えているのです」
「なるほど、三樹殿の言われる通りだ。で、どうすると」
「水戸藩の京留守居役を通して、斉昭侯から所司代に働きかけようと、鵜飼吉左衛門殿を招いております。また近衛忠煕(このえただひろ)公を招いて尊融法親王(そうゆうほうしんのう)殿下に入説(にゅうぜい)していただき、朝廷から幕府に圧力を掛けることができればと考えております」
「関白の鷹司政通公とは話ができるので、私の方からも手を回しておこうか」
「いや、関白殿は開国を支持していると伺っておりますので、まずいです。攘夷を唱える公家でないといけません」
「そうなのか」
　一�宸ﾍ、難しい問題よのうと顔を曇らせた政通を思い浮かべた。
「ですから、先生にも是非来ていただいて……」
「分かりました。私も詩筵の盛り上げ役として参加することにいたしましょう」
「先生なら必ずやそう言っていただけると思っておりました」
　日時は十月四日、場所は三本木の清輝楼で、梁川星巌(やながわせいがん)や梅田雲浜(うんぴん)、塩川文麟(ぶんりん)も来ると言う。
　梁川星巌は五十九歳の一�宸謔閧熄ｭし年上で、勤王憂国の漢詩人として名が知れていた。江戸にいた頃、玉池吟社(ぎょくちぎんしゃ)という詩社を作って千人を超える詩人たちを集めていたが、昌平坂学問所にいた三樹三郎も通っていたことがあった。自分の漢詩にあまりにも瑕疵(かし)が多いので先生から叱責されたと、本人から笑い話で聞いたことがある。
　梅田雲浜は三十代後半の小浜藩士で、京にある藩の塾で儒学を教えていたが、去年藩主の酒井忠義(ただあき)侯に建言した廉(かど)で、藩籍を剥奪されていた。
　二人とも一�宸ﾉ劣らぬ尊皇攘夷の持ち主だった。一�宸謔閧烽｢くつか年下の塩川文麟は四条派の流れを汲む絵師で、尊皇攘夷を口にしていたが前の二人ほど激しくはない。これらの三人とは、度々詩筵や画会で同席して一�宸煌迪ｩ知りであった。

　清輝楼は一�宸ﾌ家から北に一里も行かないところにあり、近くには頼山陽の住んでいた水西荘もある。一�宸ﾍ松庵を連れて夕方そこに出掛けた。
　東三本木通に並ぶ料亭の軒には、灯りの入った提灯がぶら下げられ、通りを行く芸妓や連れだって歩く武士たちの姿を夕闇の中に浮かび上がらせていた。
　清輝楼の前は一際明るく、三階建ての上階の部屋にもすでに明かりが灯っている。玄関を入って三樹三郎の名前を告げると、番頭が二階に案内してくれた。
　部屋にはすでに三樹三郎がいて、梁川星巌、梅田雲浜と何やら話し込んでいた。
「先生、ようこそお出で下さいました」と三樹三郎が招いた。一�宸ﾍ星巌と雲浜に挨拶をして、三人の輪に加わった。
「一�專aは勅命の絵を描いておられるとか。どういった絵なのですか」
　長い顎髭をしごいていた星巌が手を離して、尋ねてきた。正月の子の日の遊びと大堰川の舟遊びを描いた屏風絵であることを告げると、星巌は感じ入ったように、
「どんな時代であっても、天朝様がそのような優雅な遊びができるように、我々がお守りしていかなくてはなりません」
　星巌がそう言うと、雲浜も三樹三郎も大きく頷いた。
「他の方々は？」と一�宸ｪ尋ねた。
「おっつけお出でになるでしょう」
　三樹三郎の言葉通り、ほどなく塩川文麟が顔を見せ、近衛忠煕(このえただひろ)が三人の供を連れて現れた。一�宸ｽちは輪を解き、一列に並ぶと平伏して、立烏帽子、直衣姿の近衛忠煕を迎えた。忠煕は鷹揚に頷きながら床の間を背にして腰を下ろした。
　そのすぐ後、「遅れて申し訳ございません」と侍姿の男が入って来た。鵜飼吉左衛門だと思われた。忠煕の横に控える供の者に大小の刀を預け、床の間にある刀掛台に掛けてもらうと、正座をして近衛忠煕に丁重な挨拶をした。
　その時、廊下を走る足音が聞こえ、襖がいきなり開いた。
「間に合った」
　と言うなり、一人の若者が息を切らせて入って来た。背が高くて細面の頬を紅潮させている。
「吉田殿、こちらへ」
　そう言って梅田雲浜が横にずれて一�宸ﾆの間を開けた。若者は「はい」と答えると、大股でやって来て隣に腰を下ろした。
「こちらが右大臣の近衛忠煕(このえただひろ)公です。ご挨拶を」と雲浜が促した。若者は両手をつくと、深々とお辞儀をした。
「私、京が不案内のため遅れてしまい、申し訳ございませんでした。元長州藩士、吉田寅次郎と申します。梁川先生と梅田先生のお招きでまかり越しました」
　トラジロウ？　一�宸ﾍびっくりした。まさか馬木殿が話していたあの男なのか。江戸にいるはずではなかったのか。
「貴殿はあの黒船を見に行った吉田寅次郎殿であるか」と思わず尋ねていた。
「はい。どうしてそれをご存じで……」
　一�宸ﾍ馬木の名前を出し、慶親(よしちか)侯に建言した内容が自分の考えと同じだと伝えた。
「先生もそうお思いになりますか。それがなかなか分からない輩が多すぎます」
　その時、梁川星巌が咳払いをした。
「私的な話はまた後ほど」
　一�宸ﾆ寅次郎は口をつぐみ、前を向いた。
　梁川星巌が「この度、右大臣殿、鵜飼吉左衛門殿に来ていただいたのは……」と備蓄米の必要性を説いた。それに続いて雲浜も三樹三郎も尊皇攘夷によってしか日本を守る方法はないことを述べた。
　一�宸煦ﾓ見を求められたので、黒船を見物した話から、異国は自分たちの要求を通すためには武力も辞さずの姿勢で来るので、それに対抗する武力を持たなければ、攘夷も絵に描いた餅になると述べた。
「先生のおっしゃる通りです」と寅次郎が畳を掌で叩いた。「黒船をじかに自分の目で見たら、彼我の武力の差が歴然としていることは誰にも分かります。それを埋めるためには異国の力の源を知ることが大事。そのためには人を異国に派遣する必要があります。日本だけに閉じ籠もっていては、いずれ異国に滅ぼされます。開国はせずとも、まず人をやって異国のことを学ばせることが第一歩でしょう」
　塩川文麟も意見を求められたが、他の方々と同様と答えるに留まった。
「貴殿たちの尊皇の思い、しかと承った」近衛忠煕が頭の天辺から抜けるような高い声を出した。「攘夷によって民が困らぬよう方策を講ずべしという心掛けも立派。青蓮院宮様に申し上げて、奏上いたしてもらいましょう」
「私も感銘を受けました。早速藩主に伝えて、老中から所司代に善処するように図ってもらいましょう。それから、吉田殿と申されたな、貴殿のご意見、もっともと思われるので、そのことも藩主に伝えておきましょう」
　鵜飼吉左衛門がそう述べると、何とぞよしなにと一同揃って頭を下げた。
　折角だから詩筵の真似事をしようということになって、店の者に紙と墨筆を用意させ、一�宸ｪさっと夷船転覆図を描いた。一同がやんやの喝采を送り、星巌が余白に漢詩を入れた。それも皆を喜ばせた。
　塩川文麟は蒙古襲来図を描き、それには三樹三郎が賛をした。
　酒席になって、星巌や雲浜は近衛忠煕と鵜飼吉左衛門の二人と話し込み、一�宸ﾍ吉田寅次郎を相手にした。
「それで、どうして京に来られたのか」
「大きな声では言えませんが、オロシャに渡ろうと考えております。長崎にプチャーチンの船が入港しておりますので、直談判して連れていってもらおうかと」
「死罪覚悟で？」
　寅次郎がにやりと笑った。
「死を恐れていては何もできません」
　一�宸ﾍ後ろに控えていた松庵を見やり、「吉田殿の覚悟をしかと見たか」と尋ねた。松庵は深く頷いた。
「なあに、たとえ捕まっても自分の考えを堂々と述べればいいと思っております。それで死罪にするのなら、その程度の国に生まれた己の不幸を嗤うのみです」
　国窮すれば人を呼ぶ、ふとそんな言葉が一�宸ﾌ脳裡をよぎった。三樹三郎しかり、この寅次郎という男もしかり、これからはこういう男たちが次々と現れてくる予感がした。できうるなら息子の松庵にもこの列に加わって欲しかったが、それは親の欲目かもしれんと息子の顔を見て思い直した。
「塩川先生、今や絵師といえども画筆をねぶっているだけではいけませんぞ」
　突然、三樹三郎の大声が響いた。見ると、三樹三郎が杯を手に、塩川文麟に詰め寄っていた。文麟は口を真一文字に結んで堅い表情をしている。
　一�宸ﾍ二人の側に寄った。
「三樹殿、年長者に大声を出すのは無礼ですぞ」
「いや、失礼いたしました。塩川先生の言い分に、つい我を忘れてしまいました」
「どういう話をされていたのだ」
「尊皇攘夷を突き詰めたら、最後は詩人、絵師といえども筆を干戈(かんか)に持ち替えて戦うのは必定と私などは考えておりますが、塩川先生は違う考えをお持ちのようで……」
　一�宸ﾍ文麟に目をやった。文麟は黙していたが、しばらくして口を開いた。
「お二人は腕に覚えがあるでしょうが、私はいたって不調法でありますゆえ、刀を手にしても何の役にも立ちません。かえって足手まといになることは必定。それならば後方に控え、絵によって鼓舞するしかないと申したわけです」
「それは違いますぞ」と側に来た寅次郎が口を挟んだ。「女子供が刀を持っても、一見無力のように見えますが、相手にとっては恐いのです。それは戦う気、つまり集団で向かってくる迫力が見えるからです。先生も、今はそうおっしゃっていますが、いざとなったら、居ても立ってもいられなくなって刀を手にされると思いますよ」
　文麟は苦笑いをした。
「吉田殿はうまいことを言うな」と三樹三郎も感心し、とっくりを取り上げて寅次郎の杯に酒を注いだ。
　それから芸妓を呼んでの宴になり、お開きになったのは夜の四つ時も終わる頃だった。

　三樹三郎や梁川星巌の奔走も空しく、京の備蓄米の実現はならなかった。幕府の命を受けた所司代が、あらぬ騒ぎを言い立てて洛中を混乱させることはまかりならぬと抑え込んでしまったのだ。
　三樹三郎の落胆は激しく、幕府頼みでは攘夷は達成されないと口にし始めた。一�宸ﾍくれぐれも軽挙妄動は慎むべしと三樹三郎が過激に傾くのを抑えなければならなかった。

　勅命の屏風絵二点がようやく完成したのは、師走に入って半ばの頃だった。一�宸ﾍそれらの制作と並行して書き進めていた建白書を添えて、屏風絵を関白太政大臣鷹司政通の許に届けた。
　建白書の内容は、かねてからの主張である尊皇攘夷に加えて、薩摩藩の島津斉彬の養女を十三代将軍徳川家定に嫁がせようとしていることの非を説いていた。一�宸ﾌ考えは頼山陽譲りの天皇親政であり、朝廷の権威によって幕府や諸侯の武力を動かし、攘夷を図るというものであった。世に流れる公武合体論はとうてい受け入れられるものではなかった。
　屏風絵を納めて三日後、鷹司政通から呼び出しがかかった。邸に伺うと、この建白書は奏上できないから返却すると言われた。
「なぜでございますか」
「そちの言い分はもっともではあるが、ちと理に過ぎるのではないか」
「どこがでしょうか」
「それでは聞くが、幕府の権威はどうやって保たれていると思うか」
「天朝様が任命されているからでしょう」
「それは建前じゃ。諸国の大名が徳川に従うのは武力があるからじゃ。逆らえば武力によって鎮撫されてしまうと恐れるから、徳川のいうことを聞く。今の朝廷に徳川を上回る武力があるか」
　一�宸ﾍ押し黙った。そんなことを言えば、いつまで経っても天皇親政の道は開けないではないかと言いたかったが、では、どうすると尋ねられたら、確かに困る。
「攘夷を実行するにしても、あるいは鎖国を解いて国を開くにしても、これからは朝廷と幕府が一体となって政(まつりごと)を進めていかなければ、対応できないご時世になっておるのは、そちも江戸におったから分かるであろう。朝廷と幕府が別々の方向を向いていたら、それこそその隙を異国に突かれてしまう」
「関白殿下は開国をお望みでこざいますか」
　政通は虚を突かれたように口をつぐんだ。そしておもむろに、
「敵を知り、己を知れば、百戦危うからずという言葉もある。攘夷を実行するにしても敵を知らなければいけないということだ。敵を知った上で、和戦両様を模索するのは兵法の常道ではないのか」
　三樹三郎の言った通り、関白は開国を支持しているのかも知れぬと一�宸ﾍ思った。ただ、それを声高に唱えると自身の身が危ないとお考えなのだろう。
　いずれ私の意見に賛同される日が来るだろうと思いながら、一�宸ﾍ差し出された建白書を受け取った。

　年が明け、正月子の日の宴が無事すんで、帝や東宮たちの屏風絵に対する評判も上々だったと聞いて、一�宸ﾍほっと胸を撫で下ろした。
　そんな日も束の間、黒船が再び浦賀に現れたという知らせが長州藩を通してもたらされた。一年の猶予を約束したはずなのに半年でやって来るとは礼儀を知らない奴らだ、と一�宸ﾍ怒り心頭に発した。
　早速旅の用意をし、松庵と共に東海道を江戸に向かった。半月あまりで到着し、再び隅田川河畔の昔男精舎(せきなんしょうじゃ)に腰を落ち着けた。
　山本貞一郎に挨拶をしに行き、幕府の情勢を尋ねると、
「半年も早く来られたので、幕府内は上を下への大騒ぎです。もっとも半年延びたところで結論が出るというわけでもなさそうですが」
「それでも、約束が違うと突っぱねて、半年後に出直してこいと申し渡せばいかがか」
「わが水戸侯が老中なら、当然攘夷一本でまとまると思いますが、今の老中にそんな肚(はら)の据わった人物はおりません。黒船に大砲の一発もぶっ放されたら、へなへなと腰砕けになる御仁ばかり。私の見るところ、アメリカに押し切られて開国ということになるでしょう。費用を掛けて御台場を造っておりますが、形ばかりということはアメリカに見透かされているでしょう」
「御台場と言えば、建白した結果どうなりました」
「私の意見が効いたかどうか分かりませんが、その後しっかりとした築造に改められました」
「おお、それはよかったですな」
「しかし実際に夷船を打ち払う役に立たなければ、造った意味がありません」
　一�宸ﾍその夜遅くまで、貞一郎と国事を話し合った。
　福原隣春(ちかはる)と河原崎権十郎も一�宸ﾌ東下を喜び、再び昔男精舎に通い出した。
　松庵は馬木平内兵衛(へいないひょうえ)との約束通り、長州藩に組み入れられ、相州警備の一員として宮田村にある長州本営の寺に詰めることになった。
　松庵が去って三日後、一�宸ﾍ隣春を伴って再び黒船見学に出掛けた。権十郎は芝居の稽古があるので、今回は二人だけだった。前回に比べて緊迫感はなく、物見遊山の気分だった。
　江戸市中では黒船が九隻も集結しているという噂で持ちきりで、アメリカさんが本気で攻めてきたと家財道具をまとめて逃げ出す連中も大勢いたが、一方では、なあに奴らの狙いは蒸気船を動かす薪や水、食料が欲しいだけだから、無闇に攻めてくるもんかと一�宸ｽちと同様に黒船見物に向かう者もいた。
　去年と同じように保土ケ谷の宿で一泊し、そこで聞いた噂を元に同宿の者たちと金沢村の小柴に向かったが、竹柵が道を塞ぎ、槍や火縄銃を持った徒士たちに足止めされて、浜に近づくことさえできない。
　困っていると、村人の一人が警備されていない見物場所を教えてくれた。
　浜を迂回して、緩やかな丘を登っていくと、湾が一望できる場所にたどり着いた。すでに多くの連中が見物に来ており、沖の方にはマストを立てた黒船が何隻も浮かんでいる。
　重なって見にくい黒船を、マストの位置で区別しながら数えると、九隻だった。去年よりも数が多い。確かにこの数なら、アメリカが攻めてきたと考えるのも無理はない。
「お茶、いりませんかぁ」
　背後で女の声がした。振り返ると、屋台から、髪を桃割れに結った若い女が顔を覗かせている。一�宸ﾍ隣春に声を掛け、屋台に近づいて茶と饅頭を頼んだ。
　縁台に腰掛け、女の持ってきた饅頭を食べ、茶を飲みながら、沖に浮かぶ黒船を眺めていると、物々しい警備が嘘のような気分になってくる。「去年とは大違いですね」と隣春も呟いた。
見物人の中に遠眼鏡で覗いている男がいたので、頼んで貸してもらった。それで覗くと、黒船がぐっと近くに見え、甲板に白い服を着た男たちが何人も動いていた。黒船の側には小さな舟が付けており、甲板の白い男と舟の男が手を振りながら、何やらやり合っている。
　しばらく眺めて遠眼鏡を隣春に渡し、一�宸ﾍ縁台に戻った。手荷物から写生帖を取り出し、今見た光景を矢立の筆で描いていく。さらに遠景に見える黒船を写生し、去年と同じようにそれが転覆する絵も描いた。徐々に人が集まって来、波間に沈む黒船に喝采が起こった。
　一�宸ﾍ遠眼鏡を貸してくれた男に、黒船転覆図を進呈した。

　三月には日本とアメリカが条約を結んだ。黒船が日本に来て、薪とか水、食料を積んでもいいとか、漂流民の引き渡しとか、アメリカ人が下田の限られた地域に住んでもいいとかいう内容で、二百年来の鎖国が破られたのだが、この程度の譲歩は仕方がないと一�宸ﾍ考えていた。
　武力を背景にごり押しをされた不快感はあったが、アメリカを味方に付けて、エゲレスやオロシャなどの他の異国が攻め込んでくるのを防ぐという意味では、我が国が海防の力をつけるまでの時間稼ぎにはなる。
　馬木平内兵衛が、ペリーの黒船が江戸湾を去るまでは息子松庵を藩に留め置きたい旨を伝えに来た時、一�宸ｪ自分の考えを述べると、馬木も同意見だった。
「問題はこれから後のことなんです」と彼は言った。「アメリカはこの条約を足掛かりに、次は日本との貿易を要求しているのです。それを認めると西洋の優れた品々が大量に入って来て、我が国の富が異国に流れてしまう。清国のように阿片がもたらされる危険もあります。異国との貿易は今まで通り、長崎の一箇所だけで行うのが一番いいと思っております」
「それで幕府の意向はどのように……」
「多くは私と同じ意見ですが、中には積極的に異国と貿易をして、国を富ませるべきだと考える者もおるようです」
　その後、長州藩内の攘夷派と開国派の対立を話してくれたが、一�宸ﾍふと吉田寅次郎のことを思い出した。去年の十月に京で寅次郎に会ったことを話すと、馬木は細い目を見開いた。
「やはり長崎に向かったのか」
「死罪覚悟でオロシャの船に乗せてもらうとか言っておりましたな」
「それが失敗したことは確かです。今年の初めには江戸にいて、慶親(よしちか)侯に建白書を出しましたから」
「ひょっとしたら吉田殿はペリーの黒船に乗り込むつもりではあるまいか」
「我が藩でもそれを危惧している者がおります」
　それから十日ほど経って、一�宸ﾌ予感は当たった。馬木によって、吉田寅次郎が黒船への密航に失敗し、下田奉行所に自首、拘禁されたことがもたらされた。鎖国という国禁を破れば死刑が定めだが、ペリーが寛大な処置を申し出たとかいう噂もあって、死罪は免れそうな気配だった。アメリカと条約を結んでアメリカ人が日本に入ってきてもいいというご時世に、異国に渡ろうとしただけで死罪になるのは、どうみても片手落ちだと一�宸ﾍ思ったが、罰の軽重は役人の恣意によるので、どうなるのかは分からない。
　吉田寅次郎の処遇にやきもきしていた頃、京の御所が焼けたということで、市中の鳴り物が三日間禁止された。
　一�宸ﾍ驚いた。京の自宅は木屋町にあるので、御所からは近い。延焼した可能性もある。一�宸ﾍ北町奉行所に出向き、事情を説明して焼失の規模を教えてもらおうとしたが、奉行所でも詳しいことは分からないということだった。
　妻の花に手紙を書こうかどうか迷っているうちに、火事の詳細が徐々に伝わってきて、どうやら木屋町は大丈夫だということが分かってきた。大宮御所から火が出て、仙洞御所、禁裏御所に燃え移り、東寄りの風に乗って主に西側が類焼したらしい。
　半月ほど経って、花から手紙が届いた。家は無事で、焼けたのは北は今出川、南は下立売、西は千本木通まで、焼け出された大勢の人々が荷物を背負って逃げてくるのを見たと書かれてあった。続けて、御所再建の際には禁裏から絵の御用を賜るはずだと京の絵師たちの騒ぐ様子が綴ってあり、お前さまもこちらに帰ってきて、御所の絵を描いて下さいと結んであった。
　思えば、師・訥言も寛政期の御所再建の際には、常御殿南廂東方の杉戸に花鳥画二面を描いたのであり、今回それが失われたのは誠に残念ではあるが、自分が禁裏の御用を賜って絵を納めることができたなら、泉下の師の無念も少しは晴れるだろう。
　一�宸ﾍ京に帰ることを決意した。ただ、黒船が江戸湾に留まっている限り、松庵はお役を解かれることはないので、息子を放っておいて帰るわけにはいかない。それに注文を受けている絵も描かねばならないし、福島隣春と河原崎権十郎に対する教えも中途半端にならないようにしなければならない。
　御所再建が急に決まるわけではないのは明らかなので、こちらの都合がついた時、ただちに帰洛すれば間に合うだろうと一�宸ﾍ考えた。
　それで新規の絵の依頼は受けず、注文の絵の制作に精を出した。並行して、隣春と権十郎に自分がいなくなっても勉強できるように、その道筋をつけることに腐心した。

　六月に入って、黒船が江戸湾から去り、それからしばらくして松庵が長州藩から戻ってきた。彼にも手伝わせてすべての絵を仕上げ、隣春と権十郎、それに山本貞一郎も交えて別れの宴を開いた。
　席上、歌舞伎の話になり、実父が借金で苦しんでいると権十郎は打ち明けた。成田屋だけではなく音羽屋や成駒屋も借金で台所は火の車らしい。世上が不安だと町衆も芝居などという空事を楽しめないのだろうと一�宸ﾍ思う。いつか住吉弘貫(ひろつら)が言っていたことと同じだ。
「父は借金返済のために夏の休みも取らずに、名古屋で芝居をしております」と権十郎が言い、「それが終われば来月には大坂でも興行があり、兄の團十郎も行って舞台を務めることになっております。私は河原崎座の芝居稽古がこちらでありますゆえ、観に行けませんが、先生、お時間がございましたら是非父と兄の芝居を観に行ってやって下さい」と頭を下げた。
「是非とも行かせてもらいましょう」と一�宸ﾍ答えた。
　翌日、一�宸ﾆ松庵は東海道を使って帰洛の途についた。梅雨が明けてから猛暑が続き、歩くのも容易ではない。箱根は馬で越え、駕籠(かご)を使うことも度重なった。以前買い求めた葛飾北斎の富岳百景の浮世絵を目にして以来、夏の富士を見たいと思っていたので東海道を選んだのだが、こんなことなら涼しい中山道を行くべきであったかと後悔した。それでも富岳百景の構図そのままの富士を見つけると、しばし暑さを忘れることができた。
　江尻宿の手前で街道沿いに土葬にしては大きな土饅頭がいくつも目についた。通りがかりの人に尋ねると、馬を葬った跡だと言う。今年は例年より暑さが厳しいので荷馬には過酷らしい。駄馬は寒暑でも酷使されて一度倒れれば街道沿いにこうして埋められてしまう、憐れな境涯でございますと男は言った。
　そう思って見ていると、坂道をやってくる荷馬はどれも馬体を汗で光らせ、首を振りながらあえいでいる。馬子はそれでも馬の尻に鞭を入れ、おらおらと怒鳴っている。
　江尻宿の旅籠に投宿した一�宸ﾍ、すぐに半紙に馬頭観音の絵を描き始めた。馬の護符にするためである。二十枚ほどの出来たところで、松庵に馬子たちの泊まっている宿に持たせた。
　翌朝、宿を出ると、目の前に十頭ばかり馬が並び、馬子の一人が前に出てきた。
「絵師の先生でごぜえますか。この度は結構なもんをいただき、ありがとうごぜえます。お礼と言うたら何だに、次の府中まで馬を使ってやってくだせえ」
「馬に負担を掛けるのは忍びないので、荷物だけ載せてもらいましょうか」
　そう答えて、一�宸ﾆ松庵は振分荷物や鎧櫃(よろいびつ)を馬子に預けた。府中近くの坂道では、馬の背に体を預けたこともあったが。
　熱田宿から名古屋を通って中山道に向かい、美濃国鏡島村の上松家に立ち寄ってから京に戻った。
　花は猛暑の中、道中無事であったことを喜んでくれ、その日の夕食には鮒のなれ寿司に魚のすり身の天ぷら、豆腐の田楽に里芋と蓮根の煮物と皿が並び、晩酌に愛飲している「島臺(しまだい)」がついた。一�宸ﾍそれらを食べながら、黒船の様子を話して聞かせた。
　次の日、松庵と共に焼けた御所を見に行った。一条邸などの公家の屋敷も焼け落ち、無残な姿をさらしていた。御所の築地塀は黒く焼け焦げ、瓦も所々落ちていた。建礼門も焼け、ぽっかり空いた空間から中が見えた。紫宸殿の大屋根も落ち、もっと近づいて見ようとすると、長槍を持った見張り番の一人が「寄るでない」と大声を上げた。中では人足たちが燃え残った建物を壊して、黒ずんだ木材を運んでいた。
　天朝様がご無事だったのが何よりだと思いながら、一�宸ﾍ焼け跡に向かって両手を合わせた。
　烏丸通から西の町屋も広く焼けており、何かを拾っているのだろう、焼け跡をうろつく人々の姿が目立った。立て直しの普請はぽつんぽつんと目に付くだけで、後は手つかずのままだった。御所や公家の邸の再建が優先され、人足の数が足りないのだ。
　鷹司邸は南に位置していたので無事だった。そのことは幸いだったと花に告げると、どうして近火見舞いに行かなかったんどすかと責められた。
「いや、服装もきちんとしなければならないし、また、日を改めて……」
「それでは明日行っておくれやす」
「まあ、そう急がなくとも……」
「何言わはるんどすか。すぐにでも御所の再建が始まるんどすえ。絵の御用を賜るようにお願いしておかなくては」
　しかし一�宸ﾍ気が進まなかった。鷹司政通が攘夷よりも開国に傾いているのが気にくわないのだ。そのため江戸の情勢を伝える書状も、ペリーの再来航の時の様子を書き送ったのみで、後は何も送らなかった。
　それに、禁裏の御用にしても別に関白に頼らなくても自分の力量なら、黙っていても依頼が来ると自負していた。
　そういう思いがあって、花の言うことを聞き流していたが、数日経って花が恐い顔をして画室に現れた。一�宸ﾍ見ぬ振りをして古画の模写を続けた。
「お前さま」
　押し殺した声で言い、花が一�宸ﾌ前に正座をした。
「私が何度もお願いしているのに、どうして鷹司様にお伺いしてもらえないんどすか」
　一�宸ﾍ筆を置いて、ひとつ大きく息を吐いた。
「はっきり言って、儂は関白殿とこれ以上関わりを持ちたくないのだ」
「どうしてでございますか」
「あの方はどうやら開国を支持している。この前京に帰ってきた時、建白書を手渡そうとして突き返されたのは、お前も知っているだろう。お前には詳しいことは話さなかったが、儂の攘夷論が気にくわなかったのは間違いない。会えばその話で議論になり、かえって絵の御用に差し支えるかもしれん」
「それはおかしおす。お前さまが攘夷の信念をお持ちなら、堂々と鷹司様にお会いになって開国のお考えを変えさせるくらいでないと。宇喜多秀家の末裔なら、当然のことではおへんか」
　痛いところを突いてくる。妻にそこまで言われたら、拒否するわけにはいかない。次の日、一�宸ﾍ身なりを整えて鷹司邸に出向いた。
　高の間に坐り、側近を従えた鷹司政通に帰洛の挨拶をし、近火見舞いを述べた。
「幸い風向きがよかったので、ここは助かったが、帝をお救いするのが難儀であった……」
　衣冠束帯に太刀を佩き、御所に駆けつけて、帝を下鴨神社にお連れし、それから聖護院に移っていただいたと政通は言った。火の回りが早く、供の公家たちはまるで鷹に追われた兎のようであったと、その時の様子を語った。
　その話が一段落したところで、書状を一回しか出せなかったことを一�宸ﾍ詫びた。政通は「ご苦労であった」とひとこと言っただけで、後はそのことには触れず、勅命で描いた一�宸ﾌ屏風絵の評判が大層良いことを言い、推薦した自分も鼻が高いと付け加えた。
「御所の再建について今幕府と話し合っておるが、来年には始まるはずだ。その時には襖絵なども新調しなければならず、京洛の絵師たちの力を借りなければならない。一�專aも力を貸していただけるでしょうな」
「もちろんでございます」
「それでは修理職の中山殿に儂の方から、一�專aのことをよろしく伝えておきましょう」
　中山殿とは中山大納言忠能(ただやす)のことである。一�宸ﾍありがたき幸せと平伏した。
　いとまを告げ、腰を上げかけた時、「ところでこの前奏上してほしいと言ってきた建白書はまだ持っておるのか」と政通が言った。
「はい？」
「まだ捨てておらぬのなら、持ってきてほしい。余の一存で却下するのはよろしくないと思うのでな」
　一�宸ﾍ喜んでと頭を下げ、邸を出た。関白殿は開国から心変わりされたのかと訝しく思いながら、次の日建白書を持参し、不在だったので家人にそれを預けた。

　八月に入って、大坂で権十郎の言っていた芝居があるので楽しみにしていたが、八日になって松庵が「父上、大変でございます」と画室に飛び込んできた。手には半紙大の紙切れを持っている。
「團十郎さんが切腹されました」
「なに！」
　一�宸ﾍ松庵の持っていた瓦版をひったくった。
　墨一色で描かれた役者の絵が瓦版の下半分を占め、手に持った刀を腹に突き刺している。上には「團十郎切腹」の大きな文字が踊り、行年三二歳、嘉永七年甲寅年八月六日大坂笠屋町宿屋植久で自殺と続いている。父親である海老蔵の妾との折り合いが悪く、板挟みになってというのが理由らしいとあるが、権十郎からはそんな話は一切聞いたことがなかったので、どこまでが本当か分からない。
　一�宸ﾍ中村座で会った時の海老蔵と團十郎の様子を思い浮かべた。自分の跡取りが立派になって安心している父親の姿。その姿を思うと、今の海老蔵の心境が痛いほど思いやられた。
　江戸にこの知らせが届くのは、何日か後のことだろう。その時、権十郎は何を思うのか。河原崎家に養子に入った時から市川家とは縁が切れていると考えて、冷静に突き放して見るのだろうか。
　いや、そんなことはないだろうと一�宸ﾍ考えた。父親を前にした時の、俯いて何かに耐えているかのような表情の権十郎。歌舞伎を空事から有職故実に則った芝居に変えていきたいと意気込むのは、父親に認めてもらいたいからに違いない。
　何日か経って、團十郎切腹の別の理由が伝わってきた。名古屋の座元との行き違いがあり、大坂の興行が終わった後、どうしても名古屋で一芝居しなければならない羽目になってしまった。しかし九月には江戸で、市村座の芝居を打つことが決まっている。名古屋で芝居をすれば、江戸は間に合わない。その板挟みに苦しんで自刃したというのである。
　一�宸ﾍ権十郎に書状を送った。八代目團十郎の死を悼み、気落ちすることなく父親を支えていくようにと書き、「兄團十郎殿の死を無駄にしないためにも歌舞伎変革の意志を貫き、それを成し遂げるよう励んで欲しい。これは天から与えられた機会と捉えるべし」と結んだ。
　一月ほど経って、権十郎から返書が来た。書状の礼の後、父親のしょんぼりとした様子が綴られ、残った兄弟が力を合わせて支えていくと書かれていた。最後に、「心が乱れた時は墨を擦って先生の絵を模写しております。形を写すな、情を写せという先生の教えに従っていますと、不思議と心が落ち着いて参ります。再び江戸にお越しの節は、また先生の元に通いとうございます」とあった。

十二

　九月のある日、一�宸ﾌ家を訪(おとな)う者があった。出てみると、白い布の帽子(もうす)に薄墨の衣をまとった尼僧と作務衣を着た若者がいて、尼僧の方とは面識があった。香川景樹が存命の頃、歌会で何度か顔を合わせたことのある大田垣蓮月(れんげつ)だった。一�宸謔閧烽｢くつか年上で、若い頃、その美貌に惹かれ言い寄ってくる男たちを煩わしく思い、石で歯を折り、容貌を変えたと言われているが、目元の美しさは歌会で会った時と変わってはいない。
「おや、これは珍しい方がお出でだ」
「宇喜多先生、ご無沙汰しております」
　掠れ声でそう言うと、蓮月は右手に持った風呂敷包みに左手を添え、ゆるりと辞儀をした。柔和な目をした若者も蓮月に倣うように頭を下げた。
　二人を応接間に上げ、花が煎茶と虎屋の羊羹を持ってくると、蓮月は茶を一口飲み、その甘みを褒めた。
「お茶も羊羹ももらいものですから、遠慮せずにどうぞ」
　一�宸ｪ若者に勧めると、彼は蓮月をちらと見てから、竹楊枝で羊羹を口に運んだ。
「ところで、埴細工(はにざいく)の方はいかがですか」
　蓮月は作陶で収入を得ており、特に、自身の歌を釘で彫り込んだきびしょ（急須）が煎茶を好む人々の間で人気になっていた。
「おかげさまで素人作りの下手な物を、それがいいと喜んで下さる人がお出でですので、何とか糊口をしのいでおります」
「そうやって得たお金を、すべて人のために使われるとか。この前の飢饉の時に三十両ものお金を奉行所に出されたこと、私も感服いたしました」
　一�宸ｪ岐阜で大病を患っていた時、京では何年かぶりの飢饉があったのだ。花は心配をかけまいと看病の時にはそのことを一切口にしなかった。
「出家いたしました私にはお金の使い道がありませんので、飢饉はちょうどよい機会でした」
「いや、仏道に入っていない者も、少しは蓮月尼様を見習うべきですな」
　蓮月は少し微笑んでから、連れてきた若者を紹介した。
　富岡猷輔(ゆうすけ)といい、三条衣棚の法衣商の次男であるが、胎毒で難聴になったため、学問で身を立てさせようと三年前の十五の時から蓮月が預かっているということだった。王学（陽明学）を春日潜庵に学ばせ、梅田雲浜(うんぴん)から朱子学の講義も受けているという。
「ほほう、春日殿も梅田殿も攘夷を唱え、幕府批判の先頭に立つ方々なれば、富岡殿もその考えに共鳴されてということなのかな」
　猷輔は右耳をこちらに押し出すようにしてから、蓮月を見た。聞こえにくいのかと一�宸ｪもう一度言おうとした時、
「決してそういうことではありません」と蓮月が言った。「猷輔をゆくゆくは神官にしたいと考えておりますので、幅広く儒学を学ばせているのでございます」
「なるほど。それで我が方に見えられたのは、どういう訳ですかな。私も春日殿や梅田殿と同様に攘夷を信念としておりますよ」
「それはよく分かっておりますが、そのことは別にして、純粋に大和絵を学ばせたいと願っておるのでございます。猷輔はご覧の通り耳がよく聞こえませんので、書や画に没頭することを好みます。文人の嗜みとして、できればそちらの方面も伸ばしてあげようかと考えております。猷輔も色々な画法を身につけたいと申しておりますので」
　一�宸ﾌ質問に答えて、蓮月は明画の窪田雪鷹(せつよう)や南画の小田海僊(かいせん)の名前を挙げた。文人の嗜みといえども、その才を見なければ教えることも適わないので、一�宸ﾍ二人を画室に案内した。
　仕事の時に使っている円座に猷輔を坐らせ、前に一枚の紙と粉本を開いて置いた。臨写するのは入門希望者にいつも描かせる牡丹の白描画である。
　猷輔は墨を擦ると、細筆を取ってじっと粉本を睨み、それから一気呵成に臨写した。筆の運びは滑らかである。描いた物を見ると、粉本とは明らかに形が違っているが、牡丹のふわりとした華やかさをうまく写し取っている。
　一�宸ﾍその才に唸り、何度も首を縦に振った。為恭(ためちか)の時も驚いたが、猷輔の筆の運びは為恭の繊細な動きとは違って、ごつごつとした力強さがある。
　一�宸ﾍすぐに入門を認め、その前にと切り出した。
「私のところに入門する者には、すべからく考経を暗誦してもらわなくてはなりません。それができて初めて……」
「準備はできております」と蓮月が言った。「そのように聞いておりましたので、猷輔に暗記させました」
　蓮月が促すと、猷輔は姿勢を正し、「仲尼(ちゅうじ)居(きょ)し、曾子(そうし)侍(じ)す。子曰く……」と大きな声で諳んじ始めた。耳に響いて痛いほどである。一字一句間違えることなく暗誦し終えると、猷輔は両手を突いて深々と頭を下げた。
　蓮月が風呂敷包みを解いて、急須を取り出した。
「束脩(そくしゅう)の代わりといっては拙いものですが、どうぞお納め下さい」
　手捻りで素朴な造りながら、どこか軽やかな優美さがある。側面には独特の字体で歌が彫りつけてあり、
「さきそめし千代のむかしも行くすゑの秋のかきりも志ら菊のはな」
　と一�宸ﾍ声に出してその歌を読んだ。
「結構な物をいただきました。早速使わせていただきましょう」
「それで謝儀の方は如何ほど……」と蓮月が言い掛けると、
「才ある者を導くのは先達の務めですので、謝儀は不要です」
　と一�宸ﾍきっぱりと言った。
　次の日から早速富岡猷輔は用具を風呂敷に包んで、一�宸ﾌ元に通い始めた。粉本を模写させ、有職故実の疑問に答えるのだが、ついつい早口で話してしまう。大きな声で一語一語はっきりと発音することに慣れるまで、多少時間が掛かった。

　九月十八日の夕方、プチャーチンが率いるオロシャの軍艦が大坂天保山沖に現れたという噂が流れてきた。その日の朝に発見され、水兵が何人か上陸したのを大坂奉行所の役人が必死で制止して、船に戻したということだった。今のところは一隻だが、江戸の時のように次々とやって来て、艦隊になるのではないかと噂されていた。
　いよいよオロシャもアメリカと同様に武力で迫ってきたかと一�宸ﾍ考えた。ペリーと違って大坂に来たということは、幕府ではなく直接朝廷と談判しようということなのだろう。
　一�宸ﾍ夕飯時に松庵に明日大坂に向かうことを告げた。すると花が気色ばみ、
「お前さまは何を言わはるんどすか」
　と大声を上げた。それには構わず、「明日、通行手形をもらってこい」と一�宸ﾍ松庵に言った。
　花が茶碗と箸を膳に置いた。
「大坂で戦になるかもしれまへんのに、そんなとこにのこのこと出掛けていくやなんて……」
「馬鹿者！　戦になるから行くのではないか。オロシャの者どもが淀川を遡って京に攻めてきたらどうする。江戸と違ってここには天朝様がお出でになるのだ。天朝様をお守りするためにも、大坂で奴らを食い止めねばならぬのが分からんのか」
「分かりまへん。戦うのはお侍さんどす。お前さまは絵師ではおへんか」
「絵師も時と場合によっては、彩管を干戈(かんか)に持ち替えねばならぬのだ」
「そんな理屈、聞いたことがおへん」
「理屈ではない、本意だ」
　花は唇を尖らせた。
「吉田寅次郎という若者が言うておった。女子供が刀を持っても一見無力なように見えるが、敵から見たら戦う意志が何倍にもなって見えるとな。異国の脅威に晒されている今、我が国を守るには、そういう意志が必要なのだ」
　それでも花は不満そうな表情を緩めなかった。
　翌日、通行手形を手に入れて二人が大坂に向かったのは、昼前だった。松庵には江戸の時と同じように先祖伝来の鎧を着用させ、一�宸ﾍ脇差しを差した。
　市中には槍、鉄砲を持った大勢の徒士たちが右に左に行き来しており、大筒車をごろごろと引いている者もいる。彦根藩と思われる旗印を掲げ、白股引に紅殻染めの陣羽織を羽織った武士を見ると、一�宸ﾍ朝鮮征伐出陣の図を思い出した。二百五十年ほど前の出で立ちと全く変わらない姿は、実戦経験のない武士の象徴のように映って、滑稽なほどだった。
　伏見では三十石船が運行しており、船番所の番人の話によると、いつもの半分ほどしか客がいないということだった。
　船に乗り込むと、さすがに松庵の鎧姿は目立った。先客たちは端っこに移動し、こちらを見て何やら隣同士で囁いている。一�宸ﾍ船の真ん中に腰を下ろし、腕を組んで目をつむった。
　枚方辺りで流れが緩やかになり、煮売船(にうりぶね)が何艘も近づいてきた。船頭が「食らわんか」と怒鳴りながら、三十石船の縁に鍵爪をかけて引き寄せた。一�宸ﾆ松庵はその声を無視し、花の作ってくれた握り飯を食べて腹ごしらえをした。
　天満八軒家の船着き場に着いたのは、暮れ六つ時だった。石段を登って往来に出たが、京と違って徒士たちの姿が見えない。旅姿や荷を運ぶ者ばかりである。それに、以前来た時はもっと町人たちが行き交っていて大混雑していた記憶があるが、今日は閑散としている。
　不思議に思いながら、目に付いた船宿に入った。番頭が松庵を見、一�宸ﾌ脇差しに目をやった。
「お侍はんでっか」
「いや、禁裏御用の絵師で、京から参った」
「オロシャの船に御用でっか」
「どういう船が来ているのか絵にしなければならないのだ。この夏には江戸に来た黒船も絵にしたことがある」
「それはそれは」と番頭は深々と頭を下げた。
「京では槍や鉄砲を担いだ徒士がうろうろしていたのだが、こっちでは見掛けないな。町人たちも少ないのは暮れ六つのせいなのか」
「お役人らはみんな天保山ですわ。町の者(もん)は戦が始まる言うて逃げ出したもんと、オロシャの船を見物に行ったもんに別れてしもて、商売上がったりですわ」
　番頭は呆れた顔をしたが、深刻な様子はない。むしろどことなく楽しんでいる風情である。
　一�宸ﾍ一泊を頼んで、松庵と一緒に宿に上がった。客が少なく、大部屋に一�宸ｽちだけだった。
　次の日、早朝に船宿を出ると、番頭に書いてもらった地図を頼りに天保山に向かった。
町中は江戸の時と同じように荷車に家財道具を積み、子供の手を引いて逃げていく家族連れの姿も見られたが、そんなに多くはない。それより一�宸ｽちの進む方向に行く者が多い。
　一時あまり歩くと、緑の木々に覆われたこんもりとした天保山が見え始め、次第に人々で道が混んできた。町人風情ばかりではなく、十徳姿の医者らしき者や山伏姿の者もいる。安治川河口が見え、オロシャの船はどこだと目を凝らすと、天保山の陰から舳先が見えている。
　進んでいくと、天保山に渡る橋が柵で塞がれており、槍を持った徒士がにらみを利かせている。後ろから押された町人がたたらを踏んで近づくと、「ここから先は入っちゃいかん」と徒士が大声を上げた。
　群衆は船をもっと近くで見ようと右に動き、一�宸ｽちもそれについていき、小高い丘に来た。人々に分け入って前に出ると、ようやく船の全貌が見えた。浦賀の時より余程近くに見える。
　三本の帆柱が立ち、船縁は白、黒、赤の三段に塗り分けられている。外輪がないので、蒸気船ではないようだ。旗印は白黒で、まさしくオロシャを示している。右舷には短艇がくくりつけられてあり、その綱を点検している船員の身長から見て、海面から甲板までの高さは三間（５．４５ｍ）ほどか。全長は三〇間近くはあるだろう。それにしても巨大な船である。一�宸ﾍ江戸で黒船を見たことがあるので驚きはしないが、大坂の町人たちは指をさしながら、口々に何か言い合っている。
　一�宸ﾍ沖に目をやったが、オロシャの船はこの一隻だけだった。武力を見せつけに来たわけではないのか、そう思うと拍子抜けがした。役人たちが騒ぐほどのことではないのでは、と一�宸ﾍ思った。ひょっとしたら天朝様に表敬に来たのかもしれん。
　天保山の麓には奉行所の与力たちや諸藩の留守居の兵たちが家紋の入った幕を張って陣を構え、鉄砲や槍をこれ見よがしに立てている。安治川の河口を数珠繋ぎにされた何艘もの小舟が塞いでおり、向こう側の岸には尼崎藩の陣幕が張られ、こちらと同様に武器を飾り立てている。
　一�宸ﾍおもむろに懐から写生帖を取り出し、矢立の筆で目の前の情景を写し始めた。
　真ん中にオロシャの船、左手に天保山、右手に安治川の河口、その近くに一本の大樹と幕張を描き、「尼ヶ崎ノ陣、閑静場、無能無患」と書き入れた。更に右端上部に「蝦夷(えみし)よりなにはのみつへみつぎ船おどろく人はあらじとぞ思ふ」と歌を入れた。たった一隻の黒船に慌てふためく役人たちを皮肉ったのだ。転覆図を描かなかったのは、オロシャに敵意なしと見て取ったからだった。

　天保山から帰って数日後、富岡猷輔(ゆうすけ)が通ってきた。オロシャの船を見に行ってきたことを話すと、是非自分も見に行きたいと言う。それで早速次の日、二人だけで再び大阪に向かった。
　天保山は前回以上の人出で、茶店や天ぷら屋などの屋台が出ていた。奉行所が江戸表に処遇のお伺いを立てているという噂が流れ、それが決まるまではオロシャも静かにしていると皆が思っているのだろう。江戸の時のように大筒の空砲をぶっ放すわけでもないので、恐さを感じない。
「どうだ。大きな船だろう」
　一�宸ﾍ猷輔の耳元で、大声を出した。
「驚きました。こんな船が淀川を遡ってきたら、京の町は大騒動になります」
　猷輔も大声で返す。
「その心配は無用だ。底がつかえて淀川には入れん。仮に入れたとしても、蒸気船と違って帆船だから遡るのは難しいだろう」
「ジョウキセン？」
「聞いたことがないか。エゲレスで発明された蒸気の力で動かす船のことだ。風がなくても進む。百頭の馬と同等の力が出るらしい」
「先生はよくご存じですね」
「攘夷を行うには、まず敵の力を知らなければならない。それが兵法の常道というもの。猷輔も儒学を学び、様々な画法を学ぶのは何のためかということを考えなくてはいかん。目の前のあの船を見ていたら、自ずと分かってくるだろう」
　猷輔が懐から取り出した写生帖に、オロシャの船を描き始めた。一�宸ﾆ違って、太めの筆でぐいぐいと描いていく。天保山もどこか山水画ふうの切り立った形にしていく。面白いと思いながら、一�宸ﾍ猷輔の筆の動きを見ていた。
　大坂から帰った次の日、大田垣蓮月が一人で訪ねてきた。何事かと思いながら、一�宸ﾍ応接間で相対した。蓮月は富岡猷輔の指導に対する礼を述べてから、
「猷輔から聞きました。お二人でオロシャの船を見に行かれたそうですね」
「ええ。こんな機会は滅多にありませんからね」
「今後そうしたことは止めていただきとうございます」
「そうしたことというのは？」
「猷輔を危険な目に遭わせることです」
　何だ、そんなことかと一�宸ﾍ笑みを浮かべた。
「京では尾ひれがついて、今にもオロシャが攻めてくるような噂が流れましたが、実際に見に行けば、そんなことはないと分かります。決して危険なことはありませんでしたよ」
「私が申しておりますのは、実際に危険かどうかを問題にしているのではございません。猷輔はまだ学問途上の身。学が成る前に命を落とすような行為は慎むべきと考えております」
「つまり、危険と思われる行為をさせないように、ということですかな」
「その通りでございます」
「蓮月殿は、今我が国が異国の脅威に晒されていることをどうお思いか」
「大変憂慮する事態だと思っております」
「それならば、たとえ学問の途上であってもそれに立ち向かうことは必要ではあるまいか」
「立ち向かうとは、武力を持って戦うという意味でございますか」
「そうです」
「私はそうは思いません」
「何と……」
　一�宸ﾍ意表を突かれて、思わず蓮月の顔をまじまじと見た。白い帽子(もうす)の下、目尻に皺はあるが、澄んだ瞳がこちらを見据えている。
「仏道に身を置く者として、殺生を認めるわけにはまいりません」
「それでは、敵がこちらを殺しに来たら、如何なさるおつもりか」
　蓮月は目を閉じ、一呼吸置いてから再び目を開けると、「老子の言葉にこういうものがございます」と静かに言った。
「天下に水より柔弱(じゅうじゃく)なるは莫(な)し。而(しか)も堅強(けんきよう)を攻むる者、これに能(よ)く勝る莫し。その以(も)ってこれを易(か)うるもの無きを以ってなり。弱の強に勝ち、柔の剛に勝つは、天下知らざる莫きも、能く行なう莫し。……」
「つまり、我が国は異国の脅威に、水の如く対処せよとおっしゃるのか」
「その通りでございます」
「殺されても奪われても、ひたすら耐えろとおっしゃるのか」
「耐えるのではございません。水のように形を変えて脅威を包み込んでしまうのです」
「……それはちと理に勝ちすぎているのではありますまいか。実際の所、包み込もうとしても蹴散らされてしまうのがオチでは」
「水の如くというのは戦うよりも遥かに難しいことでございます。勇気のいることでございます。しかしそれに徹すれば、柔よく剛を制するのでございます」
　蓮月の言わんとしていることは、一�宸ﾉも分からないではない。しかし清国の惨状を耳にし、黒船の威力を目の前にすると、蓮月の言うような肝の据わった態度を取るのは難しい。
「これ以上話しても水掛け論になるがゆえ、この話はここで収めましょう。蓮月殿のご心配ももっともですので、これからは猷輔殿を攘夷に引き込むような真似は慎むことにいたします」
「ありがたいことでございます」
　蓮月が両手をついて、深々と頭を下げた。

　十一月半ばに、美濃国鏡島村の上松次郎右衛門重益から正月をこちらで迎えませんかという書状が届いた。夏にお出でいただいた時は、絵を描いてもらえませんでしたので、今度は是非にとあった。
　松庵は長州藩の御用で、正月は藩邸に詰めなければならないので、一�宸ﾍ猷輔に声を掛けた。遊歴して絵を描くのも修行になると言うと、猷輔は快く随行を引き受けてくれた。前のことがあるので、一�宸ﾍ蓮月の許可をもらい、下旬に京を出発した。
　四日で上松家に着き、次の日は近在の富家を集めての宴会になった。席画を所望された時、一�宸ﾌ大和絵に対して猷輔が南画を描いたので、皆は不思議に思ったようだった。
　一�宸ｪ理由を説明しても納得した顔は少なかったが、大和絵にはない筆致は列席者たちを喜ばせた。
　いつものように一�宸ｪ清元を披露すると、
「遊歴するには、そのような芸を身につけなければならないのですか」
　と猷輔が驚いた顔で聞いてきた。
「清元は儂が好きで習っておるだけで、別に遊歴のためにしているわけではない。ただ、こういう遊びを身につけていると、人との付き合いが親密になるのは確かじゃ。どうだ、猷輔も何か芸を身につけるか」
「いや、私は耳が悪いゆえ、音曲は苦手でございます」
　依頼画の制作が一段落したところで上松重益が、ちょっと長良川を渡ってお茶屋で遊びましょうかと言ってきた。
　河渡宿の茶屋に呼ぶ遊女は旅籠の飯盛女も兼ねていて、歌も踊りも洗練されていないが、その素朴さが却って新鮮だった。一�宸ﾍ酒を呑んでは、自分で三味線を弾き、清元を唸り、尻からげをしておけさ踊りを踊った。謡うのは無理にしても踊りなら見様見真似でできるだろうと猷輔を引っ張り込み、女たちと一緒に手振り足振りで座敷をぐるぐると回った。
　遊女と遊んだ後何日かして右脚の付け根に腫れ物ができ始めた。本覚寺で伏せった時と同じ症状である。もし放置して前回と同様にひどくなれば上松家に迷惑が掛かる。体の動かせるうちに京に帰った方がいいと判断して、一�宸ﾍ重益に事情を話した。
　重益は大いに驚き、自分が誘ったせいで申し訳ないとばかり、路銀を出してくれた。一�宸ﾍ固持したが、どうしてもと言うことで受け取り、猷輔と一緒に京に戻った。
　正月前に帰ってきた一�宸�見て、花は驚いたが、一�宸ｪ訳を説明すると、途端に呆れた顔になった。
「この前、死にそうな目に遭うたことを忘れたんどすか。そういつもいつも神仏のご加護があると思うたら大間違いどすえ。御所の仕事も出来ないうちに死んでしもうても、私は知りまへんから」
　一�宸ﾉは返す言葉もなかった。
　早めに医者の診察を受け、塗り薬を塗ったが、腫れはひどくなるばかりである。
　心配なのは猷輔にも同じ病が出ないかということで、異変があればすぐに医者に掛かるようにと忠告した。
　痛みで伏せっている時、蓮月から書状が届いた。一�宸ﾌ病の平癒を祈願しているという言葉の後に、大和絵よりもやはり南画に力を入れさせるため、猷輔の絵の習い先を変えることにしたとあった。
　攘夷よりも病が恐いということかとおかしかったが、母親代わりの蓮月にしたら、無理もないことだろう。一�宸ﾍ痛みに耐えながら返書を認めた。その中で、情を写すのなら人との交わりを避けてはいけない、耳が悪いのなら尚更ですと書いた。半分、自分への言い訳だった。
　医者を替えても一向によくならず、平癒したのは二月になってからだった。
「これでちょっとは懲りましたやろ」と花は蒲団を上げた。

十三

　仕事が出来るようになって、まず取り組んだのは、祇園神社の神楽所に描かれている訥言の若松図の修復だった。冷泉為恭(れいぜいためちか)が応挙の鶏図を見に行った時、同所に描かれていた若松図に心を奪われて、訥言に私淑するようになったといういわくつきの絵である。
　訥言が寄進したものなので、その修復に神社から費用をいただくわけにはいかない。かといって総金張りの絵の修復費用をすべてこちらが持つ余裕もない。
　一�宸ﾍ上松重益に寄付金の依頼をして、それが届くまで、どうやって修復するかを考えることにした。
　そんな頃、突然冷泉為恭が訪れてきた。立烏帽子、狩衣姿で、衣装には詳しくない一�宸ﾉも上等な生地であることが分かる。
「こんなあばら屋にお越しとは、どういう風の吹き回しですかな」
　面と向かうのは春日権現験記絵巻の模写が終わって以来、十年振りである。東山展観などでは観に来ている為恭の姿を目にすることはあっても、お互い近づこうとはしなかった。
「ご病気で伏せっておいでだとお聞きしたものですから、お見舞いに」
「この通り平癒しましたので、ご安心を」
　一�宸ﾍ為恭を応接間に通した。。
「先月、式部少丞(しきぶのしょうじょう)に出世されたとか、おめでとうございます」
　一�宸ﾍ見舞いに来た絵師たちが噂していた話を持ち出した。朝廷の中で年中の儀式、六位以下の文官の考課、選叙などを行うのが式部省で、八省の中でも重要な役所の一つである。式部少丞は式部省第三番目の官職なのだ。
「これで昇殿も適います」
　御所の清涼殿に昇るなどとは、庶民から見ればまさに雲の上の人である。
「まさに殿上人(てんじょうびと)ですな。これからは岡田殿とお呼びした方がよろしいかな」
「冷泉はいろいろと差し障りがございますゆえ、そのように願えれば……」
　為恭が朝廷での出世を望んで、百万遍に住んでいた蔵人所衆岡田出羽守の養子になったことはよく知られていた。出羽守に世継がなかったことを幸いに、五十両の大金でその株を買ったのである。その後、有職故実の確かさと優れた画力でもって、順調に官位を上げていた。
「ところで、法然上人伝の模写は完成されたのか」
「はい、一昨年にようやく収めることができました。丸九年掛かりました」
「一本でも大変なのに、同時に三本とはよく決意されましたな」
　法然上人伝は四十八巻の絵巻である。
「私一人の力ではとてもできませんでした。弟子たちのおかげです」
　最近観た為恭の絵には、蔵人所衆正六位下行式部省少丞菅原朝臣為恭という落款を使っている。菅原とは岡田家の遠祖が菅原道真に当たるかららしい。そんな長々と自分の官位や出自のはっきりしない名前を書き連ねる行為に鼻持ちならない出世欲を感じてしまうが、古画の模写に対する熱意がそれを補って余りあるので、一�宸ﾆしては憎めないのだ。
　話は御所再建のことになり、為恭は重要な御殿の障壁画を任されることは確実な口振りだった。
「いずれ土佐や狩野に話があると思いますが、私の方から宇喜多先生にご依頼が来るように口添えをいたしましょうか」
　為恭の真意が奈辺にあるのか、一�宸ﾉはよく分からない。
「いや、そのご配慮は無用に願いたい。絵師はその画力で選ばれるものですからな」
「これは失礼をいたしました」
　為恭は頭を下げ、「ところで、宇喜多先生は祇園神社の田中先生の若松図を修復されるとお聞きしましたが」と言い出した。
「さよう。年始に神人(じにん)よりご依頼がありましてな。病が癒えてようやくそれに取り掛かろうと思っておるところです」
「宇喜多先生、それを私に任せてはいただけないでしょうか」
「どういうことですかな」
「以前お話ししたことがあると思いますが、祇園神社の若松図は、そもそも私が田中先生を師と仰ぐようになったきっかけの絵。その絵が破損したと聞いて、修復するのは私しかいないと思っているのでございます」
　なるほどこのことを頼みに来たのかと一�宸ﾍ納得した。
「お気持ちはお察しするが、田中先生の絵を修復するのは第一等の弟子である私の務めです。第三者にそれを譲ったとなると、末代までの恥になります」
　為恭の顔が険しくなった。
「私を第三者とおっしゃるのか。田中先生の画跡を追い続け、先生の写した伴大納言絵詞を肌身離さず持ち歩いている私を」
　そう言うと、為恭は狩衣の前を開け、首に掛けた紐を引っ張りあげた。単衣(ひとえ)の襟元から緞子(どんす)の細長い袋が現れた。
　為恭は袋の口を広げると、中から巻物を取りだし、巻緒を解いてそれを広げて見せた。
　ひと目で、訥言の写したものだと分かった。土佐家にあったものに違いない。昔、五十両という値段を提示されて断念したと聞いていたが、それをついに手に入れたのか。そのことを尋ねるのも癪なので、一�宸ﾍ黙って絵詞を眺めた。
「この絵詞を何度も写しました。田中先生が模写した古刹の絵も写しました。それでも私を第三者だとおっしゃるのか」
「師に直接教えを受けていない者を第三者と言ったまでのこと」
「それは生まれた時代が違っただけのことではありますまいか。私は光琳に対する抱一と同じだと思っております」
　尾形光琳が死んで約五十年後に生まれた酒井抱一が光琳の画風を再興したのは、よく知られた事実だった。
「為恭殿の志は泉下で田中先生もお喜びでしょう。だが、今回の件は私がやります。それが務めですから」
「私に任せていただければ、後世までも田中先生の業績を称える立派な絵に仕上げて見せます」
　そちらでは金を掛けられないだろうと暗に言っているのは分かったが、一�宸ﾍ知らん顔をして、
「何と言われようと、これは私の仕事ですからな」
「是非にとお願いしてもですか」
「その通り」
　為恭は深い溜息をつくと伴大納言絵詞を巻き戻し、袋に入れた。それを懐に戻し、狩衣の前を正してから、お邪魔いたしましたと立ち上がった。
　帰りがけ、立派な修復を願っておりますと言って去って行った。
　半月ほど経って重益から寄付金の件承知したという書状が届いた。一�宸ﾍ手元に残っている数多くの訥言の下絵や自身が模写した訥言の絵を参考に、破損部分の入念な下絵を作り、金箔も最上等を使い、時間を掛けて若松図の修復を行った。為恭が必ず結果を観に来ると考えると、ほんの少しも手を抜くことはできなかった。
　一ヵ月近く掛かった修復作業が終わって祇園神社に納めると、神官たちは絵が生き返ったと喜んでくれた。一�寰ｩ身も満足できる出来映えだった。

　三月には訥言の三十三回忌が待っていた。今回は二十五回忌の時のように仏画を描くような施行は行わず、若松図の修復をその代わりとした。
　高島千春や渡辺清も供物料を送ってくれ、訥言ゆかりの者に声を掛けて回忌を執り行った。為恭にも案内を出したが、姿を見せなかった。
　十八日には御所再建のための木造始(こづくりはじめ)の地曳が行われ、それに合わせるように一�宸ﾍ造営奉行に意見書を提出した。
　この前の寛政年間における御所新造営では、四方の外垣のうち、鬼門に当たる東北隅と裏鬼門の西南隅、それに辰巳の東南隅の三方が鍵の手形状に欠けていたのだ。一�宸ﾍこれが不祥であったため、今回の火災を招いたと考えていた。それでこの度の新造営では鍵形をなくし、ちゃんとした方形にすべし、と。
　しばらくして奉行所から、一�宸ﾌ意見はもっともなので取り入れるとの通達を受けた時、これで安心して絵を納めることが出来ると喜んだ。
絵師の願書受付が始まり、一�宸ﾍ息子松庵と共に申し込んだ。画会とか詩筵(しえん)で絵師たちが集まると、話は御所の仕事のことで持ちきりになり、二百人もの人間が申し込んだらしいと噂が流れた。一�宸ﾍそれを聞いて首を捻った。どう考えても京洛に二百人も絵師はいない。せいぜい六十人ほどだ。江戸からも絵師が来るのかもしれないと思ったが、一�宸ﾍ自分が落ちるとはこれっぽっちも考えてはいない。
　果たして、二ヵ月後の六月に修理職奉行から使者が来て、御所の仕事を申し渡された。一�宸ﾍ西対屋上段の襖障子に、劉向(りゅうきょう)の著した列女伝の中から取った画題を描くこと、松庵は准后御殿の東廂北側の杉戸に花鳥図を描くことになった。
　西対屋には上段の間が五つあり、それぞれの部屋を一人の絵師が担当することになった。早速、五人のうちの一人竹内重勝の家に集まり、おのおのが何を描くかを話し合った。その結果、竹内重勝が周太姜、重重盛が周太任、柏友篤が周太?、吉村孝一が齋桓衛妃、一�宸ﾍ周宣姜后(しゅうせんきょうこう)に決まった。
　周宣姜后は列女伝の中の賢明伝の巻に出てくる宣王の后で、徳が高く礼に適わない行いはしないという女性である。
　宣王がある時、朝遅くまで寝ていて朝廷の仕事に遅れてしまうことがあった。それに対して姜后は、「宣王を起こさなかったのは私の罪。王が淫にふけって徳を忘れてしまったかのような噂が流れてしまいました。そんな噂が広まると、人々も奢り、欲を極めようとしてしまいます。これは乱の起こる元になってしまいます。乱が起これば私のせいですから、そうなる前にどうか私を罰していただきますよう」と申し出た。
　それを聞いて宣王は自分の行いを深く恥じ、朝早く起きて仕事に励み、周の再興を果たしたのだ。
　そこに一�宸ﾍ薩摩藩の行っている画策の批判を込めた。島津斉彬が養女篤姫を十三代将軍徳川家定に嫁がせ、次期将軍に慶喜を擁立するための後ろ楯にしようとしているのが許せなかった。后は徳と礼をもって王に尽くすのが本分で、次の王のことを考えて今の王をないがしろにする行為などもってのほかだ。朝廷はけっして薩摩藩のような見苦しい真似はなさいませんようにという思いだった。
　その後、採用された絵師の数が九十五人と分かり、一�宸烽ｻの名簿を見せてもらった。江戸からの絵師は一人もおらず、すべて京洛の絵師である。数のからくりはすぐに分かった。名の知れた絵師たちが年端もいかぬ自分の子供を弟子として加えているのだ。
　一�宸ﾍ今度は修理職奉行に意見書を出した。
　丸く描くことも出来ない子供にまで御用を与えるのはおかしい。一旦すべての採用を取り消し、願書を出した者の画力を実際に見て決めるべし。そうしなければ百代先まで恥をさらすことになりますぞ。
　それに対する返事は来なかった。その代わり、絵師たちの間で「一�宸ﾍやかまし者」という噂が流れた。
　一�宸ﾍ帆山唯念(ゆいねん)を桑名から呼ぶことにした。松庵は自分の絵を描かなくてはならないし、一�寤齔lで十六面の襖絵を一ヵ月半ほどで仕上げるのは並大抵ではない。その手伝いとして、腕の確かな助手が必要だった。そこには本当の弟子とはどういう者か見せてやるという思いもあった。
　手紙で御所の絵を手伝ってほしいと書くと、すぐに、喜んで参りますと返事が来た。
　その翌日には唯念が旅装姿で玄関に現れたので、一�宸ﾍびっくりした。十年振りに見る顔はすっかり大人のそれになっており、自信の漲っているのが感じられた。
「書状を出してすぐに発たれたのか」
「はい。こんな機会は二度とございませんので」
「寺の仕事は大丈夫なのか」
「父に無理を言って任せてきました」
　応接間で、唯念からこの十年間の画業を聞いた。三十を過ぎて、ようやく絵の依頼がぽつぽつと入るようになり、伊勢のあちこちに遊歴することも増えているという。
「僧侶と画業の両立は大変だとは思うが、やっていけるのか」
「どちらも天職と心得ておりますので、命の続く限り……」
「それなら何も言うことはない」
　次の日から早速、周宣姜后図の下絵作りに取り掛かった。列女伝の著者である劉向は二千年も前の前漢の人なので、本来ならその当時の文献を当たって有職故実を確かなものにすべきなのだが、いかんせん我が国にはそういう資料がない。ただ、列女伝から取られた画題で描かれた絵が多くあるので、それらを参考に、他の四人の絵師たちとも話し合って、建物や調度品、衣装、髪形などを統一した。
　それが決まると、まず半紙大の紙をつなぎ合わせて小さな下絵を描く。それを修理奉行の元に持ち込んで、お伺いを立て、これでよいということになったら、襖十六枚分の紙に実物大の大下絵を描く。それを襖に写して本絵を描くという手順だった。
　唯念の助けもあって、納期までに絵が仕上がった。松庵も杉戸の南面に松と錦鶴、北面に芍薬に虻を極彩色で描いた。親のひいき目かも知れないが、これまでの修練が実った優れた絵だった。
　真新しい白木の匂いの立ちこめる中、御所で襖障子のはめ込みに立ち会った一�宸ﾍ、師訥言の十三回忌の時に香川景樹の詠んだ歌をふいに思い出した。
　今そしる畫はそらごとなりというめるは雲井にのこる名こそありけり
「唯念、どうだ、こうして自分の描いた絵が内裏に残ることは」
「私は先生のお手伝いをしたまでのこと、自分の絵などとはとんでもない」
「そう言うな。お前の筆が入っているのは確かだ。御所に納める絵に落款を入れることができないというのは、力を合わせて良い物を作れということなのだ。だからここに儂と力を合わせて描いた絵があるということは誇っていい」
「ありがたく存じます」
　西対屋を出て唐御門から外に向かおうとした時、直衣(のうし)に立烏帽子を被った数人の男たちが家人を引き連れて入って来た。どこの公家かと思っていたら、その中に岡田為恭の姿があった。目が合うと、為恭が近寄って来た。浅沓を履いている。
　為恭が伯父の狩野永岳と共に小御所に襖絵を描くことになっているのは知っていた。
「宇喜多先生も納めの立ち会いに来られたのですか」
「さよう。先程済ませてきました」
「ところで、先日、祇園神社の若松図を拝見いたしましたが、さすがは田中先生の第一等の弟子たる者の仕事は違うと感心いたしました。ただ、私ならもう少し色を重ねて、鮮やかに描くかなと思いました」
「淡彩は先生の教えですから、それを歪めるわけには参りませんな」
　為恭は目を伏せ、しばらく口をつぐんでから、
「どうです、私の絵をご覧になりますか。そうしたら私の言うことの真意が分かっていただけると思いますが」
　そう言われると、嫌だとは言えない。一�宸ﾆ唯念は為恭の後をついていった。
　車寄せから中に上がり、長い廊下を真っ直ぐに行って、小御所の北廂に入った。右手に襖が六枚はまっており、群青の棚引きが目に入った。
「これが私の描いた絵です」為恭が胸を張って紹介した。
　右側の二枚は清涼殿十月の更衣の場面であり、掃部寮(かもんりょう)たちが御帳台の装飾、畳や燈篭などを模様替えしている様子が描かれている。
　真ん中の二枚は稲株の残る水田に氷が張って寒々しく光っている情景である。
　残る左側の二枚は殿上人が供の者を連れて鷹狩りに向かう図である。
　公家の衣装や松の緑、栗毛など色を塗り重ねてはっきりとした色使いになっている。それにもまして鮮やかなのは群青の棚引きだった。水の色と同じにして、画面全体を華やかにしている。確かに美しい絵で人目を惹くだろうが、一�宸ﾍその派手さが気に入らない。色使いがいいと誰もが引きつけられるが、それは下手をすると俗眼に媚びていることにもなりかねない。
「さすがは狩野のご子息だけのことはありますな。これだけの群青を集めるのは、さぞかし大変だったでしょう」
　上質な群青の岩絵具は高価である。一�宸ﾍそれをふんだんに使ったことに感心して見せたが、為恭は不満そうな表情を見せた。
「群青だけに注目されるのは心外です。色をはっきりと塗ることの重要さを見ていただきたい」
「絵は形を写すのではなく、情を写すものだというのが先生の教えですからな。色の薄い濃いは関係ないのではありますまいか」
「濃く見えるものを濃く描いて、何の不都合がありましょうか」
「濃く見えたからといって、濃く描く必要もないのでは。絵師の心に映った色を描く。それは絵師一人一人によって違うと思っておりますが、いかがですかな」
「しかし、絵は絵師以外の者が観て初めて成り立つもの。ここで言えば、殿上人の心を癒やすことが求められていると思いますが」
「色使いの濃いのを殿上人が求めているということですかな」
「さようです」
「唯念、そちはどう思う」
　一�宸ｩら声を掛けられて、唯念は襖絵に再び目を向けた。
「私には難しい話は分かりかねますが、為恭様の絵が美しく、ひと目で惹きつけられることは確かでございます。ただ、このような公の場所なら気分が高揚してふさわしいかと存じますが、普段の場所だったら、私なら、もう少し色を控えた絵が好みでございます」
　その時、左端の襖が開いて、薄い縹(はなだ)色の直衣を着た狩野永岳が姿を見せた。
「何やら声が聞こえると思ったら、宇喜多殿ではありませんか。どうしました。為恭が何か無理を申しておりましたか」
「いやいや、為恭殿の絵を見せていただいて、絵師の心得について少しばかり話し合ったまでのこと。お耳触りでございましたら、お詫び申し上げます」
「そうでしたか。それならどうです、私の絵をご覧いただけますかな」
　一�宸ﾆ唯念は永岳に促されて、上段の間に入った。真新しい青畳と檜の香りがない交ぜになって、何とも言えずいい匂いがする。狩野家の家人たちが部屋の中程に集まっており、一�宸�見て軽く頭を下げる者もいた。
　上段と中段を仕切る襖は閉められているが、東廂の襖が開けられて、そこから外の光が入って来る。絵は、東側の正月の図、梅の花から始まって南に吉野の桜、西にキリギリスが飛び、葛が秋風になびき、北に松竹に雪の積もっている図となり、四季の光景が描かれていた。注目すべきはやはり群青の棚引きで、すべての襖に取り入れられている。どうやら小御所の襖絵をそれで統一しようとしているようだ。
　為恭が群青を使ったのは、本意ではなかったのかもしれんと一�宸ﾍ思った。

　その夜、次の日に桑名に帰る唯念とささやかな宴を持った。松庵と三人で花の作った料理を肴に「島臺」を呑んだ。
　話が岡田為恭の絵になった時、唯念がぽつりと言った。
「あの方は何を目指して絵をお描きになっているのでしょう」
「私や田中先生と同じく、古画の復活であろう」
「それなら別に内裏に地位を求める必要はないのではないでしょうか」
「儂が思うに、為恭は絵の中だけに復活を求めるのに飽き足らず、実生活でも同様の暮らしをしたいと望んでいるのだろう。そうすることがさらに自分の絵をよくする道だと考えているに違いない」
「そうでしょうか。私には何やら砂上の楼閣で遊んでいるような危うさを感じます。天賦の才は疑うべくもありませんが」
「唯念にはそう見えるか」
「はい。私には仏道というものがあって、幸いかもしれないと思いました」
「よう言うた。父上にも聞かせてあげたい言葉よな」
　唯念は苦笑いをして剃髪の頭をひと撫でした。

　九月に入って、頼梨影が床に伏せっているという話が耳に入ってきた。一�宸ﾍただちに富小路御池下ルにある彼女の家に駆けつけた。女中に案内されて中に上がると、梨影の寝ている部屋には三樹三郎と若い娘がいた。
「梨影殿のご容体はいかがですかな」
「先生、わざわざお越しいただいてありがとうございます」と三樹三郎が言った。
　梨影が目を開けた。頬がやせて顎が尖り、乱れた鬢には白髪が目立った。彼女が起き上がろうとするのを、「そのままに」と一�宸ﾍ手で制した。
「こんな無様な姿を晒して面目のないことでございます」
　声が掠れている。
「長年の疲れが今出てきておるのでしょう。ゆっくりと養生されることです」
「ありがとうございます」
　一�宸ﾍ三樹三郎の後ろに控えている娘に目をやった。目鼻立ちのはっきりとした器量よしである。三樹三郎の結婚相手であろうとは思ったが、この場でそのことを尋ねるのはどうかと思ったので黙っていた。
　それを察したのか、三樹三郎が座り直して後ろを向いた。
「この人は今度祝言をあげようと思っている娘さんです。丹波篠山の八木という医家の娘で、こちらに来て母の面倒を看てもらっています」
「君子と申します。お見知りおき下さいますよう」
　娘は指先を畳に付けて丁寧に頭を下げた。
「宇喜多一�宸ﾆ申します。三樹殿の父上には若い頃からずっとお世話になりましてな」
「先生は禁裏御用の絵師をされておってな。今度の御所再建では西対屋に襖絵を描かれたのだ」
　三樹三郎がそう言うと、娘は「そうでしたの」と驚いた顔をした。
　それからしばらく新御所の建物と絵の話が続いた。
「宇喜多先生」と梨影の声が聞こえた。「少しよろしおすか」
「こりゃいかん。病人を放っておいた」と言って、一�宸ﾍ枕元に近づいた。
「お話ししたいことがございます」
「何でしょう」
「三樹三郎、君子はんと席を外してちょうだいな」
　二人が部屋を出て行くのを見届けると、梨影は「私はもう長くはございません」と言った。弱々しい声だった。
「そんなことを言うものではありません。病は気持ちの持ちよう一つですぞ」
「心の臓が悲鳴を上げているのが分かるのでございます。そこで先生にお願いがございまして」
「何なりと」
「私の心配はただ一つ。三樹三郎のことでございます。近頃はますます公儀に楯を突く言動が増えておりまして、このままではいずれ大変な目に遭うのではと恐れております。私がいなくなれば、それこそ何をしでかすか。それを思うと、死んでも死にきれないのでございます。私がいなくなった後、どうかあの子の後見をして下さいまし。無茶な行動を諫めて下さいまし」
「分かりました。お心に添うようにいたしましょう」
「ああ、よかった」
　梨影はほっとしたように目を閉じた。
「三樹殿も嫁を迎えられることだし、そう無茶なことはしないでしょう」
「そうであればうれしおすけど、君子はんを悲しませるようなことをしそうな気もいたします」
　一�宸ﾍ心配せずに養生するように言って、その場を辞した。
　梨影が亡くなったのは、それから五日後のことだった。早朝に知らせがあり、朝食もそこそこに一�宸ﾍ松庵を伴って、梨影の家に急いだ。
　家に着いた時には、すでに大勢の人々が詰めかけていた。塾生と思われる若者が多い。一�宸ﾍ人々を掻き分け、梨影の横たわっている褥の側まで行った。支峰と三樹三郎、それに君子が枕元に坐っていた。
「先生、母が……」と三樹三郎が言った。目を赤く腫らしている。
「まさか、こんなに急とは……」
　そう言いながら、一�宸ﾍ利影の顔に被せてある白布をめくった。先日の見舞いの時と同様にやつれてはいたが、穏やかな表情だった。一�宸ﾍ合掌して南無妙法蓮華経と口の中で唱えた。
　梨影の最後の様子を聞いてから、一�宸ﾍ三樹三郎を別室に連れて行った。そこで、梨影の言葉を伝えた。
「最後まで母に心配をお掛けしたこと、私の不徳の致すところでございます。私も妻を娶って一家をなすつもりでおりますので、若い頃のように突っ走るような真似は致しません」
「それを聞いて安心した。梨影殿も安らかに成仏されることでしょう」

　　　十四

　安政三年（一八五六）の正月、一�宸ﾍ木屋町三条上ル大坂町に引越をした。一昨年の六月に伊賀で地震があり、続いて十一月には駿河で二日連続の大地震があった。駿府城や掛川城も倒壊し、大津波が浜を襲って多くの人々が溺れ死んだという。京でもそこそこの揺れがあり、一�宸ﾌ借家は立て付けが悪いのか、ひょっとしたら倒れるのではないかと思うほどだった。
　それでも引越はためらっていたが、去年の十月に江戸で大地震が起こり、そのことが一�宸ﾌ背中を押した。その時は前ほど揺れはしなかったが、江戸で大勢の人間が圧死したという話を聞いて恐くなったのだ。
　鴨川沿いに何軒か借家を見て回り、そのうちの一軒に決めた。賃料は高くなったが、前の家と同じくらいの広さがあり、何より前よりも大きい十坪ほどの庭のついているのが一�宸�喜ばせた。
　引っ越したのは寒さが一段と厳しくなった日で、夕方には雪が降り、庭を白く染めた。一�宸ﾍその風情を大いに気に入り、白雪齋という号を思いついた。さらに調子に乗って、知人に配った引越案内には「陽春白雪齋記」として、蘇東坡(そとうば)の司馬温公独楽園を気取った漢詩を載せた。もとより十坪の庭は独楽園の規模には到底及ばないが、「観山臨水、撫松灌花、盤桓??(ばんかんしょうよう) 、明月時至、清風自來」という心境に遊ぶことは十分にできた。
　案内を配って数日後、三樹三郎が梁川星巌(やながわせいがん)と梅田雲浜(うんぴん)を伴ってやって来た。
「先生の独楽園を見に来ましたぞ」と言って、三樹三郎は手に持った酒瓶を差し上げた。
　一�宸ﾍ三人を家に上げ、花に酒肴を用意させた。
　寒さが緩んで庭の雪もすべて溶け去ってしまい、雪見酒とはいかなかったが、梅の木に蕾みが二つ、三つほころんでいる様が春を感じさせた。南天の赤い実も鮮やかだった。
　熱燗の温かさが身体から逃げないうちに、四人は室内に戻った。一�宸ﾍ画室から紙と筆箱を持ってきて、梅と南天をさっと描いた。それに三樹三郎が賛を入れる。梁川星巌は白雪齋の庭を独楽園に見立てる漢詩を書いた。
　詩筵の遊びが終わると、四人の話題は自然と国事になった。
　アメリカと和親条約を結ばされたせいで、エゲレスともオロシャとも同様の条約を結ばざるを得なくなった。次に諸国は日本との通商を求めて来ている。清国から富を略奪したように我が国に海外からの産物を高く売りつけるに違いない。それを拒否すると、やつらは武力でもって脅しを掛けてくる。今の幕府にそれに対抗する武力はない。
「かと言って、唯々諾々とやつらの言い分を聞いていては、いずれこの大八洲(おおやしま)を異国に蹂躙されるのは必定。たとえ武力に劣っていても民草が一丸となって戦えば道は開ける」
　と梁川星巌が言った。
「まさにおっしゃる通りだ」と一�宸ﾍ大きく頷いた。
「ただ戦うにしても」と梅田雲浜が口を開いた。「今のように各藩がばらばらに武器を調達していては一丸となるわけには参りません。幕府と各藩が一致協力して、異国に対抗できる武力を作らなければなりません」
「今の幕府にそんなことができますか」と三樹三郎が聞いた。雲浜は三樹三郎の方に膝を乗り出すと、
「そこで今こそ、お父上のおっしゃっていた天皇親政という考え方が重みを持ってくるのです。征夷大将軍といえども天皇が我が国の舵取りを任せたに過ぎない。それを取り上げ、天皇の許に各藩の優秀な人材を集めるのです。そうして我が国を一つにして、攘夷を断行するのです」
「公武合体をせよと言われるのか」と三樹三郎。
「いや、公武合体は徳川の延命策に他なりません。ましてや今、薩摩が画策している篤姫の輿入れは、島津斉彬の私心です。あわよくば薩摩が幕府の後ろ楯になろうとしているに過ぎない。公武合体は形ばかりです」
　形ばかりというのは、篤姫を公家である右大臣近衛忠煕(ただひろ)の養女にしてから徳川家定に嫁がせようとしていることを指している。
　一�宸ﾍ雲浜の、歯に衣着せぬ言い方に胸のすく思いがした。

　雲浜の言葉がずっと頭に残り、そのことで一�宸ﾍ一つの絵の着想を得た。
　篤姫輿入れの諷刺である。西対屋に描いた周宣姜后(しゅうせんきょうこう)では、その意図が弱すぎた。今度は、巷で流行している異形図を描いて、徹底的に幕府と薩摩の画策を批判してやろうと考えた。
　思いついたのは狐の嫁入りだった。かつては権勢を誇ったが、今では没落しかけている武家のところに、これまた傾き掛けた武家から嫁が入ることになるが、それが最後には蹴散らされるという話で、人物をすべて狐にし、それらの化け物が朝日が昇った途端に消えてなくなる絵巻にする。朝日に天皇のご威光をなぞらえるのである。
　一�宸ﾍ早速以前書き写していた春日権現験記絵巻の模写を引っ張り出した。この模写があったから着想したとも言える。さらに鳥獣戯画の模写から狐の様々な動きを使うことにし、「百鬼夜行絵巻」や師訥言の「異形賀茂祭図」も参考にした。
　その絵巻を「婚怪草紙絵巻」と名付け、下絵に取り掛かった頃、建仁寺の塔頭(たっちゅう)・久昌院から襖絵の依頼が舞い込んだ。傷んだ客殿を修復し襖を白張りに替えたので、そこに長篠合戦図を描いて欲しいというのである。久昌院は慶長十三年に、美濃国加納城主であった奥平美作守信昌が檀越(だんおつ)となって創立され、奥平家の菩提寺になっている。
　奥平信昌は武田氏から徳川家康に寝返った武将で、彼が長篠城城主になったことに怒った武田勝頼が長篠城を包囲したことから、長篠の合戦が起こるのである。
　信長、家康の援軍がなければ城が陥落するので、信昌は鳥居強右衛門勝商(すねえもんかつあき)という足軽を伝令に使わした。鳥居勝商は岡�ｱの信長から援軍の約束を取り付け、その知らせを持って長篠に帰ってくるのだが、運悪く城外で武田勢に捕まってしまう。武田勝頼は「援軍は来ないから降伏せよ」と伝えたら、武田の家臣として召し抱えると持ち掛けた。鳥居勝商はそれを承諾したように見せ掛けて、城の堀端まで連れて来られた時、「すぐに援軍が来るので頑張られよ」と味方に向って叫んだという。鳥居勝商はただちに磔の刑にされてしまった。しかし、勝商のあっぱれな忠誠心に、敵も味方も称賛を送ったのだ。
　依頼を受けた時、一�宸ﾍこの鳥居勝商を描きたいと思ったが、今まで観たことのある長篠合戦図のように戦いを事細かに描いていては、一人の人物が目立たなくなってしまう。かといって鳥居勝商だけを描いたのでは何のことか分からないし、合戦図を描いて欲しいという久昌院の意向にも背くことになる。
　一�宸ﾍ久昌院に出向き、客殿上間後室に入ってみた。八畳ほどの部屋で、襖絵六面、床の間の壁貼付絵四面の大画面である。部屋の真ん中に腰を下ろし、何度か坐る向きを変えて、じっくりと画面構成を練った。
　半時近くそうしていると、鳥居勝商を中心に絵巻物のように人物を配置しようという考えが閃いた。ただし鳥居勝商は足軽なので、他の侍大将と同じような大きさで描くと、却っておかしくなってしまう。襖の一面一面に、奥平信昌や武田信綱などの主だった武将をはっきりと描き、鳥居勝商は伝令に出るため長篠城の堀を泳いでいる姿を小さく描くことにした。下半身は水の中なので上半身しか見えない。一枚の襖にそれだけを描く。観る者は何が描いてあるのかと目を近づけるだろう。そしてそれが援軍を求めて堀を泳いでいる鳥居勝商だと分かって、この部屋全体に描かれている合戦図の意味を知るという仕掛けである。
　一�宸ﾍこの閃きに興奮し、足早に家に帰ると、婚怪草紙絵巻の作業を中断して合戦図の下絵作りに取り掛かった。手持ちの武者絵だけでは有職故実がはっきりしないので、戦国の世の合戦図を所蔵している寺や武家屋敷に出向いては模写をし、一ヵ月ほどかかって下絵を作った。
　それを元に松庵に手伝わせて本絵を完成させたのは、六月も終わりのことだった。床の間の壁に絵を貼り付け、絵の描かれた襖を順番通りにはめ込む。出来上がった全体の絵を観た久昌院の住職は一見して、不思議そうな表情をした。
「これが合戦図でございますか」
「さようです」と一�宸ﾍ答えた。
「それにしては静かな印象に思えますが……」
「供養として描きましたので」
　住職がゆっくりと一つ一つの絵を観ていく。そして鳥居勝商の場面に来た時、顔を近づけ、しばらくして一�宸ﾌ方に振り返った。目で問い掛けている。一�宸ﾍ大きく頷いた。なるほどと住職は呟いた。
　一通り見て回ると、住職は一�宸ﾌ側に来て、「鳥居勝商ですな。先生の、供養とおっしゃる意味がよく分かりました」と笑顔になった。

　一�宸ﾍ再び婚怪草紙絵巻の制作に取り組み始めた。右大臣近衛忠煕(ただひろ)の養女になった篤姫に、朝廷から徳川家定への縁組の同意書がすでに出ているという話は流れていたが、実際の婚礼までに絵巻を完成させて朝廷に献上し、一矢を報いたいという思いで、彼は作画に没頭した。
　しかし十一月になって篤姫が江戸城に入城し、輿入れの儀が行われたという情報が伝わってきて、一�宸ﾍ体から力が抜けてしまった。しばらくは何もする気が起こらず、島原に足を運んで芸妓と遊び、清元を唸って憂さを晴らした。
　見かねた花が「一度取り組んだ絵を途中で投げ出すやなんて、画院寄人の名がすたります。訥言先生なら決してそんなことはしやはれへんかったはず」と苦言を呈したので、一�宸ﾍ再び筆を取った。
　自分に鞭を打ちながら、紙本一巻、五段よりなる絵巻の作画部分が完成したのは、年が明けて二月のことだった。本来ならそこに詞(ことば) を入れなければならないのだが、婚礼が成ってしまった今、どんな詞を書いても空しく感じられ、手が付かなかった。花は「詞はいずれ別の人に書いてもらいまひょ」と言って、そのことを咎めなかった。

　篤姫輿入れに対する悶々とした気持ちがまだ尾を引いていた頃、三樹三郎から、公武合体を推し進める薩摩藩に抗議しませんかという誘いを受けた。四月になれば島津斉彬の参勤交代があるので、その行列が伏見の薩摩藩邸に滞在した時、梁川星巌殿と一緒に行こうと言う。
「島津侯にお目通りは叶うのか」
「いや、直接お会いするのは難しいと思いますが、側に仕える西郷吉兵衛とか申す者が梁川先生と懇意なので、その者を通して島津侯に抗議の意思を伝えてもらおうと思っております」
　その時は婚怪草紙絵巻を持参して島津侯に進呈しようと一�宸ﾍ決めた。詞を入れて批判の意図を明確にすることも考えたが、そこまでせずとも絵を観れば分かるはずとあえてそのままにしておいた。ただ、巻物をそのまま渡すのは相手に対して失礼だし、絵巻自身にも申し訳が立たないので、指物師に頼んで立派な桐箱を作らせた。まだ完成していないので絵巻には落款を入れず、箱蓋の表に「婚怪草詞(こんかいそうし)」、裏に一�尓Mと墨書した。
　四月半ばに三樹三郎が迎えに来た。一�宸ﾍ絵巻の入った桐箱を風呂敷に包み、それを松庵に持たせ、一緒に表に出た。
「それは？」と三樹三郎が風呂敷包みに目をやった。
「斉彬侯へのお土産です」一�宸ﾍ悪戯っぽく笑って見せた。
　西郷吉兵衛が梁川星巌の家まで出向くということなので、川端通丸太町上ルにある鴨沂(おうき)小隠に向かった。頼山陽の住んでいた山紫水明処の、鴨川を挟んでちょうど向かいにある。
　玄関を入ると、星巌の妻である紅蘭が出迎えてくれた。星巌より十五歳も年下だが、すでに五十路は超えている。それでも平安美人を思わせる引目鉤鼻の美しさは保っている。彼女の案内で、三人は二階に上がった。鴨川が眼下に見渡せる部屋には、梁川星巌の他に梅田雲浜(うんぴん)と池内大学がいた。
「先生がお出でとは知りませんでした」と松庵が大学の前に坐って頭を下げた。
「梅田殿から話を伺って、私も是非にとお願いしたのだよ」
　松庵は京にいる時は大学の許に通っており、一�宸ﾍ息子が世話になっている礼を述べた。
「松庵殿には教えることはもう何もないのですが、塾頭格で来てもらっています。ですから世話になっているのはむしろ私の方でして……」
「滅相もない」と松庵があわてて首を振った。「まだまだ先生には教えていただきたいことが山ほどございます」
　ほどなく紅蘭の案内で、大柄の武士が入ってきた。六尺はあろうかと思われる長身で、がっしりとした体躯である。眉が太く、ぎょろりとした眼には威圧感がある。これが西郷吉兵衛とか申す薩摩藩士かと一�宸ﾍ男を見上げた。
「遅くなり申した」
　西郷吉兵衛は一礼すると腰に差した大小の刀を抜いた。それを星巌が預り、床の間の刀掛けに掛けた。
　吉兵衛は下座に着こうとしたが、星巌が上座を勧めた。「若輩でごわすから」と辞退する吉兵衛と押し問答があったが、結局彼は上座に腰を下ろした。
　星巌が一�宸ｽちを西郷に紹介する。一�宸ﾍ持参した風呂敷包みを解き、桐箱を西郷の前に差し出した。
「どうぞ、これを島津斉彬侯にお渡し下さい」
「何でごわすか」
「絵巻物です。これは斉彬侯にこそふさわしいと思っておりますので」
　西郷はじっと桐箱を見つめ、おもむろに蓋を開けた。それを裏返し、一�宸ﾌ落款に目をやってから、絵巻を取り上げた。巻緒を解く。一�宸ﾆ松庵を除く一堂の眼が絵巻に注がれた。西郷が絵巻を広げると、色鮮やかな一段目の絵が現れ、おおっと声が上がった。
　じっと絵を観ていた星巌が「これは狐の嫁入りですかな」と言った。
「そうです」
「絵巻にしては詞が入っていないようだが……」
「どういう詞を書こうかと迷っておりましたが、いっそのこと何も書かずに絵を観た人の想像に任そうかと……」
「いやあ、先生、なかなか面白い」と三樹三郎が笑いを含んだ声で言った。「近頃はやりの異形図の趣向で世を諷刺していらっしゃる。これが斉彬侯への土産だったとは」
「これはしたり」と感嘆した声を出したのは梅田雲浜だった。「斉彬侯の推し進める公武合体に対する我らの異議が端的に表されている。それも優雅に。宇喜多先生はまさに憂国の絵師であられるな」
　西郷は顔色ひとつ変えずに、最後の五段目の絵まで観ると、ゆっくりと絵巻を巻き戻した。そして巻緒を再び結び、桐箱に仕舞うと蓋をした。
「コンカイソウシ」と西郷が呟いた。
「是非これを斉彬侯に」と一�宸ﾍ両手をついて頭を下げた。
「これは受け取るわけには参らないでごわす。薩摩が持つよりも天朝様が持つべきかと」
「我らの異議を聞き入れないとおっしゃるのか」と三樹三郎が片膝を乗り出し、星巌がそれをたしなめた。
「ここは話し合いの場。まずは西郷殿の話を聞こうではないか」
　西郷は桐箱を一�宸ﾌ元に返してから、
「梁川先生を始め、皆様方は我が藩主のお考えを誤解されているようでごわす。確かに篤姫様のご降嫁の経緯を見るに、我が藩が外戚になって幕府を牛耳ろうとしているように思われるんは無理もなかろうごたっが、斉彬侯に私心はござらん。斉彬侯のご心配は何よりも夷狄(いてき)から日本を守ることでごわす。そのためには幕府と朝廷が一体になって事に当たる必要がごわす。ただ一体になると申してもそれ相応の人物が将軍にならなくては強い日本にはなり申さん。今の徳川で将軍の器になる人物といえば一橋慶喜侯を置いて他にありもはん。斉彬侯はそうお考えになって、今回の降嫁を図られた訳でごわす」
「慶喜侯がそんなに立派な人物ならば、正々堂々と主張して将軍職に推せばいいではないですか。どうして大奥のような裏から手を回すような手段を取られるのか」と大学が詰め寄った。
　西郷は眉根を寄せて二、三度頷いてから、
「先生のおっしゃることは正論でごわす。しかし現実は正論だけで動かすことは難しいのも事実。目的達成のためには手段を選べないこともままあることでごわす」
「薩摩は徳川に取って代わろうという気はないのですか」と三樹三郎。
「それはどういう意味でごわすか」
「公武合体などという姑息な手段ではなく、倒幕をして天皇親政の新しい日本を造るという意味です」
「倒幕となると徳川方と戦いになり申す。日本の中で二つの勢力が互いの力を弱め合うような真似をしたら、それこそ夷狄の思う壺でごわす。アメリカやオロシャが日本を分捕ろうと乗り込んで来ましょう。斉彬侯が恐れているのはそのことでごわす」
「ということは、薩摩はあくまでも徳川を立てて幕府と朝廷を一体化させて、難局を乗り切ろうというお考えですか」
「その通りでごわす」
「斉彬侯の思惑通りに行きますかな」と星巌が口を開いた。「公武合体をして日本を一つにすると言っても、朝廷は室町以降五百年間政(まつりごと)から遠ざかり、治世の能力に欠けておることは誰の目から見ても明らかでござろう。しからば、そんな朝廷と一体になると申しても、結局は徳川の治世であることには変わりがない。そうは思われませんかな」
「先生は天皇親政を否定なさるおつもりか」と三樹三郎が気色ばんだ。
「いやそうではない。私は現実を見ておるのだ。現実を見れば公武合体はまやかしであることは誰にでも分かると申しておるのだ」
「では、先生は日本をどのようにすべきとお考えでごわすか」
「簡単です。天皇を頭に戴いて、その下に全国の有為の人材を集めて治世をするのです」
「徳川幕府を倒せということでごわすか」
「結果的にそういうことになりますかな」
「じゃっどん、そうなると先程申したように内乱が起こって、夷狄に侵略される恐れがあり申そうが……」
「徳川に征夷大将軍の職を返上させれば、戦わずとも天皇親政への道は開けるのではござらんか」
　西郷がうーんと唸って考え込んだ。
「まさに梁川先生のおっしゃる通り」と梅田雲浜が言った。「西郷殿、薩摩は雄藩ではござらぬか。公武合体ではなく、徳川に働きかけて天皇親政への道を説くのが日本を一つにする唯一の方法だとは思われぬか」
　西郷は目を閉じて黙している。座がしんとなった。
　しばらくして西郷はぐっと目を見開き、
「皆様のお考えはよく分かり申した。斉彬侯に伝えまする。首尾よく一橋慶喜侯が将軍職に就かれました暁には、この国の形をどうするか、斉彬侯にも十分考えていただくように進言いたすでごわす」
　若輩にもかかわらず、この男が口にすると、それが確かに行われると思ってしまうのが不思議だった。斉彬侯が側に置いているのが分かる。一�宸ﾍ、薩摩藩、侮るべからずという気持ちにさせられた。
　結局、婚怪草紙絵巻は薩摩藩にも朝廷にも献上されることなく、一�宸ﾌ手元に止め置かれることになった。

　一�寤ﾈ外の京洛の絵師たちにとっても、尊皇攘夷は他人事ではいられなかった。天朝様のお膝元であるという意識が自ずと尊皇に近づき、ペリー来航の話やプチャーチンの大坂来航騒ぎで気持ちは攘夷に傾いている。宮中の絵所預である土佐派はいうに及ばず、円山応挙の流れを汲む四条派の絵師たちも花鳥風月の絵で市井の人々の目を楽しませるばかりではなく、児島高徳や楠木正成などの忠臣の絵を描くご時世だった。
　そんなある日、画会で会った塩川文麟から、一�宸ﾍ岡田為恭の噂を聞いた。
　駿府・岡�ｱにある大樹寺から、二年前に失火で焼失して、ようやく再建された大方丈と本堂の障壁画を依頼されたという。大樹寺は知恩院の末寺であり、知恩院とは法然上人絵伝の模写などで深い繋がりのある為恭に白羽の矢が立ったのである。問題は、大樹寺が徳川家の菩提寺だということだった。
「この時期に徳川ゆかりの寺の障壁画を引き受けるとは一体何を考えていると、もっぱらの評判ですぞ。中には、京洛の絵師の風上にも置けんと息巻く者もいる始末。どうして断らなかったのか、私も解せません」
「いや、彼にとっては政(まつりごと)と仕事は別だということでしょう。優れた絵を描くことに敵も味方もないという思いが強いのでは。その気持ちは分からないではないが、人は世の流れと無縁では生きておれぬことも知るべしでしょう」
「あの者は田中訥言先生の生まれ変わりを自称していると聞き及びますが、先生に成り代わって一�專aから、何か諫めるようなことをおっしゃってもいいのでは」
「私の弟子ならば、そういうこともいたしましょうが……」と苦笑交じりに答えて、一�宸ﾍ後の言葉を濁した。
　それから半月後、狩野家に繋がる有力な絵師が突然亡くなって、一�宸ﾍ葬儀に参列した。そこに岡田為恭もいた。墨染めの束帯姿で纓(えい)を垂らした冠を被っている。
「宇喜多先生、ご無沙汰しております」と為恭が声を掛けてきた。一�宸ﾍ亡くなった絵師にまつわる話をし、関白直廬領(じきろあずかり)での仕事ぶりを尋ねた。
「いやあ、前例を踏襲しなければならず、なかなか大変です」と言って、為恭は仕事の内容を滔々と話してくれる。それを聞いているうちに、一�宸ﾍふと疑問に思った。為恭の話が終わると、
「ご公務に熱心なのはいいことでござるが、朝廷に仕える者として徳川の菩提寺の障壁画を描くことに、周りから何も言われなかったのですかな」
　為恭の顔が急に険しくなった。
「それはどういう意味でしょうか」
「いや、今のご時世、とかく朝廷と幕府の間で、ぎくしゃくした問題が起こっておりますからな。そういう時に引き受けて、あらぬ誤解を招くよりも、幕府の御用絵師に任された方がよいのでは、と思っただけです。そういう忠告をする者がいなかったのですかな」
「私は絵師ですから、依頼があれば、どんな絵も描きます」
「私のように無位無冠の者ならいざ知らず、蔵人としての立場がおありなのだから、そう簡単に割り切ることができますかな」
「私が大樹寺の絵を引き受けることで、朝廷と幕府の仲を取り持てたら幸いでございます」
「おや、為恭殿は公武合体のお考えか。やはり関白殿のお側に仕える者はそうでなければならないのですかな」
　今の関白である九条尚忠(ひさただ)は公武合体の推進者なのだ。為恭は意表を突かれたような顔になった。
「……いや、私は取り立ててそういう考えは持っておりません。先生に問われたので、私の願望を述べたまで」
「為恭殿が、絵は絵、政は政、と生きる世界をくっきりと分けたい気持ちは分からないではないが、人は必ずしもそうは見てくれませんからな。十分に注意した方がよろしいですぞ」
「ご忠告、感謝致します」
　そう言って、為恭は深々と頭を下げた。

　九月になって、大樹寺の障壁画が完成したらしく、京にもその絵の評判が伝わってきた。短期間で百数十面もの絵を描き、そのどれもが優れた技倆を示しているという。京洛の絵師の中には、やっかみ半分に、為恭は徳川に魂を売ったと吐き捨てる者もいた。

十五

　年が明けて安政五年（一八五八）になった。
　すぐ近くにある長州藩京屋敷で催された年始の会に招かれた時、幕府がアメリカとの通商条約締結やむなしと肚(はら)を括っていると知らされた。諸大名が江戸城に集められ、その旨の呈示があったという。
　いよいよ来たかと一�宸ﾍ思った。アメリカの元々の狙いは我が国と貿易をすることであり、異国の文物を売り込むことが狙いなのだ。その時、エゲレスが清との貿易の決済に阿片を使おうとして戦争を起こしたように、アメリカも無理難題を吹っかけて、我が国を支配しようとするかもしれない。もしそんなことになれば、武力に劣る我が国はアメリカの膝下に屈し、一千年以上続いた天朝様のご威光も消えてしまうかもしれない。
　こうした条約は何としても締結させてはならじと思っていたところへ、三樹三郎が有力な情報を持ってきた。
　幕府は条約締結に先立って勅許を得ることに決め、老中を京に派遣するというのだ。
「先生、条約を阻止するために公家に働きかけて、勅許を出させないようにしましょう」
　三樹三郎の提案に一も二もなく賛成した一�宸ﾍ、まず鷹司政通に会うことにした。政通は二年前に関白の職を辞して、今は今上天皇より特別に与えられた太閤の称号を名乗っている。以前は開国の考えだったが、若手の公家達の説得もあって、尊皇攘夷に鞍替えしたとのもっぱらの評判だった。九条尚忠に対抗するにはうってつけの人物と言えた。さらに言えば、政通の正室は徳川斉昭の姉なので、斉昭の攘夷論を十分に理解していると考えられた。
　お目通りを願う書状を出して、指定された日時に三樹三郎と共に出掛けた。御所南にある鷹司邸に出向くのは、近火見舞いの時以来四年振りだった。
　家人に案内され、下段の間に控えていると、政通が付け人を従えて上段の間に入ってきた。一�宸ﾆ三樹三郎は平伏した。
「近こう寄れ」直々の声がした。二人は膝行して上段に上がり、高の間の手前で再び平伏した。
「そちたちが参ったのはどういう訳か、おおよそのことは分かっておるぞ」
　一�宸ﾍお目通りを許された御礼を述べてから、「太閤様にそうおっしゃっていただけると話が早ようございます」と面を上げて答えた。
「此度のアメリカとの通商条約は国を危うくする元でございます。清国の例を見ても明らかなように、エゲレスを始め異国は貿易の名を借りて我が国を支配しようと企んでおります。太閤様のお力を持って、是非とも条約締結を阻止していただけますようお願い申し上げます」
「勅許のことを申しておるのか」
「さようでございます」
「斉昭からも勅許を下さぬようにと書状が届いておった。もとより余は勅許には反対だが、関白は認める意向だと聞いておる。これを覆すのはかなり難しいと思うが、どのようにするつもりか」
　問われても一�宸ﾉは案がない。その時、三樹三郎が口を開いた。
「関白様に直にお目に掛かって説得いたしたく、周旋の労を取っていただければありがたく存じます」
「いや、余が言うても関白は会わんだろう。その代わりと言うては何だが、岩倉具視という公家を紹介してやろう。帝の近習(きんじゅう)をしておる男だ。余の元に歌を習いに来ておるのだが、なかなかの切れ者だから、いい智恵を授けてくれるかもしれん」
　岩倉邸は鷹司邸の南東のところにある。すぐ近くなので、ここに呼ぼうと政通が言い出し、しばらく詩筵の話などをしながら待っていると、家人に連れられて立烏帽子に直衣姿の若い男が現れた。背が低くてごつごつした顔をしている。公家の服装でなかったら、家人と間違えられそうな風貌だ。一�宸ﾆ三樹三郎は体をずらして両手をつき、頭を下げてその男を迎えた。
「太閤様のお呼びとは、はてどのようなご用件でしょうか」
　岩倉具視は坐るなり、甲高い声を出した。
「そこの二人が例の勅許の件で、参っておるのだ」
「ほほう」
　具視がこちらに目をやった。一�宸ﾆ三樹三郎は再び頭を下げた。政通が、禁裏御用の絵師だと一�宸�紹介し、和歌も堪能だと付け加えた。三樹三郎は頼山陽の子息で、梁川星巌も認める漢詩人だと紹介した。
「宇喜多一�專aと申されると、あの、子の日の屏風を描かれた方ですか」
「さようでございます」
「太閤様の持っておられる児島高徳の掛軸も確か……」
「私でございます」
「和歌はどなたに付かれたのですか」
「香川景樹(かげき)先生でございます」
「いやあ、羨ましい。私も香川先生の教えを受けたかったです」
「こら、余では不足か」
　見ると、政通はにこやかに笑っている。
「もちろん不足ではございません。香川先生がご存命なら香川先生に習いたいと思うのは、歌詠みとして自然なこと。亡き今は太閤様しかございません」
「うまいこと言いよって」
　具視は政通に軽く頭を下げてから、
「三樹三郎殿の噂はちらほら聞いておりますよ。梁川殿と軌を一にして攘夷を入説(にゅうぜい)されておるとか」
「恐れ入りまする。今回の黒船騒ぎは元寇以来の我が国の危機でございます。父が存命ならば、天朝様を中心に我が国を一つにし、夷狄(いてき)に立ち向かうべしと申すに違いありません。私は父の思いを体現しているだけでございます」
　一�宸ﾍ先程政通に述べたことを繰り返し、「是非とも勅許阻止のためにお力をお貸し下さい」と訴えた。
「帝は、近年大地震や大津波が続いたのは穢れに充ちた夷狄を我が神州に入れたからだとおっしゃっております」と具視が言った。「この前の和親条約も認めるつもりはなかったのに、幕府が勝手に結んでしまい、非常に腹立たしい思いをされていました。ですから、今回は関白九条様にじきじき宸翰(しんかん)を出されて反対の意思を明らかにされましたのに、関白はのらりくらりと言い訳をする始末。おそらく幕府から何万両もの金が渡っているのでしょう。近くにお仕えする者として、帝のご意思を無視する態度には我慢がなりません。私にいい策があります。必ずや勅許を阻止して見せましょう」
「どういった策でしょうか」と三樹三郎。
「いや、ここでは私の胸の内だけに収めておきましょう」
「余にも言えんのか」と政通が言った。
「秘策は人知れず行われてこそ、最大の効果を発揮するものです。どうぞ、私にお任せあれ」
　そう言って具視はにやりと笑った。

　それから半月ほど経った三月十二日のことだった。夕方近く玄関が騒がしいと思ったら、三樹三郎が血相を変えて画室に飛び込んできた。
「先生、大変です。大勢の公家たちが九条邸に乗り込んだらしいです」
「本当か」
「梁川先生がたまたま花園邸の詩筵に招かれていて、大騒ぎを目にされたのです。勅許に反対するため公家たちが参内して関白に面会を求めたけれども、病気と称して姿を見せなかったとか。それで九条邸に押し掛けているらしいです。権大納言の中山様や三条様も加わっておられると聞きました」
　岩倉具視の言っていた秘策とはこのことだったのかと一�宸ﾍ唸った。
「よし、我らも加勢に行こう」
　一�宸ﾍ筆の絵の具を落として片付けてから、三樹三郎と九条邸に急いだ。九条邸は通りを挟んで鷹司邸の西隣にある。
　堺町御門の前には数十人の町人が集まっていた。爪先だって前方を見ている者もいる。一�宸ﾆ三樹三郎は御門を通り抜けようと人混みを縫って前に行ったが、御門は閉ざされており、その前に所司代の役人たちが六尺棒を構えて立ち塞がっていた。左手にある九条邸の塀の向こうから、人々の怒鳴り声や物がぶつかる音が聞こえてくる。
「我ら、九条家に用があって参った者。お通し下さい」と一�宸ﾍ声を掛けた。
「通せぬ」
　役人は鋭い目付きで二人を睨んだ。
「でしたら、鷹司の太閤様に画院寄人の宇喜多一�宸ｪ来たとお伝え下さい」
「それもできぬ。何人(なんぴと)も通してはならぬと命を受けておるのだ」
「ですからご伝言を」
「くどい。さっさと立ち去れ」
　役人が犬を追い払うように六尺棒を振り回した。
「何と無礼な」
　そう言うと、三樹三郎は九条邸の塀に近寄った。そして顔を上げると、歌舞伎の大向こうから声を掛けるように両掌を口に当て、「岩倉様、中山様、頑張ってくだされー」と大声を出した。一�宸ﾍ三樹三郎の行動に驚いたが、すぐに同調して「勅許を許すなー」と声を張り上げた。
　すると集まった町人の中からも「攘夷、攘夷」という声が上がり始めた。一�宸燻O樹三郎もその声に合わせて、「攘夷、攘夷」と叫んだ。
　役人たちが慌て始め、騒ぎを聞きつけたのか横の通用門からも数人の役人が出てきた。
「天朝様をお守りするのが、お前たちの役目だろう」という声が後ろから飛んだ。
「そんなことは分かっておる」
「関白は天朝様のご意向を無視するつもりか」
「そうだ、そうだ、関白が悪い」
「攘夷だ、攘夷」
　次々と声が飛んできて、群衆が前のめりになる。役人たちはそれに押されて御門に後退したが、すぐに六尺棒を振り回し、中の一人が刀を抜いた。群衆の動きが止まる。
　一�宸ﾍ他所を回ろうと三樹三郎に耳打ちして、人々の間を抜けた。
　しかしその他の門も同様に閉められ、警備の者が立番をしていた。二人は中に入るのを諦めざるを得なかった。
　それから十日ほど経って、条約の勅許が下りなかったという話が政通からもたらされた。幕府に一任するという関白の勅答案が破棄されたのだ。
　一�宸ﾍこれで清国の二の舞にならなくてすむと胸を撫で下ろした。

　六月の終わりになって、京洛に今まで見たことのない病がはやり出した。突然嘔吐と下痢を繰り返し、青黒い瘤ができて痙攣を起こし、黒く干からびて死んでいくという。朝、症状が現れたかと思うと、その日の夕方にしわしわの年寄り顔になって死んでしまう者もいるらしい。ころっと死ぬからコロリと呼ばれていることも耳に入ってきた。
　街を行くといつにもまして葬儀の家が目に付き、棺桶を担ぐ人足が急ぎ足で焼き場に向かっている姿を何度も見た。さらには鴨川端に手足が萎え、黒い顔で行き倒れている者もいて、屍臭が漂っていることもあった。
　水毒のせいだとも魚毒のせいだとも言われ、一�宸ﾍ花に、水は家の井戸でしか汲んではいかん、魚は疫病が治まるまで買うなと厳命した。
　そんなある日、倉田玉露園の倉田五助が暗い顔をしてやってきた。用件を聞くと、一�宸ﾉ狼の絵を描いて欲しいと言う。
「狼の絵？　それはまたどうして」
「実は……」と五助は話し出した。姪の一人が数日前からコロリに罹り、今にも死にそうだと言う。漢医の薬も蘭方医の薬も効かず、高僧に頼んで狐憑きのお祓いまでしてもらったが、一向によくならない。この度の疫病はアメリカの持ち込んだ狐のせいだという噂もあり、異形の狐を祓うには秩父の三峯(みつみね)神社の御犬様の護符をもらってくるのがいいと聞いたが、とても間に合わない。そこで代わりに一�宸ﾌ狼の絵を使いたいと言うのだ。
「先生は以前松本に行きはったとき、富士見の山登りをしはりましたやろ。その時、狼に会うて、三峯神社の使いかもしれんと言うてはりましたやろ」
　確かにそんなことを言った覚えがある。
「そやさかい、先生の絵なら効くんちゃうかと……」
「分かった。ちょっと待っておれ」
　一�宸ﾍ画室に引き返すと、棚に積んである写生帖の束の中から昔の一冊を取り出し、ぱらぱらと捲って狼の絵を見つけた。
　それを横に置き、半紙大の紙に墨で写していく。こちらを向いて鋭く威嚇している眼を強調して描き、余白に「三峯神社　御眷属(けんぞく)　アメリカ狐退散」と書き入れた。
　玄関に戻り、絵を五助に手渡した。五助は絵を見ると、これは効きそうやと呟き、両手で捧げ持つようにして礼を言った。
「それで画料はおいくらほど……」
「いらない」
「いや、それはいくら何でも……」
「御犬様に成り代わって描いたのだから、金を取れば罰が当たる」
　五助は何度も頭を下げて帰っていった。
　奥から花が出てきた。
「お前様の絵にもすがるやなんて、どないなってますんやろ」
「すべては幕府の馬鹿どもが、わが神州に夷狄を入れたからだ」
「攘夷、できますやろか」
「絶対にせねばならん」
　花は外に目をやった。
「お前様の護符、効いたらよろしおすな」
　数日経って、五助が年格好の似た一人の男を連れてやってきた。男の手には風呂敷包みがぶら下がっている。
「先生、効きました！」と五助がにこやかな顔で言った。
「助かったのか」
「へえ。戴いた護符を枕元に置いたら、翌朝には熱が下がり、意識も戻ってきたんどす。ありがとうございました」
「それはよかった」
「お陰さまで、娘の命が助かりました。何と御礼を言ってよいやら」
　男はほんの御礼の印だと言って、風呂敷を解き、一升徳利を取り出した。一�宸ﾌ愛飲する島臺(しまだい)である。
「そんなお気遣いは無用でござったのに」
「そういうわけには参りません」
　五助と男は一�宸ﾌ描いた狼が真に迫っており、いかに霊力があるかを褒め称え、何度も礼を言って帰っていった。
　翌日には見も知らぬ者が五助の紹介で狼の絵を求めに来、その数は日を追って増えていった。玄関先に列を作るようになり、一�宸ﾍ一日中、狼の護符を描く作業に追われた。画料は一切取らなかったが、台所には島臺の徳利がずらりと並ぶことになった。

　そんな頃、とんでもない知らせが三樹三郎からもたらされた。鷹司政通から岩倉具視を通して伝わってきたから、確かな話だと言う。
　それによると、勅許が下りていないにもかかわらず、幕府がアメリカと通商条約を結んだというのだ。更にそれに激怒した天皇が譲位を表明したらしい。
「一体どういうことだ」
「今度大老になった井伊直弼という彦根藩主は相当強引な男のようです」
「天朝様のご意向を無視したということか」
「それに、あろうことか条約調印を朝廷に知らせるのに、一遍の書状を飛脚で送っただけで済ませたらしいです。使者を立てることもしないということは、朝廷を軽んじていることの証しに他なりません」
「とんでもない男だ」
「水戸の斉昭侯も先生と同じように腹に据えかねたと思われます。ご子息の慶篤(よしあつ)侯と尾張の慶恕(よしくみ)侯、それに越前福井藩の松平慶永(よしなが)侯と共に登城して、井伊に違勅の件を糺したらしいです。しかしのらりくらりと言い訳をされて、不首尾に終わったということです」
「一旦結んだ条約を破棄することはできないのか」
「今の老中では無理でしょう」
「だったらどうしたらいい」
「一番いいのは天朝様の許に徳川だけではなく、それ以外の藩からも優秀な人材を集めて、政をすることでしょうが、それが出来ないとなると、将軍に賢侯を据えて、今のように老中に任せるのではなく、将軍自らが陣頭指揮を揮うしかないと思います」
「となると一橋慶喜侯か」
　今の将軍の徳川家定は病弱で政務を取り仕切ることができず、老中に任せきりであることはよく知られていた。そのため、まだ三十五歳の若さでありながら、後継問題が浮上していた。慶喜は徳川斉昭の息子である。
「私もそう思いますが、井伊はそれにも待ったをかけているようです」
　三樹三郎の話によると、井伊直弼は血脈を重視して紀州藩主の徳川慶福(よしとみ)を推しており、斉昭と対立していると言う。しかし慶福はまだ十三歳の子供であり、将軍職に就いても老中の言いなりになるのは見えている。二十二歳の慶喜侯なら政務に対して自分の意見を言えるだろうし、何より水戸の斉昭侯が後ろに控えていることが大きいと三樹三郎は言う。
「この国難の時に後継ぎさえ決まらないとは、徳川もいよいよ終わりか」
「本当です。父の願った天皇親政への道筋を一刻も早く付けねばなりません」
「天朝様は本当に譲位をされるおつもりなのか」
「幕府に対する精一杯の抗議だと思われます。周りが必死でお止めしているようです」
　京のコロリ騒動も心配だが、それにも増して政の行方も気に掛かる。
　その後、三樹三郎の情報を追いかけるように、徳川斉昭や慶篤(よしあつ)、尾張の慶恕(よしくみ)、松平慶永(よしなが)に隠居、急度慎(きっとつつしみ)の処分が下され、邸に押し込められることになった。水戸の慶篤(よしあつ)と一橋慶喜は登城禁止に処せられた。理由は、登城日ではない日に登城したというものであった。慣例を破って「押し掛け登城」したことで、処分されたのである。
　一�宸ﾍこれを聞いて、恐ろしくなった。井伊直弼という男はただ者ではないと思った。徳川御三家や御家門を不時登城などという軽微な罪で罰するには、余程の覚悟がいるはず。井伊は「上様の思し召し」ということで反対意見をことごとくはねつけたらしいが、そんなことのできる胆力が本当に備わっているのか。井伊の暴走を止める者は老中にいないのか。
　斉昭侯の心中を察すると、一�宸ﾍ暗澹たる気持ちになった。

　そんな折、入洛した西郷吉兵衛から尊皇攘夷の志士と意見交換がしたい旨の書状が回って来、一�宸ﾍ松庵を連れ、梁川邸に出向いた。
　出席者は梁川星巌、梅田雲浜、頼三樹三郎、池内大学の他に塩川文麟や長州藩士の大楽源太郎もいた。その他を合わせると、十五人ほどが鴨川を見下ろす二階屋に集まった。
　西郷は三人の供人を連れて現れた。
　星巌は江戸に放った間諜からの情報だと前置きした上で、
「近いうちに井伊が上洛して天朝様を彦根に移すことを画策しておるらしいのです。京の攘夷派の公家から切り離して、幕府の言いなりにさせようとの魂胆であることは明白。井伊なら天朝様のご意思を無視して、武力で専断することもやりかねません。そこで我らは先手を打って西国か吉野に供奉(ぐぶ)しようかと考えておるところです。西郷殿らが上洛してくれて、これほど心強いことはありません」
「ほほう、井伊はそんなことまで考えておるのでごわすか。じゃっどん、薩摩がおる限り絶対にそんなことはさせもはん」
　西郷は、井伊直弼の専横を激しく非難し、島津斉彬侯が重大な決意を持って政を糺すために立ち上がることを告げた。その際は、志士の方々にも各方面への入説その他、井伊を倒すために尽力していただきたいと頭を下げた。
「重大な決意とは、具体的にどういうことですかな」と星巌が尋ねた。
「申し訳ごわはんが、今この場でそのことを申すわけには参りもはん。お許しを」
　しかし、その場に集まった者たちには、おおよそのことを理解した。京洛の志士たちに檄を飛ばすということは、斉彬侯が薩摩の軍団を引き連れて京に乗り込むことを意味しているに違いないと。
　その夜の宴席では、一気に井伊を追放して次期将軍に一橋慶喜を擁立し、その下に水戸や尾張などの親藩譜代だけではなく、薩摩、土佐などの外様大名も集まって、攘夷中心の国を作らなければならないという意見で盛り上がった。
　ところが何日経っても京の町にこれといった動きは見られなかった。薩摩軍が上洛してきたら、三樹三郎を伴って鷹司政通や攘夷派の青蓮院宮に面会し、薩摩の力を背景に朝廷の意向を通すよう働きかけるつもりでいたのだが、それもできず、一�宸ﾍじれったい思いでいた。
　そんなある日、風の吹き渡る庭を眺めながら縁側で横になっていると、玄関から人の訪う声が聞こえてきた。近藤茂左衛門の声に似ているなと一�宸ﾍ思ったが、松本から突然来るはずはないと思い直した。花が返事をして出て行く足音がする。
　しばらくやりとりがあってから「お前様、近藤茂左衛門様と山本貞一郎様がお見えです」と花が伝えに来た。
　一�宸ﾍ驚いて上半身を起こした。突然の訪問の理由が思い当たらない。あるいは上洛するという書状が届かなかったか。
　一�宸ﾍ急ぎ足で玄関に向かい、二人の姿を目にして驚いた。茂左衛門はまるで職人のようなよれよれの単衣に股引姿で、顎から汗をしたたらせている。一方、貞一郎は医者の着るような十徳姿で、茂左衛門に体を支えられ、青ざめた顔をしていた。
「どうされましたか。お二人ともそんな恰好で……」
「突然、押し掛けまして申し訳ございません」と茂左衛門が頭を下げた。「大事な御用がございまして、是非とも先生のお力をお貸しいただきたく……」
　貞一郎がひどく辛そうなので、上がり框に腰掛けさせた。
「大丈夫ですかな」
「暑気あたりだと思いますが、何とか……」と貞一郎がようよう口にした。
　花が水桶を持ってきた。茂左衛門は自分の足と体を拭くと、貞一郎の足と体も拭いてやった。
　二人を家に上げ、応接間に通した。風が通るように襖を開け放しておこうとすると、茂左衛門が「お話がありますので、お閉めいただきとうございます」と言った。その秘密めいた言い方に一�宸ﾍ緊張した。
　花が水出しの煎茶を持って来、出て行く時に襖を閉めさせた。二人は冷茶をうまそうに飲んだ。
「御用をお伺いする前に、お二人がどうしてそのような形(なり)をされているのかお尋ねしてもよろしいですか」
「ああ、この恰好ですか」
　茂左衛門は自分の服装に目をやった。
「隠密理に行動するために弟は砂村六次という書家になり、私はその従僕ということにしております」
　名前の由来は貞一郎の今住んでいる砂村から取り、「今回の御用の成功を祈願して、六地蔵を奉納したゆえ六次と」と貞一郎が明かした。
「先生は水戸斉昭侯が蟄居させられていることはご存じでしょうか」と茂左衛門が言った。
「もちろんです。それを聞いて私も心を痛めておりました」
「そこで私どもは斉昭侯の復権を果たそうと秘策を持って京に来たわけでございます」
「秘策？」
「はい。簡単に申しますと、朝廷が勅使を江戸に下向せしめて井伊直弼を無位無冠にし、大老職から引きずり下ろして謹慎させるのです」
「何と！」
　一�宸ﾍ目を見開いた。余りに荒唐無稽な策に思えて、次の言葉が出てこない。
「そうしておいて、水戸、尾張、越前三家の慎みを解き、幕政に復帰させるのです」
「そんなことが本当に出来るのですか」
「出来ます。弟が考え出したのでございます」
「公家諸法度だけではなくその他の仕来りを何度も読み込んで、可能であることを確信したのです」と貞一郎が話し始めた。
　勅使は従来の慣例を破って品川宿に一泊をして、翌日伝奏屋敷には入らず、ただちに江戸城に入る。そうして井伊掃部頭(かもんのかみ)を召し出し、官位を剥奪、謹慎を命じる。蟄居の御三家には従前のごとく出仕すべく勅命を下した後、勅使は退出して伝奏屋敷には行かずに水戸館に入る。そこで斉昭侯に、帝の意を汲んで幕政を取り仕切ってもらいたい旨の宣旨(せんじ)を下賜(かし)し、水戸館に止宿する。勅使着府以後の警護供人は水戸家より百人、尾張家より百人さしだし、幕府の妨害が入らないようにする。
　征夷大将軍が勅命を受けて任ぜられているのは、確かに形式ではあるが、その形式――勅命の方が将軍の命(めい)より上位であること――を逆手に取って、井伊直弼を追放しようというのである。
　一�宸ﾍ話を聞いて、思わず唸ってしまった。勅命が下ると、確かにそれに逆らうことはできない道理である。ただ、幕府には武力があって、朝廷にはそれがない。薩摩が立ち上がって朝廷の武力になってくれれば、実現は容易だと思われるが、今のところその気配さえない。となると幕府の武力によって勅命が握りつぶされる恐れはないのか。一�宸ｪその疑問を呈すると、
「勅使が公の場で勅命を下せば、それはもう取り消すわけには参りません。問題はそれまでの間に武力で阻止される場合であって、そのために水戸、尾張に警護してもらうのです。斉昭侯にはこの秘策を話して、内諾をもらっております。ただ、複数の人間で事を運びますと事前に漏れる恐れがございますので、私一人が京に参って画策しようと思ったのですが……」
「弟はこのように蒲柳(ほりゅう)の質ですので、とても一人では京にやれません。それで私が付いてきたのです」と茂左衛門が言った。
「兄には近藤家を守る責務がありますので、私は反対したのですが……」
「何度も言っているが、天下大事の前には家の存続など小さいことではないか。天朝様のために働けるなら、堤屋の一軒など潰れても構わない。いかがですか、先生。私の考えは間違っているでしょうか」
　一�宸ﾍ首を横に振り、
「茂左衛門殿のお気持ち、痛いほどよく分かります。して私に御用と申されるのは……」
「勅使を下向さえしてもらえれば、後は計画通りに行くと確信しておりますが、その勅使派遣の建白を直接枢機の方々に訴える機会を作っていただきとうございます。我ら、公家の方々とは全く面識がございませんので」
「分かりました。全面的に協力いたしましょう」
　一�宸ﾍ松庵を呼んで、貞一郎の秘策を話し、彼等の手足となって働くように言いつけた。松庵も最初は大層驚いたが、茂左衛門と貞一郎の熱意に感化されたようで、次第に体を乗り出すように二人の話に聞き入った。
「儂はこの年ゆえ、機敏には動けん。お前が儂の代わりになって、お二人の計画が実現するように動いてくれ」
「分かりました」
　松庵が、何なりとお申し付けくださいと頭を下げると、かたじけのうございますと二人も両手をついた。
　二人は三条の万屋という宿に一旦は落ち着いたが、客の出入りも頻繁で隠密の姿を晒すことにもなりかねず、また貞一郎の体の回復を図るのにも不便なことから、一�宸ﾍ知人である十一屋源兵衛の貸家を周旋し、二人は木屋町三条上るにあるその家に移った。
　何分とも隠密行動なので、雇い人などの使用も控え、茂左衛門自らが従僕となって貞一郎の看護に当たった。出入りするのは一�宸ﾆ松庵だけで、二人の存在を外部に漏らさないように努めた。
　数日経って、ようやく貞一郎の体も回復し、一�宸ﾍまず青蓮院(しょうれんいん)宮に面会させようと考えた。宮家の中では最も攘夷に熱心であるし、朝廷内にも力を及ばせる一人だった。何より一�宸ﾆ面識がある。
　まず青蓮院宮の家臣である伊丹蔵人(くらんど)、山田勘解由(かげゆ)に書状を送って面会を求め、指定された日に松庵、近藤兄弟を伴って粟田口まで出掛けた。
　広大な邸の一室に通され、そこで伊丹、山田の二人に貞一郎が秘策を打ち明けた。両人の驚きは大変なもので、早速青蓮院宮にお目通りが叶うことになった。
　下段の間に控えていると、御簾を隔てた上段の間に青蓮院宮が入ってき、一�宸ｽちは平伏した。
「近頃コロリとか申す病がはやっているようだが、宇喜多殿は息災であったか」と声が掛かった。
「お陰さまで我が家の誰もコロリには罹らず、元気にしております」
「宇喜多殿は誠に憂国の絵師であるな。いつぞや前の関白から届いたそちの建白書を読んだことがあるが、私心のない意見に余も感激いたしましたぞ」
「有り難きお言葉、痛み入ります」一�宸ﾍ畳に額を擦りつけた。
「さて、今日は幕府を懲らしめる手立てがあるということだが、どのようなことかな」
　一�宸ﾍ近藤兄弟を、水戸斉昭侯の覚えもめでたく、尊皇攘夷に篤い、自分を何倍も上回る憂国の士であると紹介した。
「この度は私どものような卑賤の者にお会いくださり、誠に恐悦至極でございます……」と茂左衛門が挨拶をし、貞一郎が例の秘策を開陳した。話の途中で青蓮院宮が御簾を上げさせ、一�宸ｽちにもっと近くに寄るようにと声が掛かった。一�宸ﾍ驚いたが、山田勘解由が手で、宮の仰せの通りにするようにと示したので、松庵を含めて四人が膝行して上段の縁まで行った。蔵人と勘解由が後ろに控える。
　さらに驚いたことには、青蓮院宮がすぐ側までやって来て、密談するような恰好になった。四人は平伏した。
「堅苦しいことはなしにして、気楽に話してくだされ。余も尊皇攘夷の一員でござるからな」
　貞一郎の口振りには熱が籠もり、時折の青蓮院宮の質問にも淀みなく的確に答える。
　聞き終わって、青蓮院宮は大きく頷いた。
「素晴らしい。まさに帝のご威光が甦るような名案である。さる藩の上洛が叶えば、この案に反対する公卿は一人もおらなくなるだろう」
「さる藩とは……」一�宸ﾍ思わず問い掛けた。
「みなまで申すな。その時が来たら、自ずと分かることである」
　一�宸ﾍ深々と頭を下げた。
　青蓮院宮は勘解由に、貞一郎の策を広く公卿たちに説くために尽力いたせと言いつけた。
　山田勘解由の手引きで、清水成就院の隠居僧忍向に面会した。忍向は月照とも言い、四十代半ばの、眉目秀麗な僧である。顔立ちは優しいが、周りの空気をぐっと引き締める威厳が備わっている。
　貞一郎が策を説くと、忍向は驚きながらも大いに興味を示した。忍向が西郷吉兵衛と共に一橋慶喜の次期将軍擁立に向け、朝廷に入説していたという噂を一�宸ﾍ耳にしていたので、青蓮院宮の仰る、さる藩とは薩摩のことでしょうと確認してみた。
　途端に忍向の表情が曇った。
「薩摩の上洛はなくなりました」
「それはまたどうして」
　忍向は黙っていたが、しばらくして意を決したように、
「斉彬侯が亡くなられたのです」
「え？」
　一�宸�始め、近藤兄弟もそれ以上言葉が出なかった。
「上洛に備えて国元の天保山で演習中にコロリに罹って……」
「薩摩でもはやっているのですか」と一�宦B
「西郷さんは、殿は頑健なので病で亡くなるはずはない、暗殺に違いないと悲嘆に暮れておいでです。仕える殿が亡くなったのだから、生きていることは出来ないと仰るのを、私が何とかお止めしましたが……」
　薩摩の上洛がなくなったとなると、貞一郎の案を実行に移すのは難しくなるかもしれないと一�宸ﾍ思った。そんな一�宸ﾌ思いが忍向に通じたのか、
「例え薩摩の上洛がなくなっても、水戸や尾張の後ろ楯があれば、貞一郎殿の秘策は十分に実現可能です。私も尽力いたしますので、頑張りましょう」
　そう言って、忍向は貞一郎の手を両手で包んだ。一�宸燒ﾎ左衛門もその手に自分たちの手を重ねた。
　忍向の紹介で次に拝謁したのは、近衛忠煕(ただひろ)だった。忠煕は忍向の歌の師匠でもあった。篤姫降嫁によって大奥を動かし、慶喜侯を次期将軍にしようとした試みも頓挫した今、忠煕公が貞一郎の秘策に大いに心を動かされるのは当然のように一�宸ﾉは見えた。
　一�宸ﾍその他にも三条公の家臣森寺因幡守と、その長男である森寺若狭守に面会し、その尽力によって前内大臣三条実万(さねつむ)公に拝謁、また若狭守の斡旋で正親町三条実愛(さねなる)公にも謁し、近藤兄弟と共に秘策の素晴らしさを説いた。
　もちろん鷹司政通公の許にも足を運んだ。他の公家から既に聞き及んでいるのか、貞一郎が一通り説明すると、すぐに、大いなる策であると賛成し、岩倉具視にも説いたらどうかと言ってきた。
「あれは下位だから朝議には参加できないが、帝の側に仕えておるので何かと役に立つぞ」
　確かに九条邸への公家列参の策を考え出した岩倉具視なら、この秘策に心動かされるだろうと思われた。
　ところが面会した岩倉は策を聞くなり難しい顔になった。
「薩摩の上洛がなくなった今、朝廷の権威だけで事を進めるのは、ちと危険ではありますまいか」
「いや、水戸と尾張が後ろ楯になっておりますゆえ……」と貞一郎。
「と申しても出してくれる兵は千を超えないのであろう。せいぜい数百。薩摩は三千と聞いておりましたぞ」
「しかし、勅使が公に勅命を申し渡したら、逆らえないでしょう」と一�宸ﾍ意気込んだ。
「普通はそうです。しかし井伊というのは一筋縄ではいかない男です。今回の条約も勅許が下りないとなっても、勝手に結んだくらいですからな。勅命を握りつぶすことなど何とも思っていないかもしれん。そうなると、斉昭侯の復帰はさらに遠のくことにもなりかねない」
「では岩倉公はどうすればいいと仰るのか」
「薩摩に替わって兵を出してくれる雄藩を探す以外にはないかと……」
「そんな藩がないから、我々は奇策でもって対抗しようとしておるのです」
「なるほど、確かに奇策ではあるが……。分かりました。内府から奏上があると思いますが、私の方からも主上に伝えておきましょう」
　岩倉具視の考えは、一�宸ｽちに不安を与えるのに十分だった。公家たちの本音がそこにあるように思えたからだ。
　数日後、三樹三郎がやって来た。厳しい顔をしている。応接間で相対すると、
「先生、水臭いではありませんか」といきなり切り出した。
「はて、何のことかな」
「とぼけては困ります。忠煕公に聞きましたぞ。何やら井伊を幕閣から締め出そうと画策されているとか。そんな大事業なのにどうして私にも声を掛けて下さらないのか」
　やはり三樹三郎の耳に入ったかと思いながら、「申し訳なかった」と一�宸ﾍ頭を下げた。「実は水戸侯の内密の策で、ごく少人数で事に当たる必要があってな」
　実を言うと、三樹三郎を引っ張り込むことに躊躇いがあったのだ。もしこの画策が事前に発覚して罪に問われた場合、死罪もあり得る。そうなると三樹三郎を守って欲しいという梨影の遺言を破ることにもなりかねない。
「私には教えていただけないのですか」
「……分かりました。それでは今からその秘策を発案した人物の許に参りましょう」
　十一屋源兵衛の貸家まで歩いて行く途中で、一�宸ﾍ近藤兄弟のことを話した。
「久保田信右衛門殿なら十五年ほど前に江戸でお会いしたことがございますぞ」
「そうであったか」
「確か私が昌平坂におったころ、先生が松本から見えられて、吉原からの帰り信右衛門殿の宅に寄って夜遅くまで国事のことを語り合ったことがありました」
　一�宸ﾍようやく思い出した。
「いやあ、そうであったな。すっかり忘れていた」
「そうでしょう」
　そう言って、三樹三郎はにやりとした。
　貞一郎も三樹三郎のことをよく覚えていて、彼が画策の一員に加わってくれることを喜んだ。早速貞一郎が秘策を話すと、三樹三郎は「そんな策があったのですか。まるで手妻のようですな」と目を丸くした。
　三樹三郎の紹介で、梁川星巌、梅田雲浜、橋本左内などとも近藤兄弟は面会し、また斉昭侯から書状が届いていた、水戸藩の京都留守居役の鵜飼吉左衛門には松庵も同道して後見を頼んだ。
　ある日松庵が三条実万の呼び出しを受け、興奮した面持ちで帰ってきた。
「父上、天朝様よりお言葉を賜りましたぞ」
「誠か！」
「ご内府様が貞一郎殿の策を奏聞されましたところ、叡感(えいかん)斜めならず、近藤ご両人に、国を憂うる忠義の者どもかなと宣し給えた由」
「これはめでたい。早速お二人に知らせなくては」
　一�宸ﾍ松庵を連れて借家に向かった。
　近藤兄弟は松庵の言葉を聞くと、驚くと同時に禁裏の方角に礼拝し、涙を流した。
「天朝様の耳にまで達したとなると、この策の実現はそう難しいものではないかもしれませんぞ」
　一�宸ｪそう言うと、貞一郎は涙を拭いながら、「そうであればよろしいのですが」と声を落とした。
「貞一郎、そんな弱気ではいかん。是非とも実現する覚悟でおらなくては」
　と茂左衛門が弟の肩をつかんだ。
　確かに不安はあった。水戸や尾張の後ろ楯はあっても、実際の兵を出してくれるはずの薩摩はもういない。果たして勅諚(ちょくじょう)が出るのかどうか。朝廷にその勇気があるのかどうか。貞一郎がそのことを考えて弱気になるのも無理はなかった。
　八月七日、いよいよ貞一郎の案が廟議(びょうぎ)に掛けられることになり、一�宸ﾍ近藤兄弟を自宅に呼んでその結果を待っていた。酒を酌み交わす気分でもないし、詩筵の真似事をして待つ気分でもない。時折、花の持ってきた煎茶を飲みながら、松庵の帰りを待つだけである。
　朝から始まるので昼過ぎには決まると思っていたが、夕方になっても音沙汰がない。揉めていることは容易に想像がついた。花の作ってくれた夕餉を三人で食べている時も会話はなく、時が来るのを黙って待っている状態だった。
　松庵が帰ってきたのは、暮れ六つの鐘が鳴った頃だった。
「ただいま帰りました」
　玄関で松庵の声がして、一�宸ﾆ近藤兄弟は急いで表に向かった。花も台所から出てくる。
　行灯の明かりに照らされた松庵の顔は、影が深くて表情が読み取れない。
「どうであった」と一�宸ﾍ声を掛けた。
「……駄目でした」力のない声だった。
　貞一郎がその場で崩れ落ちた。床に両手をつき、項垂れている。
「やはり……」茂左衛門が呟いた。
「貞一郎殿の勅使案を採用せず、公武合体攘夷決行の勅諚を水戸に下すことに決したということです」
「何と生ぬるいことを！」一�宸ｪ大声を上げた。「そんな勅諚で事態が変えられるものなら、とうに変わっておる。そんなことも分からんとは、朝廷のお偉方は世の中が分かってらっしゃらない」
　しゃがみ込んだ貞一郎の肩を茂左衛門が叩いている。
「これからどうなさる」と一�宸ﾍ声を掛けた。
「事が決した以上、もう京に留まる必要もなくなりました。斉昭侯の期待に添えず無念でありますが、我らの活動の報告をせねばなりませんので、明日ただちに水戸に向かって出立いたします」
　しかし、自分の活動が無に帰した貞一郎の落胆は大きく、気力で持っていた身体が長い道中に耐えられそうもない。それで体力が回復するまで借家に留まることにした。
　翌八日に水戸藩京都留守居役、鵜飼吉左衛門の息子幸吉が密勅を携えて江戸の水戸藩上屋敷に向かった。三条実万から伝えられた勅諚の内容は次のごときものだった。
　幕府嚮(さ)きに擅(ほしいまま)に米使と条約を結びて調印已(すで)に了(おわ)る。而(しか)して間部詮勝(あきかつ)を遣はして奏せしむ。事後奏するならば裁可を請ふの要なき訳なり。朝廷を蔑如(べつじょ)すること甚だし。且つ公武協心を謀らんとして大老三家を召せば三家皆罪あり。又大老は幕府の務(つとめ)を以って辞したるは朝廷を軽じたるなり。三家の罪は未だ之を奏せずと雖(いえど)も、外夷来り窺うの日に当り斯(か)く親藩を斥(しりぞ)くるは人心乖離(かいり)を招く所以(ゆえん)にして弥縫(びほう)する能わざるべし。万般(ばんぱん)の政道斯(かく)の如くなる以上は国紀乱れん。就(つい)ては卿は大老閣老三家三卿と相謀り速かに諸侯と議して外侮(がいぶ)を禦(ふせ)げ……。
　この内容が水戸藩を通じて各藩に届けられれば、あるいは事態が動くかもしれないと一�宸ﾍ微かな期待をしていたが、事態はそんな期待をとうに超えて急転回していた。
　水戸藩上屋敷に密勅が届けられた二日後には、その内容が幕府にも伝わっており、徳川斉昭の陰謀だと解した井伊直弼が尊王攘夷派の大弾圧に乗り出すのである。

　八月の終わり、三条実万の邸から帰ってきた松庵が画室に駆け込んできた。一�宸ﾍ知人から依頼された児島高徳桜樹に詩を賦(ふ)すの図を描いていた。
「父上、幕府は密勅に関わった者たちを捕縛する方針を固めたようです。京にいては危険です。逃げましょう」と松庵が深刻な顔で告げた。
「あわてるな」一�宸ﾍ静かに筆を置いた。「儂もお前も何ら間違ったことはしておらん。日本人として恥ずべきことは何もないのだ。逃げることは却って自分の間違いを認めることになる。どんな咎を受けようと覚悟は出来ているし、お前も覚悟しておけ」
「……分かりました」
　画室に花も姿を見せたが、何も言わなかった。
「それよりも近藤のお二人だ。お二人は斉昭侯の命を受けて来たのだから、その結果を報告する義務がある。ただちに伝えて、京を去るように言うてこい」
　松庵はただちに出て行った。
「お前様」と花が口を開いた。「どんなお咎めがあるんどすか」
「分からん。ただ井伊という男は激しい奴だから、最悪のことも覚悟しなければならん」
「そんな……。山本様のご提案は退けられたんやおへんか」
「確かにそうだが、貞一郎殿の案を受けた結果が今回の密勅に繋がったわけだから、同罪とみなされても仕方がない」
　花が嘆息した。
　松庵が帰ってきて、「お二人は身辺整理をして明朝ただちに出立すると仰っていました」と告げたので、一�宸ﾍ一安心した。
　翌朝、二人を見送ろうと松庵と共に借家に行った。玄関の引き戸を開け、声を掛ける。しかし返答がない。もう出立されたのかと訝りながら、もう一度訪(おとな)うと中から微かに人の声がする。一�宸ﾆ松庵は草履を脱いで中に上がった。
　居間には十徳姿の男が横になっており、その傍に股引姿の男が膝を折って坐っていた。倒れている貞一郎の口許が血に塗(まみ)れ、周辺には血溜まりが出来ている。一�宸ﾍ一瞬にして事の次第を理解した。
「茂左衛門殿！」
　股引姿の男が顔を上げた。涙でくしゃくしゃになっている。
「……私も逝きたかったのに弟が逝かせてくれませんでした」
　一�宸ﾍ茂左衛門の隣に正座をし、着物の袖で貞一郎の口許の血を拭おうとしたが、乾いていてほんの少しの血が取れただけだった。頬に手を当てる。まだ暖かみが残っていた。頬は窪み、青黒い顔色だったが、閉じた眼には険しさはなかった。一�宸ﾍ両手を合わせて南無妙法蓮華経と何度も唱えた。
　茂左衛門が言葉に詰まりながら、何があったかを話し始めた。
　松庵が出立を勧めに来た時には、すでに貞一郎は死を覚悟していた。
　茂左衛門が京を離れることを告げると、弟はこう言ったという。
「兄さん、私のこの体では到底江戸までは耐えられないでしょう。途中で捕まって醜態を晒すよりは、ここで死にます。すべては私の一存でなしたこと。奔走してくれた同志に迷惑の掛からないようにいたしたいと思います」
「お前が死ぬなら、俺も一緒に死のう」
「いや、兄さんは死んではいけません。二人とも死ねば、年老いた父上はどうなります。長男である兄さんは父と家を守る義務があります。生き恥を晒してでも、生き延びねばなりません」
「……それでも俺は死にたい」
「だめです」
　貞一郎が荷物の中から紙袋を取り出してきた。何だと問うと、毒ですと答える。
　始めから、失敗すれば死を覚悟していたのかと思うと、その決意を変えさせるのは無理だと悟った。
　同志たちからの手紙などを火鉢の中で燃やし、貞一郎は辞世の和歌を半紙に書いた。
　散ることはかねて習いしものなれば何か恨みん春の山風
　茂左衛門は台所に行って酒を持ってくると、別れの盃を交わした。貞一郎は紙に包まれた毒をすべて酒と一緒に呑み、毒が回ってくるまでの間、子供の頃の思い出から現在の日本の国情まで、様々なことを語り合った。
　そうして半時ほど経った頃、手足が痺れだし、おびただしい喀血をして貞一郎は不帰の客となった。
話を聞いて、一�宸ﾍ松庵と共に涙した。さらに弟の死を目の前にせざるを得なかった茂左衛門の心中を思うと、涙が止まらなかった。
　翌八月三〇日の夕刻、中山という地へ野辺送りにして火葬に付し、次の日の朝、骨拾いをして寺僧を講じ、一�宸竢ｼ庵も立ち会って心ばかりの仏事を営んだ。
　茂左衛門は、まだ処分をしていない同志からの手紙を燃やしたり、荷物をまとめるのに一日は要するので、九月三日に出立することを告げた。その時は見送りに来ると約束して、一�宸ﾆ松庵は家に帰った。
　二日の昼過ぎ、三樹三郎が駆け込んできて、「星巌先生が亡くなりました」と涙声で叫んだ。
「え？」
「コロリです。夕べ、罹ったと思ったら、もう……」
　一�宸ﾍ三樹三郎と共に鴨沂(おうき)小隠に急いだ。玄関前に大勢の人が集まって、中を覗いている。二人は人波を掻き分け、玄関に入って訪った。妻の紅蘭が姿を見せた。目が少し赤いが、顔は毅然としている。
「星巌が身罷りました」紅蘭が両手を前に揃えて、小さく辞儀をした。
「何ともはや……」
　中に上がると、星巌の寝ている部屋の手前に梅田雲浜(うんぴん)や池内大学、塩川文麟(ぶんりん)などの顔があった。一�宸ｪ彼等に挨拶をして、部屋に入ろうとすると紅蘭に止められた。コロリがうつるからと言うのである。それで敷居に膝が掛かるように正座をして両手を合わせ、南無妙法蓮華経と何度も唱えた。
　部屋には饐えた臭いが籠もっている。白い蒲団に寝かせられた星巌は頬のこけたどす黒い顔をして、髪の毛も長い髭も真っ白になっていた。夜着を被せられた体はひと回り小さくなっていて、まるで猿が横たわっているように見える。
「一�專aは京を離れるおつもりはあるのですか」と雲浜が聞いてきた。
「いいえ、離れません。天朝様の許を離れたら画院寄人の職責を果たせませんからな」
「捕縛は覚悟の上と言われるのか」
「自分の取った行動は正しいと信じていますので、捕まえるものなら捕まえてみろと思っております」
　井伊直弼の処断に対してどう対処すべきかと皆が口々に話し始めた。
　一�宸ﾍ三樹三郎に声を掛けた。
「お主は一時京を離れたらいかがか」
「なぜそんなことをおっしゃるのですか」
「儂のような年寄りは生き延びても世の役には立たん。お主のような有為の者こそ生きて日本のために尽くすことが天命ではあるまいか」
「私はそうは思いません。京に踏み留まって、幕府の横暴に抗議することが天命だと心得ております」
「命を落とせば、君子殿が悲しまれるぞ」
「信念を貫いて斃(たお)れることを悲しむような妻ではございません」
　一�宸ﾍ三樹三郎の目を見た。一点の曇りもない。それ以上説得するのを諦めた。
　誰かが、紅蘭殿こそお逃げなさいと忠告した。
「私は逃げません」と紅蘭が言った。「皆様方からの手紙はすべて焼き捨て、私は何も知らない、何も聞いたことがないと突っぱねます」
「拷問がありますぞ」と誰かが言った。
「耐えられなくなれば舌を噛んで死にます」
　紅蘭の声はあくまでも静かだった。
　その覚悟だと一�宸ﾍ思った。その覚悟さえあれば、どんなことがあろうとも大丈夫なのだ。
　梁川星巌の死が「死に（詩に）上手」と町人たちの間で囃されるのは、勤王の志士たちが次々と捕縛されるようになってからである。

　九月三日、昼過ぎに見送りに行く茂左衛門のために、一�宸ﾍ餞(はなむけ)の絵を描いていた。楠木正成である。下絵も描かずに、粉本を見ながらいきなり筆を下ろし、輪郭を描き終わったところで色を入れようとした。
　その時、玄関で大声が上がった。何を言っているのか分からない。
　花が画室に飛んで来た。顔が引きつっている。
「お前様、お役人が……」
　続いて捕物姿の幕吏が数人、踏み込んできた。草鞋も脱がず、土足である。
「宇喜多一�宸ｾな。御用筋によって召し捕る。神妙にいたせ」
　一人が十手を突きつけた。
「ご覧の通り、私は絵を描いております。逃げも隠れもいたしません。この絵を描き終わるまで、もう少し待ってはもらえぬか」
「待てぬ。即刻召し捕る。そちは禁裏御用の絵師ゆえ、縄を掛けるなと言われておるので、そうするが、愚図ぐずしておったら縄を掛けて引っ立てるまで」
「分かりました」
　一�宸ﾍ立ち上がった。服を着替えることは許されたので、花の用意した服を着た。
「お前様、私はどうしたらよろしおすか」
　花は目に涙を溜めていたが、それをこぼすことなく気丈に言った。
「心配するな。儂に万が一のことがあれば倉田五助に頼れ。何とかしてくれるだろう」
　表に引っ張られると、すでに松庵が捕まっていて、二人は大勢の町人たちが見守る中、遠くにある伏見奉行所まで見せしめのように歩かされた。
　近藤茂左衛門が牢内に入ってきたのは翌日の朝のことだった。
「茂左衛門殿！　逃げることが叶わなかったか」
「大津の旅籠に泊まっている時、捕まってしまいました」
「口を聞くな」と牢役人が大声を出した。
　その後、梅田雲浜、鵜飼吉左衛門、幸吉親子が入牢してきた。
　翌月の十月九日、戊午(ぼご)の密勅に関わりのある者はすべて六角通りにある三条新地牢屋敷、通称六角獄に集められることになり、籠で護送された。
　投獄されたのは畳敷きの揚がり屋で、入る時蒲団を一枚渡された。中にはすでに三樹三郎の他、伊丹蔵人(くらんど)や山田勘解由(かげゆ)もいた。
「やはり捕まったか」三樹三郎を見て、一�宸ﾍ天を仰いだ。
「先生がおいでとは心強い。ここは一つ漢詩でも作りましょうか」と三樹三郎はにやりと笑った。
　別の揚がり座敷には宮家や公卿も入れられたらしく、朗々と和歌を吟ずる声が聞こえてくる。牢役人も制止をしない。
　こちらでもやりましょうと三樹三郎が言い、即興で幕府を諷刺する漢詩を作り、吟じた。一�宸熏｡様の和歌を作り、声を張り上げた。役人が「止めんか」と怒鳴ったが、それでも謡っていると長い棒が格子の間から差し入れられて、一�宸�打擲(ちょうちゃく)した。
　逮捕者はその後も続き、十月半ばには池内大学が入ってきた。観念して出頭してきたとのことだった。
　一�宸ﾆ松庵は一、二度呼び出されて、近藤茂左衛門、山本貞一郎両人との関係を尋ねられたが、昔からの知人で自分の絵のよき理解者とだけ述べた。勅諚(ちょくじょう)の画策については一切与り知らぬと突っぱねた。拷問を覚悟したが、案に相違してそれは行われず、どのような処分をするのかと思っていると、十二月四日夜半過ぎに突然奉行所に呼び出された。
　白洲には一�尓ヮqの他、小林民部大輔、三国大学、金田伊織、鵜飼父子、池内大学、近藤茂左衛門などが並び、町奉行列座の上、老中連名町奉行名宛ての書面を読み聞かせられた。
「右の者共尋ね度義有之(たきぎこれあり)候間早々差送り可申」
　翌五日明け六つ過ぎに、家士は角駕籠に、一�尓ヮqを含むその他は唐丸籠で江戸に向って護送された。市中は浮説流言紛々として、途中勤王の志士たちが囚人を奪還しに来るという噂が流れたので、道中警護は頗る厳重にされた。二百余名の役人で前後を護り、切火縄鉄砲五十挺、抜身槍五十筋、騎馬十騎で、京より品川までの間は、本多隠岐守、加藤遠江守、石川主殿守などの沿道の大名十一家が警護を担当した。
　日が昇りだした京の町を行列が続いていく。両手首を縛られた一�宸ﾍ、寒さに震えながら、唐丸籠の竹の目に指先を掛けて沿道の両側にずらりと並んだ見物人たちを眺めていた。口々に何か言っているが、よく聞こえない。時折「頑張りなせえ」という声が聞こえてくる。中にはこちらに向って両手を合わせ、頭を下げる者もいた。町中から外れて見物人の数が少なくなると、竹籠の上から筵を被せられ、寒風がようやく遮られた。薄暗闇の中、一�宸ﾍ揺れに身を任せながら目を閉じた。
　唐丸籠に入れられると、道中そこから出されることはなかった。睡眠、食事、排泄、すべて籠の中で行わなければならない。竹で編まれた籠に食器を出し入れする御器穴があり、そこから握り飯や香の物、白湯が与えられた。排泄は床板に開けられた穴から行い、そのため褌は外されていた。
　桑名で旅籠屋の座敷に唐丸籠が入れられ、道中の疲れから一�宸ｪうつらうつらしていると、籠を叩く者がいる。目を開けると、役人が「面会だ」と小さな声で言った。一�宸ﾍ顔を上げた。
「先生！」
「大きな声を立てるな」と役人が厳しい顔をした。「あくまでもお目こぼしであることを忘れるな」
　竹の目の向こうに姿を見せたのは、僧服姿の帆山唯念であった。
「おう、おう」
　一�宸ﾍ御器穴から両手の先を出した。それを唯念が掌で包み込んだ。二人は言葉もなく、涙を流した。
　役人が面会の終了を告げた。唯念は促されて立ち上がると、「先生」とようよう声を出した。「生き延びて下され。またいつか教えを請いとうございます」
　一�宸ﾍただただ頷くことしかできなかった。

　十二月十九日江戸に着いた。数日前の大火で伝馬町の牢屋敷が焼失しており、囚人たちは火災の及ばなかった高田藩邸に預けられることになった。
　半月も籠の中で過ごした身体は悲鳴を上げていた。足の筋肉が衰えて力が入らず、歩くのも難儀だった。更に睡眠不足も祟って、一�宸ﾍ食事をすることもままならず、数日間を寝て過ごした。年齢のいった鵜飼吉左衛門も同様に倒れ伏し、若い松庵や鵜飼幸吉が世話をしてくれた。
　この大獄の吟味は五手掛(がかり)という形で行われた。老中松平和泉守を主任にして、寺社奉行、町奉行、勘定奉行、大目付、および目付よりそれぞれ一名が評定所に集まり、五人がかりで審理に当たるのである。
　ある日一�宸ﾆ松庵は鵜飼父子、池内大学らと共に評定所の白洲に呼び出された。白洲には他に金田伊織や近藤茂左衛門もいた。奉行たちから容赦ない詰問を浴びても、箒尻で打擲を加えられても、一�尓ヮqを始め茂左衛門や鵜飼父子は言質を与えず、肝腎の所は知らぬ存ぜぬを押し通した。
　しかし池内大学一人だけがしどろもどろになり、奉行から巻物を見せられると、その上書きの筆跡が頼三樹三郎のものであること、さらには、梁川星巌邸で参会した時、水戸斉昭侯を大坂城内に移し申すべしとの建白を一同で認(したた)めたことを白状した。
　一�宸ﾍ、星巌邸でそのようなことは行われたことはないと反論しようとしたが、奉行からはその機会を与えられなかった。
　一�宸ﾍ腸(はらわた)が煮えくり返る思いだった。
　高田藩邸の牢内に帰って、一�宸ﾍ大学に向かって大声を出した。
「それでもお主は孔子の弟子か。反逆の四天王と威張っておったのは嘘なのか。大丈夫(だいじょうふ) たる者、溝中の鬼となっても屈してはならないのに、お主のその様(ざま)は何だ」
　さらに傍らにいた松庵に向かって、
「松庵、お前と大学は長い交友だが、今を限りに絶交せよ。さもなくば儂から親子の縁を切る」
　と怒鳴った。牢番人も制止するのを憚られるほどの怒号が牢外に響き渡った。

　一�尓ヮqの処分が決まったのは、翌年安政六年六月十日のことだった。半年余りの不衛生な獄中生活で、一�宸ﾍ全身に瘡(かさ)を発症し、その痛みに苦しんだ。
　矢立と短冊を所望して、和歌を作り、それに添える絵を描くことで、何とか痛みに耐えることができた。
　一��
　籠なれし身は鶯の谷の聲深き恵みの梅の香ぞしる
松庵
　降り積もる富士の高根の白雪にとけくる春の月蔭ぞまつ

　評定所に連れ出された一�尓ヮqは次のような処分を申し渡された。
　　　　裁許申渡書
　　京都木屋町三条上ル大坂町久兵衛借家
儒医　宇喜多一��
未 六十五歳
同人悴
　　　同　　松庵
　　未　三十四歳
其方共儀兼々(かねがね)浪人山本貞一郎砂村六次ト変名上京イタシ、尾張殿水戸両中納言殿松平越前守等御咎被仰付(おおせつけられ)候以来世上甚騒々敷(そうぞうしき)ニ付勅使御差下夫々(それぞれ)御咎御免越前守ニハ御当代御補佐相成候ハバ公武御合体国家之御為ニモ可相成(あいなるべく)候間、右之趣三条家其外ヘ懇願イタシ度候ヘ共高貴之向エ立入兼(たちいりかね)候間勘弁之上入説呉(せつをいれくれ)候様相頼候迚(とて)、下賤ノ身ヲモ不顧(かえりみず)不容易事共内願イタシ度様申聞候ヲ如何之儀トモ不心附、一�寃n三条家亦ハ正親町(おおぎまち)三条家、松庵ハ清水成就院隠居忍向相頼近衛殿等エ口入致遣候次第ニ至リ候段、仮令(たとえ)手続イタシ候迄之儀ニテ右願意可為遂(なしとぐべし)ト彼是困苦致候心底ニハ無之候得共、右始末両人トモ不届ニ付所払申付ル
　所払とは居住地域から追放する罰で、一�尓ヮqにとっては洛中には住めないことを意味する。予想外の軽罪に一�宸ﾍ驚いたが、貞一郎がすでに死亡していること、それに勅使下向の策が不首尾に終わったことが影響していることは間違いない。一�宸ﾌ肩書きが儒医になっているのは、画院寄人という名称を表に出さないための配慮であると告げられた。
「近藤茂左衛門殿のご沙汰はいかがなりましたでしょうか」と一�宸ﾍ尋ねた。
「余計なことを聞くではない」と端にいた役人がたしなめた。真ん中の白髪の目立つ役人がわずかに笑って「未だ決まらぬ」と言った。
「頼三樹三郎殿は……」
「それも同じ」
　それ以上質問は許されず、直ちに釈放の手続きが取られた。
　自分たちがこの刑罰ならば、茂左衛門殿が死罪になることはないだろう。三樹三郎も死罪にはなるまい。そう思うことで、ようやく一�宸ﾍ自分の気持ちを納得させた。
　身元引き受けに現れたのは、福島隣春(ちかはる)だった。
「先生、よくぞご無事で」
「かたじけない」
　隣春は歩くこともままならない一�宸ﾉ肩を貸し、用意していた籠に入れてくれた。松庵も別の籠に乗り、半時ほど揺られて浅草寺内の隣春の家に着いた。
　裸になって下女に全身の垢こすりをしてもらった。瘡の部分は真綿で撫でるように洗い、湯で清拭をしてもらうと生き返った心地がした。髭を剃ってもらい、長く伸びた髪も切ってもらった。
　隣春の用意してくれた真新しい着物を着て蒲団に横たわっていると、一人の若者が入ってきた。
「権十郎殿か」
「先生、お久しゅうございます」
　五年ぶりに見る権十郎は、少年の顔から大人の顔へと変貌していた。
「父上は息災か」
「七代目は今年の三月に身罷りました」
「そうか。それは残念であったな」
「養父からは九代目團十郎を襲名出来るよう厳しく指導されております」
「つらいか」
「……はい」
「そうよのう。父も兄も亡き今、そなた一人で名跡を背負わなければならないからな。しかし、初心を忘れないことだ。有職故実に忠実な歌舞伎を目指すという目標を見失わない限り、どんな修行も耐えられるはずだ」
「はい。精進いたします」
　隣春は一�宸ﾌ瘡の治療を、漢方医だけではなく、去年のコロリの大流行で勢力を伸ばした蘭方医にも頼んだ。一�宸ﾍ金が掛かるから治療は必要ないと申し出たが、隣春は笑って、「先生が開拓してくれた得意先を私が引き継ぎましたので、お金のことはご心配なく」と答えた。
　治療のせいか、身体が少しばかりよくなってきて、一�宸ﾍ京に帰ることを望んだ。隣春は、いっそのことご内儀も江戸に呼んでこちらで生活されてはと提案したが、画院寄人の役を捨てることは出来ないという一�宸ﾌ言葉でそれは退けられた。
「それなら先生の出立を祝う会を、吉原でぱあっと開きましょう」
「いや、そんな出費をさせては申し訳ない」
「ご心配なく」と隣春は声を落とした。「大きい声では言えませんが、庶民は戊午(ぼご)の大獄で捕まった方々を陰で持て囃しておるのです」
「………」
「去年はやったコロリは異人がもたらしたものだというのがもっぱらで、幕府が黒船に屈して開国したからだとみんな恨んでおるのです」
　吉原の大文字楼に集まったのは、福島隣春や河原崎権十郎、高島千春、住吉弘貫(ひろつら)とその門人たち、清元仙八、その他に一�宸ｪ絵を納めたことのある富家たち、総勢十数人だった。店の主人が顔を見せ、今夜の費用はこちらで持つからと言ってくれた。どうやら皆の払う分が一�尓ヮqの路銀に当てられるらしかった。
　祝杯が続いた後、清元仙八が一�宸ﾌために新作の清元を作ってきたから披露しますと言って、三味線を持った。
「題は、画院寄人宇喜多一�宦vと言って仙八が三味線を鳴らし始めた。
「神代より光り輝く日の本や　ペルリ来航黒船の　火筒(ほづつ)の前に力なく　国を開けたりその挙げ句　地震大風とめどなく　コロリそろりと忍び寄る　ああ民草は寄る辺なく　氏神様に頼るのみ　天朝様のお膝元　宇喜多秀家末裔の　画院寄人立ち上がり　彩管持ちて世を糺す　戊午の密勅謀れども　井伊何某(なにがし)が敵(かたき)なり　獄に繋がれ幾日も　臥薪嘗胆(がしんしょうたん)堪え忍び　ここに晴れての放免と　相成る上はお目出度き　祝いの席に集うかな　されど再び立ち上がり　ついに夷狄(いてき)を討ち果たす　夢を見るのも日の本の　泰平楽を願うため　泰平楽を願うため」
　仙八が謡い終わると、権十郎が「即興で踊りを付けましょう」と言って立ち上がった。座敷の前に出、仙八の清元で手振りをつけて踊り出す。仙八に合わせて清元を謡う者もいて、一�宸熬mらず知らずのうちに口ずさんでしまった。
　参会者に、御礼の意味を込めて、一�宸ﾍ絵を進呈することにした。隣春は無理をなさらぬようと止めたが、気力を振り絞って十数枚の半切(はんせつ)に墨絵を描いた。

　籠と馬を乗り継いで、一�尓ヮqが一年振りに京に戻ったのは、七月始めのことだった。
「お前様！」
　花はそう言うなり、上がり框に伏してしまった。
「息災であったか」
　花は肩を震わせて泣いている。松庵が草鞋を脱いで上がり、母親の肩を抱いた。
　しばらくして花は顔を上げると、「お前様、えらく痩せはりましたなあ」と言った。
「全身に瘡ができて、痛むのだ」
「それはいけまへん。すぐにお休みやす」
　一�宸ｪ奥の部屋に敷かれた蒲団に横たわると、花は松庵に奉行所に行くように命じた。
　一�尓ヮqの所払の沙汰は京町奉行所にも伝わっており、顔を見せたら直ちに知らせるようにと言われていたのだ。
　花は横たわる一�宸ﾉ団扇で風を送りながら、「お前様」とためらいがちに言った。「実は去年、お前様が捕まってしまわれた後、岡田為恭(ためちか)様がお出でになりました」
「うん？」
「……為恭様が、お前様が罰を受けたら家財を没収されるかもしれない、そのため大事な訥言先生の画や粉本の類いを私が預かりましょうと言わはって」
「渡したのか」
「いけまへんどしたか」
　一�宸ﾍ体を起こして、画室に行った。
　棚にあった十数冊の粉本や、訥言の模写絵がなくなっている。壁に掛けてあった考経図もない。残っていたのは一�宸ﾌ描いた婚怪草紙絵巻と訥言模写の伴大納言絵詞、それに下絵の類いだけだった。
　儂の描いた物は必要ないということか。伴大納言絵詞はすでに持っておるからな。
　為恭が中身を吟味しながら、あわてて風呂敷に包んでいる様子を想像すると、怒るというより笑えてきた。
「お前様、どうされました」
　一�宸ﾍ笑いをかみ殺しながら、
「是非もない。為恭が持っている方が役に立つのなら、粉本どもも本望だろう」
「よろしおすのか」
「よい。そのままにしておけ」
　松庵が役人を連れて帰ってきた。一�宸�捕縛した同じ人物だった。
「宇喜多一�宦A松庵。所払によって直ちに洛中を去るべし」
「お役人様、ご覧の通り旦那様は大変弱っておいでです。どうかもうしばらくここで静養させていただけまへんか」
　役人は眉根を寄せると、
「分かった。一日だけ猶予をやろう。明日中にここを去ること」
「そんな……。どうぞご慈悲を」
「だめだ。それ以上なら儂の立場がなくなる」
　一�宸ﾍ花を制し、明日中に引っ越すことを告げた。
　倉田五助に頼んで、鴨川の東、田中というところに借家を見つけてもらった。わずか二間しかない陋屋で画室にする部屋もないが、金のない一�宸ﾉとっては雨露をしのげるだけでもありがたかった。
「世話になってすまぬ」と一�宸ﾍ五助に頭を下げた。
「何を言わはるんどすか。先生とは長い付き合いやおへんか。水臭うおまっせ」
「お主に借金をしても返す当てがないのが心苦しい」
「また、狸の絵でも描いてくれはったらよろしおす」
　一�宸ﾍ思いついて、伴大納言絵詞の入った桐箱を取り、五助の前に置いた。
「これはこの家で唯一価値のあるものだ。どうか受け取ってくれ」
「滅相もおまへん」五助は桐箱を押し返した。「これは先生のお宝やおへんか。そんな大切な物を受け取るわけには参りまへん」
「そうか」
　一�宸ﾍ伴大納言絵詞を引っ込めて、婚怪草紙絵巻の桐箱を取り出してきた。
「これは儂が天朝様に献上しようとして描いたものだが、訳あって受け取ってもらえなかった。少しは値打ちがあると思うので、受け取ってもらいたい」
「先生、お金のことなら心配おへん。天朝様のために命を賭けた勤王の方々を守るんは町衆(ちょうしゅう)の務めだす。戊午の大獄で先生が捕まりはったのを知った時、ほんまにびっくりしましたんや。先生って偉いお人やったんやって」
「まあ、見てくれ」一�宸ﾍ桐箱を開け、巻物を取り出すと、巻緒を解いて広げて見せた。
「ひゃー、綺麗どすな」
「詞書きがないので絵巻物としてはできあがっていないが、どうだ、受け取ってくれるか」
「よろしおすのか」
「質屋に入れて誰の手に渡るか分からないよりも、お主に持っていてもらいたい」
「先生がそう言わはるんなら……」
　五助は桐箱を捧げ持つようにして礼を言った。
　洛中に入れるのは猶予中の今日しかないので、一�宸ﾍ三樹三郎の消息を尋ねるために、松庵を河原町三条上ル夷町にある家まで使いに出した。三樹三郎の妻君子が家を守っており、「まだ沙汰が決まらないとのことです」と松庵は戻ってきて報告した。
　五助の紹介してくれた漢方医の煎じ薬を飲んでいたが、全身にできた瘡は徐々に悪化していった。それでも体調のいい時は、寝室に毛氈を敷いて半切に絵を描くこともあった。
　十月の終わり頃、戊午の大獄の処罰が終わったようだという噂が流れ、松庵が伝手を頼ってその内容を聞きに行った。
　一�宸ﾌ関心は近藤茂左衛門と頼三樹三郎の処分だった。三樹三郎が今になるまで京に帰っていないことを考えると、遠島かもしれんという気がしていたのだ。
　煎じ薬が効いたのか寝床でうつらうつらしていると、「父上」と呼ぶ声がする。目を開けると、覆い被さるように松庵が覗き込んでいた。
「帰ったか。どうであった」
「……近藤茂左衛門殿は中追放でした」
　中追放とは田畑、家屋敷を没収し、住居地の他、広範囲に立入りを禁止する刑罰である。所払よりも重いが、思った通り死罪ではなかった。
「三樹三郎はどうなった」
　松庵が言い淀んだ。
「遠島か」
「………」
「まさか、死罪！」
　松庵が頷いた。一�宸ﾍ体を起こそうとして激しく咳き込んだ。
「父上、大丈夫ですか」
　再び体を横たえると、一�宸ﾍ目を閉じた。梨影の姿が浮かんでき、胸が締め付けられた。
「他の者の処分もお聞きになりますか」
「聞こう」
　目を開けると、松庵が懐から書き付けの紙を取り出した。
「梅田雲浜殿、獄死。鵜飼吉左衛門殿、斬罪。鵜飼幸吉殿、獄門。橋本左内殿、斬罪。小林民部大輔殿、獄死。三国大学殿、中追放。池内大学殿、中追放……」
「池内大学がどうして中追放なのだ。三樹が死罪ならば大学も同罪だろう」
「分かりません」
　観念して出頭したと言いよったが、役人と裏で通じておったに違いない。あの奸物(かんぶつ)め、そう思うと余計に三樹三郎の死が哀れだった。
　水戸斉昭侯や青蓮院宮様は永蟄居、近衛忠煕(ただひろ)公や鷹司政通公は落飾、隠居と数多くの諸侯や公家も断罪された。松庵の読み上げる声を聞いていると、大波に志士たちが呑み込まれた気がしてくる。
　一�宸ﾍ体を起こした。
「夷町に行く。籠を用意せよ」
「父上、洛中に入ることは御法度です」
　もし見つかれば、罪一等重くなる。
「構わん。草鞋さえ脱がなければ大丈夫だ」
　花は黙って籠を頼み、一�宸ﾍふらつきながらそれに乗り込んだ。松庵が横について歩き、半時ほど揺られて夷町の家の前に着いた。
　玄関を開け、松庵が訪うと、丸髷を結った君子が姿を見せた。
「先生！」
　一�宸ﾍ三和土に跪き、両手をついた。
「梨影殿にあれほど頼まれていたのに、三樹三郎殿を守ることができなかった。この不甲斐ない老人をどうか赦してくだされ」
　君子が足袋のまま下に降りてきて、一�宸ﾌ両肩をつかんだ。
「どうぞ、お上がり下さい」
「所払の身なので、草鞋を脱ぐことができないのです」と松庵が答えた。
「そうしたら、草鞋のままでも……」
「ありがたいが、儂はここでこうして……」
　君子が一�宸ﾌ肩を抱いた。鬢付け油の香りがふっと鼻腔を満たした。
「三樹と一緒になりました時から、覚悟はできておりました。父山陽先生の志を継ぐことができて、本人はさぞかし本望だと思っているに違いありません」
　君子は引き留めたが、長居して迷惑が掛かってはと、待たせてあった籠に再び乗り込んだ。
　そのまま帰るつもりだったが、気が変わって、東山円山町にある長楽寺に向かわせた。頼山陽と梨影の墓があるのだ。
　松庵に体を支えてもらいながら、階段をゆっくり上り、奥にある墓の前に来た。一�宸ﾍ落涙しながら地面に跪くと、額を地につけ、松庵に促されてもなかなか面を上げなかった。
　長楽寺での階段の上り下りが堪えたのか、一�宸ﾍ床に伏せることが多くなった。
　そんなある日、うつらうつらしていると、花が何か言う声が聞こえてきた。それでも目を閉じていると、体を揺すられた。
「お前様、岡田為恭様がお出でです」
　目を開けて顔を横に向けると、花の後ろに為恭が立っていた。立烏帽子を被り、直衣(のうし)姿である。
「ご無沙汰しております」
　花と入れ替わるように為恭が横に坐った。後ろには従者がいて、背中から大きな風呂敷包みを下ろそうとしていた。
「ご加減はいかがですか」
「ご覧の通り、もう起き上がることも叶いませんでな」
「そんなことを仰らずに、気を確かにお持ち下さい。近頃蘭方が効くとか申しますから、私からご紹介いたしましょうか」
「ありがたきお言葉なれど、天の定めた寿命には逆らえません」
「……今日は以前お預かりした粉本の数々をお返しに参りました」
　為恭が後ろにいる従者に何か言った。従者は風呂敷包みを前に持ってきて、結び目を解いた。粉本に混じって、いくつかの掛軸もあった。
「どうぞそのままお持ち帰りを」と一�宸ﾍ言った。
「え」
「もう儂が持っていても役に立たないのでな」
「それでも松庵殿には必要なのでは……」
「松庵はいずれ長州藩の許に身を寄せるゆえ、絵師であるお主に引き取ってもらう方が粉本のためになる」
「……よろしいのでしょうか」
「どこかに散逸するよりも、その方が儂も安心じゃ」
「それではお言葉に甘えて」
　従者は風呂敷を包み始めた。
「ひとつだけ、あの考経図だけは返していただけぬか」
　為恭は風呂敷の中を探って、一本の掛軸を取り出した。
「これでよろしいでしょうか」
　一�宸ﾍ掛軸の表書きを見て、頷いた。
「それではこれで」
　為恭は従者と共に立ち上がった。そして部屋を出ようとした時、こちらを振り返った。
「宇喜多先生、どうして……」そこで言葉を飲み込むと、一礼して去って行った。
　どうして、か。古来の大和絵を復活させるということは古来の精神を復活させることに他ならない、というのが訥言先生の教えであった。直に教えを受けなかったお主には、それが分からぬのも無理はない。
　一�宸ﾍ花を呼んで、考経図をよく見えるところに掛けさせ、飽きることなくそれを眺めた。

　宇喜多一�宸ｪ死んだのはそれから十日ほど経った十一月十四日のことである。花と松庵に見守られながら、静かに息を引き取った。享年六十五。
京都華光寺に墓がある。

［主要参考文献］

　久保田滿明「宇喜多一�帚Vの研究」（『中央美術』第十号から第十八号　一九三四）
　相見香雨「宇喜多一�帚V遺事」（『國畫』一月、二月号　一九四二）
　村松梢風『本朝画人傳』巻三（中央公論社［中公文庫］　一九七六）
　筧真理子「浮田一�宸ﾌ手紙」（岐阜市歴史博物館『研究紀要』７　一九九三）
　廣澤由起「浮田一�尓M『婚怪草紙絵巻』に込められたメッセージ」（恵泉女学園大学『恵泉アカデミア』16　二〇一一）
　藤森成吉「露艦入港と宇喜多一�宦v（『美術新報』14　一九四二）
　徳川美術館編『復古大和絵―田中訥言とその周辺』（一九七八）
　名古屋美術青年会『訥言・一�寫ﾖ・清展図録』（一九五五）
　則包末廣編『復古大和絵派　訥言一�寤ﾗ恭畫集』（一九四三）
　近藤茂雄『近藤山本兩志士小傳』（近藤家蔵版　一九二四）
　逸木盛照『冷泉為恭の生涯』（便利堂　一九五六）
　安藤秀男『頼三樹三郎』（新人物往来社　一九七四）
　吉田常吉『安政の大獄』（吉川弘文館　一九九一）
　井沢元彦『逆説の日本史』19　幕末年代史編�U（小学館　二〇一三）
　高橋敏『幕末狂乱――コレラがやって来た！』（朝日新聞社　二〇〇五）