レクイエム  津木林 洋


 

 四月二日の朝だった。タブレットPCを立ち上げ、いつものようにツイッターを見ると、Mの母というアカウント名でツイートが入っていた。
「三月三十一日、M永眠致しました。これまでの、皆さまのご厚情に厚く御礼を申し上げます。通夜、葬儀は、Oにて執り行います。本当にありがとうございました」
 えっ? うそ?
 Mというのは、四年前の私の本科クラスの修了生で、二年前にSエンターテインメント大賞を取ってプロ作家としてデビューした男である。
 まさか、自殺?
 不眠症なので睡眠導入剤をジンで流し込んで眠る生活を続けていたようだし、躁鬱病でもあったし、編集者がOKを出した長編を営業サイドが本にしてくれないという怒りも電話で聞いていた。
 まさか、一日遅れのエイプリルフール?
 去年の四月一日には、M本人が「彼女と結婚することになりました」という嘘のツイートを流していたのだ。
 私は混乱した。ツイートに応えるべきか、それともしばらく様子を見るべきか。自殺かもしれないという気持ちが、返信することをためらわせていた。
 女房に見せると、彼女も驚いたが「本当でしょう」と言う。彼女は私が留守の時、Mからの電話を何度か受けたことがあり、私のツイッターを覗いてMのツイートも読んでいる。「Mさんを包み込んでくれる聖母マリアのような女性が傍にいたらいいのに」というのが彼女の口癖だった。でないと、早く死にそうな気がすると言っていたのだ。
 しばらくして、Mとよく飲みに行っていたSさんが「本当ですか」と返信をし、「残念ですが、本当です。本人が一番驚いていると思います」というMの母のツイートが流れた。本人が一番驚いているということは、自殺ではないということだろうか。
 直接返信することは、まだためらわれたので、私は「若い人が亡くなるとこたえる。才能のある人なら、なおさら……」とツイートした。それに対してMの母から返信があり、四日に葬儀があるということで、私はお悔やみの言葉と共に葬儀に出席する旨を伝えた。死因は聞けずじまいだった。

 Mが文学学校に入ってきたのは、二〇一〇年の四月、三十一歳の時だった。無精髭の顔に黒縁の眼鏡をかけ、服装は黒ずくめ、陰気な印象を与えていた。プロ作家になるため、コピーライターの仕事を辞めたと自己紹介をしたので、また勘違いをした若者が入ってきたなと私は思った。本人は退路を断って小説を書くことに全力を注ぎたいのだろうが、一年や二年でプロになれる者は余程の才能や幸運の持ち主である。大多数は挫折し、小説を書くのを止めてしまう。仕事と執筆は決して二者択一しなければならないものではなく、両立することが可能であるにもかかわらず。プロとしてデビューしても、それまでの仕事を続けている作家は大勢いる。若い時はそういう物語に酔ってしまうことは理解しつつも、困ったものだと私は頭を掻いた。
 プロを目指すだけあって、Mの批評は厳しかった。本科は書き続けてもらうことが前提なので、基本的にはほめて伸ばすという心構えでいるのだが、Mの態度はプロになりたいのだから厳しくしてくれというものだった。そうなると私も彼の作品に対して、甘いことは言えなくなる。
 彼が一年間に提出した三作品はすべて長編のミステリーで、しかも未完。謎を呈示するのはうまいが、謎が謎を生んでいく傾向にあり、「謎はたった一つでも十分読者を引っ張っていけるし、多くなれば逆に読者に負担をかけることを知って欲しい」と注文をつけたこともある。短編のミステリーは難しいので、ミステリーから離れて短編を書く訓練をして見たら、とアドバイスしたこともあるが、そういう短編のアイデアは思いつかないようだった。ハードボイルド的な場面を書くと筆が生き生きとするので、そういう方面の作品を書いてみたらと言ったこともある。
 読みやすい文章でイメージ構築力もあるので基本的な力は備わっているのだが、いかんせん完成した作品を読んでいないので、プロとして通用するかどうかは全く分からなかった。

 Mは本科一年を修了すると文学学校を離れ、私との接触はなくなってしまった。
 そして二〇一二年の九月下旬。Mから突然電話があり、何ごとかと思っていると賞を取ったことを告げてきた。普通なら最終候補になった時点で知らせてくることが多いのだが、そうしなかったのは、修了式の時に、新人賞を取るまでは一切連絡しませんと私に宣言したためらしかった。私は全く覚えていなかった。受賞作は文学学校在籍中に書いた未完の作品を仕上げて応募したもので、彼からその作品の題名を聞いて、すぐに思い出した。ユニークな設定であったことが頭に残っていたのだ。
 私は大いに喜んで、おめでとうと言い、プロ作家の道を歩き続けるのはそう簡単ではないが、こつこつと目の前の作品を書いていくようにとアドバイスした。チューターとしての私の仕事は、そこで終わったはずだった。
 ところが、単行本の出版や文学学校でのお祝いの会などの行事が一段落した後、一通のメールが届いた。雑誌の小説Sに五十枚ほどの短編を書くように言われているのだが、全く進まないのでどうしたらいいでしょうかと言うのだ。彼は明らかに長編タイプの書き手なのに、どうして編集者は短編を書かせようとするのか疑問だったが、目の前の作品を書いていけとアドバイスした手前、断れとは言えない。
 私は短編の基本として、登場人物、現在時間、場所を絞って書くようにアドバイスした。Mはそれを忠実に守って一つの短編を仕上げ、見て欲しいと言って私のところに送ってきた。本来なら担当の編集者の仕事なのにと思いながらも、私はいくつか気づいたところをチェックして送り返した。Mにしか書けないだろう独特の世界が描かれていて、悪くはない短編だった。幸いにも、それはS誌に載った。
 その後、二重投稿したために最終候補になったあとボツになった作品を編集者に見せているが、なかなか認めてもらえないとか、二作目の短編を書いたがボツになったとか(そんなに悪い作品ではなかったが)、いろいろなことが重なって、編集者とギクシャクしたようだ。電話も何度か掛かってきて、「プロ作家を続けていくことがこんなに大変だとは思わなかった」と弱音を吐くこともあった。私は、どれだけの人間がスタートラインにさえ立てずに去って行くのか分かっているのか、自分の幸運を大事にしてもっと長い目で考えろと言うしかなかった。
 別の出版社の編集者に自分の作品を見せたいとメールしてきた時には、さすがにかちんと来た。
「短気を起こさずに今の編集者とよく話し合え。デビューさせてくれた出版社をそんなに簡単に袖にするのは仁義に反するから」と書き、今ある作品は取りあえず仕舞っておき、新しい長編を書くようにとアドバイスした。
 それでも彼は伝手を頼って、何人かの編集者のところに作品を持ち込んだようだ。もちろんそれはうまく行かなかった。
 そうこうするうちに、受賞作が韓国で翻訳出版されることになり、彼もようやく前向きになり出した。長編のアイデアも浮かんだようで、「新作に取り掛かります」というメールももらった。私が今歴史小説を書いていることを知ると、是非読ませてくださいと言ってきたので、七月には脱稿するから一番に送ると約束した。
 そんな矢先の死だった。

 四日の朝、私は礼服を着て、新幹線でOに向かった。早目に着いてMの母と言葉を交わせれば、と考えていたが、O駅のトイレに入った時、偶然にもSさんと出会った。SさんはHさん、Kさんと共に葬儀に出席するために来ていたのだ。HさんもKさんもMの飲み仲間で、特にKさんはMと同時期に、ある新人賞を取ってプロ作家として歩み出しており、同じ文校出身者として親交を深めていた。お互いをライバルとして励まし合っていたようだ。
 Sさんの着替えを待っているうちに時刻が迫ってきて、タクシーで葬儀場に駆けつけた時には五分前になっていた。慌ただしく受付をすますと、控え室から五十半ばの女性が出てきて、私たちに挨拶をした。Mの母だった。憔悴した顔で目が赤かった。私たちはお悔やみを言い、二言三言、言葉を交わしただけで、すぐに葬儀場に入った。
 祭壇には、受賞誌に載ったMの顔写真が引き伸ばされて飾られていた。Mの葬儀に間違いなかった。両脇の花輪の中には文校生有志から贈られたものもある。二人の僧侶の読経が流れる中、焼香を終えた。父親の挨拶があり、その言葉を聞く限り、やはり突然の病死だと思えた。
 最後に棺の蓋が開けられ、列席者全員が渡された花を中に入れる。Mは眠るように横たわっていた。眼鏡を外し、無精髭を生やしている。 葬儀中からしゃくりあげていたKさんが、Mを見て号泣し始めた。SさんがKさんの背中に手を当てる。
 受賞を祝う会でも本科クラスの同窓会でも、私は最後にMを掴まえて、いささかふざけながら「絶対に死ぬなよ、生き延びること」と言ったことを思い出した。その度に「死にませんよ」と笑いながら答えたMが今目の前に横たわっている。おい、起きろと声を掛けたら、今にも目を覚ましそうだった。
 葬儀が終わって、強い風の吹く中、霊柩車を見送ると、私たちはタクシーを掴まえるために歩き始めた。誰もが無言だった。


 

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