S先生の運営するバレエ教室は、六甲山の山間を切り開いて開発された住宅地への入り口となる駅の、その駅前のスーパーマーケットのビルの一角にあるカルチャー・スペースを拠点にしていて、JR環状線・寺田町に本部のある法村友井バレエ団経営バレエ教室の一支部に位置づけられている。
支部教室は、大阪をはじめ関西一円に開設されていて、S先生のようにバレエ団所属のダンサーが「教え」を勤め、生徒募集その他もろもろ一切を任されている。
次の発表会で教室開設十周年の節目を迎えるので、メインのプログラムには「くるみ割り人形」をすえるが、男性ダンサーをひとりでも多くキャスチングしたいという理由で、バレエ団の男性ダンサーをはじめ、本部のジュニア科教室の活きのいいニイチャン連中に加えて、本部の教室に通う夜学生のような存在である私にもS先生から本部教室の先生を経由してゲスト出演の依頼があった。
梅田からでも神戸電鉄沿線のその駅までは、一時間かかる。自宅の天王寺からはさらに三十分を見ておかなければならないので、往復だけで三時間、リハーサルは一、二時間としても、この支部教室通いは、ほとんど一日仕事となったが、本番まで数回のその一日仕事は、楽しいものだった。
新開地駅など下車したことがなかったところを時間調整で散策したり、ランチ処を探したりするささやかな発見もあったし、なにより、生徒たちプチプリンセスと同じ時間同じ空間を共有できるのが、初めての経験で、かつ、貴重なものだった。なにをしても微笑ましい幼児からすでにレオタードの下の胸のハリもイメージできる若葉な淑女たちまでに取り囲まれるのは、あたかも、印象派画家のドガがパリ・オペラ座の中の稽古場に入り込んでバレリーナのデッサンに打ち込めたのと自分的には同じ特別に選ばれた者しか立ち得ない居場所である。男としての回春効果効能あらたか、マハラジャの王侯もかくや、聖隷たる執事の気分もかくや、あるいは鼻血ブーなマンガ・モードにひたらせてもらえる。
リハーサルには、生徒のお母さんの多くも立ち会っていて、その初回にはセンセイからの紹介を受けて、生徒たちとお母さん方に向けて、自己紹介した。少女たちはお決まりのレッスン・スタイル(黒のレオタード・頭はシニョン)で顔と背丈とスタイルに少しずつバリエーションはあるものの一人ひとり差異化して認識することはかなり困難な仕業でできそうにないし、おかあさん方の方は、年齢相当のバラエティはあっても、こちらも同じく一人ひとり差異化するには、相当な時間が必要である。一方、彼女たちは、ゲストたる私の名前も姿も認識いただいていて、幼児から見れば祖父に相当しておかしくない年長のダンサー氏がどんな体のさばきを見せるのか、きっと興味深く見つめてくれる。カッコよくふるまわなければ、というプレッシャーを感じつつ、仲間うちとして許容してくれるはず、何をやろうが、異質さゆえの新鮮さと受け入れてくれるだろうと自身に甘えつつ、ここちよい高揚感に満たされる。
「くるみ割り人形」は、バレエ団の団長が開演あいさつの際によく口にする言い回しを引き合いにだせば、チャイコフスキー作曲の三大バレエのうち 最も音楽がすぐれているもの(「白鳥の湖」は、最も有名なバレエ、「眠れる森の美女」は、最も美しいバレエ)で、音楽のバリエーションの豊かさとその音楽を形に変えるダンスも変化に富んでいることで、観客を飽きさせない。クリスマス・パーティを舞台としていることもあいまって、踊る方も見る方も子どもたちにお勧めの演目である。
私の役は、シュタールバウム家のクリスマス・パーティに招待される客人ファミリー数組のうちの一父親だった。
胸前のあわせにフリルのついた白のブラウスの上に軍服風のジャケットを羽織る。ジャケットには、勲章が数枚縫い付けられていて、公爵キッチュなファッションで、長いブーツもかっこいい。貴人然と気取った振る舞いが期待されている。
もみの木のツリーを背景にパーティの主役である子どもたちに寄り添う立場で子どもたちだけの舞台の不安定さを鎮めるバランサーとして機能する。踊りは二の次で、大人がその場に居ること、存在自体に意義がある。
バレエダンサーとしての踊りの出番はほんの数小節、フォークダンスのような、社交ダンスのような、大人の男女が輪になって回るだけだったが、そのあとにピンのスポット・ライトを当ててもらえる出番を提供してくれていた、ドロッセルマイヤのマジックの助手として。
ドロッセルマイヤがパーティに紛れ込む。バレエ団のベテラン・ダンサーが扮するマジシャン・ドロッセルマイヤはお得意のマジックをパーティの客人を相手に披露する。
ドロッセルマイヤが舞台上手で観客の注目をあびているときに客人のひとりである私は反対の下手に引っ込んで、舞台裏でスタンバイしているアシスタントさんから背中にネタを仕込んでもらってしずしずと舞台下手に戻る。
ドロッセルマイヤは、上手での演技を終えて、振り返って下手に向かい、私と対面し、つと背中に手をのばして、仕込んであった大きくてカラフルなペロペロ・キャンディをとりだして、観客の賛美を得るようにキャンディを中空に差し上げる。
もともとフォークダンスのような、社交ダンスのような踊りの際に公爵衣装で舞台センターで凛々しく歩き回ることによって衣装に異物がついていないことを伏線のようにプレゼンして、カラフルな異物が背中にまとわりついていてなかったはずなので、マジックになってはいる。
背中から異物が取り出された私は、きどったドロッセルマイヤに向かい、どうなっているのか? 何が起こったのか? 上体をくねらせて、不思議がるマイムを続ける。子どもたちも私を取り囲んでけげんそうなマイムをしてくれる。
ドロッセルマイヤは私に対し一礼したあと私から離れ、舞台中央に歩みを進め、スポットライトもそのあとを追うので、私は、また死角となる影のスペースに溶け込んでしまう。
舞台は進んで、次は、ドロッセルマイヤの指揮でムーア人形とバレエ人形の人形ぶりダンスが展開されるシーンに転じる。さらにはくるみ割り人形が少女クララにプレゼントされ、ところが、イタズラものの兄弟フリッツとのいさかいからくるみ割り人形の首がもげてしまったり、これをドロッセルマイヤが修復したりとワザワザな作り事が繰り広げられたあと、パーティはお開きとなり、客人たちは家路につく。子どもたちはプレゼントをかかえ、大人たちは、ほろ酔いかげんで舞台からソデにはけていく。これで、私の出番は終了する。
その後クララは眠りにおちて、一幕が終了し、二幕では、クララは夢の中の世界にいざなわれている。
ドロッセルマイアは、バレエ団のベテラン・ダンサーの先生が演じる。女の子を担ぎ上げるなら、一度にふたりでも苦もないだろうと思わせるような隆々とした上体の持主で、だからこそ、スラリとした王子役は、年齢面もあって、もう回ってはこないが、どんな演目でも必ず重要な男性の脇役はあるもので、年季があってはじめてこなせるようなキャラクタ・ダンサーと総称されるダンサーのその代表選手である。ダンス・テクニックはもとより、マイム演技も手練となる。
セリフをいっさい活用しない不自由な表現手段であるため、総じてストーリーに乏しいバレエながらもストーリーを描きあげることに欠かせない存在で、ドロッセルマイヤなどは、まさにその典型となる役柄である。
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世界のバレエ公演を一巻一枚のDVDとブックレットで隔週発行されていたディアゴスティーヌ社の「バレエDVDコレクション」の刊行が今年一月に終了した。このコレクション通算六一巻のうち「くるみ割り人形」は、四巻ある。
複数刊行の演目は、ほかには「白鳥の湖」と「ジゼル」と「コペッリア」がそれぞれ三巻で「くるみ」がいかに人気のある演目かを示している。
○英国バーミンガム・ロイヤル・バレエ団版
四巻の中では最も原型的なものと思われる。
ドロッセルマイヤは子どもたちの輪に入ってその体に手を差し伸べ、子どもたちの衣服から次次とハンカチを取り出していく。それぞれ子どもたちの服にあらかじめ仕込まれているものと思われる。ハンカチを投げ入れた箱に手を入れて、中から一メートル四方はある巨大なハンカチを引き上げる。小さなハンカチが仕立て直されたようにマイムの流れの中で見せるのが肝心なところであるが、箱に中にあらかじめ仕込まれているものであるのも明白だ。
その次のマジックは、銀色のボールの空中遊泳なのだが、DVDではちょうどボールをクローズアップで映し出して、ボールを保持する鋼線がモミの木の枝から伸びだして光ってしまう瞬間がある。ネタバレそのものの映像となってしまっていた。ライブの舞台なら、夜目遠目で鋼線まで判明しようがないところ、とんでもないカメラ・ワークのせいで台無しだった。
マジックのあとは、ムーア人形とバレエ人形をお披露目するシーンに移り、それぞれの人形に扮するダンサーが粋を凝らした人形振りダンスを楽しませてくれる。手足は木のように固めて、関節はときおりバネのように振動させ、そのフリはばにメリハリをつけて、これを音楽に乗せて。
○ベルリン国立バレエ団版
傘をさした紳士が舞台上空からしずかにフロアに落ちてきて登場するのが、幕開き冒頭シーン。これがドロッセルマイヤでくるみ割り人形を片手に抱えているのがわかる。異質感きわだたせる演出だった。
パーティへの侵入時は、天眼鏡のような小道具を頬にかざして、音楽のリズムと離れて独自のペースで一歩一歩クララに歩み寄ることで魔性度合をあげている。
ただし、パーティの場での小手先のマジックはしなくて、人形振りの導入のため、大きな箱を三個並べて、その上で糸あやつり人形を数体ふらふらさせる。これに合わせて箱の中でダンサーが人形の動く振りを影絵にして踊り始め、音楽の変化とともに箱から飛び出して人形振りダンスを続ける。その後は、ドロッセルマイヤ自身が、素軽い可憐なダンサーとして誇らしげにダンス・スキルを繰り出す。
○マシュー・ボーン版
マシュー・ボーンは、ゲイの白鳥を誕生させるなど古典バレエの破壊と再構築で人気を得たイギリスの演出家で、この「くるみ」もオーソドックスなものからは大きくデフォルメされていて、ドロッセルマイヤは登場しないで、そのかわりドロス博士なる孤児院経営者がその妻とともに孤児たちのかたきのような存在として登場する。音楽がチャイコフスキーの同じものであることとクリスマス・プレゼントをめぐるストーリーであることがオーソドックスなものと同期するだけの新解釈のものとなっている。
こちらはくるみ割り人形にあたるのが、アメリカン・コミックから抜け出したようなアイビー・ルックの青年人形で、この人形振りダンスは、手・足がまさにマンガのようにビュンと伸び縮みするように見せる不思議な踊りで、斬新さを加算するものだった。
○サンフランシスコ版
ご当地サンフランシスコが舞台とされ、セピア・カラーの写真が西部開発時代のご当地の出来事である設定を用意する。
幕開きは時計店の店主ドロッセルマイヤが客の応対をして、その後店をたたむところで、一段落となる。続いて、シュタールバウム家のパーティに移るが、大人男性の衣装が三つ揃えのスーツ姿で、衣装というよりファッションというべきなものであるところが、アメリカアレンジらしい。ドロッセルマイヤもなにかせかせかしたタイプで魔性度合は薄く、神秘性はない。
マジックの方は、まずはハンカチーフをぞろぞろと繰り出すものと、杖の空中遊泳という定番のもの。そのあとには、子どもたちがプレゼントでもらったバレエ人形・ピエロ人形・くるみ割り人形を大きな箱に入れると、箱からは人間の大きさに巨大化されたバレエ人形・ピエロ人形・くるみ割り人形がそれぞれソロで人形振りダンスを展開する。
手足は木のように固めて、関節はときおりバネのように振動させ、そのフリはばにメリハリをつけて、これを音楽に乗せて。
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小さな教室のささやかな発表会でいいので、一度はドロッセルマイヤをやりたいという想いを抱き続けている。
黒のフロック・コートと大げさな黒マントのオーソッドックスないでたちで、黒のアイパッチで片目を覆い、もう片方の眼力を際立たせる。歌舞伎の隈取のようなメイクも工夫できそう。
そして、あっと驚くマジックをみせる。ああ、マジックのネタを仕込まないと。
「おれたちは、こどもたちに喜んでもらってなんぼやから」
本番の日、男楽屋でドロッセルマイヤ役の先生が共演者たちに語りかけた一言が忘れられない。
だとしたら、マジック教室にも通学しないと(笑)
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