白道の部屋   橋本 直樹


 

 ホテルの部屋の壁には、砂漠に座礁した難破船から大量の蟻が脱出する絵が描かれていた。蟻は列をなし、大きな円を描きながら、出口のない渦を巻き続けている。それは砂の薄黄色を纏って満月のように見えた。
「お兄さん、キス、うまいね」
 幼顔のホテヘル嬢が口を尖らせる。三十五歳という僕の年齢を聞いた後、「見えないね」と白い歯を見せると、あどけない表情で笑った。
「キスがうまい人って、ドキドキする。なぜかわかる?」と一重の眼を真っ直ぐ僕に向けて、楽しげに聞いてきた。文字通りのリップサービスなのだろう。
  ぼんやりしていた間を思案中と取ったのか、ホテヘル嬢は、「ねぇ、わかった?」と質問の答えを催促した。「どうして」と当惑げに尋ねる。
 答える代わりに、もう一度しっとりと濡れた唇を預けてきた。キスで女をいかせようと、ホテヘル嬢の舌を求めて舌を絡ませた。
 風俗嬢を抱きにいくと必ず半時間ほど身の上話をする。たいてい僕が彼女たちの話を聞いている。彼女たちが溜め込んだものを僕が処理しているようだ。
 時間稼ぎなのか、生理的な本意なのかはわからない。けれど、裸になって布団に潜り込み、髪や鎖骨や脇腹を撫でながら彼女たちの話を聞くのが嫌いではない。
 唇を離すと、このホテヘル嬢も他の風俗嬢たちと同じように話し掛けてきた。
 煙草の臭いの残る熱い息が、僕の頬に掛かる。

 製本所から納品されてきた新刊の数を確認するために、僕は二階の事務所を飛び出した。すると、階段の踊り場から、暑気とともに脂じみた臭いがもわっとあがってきた。染井さんが外回りから帰ってきたようだ。
 パナマ帽を頭に乗せ、黒の革鞄をたすきに掛けた小柄な猫背姿が、手すりを持って上ってくる。薄紫の半袖カッターシャツの第二釦までを外し、何かで扇いでいる。
「何ですか、それ」
「工事用の手袋や。電信柱に掛かっててん。落ちてるもんは使わな損やろ。ちょうどええな思て」
 染井さんはにっと右奥の銀歯を見せた。
 今日も全国各地で最高気温が更新された。八月の酷暑を炙り出す光が、事務所と廊下を挟んだ向かいの窓から僕の顔と老営業マンの背中を射ている。
「あんた、どこ行くんや。外は蒸し風呂やで」
 何度名前を名乗っても、覚える気がないのか、「あんた」呼ばわりだ。
「門田です。倉庫へ新刊を数えに」と答えた僕に晴れやかに頷くと、染井さんは事務所の中に消えていった。
戸外へ出た。直射日光が頭皮を焦がすように突き刺さってくる。僕は目を細めて、三階建のビルの煉瓦色をした壁面に目をやった。
 栄陽印刷のプレートの下に並んで掲げられたたいよう太陽どう童出版のプレートが、陽光に反射してきらめいていた。社名には『太陽みたいな子供たちの笑顔を紡ぎたい』という意味が込められている。
 太陽童出版に途中入社して三年目の僕が、親会社の最年長営業である染井さんの年齢と忠範という名前を知ったのは、一ヵ月前だった。
 午後三時。給湯室でインスタント珈琲を飲んでいると、いつもの臭いを纏った染井さんが入ってきた。薄い髪はポマードで撫でつけられている。換気扇の釦を押し、小型冷蔵庫にもたれると煙草に火を点けた。換気扇の音を耳障りに感じ始めた頃、広い額に皺を刻んだ染井さんが、「あんた、歳は幾つや」と尋ねてきた。「三十五です」と答えると、「偉いさんになるにはまだ早いな。そうでもないか。社長は三十から社長やもんな」と笑う。
 年齢を聞き返すと、「一九三九年七月十二日生まれ。月で餅搗くうさぎ年」と答えた。
 七十一。僕と同じ卯年、三まわり上である。父より六つ上にしては年より老けて見える。染井さんは、家庭を顧みず好き勝手に生きてきた父のような人間ではないだろうと想像した。誰にでも気さくに話し掛ける丸みを帯びた雰囲気に、家族を大切にしている人なのだろうと密かに憧憬の眼差しを向けていた。
「今から得意先に行くねん。サンプル早よ出せ言うから出したら、思てたのとちゃうてやり直しや。印刷屋を軽く見とる。車の免許無いさかい電車とバスで行かんならんねん」
「社長、タクシーなんて認めませんもんね」
「タクシータダ乗りしたことあるか? わし、名前がタダノリやから、しょっちゅうやってんねん」
 鼻の穴から煙を吐き出すと、目をくるりと一回転させて、「嘘や嘘や」と破顔した。
「あんた、タイヨウさんの期待の星なんやから、ヒット当ててくれなあかんで」と煙を吐いた染井さんの眉が旨さで垂れ下がった。染井さんを呼ぶ館内放送に、「ここでっせ」と答えながら灰皿で煙草を揉み消すと、給湯室を出ていった。
 染井さんについては、社長が栄陽印刷を立ち上げた時からいる古株ということと、退社時間が一番遅いということしか知らなかった。

 四ヵ月前の四月、主任の辞令が出ると同時に役職者間で持ち回される戸締まり当番に組み込まれた。月に二回、夜十時まで残り、すべての建屋の鍵を閉めるのだ。今日は八月二度目の当番の日である。
 千葉の書籍倉庫に新刊を発送し終えた時、トラックヤードで五時の終業ベルを聞いた。本館二階の事務所に戻ると、多くの営業マンが残務をこなしていた。太陽童出版は西側の一角に机の島がある。三十人弱の栄陽印刷の営業マンと三人の経理担当者、五人の太陽童出版社員を見渡せる位置に、社長の梶川が座っている。
 銀縁眼鏡から覗く右目の下がいつも痙攣し、イラチを表情だけで表現できるのが特技と営業マンが揶揄している。営業が骨の髄まで染みついた人物で、営業会議では、「仕事は営業から始まり営業で終わる」「負けたふりして勝つ」「日本人特有の惻隠の情は捨てよ」「徳俵で踏ん張る気概でやれ」「商戦場に散れ」と声高に叫んでいる。
 梶川社長は太陽童出版の社長も兼務していた。大阪のような出版僻地に出版社を持っていると業界を客観視できるという思惑から、数年前に負債を抱えていた前社長から借金ごと出版社を譲り受けたと聞いている。その後、教育書シリーズで売上を伸ばし、年商一億まで持ち直していた。
 業界人ではなく、経営感覚に長け一般常識を身に付けた人材を求めていた社長の要求に、地方銀行を退職した僕の経歴が合い、故郷を去るように大阪にやって来た。
「染井さん、染井さーん。おらんのか」
 社長の声に、同じ課の坂田課長が、「まだ帰ってません」と答えた。社長は棚卸表を捲りながら、「在庫数が滅茶苦茶や。辞めてもらわなあかんな。現金回収でけへん得意先もあるみたいやし」と整頓された机を叩いた。
 七時半頃、右手に帽子を持ち、昼間会った時より革鞄をだらしなくぶら下げた染井さんが帰社してきた。三つ向こうの島に染井さんの席はある。机に鞄を置くと同時に携帯電話の着メロが事務所に響き渡った。ドヴォルザークの新世界である。通話釦を押すのに手間取りながら、染井さんは電話に出た。
「あー、そうですか、何はあれでオッケーですか。ほな、あれはそれで行きまっさかい」
 虚空に頭を下げながら電話を切った途端、社長が勢い勇んで染井さんを呼んだ。
「回収でけへん会社って、飛び込みか、誰かに紹介されたトコか」
 何の話か思い出す素振りの染井さんは口を真横に結ぶと、社長ににじり寄って口を開いた。
「社長ですよ。半年ほど前に行け言いましたがな。名刺刷ったけど払ろてくれまへんの。社長が行け言う会社、そんなとこばっかりや」
 社長は苦虫を噛んだような顔をすると、もうええわと椅子を回転させた。振り向いた染井さんと目が合う。染井さんはぺろっと舌を出した。
 八時を境に総務経理部の電気が消え、営業マンたちも帰路の一歩を踏み出していった。
ほどなく社長が帰ると、入社二年目の営業の岩橋が、「こんな安月給で毎日残業すんのあほらしいわ。染井さん、くそ暑いのにようその歳で外回ってますねえ。天職っすね」と大声で笑った。その言葉には、いつ逝ってもおかしくないですよという意味が含まれている。岩橋は入門したての相撲取りのようながっちりした体格だった。残る先輩営業たちはその物言いに苦笑こそすれ、注意はしなかった。
 岩橋は体を揺らしながら、僕の席のそばの共有パソコンにやってくると、音を出さずに動画を見始めた。人がいなくなると、いつも何かを見にやってくるのである。鬱陶しかった。
 動画を見終え、画面を閉じて席に戻る岩橋は、「これ見ると元気が出んねん。今年も三万人越えるかなあ。自分で死ぬ奴はあほや」と独りごちた。
 岩橋が事務所を出て行くと、先輩営業たちも立て続けに帰って行った。
事務所内が静かになった。デザイン室の巨大サーバーのモーター音とクーラーの送風音がフロアを満たしてくる。
「まだ、いますか?」
 紙の価格表を見ながら見積書を書いていた染井さんに声を掛けた。
「ひょっとして、当番?」
 顔を上げると、遠近感を推し量る目つきで染井さんが僕を見た。
「ここ以外の鍵を閉めてきます」
「ほな、終ろか。一杯引っ掛けて帰ろうや。奥さんに怒られるか」
「いいですよ、独り身ですから」
「わしと一緒やな」
 意外さから染井さんの顔を見返した。てっきり家族がいると思い込んでいた。
 営業車の鍵が並ぶボードから当番専用の鍵束を取ると、事務所のドアを押した。

 幹線道路沿いのうどん屋に入った。
「あーあ、交通費請求すんの、また忘れた」
 店に入った途端、染井さんが鼻息混じりに叫んだ。クーラーの風が直接当たらない席に帽子と鞄を置き、膝を摩りながら座ると、「その日に請求せんと社長、怒んねん」と言って大きな欠伸をした。僕は染井さんの目の下の黒い半月のような隈をしげしげと見つめた。
 生中とキツネうどんを二人分頼むと、染井さんは立ち上がってカウンターに向かって歩き出した。
「あんたもこっち来て、好きな具、取り」
 染井さんの数歩後ろをついてゆく。
 おでんだった。真夏におでんなんてと思ったが、クーラーの冷気と店員がサーバーから注ぐビールを見ていると、食欲が湧いてきた。出汁の香りが鼻先に漂う。染井さんと同じ厚揚げとたまごと牛スジを皿に取り、皿の縁にからしを塗った。
 席に戻ると、テーブルには中ジョッキが二つ向かい合うように置いてあった。
「ここ何週間か、寝不足やねん。隣に越してきた家の子が毎晩泣くの。うるさてしゃあない。親はほったらかしみたいや」
 牛スジを噛みながら、染井さんが思いも寄らない愚痴を零し始めた。
「虐待でしょうか? 多いみたいだし」
「そんなん多いの? よう知らんねん」
「親は泣きやませないんですか」
「親の声、聞いたことないけど、室内にはおるみたい」
 染井さんはスジ肉を皿に出し、厚揚げをほお張り始めたが、熱い汁が喉につかえたのかゴホゴホと咳き込むと、口の中のものをテーブルに吐き散らした。「うわあ」と声をあげ、慌てて僕は自分のジョッキと皿を持った。
「ごめんごめん」と言いながらハンカチを取り出すと、染井さんはテーブルを拭いた。ジョッキと皿を持ったまま、なかなか綺麗に拭けない緩慢な動きを見下ろしていると、営業日報を書いていた小さく丸まった背中が思い出された。
 染井さんの営業日報を覗き見ると、得意先名、業務内容が達筆な文字で書かれていた。はねに特徴があり活力が漲っていた。
 評価欄は、一社に付いた○を除いてすべてが×だった。見積り金額が合わなかったとか、現金が回収できなかったなどが×なのだろう。
 社長は偉いと思う。これまでも○なんて少ししかないはずで、大半が×で占められていたに違いないが、創立当初から苦杯を舐め合った同胞のよしみで大目に見ている。辞めてもらわなと毒づきながらも雇っているのだ。
染井さんがテーブルを隅々まで拭き終えた頃に、キツネうどんが運ばれてきた。冷気を押し分けるように湯気が天井に立ち昇る。
 額と頬が赤らんだ染井さんは、「うちに泊まっていきいや。隣の様子も見てほしいし。続きそうやったらガツンと言うたろう思てんねん」とビールの酔いで大きくなった気持ちを吐露した。
 眠れないのはきついが、アパートの窓から見える、隣のアパートの錆びた物干し竿や干しっ放しの洗濯物、塗り直された外壁など、見慣れた風景が思い出されて帰りたくなくなった。1Kの部屋の雑然とした空気よりも、窓からの景色に寂しさを覚えた。
 僕はうどんを啜り終えると、首を縦に振った。染井さんの顔に安堵の笑みが浮かんだ。

 私鉄とJRを乗り継ぎ、二十分ほどで染井さんの家の最寄り駅に着いた。酔いがまわった染井さんの後を高層マンションまで付いてゆく。赤ら顔に流れる汗をハンカチで拭きながら、染井さんは、「今日は楽しいなあ」と呟いた。足元にハンカチを捨てると、ぎこちない足取りで階段を上り始めた。
「階段で行けるんですか」
「二階の二〇一号室」
 一階と二階の間の踊り場を曲がったところで、子供の泣き声が聞こえてきた。
「もうはじまっとる」
 階段を上がると、右手に二〇二号室、二〇一号室、左手に二〇三号室から五つ扉が並んでいた。泣き声は二〇二号室から聞こえた。
 染井さんは鞄を開けて鍵を探した。腕時計を見ると十一時過ぎだった。廊下に面した磨りガラスの窓の片側がわずかに開いている。
「自分が垂れたくそは自分で始末せんか」
 隣室の前を通る際、甲高い女の声が聞こえた。僕はびくりと肩を竦める。何かが壁にぶつかる鈍い音がした。泣き声が長く伸びるように響いた後、「ごえんなたい」としゃくりあげる声が漏れてくる。ピンと張った蜘蛛の糸を水滴が滑り落ちるような緊張が、背に走った。
 今度ははっきりと肉体が肉体を叩く乾いた音がした。
「ママァ」
 母親に縋るように叫ぶ声では性別はわからない。
 ノブを回す音と同時にドアが開き、グレーのスウェットの上下を着た小柄な女が飛び出してきた。キャップを目深に被り、サングラスを掛けている。閉まりかけたドアの隙間から、もう一度、「ママァ」という切羽詰まった声が漏れた。女は慌ててドアを閉めると素早く鍵を回した。
「おい、ちゃんと面倒みたってるんか」
 鍵を開けていた染井さんが女に尖った声を投げた。「ほっとけや」と捨て台詞を吐くと、女は階段を駆け降りた。サンダルの音がコンクリートの壁に反響した。
「待たんかい」と染井さんは女を追いかけたが、廊下の窪みに躓いてよろけた。
「警察か専門の施設に連絡した方がいいんじゃないですか」と僕は慌てて染井さんを抱きかかえた。
 薄くなった頭髪を掻き上げた染井さんは、諦めた様子で僕を室内へと促した。小刻みに叩かれる音が響く隣室を見つめながら、煮え切らない思いでドアを閉めた。
「次こそあの娘っ子と対決したる。でも今日は酔っ払って眠いから寝ましょ」
 取り残された子供が涙声で母親を呼び続けている。
 無関心という言葉とともに、父の横顔が浮かんだ。腑に落ちない感情が許せない思いと混ざりあって心中で煮立っていた。
 3LDKは、一人暮らしの老人には持て余す間取りだった。それぞれの部屋には、嗅ぎ慣れた体臭と煙草の臭いが隅々まで染みついていた。
 通された応接間は床に新聞が散乱しているだけで、小綺麗に整理されている。26型テレビの横に丁寧にしつらえられた本棚があり、動物図鑑が並んでいた。中央に革張りのソファーがある他は、家具はほとんどなかった。
 染井さんは隣接する和室のクーラーを点けると、襖を開けて浴槽に湯を溜めに風呂場へ行った。
 寝室の和室には、タオルケットと敷き布団の脇に地味な小仏壇があり、遺影が二枚飾ってあった。奥さんと娘さんのものらしい。
 突然、電話が鳴った。戻る気配のない染井さんを呼びに行った。廊下の途中にある洋間には段ボールや収納箱がうずたかく積んであった。
 タオルで手を拭きながら応接間の電話に出た染井さんは、相手に笑顔で久方ぶりの挨拶をした。やがてシミだらけの顔から笑顔が消えた。口角の下がった口は半開きのまま、一点を見つめる深刻な表情になる。言葉少なに何度か頷いた後、静かに受話器を置いた。
「兄貴が死んでんて。東京行かなあかんようになった。心臓が悪かってんけど、暑さにやられてんな。今年の夏は異常や。誰もおらんようになってしもた」
 明日休むことを総務に伝えると言うと、「いや、朝、一緒に会社出るわ」と染井さんは答えた。直接上京しても業務に支障はないはずだった。むしろそんな時ほど会社に必要とされているという気概を見せたいのだろうか。二まわりも若い上司にひと言報告するだけなのに。
「すまんけど、先に入らせてもらうわな」
 染井さんは手近なソファーや壁にすがりつきながら風呂場に歩いていった。猫背の後ろ姿が沈痛に見えた。
 取り残された気分で和室に足を踏み入れる。今一度、光沢の無い仏壇に飾られた二枚の遺影を見た。その時、ドンドンとベランダの窓を叩く音がした。窓際に駆け寄り、カーテンを開けたがベランダには誰もいない。音は隣室から聞こえてくるようである。
 窓を開けると鼻腔に悪臭が流れ込んできた。思わず嘔吐く。口で呼吸をしてベランダに出た。
「ママァ」。隣戸を仕切る防火塀のわずかな隙間から、声がするベランダを覗き込む。床に食料品の空き箱や袋、口の開いた缶詰や弁当の容器らしきものが散乱している。牛乳パックの口や真っ黒な果物の皮のようなものに、ぶんぶんと蝿がたかっていた。
「だいじょうぶか。ひとりかい」
 神経を逆撫でないように穏やかな口調で声を掛けてみるものの、窓を叩く音は続いた。室外機が回っている様子はない。
 母子二人だけで暮らしているのだろうか。管理人の付き添いの元、踏み込むべきか。不法侵入を恐れず中に入って凶暴な男がいたらどうする。いれば怒鳴り声がしてもおかしくはない。最善策はやはり警察を呼ぶことか。
 偽善的な絵空事を並べてみても、具体的な手段は浮かばなかった。壁からじんわりと染み出てきそうな声を聞きながら思いあぐねた。
 鉢植えの脇に立て掛けられた箒を掴むと、手慰みのように腕を伸ばして隣室の窓を叩いてみた。窓を叩く音がやんだ。子供が怯えないように、小さな音で窓を叩き続けた。
 やがて淋しげな泣き声と窓を叩く音が戻ってきた。箒を引き抜いて元の場所に置くと、何と声を掛けていいのかわからないまま、上体を屈めて同じ呼び掛けを続けた。声に合わせて音は強くなったが、何もしてもらえないと気づいたのか、声は小さくなり、やがて窓を叩く音は消えた。
 こんな時、子供を持つ親ならばなりふりかまわず飛び込むのだろうか。またもや父の顔が浮かんだが、埒もない想像だったとしみじみと自分の愚かさを嘲笑った。恋しくても母の顔は思い出せなかった。
 やるせない思いで和室に入ると、パジャマを着た染井さんが布団を敷いていた。
「母親、呼んでたやろ。応接間で寝たらやかましないねんけど、ここで寝るねん」
 写真の若い女性に人差し指を向けると、「娘のみゆき。真面目な子やった」と染井さんはほろ酔い気分の延長の調子で続けた。
「みゆきのこと何にも知らんかった。食べ物は何が好きで何が嫌いなんか、教科は何が得意で何が苦手なんか、好いた男がおるんかも全然。真剣に向き合うてなかった。怒ったり叩いたりした覚えはないけど、隣の母親とおんなじやな」
 呆れ顔で布団に胡座をかくと、染井さんは枕元から煙草を取り出してマッチで火を点け、思いきり吸い込む。吐き出す煙で僕はむせた。
「わし、昔、絵描きやってん。今でゆうイラストレーターやな。親の遺産で何とか食えとったし、絵だけで有名になったろと思てた。でも、ある時、見えたんや。絵の世界の先が」
 染井さんは一人になりたくないばかりに、酔いに任せて感情を垂れ流しているようだった。
 クーラーの冷気で汗が引くのを感じた。
「みゆきが高校へ入るのを潮に、全然違う世界へ飛び込んだろ思て、社長と会社始めたん。初めは電話も鳴らんし、一人のお客もおらんかった。飛び込みで入っても断られてな。印刷のことわかってへんし。一年目は赤、二年目でトントン、三年目で黒の精神で地道にやってたら、いつの間にか顧客が増えてて」
 鉢巻を巻き、算盤を弾く仕草をすると、昨日のことのように朗らかに語った。
「配色の知識を武器に営業してん。このイラストにはこの色使いなはれとか、会社のロゴはラインごとに濃淡つけたほうが映えますでって提案してん。帰るの毎日夜中。家のことは嫁はんに任せっきりで、からっきしやったわ」
 酔いが引いた染井さんの顔は黒かった。
「みゆきの誕生日に嫁はんから言われてん。医学部へ行きたいゆうてるって。私立は金かかるさかい国立目指すて。絶対応援したろ思た。娘の夢叶えられんで何が親や。でも……」
弱々しく微笑むと灰皿で吸殻を揉み消し、「男のしゃべりは嫌われるなあ。さ冷めんうちに早よ入って」とバスタオルを僕に手渡した。

 何時だろうか。話し声のようなものが漏れてきた。襖が半畳分ほど開いていて、和室の冷気が応接間に流れ込んでいる。寝ていた応接間のソファから起き上がると、薄暗い和室を覗いた。染井さんの姿はなかった。
 声はベランダから聞こえてきた。声の合間に泣き声が混ざってくる。
 襖を閉め、応接間からベランダへ出ようと窓を開けた。泣き声が直截的に流れ込む。防火塀の前で中腰の染井さんが、隙間に見える影に呟いている。汗と排泄物と生ゴミの臭いが混ざった異臭が鼻を圧迫してきた。染井さんは平気なのかと訝った。裸足のままベランダに出ると、染井さんの真後ろに立った。
「……やなぁ、チビちゃん、水、の……」
 声の断片と共に、染井さんは薄い隙間から慎重な手つきでペットボトルを差し出す。僕はベランダの柵越しに身を乗り出した。
 ベランダに紙パンツを履いた上半身裸の子供がいた。腕を眼に押しつけて、涙を拭いている。髪を額にべっとりと貼りつけている。あばら骨が太筆で引いた線のように薄い胸を抱え込むように走り、腹が異様に出ていた。
 子供は用心深く腕をどけると、殺人鬼でも見るように、殊更に両目を見開いて僕を見上げた。右目に痣のような蒼黒い広がりのある女の子だった。あごが尖った顔には精気がなかった。体をぶるぶると震わせ、白目を剥かんばかりに僕を睨みつけてくる。悪意をたぎらせた双眸には染井さんもペットボトルも映っていない。その狼狽ぶりと視線の行方から、染井さんが振り仰いだ。思いがけず恐怖の矛先を向けられ、戸惑う僕と目が合った。
 防火塀一枚で仕切られた空間の、あちらとこちらでは別世界が広がっている。
 突然、隣室の窓が開き、腕が伸びてきたと思うと女の子の顔面に拳を突き立てた。ぎゃっという悲鳴をあげて女の子はよろめき、泣き顔になる。泣き叫ぶ女の子に水が浴びせられる。ゴホゴホと咳き込み、口から水が溢れた。細い腕が女の子の左腕をぐいと引っ張った。か細い首がぐらりと揺れる。踵を引きずり、サッシにぶつけながら鮫に食われた人のように部屋に引きずり込まれていった。
「栄養あるもんやらんか。脱水状態やぞ」という染井さんの声も虚しく、窓が閉められカーテンが引かれる乾いた音が残った。
 目の前で起きた暴挙よりも、初めて見る僕を睨みつける憎悪の鎖に縛られ、居心地の悪さを感じずにはいられなかった。染井さんは唇を震わせ、下唇を噛んだ。
「水……、いつもあげてるんですか」
 和室に入り、深呼吸してやっとの思いで出た一声だった。
「初めて。あんたを見てえらい怯えとったけど……」
 染井さんはしばらく僕を凝視していた。部屋は冷気で冷え切っていた。僕はリモコンでエアコンの温度を上げる。
「あの子が来た頃は、ビービーと泣き方もすごうて寝られんで困ってん」。素手で壁を叩きながら、「でっかい音がして子供が泣くと、この仏壇揺れるんや。みゆきが『あの子を助けたって』て足踏みしてるみたいに」と悔しそうに項垂れた。
「新聞受けに手紙入れてん。返事はあれへんけど」
 額に浮いた汗を手の甲で拭うと、染井さんはペットボトルの水を口に含んだ。
「管理人から『隣臭くてすみません』って言われたことあんの。鼻悪うて気づかんかったけど、それやったら何とかしたれて怒ったってん」
 鼻から息を吸い込む。鼻腔の奥に腐臭の名残がこびりついていた。
「夜、何回か呼び鈴鳴らしたけど誰も出てこうへん。ベランダで子供見たんは初めてや。腹に据えかねたことあったんかな。母親をどないかせんと、恐ろしいことが起きそうや」
 染井さんは壁に向かってあごをしゃくった。
 和室の襖を閉めるとソファに横になった。炬燵台に置いた腕時計を見る。四時を回っていた。
ホームページに、『ちっちゃな遊び心があなたの心を和ませます』というキャッチコピーを掲げ、心潤す美談が売りのエッセイや子供に夢を与える絵本の編集をする男が、手を差し伸べたいと思いながらも、こんな子供は日本のそこら中にいるのだという言い訳をして、子供一人さえ救えないでいる。
 眠れそうになかった。聴覚による影響ではなく、視覚と嗅覚によって受けたダメージによるのだと思う。多量のアドレナリンが分泌されたのかもしれない。和室でエアコンのリモコンをいじる音が聞こえた。
 天井を見つめながら両親のことを考えた。
 出雲地方生まれの父は、昨年六十四で島根のJAを退職した。出納係一筋だった父とは幼少時代から口を利いたことがなかった。長年六時に帰宅し、背広の埃をエチケットブラシで入念に取ると、内ポケットの刺繍を一撫でしてからタンスに仕舞った。手短に食事と風呂を済ませると、自室に籠って月刊の釣り雑誌を捲ったり、釣り竿を磨いたりしているようだった。
 週末、父が釣りに出掛けた間にこっそり父の部屋に入ると、壁一面の書棚に釣り雑誌が年月別に整頓されてあるのを目にした。夕方帰宅した父が、「あいつらを部屋に入れさせるな」と母を叱責しているのを耳にした。
父は僕と二つ下の妹の寿美には関心がなかった。僕が高校で最下位に近い成績をとり、担任教師から暴行を受け続けようが、中学生の寿美が僕の親友の子を妊娠した罪で職員会議にかけられ、中絶を勧められようが、まったく興味を示さなかった。
 定期的に給料を振込み、子供たちに大学と短大を卒業させた。娘の結納金の捻出までは親の役目として果たし、それで充分と考えていた。
 子供だけではなく、母にさえ愛情の欠片もなかった。見合い結婚だった両親は、男は外で働き女は家を守るという田舎のしきたりに対するこだわりはなく、母は長らく市内のクリニックに働きに出ていて、勤務年数の長さから婦長職を預かっていた。
 僕は九年間勤めた地元の銀行を辞め、母が勤めるクリニックの院長の口利きで関西の小出版社を紹介してもらうことが決まっていた。「銀行より合ってると思うわ」と過労で窶れた僕の顔が少し明るむのを見て、母は肩の力が抜けた感じだった。詳しい話を聞くため、出勤する母と一緒にクリニックへ向かう途中、信号待ちをしていたところに飲酒運転の車が突っ込んできた。母はアスファルトに叩きつけられて死に、僕だけが助かった。
 東京暮らしの寿美は、着の身着のままで帰ってくるなり、「お兄ちゃんの役立たず」と囁くと、亡骸に縋って泣き崩れた。全身が痛む言葉だった。
 父はいつもと同じ表情を崩さず、時折笑みを浮かべながら弔問客の相手をしていた。
「何がおかしいのよ」
 寿美は父の顔めがけて線香の束を投げつけた。線香は折れて畳に散らばった。父は拾う素振りも見せず、僕に視線を向けた。僕は散乱した線香を拾い集めた。僕が銀行さえ辞めていなければと思うと、目の前がぼやけた。打覆いを取り、潰れた母の顔を見た途端、寿美は気を失って倒れた。
 石見地方出身の母は温和で楽天的な人だった。僕ら兄妹にとても優しかった。母が語る物語を聞くのが好きだった。
「太陽と月は兄妹なの。昔、月も太陽みたいに光っていて、仲良く地球を照らしていたのよ。ある日、月は太陽に言いました。『照らすと植物や動物は感謝してくれるのに、人は感謝してくれない。だから人を焼き尽くしてやる』。太陽は『人は人なりに僕らに感謝しているよ』と月を宥めたの。でも月は我慢ならなくて人を襲おうとしたわ。その時、太陽が月から輝きを奪って、薄くしか光れなくなってしまったの。泣く月に太陽は言いました。『泣くな妹。お前は夜に地球を照らせ。人は闇が嫌いだ。その光を見てきっと感謝するだろう』。そして月は夜を照らすようになったの」
「なぜかあなたには何かと話したくなるの、不思議ね」と僕に微笑みかける母に、「なんでお兄ちゃんだけに話すの」と寿美は食ってかかった。利かん気の強い性格は月の妹に似ていた。
 十四の寿美は僕の同級生の子を身籠った。僕は同級生を呼び出し、寿美の目の前で顔が腫れ上がるまで殴りつけた。血に染まった拳に鈍い痛みが残り、握った手を開けなかった。力の限りに人を殴ったのは初めてだったが、言い知れぬ快感に取り憑かれてしまった。いつか瞬発的な怒りが込み上げた時、この快感を求めて手を出してしまいそうな恐怖に身震いした。
 通夜の夜、意識が回復した寿美と母の遺体に寄り添っていた時、寿美が告白した。
「職員会議で先生が、『拒んだんでしょう、一方的に迫られたんでしょう』って、全てを彼の責任にしようとしたの。私は反論した。彼のこと愛してたから捧げたって。産んでもよかった。立派なママになれるって信じてたから」
 寿美を労わって同級生を殴ったつもりが、担任教師から受けていた暴行の捌け口にしただけではなかったかと悔恨の情に駆られた。
 寿美が皮膚の剥がれた母の顔を撫でている。その薄化粧の顔は、目鼻立ちが父よりも母によく似ていた。僕はどちらにも似ていなかった。
「母さん、ずっと頭を下げてくれたの。ちっとも悪くないのに。一緒に婦人科に行く時、『悪いのは私だからあんなに謝らなくてもよかったのに』って言ったら、『あなたを産んだのは私だから』って言ったのよ」
 病院への道を歩く寿美に付き添う母と、母の手に肩を抱かれた寿美の背中を思い出す。首の傾げ方や歩き方も似ていたように思う。
 母の面影を辿っていると、隣にいて救ってやれなかった自分への憤りが膨らんでいった。そして、悲しみ一つ見せない父が死ねばよかったという八つ当たりに近い感情が芽生えてきた。
 葬儀の翌朝から、寿美は喪服姿で事故現場に立った。一週間近く東京の家には戻らず、髪も束ねず、化粧もしないで、道路脇に供えられた花束に思慮深げな目を向け続けた。寿美の前を何台もの車が往来した。母に感情を持っていかれた表情は、新たな車が突っ込んでくるのを待っているかのようだった。
 父は軽トラックに釣り具を積み、事故現場の県道を通って釣り場に出掛けていった。
 一度は就職を辞めようと考えた。しかし、母の意志を継ぐために世話になることに決めた。母のいない実家に留まるのが嫌だった。一刻も早く町を出たかった。
 隣の子供のように父から殴られた記憶はない。寿美も同じだ。でも、殴られ、放逐されたような気持ちが、重い鉛のように、長い間心の底に深く沈みこんでいた。
 父がもっと母を愛していればこんなことにはならなかったはずだ。父が僕たち子供を放棄したからこそ、母は命に代えて子供を守らなければならなかったのだ。母が死んでも僕は生き続けている。母のために、母を愛した証しのために、父を叩きのめしてやりたい。瞼の奥の父に向かって拳を振りあげようとすると、父の体は突然大きくなった。

 眠ることなく朝を迎えると、染井さんに促されるまま六時半に部屋を出た。
「モーニング食べよ。行きつけの店あるの」
 出勤時間まで時間があるのに、どうりでこんなに早い時間に部屋を出るわけだ。荷物で膨らんだ黒のキャリーバッグを転がしながら、「寝れんかったやろ、ごめんな」と染井さんは欠伸をして目を瞬かせた。
「隣、ヤバそうですから、僕も色々調べてみます」と返してはみたものの、具体的に何ができるかは思いつかなかった。
 すでに日差しは強く、生温かい風が乾いた肌を滑った。アスファルトに打ち水が揺らめいている。今日も暑くなりそうだ。
 駅前の喫茶店に入った。客は疎らで窓際の席に座ることができた。煎りたての珈琲の香りが店内に充満している。「いつもの二つ」と染井さんが頼むと、数分でトーストとゆで卵が運ばれてきた。店員が、「珈琲は後でお持ちします」と言って厨房に消えた。
 トーストの上でゆっくりと溶けるバターの形が、女の子の顔の痣の形に似て見えた。
「お前はいったい何になりたいんだ」となじりながら担任教師は僕の腹を執拗に殴った。僕は皮肉交じりに、「救急隊員です。やっと手際よく自分で応急処置ができるようになりましたから」と答えた。担任教師は、「てめえ、自分から聖域を汚しやがったな」と呟くと、腹を殴る手を止め、聖域と見なしていた顔を殴った。瞼の上が切れ、血が滴り落ちた。
 家に帰り、洗面所の鏡で瞼の裂傷と頬の腫れを見ていた。通り掛かった母は一瞬驚いた表情を見せたが、軟膏と絆創膏を持ってくると、「あなたは、人の心の声を聞いて代弁する職業に就くのがいいと思う」と呟いた。意味がわからなかった。人の心の声など聞きたくなかった。
 湿っぽい過去を振り払うように頭を振ると、染井さんに質問をした。
「本棚に動物図鑑が並んでましたけど、動物、お好きなんですか」
千切りキャベツをぼろぼろと零していた染井さんは、おしぼりで口を拭くと、「絵描き辞める最後の仕事が図鑑の動物模写やってん。食肉目イタチ科の五〇種類の絵」と言った。
「絵を見て、みゆきさんも喜んだでしょうね」
意地が悪いと思ったが、みゆきさんについて聞き出したくて、話の矛先を向けた。
「男の子やったら喜んだやろけど。もう大きかったし。嫁はんは褒めてくれたけどな」
亡くなった理由には触れず、遺影の中の、目と口元が染井さんに似た赤ら顔を思い出す。
「もう、忘れたいねん」
 湯気が上がった珈琲が運ばれてきた。トーストはクーラーの冷気で冷めていた。
「何か動物の話、聞かせてくださいよ」
僕は話題を変えた。しばらく思案顔で宙に視線を漂わせていたが、「あんまり覚えてへんけど」と前置きしてからしゃべり始めた。
「アフリカの南にゾリラっていうスカンクそっくりの動物がおるんやけど、身に危険を感じたら、長い尾っぽを膨らませて唸ったり叫んだりするんや。相手が怯まんかったら、スカンクみたいにブッとくさい屁をかますの」
 染井さんはトーストをひと口大にちぎると、珈琲に浸してから口に入れた。
「それでもあかん時は死んだふりするんやけど、色んな動物に食われるの。でも他の動物に食われて死ぬより多い死に方があるねん」
 上目づかいで僕を見ると、染井さんは戸外の車の往来に目をやった。
「道に飛び出してジープに轢かれるんや。一頭が轢かれたら、家族もその場から動かへんから、皆同じ運命を辿ってしまうんやて」
 轟音を響かせて突っ込んできた黒のセダン。隣で微笑んでいた母が跳ね飛ばされ、地面に叩きつけられた。路面に血溜まりが広がっていく。足が震え、ぴくりとも動かない母に近づくことができなかった。
 事故現場に立ち尽くす喪服姿の寿美が思い浮かぶ。なぜ僕は寿美のように母の死に向き合うことができないのだろうか。

 染井さんは社長と坂田課長に、手短に兄の死を告げると会社を後にした。
 僕は始業時から何度も欠伸を噛み殺した。体がだるくマウスを動かすのも億劫だった。
書類カゴにデザイン室から上がってきた絵本のゲラが入っていた。小学生の海ちゃんが森で見つけた狸の赤ちゃんを育て、山に返すお話だ。ありふれた物語も人気のイラストレーターが絵を描くだけで売れ行きが変わる。海ちゃんが森の湖で狸の赤ちゃんを拾った時、「だれも すてたくて あなたを すてたわけじゃないの かみさまが わたしと あわせるために あなたの ママから ひきはなしたのよ わかった?」と笑顔で言う。
 女性の作者に、なぜ神様は母親から赤ちゃんを奪ったのか尋ねた。彼女は含み笑いながら、「赤ちゃんが嫌いだから。声も臭いも動きもぷよぷよした質感も、全部。それだけよ」と答えた。あの母親も子供の存在すべてが嫌いなのだろうか。なぜあの子はあの家に産まれてきたのか。神様の悪戯なのか。
 インターネットで幼児虐待を検索してみた。「虐待を阻止する会」というサイトを開き、「虐待を見つけた時は」というリンクをクリックする。「幼児虐待」の文字の下、【近くに孤立した親子はいませんか。虐待は親子が地域社会から孤立しているときに起こりがち。どのように手を差し伸べればいいでしょうか?】というまえがきの後に発生事例が列挙してあった。幼児虐待ホットラインの電話番号を控えると、三階の会議室へ向かった。
 誰もいないのを確認して中に入ると、携帯電話で控えた番号を押した。汗を拭きながら相手が出るのを待つ。十回めのコールの後、中年男が気怠そうに電話口に出た。何か用かと言われそうなくぐもった声である。
「知人の隣の家が幼児虐待か育児放棄っぽいんですが」
「その子を救いたいわけですね」
「ええ、まあ」
「どんな状況、というか、お宅の家ではないんですよね」
「はい、昨日一晩泊まって」
「一晩だけですか。で、状況は?」
 僕は昨夜のできごとを仔細に説明した。
「じゃあ、区域を管轄する児童相談所の番号を教えますから、そちらに掛けてください。すでに近所の人が通報しているかもしれませんが」
 告げられた番号は控えず、電話を切った。手が汗ばんでいる。
 僕は自分のやっている行為に虚しさを感じた。電話に出た中年男と同類であることを思い知らされた気がした。
「太陽童の門田くん、事務所まで」
 生産管理部の宗像部長が館内放送で呼ぶのが聞こえた。声は怒気を含んでいる。腕時計を見ると十時を過ぎていた。社長命令で、先週倒産した製版屋の備品を譲り受けるために出掛けることになっていた。一段飛ばしで階段を駆け下り、事務所に戻った。
 不機嫌そうな部長は眼鏡を持ち上げながら、お前が用意しておけといった表情で軍手を放り投げた。僕は小さく頭を下げた。
 髪を七三に分け、鼻の下に細い刷毛のような髭を蓄えた、細身で背の高い男である。
戸外に出て軽自動車の助手席に乗り込む。「なんや、しまりのない目して」と言いながら運転席に座ると、部長は雑巾で窓を拭き、アクセルを踏んだ。
 そそくさと煙草に火を点けた宗像部長に、「昨日、染井さんの家に泊めてもらったんです」と話し掛けた。「一人暮らしにしては、ええ生活してたやろ」と部長は右眉をくっと上げた。
「お兄さん亡くなったらしいなあ。また一人肉親がおらんようになったか」
 部長は煙を吐き出すと二度咳き込んだ。
「誰にも言うなよ。あの人、娘さん自殺してるんやで」
 思いがけない告白に僕は部長を見た。
「社長が染井さんの奥さんから聞いた話では、研修医やった時に好きになった医者に妻子がいて遊ばれたあげく捨てられたらしい。お腹に子供までおったようや。染井さんが聞いたら持病の心臓病でぽっくり逝ってしまうから、社長にだけ打ち明けたみたいや。何年かして奥さんも胃癌で亡くなってな」
 社長は俺だけに隠密情報を話すんだぞと言わんばかりに、宗像部長は下卑た笑い方をした。子会社の社員である僕にさえ簡単に漏らす軽率な男である。あちこちで触れ回っているに違いない。巡り巡って染井さんの耳に入っていないか気になった。
 社長も軽蔑する。染井さんの奥さんが信頼して告白した重大な話を、口を滑らせるのはフェアじゃないと思えた。でも、聞いてしまった僕は、果たして黙りを決め込むことができるだろうか。染井さんが会社を去る日も近いとなると、ますます自信はなかった。
「十年くらいになるかなあ、一人になって」
 部長はルームミラーを見ながら前髪を直すと、目だけを助手席に向けてきた。
「染井さん、電車とバスで移動してるのは、免許取り消しになったからなんや。営業中、居眠り運転で事故を起こして肋骨折ってな」
 居眠り運転などではなく、奥さんの死のショックによる不注意運転だったのではないか。
 煙が充満する車中で部長は、引き取るべき物や、印刷業界の斜陽度合い、営業部と製本部の確執などをしゃべり続けた。「結婚は?」の問いに、「してません」と答えると、「ええなあ、好き勝手できて。ちょっと前までは結構浮気してたんや。飲み屋のネエちゃんが多いけどな。何かと口実つけて時間やりくりして女のマンションへ行ってたんや。今は休憩中」と煙を吐き出すと、吸殻で溢れる吸殻入れで揉み消した。
「子供ができたら夫は嫁からは忘れられる存在なんや。色々甘んじて受け入れてますんや」
 途中から相づちもうたず、話半分で聞いていた。不倫の言い訳をエアコンの効きの悪い車の中で真剣に聞いていられなかった。
「風呂上がると長いキスすんねん」と部長は自慢げに語った。その台詞から、「お兄さん、キス、うまいね」と言った幼顔のホテヘル嬢を思い出した。「キスがうまい人って、ドキドキする。なぜかわかる?」という問いに思いを 馳せた。まだ答えを聞いていなかった。急にあのホテヘル嬢に会いたくなった。
 しばらくして、「着いたで」という宗像部長の声が聞こえた。

 土曜は溜まった疲れと睡眠不足のために熟睡した。目覚めると昼前だった。アパートからすぐの国道を渡ったところにあるカレー店に向かった。自動ドアのガラス越しに店内を覗くと混雑していた。店先に止められた宅配用のスクーターはいつものように不用心に鍵がささったままである。店に入り、かろうじて空いていたカウンターの一席に座ると、メニューを開かずにカツカレーの大盛りを頼んだ。やがて運ばれてきた濃厚な辛さのカレーを掻き込んだ。
 新刊の書店営業を済ませた後、幼顔のホテヘル嬢を選んだ風俗店を訪れた。店は雑居ビルの四階にあった。新装開店したばかりで、店構えも名前も変わっていた。
 受付でパネルを数枚並べられた。同じようなメイクをした女たちが、カラフルなドレスを着て科を作っていた。髪を色とりどりに染めて盛り上げている。以前は全員浴衣姿だった気がする。皆同じ顔に見えて、どれがあのホテヘル嬢なのかわからない。すでに店を移っているかもしれなかった。
 パネルに視線を泳がせていると、決めかねていると思ったのか、「この子がお勧め。業界初めての素人。今ならお試し価格八十分ホテル代込みで一万二千円」と店員が一枚を差し出してきた。僕は諦め気分でその子を選んだ。
 二十分後に番号が呼ばれると、エレベータの前に見覚えのある小柄な女の子が立っていた。クリーム色に染め、ラメがちりばめられた髪は綺麗にカールされ、盛り上がっている。睫毛が上下に巻き上がった一重の目だ。胸元にスパンコールの飾りをあしらったピンクのツーピースの足元から白いストッキングがO脚形に伸びている。化粧の下の肌は弾力がありそうに見えた。ピンクの頬紅が蒼白い顔を水商売の顔へと引き立ててはいたが、あどけなさそのものは隠し切れていなかった。
 僕の顔を見て安堵の笑みを浮かべる。
「ユララです。今日も暑いですね」
 あの幼顔のホテヘル嬢だった。名前が変わっていたが、前の名前はもう忘れていた。
「お兄さん、前にもうち選んでくれませんでした?」
頷く僕の手を握ってきたホテヘル嬢は、「手、あったかい」と言って笑顔を深めた。
 僕たちはホテルに入った。受付の小窓から鍵をもらうと、ユララは先に立って歩いた。
 店に入室確認の連絡をした後、ユララは暑い暑いと言いながらクーラーのスイッチを入れた。スーツの胸元を開けてブラジャーの中に風を入れる。壁に埋め込まれた鏡を通して胸元を覗くと、裸体を思い出そうとしている自分に気づいて赤面した。
 二人分のバスタオルを小脇に抱えて、「お風呂入れてくるね」とバスルームに消えてゆく。
部屋を見まわしてみた。前に入った部屋よりも広く感じた。部屋自体が大きかったが、ベッドの白さと壁と天井一面に描かれた絵のスケールがそう見せているようだった。
 湾曲した地平の上を、フラミンゴやキリン、シマウマの群れが歩いている。その上空を、真っ赤なインコやハトやテントウムシが飛んでいる。手前の大地には、シダや赤い木の実やサボテン、赤地に青や黄の水玉模様のキノコやホオズキ形の名も知れぬ葉群れが、奥手の大地には、ガジュマルの木や紫のジャカランダの花、バオバブの木が描かれている。それらのすべてに桃色のハートが光っていた。天空には、さみしい、かなしい、むなしい、いとしいという言葉がローマ字でひらひらと舞っていた。人間だけが墨一色である。上半身裸で下着姿の月が、それら命のすべてを照らしている。
 バスルームから湯を入れる音がすると、ユララはスカートの裾を摘んで、濡れちゃったと困惑顔で戻ってきた。
「唇、キュッとすぼまってて、かわいいですね」
 ベッドに腰掛けた僕の隣に座りながら、ユララは唇を見つめてきた。キスがうまいと言ったことは忘れているようだ。少し鼻にかかったしゃべり方が愛らしかった。
「何て呼んだらいいですか」
 名前を教えることを拒むと、「キュットさんにしようっと」と言った。
「なんとなく別れた旦那に似てる」
 前もそう言っていた。
 年齢を確かめると、もう歳だからと照れながら、「ハタチ」と答えた。「早くに結婚したんだね」と尋ねると、垂れてくる髪を耳にかけて、「デキ婚」とはにかむ。
 Tシャツを脱ぎ弛みきった体を両腕で抱えた。ユララは目を閉じて唇を重ねてきた。愛らしいのにすることは娼婦そのものだと僕も目を閉じた。
 性急な舌の動きに、僕は軌道修正するように舌を差し入れ、ゆっくりとユララの舌をなぞった。唾液が混ざりあい、彼女の吸う煙草の残り香が口腔を満たしてくる。軟らかいもの同士が触れ合っているのに、ガラスのような感覚が舌先を掠めた。唇をきつく吸う。
 目を開けると、ユララはじっと僕を見つめていた。僕は細い体を強く抱きしめ、さらに激しく唇を吸った。小さく体を振っていやいやをしたが、すぐに僕の体に縋りついてきた。
「キュットさんのキス、すっごく甘くて溶けそう。キスのうまい人ってドキドキするの」
 唇を離すとそう言って小走りにバスルームに消えていった。
「お湯、入ったよ」と言いながらユララは戻ってきた。湯が張るくらいの間唇を重ねていたことに気づいた。一緒のペースで服を脱ぎ、ユララに手を取られてバスルームに入った。
 ユララはたどたどしい手つきで僕の体を洗った。久しぶりに女の裸体と触れ合ったせいで既にペニスは硬くなっていた。それが当たり前のように、ユララは泡をつけて両手で入念にこすった。シャワーの温度を確かめて泡を流すと、僕を湯船に促した。
 肋骨の浮き出た裸体を眺めながら湯船に浸かっていた。左の乳房の下や右の太股に蒼黒いシミのようなものが見える。洗い終えたユララは、乳房の下のシミを手で隠しながら湯船に入ってきた。「声、かわいいね」と囁くと、ユララは再び僕の唇に唇を預けてきた。
 唇を離すと「なぜ?」と僕は尋ねた。「えっ」とユララは困惑顔で聞き返す。
「なぜキスがうまいとドキドキするの」
 柔和な表情に戻ったユララは、「口の中をさすらってる舌の動きから、その舌が私の体をどうやって這っていくのか想像できるから。こうしてくれそうって」と目尻を下げた。
 湯船から上がると洗面台の前でユララは僕の体を拭いた。部屋に充満した冷風に体が震えた。
ベッドに潜り込むと照明を薄暗く落としておいた。バスタオルを巻いたユララがベッドにやってくる。色白の素足を揃えて横に座ってきた。腰に掛けたバスタオルの下でペニスは硬さを保っていた。
「うち、この月夜の部屋、好き。色んなこと思い出すの」
 良いこと一つもないけどと小声を絞り出す。
 天井の絵を見つめながら、さみしい、かなしい、むなしい、いとしいと声に出した後、「あっ、良いこと思い出した」と目を見開いた。
「中三の時、露天占いをしてたおじさんに呼び止められたの。生まれた日を出発点にして、月の通り道に沿って三十の月の形にそれぞれの運勢が当てはまってて、一生はそのサイクルを二周して終わるんだって」
 一九九〇年と続けた後、五、一、六と指で月日を示した。出発点となる生年月日らしい。
「月の通り道ってハクドウって言うの」
 地球の周りを公転する月が天球上に描く軌道を白道といい、太陽の通り道の黄道に対して約五度傾いていることは知っていた。
 ユララはずり落ちかけたバスタオルを引き上げると、僕のあごに指を伸ばし撫でた。
「ニッて笑いながら、一周めは良くないって鑑定してくれたの。今思うと全部的中してるの。教えられた通りの人生を追っかけたみたい」
 指を離すと、僕の鼻頭をつんつんと突いた。
「二周めは教えてくれなかったけど、うち、すっごく期待してるの。また来て、一周めのハクドウ辿ってくれる?」
僕の顔を覗き込むように背を丸めて甘える。弛んだバスタオルから胸元が露になる。ユララはバスタオルを取ると床に落とした。瑞々しい姿態が横たわる。僕もバスタオルを取るとユララの白い胸に顔を埋めた。
 別れ際、僕たちはホテルのエントランスでメールアドレスを交換した。

 昼休み、クーラーの効いた事務所でコンビニ弁当を食べていると、染井さんが机に鳩サブレーを放り投げてきた。愛嬌たっぷりに笑っているが、目の下に疲労を一杯溜めている。
 袋を見ると、中の鳩はボロボロに割れていた。箱ごとキャリーバッグに押し込んで引きずってきたのがわかる。土産の体をなしてないものを、さも貴重なもののように配る姿が滑稽で思わず笑ってしまう。「何がおかしいのん」と染井さんは真顔で下唇を突き出した。
「染井さん、どっか行ってたん? ありがとさん、しょぼい土産」
 岩橋が机に座りながらクッキーの欠片を口に入れた。顔の汗をタオルで拭き、制汗スプレーを両脇に噴射すると、辺りに僕と染井さんしかいないのを確認してから、大股で共有パソコンにやってきた。染井さんは、「何見んの」と彼の大きな背中の後ろから画面を覗き込んだ。
「年寄りには刺激が強いで」
 定点カメラが踏切を写していた。遮断機が降りているので警報音が鳴っているのだろうが、音源をオフにしているために聞こえなかった。突然、岩橋の携帯電話が鳴り、画面はそのままに電話に出た。染井さんはのんびりした調子で画面を眺めている。僕も黙って映像を見ていた。
 画面の奥から電車が手前に走ってくるのが見えた。何かが遮断機を潜って線路内に進入した。音をオンにすれば、電車の警笛と耳をつんざくブレーキ音が踏切一帯に鳴り響いているに違いない。黒い影が電車の右前部にぶつかって弾き飛ばされた。動画が止まる。
 通話を終えた岩橋が戻ってくると、「終ってしもたやんか。もっかい見よ。おもろかったやろ。本物やで」と両手で両頬を叩きながら大声で笑った。
「お、まえ」と呻き声がした瞬間、染井さんが岩橋の頭を拳骨で殴った。
「出て行け。わしと社長で築いてきた会社を、クズによっ、汚されてたまるか、この」
 背伸びした染井さんは容赦なく何度も叩く。
「何すんねん、じじい。下手に出てたらええ気になりやがって」
 岩橋は悪態をつくも、手は出さなかった。
「みゆき、みゆき。なんで、なんで」
 染井さんの顔は蒼白だった。震える両肩を掴んで染井さんを僕の席に座らせると、岩橋に、「事務所出てくれるか」と告げた。
「涼しいとこで仕事しようと思って帰ってきたのに気分悪いわ。死ね、じじい」と非難めいた視線を投げながら岩橋は背を返して出て行った。
 染井さんは机に突っ伏すと拳で机を叩いた。僕は給湯室でコップに水を入れてくると、机に置いた。
「もう帰ったらどうですか」
 顔を上げると、充血した目を瞬かせて、「入札結果、聞きに行かな」と声を震わせた。
 昼休みの終わりを告げるベルが響く。黙って立ち上がると染井さんは席に戻っていった。食欲がなくなった僕はコップの水を飲み干すと、冷めた弁当をゴミ箱へ投げ捨てた。
 携帯メールに着信があった。『ユララです』のタイトルを開くと、三つのハートマークで始まった文字が並んでいた。
『こんにちは。キュットさんのキスが忘れられないユララです。今でも体ほてってるもん。キュットさんはやらかい力があって、キュットさんにだったらなんでも話せちゃう。また会いたいなあ』
 二度読み返した。営業用だとは思ったが、ホテヘルの禁を破って体を許してくれたユララの弾ける肢体が忘れられず、次の出勤日時を確かめるメールを返した。送ってすぐに羞恥心が顔を覗かせ、慌てて電源をオフにした。

 ユララは受付の小窓に、「三〇五号室って空いてますか」と尋ねた。平日午後八時の部屋は埋まっておらず、僕たちは再び三〇五号室に身を置くことになった。
 陶器のような滑らかな肌だけでなく、露天の占い師が言い当てたユララの過去にも興味を惹かれて指名するようになった。
 風呂から上がると、僕たちは裸のまま長いキスを交わし、互いの体を貪るように全身に舌を這わせた。ユララの背中の産毛が適度な湿り気で光っている。抱きしめると、肌を通してユララの鼓動と脈動が伝わってきた。ユララは僕に跨ると激しく腰をくねらせた。ベッドが軋み、興奮に熱を帯びた唸り声が重なる。喘ぐような快楽の息遣いの中、同時に筋肉の緊張から開放された。汗と体液の臭いが空隙を漂う。全身の毛穴から滲んだ汗は部屋の冷気ですぐに引いた。
 息を整えたユララは、高校の体育教師で剣道部の顧問だったというパパの話を始めた。
「ある日、鬼みたいな顔で帰ってくると、土足で上がってきて小さかったうちの横っ面を何回も張ったの。口が切れて鼻血も出たわ。訳もわからず、泣きじゃくるだけやった。それから木刀を持ってきて、頭や肩を殴ったの。痛くてかわしたらめっちゃ怒って、脇腹や太股まで。もう痛みも感じへんようになって」
 ユララは昂奮したからか気を許したからか、大阪弁が強くなった。
 ユララは体を起こして左の乳房の下を指差す。僕は蒼黒いシミを見つめた。
「パパがうちの名前を呼んで、『こいつはお前の整形前の顔にそっくりなんやてなあ』ってママの髪を掴んでん。ママの顔が蒼ざめたんがわかった。ママは腹を蹴られると、『ごめんなさい』って泣いた。謝る理由がなくても、とにかくごめんなさいって言うしかあれへんかった。整形前のママの顔に似てたことが謝る理由かもしれへんけど」
 めりって音がしてママの鼻から血が溢れ出たと、ユララは木刀で鼻を殴られたママについて語った。
「ぺしゃんこの鼻を見てお漏らししてん。そんなうちをパパは風呂場に連れてって服を脱がしたら、頭から水をかけてん。冬やったから寒かった。今でもパパが水をかける夢を見たら、おねしょしてしまうねん」
 ユララは両手を揃えて手枕を作ると頭の下に敷いた。乳房がベッドに垂れた。
「占いでは、三日月の頃が父の拘束期やってん。パパが部の遠征で出掛けた夜、ママに手を引かれて家を出たん。『どこ行くの』って聞いたら『大阪』って言うたわ。ママ泣いとった」
 僕は沈黙を守って頷くだけだった。
「その日からママと二人きり。朝早くアパートから遠い託児所にスヌーピーのぬいぐるみと一緒に預けられてん。仕事場に近かったんやね。なるべく泣かんようにしたわ。パパと一緒にいるんやったらこっちの方がましやって思ってたから。ずっとスヌーピーと遊んでた。同じ顔で笑ってるし、だらんってしてるやろ。体温もないし。生身の人間と遊ぶのが恐かったんやなあ」
 ベッドに垂れた乳房がスヌーピーの鼻の質感に思えてくる。
 眠っているユララを起こしてくれる託児所の先生のことを、ママを連れてきてくれる神様みたいと例えた。
「自転車の後部座席に座らされてアパートへ帰りながら、毎日、月の形がちょっとずつ変わっていくのを見んのが好きやってん」
 どこまでもついてくるねんでと呟きながら、天井のエロティックな月を見つめた。僕の脳裏には初めてユララと入った部屋のルナティックな薄黄色の円が浮かんだ。
「部屋に帰ったらママお手製のヨーグルトを食べんの。でもテーブルに零したり途中で寝たら、急に怒り出して頭をぶつねん。うちが泣きじゃくったら、やかましいってほっぺたをぶったわ。パパより痛なかったけど、何それ同じやんって思った」
 心の中で、「ママは悪うない、うちが鈍臭いから迷惑かけてるんや」ってくり返してたと涙声になった。
「うちを殴りながら、『女は母親になった瞬間から夢を見たらあかんのや』って言うようになって、小、中学校の間ずっとその口癖を聞かされとってん。ある時、『ママの夢って何』って聞いたん。何て答えたと思う?」
「ヨーグルト屋さんを開くこと?」
「『無い』って」
 きっとあったはずと続けたユララは、上弦の半月の頃が母の拘束期と補足した。
 鎖骨の窪みに置いていた指で左の乳房の丸みをなぞり、その下に広がる蒼黒いシミで止めた。ユララはくすぐったそうに体を捩った。
「この前、キュットさん、うちの声かわいいって言うてくれたよね。うちね、アイドルになるんが夢やってん」
 中学の音楽の先生が、「顔は平凡だけど声はとっても魅力的よ」っ言ってくれたからと笑った。アイドルになることで母親を楽にできると信じていたようだ。
「高校には入ってんけど、ママの口癖があったからすぐに辞めた。ママに内緒で家を飛び出して東京で暮らすようになったん。オーディションで知り合うた女子大生の部屋に同居させてもろて、バイトしながら小さいオーディションも全部受けてん」
 頭の下から抜いた両手をユララは腹に乗せた。
「オーディションで競う子らって、裏じゃプカプカ煙草ふかしとっても、会場じゃ最高の笑顔ができる子らやねん。プロになるにはハングリー精神が大事やって教えられたわ」
 タイマーの音が鳴り響いた。月が夜を去り、太陽が戻る夜明けの音のようだった。
「今日はここまでね」と微笑むユララに、「次はいつ出勤」と尋ねた。タイマーを止めながら、明後日の五時からと答える。
「じゃあ八時過ぎに」
 口を窄めた僕に軽くキスすると、ユララはバスタオルを巻きつけてバスルームへ歩いていった。父親に早くから立つように強要されて湾曲したというO脚を見つめていた。

 染井さんが殴った翌日から岩橋は無断欠勤した。社長は総務担当者に何度も電話を掛けさせていたが、携帯電話の電源が切られていて繋がらなかった。岩橋がくわえ煙草でパチンコに興じる姿が想像できた。再度出社するのも、このまま自然退職するのも自由だと思う。気に食わないことがあれば黙って去る。今の若手社員の流儀なのだ。
 席に座る染井さんを見た。いつもと変わらなかった。兄が亡くなった翌日でも出社する染井さんとの、会社への思い入れの違いをまざまざと見た気がした。
 ここ数日、仕事に対してやる気が漲っていた。ユララとの逢瀬で活力を得ていたのは間違いない。
「最近、よく携帯チェックしてますよね。時々にやけてますし。彼女できたんですか」
 女性編集員に言われて冷や汗が流れる。返事を躊躇った後、慌てて否定した声が上ずっていたのがわかり、眉根を寄せて取り繕った。
 パソコンを開くと、知人のフリーライターからメールが届いていた。執筆したコラムが週刊誌に載るので掲載されたら送るという。了解と打つと返信ボタンをクリックした。

「二年前の秋から満月の頃の夫の拘束期やと思うんやけど、東京のプロダクション主催のアイドルグループのオーディションを受けた時、選考会が終った後に、控え室の前でアイツが声を掛けてきてん」
 一昨日の続きねとユララは語る。ギリシャの都市を模した部屋だった。壁には端正な彫刻画が幾つも描かれている。他の部屋と趣向が異なり、天井一面に鏡が貼られていた。
「売り出し中のアイドルのマネージャーやったアイツは、うちの声を聞いて『他の女の子にない子供の純真さと母性の温かみを兼ね備えた輝きある声だ』って言うてん。芸能界がすり寄ってきたって思たわ」
 何でみんなうちの声がええって言うんかなあと小首を傾げた後、人には何かいいものが一つはあるのかもしれないって思ったと、ユララは発声練習の真似ごとをしてみせた。
 上目づかいで、「アイツ、あの時はめっちゃ優しい大人に見えたのに」と僕がいつまでも優しい大人であるかのようにユララは言い放った。それが歯痒くてユララの視線から目を反らすと、くびれた腰の線に視線を這わせた。ユララのすべてを知っている。そんな錯覚に陥りかけていた。
「優しさが嬉しくって、すぐにアイツのマンションで抱かれてん。まだ夢を追いたいから着けてなって言うたのに。アイツ……」
 さっき使ったコンドームを捨てたゴミ箱にユララは目をやった。
「妊娠がわかった時、泣いたわ。終わったって。すぐに堕ろそうって決めてんけど、アイツ、母親になってもアイドルにはなれるし、俺は子供が好き、結婚するから産んでくれって土下座されて。うち、……信じてん」
「夢は?」
「諦める覚悟で、産んだ」
 ユララの腹に手を置いた。腹に走るスイカの皮模様に似た線には気づいていたが、出産経験を意味することに今思い当たった。
「手、あったかいね。手のあったかい人って心が冷たいって言うけど、ほんま?」
「さあ」と僕は唇の端を上げる。
 ユララは僕の手に手を重ねてきたが、血が通っていないように冷たく透き通っていた。
「子供が産まれてからも仕事が忙しいって、週に一回しか家に帰ってこうへんし。たまに帰ると、夜泣きがうるさいとかうんちが臭いって、うちを蹴ってん。パパが舞い戻ってきたって思った。ある晩、寝てたら、『お茶漬け食べたいなあ』って足にポットの熱湯をかけられて」
 左足を胸元に引き寄せると、「ここ舐めたがるお客さんもおるの」と踝に残るケロイドを見せた。僕は波に浸食された岩肌のようなケロイドを舐めた。ざらつく感触が舌先に走る。
「結婚してたって感じせえへん。幸せってどんなんかなあ。なんでこうなるんやろう。愛のためやったらぜーんぶ捨ててもええって思てんのに。幸せな家庭ほしいなあ」
 ユララの半生を聞きながら、他人に危害を加える人間は、このような経験の蓄積の上に人格が形成されるのではないかと思った。
「今は下弦の半月の頃の、子供の拘束期やと思う。今思たら、ママも言いたかったんかも……」と囁いた後、ユララは右足も引き寄せて両足を抱え込んだ。
「淋しくって壊れそう」
「淋しさを和らげる力、僕にあるかな」
 気休めではない、心からの言葉だった。
 足を抱える両腕を解くと、爪先が冷気で冷たくなっている足を絡めてきた。
 タイマーの音が聞こえた。
 僕は彼女もおらず、じめっとした部屋で一人生きてきた陰気な男だ。風俗嬢の身の上話を聞き、キスがうまいと思い込んでいる以外、何一つ取り柄がない。
「俺、門田貴史」
 冷たい足の動きが凍てつくように止まる。
「うちに来ないか」
 タイマーが鳴り続けている。

 一緒に住み始めるようになったのは、染井さんの家を訪れてから一週間後だった。子供はどうしてるのか尋ねると、ユララは僕の上に乗ってきて「おばさんに預けてる」と答えた。時々子供の様子を見てくると、出勤する格好のまま叔母の家に帰っていった。
 深夜、戻ってきたユララがシャワーを浴び、裸のまま僕がうたた寝する布団に潜り込んできた。狭い部屋の方が互いの温もりを感じあえる。夏の終わりとはいえ、ユララの手足はクーラーを入れるのを躊躇うほど冷たかった。
 彼女の素肌はきめ細かく潤っていた。幾つかの蒼黒い広がりと踝のケロイドを除けば。ざらついたその隆起さえ、何度も摩っているうちに愛おしくなってくる。
 綺麗な響きらしいが、アイツがつけた子供の名前が嫌いだとユララは舌を出した。
「前に貴さんの雰囲気、アイツに似てるって言うたよね。何でそう思ったんかなあ」
「そんなに似てるの」
「ううん。貴さんみたいな優しい人、初めて。でも、……、ううん、別に」
 ユララは口ごもった。
 灰色の月が夜の黒に溶けて小さく見える。
「アイツ、妊娠中もずっと会社の商品とヤッててん。そのことを問い詰めたら、子供にも手を出し始めて」
ユララが点火した煙草の先端が赤く滲むと、染井さんのとは違う香りが室内に広がった。
床に叩きつけたり、カーテンに縛りつけて逆さ吊りにしたり、冬にベランダに立たせたりしたと漏らす。
「久しぶりに家で寝てたアイツを見てたら、どうしようもない気持ちが込み上げてきて、フライパンで頭を殴ってん。そしたらアイツ、逆上して部屋にある家具をめちゃくちゃに壊して回ってん。あの子、白目剥いて気絶したわ」
二人とも殴られ続けて一生終るのかと思ったら恐くなったと、ユララは言葉と煙をない交ぜに吐き出した。怒り狂って女のところへ行った隙に、子供を抱いて家を出て、新幹線に乗って東京とサヨナラしたと呟く。
「パパから逃げ、アイツから逃げ、子供が産まれてうちから夢が逃げてった」
 新大阪のアナウンスが流れた時、涙が零れた。ママのとこへ帰りたかった。でも高校を辞めて勝手に家を飛び出し、子供が産まれたことも言ってなかったから、やめた。四年も経ってたしとユララは煙を吸い込み、唇を尖らせて長く吐き出した。
「昔のアパートにはおらん気がすんねん。ママってそんな人や」
 整形前の母親に似た顔が目の前にある。化粧を落とさないので素顔を見たことはなかったが、素顔を見たら熱は冷めるのだろうか。
「夜中、子供をおんぶしてミナミの街を歩いてたら、女の人が風俗店の求人誌を配ってて、中から選んだのが今の社長のお店なん。今住んでるのは、お店が借り上げてる部屋やねん」
 それから叔母さんに連絡をとって、子供を見てもらいながら働き始めたのかと、僕は心の中を整理しながら自分を納得させた。
 炬燵台の上にあるカップラーメンの残り汁に吸殻を投げ入れたユララは、頭から布団に潜り込み、トランクスを引っ張りおろして僕のペニスに舌を這わせてきた。唾液で湿ったペニスが硬くなった。二回セックスをした。
 いつまでこの関係が続くのかわからない。始まっているのかどうかさえ曖昧だった。

 出社すると、机に一枚のFAX紙が置いてあった。週刊誌の見開きである。『文豪に起こった虐待の世代連鎖』というタイトルで、文末に知人のフリーライターの名前が載っていた。
『今や右を見ても左を見ても、児童虐待、育児放棄が身近なところに潜んでいる時代であるが、周知の著名な文豪にもその片鱗が見られたことをご存知だろうか?』で始まる文章に目を通す。夏目漱石が顔を赤らめ長女と次男に虐待を働いていたのは、貧乏な家の末っ子に生まれ、預けられた養子先の夫婦に虐待を受けた体験が、世代連鎖によってわが子に発現したからではないかという内容だった。
 FAX紙をファイルに仕舞うと、うんざりした気分でパソコンを立ち上げた。
 進行中の企画のうち、全国的に知名度のある教育評論家のエッセイの編集作業が滞っていた。執筆依頼をしたのが一年前。初稿に目を通すと稚拙な論理が切々と綴られていた。枚数を稼ぐために同じ記述が並び、昭和初期の教育理念に立ち返る結論に集約していた。
 岩橋が辞めたことに苛立っていた社長は、「何が何でも九月中に校了しろ」とフロア中に響く声で怒鳴った。資料とつき合わせながらプロットを立て、細かな文脈を組みかえる日々が続いた。
 女性編集員が、「門田さん、隈がひどいですよ。白髪も二本見つけました。早く寝てくださいね」とにやにやしながら指摘してきた。
 ユララの帰宅時間も遅いために都合は良かったが、戸締まり当番以外でも帰宅時間が十一時を超えることが多くなった。地方銀行時代は日常だったが、七時半に退社する生活に慣れた体には堪えた。染井さんと会社を出ると、うどん屋がある交差点で別れた。一度晩飯を誘われたが疲れを理由に断った。「体が資本やで」と老人に労われる始末である。
 ユララが仕事のない日は、叔母の家から戻ってきた後に疲れた体を癒しあい、ユララが仕事の日は、抱き合い冷えた体を温めて眠った。時折、「鼾かいとったよ」と冷たい指が僕の鼻を摘んだ。相変わらずユララは化粧を落とさず、強い光を宿した瞳で僕を見つめると、「子供、連れてきてええ?」と呟いた。
聞こえないふりをして目を閉じ、ユララの息づかいに耳を澄ました。

 部屋は真っ暗だった。電気を点けるとレースのカーテンが黄色に変色して見えた。靴を脱いで上がると、炬燵台の下に畳の焦げ跡を見つけた。神経が研ぎ澄まされ、普段気づかないところに目が向いてしまう。食欲が起こらず、シャワーを浴びて汗を流すとクーラーを点けて布団に入った。
 ユララは僕の過去を何一つ尋ねなかった。僕とユララには共通点がなかった。育ってきた環境は違うし、生活上の行動パターンも異なっている。大した問題ではないと思おうとしても、共に住むものとしては精神的に疲れることだった。
 ドアノブを回す気配で目が覚めた。時計を見ると深夜三時を回ったところである。畳に倒れ込むと、「何がママァや、うざい小動物め。アイツとおんなじ顔しやがって」と喚いたユララが玄関で嘔吐した。
 僕は電気を点け、饐えた臭いを放つ一角まで歩いていった。
「ケントが一番かわいいわ、うちのこと一番ようわかってる。リョウマはうちの体目当てなん、それもわかってんねん。別に抱かれてもええけど」
 コップに水を入れると、酒臭い背中を摩りながら手渡す。ユララは、「そうゆうとこが嫌やねん」とコップを壁に投げつけた。
 吐瀉物を避けながら戸口にミュールを転がし、ふらふらした足取りで部屋に上がると、ワンピースを大胆に脱ぎ、淡いブルーの下着姿になって布団に潜り込んだ。肩を抱きながら歯をガチガチと鳴らしている。
「体、冷めたいの知ってんねやろ。バカ」
 枕元のリモコンを拾うとクーラーを切った。外に冷気が引き、すぐに暑さが戻ってくる。
 肩まで布団を掛けると上から二度軽く叩いた。ユララは小さく呻いて寝返りを打つ。僕は畳の焦げ跡を指でこすった。
 引っ越そう。ユララの知らない部屋へ。そう思った。

 頭からすっぽりと布団を被ってユララは眠っていた。そんなユララを残して部屋を出た。
 その日から三日続けてユララは部屋に来なかった。メールを送っても返事はない。ユララのことを気に掛けながら、淡々と仕事をこなした。
 久しぶりに雨が降り酷暑は和らいだが、厚く覆った曇り空が陰鬱な気分にさせた。雨にまごつく歩行者とすれ違いながら、会社の帰りに店が入ったビルの前までやってきた。階段を上ることができず、その場に立っていた。
 エレベータが開き、背の低い初老の男と腕を組んだユララが降りてきた。ノースリーブの黒いワンピースを着ている。男の節くれだった手を握りながら、ホテルが建ち並ぶ路地に消えていった。
 靄に霞む逆向きの三日月を見ていると、ユララが薄笑いを浮かべて、「逆の三日月の頃は、金の拘束期らしいわ」と零したのを思い出した。
「二周め、うち、めっちゃ期待してんの」
 二周めがない、なんてことはないよな。
 変な考えを払拭しようと頭を振ると、月を見つめながら、「金の拘束か」と呟いた。

 新しい部屋の手続きを済ませて帰宅すると、室内に明かりが灯っていた。ドアノブを握る。鍵が開いていた。一瞬のうちに熱が体を領した。
 炬燵台の前にユララが座っていた。
「ただいま、やなくってお帰りやね。貴さん、さびしかった?」
 ユララのあごに手を当てて引き寄せると、唇を重ねた。煙草の味と酒の臭いが舌を伝って僕の口に混ざり込む。長い間キスをしていない気がする。
 袖口にフリルのついたライムグリーンのワンピースと白い下着を無理矢理剥ぎ取ると、全裸にしたユララを強く抱いた。
「こんなことさせんの、貴さんだけよ」
 唇を離した時、ユララの首筋と胸元についた赤い痣を見つけた。ユララは首を揉みほぐすふりで痣を隠すと、目を伏せて、「ほとんど毎日入ってんの。今日も六人相手したから疲れてるねん。そやから寝かせて」と言った。
「ケント……って、客か?」
 言葉が途切れて沈黙になった。背中についたブラジャーの跡を掻くと、ユララは炬燵台の上の箱から煙草を抜き取って火を点けた。
「挑戦しようって思うことがあんの」
 僕に煙を吹きかけながら話し始める。
「子供がおったらほんまに夢を捨てなあかんのか。ママの考えをひっくり返したくって、風俗嬢のアイドルユニットのオーディションに応募すんの。合格するにはあの子らの強力なバックアップがいるねん」
 あの子らというのが名前の出てきた男たちなのはすぐにわかった。
「ホストって若うてやんちゃやけど、その筋とか芸能界にも顔が利くから。うちのことかわいいって言うてくれるし、やっぱり声がチャーミングやって。何もせんでもええし、楽しいし、時間経つのがあっと言う間や。今まで感じたことないワクワク感をくれんねん」
 灰が畳に落ちる。
「夜な夜な、そいつらに現を抜かして、タダでヤらせてるんだな」
 押し殺した声で問い質す。脇にじんわりと汗が滲んだ。僕は拳を握りしめた。
 ユララは煙草をくわえたまま、突然目の前の炬燵台を平手で叩いた。
「ほっとけや。うち、まだハタチやで」
 眉間に皺を寄せたユララは見るからに急き込んでいた。僕の胃の底にも重い怒りの種が芽吹くのを感じたが、ぐっと抑え込んだ。
「夢破れて帰ってきて、独りで……、いや、おばさんとガキの面倒見て、ハメ外したからってとやかく言われる筋合いないねん。この体で稼いだ金なんやから。あんた、うちと何回タダでヤッた? うちとガキ養えんの?」
ユララは目を細めて毒づいた。大声をあげるユララを見るのは初めてだった。
「店でどの子より客とって、目一杯しゃぶってリピーター作って、稼いで遊びまくんねん。自分を抑えに抑えてたんやなあって思う。それを、夢を追いかけるってことにすり替えてたんやって。ええやん、パアッと生きても。どうせこの先、楽しいことなんてあれへんねんし。ガキなんてどうなってもええわ。金がすべてや。世の中には若うてかわいくって、うちを労わってくれる男がいっぱいおんねん。金さえ払ろたら。金が二周めの人生を切り開いてくれる。いつまでもおっさんの相手なんかしてられへんねん」
 ユララの埋み火が燃え立った。同時に僕の脳裏に逆向きの朧な三日月が見え、怒りが全身を駆け巡った。
 握りしめた拳でユララの左の頬を力一杯殴った。拳と頬骨がぶつかる鈍い音がした。ぎゃっという悲鳴が響き、ユララは足元に煙草を落とした。僕は煙草を踏みつけた。熱くなかったが、頬が燃えるように熱かった。一瞬、顔色を失ったユララの顔に戸惑いが浮かび、赤い唇がピクッと震えた。正面から鼻を殴る。両の穴から血が垂れ、ぽたぽたと滴る。手加減の文字はどこにもなかった。同じ快感を覚えた記憶が腹の底から沸き上がり、鈍い痛みを湛えた拳に伝わる。同級生の顔の骨にめり込む感覚だ。僕は肩で息をしながら、ユララの瞼や頭や肩や乳房を殴った。同じ角度で執拗に拳を振りおろす。気後れも後ろめたさも罪悪感も、幾ばくの感傷すら感じなかった。
 這って逃げようとするユララの瞳が、目映い光彩を蓄えて揺れたと思うと、憐れむような目つきで僕を見上げて言い放った。
「貴さんのキス、好きよ。でも、あんたは大嫌い」
 逃げるユララを背後から蹴り飛ばした。前のめって顔から畳に落ちると、畳に染め物の柄のような血の帯が引かれた。尻と陰部を丸出しにしたユララが、振り返り様に僕に回し蹴りを放った。不意を衝かれて転倒し、柱に頭をぶつけた。
 両目の睫毛が無様に垂れ下がり、盛った髪もだらりと顔に垂れかかったユララ。素早くワンピースだけを身に付けると、足を縺れさせながら玄関に走っていった。朦朧とする意識の中、後ろ姿が遠ざかるのがわかった。
 後頭部を押さえて立ち上がると、ドアを開けて飛び出したユララを追った。柱やドアが練り飴を透かしたように歪んで見える。スニーカーに足を入れるのに手間取ったが、蒸し暑さが戻った戸外へ飛び出した。
 国道でタクシーに乗り込むユララを見つけた。僕は国道を渡り、カレーチェーン店の前に止めてあった鍵のささったままの宅配用のスクーターに飛び乗ると、エンジンをかけた。学生時代バイトで宅配をしていたので、運転には自信があった。店内から店員が息を弾ませて飛び出してきて喚く声が聞こえた。タクシーが走り去った方角へスクーターを飛ばす。スピードがあがらず、商品を入れるカーゴが間抜けな音を立てた。すぐに赤信号で止まっているタクシーを発見し、スピードを落とした。右の拳がジンジンと痺れている。
 愛していると思っていたユララは、心に隠していた狂気を呼び覚ますための対象に過ぎなかったのか。ただ暴力を振るうためだけの。
 どこへ行くのだろう。子供が待つ叔母の家か、若いホストの部屋か、それとも、警察。
 国道を走る車は疎らだった。スピードを上げた幾台もの車がスクーターとタクシーを追い越してゆく。オレンジ色の街灯が、車道の路面に、歩道を歩く人々に、前を走るタクシーのボンネットに、斑模様を描いた。生ぬるい風が頬を打ちつける。
 上で緩い曲線を描く高速道路の立体交差を右折しバイパスに入ると、高層マンションが見えてきた。住宅街の屋根の群れと公園の木々の影に隠れた低い階に目をやる。
タクシーはマンションのエントランス前で止まった。化粧が剥がれ落ちた血塗れの顔で、ユララは運転手に何と説明したのだろうか。
 警察でなかったことに安堵したが、薄暗いエントランス前でうずくまるユララの背中から新しい不安を感じた。泣いているようだ。ユララが向かうのは二〇二号室ではなく、叔母の部屋であって欲しいと願った。ホストの部屋の方がまだましだった。
 ユララは立ち上がると、一度後ろを振り返って辺りを見回すと、足を引きずるようにして歩き出した。距離を置いて後を追った。ユララはゆっくりと階段を上りだした。二〇二号室のドアの前に行くと、ドアに耳を当て、中の様子を窺うように寄り掛かった。
 僕は大きく一呼吸する。ユララがドアノブを回してドアを開けた瞬間、後ろから羽交い締めにした。
 ぎゃあああ。
 絶叫が静寂を切り裂く。慌てて口を押さえると、前屈みにさせて部屋に押し込んだ。籠っていた熱気がもわっと肌を包み込み、一気に汗が噴き出した。ユララの体は冷たく、上気した僕の体の熱を急速に奪った。僕は玄関口で嘔吐した。生モノの腐った雑多な臭いが波状に鼻の粘膜を刺激し、意志とは無関係に涙が溢れてくる。
 なぜユララはこんな部屋に戻ってきたのか。
 腕の中でユララが細い体を身悶え抵抗している。抱きしめる腕に力を込めた。愛していたなんておこがましいだろうか。胸を冷たい雫が流れていく。
 誰か、僕にコップ一杯の水をくれないか。早く抵抗が収まるように、磨りガラスの窓から差し込む月明かりを眺めた。
 物音はしないが何かが潜んでいる気配を感じる。蝿の群れが唸る暗闇から「マ」と非力な呻きの滴が落ちてきた。そのひと言で部外者を拒否しているのがわかった。
 その時、誰かがドアを叩いた。僕はびくっと肩を竦めた。腕の中のユララも硬直した。
「おーい、帰ってきてるんか」
 聞き馴染みのある声。鼻腔の奥に脂じみた臭いの感覚が蘇ってくる。
「大丈夫かあ」
 慌てて鍵を閉めようと力を緩めた瞬間、ユララはするりと腕からすり抜け、足元に堆積したゴミの山を踏みつけながら奥へ走って行った。右手にある洋間に飛び込むと鍵を閉めてしまった。
 そっと玄関のドアの鍵を掛けると、息を潜めて染井さんが去るのを待った。
「子供の声聞こえへんけど、どうなってんねや」
 窓外の影が舞台の一シーンのように揺れている。
「返事せんかい。おるんやろ。出てこんか。女の子、見せい」
 染井さんはしつこかった。
 一歩後ずさると足に何かがぶつかった。磨りガラスの真下に、紙パンツが汚れ衰弱しきった女の子が、針金のような手足を内側に折り曲げて倒れていた。月明かりが照らすあばら骨と関節が浮き立つ姿は、人体模型に見えた。
 女の子は茫漠とした意識の中、目の前に現れた僕を見て、心底恐ろしいものを見るように白目を剥いた。アイツを思い出しているのだ。あの日、ベランダで体を震わせながら僕を睨みつけた意味がわかる。
 声にならないが、薄紫の唇が「ごめんなさい」と動いたのがわかった。
――謝る理由がなくても、とにかくごめんなさいって言うしかなかった。
 僕から逃れようとゴミの間を這い、薄汚れた世界ででも生き延びようと、力を振り絞って、ぐらぐら揺れながら壁を伝って立ち上がると、女の子は二枚ある磨りガラスの窓の片方に顔を押しつけた。窓の外にいる声の主こそ味方だと直感的に嗅ぎつけたのだ。
 染井さんが片側の窓を力一杯叩いている。廊下からは女の子の顔が、瞼と頬が巨大な蛸の吸盤さながらに広がり、血の気が引いたように蒼白く光って見えただろう。
 女の子のあちこち抜けた毛髪を掴み、窓から引き離した。ぬいぐるみほどの荷重が腕に掛かり、ごっそりと毛が抜けた。女の子が足元に落ちる。力なく手を伸ばした後、糸が切れたパペットのように動かなくなった。
 外の靴音が遠ざかり、ドアが開いて、閉まる音がした。再び軋みながらドアが開くと、靴音を掻き消すゴロゴロという雷鳴のような響きが聞こえてきた。
 窓の前で音が止む。突然大きな破壊音が僕の鼓膜と室内の壁に反響し、ガラスの破片が室内に砕け散った。女の子の体もびくっと跳ねる。キャリーバッグが足元に転がった。
 割れた窓から手を差し込んで鍵を開けると、染井さんの頭と両腕がぬっと入ってきたが、勢い余って頭から転がり落ちてきた。
 視線を床に向けると、散らばったガラスの間に薄く変色した紙片の束があるのに気がついた。十枚ほどだろうか。一枚一枚丁寧に二つ折されてある。まとめて拾うと、一枚を開いてみた。はねに特徴がある達筆な文字で、『ちゃんとご飯食べてるか。なんならいっしょに食べてもええで。すきな食べ物はなんや』と書いてあった。
 次々と開いてみる。
『今日は暑さがましやから公園でも散歩したらどうや。あみでも持って。気持ちええで』
『うち、印刷屋やけどパート募集してんねん。かんたんな作業やからあんたにもできる思う。子供も近くにあずけれるかもしれん』
 足元に、染井さんのうずくまる気配があった。
『水はこまめにとらなあかんで。そやけど、わし、きのうおなかこわしてしもた。ペットボトルの水飲みすぎたみたいや』
『助けてほしいことがあったら気軽にとなりのジジイに言うてや。過ぎたるはおよばざるがごとしやから』
 諺の使い方に違和感を覚えた。
『おーい、なんかしゃべりたいことないか。わしと話せえへんか』
 あの母親、どないかせんとと項垂れていた顔が浮かぶ。
 壁を伝って起き上がった染井さんは、「あれ、あんた」と驚嘆の声をあげ、髪に絡んだガラスを払い落とした。猫の死骸のように微動だにしない女の子に気づくと、額に流れる血も気にせず、しゃがみ込んで抱きかかえた。
「痩せてしもて」
 染井さんは頬を撫でながら、「ごめんな、近くにおったのに」と呟いた。肩が震えている。「くり返しや」と語るその姿は、みゆきさんの遺体を抱いているように思えた。
 染井さんは首にぶら下げた携帯電話で119番を押すと、「子供が危篤や」と告げてマンションの住所と部屋番号を続けた。
 いつしかユララに対する激しい怒りは薄れ、冷静さを取り戻している自分に気がついた。玄関の電気を点けた。室内を見回すと、染井さんの部屋と同じ間取りとは思えないほど散らかり、蝿の群れがやかましく空中を舞い、ゴキブリが床を徘徊していた。
 廊下に野次馬が集まっていた。割れた窓から、「くっさあ」と鼻を摘みながら物珍しそうに中を覗き込んでいる。
 救急車のサイレンが近づいて階下で止まる。すぐに階段を小走りに駆け上ってくる靴音が聞こえ、野次馬たちが道を空けるのが見えた。
 僕は女の子を外界に開放するように、玄関のドアを開けた。それだけが、僕を恐れ続けたユララの娘のためにしてやれることのような気がした。引き締まった体躯の二人の救急隊員が駆け込んできた。
 女の子を引き受けた隊員が、「まずいな」と口走ると、別の隊員が、「どなたか付き添ってください」と叫んだ。ユララが出てくる気配はない。
「わしが行くわ」と染井さんが左胸を押さえながら立ち上がった。疲れきっているはずなのに笑顔を作っている。
「おじいさんですか」という隊員の問いに、「そんなもんです」と答えると、僕を一瞥した。
「何でおるんかは聞かんけど、あとは頼む」
 染井さんはにっと右奥の銀歯を見せた。
「母親を製本部で働かしてもらえるよう社長に頼んでみて。あんたの言うことやったら聞いてくれる。タイヨウさんのエースやから」
 背中を丸めながら部屋を出ていく染井さんの後ろ姿を見つめた。
 僕はもう一度、手の中で握りしめていた紙片の束に目をやった。過ぎたるは及ばざるがごとし。染井さんが思う意味は本意とは異なり、過ぎてしまったことは何もしてあげられなかったことと同じであると解釈した。
 染井さんと隊員が去るとすぐに野次馬たちも三々五々部屋に戻って行った。去り際に、「毎晩うるさかったから、死んで清々したわ」と吐き捨てる若者もいた。
 部屋に静けさが戻った。僕はもう一度吐いた。酸っぱい液体が食道と喉を焦がす。一発、壁を殴った。それを合図に、奥の部屋の鍵が開く乾いた音が聞こえた。ユララがふらふらと出てきた。廊下の壁に体をぶつけながら僕のもとに歩いてきた。視線は天井の方を向いている。
「二周めの始まりって、いつ? 初めて会うた日? 捨てられた日?」
 付け睫毛が剥がれ、腫れぼったい一重がくっきり見える。頬は腫れ、鼻がひしゃげ、のっぺりした顔に涙と鼻血の筋が残っていた。
 それはあの日、路上に叩きつけられた母の顔に見えた。
 すれ違うように、僕はユララが隠れていた部屋まで歩いていった。部屋から洩れる光が廊下の一部を淡く浸している。明かりが煌々と照る部屋を覗くと、息を飲んだ。
 真っ白に塗られた壁から天井にかけて、白道に沿って形を変えてゆく三十個の月の絵が、弧を描くように描かれていた。満月以外の月は黄色に塗られていたが、天井の中心に位置する満月だけは真っ赤に染まっている。それはまるで太陽のようだった。
 ホテルや部屋で語られたユララの過去や壁越しに聞こえた暴力の音や叫びより、目の前の絵は克明な存在感を放っていた。
 純白の部屋に浮かぶ忠実な形とたぎるような灼熱の中心は、一周めを払拭しようとするユララの情熱の証なのだと胸打たれた。
 ユララだけの牙城。この部屋で二周めの希望を夢見て、壊れていった。
 スイッチの脇に押しピンで止められた二つ折の紙片を見つけた。引きちぎって開くと、『絵を描いてみたらどうや。心が落ちつくで』と書いてあった。
 染井さんの救いの声に反応した女の子。メモを見て白道の絵を描いたユララ。わが娘に届かなかったと思い続けていた染井さんの声は、確実に親子に届いていた。
 さ、み、し、い、か、な、し、い、む、な、し、い、い、と、し、いとくり返す声が玄関口から聞こえてくる。やがてその声はやんだ。
 ユララが大きな声をあげ始めた。
「何これ、窓、壊れてるやん。パパに怒られる。パパに怒られる。木刀持って追いかけられる。いややいやや。ごめんなさいごめんなさい。うち、きれいに化粧して、絶対に昔のママに似てるスッピン見せたりせえへんから。顔見せたりせえへんから。やめて、水かけんのやめて」
 僕は玄関口まで戻ってきた。ガラスを踏んでも靴底に感覚は伝わらなかったが、蝉を踏むような音が、ゴキブリが蠢く音の間に鳴った。見ると、ユララの足を液体が伝い、足元に散らかるゴミを濡らしていた。
 階段を勢いよく駆け上がってくる靴音が聞こえた。ドアを二度激しく叩くとドアが開き、たった今女の子を抱いていった救急隊員が目を見開いて立っていた。
「おじいさんが倒れました」
 乾いた野太い声が、静かな部屋に響いた。
「娘さんも危ない。やはりご両親が同行してください」
 ユララが腕にしがみついてきた。何度も愛撫したユララのやせた腕は、血が巡っているように温かかった。
 あの日、顔の半分が陥没した血みどろの母を抱きしめてやることができなかった。ユララは、救えなかった母を救い直すためにここにいる。
あなたは、人の心の声を聞いて代弁する職業に就いたらいいと思うと言った母は、自分の心の声をもっと聞いて欲しかったのだと思う。
「お前は、いったい何になりたいんだ」
 高校の担任教師の声が蘇った。
 僕は真っ白き道を歩み始めたこの女の想いを聞き取り、二周めの人生を代弁しながらともに生きていこうと思います。
 ユララの肩を抱き寄せ、救急隊員の後を追って、一歩ずつ階段を降りてゆく。


 

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