奥野さんは、その著書で次のように論じていられる。
「小説(私小説といえども)では、作者が述べ手という虚構的人物を想像し、それが話す、または書くという形をとっている。
このことが小説と小説以外の文章との大きな違いであり、小説独特の書き方なのである」と。
最近、この「虚構的述べ手」についてよく考える。
私小説中の「私」と語り手の「私」が相似ではないと仮定することで、今まで感じていた私的な作品への違和感や胡散臭さが、中和するような思いに駆られた。
人は大なり小なり、多重人格的な存在である。「会社の私」「家の中の私」「せるでの私」「友人の前の私」等みな少しずつ「違う私」を演じている。しかし、通常は、現時点でのそれらの記憶の総体の中から不都合な部分を除いた最大公約数的な自分を、あたかも本来の「私」と思い込んでいるような気がする。その仮面的な「私」をベースに本を書いたり読んだりしている。
よい作品は、作者と主人公が、虚構的な媒体を介することにより、一定の距離を保ち、人物の深層での多重性を暴き、作品に深みを与えているような気がする。
「せる」の九十六号の三作はいかがでしょうか。(AI)
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