裸のこころで   橋本 直樹


                      

 女と男の間には大きくて深い川がある。生物学的にも脳生理学的にも女と男は異なる生き物だ。女は情念の炎に身を焦がし思うが侭に突き進み、男は遠き一点を見つめ想いを留めて黙りこくる、か。
「主任、チョットお願いがあるんですけど」
 原稿に目を通していた勝村遼太はその声に顔を上げた。化粧っ気のないソバカスだらけの顔が遼太を見下ろしている。大田みづきだ。背の高いみづきは黒縁眼鏡を持ち上げながら、遼太の顔を覗きこむように首を傾げている。
「偏屈占い師に電話インタビューするから質問を考えろっていう件か」
 みづきは小さく横に首を振ると、後ろ手に持っていたものを遼太の前に差し出した。B5サイズのカラーチラシである。

 ヌードシアターひかり座 創立五十二周年 特別企画
 素人限定ストリップショー <新説ヒコボシとオリヒメ>
 スペシャル舞踊『死者へのレクイエム』 ゲスト草野ひとみ

 遼太は堺編集長と周囲の女性社員に目をやった。朝のミーティングが終わったばかりの、編集部がゆっくりと動きはじめた時間だった。堺編集長は真っ赤な顔で電話の相手を怒鳴り散らし、他の女性たちもパソコンをにらみつけている。それを確認すると、遼太はチラシを受け取って視線を落とした。
「ライターのかんなみユウさんが出演するので、ぜひ見にきてって言われちゃって。一緒に行ってください。一人じゃ行きづらいし、やっぱコワイんで」
「んなら、断ればいいじゃんか」
 鉛筆立ての横に置いた缶コーヒーを手に取ると、遼太はひと口飲んだ。ことさらにため息をつくと、ぽっこりと飛び出た腹をさすった。
「一本書いてもらったばかりでムゲに断れなくって」
「で、なんで俺なんだよ。第四編集部の女仲良し三人組で行くとか、学生時代の友達とかいるだろうよ」
「主任も行ったことなさそうだから、ちょうどイイかなと思って」
 遼太はムッとした。が、確かにストリップには行ったことがなかった。
三十手前の未婚の部下と、女性が眼の前で股を広げる演芸に行くなんてと思ったが、興味はあった。前髪とお腹周りが気になりはじめた四十過ぎの上司が手ごろで誘いやすいのだろうと、遼太は納得した。
 不意に妻の香と三歳になる娘の桜の顔が浮かんだ。香は遼太の行動についてほとんど何も言わない。干渉しないというより無関心という方が当てはまる。それでもさすがに部下の女性とストリップに行くとは言えないと、遼太は後ろめたい気持ちでチラシから視線を離した。
「いつだ」
「今週の土曜日です」
「休みの日だな」
「主任、お願いします」
 みづきは眼鏡の奥の眼を細めながら両手を合わせた。夏になると汗ばむと言っていた手のひらが吸いつくようにくっついている。
「そうだ、彼氏と行けばいいじゃん」
 いるのかどうかも知らなかったが、遼太は名案だと思い、人さし指でノートパソコンから漫然と延びたマウスを突ついた。
「一人で行きたいみたいです」
「へっ?」
「フーゾクはストリップにだけ行くらしいんですけど、一人でしか行かないんですって。お気に入りの子がいるらしくて、その子目当てにこっそり行くのがイイんですって」
「あっ、そ」
 これ以上つき合っていられないと思った遼太は泣きそうな表情のみづきから視線を外すと、鞄から手帳を取り出した。七月の頁(ぺーじ)を開き七日(土)に赤で○をつけた。


「高校の同級生から連絡があって、今週の土曜日、急に集まることになったんだ。一人の都合で昼から飲むので早めに出るわ」
 帰宅早々、遼太は香に告げた。夜十時のニュース番組がはじまっている。桜はリビングに面した四畳半の部屋で眠っていた。
 スパゲッティを茹でていた香が遼太の方を向いた。湯気に同化した白い顔は、蛍光灯の光を浴びてほとんど表情がわからない。しかし、右手に持った菜箸が窓際の観葉植物の方を差していた。遼太はそちらに目をやると笹が飾ってあった。
「桜が願いごと書いたの」
 週末は七夕なのだ。だからストリップショーがヒコボシとオリヒメだったのだ。そんなことにも気づかないほど仕事のことしか頭にないことに気づくと、遼太は笹にぶら下がった短冊を見にいった。

ぱぱいつもおそいねはやくかえつてきてあそんでね
 
 桜の気遣いが嬉しかった。やはり行くのをやめようかと思わず短冊を撫でた。クレヨンで書いた絵のような文字だが、ひらがなを覚えていることに遼太は感心した。
 遼太は桜の枕元に行くと、桜を見つめた。浅葱色のタオルケットが寝息に合わせて上下している。四月生まれの桜。ありきたりかもしれないが春よりいいと思う。香は娘の名前を付けることにも口出ししなかった。
 桜の寝顔を眺めていると、香と出会い、桜が生まれるまでのことが思い出された。
 
 遼太が香と出会ったのは大学三年の春だった。香は遼太の通う大学の一駅隣にある女子大に入学したばかりだった。バレーボール部に所属していた遼太は、クラブ主催の合コンで偶然香の隣に座った。友人に無理やり連れてこられたという香は、女性特有のおしゃべり好きなところや聞き上手なところ、初々しさや健康的な雰囲気は持ち合わせていなかったが、遼太の好む真面目で実直そうな情調をまとっていた。言葉少なに語り合ううちに、なんとなく打ち解けて、付き合うようになった。
 香は面長で色白という以外特徴のない顔だった。いつも笑みを湛えている子供っぽい口元と細くて長い首、肩でそろえた清潔感のある黒髪と甘やかな匂いを遼太は気に入っていた。
 授業が終わると遼太は香の通う女子大の正門前にある喫茶「ロトンド」で香を待っていた。香はすべての授業に出席し、黒板に書かれた一言一句をノートに写していた。遼太はノートを見せてもらったが、木に生えた茸のように右に傾いた文字がびっしりと並んでいた。
「全部わかってるの」と遼太が尋ねると、「目の前にあるものを書き写すのが好きなの」と香は笑った。遼太には理解しがたい習慣だった。遼太は興味があることにしかひた向きになれなかった。バレーボールの練習と日本史の講義は休んだことがなかったが、それ以外のことは流されるように生きていた。
 時々横浜や鎌倉に連れ立った。会話の中で、幼い頃は大田区の長屋で育ったことや保育園の頃に両親が離婚していること、父親から支払われる養育費で母親と二人で暮らしてきたことや父親と住む兄とはそれ以来一度も会っていないことなどを香は語った。
 大学四年の夏、遼太は第二志望の中堅出版社である文真舎出版から内定をもらった。「出版社なんてなかなか入れないよ」と香は喜んだ。
 しかし入社してみると編集の仕事は遼太が想像していた以上に過酷だった。深夜残業が続き会社に泊まる日が続いた。仕事が溜まって休日出勤が増え、香と会う時間が削られていった。
遼太は香のことが好きだったが、疲労から電話をすることさえ滞り、これという別れ話もしないまま香と会わなくなった。香と最後に会ったのは梅雨の時期だったか初夏だったかさえ思い出せなかった。
 香と最後に会って数ヵ月経った頃、遼太は会社の最寄り駅で大学の同級生に遭遇し、香が白石純也と付き合いはじめたことを聞いた。
 白石は遼太と同じ大学の工学部に在籍していた。在学中、遼太が最も親しく付き合った友人である。ヨット部だった白石は、年中日に焼けて浅黒く白い歯が眩しかった。白のポロシャツの襟を立て、遼太を呼ぶときはいつも指笛を鳴らした。ハンサムではなかったが、筋肉質の肉体と執着心のないドライな男らしさ、人の感情を読み取る能力に長けていたところから、男女を問わず人気があった。遼太とは一年のスポーツ交流会で気が合って飲みに行くようになった。
 クラブが終わると渋谷の駅前で落ち合い、飲み歩いた。大人びて見えた二人は十代とは思われず、成人気取りで好き勝手に振舞った。もんじゃを食べた後に三百グラムのハンバーグを完食し、深夜にボーリングと卓球で汗を流してから朝までカラオケに耽った。時々センター街でチンピラと喧嘩をすることもあった。
 大学を卒業すると、白石は情報工学を学ぶために大学院に進んだ。
 香と白石がどんな経緯で付き合うようになったのか遼太は知らなかった。だが、白石が香に好意を寄せていたことを知らないわけではなかった。「誕生日に、白石さんから手紙をもらったの」と香は言っていた。遼太は手紙の中身を尋ねなかったし、白石に詰め寄ることもなかった。女々しいと思ったし、何より香の心は自分にしか向いていないという根拠のない自信があった。
 同級生は二人が付き合っていることを白石の口から聞いたということと、白石が極端に痩せていたということを語ったが、遼太の耳には入ってこなかった。遼太は白石を憎み、香を憎んだ。
 香のことを忘れようとジムに通ったり香がくれた手紙やバレーボールを捨てたりしたが、時々堪らなく香に電話をしたくなった。しかし、白石と香が肩を並べて歩く姿を想像すると、寂しさが勝って電話に背を向けた。
 それから二ヵ月して、白石の実家から一枚の葉書が届いた。白石の訃報だった。白石の親族の文字で、「胃がんにより」と記してあった。
 遼太は葉書を読んだ後、畳の上に放り投げた。脳裏に浮かんだのは、病気とは無縁のような浅黒い顔と白い歯だ。次に白石と香が並んで歩く姿。続いて笑顔でこちらを見上げる香の顔だった。遼太を見上げているのか白石を見つめていたのかはわからなかった。白石と過ごした四年間の細密なイメージは何一つ思い浮かばなかった。遼太はもう一度葉書を手に取ると、破ってゴミ箱に捨てた。葬儀には行かなかった。
 遼太は香と別れてから誰とも付き合わず、バレーボールからも遠ざかった。
 二十七歳の秋、社長を取材するために遼太が生命保険会社を訪問したとき、受付にいたのが香だった。遼太の顔を見る香の顔に安堵の表情が浮かんだような気が遼太にはした。笑顔は変わらず柔和だった。学生時代の甘やかな匂いと子供っぽい口元は失われていなかった。
 数日後、遼太は香に連絡を取った。香はまだ母親と暮らしていた。会わなかった数年と白石と香が付き合っていた数ヵ月の溝を埋めるように遼太と香は週末に会った。忙しくても遼太はできる限り時間を作った。もう香を手放したくなかった。
 香は白石と付き合っていたことも白石の死についても口にしなかった。遼太の香に対する憎しみは、白石の死を知ったときに氷解したと思っていたが、完全に許せたわけではないことを知った。その証拠に白石と関係を持ったのか聞きたくなることがあった。勇気が湧かず、思い留めるのがいつものことだった。香は白石の余命を知って、同情心から付き合ったのだと遼太は自分を納得させた。
 香との心の距離が縮まったのかどうか遼太には確信が持てなかったが、再会して三年後に結婚した。遼太三十歳、香二十八歳のときだ。遼太が、「そろそろ結婚しようか」と切り出して決まった。結婚式には、香の家の人間は母親以外出席しなかったので、バランスを保つために勝村家の親戚を減らさなければならなかった。
 結婚を機に香は生命保険会社を辞めた。遼太が家に入って欲しいと頼んだからである。
 香とこれから作るであろう子供のために、遼太は通勤可能な埼玉の郊外に三十年ローンで3LDKの一軒家を購入した。低い生垣に囲まれた小庭のあるこぢんまりした家だ。遼太はやっと結婚した実感が湧いた。香は住宅ローンの借入についても口を挟まなかった。
 新居に引っ越してすぐ、香は観葉植物のモンステラ・ミニマを買ってリビングの隅に飾った。仏手柑の形に似た葉が、遼太には地面から這い出てきたゾンビの手のように見えた。なぜモンステラ・ミニマを買ったのかを尋ねたが、大きくならないからと答えた後に、香は、「昼間の話し相手」と呟いた。遼太は、なるべく帰宅後に話そうと思った。
 三年ほどは時々旅行をしたり、コンサートに行ったり、付き合っていた頃の延長のような時間を楽しんだ。
 香が子供をほしいと言ったことはなかった。遼太から、「そろそろどうかな」と尋ね、避妊具を外してセックスをするようになった。しかし二ヵ月が経っても妊娠の兆しはなかった。
 子宮がん検診を受けた香は、「ふつうの人より子宮が小さいから、子供ができにくいらしいわ」と遼太に告げた。遼太は自分に問題があるのではないかと疑っていたので一瞬胸を撫でおろした。しかし、香の体だけが原因かどうか明らかではなかったので、遼太は香に、「二人で診察を受けよう」と勧めた。夫婦の十組に一組が不妊の国なのだから、該当する確率も高いので仕方ないと遼太は諦めていた。
 検査の結果、遼太の精子は正常で原因はやはり香の体にあった。子宮卵管造影検査を受けた香は、子宮が小さい上に卵巣内で卵子が小さい状態でたくさんできる多嚢胞性卵巣であり、さらに卵管の形態が異常ということもわかった。検査は苦痛を伴ったはずなのに、香は顔色一つ変えなかった。
「堕胎したことはありませんか」という医師の質問に、香はくぐもった声で、「ありません」と答えた。
 隣で聞いていた遼太の脳裡に白石の子供を堕ろしたのではないかという疑念が浮かんだ。二人の関係を許し切れていない自分が嫌になって遼太は頭を振った。よく考えれば、香は子供ができにくい体なのだから、白石との間にもできたはずはないのだ。
 婦人科からの帰り道、遼太は、「一緒に頑張って治療しよう」と香の肩を抱いた。不妊という言葉は遣わなかった。香は頷かなかった。しかし、香は翌週から不妊治療専門のクリニックに通いはじめた。香のひた向きさを見ていると、住宅ローンにさらなる負担となる治療費も遼太は背負って立つ気になった。
 医師が指定するタイミングに合わせてセックスをしたが、数日後俯き加減でトイレから出てきて首を振る香を見ると、もう二人だけの生活で十分だと遼太は思った。香は苦悶の表情を面に出すことなく、子供を儲けようとひたすら努力した。表情が消えた白い顔が痛々しかった。母親になる悦びはどこかへ置き忘れてきたようだった。
 様々な治療を試して四年が経った四月、遼太の父が脳梗塞で死んだ。遼太は三十七歳になっていた。
 葬儀の席で叔父が、「遼太、早く冨美ちゃんみたいに子供こしらえて、お母さんを安心させんといかんぞ。子宝に恵まれる神社があるから騙されたと思って行ってみろ」と勧めてきた。田舎の人間は無神経だと思いながら、遼太は香を一瞥した。母が香を慰めていた。
 姉の冨美子が、「洋二、勇平、もうアルファベット全部覚えたの。香おばちゃんに教えてあげて」と四歳になる双子の息子の存在をこれ見よがしにアピールした。姉は二年前に離婚した後も体重は九十キロを超え、元夫から支払われる養育費と十歳も若い恋人にせびる生活費で息子たちを育てていた。幼い頃から遼太とは反りが合わなかった。姉は葬儀でも父の話は一切せず、父の思い出を骨壷に閉じ込めたまま平気でいられる女だった。
 父の死に直面して子作り気分になれるはずもなかったが、香は遼太のところまで来ると、「行ってみましょう」と呟いた。遼太は香の悔しさを汲みとって姉をにらんだ。それは遼太自身の悔しさでもあった。
 遼太は次の日曜日、父の初七日を終えた後に、紹介された神社を参拝した。表立って子宝を謳っている様子はなかった。
 遼太と香は、護摩壇の燃えさかる炎の前で一時間の祈祷を受けた。炎は生き物のようにうねり、色を変えて伸縮した。バチバチと木が破裂し、遼太と香の顔に火の粉が掛かった。体の表面が焦げるように熱を孕む。遼太は我慢できず何度も立ち上がろうとした。全身が汗で濡れ、遼太の目に汗が入って沁みた。微動だにせず、汗まみれで一心不乱に拝み続ける香の顔に薄っすらと赤みがさした。口元に笑みが浮かんでいた。まるで何かを駆逐したもののようだった。遼太が血色のよい香を見るのは初めてだった。冷たい家に香を住まわせていた気がして遼太は自省した。
 祈祷から二ヵ月後に妊娠が判明した。遼太は冗談交じりに、「親父の生まれ変わりかな」と香に言うと、香は表情を和らげた。
 遼太にとって四年は長かった。香にも長かったはずであるが、一度も苦労を表情に出すことはなかった。
 遼太の父が死んで一年後の四月に、桜は生まれた。

 結婚して八年が経つが遼太はいまだに香のことがよくわかっていない。苦労をともにしてきた仲なのに、はっきりと本心が掴みきれていなかった。愛しているが、単に家族という組織を構成しているだけのような気がした。夫婦とはこんなものなのだろうか。香との間に目に見えない大きな川がある。遼太はその川を渡る手段を見つけられずにいた。
「スパゲッティ、伸びるわよ」
 テーブルの上に湯気が立ったボンゴレがあった。


 遼太は駅の改札近くにある売店の前で立っていた。新聞スタンドには七月七日付のスポーツ紙が並んでいる。国民的アイドルがストーカーの男に硫酸をかけられたニュースが各紙の一面だった。
 ストーカーって奴は、自分を崇高だと思っているにもかかわらず、人一倍自己愛に飢えてやがる。相手の気を惹くために大統領を殺すことでヒーローになろうとした奴だっていたし。好きになった人と結ばれるだけで幸せなんだろうな。それが一番難しいのだけれど。
 遼太は新聞から目を反らすと、七夕に香と桜を家に放ってストリップを見にいくなんてひどい男だと自嘲した。嘘をついて出てきた背徳感は、しかし白石と香の過去を思い出すと、下のホームを通過してゆく電車の振動音のようにしばらくすると消え去ってしまった。
 さしたる目的もなく遼太は駅の窓から空を見た。どんよりとした空の色に似た重苦しい気分が体を支配していた。喉が渇いたので売店で紅茶のストレートティーを買った。みづきにはウーロン茶を選んだ。
 待ち合わせ時刻より五分遅れでみづきはやってきた。
「スミマセン。電車、遅れてました」
 白いTシャツにライトブルーのジーンズを履いている。遼太と背丈のかわらないみづきの脚は遼太が妬ましく思うほど長かった。
 珍しく平たく横長の赤い眼鏡を掛けている。
「黒じゃないんだ、眼鏡」
「プライベートはこれなんです。変装用、なんちゃって」
 遼太はみづきにウーロン茶のペットボトルを手渡した。ありがとうございますと言ってみづきは小さく頭を下げる。背中に丸く汗じみができてブラジャーのラインが透けて見えた。遼太の胸の鼓動が早くなる。
 二人並んで階段を降り、北へ向かう路線のホームに着いた。ホームには電車を待つ人が数人いる程度だった。
 遼太は文真舎出版第四編集部の主任だった。第四編集部は、マルチ文芸部、要するに自費出版からオタク系まで雑多なジャンルの書籍を編集する部署だった。
 大田みづきは三年前に途中入社してきた契約社員だ。第四編集部は、ワンマンぶりからどの編集部からも嫌われて転属してきた堺寿一編集長と遼太、みづきの他に三人の編集員がいる。
 遼太は四人の編集員の企画の進捗管理と打ち合わせの同行などをしていた。自分史や会社をブランディングするPR誌を作りたいという社長との打ち合わせでみづきと外出するときは互いにスーツ姿なので、私服でホームに立っているみづきに遼太は違和感を覚えた。違和感を和らげるために、「誰が線路を磨いてるんだろう」「敷石の間のあんなところに草が生えてるな」とみづきに話しかけた。みづきは、スマホでメールを打ち続けている。
 ストリップ。赤いライトの下で一糸まとわぬ女がムード歌謡に合わせて踊り、脚を開くショー。遼太は大学の同級生がポラロイドショーで撮った一枚の写真を思い出した。股を一八〇度近く開いた化粧の濃い女性の隣でピースサインをする笑顔の写真だ。遼太もみづきの前でそんな笑顔を見せるのだろうか。
 車体を軋ませながら急行電車がホームに入ってきた。土曜日昼前の電車は空いていて、遼太もみづきも座れた。節電のためかクーラーは効いていない。ドアが閉まると電車は静かにホームを離れた。
「ドキドキ、ワクワクしますね」
 みづきはスマホから顔を上げると張りのある声で言った。
「彼には俺と行くって言ってるのか」
「ハーイ、上司と行くって」
「そういうの、許す人なんだ」
「オオラカな性格みたいです」
 そういうのを大らかと言うのかと遼太は眉をひそめたが、みづきも彼が特定の女の子目当てにストリップに通うことを許しているのだから大らかだと思い直した。
「彼、年いくつ?」
「主任の二つくらい下です」
「三十九か。あ、それから主任はやめてくれ」
「ハイ、勝村さん。そうです、三十九です」
「歳、離れてんだな」
「私、おじさんが好きなんですよ。それも少しポッチャリめの」
 遼太は自分の腹を一撫でした。
「かんなみさんには何の企画で書いてもらったんだっけ」
「リア充への保健体育。中年からのセックスのキホンです」
「あれ、大田の企画だったんだ」
「勝村さん、私にあんまりキョーミないんですね」
「企画には興味あるけどな。で、かんなみさんてどんな人なの」
「新潟出身の三十四歳で、キャバクラ嬢とかテレホンセックス嬢をやってたみたいです。何本かAVにも出演してたらしいんですけど、三十歳ですべてのナイトワークを辞めて、舞台女優とライターに転職されたんです。ストリップも舞台に入るんですね。趣味はSMですって。全部かんなみさんがメールで教えてくれました」
 声が大きいと遼太は口に人さし指を当てる。みづきも口の前で指のバッテンを作ったが、しゃべり続けた。
「今日は奥さんになんて言ってきたんですか」
「高校の同級生と飲みにいくって」
「それでこんな早くに出てきたんですか。それもタナバタに」
「おかしいか」
「カンペキに怪しんでますよ」
 お前が誘ったんじゃないかと口から出そうだった。香の顔に疑りの表情は窺えなかったが、真実はわからない。
 会話が途切れた。暇に飽かせてケータイの待ち受け画面にしている香と桜の写真を見ていると、覗き込んできたみづきが、「奥さんキレイ、お子さんカワイイ」と言って口角を上げた。遼太は慌ててケータイの電源を切ってチノパンのポケットにしまう。
「なんでしまっちゃうんですかあ」とみづきは頬を膨らませた。
 沈黙があったが、みづきがスマホを遼太の前に差し出してきた。薄桃色の果実が乗ったケーキの写真だ。
「ピーチのタルト。彼が焼いたんです」
「パティシエ?」
「いえ、趣味で作るんです。市の職員です。仕事はゴミ収集。上司にイイ顔して、市民にもイイ顔して、そして私にもイイ顔してるんです。ついでに元カノにも。みんなにイイ人って言われてます。で、たまに一人でストリップへ行ってる。勝村さん、趣味ってあるんですか」
「昔はマッチの空箱を集めることだったな」
「珍しいですね。なんでマッチ箱だったんですか」
「パッケージデザインのレトロ感とマッチの残り香が気にいってたのかな。部屋で一人で嗅いでたよ」
「ヘンターイ。マッチってまだあるんですかね」
「昔の癖で、スナックとか料亭で見つけると今でも持ち帰るな。親父がヘビースモーカーだったから子供の頃はよく手に入ったけど、今はほとんどないな。親父も煙草の吸いすぎで脳梗塞で死んだし、マッチ箱にいい思い出はないよ」
「死因とマッチ箱はカンケーないと思いますけどね。奥さんはその趣味についてなんて言ってますか」
「ダンボール一箱分の楽しみだからお咎めなし。四畳半分になったら怒るだろうけど。一度だけ、どうしてそんなにこだわってるのって言われたっけな。マッチ箱を集めるのがこだわりになるのかって思ったけど、答えなかった」
「煮え切らないですね。スパッと、俺の趣味なんだ、文句あるのかって言えばいいんですよ」
「娘の桜はマッチ箱のにおいが嫌いみたい。臭いから物置きに入れてって言われたよ。そっちの方が堪えたよ」
「サクラちゃん、いくつですか」
 遼太は指を三本立てた。
「三歳でマッチのにおいなんてわかるんでしょうか。オマセですね」
「そうかな。今の趣味は、桜の写真収集だ」
 マッチ箱が四畳半の部屋を埋め尽くしても香は何も言わないことは遼太にはわかっていた。遼太の思い出の品に手を触れることもなかった。
「子供ができたら夫婦仲って変わりますか」
 みづきはスマホを指で触りながら遼太に尋ねた。
「変わってるんだろうなあ。俺は気づかないけど、大変そうだよ」
「それ、ダメ亭主のもっぱらの回答ですよ」
 夜中二時間おきに起きて桜をあやしたり授乳しているときも、散らかったおもちゃを片付けているときも、深夜に遼太が帰宅してから料理を出してくれるときも、香は表情を変えなかった。
 遼太は酔った勢いで、「俺に何か言いたいことはないのか」と絡んだことがあったが、香は黙って首を横に振った。それ以上香の心に踏み込むことはできなかった。香には沈黙こそが意思疎通のツールのようだった。
 遼太はみづきの横顔を見て黙り込んだ。みづきなら彼氏に何でもズケズケと言いそうだと思った。
 車内は蒸し暑かった。ぽつぽつと雨が降ってきた。空は曇っている。
「付き合って一年になるんですけど、私、いまだに彼に敬語使ってるんです。オカシイですか」
「やれるところまでやってみればいいよ」
「そのタッカンした物言い、勝村さんらしくないです。荒んでるう」
「俺にこそもう少し敬意を払え。ばーか」
 遼太は再び視線を窓に移した。みづきの言い回しがどことなく桜のものに似て聞こえた。
 パパ、ママにそんないいかたしちゃだめよ。パパらしくないんだから。もっとママをだいじにしなさい。
 桜は帝王切開でふつうの赤ちゃんより小さく生まれた。遼太は会社の先輩や姉の双子の赤ちゃんしか見たことがなかったが、確かにその子たちより小さかった。泣き声も産院で泣くどの赤ちゃんよりも弱弱しかった。
 同じく帝王切開で生まれた遼太は、両親から聞かされ続けた通り、小さくてほとんど泣かない赤ちゃんだったようだ。苦しそうに唇を噛みしめ眉根を寄せて両手を握りしめていたと、七十を過ぎた母が今でも言う。そういう意味でも、桜は遼太の血を受け継いでいると思えた。
 姉の冨美子は生まれたときから大きく、傍若無人に泣き叫ぶ赤ちゃんだったようだ。ふてぶてしさも生まれたときのままらしい。
 赤ちゃんのときの佇まいというものは大人になっても変わらないのではないかと遼太は考えていた。そうすると桜も遼太と同じく、自己主張をせず何でも自己完結してしまう控えめな女性に育ってくれるのだろうと、淡い期待を抱いた。しかし、つかみどころのない香の秘めたる性質がどう反応するのか、遼太には気掛かりだった。すでにその徴候が出て、あんなせりふを言いはじめているのではないだろうか。香が心に溜め込んでいる思いを代弁しているのかもしれないと遼太は不安になった。
「次の駅ですよ」
 遼太は雨粒のついた窓からみづきの方に顔を向けた。みづきは誰にでも手を差し出す人懐っこい赤ちゃんだったのではないか。
 遼太はポケットに手を入れて切符を探した。


 古い町並みが残る旧市街の一角にストリップ劇場はあった。屋根も外壁も民家と一体化した黒を基調とした控えめな造りになっている。町全体が単一色で塗り込められたような錯覚におちいるほどだ。
 出演女優の名前と写真を貼った看板が入口に立ててある。真ん中のひときわ大きな写真がプロストリッパーの草野ひとみだった。看板には大きく「創立52年特別イヤー」と書いてあるが、数字の一桁目が張り替え式になっている。
 開演四十五分前だった。きっとカップルなんていないはず。そんなことを考えながら遼太は入口の前で二の足を踏んだ。そんな遼太を尻目に、みづきは受付の前で煙草を吸う老人ににじり寄ると、「もうオープンしてるんですか」と尋ねた。しかめっ面で頷く老人に、「このチラシ持ってたら入場料千円になるんですよね」とみづきが甲高い声でたたみかける。
「女性だけね。男は正規の二千九百円」と老人は遼太を一瞥すると、股間をチョイと掻いてみせた。
「えっ、カップルは二人で二千九百円って言ってたじゃん」と口に出してから、遼太は自分のセコさが嫌になった。老人は誰がそんなこと言ったという顔つきで首を横に振る。みづきが舌を出す。
 遼太とみづきは別々に入場料を払うと場末の映画館のような板戸を押して中に入った。
「勝村さん、スミマセンでした」
 謝られる方が恥ずかしかったので、遼太は聞こえないふりをし、小さく咳払いした。
 中は薄暗かった。舞台を囲むように放射状に並んだ椅子の列が見えた。同時に女の喘ぎ声が聞こえてきた。メインステージを隠すアコーディオンカーテンにAVが映し出されている。
「野外レイプ物ですね」
 遼太の後ろをついてくるみづきの声が聞こえた。遼太が振り返ると、みづきは薄ら笑いを浮かべている。何でも赤裸々に口に出すみづきに遼太は混乱した。会社では見せない素顔なのかもしれない。
 困惑に追い撃ちをかけたのは非難めいた周囲の眼だ。好奇の視線が容赦なく遼太とみづきに向けられているのが遼太には痛いほどわかった。
 メインステージからひょうたん型に客席に迫り出したダンスステージを囲むように立て付けの悪い木製の椅子が並んでいる。クッションが破損しバネが飛び出しているものも多かった。背もたれの木も色が剥げていて、五十二年の歴史を物語っていた。
 遼太とみづきは、最前列に一人で座っている女の三列後ろに座った。
 着席するなり、「トイレ、行ってきます」とみづきは席を立つと、通路を歩いていった。まばらに座る男たちの視線が通路を歩いていくみづきにまとわりついたが、すぐに正面のAVに戻った。
 出張明けらしいスーツ姿の男や、競馬場にいそうな初老の男、大学生らしき集団が、互いの視線を探り合いながらこれからはじまるショーを待っている。
 遼太は立ち上がるとステージに張られたベルベット調の赤いカーペットを見た。縁は剥がれているが隅々まで掃除機がかけられていて、踊り子がケガをしないよう配慮されていた。
 みづきがトイレから戻ってくるのと同じタイミングで、遼太の席の後ろに男がやってきて、スチールケースと機材を置いた。盗聴器かと遼太は警戒したが、目立ちすぎるのでそれはないかと思い直した。
「ドキドキ、ワクワクしますね」
 ハンカチで手を拭きながらみづきが言った。鼓動は早まっていたが、遼太は聞き流して最前列に座る女の赤茶色の後頭部を見つめた。ボブの髪の毛はかなり傷んでいる。友人が出演するのか、草野ひとみのファンなのか、女は椅子に深く腰を沈ませていた。
「小学生の頃、市営団地の隣の部屋にお母さんと同じ歳くらいの女の人が一人で住んでたんです」
 みづきが間延びした声でしゃべりはじめた。
「美人じゃないけど色白で目がちっちゃくて八重歯がでた愛嬌のある人でした。ある日お父さんが帰ってくるなり、笑いながら隣の女がストリップ劇場で踊ってたってお母さんに言うんです。今思うとほんとバカな父親だなあって思います。ストリップって何って、お母さんに聞いたら、知らなくていいって言われました。次の日、廊下でばったり女の人と出くわして思わず聞いちゃったんです。ストリップって何ですかって。そしたら、その人ニコって笑って、男の人に笑顔をあげるお仕事よって言ったんです。だからお父さんも笑ってたんだって納得しました。私もお父さんのこと言えない相当のバカだったんだなって、血の繋がりを感じました。でも、自分の仕事、そんなふうに言えたらいいなあって思います。今の仕事は満点かな。主任のおかげです」
 言い終えたみづきは、ペットボトルのお茶を飲んだ。
 そりゃよかったなと遼太が言おうとしたとき、場内の照明が消えた。タキシードを着た三段腹の男が、メインステージに上がってきた。スポットライトが当たる。男はありきたりの挨拶をすると、「今日は素人大会です。たくさんスキンシップタイムを設けていますので心おきなく遊んでください」と観客に拍手を強要した。まばらな拍手が起こる。
「ビューティーファイブのダンスで幕開けです」
 ラテン調の曲に乗って五人の踊り子がメインステージの袖から飛び出してきた。踊り子たちは衣装を脱ぎ捨て、客席に秘部がよく見える角度でブリッジをした。毛が一本もないハイジニーナの割れ目が見えた。音楽のリズムに合わせて踊り子が起き上がる。
 遼太は横目でみづきを見たが、みづきも手を叩いて踊り子を見つめていた。
「彼女たち、どんな境遇で踊ってるんだろう」
 BGMが大きいので、遼太は声のトーンを上げてみづきに尋ねた。
「気になるんですか」
「人前で裸体をさらすって、勇気っていうか覚悟がいると思うんだ」
「何かとお金がいるんでしょう。他のフーゾクと掛け持ちしてる子も多いと思いますよ。後は体に自信があって見られたいか。男の人に笑顔をあげたいなんて思ってる子は一人もいませんね。スケベオヤジたちの小銭なんてアテにしてないでしょうけど」
「スケベオヤジの小銭ね」
 二千九百円でビービー言った自分を自嘲するように遼太は呟いた。
 ダンスステージを順繰りに踊り終えると、全裸の五人はメインステージに戻って一列に並んだ。めいめい異なる肉付きをしている。全員で右足を高く上げ、股間を全開にしてから足を降ろして一礼をした。乾いた拍手の中、踊り子たちは乳房を揺らしながら袖に引き上げていった。
 照明が点く。ファンファーレとともに、「ファーストスキンシップタイム」というアナウンスが場内に響いた。
 ステージ上で踊っていた五人の踊り子とさらに別の二人が通用口から客席に出てきた。常連客の元にまっしぐらに駆け寄る子もいれば、もてあましぎみに通路を歩きまわる子もいる。
 遼太の三つ隣の席に座る白髪頭の老人が、一人の女の子に手招きした。女の子は微笑んで老人の元に小走りでやってくると、膝の上にぴょんと乗った。「うほっ」と老人は声を上げた。ポロシャツの胸ポケットから札を取り出すと女の子に手渡す。女の子は腰にぶら下げたポーチに札をしまうと、老人に耳打ちをした。老人の手はそこに脳があるのではと思われるほど愚直に、女の子の左の乳房をていねいに揉んでいた。
「思いっきり、チチ、揉んでますね」
 みづきが遼太に囁く。老人を見て言っていると思いきや、入口に立っている遼太と同年代の男が、大柄な女の子の胸を背後から持ち上げるように揉んでいた。
「すっ、げーな」
 服を着た男たちが上半身裸の女にしがみつき、胸を揉み、赤ん坊のように乳首に吸いついている。男たちは日常の世界ではできない夢を求めて集まっているのだと思いながら、遼太は会場を見回した。
 遼太はチラリと横目でみづきの胸元を見た。
「貧乳ですけど、ナニか」
 みづきは遼太の心を見透かすように上目遣いで見つめながら呟いた。赤い眼鏡の奥の細い目は微笑んでいる。
「男ってオッパイのデカイ子、好きですもんね」
「それは被害妄想だ。うちの妻も小さいし」
「も、ってナニ」
 みづきの声をかき消すように隣から喘ぎ声が流れてきた。遼太が顔を向けると、老人が鼻息を荒げて女の子の股間に指を入れている。それを見ても遼太の下半身は反応しなかった。
「勝村さんはどの子がタイプですか」
「背が一番ちっちゃくて、目がくりっとした子かな」
「そっかあ、背が低い子がイイんですね」
「低い子が好きなんじゃなくって、あの子を形容するのに最適だったから使っただけだ」
「ソバカス顔ってどうですか」
「別に気にならないかな」
「スキとかキライの判断基準じゃないってことですね」
 遼太は軽く首を縦に振ると、周囲の動物的遊戯を傍観していた。
「マッタリと時間が過ぎていきますね。男ってなんかイイなあ」
 みづきは肘掛に頬杖をつきながら、舞台袖で女の子にハイタッチする司会者を見ていた。
「あの司会者、カツラですね。襟足がはねてます」
 遼太も前髪が抜けるのが気になっていたので、「かんなみさんの出るショーっていつはじまるんだ」と話を逸らした。
「さあ、いつでショー」
「洒落か」
「イイエ」
 ステージが明るくなり、再び五人の女の子たちがステージに出てきて、ダンスタイムがはじまった。
 遼太はみづきを誘ってロビーに出た。ロビーは喫煙する男たちの煙で澱んでいたので、遼太はチケットを握って小屋の外まで出た。みづきも黙ってついてきた。手にはしっかりとスマホが握られている。
 雨はやんで晴れ間が覗いていた。濡れた民家の屋根が陽光に黒く光っている。ジリジリと気温も上がりはじめていた。
「勝村さん、カタクなりましたか」
「えっ」
「シモの方です」
「AV見てたときがやばかった。でも四十過ぎるとダメだな。すぐに萎んじまう」
「彼、四十超えてないからまだあんなに激しいのかなあ。二回はセメテきますよ」
 みづきは周囲に聞こえない音量で、言い澱むふうもなく言葉を紡いだ。遼太がみづきの頭を小突こうとしたとき、入口の扉から純白のガウンを羽織った女性が出てきた。みづきに気づくと、女性は手を振って近づいてきた。
「わあ、大田さん、わざわざ来てくれたの。ありがとう」
「かんなみさん、オツカレサマです。とっても楽しいです。あっ、こちら上司の勝村です」
「文真舎出版の勝村です。リア充への保健体育では大田がお世話になりました。恥ずかしながら楽しませてもらってます」
 遼太は笑顔を作って頭を下げた。頭を下げながら変な日本語だと思って頭を掻いた。
「かんなみさんの出演は何時ですか」とみづきが尋ねる。
「二時半頃からかなあ。いつもテキトーなのよね」
 遼太は時計を見た。一時半を少し過ぎている。
「新説ヒコボシとオリヒメってどんな内容なんですか」
「肉食系女子たちが年に一度の合コンパーティで男たちをゲットする話。オリヒメとヒコボシの恋愛にストーカーが絡んでくるの」
 みづきは手に持っていたスマホを地面に落とした。
「大丈夫? 私は結構重要な役どころなんだけど、言っちゃうと面白くないから秘密ね。縛られるシーンもあるから楽しんでいって」
 かんなみさんは化粧の濃い顔を伏せた。上目遣いでつけまつ毛をした細い目を遼太に向けると、ウインクを投げてトイレの方に歩いていった。
 みづきはスマホを拾いながら、「七夕ってどんな話でしたっけ」と両の目尻を下げて無理に笑顔を作った。遼太は、機織工の織女が父天帝のすすめで牛飼いの牽牛と結婚し、放蕩三昧の挙句、離れ離れにされて、年に一度七月七日にだけ会うことを許されたのだ、と訥々としゃべった。みづきは遼太の目をじっと見つめている。話を聞いているのかどうかわからなかった。
「ストーカーは、出てこないんですね」
「だから新説なんだろう」
「よかった。家に帰ったらサクラちゃんに、新説じゃない方を話してあげてくださいね」
 遼太はほぐすように肩をグルグル回すと、深呼吸しながら周囲を見渡した。寺内町のような古い町並みを見ていると、子供時代に両親と姉とともに帰省した父方の田舎の情景を思い出した。
 特急で二時間かけて降り立った駅は無人で、駅前には食堂が一軒あるだけだった。着く時間を伝えてあるのか、改札口にはいつも叔父が車で迎えに来ていた。
 遼太は叔父の車に乗るのが好きだった。農機具のにおいと指示器のカチカチという音、それにたくさんのマッチ箱がドアポケットに入っていたからだ。遼太はいくつかこっそり取るとズボンのポケットに入れた。お気に入りは仏壇店と苗種店のマッチ箱だった。仏壇店のは老人が死に赤ん坊が生まれるイラスト、苗種店のは地面から緑色の太い腕が生えてくるイラストが描かれていた。見ていると勇気が湧いてくるのだった。
 姉は不貞腐れた態度でつまらなそうに目を瞑っていた。姉は何でも手に入る都会が好きで退屈な田舎を嫌っていた。「何も考えたくねえ」が口癖の姉を見ていると、遼太は子供ながらにこんな女とは結婚したくないと思った。結局楽をして金を儲けることにしか興味のない人間に育ってしまった。家族や他人との繋がりに関心のない人間だった。
「何考えてるんですか」
 一瞬、姉の独り言かみづきの声かわからなかったが、覗き込むみづきの顔を見て遼太は我に返った。
「雑誌とかに読者プレゼントとかあるじゃん。あれで、たまに自分の田舎の地方の当選者が載ってたりすると親戚じゃないかって探しちゃうんだ。親父の転勤でいろんな土地を転々としたんで、地方へ行くといろんな場所でそんなことを思うわけ。あのときのあいつじゃないかって。薄れていく人との繋がりを記憶に繋ぎ止めておきたいっていう未練がましさがあるのかもしれない」
「私は生まれも育ちも東京ですから、土地自体がコロコロ変わっていくのを見てきました。最近まで何かあった場所が、次に通ったときには空き地になってて、次に見たときには新しい何かが建ってて、次に見たらまた空き地になってて。町が自ら変形していくんです。二十九年の間に、どれだけのものが細胞みたいに作られて壊れていったんでしょう」
「この小屋、五十二年もよくがんばってるよな」
「ホント、何人の踊り子とスケベオヤジを受け入れてきたんでしょうね」
 遼太はみづきが晴れやかな顔をしているように見えた。何でも話してくれるみづきと結婚していたら楽しい家庭が築けたような、あり得もしない錯覚にほんの一瞬とらわれた。
 入口の扉を押すと、場内は真っ赤なライトに包まれ、タンゴの曲が流れていた。スモークが会場全体に広がり、霧の森に迷い込んだような空間に変わっていた。
 遼太とみづきが座席に戻ると、後ろに置いてあったスチールケースと機材はなくなっていた。
 ステージ上では一人の女性が踊っていた。今まで踊っていた女の子たちと明かに違う風格が漂っている。草野ひとみだ。三十代半ばに見える。腕や腰や臀部に余分な肉の弛みがなく、体の線が美麗だった。生々しい色気を放っている。会場を照らす照明が青や赤やピンクに変化する。妖艶に足を伸ばし、惜しげもなく白い秘部をさらけ出している。秘部の周りはきれいに剃毛されていた。
 観客の見やすい角度に体勢を変えながら、ここというときにポーズを決めると、また一歩ずつ流麗な足取りで移動してゆく。観客は身を乗り出す必要なく見たい部分を堪能できた。草野ひとみの体以外はすべて、薄暗がりの中、輪郭を失って溶け合っているようだった。
 泰然とした踊りを見ていると、遼太はふと悲しくなった。表情や背中、体全体にまとわりつく影が彼女の歩んできた過去を炙り出しているように感じたのだ。滲み出ていると言う方がふさわしい。哀愁漂う表現ができるのがプロのストリッパーなのだと、遼太は笑顔で股を開くだけの素人との技能の違いを見た気がした。彼女の醸し出す寂しさは心地よく、男を癒す力を持っていた。
 遼太は、堺編集長から原稿に朱を入れられるたびに、自分の仕事がプロの域に遠いことを思い知らされる。堺編集長は口が悪く、営業マンや印刷所のオペレーターを電話で怒鳴り散らしているが、心に残るベストセラーをいくつも世に送り出している。どうすれば人の心を掴めるのかを知っていた。それがプロの仕事だと遼太は自分の技量不足を恥じた。
 遼太の下半身がゆっくりと頭をもたげてきた。遼太はみづきに気づかれないようにさりげなく足を組んだ。前の椅子との間隔が狭くて下半身が突っ張り、尻を引いて括約筋に力を入れた。
「私も、シモの手入れしなくっちゃなあ」
 みづきが呟く。毛の生えていない秘部を見ていると、そんな台詞もしっくりくる。遼太は、二回もせめてくる彼を喜ばせるために秘部にシェービングクリームを塗るみづきを想像した。遼太の下半身はさらに硬くなった。
 メインステージに戻った草野ひとみは大きく一礼をすると体を反らしてブリッジをした。拍手が起こる。「ひとみちゃん、さいこー」の声援の中、体を起こすと、草野ひとみは、もう一度深く一礼してステージ袖に消えていった。
「いかがでしたか、草野ひとみの舞踏、死者へのレクイエム。ご堪能いただけましたでしょうか。いよいよお待ちかね、本日のビッグプロジェクト『新説ヒコボシとオリヒメ』の開演です。主演、耳坂ゆず、脚本は天の神役で出演する三船宝石作。ぜひお楽しみください」
 額に汗の粒を光らせた司会者が開演をアナウンスした。
 突然、場内の照明が落ちた。
 ――天の川の東岸に機織工場で働くオリヒメという娘がいました。
 陽気な吹奏楽の曲に合わせて白い布をまとった女性がメインステージに現れた。舞台がじんわりと明るくなり、薄化粧の顔がはっきりと見えた。色白で目のパッチリとした小顔美人だ。女性はダンスステージまでゆっくりと歩いてきた。
「私の名前はオリヒメ。毎日毎日織物を織ってる。ただそれだけ。でももうすぐ七月七日。年に一度の大合コンパーティの日。一年前にいいなあって思った牛飼いのヒコボシさんに会えるわ。物静かで優しそうな雰囲気が好き。細マッチョな体を思い出したらムラムラしてきちゃった」
 そこに高飛車そうな年配の女が二人登場した。目鼻立ちを引き立たせるために濃化粧をしている。
「オリヒメ、また男の体を想像していやらしいこと考えてたのね」
「もうすぐパーティだからって浮かれてるんじゃないわよ。処女ってどんな体だったかしら」と言うと、女たちはオリヒメの布を引き剥がした。「ちょっとやめてよ」
 女たちも暑いわねえと言いながら、服を脱ぎはじめた。
――こうして肉食女子たちの夜は更けていきました。
 再び暗転し照明が点くと、舞台は農場の書割に変わった。ヒコボシらしき男が牛の着ぐるみを引いている。
「ああ、もうすぐオリヒメさんに会える。去年一目見て好きになったけれど、声を掛けられなかったからなあ。ふつうっぽいところがかわいいんだ。でもあの怖い女が今年も言い寄ってきたらどうしよう。ガリガリに痩せた狐目の歯科衛生士が……」
 ヒコボシは頭を抱えた。
「オリヒメとこの川原で交わりたい」
 オリヒメが現れ、衣装の裾をめくり上げると、速やかに交わるヒコボシの空想劇が演じられた。本番行為は禁止されているのであくまでも演技だった。
――ヒコボシは一頻り空想した後、自慰に耽りました。
 再び暗転し一人の女が現れた。棒のようにひと際肋骨の浮き出た細い女性は、かんなみさんだった。
「麗しのヒコボシ様。一年待ちました。またあなたに会えると思うと嬉しくて胸が張り裂けそう。昨年はつれない態度だったので、今年こそはあの川原であなたに思いっきり抱きしめられたいわ」
 遼太はすぐに歯科衛生士だとわかった。歯科衛生士は裸になると、ステージを踊りながら駆け回った。ブリッジのポーズを決めた途端、照明が消えた。
――七月七日、合コンパーティの日がやってきました。
 照明が点くと、二人の女たちがめかし込んでいた。
「あんた、誰が目当てなの」
「私はホストのキミマロ様よ。引きしまった体がたまんないわ」
「私は大工のトメキチ様。あのそそり立つイチモツに一度貫かれたら体の奥まで痺れちゃって、もう虜よ。想像するだけで三回はイッちゃうわ。プロポーズしてくれないかしら。フリーターともおさらばなんだけど」
 そこに白い布をまとったオリヒメがやってきた。
「あら、相変わらずセンスの悪い服ね。それじゃせいぜいゴミ収集員か牛飼いがお似合いってところじゃない」
「あはははは」
 遼太はチラッとみづきを見た。みづきは真剣に舞台を見ている。
 女たちは舞台の袖に消えていった。
「何を言われてもいいわ。今日は年に一度、ヒコボシさんに会えるんだもの。会ったら何を話そうかなあ。牛のエサは何をあげてるのかとか、牛の名前は何ていうのかとか。だめだめ時間がないんだから、ヒコボシさんに好かれることを聞いて、今日こそは処女とサヨナラしなきゃ」
――女たちは広い広い天の川を必死に泳いで渡っていきました。
 川原では数名のカップルが談笑し、キスを交わし、交接していた。
 オリヒメがヒコボシを見つけて駆け寄ろうとしたとき、歯科衛生士がヒコボシの前に現れて抱きついた。
「やめてください」と嫌がるヒコボシに、「今夜は離さない。何度もイカせてあげる」と歯科衛生士はキスを迫った。オリヒメは歯科衛生士に駆け寄ると、ヒコボシから引き離して頬にビンタを食らわせた。
「ヒコボシさんが嫌がってるじゃない」
 歯科衛生士は憎しみのこもった表情を浮かべて唇を噛んだ。
 オリヒメはヒコボシの手を取ると二人で舞台の袖に消えていった。
 オリヒメの喘ぎ声が会場に響き渡り、一人残された歯科衛生士にスポットライトが当たった。
「あの女、絶対に許さないわ」
――それから毎日のように歯科衛生士の女から嫌がらせの手紙がオリヒメのもとに届きました。
「死ね、メスブタ。お前の全裸写真を宇宙の果てまでばら撒いてやる。この淫売。汚い盗人。一生恨んでやる」
「何とでも言えばいいわ。一年待てばまたヒコボシさんに会えるから」
 天の川の畔に佇むヒコボシにライトが当たる。
「毎日毎日歯科衛生士から求愛の手紙が届く。その度にこうして川に捨てている。来年はオリヒメと出会って三年目。プロポーズできる権利がもらえる。そうすればこの西岸で一緒に暮らせる。きっと喜んでくれるはずだ。それにしても素敵な体だったなあ」
――オリヒメは、歯科衛生士からの嫌がらせに耐え抜きました。そして、再び七月七日がやってきました。女たちは我先にと川を泳いで渡ります。
 オリヒメがビニールで作られた川を泳いでいると、後ろから歯科衛生士が近づいてきた。突然オリヒメの足首を掴むとそのまま海の底を表す舞台の袖にオリヒメを引きずり込んでいった。
 歯科衛生士は、痩せた体を折り畳む格好で岸辺に辿り着いた。肩で息をしている。目の前にはオリヒメを待ち焦がれるヒコボシが立っていた。
「いつになったらオリヒメは来るのだろう」
「オリヒメは来ないわ。川の底に沈んで浮び上がってこないわよ。邪魔者は消えたの。さあ二人で楽しい生活をはじめましょう。早くプロポーズしてちょうだい」
 呼吸を整えた歯科衛生士がヒコボシに抱きついた。頭を抱えたヒコボシは歯科衛生士を振りほどいた。
「オリヒメー」
 ヒコボシは天の川に飛び込んだ。
 そこに黒のボンデージ姿の女が現れた。
「我は天の神である。お前の悪行はすべて見ていた。お仕置きを加える」
 天の神は縄を持ってくると歯科衛生士を縛りはじめた。
 縄を二つに折って中心が首の後ろにくるよう首にかけ、胸の辺りに結び目を作ってゆく。腰で結んだ後、縄を二つに分けて左右から背中へ回して腰に結んだ。天の神が頻繁に位置を変えるので遼太の席から死角になり全貌は見えなかったが、徐々に歯科衛生士の体の中心に菱形の結び目ができてきた。縄が食い込んであばらが浮いている。天の神は縛り慣れているようだった。歯科衛生士は恍惚とした表情をしている。お仕置きなのかご褒美なのかわからないと遼太は華奢な体躯を見つめた。
 縛り終えると、歯科衛生士の括られた両手首が天井のワイヤーに掛けられた。くるくると回る体を天の神は鞭で叩く。ベチベチと乾いた音が響いた。体中が赤みを帯びてくる。続けて背中に真っ赤な蝋燭を垂らした。激しい喘ぎ声だった。
 舞台が真っ暗になり、「七月七日、ヒコボシとオリヒメは天の川の底で永遠の愛で結ばれたのでした」と天の神のナレーションがしめくくった。


 午後三時三十分、遼太とみづきは駅に向かって歩いていた。芝居の後、指入れショーがあったが、みづきの「もう帰りましょうか」というひと言で、遼太たちはストリップ劇場を後にした。
「かんなみさんの演技、どうだった」
 遼太は、少し蒼ざめて見えるみづきに尋ねた。
「主役を食う熱演でしたね。さすが舞台女優。天の神役の脚本家が親友の緊縛師らしいです。趣味のSMの。勝村さん、どうでしたか」
「男女生き方総研所長の小寺博彦さんの原稿を思い出したよ。女と男の間には大きな川がある。女と男は根本的に異なる生き物だ。女は情念の炎に身を焦がし男は黙りこくる、だったかな。あんなに女性から好かれたことがないからわからないけど、好きで好きでどうしても手に入れたいと思ったら人を殺したりするのかな」
「いますよ、情念の炎に身を焦がす女って。勝村さん鈍感だから、好きですって言い寄られてても気づいてないんじゃないかな」
 みづきは、アスファルトに落ちていた空き缶を蹴った。
「駅前に焼き鳥屋ありましたよね。寄っていきませんか」
「いいよ」
 焼き鳥屋まで来ると四時OPENと書いた札が掛かっていた。遼太とみづきは店の前で待つことにした。
「俺らの席の後ろに変なカバンと機材が置いてあったけど、なんだったんだろう」
 ハンカチで汗を拭いながら、遼太はみづきに尋ねた。
「ビデオカメラだと思います。ドキュメンタリー映画の撮影してたみたいですから。草野ひとみさん主演の。最前列に座ってた女の人、監督さんらしいです。前にかんなみさんがメールで教えてくれました。ちょい役でもいいから、かんなみさんも出たいって言ってました」
 スマホを操るみづきが答える。
 店が開いて中に入ると、六席のカウンター席と三つのテーブル席があった。遼太とみづきは一番奥のテーブル席に座った。店内はまだクーラーが効いておらず蒸し暑かった。
 遼太は生中を二つ頼んだ後、みづきの方にメニューを向けた。みづきは赤い眼鏡を持ち上げながら、適当に二人前ずつ注文した。
「勝村さんは?」
「じゃあ、かわ塩と軟骨唐揚げ」
「ちょうどイイですよね、同級生との飲み会って言ってあるんですから」
 遼太は真正面からみづきの顔を見た。意外とかわいい顔をしているなと思った。鼻が少し鷲鼻っぽく唇の色が灰色掛かっている。小学校の頃好きだったオカッパ頭の徳子ちゃんに似ていると思いながら、遼太はみづきを見つめた。徳子ちゃんは六年生のときに熱湯風呂に誤って落ちて亡くなった。生まれて初めて毎日見ていた人間が突然目の前からいなくなる衝撃を受けた体験だった。中学生の姉は、「どんくさいヤツ」と吐き捨てた。遼太は一週間泣き続けた。
「何かついてます?」
「目が二つ」
「よかった。三つって言われたら困るし。私、短大の頃からマニアに好かれる感じだったんです。そんな顔なんですね」
「特殊メイク愛好家とか」
「ヒドーイ」
 遼太はみづきに頭を下げながら、おしぼりで顔とうなじを拭いた。
 生中が運ばれてきて、とりあえず「お疲れさまです」と言って乾杯した。みづきはビールをごくごくと喉に流し込んだ。一気に半分がなくなった。酒好きの堺編集長と張り合える男勝りの飲みっぷりは今日も健在である。クーラーが効きはじめてきた。
「実は私、彼の元カノにストーカーされてるんです」
 唇についた泡を舌で舐めたみづきが呟いた。遼太はみづきの目を見つめた。みづきも食い入るように遼太を見ている。鳥を焼く煙が流れてくる。遼太は手に付いたジョッキの水滴をおしぼりにこすりつけた。
「アパートに帰ったら階段の陰に立って私が部屋に入るのをじっと見てるんです。ミクシィやフェイスブックで友達申請があったので仕方なく承認したら、何かにつけてコメントしてくるんです。邦男くん、きちんと三食食べてるかしらとか、嫌いなニンジンは食べさせないでとか、あなたたちがデートした場所に私も一人でよく行くのよとか。彼のお尻のヤケドの痕がカワイイとか、ヤルときは絶対にゴムを付けなきゃダメよとか。たまに二人が付き合ってた頃の写真をアップしたりもするんです。ベッドの中の写真とか」
 みづきは、スマホで画面を撮影した写真を遼太に見せた。
「彼は何て言ってるんだ」
「かわいそうな奴なんだって。両親もいなくて、初めて好きになった相手が彼なんですって。放っておけばホトボリも冷めるだろうって言うんですけど」
 遼太はみづきの沈んだ表情を見るのは初めてだった。
「彼の子供を堕ろしてるって、ミクシィでダイレクトメールを送ってきたんです。彼に聞いたら、嘘だって言ってましたけど。気持ち的にスッキリしなくって」
 数本の焼き鳥が運ばれてきた。遼太はビールを飲み干すと、生中をもう一杯注文した。
 遼太も香に、白石の子供を堕ろしたのかは、言及できなかった。だからそれ以上、みづきに彼を追及しろとは助言できなかった。
「彼が悪い。彼から大田につきまとうなって言ってもらえ。俺が彼なら、そう言う」
 そんな男、別れちまえと言おうとしたが、遼太は思いとどまった。
 汗だくの大将がおかわりの生中を運んできた。
「主任、お願いがあるんですけど」
「ストーカーを葬ってくださいとか言うなよ」
「九月に結婚するんです」
 遼太はジョッキを握ったまま止まった。
「お、め、でと」
 いいのかと言いかけたが、遼太は言葉を飲み込むようにビールをぐいっとあおった。
「契約社員ですし、会社には身内だけで式を挙げるって言おうと思ってるんですけど、主任には披露宴に出席してほしいんです。で、上司としてスピーチもお願いしたいんです」
「なんで俺なんだよ。スピーチなんてやったことないし。編集長に頼め」
「カタガキがほしいんじゃないんです。主任に、勝村さんに来てほしいんです」
 そう言うとみづきは黙った。顔がほんのりと赤くなっている。遼太はビールのせいだと思おうとした。
「あっ、トイレ、行ってきます」と言い置いてみづきは席を立った。
 遼太はまた一気にビールを喉に流し込む。続々と焼き鳥が運ばれてきた。焦げたあぶらの香ばしいにおいが立ち込める。
 トイレから戻ってきて座ったみづきに、「スピーチは原稿を読むけど、いいな」と遼太は呟いて生中をおかわりした。
 遼太の顔は真っ赤だった。ストーキングする元カノに何も言えない男と結婚するみづきに、心からおめでとうと言えない、釈然としないわだかまりが心に残った。
「今日は天の川、きれいに見えるかなあ。本物のオリヒメ、川を渡れるといいなあ」とみづきは目を瞬かせた。
 織女なんていないよと遼太は心の中で呟いた。


 遼太は七時前に帰宅した。顔が火照っている。
「パパくさい。でもはやくかえってきてうれしい」
 玄関で出迎えた桜が鼻をつまんだ。酒の臭さがわかるのだと、遼太は娘の成長を喜んだ。
 風呂の脱衣場で焼き鳥のにおいがまとわりついたポロシャツを脱ぐと、スチールケースから新しいTシャツを取り出して着替えた。頭に酔いが残っていて微かにふらついた。
「みんな元気だった?」
 リビングに入ってきた遼太に香が尋ねたので、「あんまり変わってなかった」と答えた。「そう」と言って香はコップに麦茶をそそいでテーブルに置いた。遼太は香の顔色を窺ったが、変わった様子はなかった。
 行きがかり上というよりむしろ嘘を隠すために、遼太は自分の部屋まで高校の卒業アルバムを探しにいった。しかし、実家に返したことを思い出し、偶然書棚にあった大学の卒業アルバムを持ってリビングに戻ってきた。酔いが心を大きくさせていた。
「高校のアルバム?」
「いや大学の」
 香の表情が曇ったように遼太には見えた。
「みせてみせて」
 桜が遼太の手から強引に卒業アルバムを奪った。重さでよろけたが、すぐにテーブルの上に置くと桜専用の椅子に座った。ページを捲ると桜は男子学生の顔を熱心に目で追った。桜にはおじさんに見えるだろうと思いながら、遼太はウェットティッシュで桜の手を拭いた。
「二十年ほど経つんだなあ」
 遼太は麦茶を飲みながら香の方に目を向けた。
「もう忘れちゃったねえ」
 流し台の前に立つ香は、桜に話し掛けるように答えた。
「パパみつけた。おにいさんみたい。でもこっちのひとがかっこいい」
「どれどれ、パパより格好いい男はどれだ」
 遼太は、桜が指差す写真を覗き込んで目を見開いた。ポロシャツの襟を立てた浅黒い顔の男だった。ひと際楽しそうに微笑んでいる。
「へえ、桜はこんな人がタイプなんだ。白石純也って言うんだって」
 遼太は大きな声で名前を読み上げた。香は食器を洗う手を止めなかった。ストリップという異世界を目の当たりにして、遼太は開放的な気分になっていた。
「へえ。桜もママと男の人の好みが同じなんだな」
 桜は、意味がわからないというふうに眉根を寄せて不審そうな表情を見せたが、すぐに、「でも、やっぱりパパのほうがかっこいい」と言って遼太の頬を摩った。
「パパの方が格好いいわよね。ママもパパがずっと好きだから、桜がこの家に来てくれたんだもんね」
 香の声が震えている。食器を洗い終えた香は、モンステラ・ミニマに水をやりに窓際までいった後、風呂場の方に歩いてった。
 遼太は、白石と付き合っていた数ヵ月のことを香に聞けずにいた。白石のことを心から愛していたのか。白石が嫉妬に狂い、遼太を殺そうと思うほど、香が遼太のことを愛していると表現してくれたら、こんなにも思い悩んだりはしないのにと思った。
 遼太は、誰かから奪い去りたいと思うほど香を愛しているだろうかと自分に問うてみた。
 答えが出ない代わりに、今まで香のために何をしてきたか思い返してみた。家を買い、生活に必要な金を家に入れ、働かなくていいように家庭に入ってもらった。それで香が満足しているのかもわからなかった。
 桜が遼太の耳に顔を近づけてきた。
「ママね、いつもなんでもパパにいいなさいっていうの。パパのシャツくさいねとかマッチのはこくさいねとかパパもっとはやくかえってきたらいいのにねって。さくら、うんっていってから、ママがいったとおりにパパにいうの。パパおこってなあい。ママにいっちゃだめよ」
「パパは怒ってないし、ママに絶対言わないよ。約束する」
 遼太は桜の頭を撫でた。
『お風呂のお湯が溜まりました』という自動音声がリビングに響いた。
「桜、パパと一緒にお風呂入ろうか」
「はいるはいる」
「今日は七夕だから、彦星さんと織姫さんのお話をしてあげよう」
「タナバタってなあに」
 遼太は桜の服を脱がせながら、香が苦しんで産んでくれた桜を愛おしく思った。絶対に誰かの前で裸になってほしくないと自分の悪行は棚に上げて、遼太は桜の柔らかな裸の背中を押した。


 みづきが沈んだ顔で出社してきた。遼太がストリップに付き添った二週間後の月曜日だった。空は薄暗く、朝から雨が降っていた。
「おはようさん」と遼太が声を掛けても返事がない。彼と喧嘩でもしたのかと思っていると、みづきはショルダーバッグを下げたまま一目散に堺編集長のデスクへ歩いていった。
「ライターのかんなみユウが、死んだ?」
 黒いカッターシャツを腕まくりした堺編集長のしわがれ声が事務所内に響いた。他の編集員たちが編集長の机の方に視線を向けた。
「死因は?」
「緊縛中の事故らしいです。縛ってたのが、草野ひとみさんで」
「きんばく? 誰だ、くさのひとみって。まあいい。で、保健体育本はどこまでできてんだ」
「本文は校了してます」
「帯は?」
「下版前です」
「差し替えろ。セクシーコラムニストかんなみユウ、最後の原稿でいけ」
 みづきがこぶしを握りしめているのが遼太の席から見えた。
「イヤです。事故を売り物にするなんて」
「契約社員の分際で、お前にそんな権限はない、ボケ」
「じゃあ、担当を替えてください」
「おい、勝村、リア充への保健体育の帯を……」
「俺も『リア充を手に入れるために、コレだけのテクがあれば大丈夫』のまんまでいいと思います」
 遼太は、みづきから確認用にと送られていたメールを開けて、帯の文言を読み上げた。
 みづきは遼太の方を見もせず、荒々しく音を立ててドアを開けると、走って事務所を出ていった。遼太は気まずい雰囲気の澱んだ事務所を抜け出してみづきの後を追った。
「素人どもには、儲かる本を作る感覚がまったくねえな」という堺編集長の怒声が背後で聞こえた。
 給湯室で、眼鏡を取って涙を拭っているみづきが立っていた。
「ひでえ言いぐさだよな」
 遼太はみづきに近づいて声をかけた。
「最近イライラしてて、つい。主任、頭、撫でてくれませんか。たぶん落ち着きますから」
 遼太の声を聞きつけたみづきは眼鏡を掛けてにっこり笑った。遼太は言われるままにみづきの頭を撫でた。みづきの頭蓋骨は小さかった。
「昨日の晩、三船宝石さん、天の神の役をやってた脚本家です、からメールが来たんです」
 みづきは鼻を啜りながら話しはじめた。
「草野さんのドキュメンタリー映画のSMシーンに、かんなみさんが出演したいって手を挙げたらしくて。宝石さんと草野さんとかんなみさんの三人で緊縛のリハーサルをする予定だったのに、当日宝石さんが風邪をこじらせたので、病院に寄ってから草野さんのマンションへ行くことになったみたいです。その間に、草野さんがDVDを見ながらかんなみさんの体を縛る練習をしてたら、誤って縄が首に巻きついて体重が掛かったまま首が絞まったらしいです。宝石さんが駆けつけたときにはかんなみさんは救急車で運ばれた後で、救急隊員が着いたときにはもう……。草野さん、警察に捕まったそうです」
 草野ひとみの陰鬱なダンスが遼太の脳裏に浮かんだ。あのとき遼太は草野ひとみの踊りに彼女の過去が投影されていると感じたが、今思うと未来を予測した重苦しさが漂っていたのだと感じて竦み上がった。
 レクイエムの相手がかんなみユウになろうとは思いもよらなかっただろう。
 みづきの目がまた涙で膨らんだ。遼太はハンカチでみづきの頬を伝う涙を拭いた。
「かんなみさん、メールで主任のこと、ぽっちゃりしたカワイイおぼっちゃんねって書いてました。チョット嫉妬しました」
 遼太は、「そう」と答えた。ストリップ劇場の入口の前で、白いガウンに身を包んだ女の痩せた顔を遼太は思い出そうとした。去り際に残したウインクと目尻にできた皺がおぼろげに記憶に残っていた。
 遼太は、「彼の元カノ、まだしつこいのか」とみづきに尋ねた。
 みづきは目元を小指で拭きながら、重々しく頷いた。
「最近、恐くてアパートに帰ってないんです。彼の家に行くと気持ちを逆撫でるので、友達の家に泊めてもらってるんです。昨日、郵便物を取りに戻ったら、郵便受けにこの写真が入ってました」
 みづきはショルダーバッグから一枚の写真を取り出して、遼太に見せた。赤い柄のナイフを砥いでいる写真だった。
「私も、オリヒメみたいに殺されちゃったりして。コワイコワイ」
 遼太は、みづきの手から写真をひったくると、ビリビリに破いた。
「彼が動いてくれないなら、警察か弁護士に相談した方がいい。俺がついていってやる」
 みづきは首を横に振ると、遼太を残して給湯室を後にした。
 給湯室を出る間際、振り向きざまにみづきが口を開きかけた気がした。恐怖からか、少しやつれて見えた。
「リア充への保健体育」の帯の文言は、「セクシーコラムニストかんなみユウ最後の原稿 リア充の入口はここから」に変更された。


「原稿を書いてもらってたライターが急に死んじゃって、出版間際で、帯の原稿が差し替えになってね」
 先に布団に入っていた香の隣に遼太は潜り込んだ。
「大変だったわね」
 香はいつものように短い言葉で遼太を労った。化粧を落としても素顔はあまり変わらず、逆に肌の透明感が際立った。
 かんなみユウについて詳しいことは話せなかったので、帯の差し替えの件で堺編集長に歯向かって怒鳴られたことだけを手短に伝えた。
「その本を担当してる部下がストーカーに遭ってるんだ。相談されてるってほどじゃないけど、どうにかできないかと思って」
 天井を向いていた香が遼太の方に顔を向けた。口元から微笑が消えている。
「部下って女性?」
 遼太を見つめる香の目が不安げだった。
「うん。ほら今度結婚式に出てスピーチしてほしいって言ってる大田。彼の元カノに嫌がらせを受けてるんだ。彼はそのうちほとぼりが冷めるから放っておけって言ってるらしい。でも、元カノがいまだにメールとか手紙とか写真を送りつけてくるんだ」
「そんな男の人とは別れた方がいいわ。そう言ってあげて」
「でも九月に結婚するんだぜ。もうすぐだよ」
「絶対に結婚させちゃだめ」
 珍しく強硬な態度の香に、遼太は口を噤んだ。
「執拗だもの。危険よ」
 香が危険だと言っているのがストーカーされているみづきなのか、ストーカーしている元カノなのか、遼太には判然としなかった。
「付きまとわれたこと、あるのか」
 遼太は言葉を振り絞った。香は目を瞑ると肩をぶるぶると震わせはじめた。遼太は驚いて上体を起こすと、布団の中で震える香の肩を摩った。
「深い意味はないんだ。何となく聞いただけだから。悪かった」
 唇を噛みしめた香の顔は蒼ざめていた。遼太はそれ以上何も言えず、うろたえる香が寝付くまで肩を摩り続けた。
 香がストーカーされていたとは、遼太はまったく知らなかった。相当の恐怖を味わったのだろう。大学時代以降だとすると、自分が守ってやれなかったのではないかと遼太は自責の念に駆られた。なぜ相談してくれなかったのか。
 大学時代、喫茶「ロトンド」で香はこんなことを言っていた。
「お母さんが仕事で家にいないから、私、太った鼠とよくしゃべってたの。リッツを神棚に供えてたら毎晩七時に出てくるの。学校であった出来事を私が一方的に話すだけ。太った鼠は赤い目をじっと私の方に向けて聞き入ってるふりをしてくれるの。へとへとに疲れるくらいしゃべっても太った鼠は何も答えてくれない。学校のクラスメートと同じ。私は一人一方的に話すだけ。そのうちに答えのない会話に失望しちゃったの。ある日、お母さんが鼠捕りで捕まえて生ゴミと一緒に捨てちゃって。その日から思ってることを相手に伝えても意味がないって思うようになったのね。心の中に封じ込めておくべきだって」
 遼太は昼間、水をやりながらモンステラ・ミニマに語りかける香を想像した。
 何も語らない香の何を知っているのだろうか。大田区の長屋で生まれたこと、保育園のときに両親が離婚して父と兄とはそれ以来会っていないこと、高校と大学へ奨学金で通ったこと、黒板を一字一句書き写すこと、会えない時間が続いても会いたいと言わないこと、遼太が初めての男だったこと、白石と付き合っていたこと、不妊治療という苦役を平然と受け入れて戦い続けられる芯の強い女であること、いつも口元に笑みを絶やさないこと。知らないことの方が多いのは確かだった。それを直に香に聞けない脆弱さを遼太は情けなく思った。


『(くにおさん、みづきさん、ご結婚おめでとうございます。ご両家の皆様に心よりお祝い申し上げます。ただ今ご紹介に預かりました文真舎出版の勝村でございます。新婦みづきさんの会社の上司です。みづきさんが編集した書籍「社長・近藤公明のアガらない話術」を熟読したのですが、どうにもアガってしまいそうですので、書面を読ませて頂きます)
 みづきさんとの出会いは三年前の夏でした。履歴書と企画案を送ってきたのですが、目を惹いたのが企画案を五つもつけてきたことです。その中身がどれも面白かったんです。早速、一次面接に呼びました。人当たりのよい笑顔が編集部に潤いを与えてくれる気がしました。鬼の編集長ともやりあえる根性もありそうでした。
 最終の編集長面接当日、みづきさんは五分前になっても来ないんです。心配していると、二分前に電話がかかってきて、「裏道を通ってきたら道に迷いました。お寺の前にいるんですけど」と息を切らした声で言うんです。私は慌てて事務所を出て目ぼしい方向に走りました。数分でスーツ姿のみづきさんを見つけました。「ここという大事なときは王道を歩いてこなきゃだめだろう」。みづきさんへの最初の忠告でした。面接が終わった後、編集長に直談判して採用が決まったのです。
 それから三年の間に十五冊の書籍を作ってくれました。売れたものもあれば、売れなかったものもあります。
 みづきさんには、会社の社長の自叙伝の編集を担当してもらっていました。社長との対談の日にはスーツを着て出掛けました。二人ともスーツを一着しか持っていないので、いつも同じ格好でした。お互いのスーツ姿を見て、「スーツコスプレ、似合ってるね」と言い合ったものです。
 私の仕事も手伝ってくれました。ミュージシャンの写真集やエッセイ本を作ると、ライブ会場で販売することがありますが、みづきさんは頼みやすいのでよく借り出しました。その他、ライターの舞台を見にいったりもしました。そう思うと編集部の中で一番よく一緒に仕事をしたのが、みづきさんだったのではないかと思います。
 自分が正しいと思ったことには真っ直ぐで、信念を曲げないところがあります。何ごとにも挑戦してみる姿勢がある人だと思います。その精神は、結婚生活でもきっと活かされるでしょう。
 最近は、近藤公明社長や斎木等教授などビッグネームの仕事を卒なくこなしてくれています。編集部になくてはならない人材ですが、これからは家庭生活がありますので、遅くならないように気をつけます。
 最後に、『アガらない話術』より引用します。江戸時代に最もいけないこととされたことの一つに『相手の時間を奪う』ということがあったと言います。何をするにも自分の損得ではなく、相手を大切に思うことが必要になります。相手を大切に思う人は、相手の時間を奪わないように気をつけることができるのです。
 みづきさんはどんなときでも自分の仕事を後回しにして、他の編集員の校正を優先する人です。自分の時間を削ってでも、相手の時間を尊重し、奪わないように心掛けられる人です。そういう思いやりが人間関係をスムーズにしていると思います。これからはその思いやりをくにおさんに向けてもらい、目の前に横たわる障害を取り払って、幸せな家庭を築いてください。おめでとうございました』

 遼太は缶ビールを飲みながら、披露宴で読むはずだったスピーチ原稿を読み直していた。オカッパ頭の徳子ちゃんが突然学校に来なくなったときと同じ寂寥感が遼太の心を満たしていた。
 三日前、みづきはアパートの前で彼の元カノにナイフで刺されて死んだ。結婚式の前日だった。元カノは倒れたみづきに馬乗りになって何度も刺したとニュースキャスターが語るのを聞いた。元カノは、彼とみづきが結婚準備を進める姿をずっと追っていたに違いない。式を目前に異常性が暴発したのだ。遼太はかんなみさんが演じた歯科衛生士の狂気を思い出した。もう二人ともこの世にいないのが不思議だった。
 みづきは執拗なストーキングに耐え続け、彼との愛を貫こうとした。意地だったのだろう。
 香が言ったように、どうしてみづきを彼から引き離せなかったのかと遼太は自分の無力を悔やんだ。無力などではなく、いざというときに心の声を口に出せない不甲斐なさが悔しかった。しかし、食い止められたかどうか自信もなかった。遼太は唇を噛み、拳を握りしめた。
 赤い柄のナイフの写真を遼太に見せた後、給湯室を出るときに、何か言おうとしたみづきの顔をはっきりと思い出せた。半開きだった灰色掛かった唇は、「私、殺されます」と言おうとしたのだ。いや「主任、助けて」だったかもしれない。
 香がテーブルの向かいの席に座ってきた。遼太を非難する目付きだ。初めて見る憎悪に満ちた眼差しである。
「言わなかったよ、別れろって」
 香の視線に耐えられず、自らを擁護するように遼太は口を開いた。
「言ったところで何が変わったかなんて誰にもわからない」
 遼太の心臓は壊れたポンプのように激しく打っている。
 踏み出すのに途轍もない力がいったのに、大田が殺されて思っていることを吐き出す勇気が湧いた。ずっと聞こうと思っていたけれど聞けなかったことだと前置きすると、「俺と自然消滅した後、なぜ白石と付き合った。白石の余命が短いと知った憐みからか。それとも、本当にあいつを愛していたからか」と矢継ぎ早に言葉が出てきた。
 香は黙っていた。顔色がいつもより透き通っていて紙石鹸のようだ。自分勝手かもしれないが、腹に溜め込んだことを面と向かって香に聞くことが、救えなかったみづきの鎮魂になる気がした。
「されてたのよ」
「えっ」
「……ストーキング」
 遼太はやはりという思いに帰着した。
「いつ」
 両の拳をぎゅっと握りしめた。
「あなたが会社に入った頃から。……あなたと私が大学近くで会わなくなったからよ」
 なぜ相談してくれなかったと言いかけて、遼太は曖昧に笑った。入社したばかりの頃は忙しく、会う時間さえ作れなかったではなかったか。香はそんな遼太を気遣ったのだ。
「最初は手紙で、あなたのことが前からずっと好きでした。ずっとあなたを見ていましたって書いてきたの。でも、日を追うごとに、エスカレートしてきて」
「どんなふうに」
「僕のものになってくれないと、あなたを葬るって」
 香は遼太を見つめた。「あなた」という言葉が虚空を漂い、遼太の耳に入ってきて反響した。
「あなたと会っているときも、ずっと付きまとわれていたの。私たちが写っている写真が郵便受けに入れられるようになって。……あなたの顔がナイフで切り刻まれていて」
 遼太は頬を一撫ですると、「まさか」と声を漏らした。
「どうせ俺はもう長くないんだから、なんだってやれる。なんでお前たちがのうのうと生きられて、誰からも好かれるように生きてきた俺が神様に嫌われて、この世から消えなければいけないんだ。恨んでやる、俺のことを一生忘れないようにな、って」
 香の頬に涙が伝った。
「あなたに危険が及ばないように、彼と付き合うことにしたの」
 色黒のドライな仮面の下に、誰よりも深い執着心が澱んでいたのだ。
 遼太は黙って拳を握りしめていた。香は目を瞑った。
 香を守ってやるより、香が自分の体を捧げて遼太を守ってくれたのだ。
 遼太は缶ビールに口をつけたが一滴も出てこなかった。気だるさが遼太の体全体を羽交い締めにした。言いようのない悔しさがこみ上げてきた。誰もいないような沈黙が部屋を包む。
 目を開くと香は静かに立ち上がった。遼太の部屋の方に歩いていった。数分して小さな段ボール箱を抱えた香がリビングに戻ってきた。遼太の横を抜けて庭へ出るスライドドアの前に立つと、一旦足元に段ボール箱を置いてスライドドアを開けた。レースのカーテンが揺れ、緩やかな風と夜のにおいが入ってくる。
 再び段ボール箱を両手に抱えると、香はサンダルを履いて庭に出た。遼太は目を細めて香を見つめた。狭い菜園の土の上に段ボール箱を置くと、香はジーンズのポケットからライターを取り出して火を点けた。しばらく箱の端が燻っていたが、やがて黒い煙が立ちのぼったと思うと、炎が箱の縁を滑り出した。空気が炎をじわじわと懐柔していく。漂ったにおいで、遼太にはそれがマッチ箱を入れた箱だとわかった。
 香はスライドドアまで戻ってくると、モンステラ・ミニマの脇に飾ったままだった笹を取り、それも燃える炎に放り投げた。桜の書いた短冊、いや香が桜に書かせた文字が音もなく焦げていった。
 そして、最後に、香は大事に育てていたモンステラ・ミニマも炎の中に投げ入れた。
「昼間の話し相手よ」
 モンステラ・ミニマを買ったとき、香が言った言葉を思い出す。白石との関係にこだわっていた遼太にすべてを告白した香には、もうあの大きな鼠の身代わりである、この観葉植物はいらなくなったのだ。
 向かいの家から顔見知りの女性が出てきて、「勝村さん、火事じゃないの」と生垣の向こうから声を掛けてきた。
「大丈夫です。すぐに消しますから」
 香は目の前で炎など起こっていないような表情で平然と答えた。
「こんな時間に。不謹慎ねえ」
 そんな声が聞こえた後、ドアが閉まる音がした。
 炎の前に立ち尽くす香の横顔が、桜を宿すきっかけとなった護摩壇の前で祈祷する顔と重なる。
 遼太のマッチ箱と桜の枯れた笹と短冊、そして瑞々しかった香のモンステラ・ミニマが、渾然一体となって燃え落ちていった。ここから新しい家族がはじまるのだ。
 遼太は椅子から立ち上がると、ゆっくりと庭へ出た。炎を見つめながら、感情を押し殺し何に対してもぶつかろうとしなかった沈黙を恨み、それが香を苦しめ続け、みづきを死なせたのだと思った。香は沈黙を続け未来の幸せを見据えながら不妊治療の苦しみを耐え抜いた。そして、愛する人の子供を宿せた喜びが、護摩壇の前で微笑みとなって表れたのだ。
 炎を見つめ、立ち尽くしている香を見ながら、香がどんなときに心から楽しんでいたのか、どんなときに辛かったのか、香という人間の人生そのものについて、遼太は思った。
 遼太は後ろから香を強く抱きしめた。
 香と桜がいる。ただそれだけが遼太の人生のすべてで、その他に何もない、ということだった。
 遼太が最後までこだわっていた白石の子供を宿したのかということは、もうどうでもいいことだった。


 葬儀の朝、黒いネクタイを締めた遼太は、スピーチ原稿を喪服のポケットに入れて玄関に歩いていった。
 香が後ろからついてきた。
「いってらっしゃい」
 靴を履くために屈んだ遼太の肩に手を置いた香が囁いた。見上げると、香は微笑んでいた。
 桜が香の後ろから顔を出した。みづきを刺した女も、遠い昔は無邪気な子供だったのだろう。遼太は立ち上がると、桜に微笑み返して頭を撫でた。みづきの小さな頭蓋骨を思い出す。今日、本当に骨になってしまうのだ。
 遼太は空を見上げた。みづきとストリップを見にいった日のように曇っている。
 今にも雨が降りそうだった。

 


 

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