私は黒い合成皮革でできたボストンバッグを下げ、銀行の玄関を出た。バッグは大きく膨らみ、かなり重い。
玄関を出たところで、辺りを見回した。私などに注目している者は誰もいない。いつもはそこでほっとするのだが、今日はそこで気合いを入れた。
現金を引き出して帰るときは、いつもタクシーを使うので、車がよく通る大通りの方へ歩くのだが、今日はそれとは反対側の駅に向かって歩き始めた。少し冒険をしてみたくなったのだ。
そんな気になったのは、社長の出かけに私に言ったことが原因だったかもしれない。
「こんな仕事を頼めるのは君しかいない。君をいかに信用しているかわかるだろう。先代もよく言っていた。あいつは口が堅いし、それにまじめだ。少し気を遣わなければならない仕事なら彼に任せばいい。彼なら間違いなくやってのけるから、とねぇ。今、私たちの会社にとってきわめて重要な時期なんだ。小規模の会社からようやく中規模の会社へ脱皮しようとしてもがいている時なのだ。昔から会計を担当してくれている君にはそれが痛いほどよくわかってくれているだろう。君にも大いにきばってもらわなければ」
社長の目はぎらりと光った。キャッチアイの入った猛獣の目だ。侮蔑している眼なのか、それとも、絶対へまをするなよ、という強い要求を示している眼なのか。
君は私たちの要求にそむける訳はない。信頼しているとはそういう意味なのだ、と社長は言いたいのだろう。そう思うと、褒められていてもあまりうれしくはない。しかし、私も恩義を忘れるような男ではない。きちっと返しているつもりだ。いくらそろばんが上手だったとはいえ、中学を出てすぐの少年を事務職に雇ってくれるような会社はめったにない。あの時はうれしかった。父は私が幼少の頃に、癌を患って死んだ。それで、母の故郷である田舎に帰り、母は農協の臨時職員に雇ってもらったり、内職などでわずかばかりの現金を得、少しばかりの田畑を耕し、わずかな米や野菜を作り、半自給自足の生活をしていたのだが、母が私が中学三年のとき、ひどい自律神経失調症と更年期障害にかかり、まったく働けなくなった。私が働いて金を得なければ生きていけない状況だった。だから、私が今の会社に就職が決まったときはうれしかった。これでようやく私も母も死なないで済むと思ったのだ。それに、村に残り、大きな農家に嫁いだ伯母のところへ行き、金を少しくれとせがむ必要もなくなる。それを思うと私を雇ってくれた社長が神様のような気がした。また入社しての四年間はまったく軽い仕事を回してくれた。事務所の掃除や計算の補佐や書類の整理やら、ちょっとした書類の作成や封筒の宛名書きや、その他、他の人が私に頼む雑用を引き受けておればよかった。四時半には仕事を終えていいと言われ、それから夜間の商業高校へ通わせてもらった。そこで簿記の資格も取った。そろばんの級も上げた。ようやく少し実用化され始めた計算機の使い方も習った。商業に関わる法律のことや経済の仕組みなども学んだ。高校を出た途端、すぐに会計の事務職員として処遇され、それ以後、ずっと会計の仕事をやっている。したがって銀行へはしょっちゅう行っている。この銀行も会社からかなり離れた小都市にある小さな地方銀行だが、何度も足を運んでいる。だが、どういうわけか会社の出がけに、ふと、今日は、会社への帰り方を少し変えてみよう、と思ったのだ。だが、それはただ、ふとそう思っただけで、実際にそうしようとはっきり決めたわけではなかった。だから、銀行を出るまではそんなことはすっかり忘れていた。
だが、バッグを抱いて銀行の玄関を出ようとしたとき、かなり歳のいった守衛がどうもありがとうございましたと、ドアを開けながら深々と頭を下げた時、不意に、昨夜、一人で夕食を食べているとき見たテレビのことが思い出され、同時に、出がけに、今日はいつもと違うルートで帰ってみようと思ったことを思い出した。ひょっとして、社長の言葉などは関係なく、あのテレビが原因だったのかもしれない。
テレビでは、最近、老人のスーパーでの万引きがやたら増えている、と告げていた。それから、スーパーの男性保安員とのインタビューが放映された。保安員は「高い価格の物はちゃんとレジを通して金を払うのに、安い物、例えば、キャラメルの一箱とか、ガムを一つとか、小型のカップラーメン一個とか、鮭の缶詰一缶とか、それらをポケットに忍ばせるんですよ。金がない訳ではないのです。寂しいからなのでしょうかね」と言った。「寂しい」という言葉に引っかかった。どうも理屈が合わないような気がした。だって、そんな物を万引きしたからといって、寂しさが解消するわけではない。それを盗ったことを保安員に見つけられてはじめて「寂しさの解消」にはなるが、老人たちはけっして保安員に見つかろうとはしていない。だったら、何を求めて万引きをするのだろうか。どうもよくわからない。しかし、一方でなんとなくその気持がわかるような気もした。
そう考えたときだ。そうだ、ここに来る前、会社の玄関先で、今日はいつもと違う帰り方で帰ってみようと思ったのだ。それまで、そんなことをすっかり忘れていたのに。
よし、やろう。そのくらいのことなら、いくら小心者の私でもやれるはずだ。それに、私の行動を会社の誰かが見ている訳ではない。ただ、帰るルートを少し変えてみるだけだ。
私は歩き出す。だが、少し歩いたところでまた立ち止まり、辺りを見回した。私をつけてくるような者はいないか確かめた。
車は通っているが、小さなビル群の建っている通りにはほとんど人影はない。ほっとした。しかし、矛盾と言えば、これも矛盾だ。ほっとしたいのならタクシーに乗って帰ればいいものを、今日はわざわざ電車で帰ろうとしている。ほっとしたくないので電車で帰るのに、ほっとすることを望み、それを喜んでいる。
ボストンバッグを持つ手を替える。そのとき不意に横合いからすっと手が伸びて、するりとバッグが飛ぶ。だめだ、やられた。やはり銀行からつけられていたのだ。
辺りを見回すが誰もいない。それはただの私の妄想。掌がバッグの持ち手をしっかりと握っている。
左腕に重さが加わる。いつもより重い。今回の引き出し額はかなり多い。いつもの二倍だ。社長はいったいこの金を何に使うつもりなのだろう。おそらく、選挙間近なので、会社にとって役立つ議員にでも渡すつもりなのだろうか。それとも、付き合っている愛人に豪華マンションでも買ってやるつもりなのか。それとも、問題を手っ取り早く処理するために裏社会にでも金を渡すつもりか。金は社員福祉厚生互助組合という訳のわからない団体名で預金されている、いわゆる会社の裏金だ。そこから引き出した。この金の出し入れを知っているのは社長、税理士の吉田、総務の会計係をしている私の三人だけだ。誰にも知られてはいないし、知られてはならない。それに、私は免許がないのでこのような場合、運転手付きの会社の車は使えない。それでいつもはタクシーで銀行に行き、私が支店長に前もって連絡しておいた額の現金を引き出して、再びタクシーで会社に戻り、社長に手渡す。だが、今日は社長の帰りが遅くなるので金は社長専用の金庫にしまっておくようにと言われている。金庫の番号は社長と私のみしか知らない。
突然、前方から子供の泣き声が聞こえた。見ると歩道の真ん中に子供が座り込んで泣いている。 母親らしき女性が子供に向かって何かを言っている。子供はいっそう大声を出す。女性は子供を無視し始める。さっさと歩き始める。子供はいっそう大声を出すが女性は動じない。子供は慌てて母親の後を追い始める。だが、母親は歩みを止めない。遂に子供は泣き止む。必死で母親の後を追い始める。母親は道を曲がり姿を消す。子供はその後を追って同じく姿を消す。
私は微笑んだ。母親は子供の弱点を知り抜いている。子供は母親には逆らえない。それでもあの子は精一杯母親に楯をついた。そのうちきっと、母親に打ち勝つ日が来るだろう。あの子はまっとうに育つ。私は母親にあのように楯を突いたことがなかった。私は母親の言いなりだった。言いつけをよく守るいい子だ、とみんなから褒められ、孝行息子、ということで村では通っていた。
意識を現実へ戻す。駅まではかなりある。もっと近いように思ったのに、そうでもない。またも腕に重さを感じる。バッグを持ち替える。やはり、右手で持つ方が楽だ。私は、再び、辺りを見回す。先日、売上金を店から銀行へ持っていこうとして、途中でそのバッグを奪われたラーメン屋の女店長のことを思い出す。
後ろから誰かが近づいてくる。ひょっとして、と私はバッグを胸のところまで持ちあげて抱きかかえるようにする。若いスーツ姿の男が私を追い抜いていく。横を通るときふっと風が耳元を通り過ぎる。風が私を嘲笑ったような気がした。
嘲笑うと言えば、現社長もどこかで私を嘲笑っているのではないか。自分の言いつけを必ず守る。けっしてそれを破るようなことはできない、小心者で馬鹿正直なやつだと。だが、そう思われても仕方がない。それが私の本当の姿なのだから。
先代の社長は極小の建築資材会社から、中小企業の「小の上」といった建築資材製造、および、販売会社にまで成長させた。その先代社長と私の母親とは遠縁にあたるそうだ。母親はその先代をいたく尊敬していた。村の出世頭だと言っていた。それに、祖父が先代の少年期にかなり面倒を見てやったらしい。先代の家は村でもずいぶん貧しかったので、小学校の校長をしていた祖父が、先代が上の学校へ行くのにもかなり尽力したり、援助をしたりしたらしい。祖父には恩義を感じているはず、とさかんに母は言っていた。だから、何も遠慮することはない、会社でどんと威張っていたらいい、とさかんに言っていた。最初から母親は私をこの会社に入れようと目論んでいたのかもしれない。いや、この会社しか雇ってくれないだろうと思っていたようだ。当時は、たいへんな就職難で、片親だけの子はどこの会社も採らないとまことしやかにささやかれていた。市長が、自分が身元引受人になるからそのようなことをしないでくれと会社に申し入れ、新聞を賑わしていた。それに、私はやせ細っていて、力仕事にはまったく向いていなかった。事務職しかできないと私自身も思っていた。
私は高校の普通科に進学したかった。進学して、もっと英語や国語や数学を勉強したかった。できたら大学まで行きたかった。第一、私と似たり寄ったりの成績の者はみんな普通科へ行く。それが何よりも悔しかった。だが、それができないことはわかっていた。母は、「お前が高校へ行きたがっていることはよくわかっている。でも、それは諦めてくれ。お前が働かないと、私らは生きていけないのや。もし、私が元気になって働けるようになったら、高校へでも大学へでもやってやるから」と言った。だが、そんな日は絶対にこないことを私はわかっていた。
私の人生はあのときに決まった。中学を卒業すると、母は「中学を出ただけで事務職に雇ってくれるような会社はめったにない。あそこの社長は私の父親、つまりあんたのおじいちゃんにえらく世話になっているのや。それで、私のたっての願いだと言ったらすぐに引き受けてくれた。すでに頼んである、夜間の商業高校へもやってやると言ってくれてはる、こんなありがたいことはないではないか」と言った。夜間の高校へ行くとしても、商業科へは行きたくなかった。でもそこしかだめだと言われ、行かないよりましかと思って行った。行けばそれなりにおもしろかった。将来の役にたつだろうと思って、簿記やそろばんや商法なども熱心に勉強した。しかし、いつも黒い塊のようなものが心の奥底にどっしりと沈んでいた。
あれからすでに三十五年余り経った。先代の社長がなくなって、息子の代になってからでもすでに十数年が経つ。会社もかなり大きくなった。だが、同族会社であることには変わりはない。それに私の地位も上がらず、経理主任止まりだ。毎日、帳簿との格闘、といっても、最近は帳簿からコンピューターに変わって、会計ソフトなどというものが開発され、それを学ぶのがたいへんだった。だが、根本的なところはそう違わない。処理のスピードがべらぼうに速くなったのと、計算や表作りなど多くのことはコンピューターがやってのけてくれるだけだ。だが、いろんな数字をいじくり回さなければならないことは以前と同じだ。
それに、特に今は、社長の交際費、社員や役員の出張費、税金対策、なども任されている。それらの仕事は、機器に任せられない部分が多く、今日引き出した金だって、私が苦労して少しずつ貯めた金だ。例えば、年末の年賀状の大量の購入と金券ショップへの持ち込み。お歳暮用と称しての商品券の大量の取得とそれの金券ショップでの換金。役員のから出張や出張費の水増し、海外主張での出張費の浮かし金、材料を高値で買い付けた会社からのビール券でのキックバッグとそれの金券ショップでの換金。同じく、会社名義の株主への優待券の換金。親族による偽役員の報酬や社長の特別報奨金の上乗せ。車や情報機器やソフトなどの購入とそれのネットオークションによる換金、ネット販売は私が個人でやっていることになっている。それに、子会社を使っての架空取引、帳簿上での書きかえも含めて、いろいろな工夫を凝らしている。一千万円を作るだけでも苦労する。まして、今日はその数倍以上の金を引き出した。
ふと、今日引き出した金額を自分がこれから会社で働いて得るには何年かかるだろうかを考えてみた。定年まで働いてもあと十年もない。ボーナスを入れてもバッグの金には到底及ばない。
私の斜め前を、今度はバッグを自転車の前の籠に置いた太りめの女性が追い抜いていく。後ろからミニバイクが近づいていく。ミニバイクの男がバッグの持ち手に手をかけて、ひょいとつまみ上げる。とバイクのスピードが上がり遠ざかる。「泥棒、泥棒」と女性が大声を出す。
あんなところにバッグを入れておくなんて、まったく不用心もはなはだしい。盗られても文句は言えない。
あれ、またも不思議だ。女性は先程と同じ速度で悠々と自転車を漕いでいる。籠の中には相変わらずバッグがある。最近、よくこんなことが起こる。すでに老化が始まっているのだろうか、それとも、ストレスでも高じて頭が少しおかしくなっているのか。
やっぱり私は自分のバッグが奪われないかと不安で仕方がないのだ。それで、こんな馬鹿げた妄想を思い描いてしまうのだ。奪われたら責任をとって会社を辞めなければならないなどと考えているのだろう。
だが、待てよ、この金は社長以外誰も知らない。税理士の吉田だって、金はどこの銀行にいくら預けられているかまでは知らない。「何、盗まれた、何てことだ」と社長が怒るかもしれないが、私を首にはできない。もし、首にすると言えば、裏金をすべて暴露します、と言えばいい。通帳だって私が握っている。その使い道が追求されたら困るのは社長だ。
ようやく、駅に着いた。電車に乗るといっても、たった三駅である。それに駅と駅の間もそう離れてはいない。乗って十五分とはかからないだろう。ただ、電車が来るまでが時間がかかる。しばらくは待たなければならない。
改札を入り、階段を上り、ホームに立つ。わずかにある椅子には客が全部座っている。
ホームの中央には左右を分ける板壁があり、そこに貼られている広告を眺めた。観光地への案内のポスターがいくつかあった。旅行か、ちょっとした気晴らしにはなるだろうなあ、と思いながら何気なく見ていた。
すると、先日、会社の同僚と、いつも行く近くの小さな食堂で昼食の親子丼を食べていたとき、その同僚が、わざわざ、箸を置いてまで私を見て、「松下さん。我々だって、まだあきらめるのは早いかもしれませんよ」と言ったことを思い出した。
彼の目は大きく開かれ、向かいの窓からかすかに入ってくる光をすべて集めたように白眼を光らせた。私もその異常な迫力に思わず食べるのを止めた。
「私の兄の話なんだが」と彼は言った。
兄の友だちが、地方公務員をしていたのだが、休みなどを使って、ヴェトナムの少数民族の支援活動をしていて、ヴェトナムへしょっちゅう行っていたそうなのだが、そこで、若い女の子といい仲になり、定年で年金をもらうようになるとすぐさまヴェトナムへ行き、その女性と結婚をしたということだ。兄の友だちの奥さんは、彼が五十代の時なくなったそうだが、娘を説得して、今、ヴェトナムで優雅な生活をしているということだ。そこで女の子も産まれた。兄はその友人の招待で彼の家へ行ったそうだが、そりゃ、立派な家だったということだ。年金で十分、三人を養っていけるそうだ。
同僚は、それだけを言うと「ううん」と唸り、蜘蛛の巣が這っていそうな黒い天井を眺めた。彼は五十の方に近い年齢なのだがまだ独身である。「俺は結婚できないのではなく、しないだけだ」と言っているが、本心はそうではないことは私は知っている。
「何も日本にしがみついているだけが能じゃないよ。しかし、俺たちは、公務員のようにたくさんの年金がもらえる訳ではないからな」と同僚が言って、天井からなかなか目を離さなかった。
「やはり日本にいるのが一番だよ。たとえ嫁さんがいなくても、慣れたこの国にいるのが一番楽だよ」と私が言った。だが、定年を待ってヴェトナムへ行った男はやはり偉いやつだと思い、うらやましかった。
「ちょっとお話ししてもいいかな」
突然、横あいから声がかかった。見ると、すでに八十を超えていると思われる男性が、帽子を脱いでお辞儀をしながら私の方を向いた。
「あなたも、私と同じことを考えておられるのかと思いました。ずいぶん、真剣な表情で考え事をしておられるようでしたから」
「はあ?」と私はさらに驚いて彼を見つめた。髪の毛がまっ白で、眉毛にも白いものがあった。
確かに私は真剣に考え事をしていたのかもしれない。だが、待てよ、ちょっとでも油断をしたらその隙にバッグを持って逃げられるかもしれない。だが、どう見ても八十を超えたような、片手に杖を持っている男性が素早く走れるとは思えない。だが、ひょっとして相棒がいるのかもしれない。そいつが、横合いからこのバッグを狙っているのかも。私はバッグの取っ手を握り直し、辺りを見回した。しかし、それらしき男は見つからなかった。
「あなたもこれを見ていたのではないですか?」
老男性は映画のポスターを顎で指した。そこには飛行機に乗って出撃していこうとしている写真が大きく撮されている。戦争映画のポスターだった。なかなか評判がいい映画だ。いかにもそこに描かれている男は格好がいい。飛行服姿もりりしい。今の世では見られないような真剣なまなざしをしている。若いやつが憧れるのも無理はない。
「いやだね、こんなの。これを見ると何とも言えない気持ちになるんだが」と老人は言った。私は怪訝な顔付きをしたのに違いない。彼の言うことが理解できなかったから。
「戦争中は、上官の命令に絶対従わなければならなかったんだ。上官の言うことが絶対正しかったんだから。上の命令に従わないのが悪。政府の言うことに従わないことが悪。みんなそう思っていたんだ。わしは何とか生き延びることができたが、上官の命令に従ったやつはみんな死んだ。その時学んだことは、何事もたやすく信じるな、ということだったね。特に、みんながそうだそうだと言っていることは絶対信じてはいけない」
何だか私は人が良さそうなので、何かを言えばすぐに信じてくれそうに思えて彼の思いを述べようとしたのかもしれない。
「この考えは戦争中だけのことじゃないよ。今だってちゃんと生きているんだから。平時のときだっていたるところにそれはあるね。強そうなやつの考えにやすやすとのるやつはごまんといるんだから。正と悪なんて、立場によってどうとでも変わるものでしょう。暗殺者だって、一方から見れば英雄じゃないですか」
私は何と答えればいいのか迷った。そうかも知れないが、そんな説教は聞きたくはなかった。説教ほど嫌なものはない。
「ああ、電車が来ました」
私は咄嗟に叫んだ。ちょうどいいところに電車がきてくれたものだ。何となくこの男は危ないと思った。この老男性から早く逃れたい。でないとさらに長々と話しかけられるかもしれない。
「いや、よけいなことを言ってしまって、ごめん。若い者を見ると何だか言いたくなってね。老人の繰り言と思ってご勘弁を。私は反対の電車だから」
よかったと思い、私は急いで電車に乗った。電車は空いていたので座席に座った。
窓から老男性を見た。彼は依然映画のポスターを眺めていた。
電車が動き出すと、どういうわけか昔のことが思い出された。
もし、母が、今の会社に行けと言ったとき、私が断固としてそれを拒否し、定時制ではなく普通科の高校を受験していたらどうだろうか。飢え死にしただろうか。そんなことはないだろう。伯母にはさらに迷惑を掛けたかもしれないが飢え死にはしなかったと思う。伯母の世話になるとき、いっそう、多くの罵声を浴びたかもしれないが、生き延びることはできただろう。普通科に行くことによって、今の生活がそれほど大きく変わったとも思えないが、自分の思ったことができたというかけがえのない自信を得たような気がする。自分の人生での最初の勝利感を持てたかもしれない。その選択時につまずいたのがまずかった。それがいろんなところに尾を引いている。次の重大選択時、職業にしたって母が言ったとおりのところに就職し、その次の結婚にしたって、母が勧めた遠縁の女性と見合いをして結婚をした。だが、それは長くはつづかなかった。妻と母親とがうまくいかず、数ヶ月で嫁はさっさと実家へ帰ってしまった。妻の方がよほどしっかりしていたのだ。人生の三大選択をことごとく上官の母の命令に従い、さらに、それ以後、会社の上司や社長の命令に従って生きてきた。命令に従っていれば無難。今日のようなちょっとした気晴らしさえやっていれば、気持ちもそこそこ治まり、何とか定年までは勤まりそうだ。それが一番気楽な生き方であり、それにこの年になっては、もう生き方もないだろう。
とにかくこのバッグの中味さえ何の支障もなく社長に渡せば、以後、大過なく過ごせる。
私は膝の上に置いてあるバッグに両手を乗せ、それが誰かに持ち去られないように、しっかりと防御した。両手に力を入れているためか、膝にずっしりと重さを感じた。このような大金を社長は何に使うのだろうか。またもそれが気にかかる。
「何に使おうがほっといてくれ。これはわしが稼いだ金や。つべこべ言われる筋合いはない」という社長の声が聞こえる。
ちょっと待てよ。もし、私がいろいろな智恵を絞り出して、この金を捻出しなかったらそれはどこかに紛れ込んでいたか、税務署や他社の会社に持って行かれたものだ。だから、私が半ば稼いだ金だ。だったら私にも使う権利があるはずだ。それに、そのようにして作った金は一円なりとも私は誤魔化してはいない。誤魔化そうと思えばいくらでも誤魔化せたのに。
私はバッグの上に掌を乗せ表皮を撫でる。ああ、やっぱりこれは社長の金だ。
ただ、もし仮に、ここにある金がすべて私のものだったらいったい何に使うだろうか。
社長のように金を渡す女性がいるか? いない。では今から金を見せびらかして、女性を獲得しようと思うか? そんな気持ちはさらさらない。金を目当てに寄ってくる女性などけっして私は好きにはなれないだろう。それに、一度、結婚に失敗している。女性の気持ちを推し量る能力に私は欠けている。再度、あのような苦い経験はしたくない。
だったら何に使うのか。ギャンブルでもやるか。それもしたくない。パチンコ、麻雀、競馬、競輪、一応はやったことがあるが、何がおもしろくてそんなものをするのかわからない。酒も弱い。まるで薬を飲んでいるようにさえ思う。では、何もしないでぶらぶらしたいのか。そんなことには耐えられない。日曜日、一日中家にいると、もう退屈で死にそうだ。テレビを見ても、一向におもしろくはない。
本など、まったくくだらない。読んでいるとすぐ眠くなる。ではカラオケはどうか。歌はまったくの音痴で、歌うのも聴くのもきらいだ。映画はどうか。最近、見たいと思うような映画は何一つない。絵空事の話などのどこがおもしろいのか。では、旅行はどうか。少しは興味が湧くが、日本ならどこへ行っても同じようなものだ。私は田舎で暮らしていたので、田舎に行っても何も珍しいとは思わない。まして、観光地は皆同じようなものだ。では、海外旅行はどうか。パック旅行なら、最初は物珍しいかもしれないが、すぐさま飽きるだろう。ベルトコンベアーに乗せられた物のように予定されたコースをまわり、一週間もすれば、もとの場所に戻ってくる。まったくつまらない。
そんなことを考えているとだんだんと腹が立ってくる。若いときにはやりたいことが少しはあった。語学を勉強して自力で海外へ行ってみたいとか、英語の書物をすらすらと読めるようになりたいとか。数学や哲学を勉強して、学者になりたいとか。さらには、気の合う女性や、美しい女性がいて、その女性と親密になりたいとか。だが、それらはすべて単なる夢で、実現するために何らかの行動を起こしたことなど一度もなかった。そのような情熱や能力に欠けていた。第一、自分の行きたい学校にさえも自分で選べなかったのだから。
そこまで考えたとき、では、今からでも一つぐらいやりたいことをやってもいいのではないかという気がした。それは何なのかがはっきりとしないが、やりたいことがあればそれを思い切ってやってもいい。
電車が駅に着き、人が乗り降りした。先程、二つすでに停まった。降りるべき駅だ。私が慌ててバッグを持ち、立ち上がって駅の看板を見た。違う。駅名が降りるべき駅ではない。
私は再び座り直した。降りるべき駅は次かもしれない。私が座席に座り直した瞬間に電車は発車した。確かに三つ目の駅だったような気がするのだが。四つ目かもしれない。
大勢の乗客が乗って来て座席はいっぱいになった。座席に座れない二人の男が私の前に立った。どうも二人ともサラリーマンのようだ。どこかへ営業にでも行くのだろうか。細身の背の高い方の男が電車の中央の中吊りを眺めていた。ずんぐりした男もそれにつられて同じように週刊誌の中吊りの広告を見た。政治家のスキャンダルの見出しが載っている。
「みんな秘書が勝手にやったことで自分は何も知らないって言っているのだろう」細身の男が言う。
「そんなことがあり得ると思う?」ずんぐり男が言う。
「思わない」
「だろう。だけど、秘書だって、自分が勝手にやったことで、議員には何も報告しなかったって言っているらしいじゃないの」
「自分が泥を被るつもりらしいな。それが秘書の役目だとでも思っているのだろ。これじゃ暴力団の組長のやった罪を肩代わりする下っ端組員と同じだね」
「裁判所もそれを認めるんだから」
「昔、悪いやつほどよくねむるって映画があったらしいよ。親父がいつも口癖のように言っていた」
私は、先程、老男性の言っていた、上官の命令には絶対従わなければならなかったという軍隊の話を思い起こした。しかも、それは何も昔の話ではない。今も同じだ、と言ったことも。
もし、私がやった裏金作りを「これはすべて社長の命令でやりました」と言えば、それがその通り素直に通るだろうか。「彼が勝手にやったことで私は何も知らなかった」と社長は言うに決まっている。確かに、いちいち社長などには告げていない。「私が必要とする金はいつも用意しておけ」と命令されているだけだ。社長は「私は正規の社長交際費から支出されているとばかり思っていた」と言うに決まっている。それに、社長に渡した金の領収書などとってはいない。証拠はどこにも残っていない。しかも、通帳の責任者は私の名前だ。「あいつはギャンブル好きで、きっとそれに使ったに違いない」とか、「きっと、女がいて、それにみついでいたに違いない。私は彼が高級腕時計店にいるのを見たことがある」とか、「いい宝石店を知らないかと聞かれた」とか言う社員が出てきても不思議ではない。
それに、もし、私のやったことが法律に違反することならば、社長が責任を問われるかもしれないが、私もまた何らかの罪は着せられるだろう。それに、会社の機密を漏らしたということで会社からは追放され、懲戒解雇ということで、退職金は一円ももらえず、社長からはお前はもう少し骨のあるやつだと思っていた、見損なった、まったく役にたたんやつだと罵られ、後の面倒などまったく見てはくれないだろう。
そんなことを考えているとますます憂鬱になってくる。何というばかなことを何年もやっていることか。
しかし、私のやったことで法律的にはほとんどやましいところはない。安心しろ、という声もする。税金だって一円も脱税はしていない。特別報奨金の上乗せだって、株主総会でちゃんと認められ、社長はその金の税金はきちっと払っている。その残りをプールしているだけだ。あの金は社長が何に使おうが誰からも文句のつけようもない金だ。奥さんの役員手当だって、役員会の時は必ず出てきて、役員会の記録係を務めているし、お茶の接待から、タクシーの手配まで、社員には任せず、自分がやっている。役員会の進行には十分貢献している。
それに、社長が出なければならないパーティーには同席し、多くの地域の著名人などと交流をして、会社に大いに貢献している。あの奥さんがあってのあの社長だと会社でもささやかれているほどだ。上乗せした多額の役員報酬金をもらっても誰も文句は言えないだろう。
テレビで報じられていた共済組合の掛金を横領した男とは訳が違う。私欲のために動いている訳ではない。私は社長が円滑に動いてもらうための縁の下の力持ちだ。会社への貢献度は抜群のはずだ。
私は、再び、サラリーマンの乗客へ意識を戻す。細身の男は、薄笑いを浮かべながらずんぐり男に言う。
「もし、社長から、法律に触れるようなことをやってこい、と言われたら君ならどうする。例えば談合してこいとか、賄賂を渡してこいとか」。
「俺なら躊躇なくやるね」ずんぐり男が答える。
「そんなの、罪が軽いよ。会社が生き残るためだと称して、手練手管を使って、そこそこ能力のあるやつの首さえ切って、家族まで路頭に迷わせるなんてことを平気でやるご時世だ。それに比べれば、よほど罪が軽いよ」
ずんぐり男がさらにそうつづけた。
「へえ、君、人事部へでも移動させられたのか」
「まさか」
私は、彼らの声を力を入れて聞き、再び、先程の老男性の言葉を思い出す。「上官の命令は天の命令」
何だか彼らに腹が立ってくる。私もずんぐり男の言うことにかなり納得する。納得するのに腹が立つ。自分もそう思っているのに。
私は社長の命令に楯を突いたことがない。母親に楯をつけなかった私に社長に楯をつけるはずがない。
嫌なことがまたも思い浮かんできた。それが原因で女房の恵美は数日後に家を出て行ったのだ。私の根性のなさにあきれかえったのだ。こんな家で到底暮らせないと思ったのに違いない。
あのとき私は絶対に母親に楯をつくべきだった。
「よし、わかった。こんなおふくろとはもう一緒に暮らせない。即刻、この家から出て行く」と宣言し、さっさと家から出て行くべきだった。その後、母親が親戚や知り合いに電話を掛けまくり、わめき散らし、「息子にひどい目にあわされている、助けてくれ」と告げ回ったとしてもひるまず、伯母から「お母さんをちゃんと見てやってくれ。お前は、どれほどお母さんに世話になっているか。普通の子供とは違うのや」と懇願されても、頑として家を出るべきだった。
その事件とは、私たちが初めて、女房・恵美の友人から招待され、二人で一緒に連れだって遊びに行ったときのことだ。そのとき、確かに母親は風邪を引いて寝こんでいた。だが、熱もたいしたことではなく、いつもよく陥る体調の不調だろうと思っていた。「おかゆ」だったら食べられると言うので、恵美は朝にそれを作り、保温されるようにしておき、おかずも柔らかなものを用意しておいた。
だが、夜遅く帰ってきて驚いた。母の布団の周りにはおかゆが撒き散らされていた。母は布団をかぶり、ふうふうと呻っていた。異常としかいいようのない様子だった。私も恵美も声を失った。ただ、唖然とし、私は、うろたえた。恵美はその姿を静かに見ていた。
「どうしたんだ」と私が言っても母はただ大声を出して泣き叫んでいる。
「苦しいのか、熱が高いのか」と言って、手を額に当てようとしたらそれを大きく払い、「親不孝者、親がこんなにしんどいと言っているのに、遊びほうけて」と、私を睨みつけた。恵美は黙って部屋を出て行った。私は、しかたなく母を半ば起こし、背をさすった。すると少しおとなしくなった。また、ごろりと布団に転がった。うつぶせになり、再び、おいおいと泣いた。「救急車でも呼ぼうか」と言ったが返事もしない。これはどういうことだ、どうしようもない、と、ただ困惑するだけだった。
それから、一週間もたたないうちに、恵美は実家に帰り、再び帰っては来なかった。
母といっしょに暮らす限り、嫁は諦めるより他はないとそのとき思った。しかも、私が出て行けば、母は私の後を追って必ずやってくるに違いない。そのとき彼女をたたき出せるか、という気がした。とにかく、父が亡くなって、その後、必死に私を育ててくれたことには間違いない。その薄幸の女性をたたき出すことは私には到底不可能に思えた。
恵美が出て行くと母は元気になった。いそいそと買い物に行き、家事をこなした。私はそれに安住してしまった。
私の前に、おかゆを撒いた、あの母の悲しみに満ちた嫉妬心の目が振り子のようにぶらさがる。しかも、それが徐々に社長の威圧的な目に変わっていく。その目に向かって私は懇願の目を向ける。どうか私を見捨てないでくださいと。まるで、しかられている幼児のような。まったく恥ずかしいことだ。誰にも見せたくない目だ。なんということだ、これは。あれから何十年もたっているのに何も成長していないではないか。
馬鹿にするな、私だってそれなりの苦労はしてきたのだ。伯母の「父親がいないのだから、上の学校へ行きたいなどと思うな。はよう働いて、お母さんを助けてやれ、それがお前の運命や」という考えに納得したのだ。「お前が中学を卒業したら、もうお前にもお母さんにも一銭の援助もするつもりはない。お前が働いて何とかしろ」と伯母が言ったとき、私は、誰がもうあなたに「米がなくなった。お米を少しめぐんでくれ」「金がない、学校に払う教材費を貸してくれ」などと言うものか、と心の中で誓った。働いて、他人に無心するような生活から脱皮する。それを私の生活信条にする、と思った。そのためには、会社に居つづけなければならない。さらに、そのためには、社長や上司の言うことにいっさい逆らわず、てきぱきとこなすことだ。それしか、私の生きる道はない。自分のことは自分が一番よく知っている。人に逆らえない小心者であることは百も承知だ。だから、社長の命令は天の命令と思うことにしたのだ。抱きかかえているこの金を、無事金庫の中にすっぽりと入れること、これが私の生き方であり、哲学だ。迷うことなど何も無い。この列車に乗ったのだって、ただの気分転換のためだけである。大それた考えなど毛頭ない。
そう思うと、気分は落ちつく。私は、前の窓を何気なく見る。私の顔が対面の座席の上のガラス窓にかすかに映っている。こちらをじっと見ている。おや、それは哀れみを請う目ではないぞ。じっと私を凝視している目だ。何を見ているんだ。目はぎらぎらしている、力のこもった鋭い目だ。何かを企んでいる目ではないか。待てよ、あれは私の目ではない。違う男の目だ。多分、私の横に座っている男の目だ。私の顔はその顔に少しずれながらちゃんと映っているではないか。しかし、あの顔はどこかで見た顔だ。思い出せない。どこで見た顔か? 駅で会った老人の顔ではないし、道ですれ違った青年の顔でもない。思い出そうとしている間にも、明らかに私を凝視している。私の中に不安がわき起こってくる。まるで夏にわき出る積乱雲のように。私の心が少し軋んでいるような気がする。いや、軋んでいるのではない、ふわりと座席から浮き上がっているのだ。
あっと、私は声をあげそうになる。わかった。あいつだ。ガラス窓の男の正体がわかったぞ。私が何も警戒しなかった男、まったく意にもかいさなかった男。
私が、銀行の玄関を出ようとしたとき、玄関の扉のガラスに小さく顔半分だけ映っていた男。私の顔に似ているなあと思った男。
しまった、あいつが私の後から、付いてきたのだ。このバッグの中味を知っているのに違いない。明らかにこのバッグを狙っているのだ。男が私の後を付いてきているとは思いもしなかった。よし、次の駅で降りて、何とかあの男を振り払わなければならない。
ひょっとして、男は、すでにこの金を持ち逃げした後の逃走手段まで考えているのかもしれない。電車を乗り継いで首都の町に逃げ込み、それから、外国へ行く手続きを始める。先程考えたヴェトナムかもしれない。それとも、物価の安いフィリピンか。手続きにかかる日数などしれている。しかも、この金は普通の金ではない、警察には届けられない金だ。だったら、やってしまえ。見つかることなどけっしてない。やつはそう思ったのに違いない。どうもやつはプロの窃盗犯ではないようだ。しがない普通のサラリーマン。一発逆転を狙っている男だ。
目は確かにぎらぎらしていた。しかし、どこか落ち着きがなかった。まるで私が落ち着きのないように。
電車が駅に着いた。私はすぐに扉に向かった。降りると早足で改札に向かった。だが、切符が乗り越しになっていることに気づいた。乗客がすべて通るのを待って、駅員に切符を渡し、乗り越しはいくらかねと尋ね、わずかなお金を渡した。
ようやく改札を出た。少しうらぶれた街だ。玄関を出たところには車寄せのようなところがある。だが、タクシーなどは一台もない。その向こうはコンクリートの広場。まん中には、円形の芝生があり、小さなモニュメントが建っている。さらにその向こうには駅と対面して、まっすぐに伸びる道路があり、左右には、少し大きな二階建ての瓦葺きの建物が建っている。いかにも昔風だ。黒に近いような木造の古民家だ。
ここの街の様子は、昔、住んでいる村へ帰るために降りた駅の様子とよく似ている。そこにも二階建ての瓦葺きの家が建っていた。
駅に一番近い建物にはさびが目立った看板が軒の上に掲げられている。「食べ処・福乃屋」とある。今、営業しているのかどうかさえわからない。村に向かう駅前にもそのような店があった。店の前の道を、先程降りた乗客たちが足早に歩いて行く。私を睨んでいた男がそこにいるのかじっと見たがよくわからない。ただ、ふっと、そこに彼が紛れ込んでいるような気がした。それに後ろには人の気配はない。私が一番後で出て来たはずだ。
私が出た後、すぐに後ろを振り返った。駅員はまだ改札に立っていて、プラットホームの方を眺めていたが、改札から出てくる人はいなかった。駅員はすぐに駅舎の部屋に帰り、その中に体を沈めるはずだ。もう一度、振り返ってそれを確かめればいいのだが、どうもそうする気にはなれなかった。
もし、男が残っていて、駅員は彼を待つためにそこに立っていたのならば、彼は私の後をつけて歩いてきているはずだ。振り返ってそれを確かめればいいのだが、もし彼が後をつけてきているのならば、私がすでに彼の存在に気づいていることがわかってしまう。そうなれば彼も大胆な行動に出ないとも限らない。例えば、おおっぴらに近づいてきて、暴力に訴えてでも金を奪おうとするかも知れない。そうなれば一大事である。面倒なことが起こる。この持っている金が公に晒されることになりかねない。それは困る。それは何としてでも避けなければならない。
もし、男が前にいるのなら、すぐさま駅にとって返し、逆の電車に乗ればいいのだが、やはり、後ろからついてきているという思いを消すことはできない。
いずれにしても、今、重要なことは、何とかして彼から穏便に離れることだ。この街なら、きっと横に逸れる路地がたくさんあるだろう。そこに入り、一目散に走り、どんどん路地を曲がれば見つかることはあるまい。彼を完全に振り切ってから、駅に戻ればいいことだ。
広場を横切り、中央の幹線道路とおぼしき道を少し歩いた。路地がいくらでもある。よし、この路地へ曲がるぞ。ただ、誰かが今先程、この路地を曲がったような気がしてならなかった。だが、そんなことを気遣っている場合ではない。たくさんの人が前を歩いていたのだから、路地へ曲がる人も一人や二人はいるだろう。
曲がった道の両脇には平屋建ての長屋のような家が並んでいる。家の壁に沿って、洗濯物がたくさん乾されている。私は走り出す。どんどん走り、分かれている路地があれば、そこを曲がった。バッグはしっかりと抱いている。だが、どうも、つけてくる男を振り払ったという実感は湧かない。男がまだ私をつけてきているような気がしてならない。少しびくつき過ぎるかなあ。
社長の声がどこからともなくした。この金は大事な金だ。これで会社が少しでよくなれば従業員のためになる。もし、会社が追いつめられ、倒産でもしたら、従業員はどうなる。その日から哀れな状態になるだけだ。そう思えば、少しぐらいの法律違反などどうってことはない。軽微なことだ。交通規則なんかみんな厳格に守っているか。「赤信号、みんなで渡ればこわくない」と言うではないか。制限時速四十キロを守っているやつなんかいない。皆五十キロ、六十キロは出している。車間距離にいたっては守っているやつの方が少ない。警官だって、まったく安全で、スピードを出しても何の問題もないところで、交通違反を摘発している。それの方が摘発件数が上がるからだ。これだって、不正と言えば不正ではないか。こんなことでびくびくしているようでは、商売なんかやっては行けない。
私は、小型の車がかろうじて通れる程の十字路に出た。左側面には古いカーブミラーが立っている。柱が何度も車に当てられたのか曲がっている。だからミラーがむしろこちら向きになっている。私は何気なくそれを見ようとした。とたん「それを見てはいけない、お前の前が見えるぞ」という声がした。ぎくりとすると同時におかしいなとも思った。「前が見えるなんておかしいではないか? 後ろが見えるだろう」
私はカーブミラーをじっと見る。私の片側の顔や首や肩がかすかに映っている。私の体や足は逆三角形になってモノクロ写真のように形だけがはっきりしているが色がない。埃にでも覆われているためだろう。確かにまるで私が影のようだ。私の後ろに影が映っているかどうか探ってみたが影はまったくない。当たり前だ。陽が私の後ろにあれば、私は黒くなり、影は私の前にあることになる。私は逆光の中に佇んでいるのだ。このような場合、私は影の歩く方向に、影を踏み踏み歩くことになる。だが、それは、横から誰かが見た光景に過ぎない。私は私の意志によって歩いて行く。それに、普通の人間なら影と実態を間違えるなんてあり得ない。
私はますますじっくりと鏡の中の薄黒い輪郭だけの私を見る。体が煤のようなものに覆われているような気がする。カーブミラーの中の私は確かに私の影に過ぎない。鏡の中には実体などはあるわけがない。だとするなら、実体はどこにある。それは鏡の前、つまり私のいるところにある。だが、それがわからないから鏡に自分を映しているのではないか。実体は私には見えない。わからない。
何だか頭が混乱する。ますます影の力が増したのか私の影の黒さが濃くなる。すると、私は何だか薄くなっていく。まるで、影のように頼りなげな感じになる。実際の私っていったいどこにいるのだろうか? 鏡に映っている影の向こうから視線だけになった誰かが私をじっと見つめている。
私は、ミラーの中の私の後ろを眺めるが、そこにはかすかに私が先程歩いてきた道が見えるだけで、人の姿はまったくない。だとすると、私は、すでに追ってきたやつを振り払ったことになる。だのに、何故か、未だに、まだ、私は彼を振り払ったという気がしない。私にとりついているような気がする。まさか、彼が私の前にいて、私を待ち伏せしているのではないだろうな。
駅のところですでに彼が私を追い越していたとして、もし彼が私を導いてしまう力を持っていたとしたら、私が彼の後を追いかけてこの路地へ入ったことになる。さらには、彼は私の乗る電車を間違えさせ、降りる駅を指定し、歩く道を先導したとしたら? 私は彼を追ってきたことになる。そんな馬鹿な。私は私の意志で電車に乗り、駅で降り、この路地に曲がったのだ。いったい私は何を考えようとしているのだろうか。本当に頭がどうかしている。
その時、ミラーに映っている私の口がぱくぱくと動いたのに気づいた。口唇術など習ったことがないのに、彼が呟いたことがよくわかった。「そんなことって、ひょっとしてありえるかもしれないよ。フロイトという人は間違いも必然性があると言っているのだから。とすると、お前はいったいどっちなのだ?」
私はどっち? それはまるで私が影であるかのような言い方ではないか。何というばかなことを聞くのか。私を馬鹿にするのも程がある。
私は私だ。私は私という唯一の存在だ。私は建築資材販売、および、建築資材製造のしがない社員、総務部計理課会計主任、ただ、それだけである。それを除いては何も無い。父でもないし、夫でもない。父母が亡くなったので、もう息子でもない。すでに伯母も死んだ。従兄弟と言ってもまったく付き合いはない。一人息子だったので兄弟はない。妻もいない。恋人もいない。さして親しい友人もいない。会社の同僚でときどき気晴らしのため酒を飲むぐらいのやつはいるがそんなのは会社の一部だ。私は単純な男だ。これほど単純な男は最近ではめったにない。いや、ひょっとして増えているのかもしれない。世間では世の中が複雑になり、いろいろ関係が入りくんでいて、それで、自我が分裂する、などと言っているが、もし、私のような男が増えているのなら、むしろ人々の関係が一元化し、単純化しているのではないか。どっち? などと言われるほど複雑な者ではない。私は会社人間、ただ、それだけだ。会社では「上司の命令は天の命令」と思ってこの仕事をやっている。ただ、それだけの男だ。これが私の紛れもない実体だ。
だから、私は早く会社に戻らなければならないのだ。馬鹿なことを考えている暇はない。何をもたもたしている! 私は自分で自分を叱る。こんなところでうろうろしている時ではないぞ。社長が会社に帰ってくる時刻が近づいている。それより早く戻らないと。彼はその金を持ってどこかへ行くつもりなのかもしれない。早く駅に戻れ!
だが、どうしたことか、体がそのようには動かない。まるで誰かに引っ張られているような気さえする。
「まあ、そう慌てるな。金さえ無事に社長に渡せば、社長に文句の言われる筋合いはない。ちょっとぐらい遅れたってどうってことはない。もし、社長がこの金がすぐに必要なら、社長が待てばいい。そのくらいのことは許されてもいいはずだ」
そう思うと気持ちが少し楽になった。
ミラーのT字型の路地を左にとる。そっちの方が駅に近づけると思う。振り返ってミラーをもう一度覗いた。先程灰色に覆われていた私の姿が端っこにはっきりと映っていた。それに、後ろには誰もいない。影は映っていない。それは前と同じだ。
再び、ミラーを真っ正面から見る。平屋の長屋が建ち並んでいるだけだ。あの男は見えない。振り払うことができたのに違いない。とにかく、早く会社に帰ろう。私は右腕を大きく広げバッグを脇に抱きかかえ、大股に歩き出した。
その時、不意に足先が何かにあたった。あれっ、と思った。上や前や後ろを気にしながら歩いていたので、路上のことは気にしていなかった。私は何かに蹴躓いたようだ。下を見ると小さな植木鉢が横たわっていた。かわいらしい赤い花びらが四つ、五つ、ついている花が横たわっている。花びらのひとかけらだけ地面に落ちていた。私は、かがみ込みそれを直そうとした。
「こら、おい、何をする」
後ろから声がかかった。驚いて振り返ると、平屋の小さな窓が開かれ、そこから髪の毛のない老人が鋭い目で私を睨みつけていた。あまりにも鋭い目をしていたので、私は少し後ずさりした。
「俺が大事に育てている花になにをする!」
強い声だ。
「すみません」
私は、慌てて、植木鉢を元に戻した。
「こぼれた土も元通りにしておけ」
路地のアスファルトの上にこぼれている土を慌てて両手ですくい植木鉢に入れた。
「まだ残っている」
再び、路面に掌を立ててこする。
「それだけ花を咲かせるのに、どれだけ苦労したと思う。悪い足を引きずって苗を買いに行かないといけないし、毎日水をやらないと枯れてしまうし、その土だって、夜、そっと畑のあるところまでいってもらってきたものだ。ああ、花びらが一つ落ちている。かわいそうに。痛い痛いと俺に言ってるやないか。花は俺の分身や」
老人の声が急に弱まる。見ると、今までの鋭い目が弱まり、涙目に変わっている。
「すみません。本当にすみませんでした」
老人は何も答えない。じっと花を見つめている。
私は元通りにした花を見る。紅色のかわいい花びらが路地を駆け抜けていくかすかな風に反応している。これが老人の分身。そう言われれば、花を丁寧に扱っている老人の姿が見えてくる。老人の命のエネルギーが花の隅々にまで行き届いている。
そう思うと、今までとは違った花に見える。老人にとっていとしいもの。この揺れが、赤ん坊の笑顔にさえ見えているのかもしれない。
「すみません。以後、気をつけますから」
老人は、黙って窓を閉めた。
私は再び歩き出す。「俺の分身や」と言った老人の言葉がやたら頭の中を飛び交う。わたしの分身はいったい何だろうか。苦労して育てたもの。自分のエネルギーを注いだもの。そう、私の分身はこの金だ。このバッグだ。私は立ち止まり。じっとバッグを見る。すでにところどころに傷跡が見えているバッグ。大きくふくらんでいるバッグ。
私が苦労して育てたものが他にあるだろうか。子供を育てた訳ではない。農作物を育てた訳ではない。家を建てた訳ではない。ペットさえ飼ったことがない。私のエネルギーの多くをつぎ込んだもので私の手許にあるものといえば、この金以外他に何があるだろうか。
そう思った途端、会社の同僚といっしょに呑んだとき、彼がふと漏らした言葉を思い出した。
「主任は、石橋をたたいても渡らないような人ですね。でも、会計にはぴったりです。そんな人でないと会計は任されませんよ。さすが社長、人を見る目がありますね」
褒めているのか、皮肉なのか、それとも馬鹿にしたのか。嫌悪感が起こる。
まあいい。それが私の本質ならば、それでいいではないか。それで今まで何とか生きてきたのだ。ひとにとやかく言われる筋合いはない。小心者は小心者の生き方をすればいい。そう思っても、嫌悪感は治まらない。
今日は何だかおかしい。いつもとは違う。はやくいつもの自分に戻らねば。そのためには早く駅に戻ることだ。
右側に石の門柱が二つ並んでいる。その向こうに広い運動場と二階建ての木造の校舎が見える。小さな校舎だ。教室が全部で十部屋ぐらいの小さな小学校だ。中央に丸い時計がある。両端には鉄でできたバスケットボールの台が置かれているが、網はない。取り外されたのか、それとも朽ち果ててしまったのか。
懐かしい。私の通っていた学校と似ている。いや、そっくりではないか。でも門に近づくと門には金網が張られている。廃校の学校だ。校門の前で佇み、校舎を眺める。間違いない、私が通っていた学校と似ている。だが、私の通っていた学校はもっと田舎にあった。駅から徒歩で三十分もかかるところだ。
ますます懐かしさが沸き上がってくる。じっと佇んでいると門の後ろの平屋の屋根から風が路地へ舞い降りる音が聞こえてくる。その音に伴ってかすかに子供の声がする。すると、心の芯が熱くなる。
そういえば、学校の門の丁度前に平屋根の小さな雑貨屋があり、鉛筆や消しゴムやノートやコンパスや三角定規などが売られていた。村の唯一の店。私が振り返るとそこにはやはり廃屋になった小さな平屋の家があった。錆びた鉄板の看板があり、コクヨノートという字がかすかに見える。
そういえばこの路地だって昔、私が歩いて学校へ通った道とよく似ている。当時はまだ路地は土の道だった。
私の気分は浮き浮きする。こんな気分になるのは久しぶりだ。こういう場所に来たかった、そんな思いさえする。
今度は右側に小さな川が流れている道に出る。ますます私が中学校を卒業するまで住んでいた村の道によく似てくる。その道をしばらく行くと山側に野菜畑があるはず。やはり野菜畑があった。道は川から離れ、右に折れる。それをさらに行くと地蔵さんがある。村の道にも地蔵さんがあった。
ちょっと待てよ。何だか、私の前を歩いている人の気配がする。道が曲がりくねっていて、平屋の家が片方にあるので、その影に入ると前を歩いている人が見えなくなるのだが、まっすぐな道もある。しかし、そこでも人は見えない。だが、人の気配だけは感じる。まるで、私がその気配の人の後をつけているような。
先程の「お前はどっちだ?」という言葉を思い出す。お前はつけられているのか、それともつけているのか、どっちだ? と。
私が誰かの後をつけているのだと! 冗談じゃない。誰を?
頭が少し混乱する。もう少し冷静になろう。
道が森に向かって上るようになっている。上り始めのところに田舎風の家が一軒建っていた。昔、私が住んでいたほどのあばら屋ではないが、みすぼらしい感じのする家だ。門口が開けられていて中の様子がよく見えた。
あっ。気配の人間がその中へ入ったような気がした。私は、急ぎ足で家の前まで行き、立ち止まり、中を覗いた。
家の中は、まだ午後五時にもなっていないのに、すでに薄暗かった。暗い中に、人がいるようだが、それはシルエットになっていた。
手ぬぐいらしいもので姉さんかぶりにしている女性が土間に立っている。彼女と対面の板間には長い首をうなだれて正座している女性がいる。その横に白い長袖シャツの中学生らしい少年がかすかに見える。暗い中で、白いワイシャツだけがうっすら揺れる。姉さんかぶりが板間の女性に言う。
「竜一がな、おばさん。僕、何とか高校へ行きたいねん。今は、みんな高校へ行く。おばさんは、お金の援助は中学卒業までや。中学校を卒業したら、働いてお母さんを養ってやれと言うけれど、高校を卒業するまで待ってほしいんや。奨学金ももらえるし、新聞配達や家庭教師をして少しのお金は稼ぐから、と言ってきよったんや」
姉さんかぶりの声がかすかに聞こえる。声が小さいのだが、はっきりと聞き取れた。
板の間に正座している女性は前かがみになる。
「かわいそうに。この子がそんなことを言いに行ったのか。わたしが元気やったら、姉さんなどにそんなことを言いにいかなくてもすむのに」
「それでやな、高校へやってやることにした。ただし、大学まではようやらん」
「それはこの子もわかっていると思うわ」
「それに、あいつには体力がない。今まで、いろんな病気をしたやろう。だから、体を使う仕事は無理や。考えてみ、この就職難のご時世に、高校卒で事務職なんてあると思うか?」
「ないやろうな。高校へやるなら商業科や。あそこでは、簿記やコンピューターの使い方まで教えてくれるそうや、それに商業に関わる法律まで教えてくれると言うやないの。そこを出れば事務職につける」
「わしもそう思う。そこへ行くなら、あと三年、面倒をみてやってもいい」
「でも、あの子は普通科へ行きたがっている。成績のいい子は、多くは普通科へ行くらしいわ」
「それはあかん。そこへ行ってみ、また、きっと、大学へやってくれと言うに決まっている。普通科なんか絶対あかんで」
母親とおぼしき板間の女性は中学生の方を向く。
「お前、おばさんや私の言うことわかるやろう。商業科へ行き。そう決め」
少年は下を向く。軽く頷いたようだ。暗い中なので彼の表情まではわからないが、悔しい表情をしているのに違いない。
妥協なんかするな、と私は思う。普通科へ行きたいのなら普通科へ行け。大学へ行きたいのなら大学へ行け。やりたいと思うことは思い切ってやれ。後は何とかなる。お金のことなら心配するな。お金ならここにたっぷりある。
「わかった。商業科へ行く。伯母さんありがとう」少年は言う。
「だめだ! そんなことを言っては」と私は大声を出す。
自分でも驚いた。それは私の声ではないような気がする。
伯母と思われる女性も母親と思われる女性もその横の少年も、みんな外に立っている私の方に顔を向けた。薄暗い中でも眼だけははっきりとわかる。
もし、普通科へ行くことを断念したら、それから次々と断念が重なる。断念は大人になってからでいい。やりたいことがあるのは若いときだけだ。大人になればやりたいことがなくなっていく。心の中でそう思う。
姉さんかぶりの女性と母親らしい女性のシルエットが揺れる。驚いていることには間違いないが、それが奇妙なものを見るような感じがする。私は、そのシルエットに懐かしさを憶える。
私は、家の中へ入る。少年の方へ歩く。少し近づいたので、顔がはっきり見えるかと思ったのだが、相変わらずよく見えない。だが、顔なんてどうでもいい。
「普通科へ行きたいか」私が言う。
「行きたい」
少年の声には驚いた様子はない。私が来ることをまるで予想していたような声だ。
「高校へ行って何をしたい」
「英語や日本語のことをもっと知りたい。英語の本を見ていると、それだけで、ここではないもっと違う国へ行っているような気がする。気分がいい。心が浮き浮きする。数学も好きだ。新しい数学記号が出てくるとどきどきする」
「大学へも行きたいか」
「行きたい」
「大学で何をしたい」
「同じようなことをもっとやりたい」
「それからどうする」
「外国へ行って、日本語の先生になりたい」
「立派なやりたいことだ」
「でも、お金がない。お母さんを養わないといけない。お母さんの病気を治さないといけない」
「ものすごく行きたいか」
「ものすごく」
「お金があったらやれるのか」
「やれる」
「えらい。じゃ、これ。君にあげる。もらうのが負担だったら、貸してあげる。将来、お金が稼げるようになったら、返してくれたらいい。少なくとも大学まで行ける金と、数年の生活費には足りる」
私は持っていたバッグを開け、お金の束を握って、板間に積み上げる。躊躇する気持ちなど微塵も起こってこない。
再び三人は眼を大きく見開いていることがわかる。三人の白眼が光る。じっと動かない。積み上げた金を見つめているのだ。
「さあ、これだけあれば君の願いは叶えられる。まだ受験まで四ヶ月はある。いい高校へ入れ」
「あなたさんはどなたさんですか?」
母親らしき女性の声がする。大きな声だ。今までとは違う声だ。
「通りすがりのもの」
「こんな訳のわからん大金はもらう訳にはいきません。あんたは正気なんですか」姉さんかぶりが言う。
「正気も正気。この金はずうっと彼のような子供に差し出したいと思って貯めてきたものだ。その子供が見つかってうれしい」
そう言った途端、本当にそうしてきたようにさえ思った。私の最もやりたいことがこれだったのだ。ようやく見つかった。うれしさが沸騰する泡のように湧いてきた。
「こんなお金をどうしたの? 盗ってでもきたの? 芳子、はよう警察へ連絡し。へんな男が家に入ってきて、大金を見せびらかしているって」少年の伯母らしい姉さんかぶりが言う。
芳子という少年の母親がよろけながら板間から部屋へと歩いて行く。
「これは私の金。れっきとした私のお金です」またも私が怒鳴る。
「どこで盗ってきたのや。農協でも襲ったのか。かくまってくれというつもりなんか。あかん。うちはれっきとした庄屋の筋や。今でも村では一目置かれている。金に眼がくらんで泥棒をかくまったなんて、そんな恥さらしなことができるものか」姉さんかぶりが言う。
「何も、かくまってくれなんて言ってません」私が言う。
少年がじっとお金を見つづけている。黒い少年のシルエットが力強く立ち上がり、板間の柱のところに置いてあった紙袋にお金を全部入れ、それを持つと、板間を降りて、靴を履くと、袋をしっかりと脇に抱える。
「触ったらいかん。何してんのや」
姉さんかぶりの女性が叫ぶ。少年は戸口を出る。
「芳子、竜一が金を抱えてどこかへ行く。竜一、どこへいく。そんな金、持ったらいかん」
少年は振り向かない。戸口から路地へと走り出る。私も自分のバッグを持って、彼の後を追う。「どこへ行く。そのお金、返し」後ろから、姉さんかぶりの女性が追ってくる。少年の足は速い。私の前を必死で走って行く。どんどん私を引き離す。それでいい。もっと走れ。私は必死で彼の後を追う。
後ろを振り返ると、もう姉さんかぶりの女性の姿はない。諦めたようだ。よかった。ただ、あの少年はどうするのだろう。どこまで走るのだろう。再び、家に帰ってきてこの金は俺がもらったものだ、と言い張れるだろうか。
あまりに力一杯走ったので、胸が大きく上下する。息をする回数を増やしても胸が苦しい。胸の中で太鼓がたたかれているような感じがする。
丁度おあつらえ向きに大きな楠があり、その根っこは座るのに都合がいい。しばらく休憩することにした。
胸の動悸も治まった。辺りは農業用の倉庫のような平屋の長屋がつづき、片側はすでに稲が刈り取られた田圃がつづいている。農業用倉庫の前には等間隔に大きな楠が立っている。まだかろうじて降ってくる西日を楠が遮り、涼しい風が汗を吹き飛ばす。
まるで私が少年時代、母の言いつけで近くの林へ枯れ木を探しに行く途中、クヌギの木の下で休んでいるような錯覚を憶える。空気そのものに村の臭いがする。
何だか左のほうからざわめきが伝わってきた。かすか遠くに姉さんかぶりの女性の姿が見えた。その後ろを、ここからでもかなり年齢のいったとわかる警察官がつづいてくる。こちらを指さしながら何かを姉さんかぶりに言っている。姉さんかぶりは大きく頷いている。
私は立ち上がると、また、必死で少し坂になっている道を走り上がる。ちらりと後ろを振り返ると、警官が前屈みになりながら走ってくる。あれはテレビでよく見る犯人の逮捕に向かう姿勢だ。これは危ない。逃げなければ。途中にあった竹藪のところを右側に向かい、今度は斜めに下に降りている道を走り出す。なにぶん所々に林があるので助かる。そこには必ず分かれ道がある。それを走り降りる。とにかく、駅へ行かなければならない。いや、待てよ。たとえ駅に着いたとしても、もう私の帰るところがない。すでにお金の半分に近い金を少年にくれてやったのだ。後の半分を社長に渡しても、彼は怒り、金を取り返してこいと言うにきまっている。もう私は、今までいたところには帰れない。だが、しまったことをしたという思いはない。むしろ、よくやったという思いのほうが強い。行きたいところへ行き、やりたいことをやった、という思いがふつふつと湧いてきた。
これで、会社にはもう戻れない。だが、それは覚悟の上だ。それを恐れる気持ちがまったく起こってこない。
残った金はやりたいことをやった結果の後始末に使えばいい。外国へでも逃げようか。それとも、日本のどこかに隠れていようか。
だが、警察官にだけは捕まりたくない。私は、できるだけ複雑な道をとり、あるときは坂を下り、あるときは坂を登った。しかし、またもや胸が苦しくなる。咳が出てきて肺が止まりそうだ。
その時、前方左横に草に埋もれてほとんどわからないような深い穴があるのに気づいた。あそこに入れば、警官には絶対見つからない、そう思えた。少年時代、かくれんぼして、よく身を隠した穴に似ている。
私はバッグをしっかり抱きかかえ、いちにのさん、と穴に飛び込んだ。下に落ちていくのに上に飛び上がっていくような気がした。これでいい。これで見つからない。
「あっ、気がついたようです。眼を左右に動かせて辺りを見回している」
聞き覚えのある声だ。声の方を見ると会社の総務部長だった。
「もう大丈夫です。下の石で頭を少し強く打ったようですが、検査したところ、異常が見つかっていません。ほぼ大丈夫でしょう」
医者なのだろう。彼はそう言うと、すぐに病室を出て行った。白衣の裾がひらひらと動き、大きな蝶が舞っているように見えた。
「驚きましたわ。急にあんな高いところから下の畑に飛び降りるなんて。まるで穴にでも飛び込むみたいに」姉さんかぶりの声だ。
えっ? 私は穴に飛び込んだのだ。草に覆われた穴に。あそこは、なし畑に水がほしくて、井戸水が出るかと思って、掘り進んだのだが、途中で水が出ないことがわかって掘るのをやめたところだ。子供の頃、みんなあの穴に飛び込み遊んだところだ。いや、それとよく似ていると思ったのだ。下の畑に向かって飛び降りるなんてとんでもない。しかし、ここはいったいどこだ。病院のベッドのようだが。
「これはいったい何なのですかね」
警官が私の横たわっている椅子の上のバッグと紙包みを指さす。
姉さんかぶりの女は、相変わらず手ぬぐいを頭からはとっていない。あの時のままだ。
「お金を出して、何か訳のわからないことをぶつぶつ言って、横にあった紙袋を黙ってとってそれを袋の中に入れたりして、右脇にバッグ、左脇に紙袋を抱えて、何かに追われるような必死な顔をして、いや、鬼にでも中に入ったのではないかと思われるほどの怖ろしげな顔をして、急に走り出したんです。気味が悪いでしょう。さっそく私が後を追い、芳子に交番に電話するように頼んだんですわ。村にもたくさん公衆電話が置かれているから、ときどき、それを見つけたら電話するから、駐在さんが来たら、場所、教えてやって、と言って置いたんです。すぐに芳子の家にやってきた駐在さんは男の居場所を知って駆けつけてくれたんです。それから私といっしょにこの男を追いかけたんですわ」
警官は、バッグの中身を開け、紙袋の中身を開け、じっと硬直しながら見ている。
「これ、どういうことなんでしょうか」
警官が再び総務部長に顔を向けて尋ねる。
「いや、はっきりわかりません。こんな大金を彼が持ち歩いているなんて、まったく理解に苦しみます。おそらく会社の金ではないと思いますよ」
「銀行から引き出したのなら貯金通帳があるはずなんだが、それが見つからんのですわ。まさか銀行強盗、といってもこの村には銀行はありませんしね」
預金通帳は見つからないところに隠してある。誰にも言えん。
「これは私の金です。会社の金なんかではないし、まして、盗ってきた金なんかではない。それに、この紙包みは私のものではない。少年のものです。少年はどこへいった」
「ね。訳のわからないことを言っていますやろ」姉さんかぶりは言う。
「確かに、芳子の家には中三の息子がいます。それに、芳子は自律神経失調症とかの病気にかかって働けません。でも、わしの主人はようできたひとで、お前は姉やからちゃんと面倒みたれよ、と言ってくれ、毎月、援助の金を渡してやっています。息子の竜一だって奨学金をもらって高校へ行くことになっていますわ。なんか、これを竜一にやるとか言って差し出しましたが、私たちが受け取らなかったら、急に少年みたいな顔付きになって、これを腕に抱えて走り出したりして。けったいな人や」
いったいこれはどういうことか? 私自身にもまったく理解できない。第一、紙包みがベッドの横にあるのが気にくわない。それはすでにあの少年に渡したものだ。あの少年にはやりたいことをやらせてやりたい。十いくつかの歳ですでにやりたいことを奪うなんてあまりにもひどすぎる。それも金のために。日本は豊かになってきたと言われている中であんな少年がまだいるのかと思うと、たまらない。私のような少年はもう私だけでたくさんだ。
「あれ、社長」
総務部長は病室の入り口に向かってお辞儀をする。
「いったい、どうしたのかね。社に帰ると総務部次長が、会計主任の松下が大けがをして病院に担ぎ込まれた。それに大金を持っていたと言うじゃないの。すっ飛んできたんだ」
「いや、何も、社長にわざわざご足労をかけるつもりはなかったのですが、一応、連絡だけはしておかないと、と思いまして。社長、これなんです」
総務部長が開かれたバッグの中と、紙袋の中を指さす。
「ほう。大金だな」社長は言う。
「松下に何かご命令をお出しになりましたか」
「いや、しらんね」社長が言う。
「じゃ、この金はいったい?」総務部長は眼をつむり、困惑の表情をする。
「とにかく松下の怪我の具合はどうなんだ」
「いや、怪我はたいしたことはないのですが、ちょっと、精神の方が」
「精神の方がって?」
社長は驚いたようだ。私が何を言い出すか不安なのだ。眉間に皺を寄せ、眉毛を上下に少し動かす。
「なぜ、紙袋がこんなところにあるのか、とか、逃げた少年はどうしたのかとか、訳のわからんことを」総務部長が社長の顔をまっすぐ見ながら言う。
訳のわからないことではないぞ。紙袋は私が確かに少年に渡した金だ。少年がそれを小脇に抱えて逃げ出したのだ。誰があの少年から取り戻したんだ。姉さんかぶりの女に違いない。それとも警官?
けしからん。私は一世一代の決心をして渡した金なのに、私の意思を無視するなんて、言語道断。心臓がぱくつく。最近血圧が上がり気味なのに、これでは二百近くになっているかもしれない。
「この金はどうしたんだね」
「この金は私のお金です。こつこつと、いろんな苦労をして貯めたお金です。まるで子供を育てるようにして」
私は社長の目を見る。社長は何度も頷いている。この答えに満足しているようだ。どうして社長は満足するのか。
「何を言っているのかよくわからん。部長、わかるかね」
「いいえ、この金は自分のものだと言っているようですが、よくわかりません」
わからないことなんかあるものか。はっきり言っているではないか。だから、社長が満足したのでは? それとも、何を言っているのかわからないから満足したのか?
「そのお金なんですが。病院ではお預かりできません。病室に置いておかれても困ります。ぜひ、誰か保管してあげてください。患者さんは、二日ぐらい、入院してもらわないといけませんので」といつ現れたのか、四十歳ぐらいのふっくらとした女性の看護師が社長に向かって言った。
「誰か、身内の方がおられないのですか」看護師がつづけた。
「彼は独り身なので。ねえ、社長」
総務部長は大きな目を剥きながら社長を促す。総務部長は何かを気づきでもしたのか、それとも、本当に私の金と思ってそう言っているのか?
「私が預かっておきますわ」社長がバッグに手を伸ばそうとする。
冗談じゃない。これは私の金だ。誰にも渡すものか。私が起き上がろうと体を動かすと腰の辺りから頭の先に向かって激痛が走る。痛い。言葉が消える。うううう、といううめきの声が出る。
「体を動かさないで」看護師が怒りの声を出す。
「無理するな」社長が言う。
「腰の骨にひびでも入っているのかな」総務部長が言う。
「かなり高い崖から飛び降りたようですから」姉さんかぶりが言う。
「それでいいですよね」社長が警官に向かって言う。
「結構です」警官が答える。
なんてことだ。それは困る。私がここで保管する。胸の辺りで裏返るほど騒ぐ。くそう。
私が大声を出そうとすると、またもや、胸の辺りを貫いて痛みが走る。うううという声が出る。
社長は紙袋をバッグに入れ、チャックを閉める。
「大丈夫、任しておけ。体がよくなるまでゆっくり休んでいいぞ」社長が言う。
「まあ、命に別状がなかったのだから。よかった。よかった」総務部長が大きな腹を突き出し、体をのけぞらしながら言う。
「あとは病院に任して、我々はこれで退散しよう。それでいいでしょう」
社長は少し高めの、やや、威喝的な顔付きで警官を睨む。
「本庁に尋ねても、どこからも金が盗まれたなどという報告が入っていないようですし、それで結構です」
「うちの社員がみなさんにいろいろご迷惑をおかけして、申し訳ありませんでした。追って、また、お詫びに参りますから」
社長は今度は姉さんかぶりに頭を下げる。それから警官にも。
何ということだ。普通なら私に彼女が頭を下げるべきところなのに。あの少年はどうなったのだ。希望が叶えられずに商業高校にやられるのか。
社長がまず病室から出て行った。それにつづいて警官、総務部長、姉さんかぶり、看護師といった順で出ていった。
社長が何か忘れ物をしたように再びすっと部屋に入ってきた。ベッドへ近づいてきて、顔を私の耳元に近づけ、耳朶を噛むような格好で小声で言った。
「何があったか知らないが、金を守り、うまく言ってくれてありがとう。ボーナスは少し弾んでやってもいいぞ」
私の胸がいっそう騒いだ。何か言いたいのだが、言葉が見つからない。
体を少し動かした。体中に痛みが走り、うううという声にならない声がまた出た。しかし、不思議なことに、いつも感じていた心の底にあったあの重い塊のようなものがかなり軽くなっていることに気づいた。それに、ほんの少しだが、自分のやりたいことがやれたという満足感のようなものもあった。
了
|