ききごこち   高橋 陽子


 

 病気になった父の代わりに私がアパートの管理人になって二か月がたつ。アパートは二階建てでトイレは共同、風呂はない。一部屋五畳ほどの部屋が一階に六室、二階に六室、計十二室ある。そのアパートの隣にはひととおり生活のできる家がある。そこが管理人室だ。そこにはトイレも風呂もある。私はそこで寝泊まりし、帰りたくなったら実家に戻ったりしてなんとか管理人業務をこなしている。
 父は、入院するかもしれない。独り言が多くなった。もう春になるからおかしくなってしまったのか。私や母の言うことを聞かない。聞こえないのか、聞いたことを忘れてしまうのか。心療内科をすすめると、拒否をするのでとりあえず管理人室に入り浸っている父を排出しようとした。
「お父さん、わたし、ここの管理人してみるから、お父さんは休憩してや」
「おまえ、仕事は」
 久々に目が合ったと思った。
「やめてきた。というか、もうやめて半月たつねん。お父さんここにずっとおるから気が付かんかったやろう。なんかやらして」
「ここは簡単な仕事ちゃうから、あかん。お前にでけへんわ」
 手を払い、拒絶の態度をとられた。言うことをはなっから聞いていないのがわかった。
「ノート。書いてるやん。ちょっとずつでいいからおしえて。まだ次の仕事探さんし」
「あかん」
 私の顔も見ずにうつむいて机に向かっている。
「いずれは、このアパートは私が管理人するんやから、ちょっとだけでも知っときたいねん」
 父に近づく。
「お願い。後でたくさんの人が困る前に、しとかなあかんと思わん?」
 毎日欠かさず父が書いている日記のノートを開く。一文字一文字が歪んでぶれている。今日あったこと、トイレの電球を替えたこと等が書いてあるが、読みにくい。大分疲れている様子だ。出来るだけ早くこの管理人室からでていってもらおうと思った。

 私は八年勤めていた会社を辞めて毎日ぼうっとしていた。最初の一週間は友達とも連絡をとらず、携帯電話の電源を切って髪の毛を短く耳の下あたりまで切って、昼間の公園に行ってランニングしている人達をみながらパン屋で買ってきたサンドイッチを食べていたりしていた。二週間目になって携帯電話の電源を入れて、ネットをみたり、友達と何気ない会話をし、三十にして大事な友達がいることに安心して、母の手伝いをして過ごしていたら、父と顔を合わせていないことに気づき、父を探したら、アパートの管理人室にずっといてるという。帰ってきても夜中で、朝ごはんを食べたら出ていく。私より、父の方が人間として壊れかけているような気がした。
 父を管理人室から出すのは時間がかかると思ったが、少しずつ、毎日三時間一緒に管理人室にいると父は自分から出て行ってくれた。私と一緒にいるのが嫌なのか、人口密度が高くなって部屋が暑いからか。

 アパートに暮らしている人は高齢者の人がほとんどで、介護が付いている人もいる。ひとり、変わった人がいる。中村くんだ。
 中村くんは、五十六歳。見た目は若く見え、日焼けで肌は黒々としていて、大きな目に小さな頭に帽子をかぶっている。アパートにきて一五年たつ。
「お帰り、中村くん」
 返事は無く、目も合わさずに頭をさげるだけだ。玄関に入る前に他の入居者さんが脱ぎっぱなしにしていた靴をきちんと並べてから入っていった。
 高齢者のおじいさんやおばあさんに比べて中村君は私からみるとまだ男の人だと思っているので話かけても返事がないのが楽だった。男の人と話すのは未だ緊張してしまう。男子高校生から、中村くんぐらいの歳の男の人と喋るのは苦手だ。私のこと、きっと不細工だとか、可愛くないとか、なんでどもるの、意識しすぎじゃないの、とか思っているんだろうなぁとか思うと接するのが怖くなる。男性経験が無いのも拍車がかかって余計に男の人が怖い。性欲の対象は男の人なのに、むずがゆい。本当は色んな男の人と仲良くなりたい。私を知ってもらいたい。私も人肌というものを知りたい。


 ノートには中村くんのことが書いてある。

 中村くんの仕事(三月現在)
段ボール集め 空き缶ひろい 他のマンションから掃除の以来があればしに行くこと。
 家賃は貰えるときに一万円でも二万円でも貰うこと。毎月催促しない。
 アパートの掃除、トイレ掃除、ゴミだしは中村君がしてくれる。そのときに千円あげること。
 同じ服ばかり着ていたら、着替えを渡すこと。
 髪の毛が伸びてきたら散髪を促すこと。
 奇声を出したら、一声かけると一旦やむから、公園でしてこいということ。

 中村くんは二階にある元々物置に使っている部屋で、他の人とは違って三畳の部屋を使っている。段ボールが集まったら部屋に運べないのでアパートの前に置く。管理人が私になって、文句が言いやすいのか、早速近所の人が、この人、迷惑なんです、といってきた。とりあえず、すいませんと謝って、今までこれで通してきたので少し待って下さい、すいませんと二回謝った。近所の人たちの中村くんに対する態度が冷たいのはよくわかった。私もこんな人住んでたら嫌やなぁと思いながら対応した。

 中村くんがある日管理人室にきて、
「すいませーん。今日、アパートの掃除したんですけど」
 と言ってきた。
中村くんは標準語を喋る。顔をみるとすぐに目を背けた。私は男の人の目を見る練習になるので、じっくり目を覗き込む。視線は変わらずずっと下を向いている。
嫌なんだろうなぁ、私のこと。
私も他の男の人だとこんな感じに目線を下にして話をして、同じように見られてるんだろうなぁと思う。中村くんで練習して、慣れさせていこう。
「どこの掃除したの?」
と聞いてその場所を確認する。凄く綺麗になっているわけではないが、丁寧に廊下や壁が拭きあげられていた。ありがとう、御苦労さま、と言って千円を渡す。
渡す時、軽く手に触れてみる練習をしてみようかと思ったが、手が汚れて真っ黒だったし、それはまだ私には高度な技なのでやめた。
「どうも、ありがとうございます」
 深く頭を下げ、千円をぼろぼろの布財布に収めた。その財布も拾ってきたやつなんやろうなぁ。

 しばらくして顔を赤らめて帰ってきた。中村くんの手にはスーパーの袋がぶら下がっている。ワンカップとカップめんが幾つか入っている。私を見つけると中村君がまた、
「すいませーん」
「はい」
「あの、お湯を頂きたいんですが、お湯を、下さい」
 決して私を見ないで私のお腹辺りをみて話をしてくる。別に目なんか合わさなくていいけど。
「いいよ」
 といって管理人室からポットを出した。嬉しそうにお湯を注ぐ。ほほ笑んでいるのをはじめてみた。お湯がでてきただけでこんなに幸せそうな顔ができるんだ。
「こぼしなやー」
「はい。どうも、ありがとうございます」
 赤ら顔でよたよたしながらカップめんを抱えて階段を上っていった。

 管理人の仕事は、アパートにきているヘルパーさんに挨拶をして、誰がずっと部屋に帰ってきていないとか、出てこないとか、隣の人の愚痴を聞いたり、カギの管理をしたり家賃の回収、電気のメーターの分割、たくさんすることはあった。そのたびに父のノートをみて参考にしながら毎日をなんとか過ごしていった。いずれ父がいなくなってもこの仕事を私が続けることは出来るのだろうか。アパートごと売ってしまったほうが楽やけど、ここ、売れるんか。丸ごと面倒みてくれるような男の人、おらんかなぁとノートをめくって遠くのことを思っていた。


 中村くんの部屋から奇声がする。ウエェーーといったりアッアッと聞こえる。すぐに止むかとおもったが、アッアッ、は止まらない。
アッアッアッ、ウェー
アッアッアッ、ウェーウェー
アッ
一定のリズムだったり、たまにウェーが入ったり。咳込んでいるのか吐いているのかわからないが大きな声だ。みんな慣れているのかうるさい、とか言ってこない。まぁお年寄りばかりだから耳が遠いのかもしれない。
私はその奇声のリズムを聞きながら階段を上り、部屋の前にたつ。
 すると奇声はやんだがしばらくしてまたアッアッという。自慰行為中なんかな、ドアを叩くのを躊躇してしまう。
 アッアッアッ
「ちょっと、中村くん」
 強めにドアを叩いた。奇声はぴたりと止んだ。
 部屋から、はい、と聞こえた。
「うるさいんやけど」
 部屋に入ろうとしたが、裸やったら嫌やなぁと思った。部屋越しに、
「何もいってませんけど」
 と返事がかえってきた。
「いうてるよ! うるさいから公園にいっといで。迷惑やで」
「いってませんけど」
 私はたまらずドアを開けた。中村くんは部屋の真ん中に布団を敷いて座っていた。服は着ている。ただでさえ狭い部屋は中村くんが拾ってきたであろう本や食器があった。その周りを囲むように服の塊があって、それが異臭を放っている。
「なに、これ。なになん」
 指を指す。服だけでこんなに部屋がにおったりするのか。
「ふ、服ですけど」
「なんで洗濯しないの?」
 つい鼻を押さえてしまった。しまった、これじゃぁ口でこの部屋の空気を吸わないとあかん。
「今までは、親父さんが、洗濯してくれてましたけど」
 下をむいていう。
「え? お父さんが? 洗濯してたん? 中村くんの」
「はい」
 なんで、そこまで、と言いかけて止めた。あとでノートみてみよう。この部屋の空気、吸いたくない。
ドアを閉めて私が階段を下りるくらいにまた、アッアッが始まった。

 確かに着替えを渡すこと、とノートには書いてあったけど、洗濯までしてあげてたとは思わなかった。お父さん、なんでや。洗濯機はアパートにはなく、コインランドリーでしなければならない。私はゴミ袋を持ってきて何も言わず、部屋にはいり、汚れた服を袋に詰めた。中村くんは無言になっていた。
汚れた服はお湯で二回、洗濯した。五百円かかった。
大きな洗濯機の中で服が泡と一緒に踊っているのをずっと見ていた。
あれは自慰行為の声では無かったんだぁと、今更ながら思った。あんな声だすんだぁと勝手に想像していたから余計に自分が恥ずかしく、気持ち悪くなって洗濯機の中に入って頭の中の妄想を回して流したいなぁとおもった。
三回洗濯機の扉をあけるとき、自分が洗濯機の中にはいってみたくなりそうだった。
乾燥機を使うと更にお金がかかるので管理人室に干した。部屋いっぱいに服や下着が並んでいる。汚れが取り切れていない服もあった。部屋にいっぱいの中村くん。空気も匂いも中村くんでいっぱいになっている気がして、服が乾くまでの間、私は実家に帰った。

実家に帰って父に聞くことは中村くんのことだった。洗濯してるよ、と言うと、それでいいねん、やってあげて、助けてあげて、と言われた。
「なんでお父さん、そこまで中村くんにしてあげるの?」
布団に入って寝転がっている父に聞くと、
「だって、できへんねんもん」
といって背を向けた。言い方も幼稚くさくなってきている気がした。春はもう終わっているけれどまだ、父にはゆっくり休んでもらおうと思った。

二日間、中村くんの姿が見えない。荷台も消えている。携帯電話も持っていないし、一週間経ったら捜索願を出しに行こうかと思った。中村くんの特徴、大きな目と標準語ぐらいしかないけどそれでもいけるんかな。写真なんかないけど。部屋にいったらあるんかなぁ。だんだん日差しが強くなってきてるのに、どこで何をしてるんやろう。段ボールが大量にあるところでもみつけたんかな。どっか此処より良いところみつけたんかな、中村くんがおらんと、ここ、暇やねんけどな。
部屋でラジオを聞きながら落書きを書いて時間を潰していると、中村くんと、おじさんがやって来た。おじさんは見るからにタクシーの運転手の服装だ。
「中村くん。どうしたの。おかえり!」
「すいません。あの、道に迷ってしまって」
「え?」
 申し訳なさそうに伏し目がちにして話す。
「段ボールを集めに行ってたんですが、途中で道がわからなくなって、歩いてたんですが、どこだかわからなくて」
「うん」
「で、タクシーでここまで来たんです。ですが、お金がなくて」
 伏し目がちに、頭がうなだれている。
「いくらですか?」
 タクシーの運転手に聞く。
「四千円です」
 にっこりという。私はありがとうございます、といってお札を取り出す。
「あの、どこから乗って来たんですか?」
「新大阪からです」
 タクシーの運転手がさらりという。
「中村くんは、そんなとこまで行っていたの! びっくりするわ!」
「すいません」
 タクシーの運転手も、見た目がいかにもお金が無さそうな中村くんをよく乗っけてくれたもんやわ。
「ここまでありがとうございます」
 というと、いえいえ、といって帰っていった。中村くんの顔をじっくり見る。二日しかたってないのに、顔が懐かしかった。
「で、荷台は? どないしたん?」
「途中でどこかに、おいてきました。もう、わからないです」
 帰ってきたかったんだ。
「また、買わないとなぁ」
「はい」
「もう疲れたやろうから、早く部屋帰って寝とき」
「はい。すいませんでした」
 頭を下げる。
「こんなことになってしまって、申し訳ありませんでした」
 ずっと謝っている。謝罪の言葉使いがとても丁寧で、こんなこと言えるんだと感心した。
「いいよ、中村くん。ねぇ。ここにずっといときね。どこにもいかないでね」
「はい。もちろんです」
「きっと、ここが一番、いいところだと思うから」
「はい」
 深々と頭を下げてよたよたと階段を上がっていった。アッアッアッ、が聴こえない。何も食べてないだろうなぁと思った。けど、帰ってきてくれて、よかった。荷台は後でホームセンターで買ってこよう。

「すいませーん、お湯ください」
 中村くんが管理人室に来た。帽子から髪の毛が伸びている。床屋に行くのを促さないといけない。
「髪の毛、散髪しといでよ」
 えっ、もうそんなに伸びてますか、という顔をして帽子を取って自分で頭を撫でて長さを確認している。
「まだいいです」
 自分の中ではまだ散髪に行かなくていい長さらしい。
「なんで。暑苦しいで。これから暑くなるしさ」
「いいです。それよりもお湯をいただけませんか」
 ポットを一点集中して見つめている。私の言うことはまだあまり聞きたくないのか。父がいうとすぐに聞くのかな、こんなにしてあげているのに、聞かないので少しいじわるしてみたくなる。時間潰しにお湯を渡すのを焦らす。
「はやく下さい」
 という中村くんに、
「段ボール無くなってるけど、あれで、いったい幾らぐらいになるの?」
 段ボールが積まれていた荷台をゆっくり指して言った。
「三百円ほどです」
「え! そんなもん」
「はい」
「じゃあ、缶は?」
「百円」
「そうなんやぁー。そんなもんなんやぁ、あんなに集めて」
 わざとゆっくり言う。お湯が欲しくてたまらないらしい。そわそわしている。
「あ、あの」
「なぁ、中村くん、今散髪しておいでよ。八百円で丸刈りしてくれるところあるからさ。今、いったら百円あげる」
 少し止まって考えて、わかりました、といったので八百円渡した。
 勝ったような気がした。
 アッアッ、と言いながら出て行った。かなり今日は大きな奇声独り語だ。道で出会う人が中村くんを叩いたりしないか心配した。いなくなっても小さくアッアッアッが、きこえる。

 三十分後に帰って来た中村くんはいちいち帽子を取って私に丸坊主になったことを確認させた。坊主になったあとの帽子はブカブカで、中にタオルを敷いていた。
「おかえり」
 といって百円を渡した。
「七百円でしたので、百円いいです」
「そうなんや、安いんや」
 五十六だけれど褒められて嬉しそうにする顔は小学生みたいだ。
「あの。そのかわり。そのかわりに、お酒、一杯もらえますか」
「ここにお酒なんてないよ」
「あります! ありますから!」
 急に口調が強くなったのでびっくりする。
「どこよ?」
「あそこです」
 指差した所は机の下だった。一リットルの紙パックに入った酒が出てきた。半分くらいある。コップに注いで中村君に渡す。愛おしそうにコップに入ったお酒を見つめている。目の前においてあげると一呼吸してから一気に飲み干した。
「ちょっと、お水じゃないのに大丈夫?」
 中村くんの動く喉仏を見ている。喉がうなっている。
「ふぁい」
 飲み干したコップを一滴も残さないようにしばらく口にあてていた。
「すごい」
「はい」
 コップをおいて、ありがとうございます、と言った。もう一度、飲みっぷりをみてみたい。
「もう一杯、いる?」
「いいんですか!」
目を見開いていう。たかがお酒一杯でこんなに真剣に喜べるのか。
「いいよ」
トポトポとお酒を入れる音がする。またずっとコップを愛おしそうに見つめている。
「はい。コップも舐めていいよ」
「はい」
 一呼吸する。そして一気飲みをする。私はまた中村くんの喉をみている。
「お酒、好きなんやね」
「はい」
「コップ、舐めへんの?」
「な、舐めません」
「そう。じゃぁ、お湯、あげるわ。いつもラーメンばっかりでお腹いっぱいになるん?」
「はい」
 目線は伏せがちになる。私でも分かりやすい。
「嘘やわぁ。これもあげるから食べて」
 私はコンビニで買ってきたおにぎりを二つ手渡した。
「ありがとうございます」
 笑顔で言った。初めて笑った顔をみた。口角が上にあがっただけだけど目尻が下がっただけだけれど、笑顔だった。
かわいらしいな、と思ってしまった。
 中村くんで、男の人と普通に接するのを練習できるのではないか、と思ってしまった。中村くんは私のことを不細工だとか思わないだろう。私のことは女としては見ないだろう。私に従順だろう。
少し足を引きずりながら歩く後ろ姿を眺めて、そうしてみようと決めた。二階からアッアッアッ、ウエー、といつもの奇声が聴こえた。今日の中村くんはやっぱり元気だ。


 夏になると中村くんの姿は半袖にズボンをはいて首にタオルをまいて段ボール集めに勤しんでいた。帰ってくるとタオルは真っ黒になって、顔も腕も真っ黒になっている。早く一杯お酒飲みたいだろうなぁ、お疲れさん。台車にたまった段ボールを整理している中村くんのお尻の部分が不自然にもっこり膨らんでいる。
「中村くん、なんでお尻膨らんでいるの?」
 と、言いながら、こんなん普通の男の人に言わんよなあと思った。
「い、痛いんです」
「痛いの? お尻」
「はい」
 伏し目がちで答える。
「痔なんで、座ると痛いんです」
「なんで膨らんでいるの」
「こ、これは、何枚も下着をはいているからです。漏れるんです……糞が」
 診てもらえばいいのに、保険証が無いのだろう。
「見せて、おしり」
 言葉にすると恥ずかしかった。
「い、いいです」
 伏し目がちで自分の部屋に行こうとする。
「いいです、ってどっち」
 動きをとめて振り向きざまに、
「みせたくありません」
 足を引きずって帰っていった。
 見たいような、見たくないような。私はアパートに住んでいるおじいさんから介護用おむつを三枚拝借して、中村くんに一枚渡した。
「これ、使ってみて」
中村くんは無言だった。
イボ痔のイボってたしか肛門から出てくるから痛いけど、指で押しこんだりできたはず。それでもでてくるんかな、なんかナマコみたい。切れ痔やったら、いつから切れ痔なんやろう、なんで切れるんやろう。ひょっとして中村くんは気が優しいところがあるし見た目も、今はこんなだけれど、若い時はかわいいだろうし、なんでもいうこときくから、お釜掘られたんかなぁ。あ、そうやわ、絶対そうやわ! 若い時に掘られてからずっとあんな感じになったんやわ。話が全部通じるわぁ。いじめられてお釜ほられて切れ痔になって、精神的におかしくなってたまに奇声を発したりする。

その日の夜、お腹が痛いなぁと思ったら生理になっていた。
あぁ、きたわ。今月もきたわ。こんでええのにきたわ。子宮衰えてしまうわ。誰ともせんうちに、衰えてしまうわ。と決まりセリフのように独り言をいう。もう今日は帰らないと決めていたので、ちょうどあった介護用おむつを履いて寝た。
屈辱やな、この格好は。
 お腹の痛みを感じながら、漏れへんかなぁとお尻におむつを感じながら、布団の中で私は妄想をして気を紛らわす。
中村くんは、今までをどう過ごして、そしてこのアパートにやってきたのかを想像して物語をつくっていった。
 寝がえりを打つたびにお腹から血がでているのがわかる。
漏れるんやったら漏れたらいい。シーツも汚れたらいい。私のこの楽しい想像時間の邪魔をしてくれへんかったらいい。
瞼の中に中村くんを浮かべる。それはだんだん私ぐらいの三十まで若返らせていって、十代の高校生、中学生、ランドセルを背負った中村くんに変化させていく。

 中村くんは標準語だから東京か埼玉の人。神奈川っぽくないな。兄弟は三人ぐらいいて、次男。お母さんが大好きな人で優しい子供。中学か高校あたりで何かショックなことがおきて塞ぎがちになる。働きはじめてさらに先輩の言うことをなんでも聞く人になる。好きな人を先輩に盗られる。自分も先輩に掘られる。そこで働きづらくなる。家出。行く先々で嫌なことが沢山起こる。蹴られたりいじめられたりして人間不信になる。お酒が好きになる。飲んでいる時だけ、体の痛みも心の痛みも和らぐ。少しでも生きやすいところに行く為に、だんだん歩いて大阪にくる。そこで段ボールを集めているとお父さんに拾われる。
 短いけれど、こんなもんだろうと思う。中村くんから一切何もきかないけれど、たまに奇声を発したりするのも嫌なこと思い出さないためにしているのかな。

毎日、中村くんのことを考えているのは面白かった。姿を見る度に「中村くん」といちいち名前を出してから話しかけるのが楽しい。じゃないと中村くんは、自分に話しかけられていないと思うから。段ボールを大きなものから順番に整理しているときの後ろ姿、洗濯物を申し訳なさそうに持ってくるときの顔、おはよう、おかえり、と声掛けして恥ずかしそうに受け答えしてくれるときの関東弁。たまにきこえるアッアッアッ。本人は言っていないと言い切る奇声。中村くんのことだけを毎日考えている。
 おむつを買うのは結構ですといって何枚も下着をはいてごまかしているので下着の洗濯の回数が増えた。管理人室で中村くんの下着を干しているとお尻の部分の汚れが酷くて見るのも嫌だったが、手洗いをしてあげると汚れが目立たなくなるので下着だけは手洗いをしてあげた。それでも取れない汚れは漂白剤につけて、出来る限り丁寧に洗った。白くなった下着を見るのが嬉しくて、それを撫でた。

 蝉が朝を知らせる本格的な夏が来た。蝉の音を聞きながら管理人室に入る。中村くんの奇声と蝉が同時になったら私も気が狂ってしまうかもしれないな。中村くんの荷台を確認して、まだ部屋にいるんだと思う。
 昼になってみんなクーラーをつけているか確認しに部屋を回った。介護が付いている人の部屋はクーラーはついているが、未だにクーラーが嫌いなおじいさんがいるので、お水かお茶を持っていく。そこで大丈夫かどうか確認する。中村くんの部屋ものぞこうかと思ったが静かだったし、クーラーもついている音がしたので部屋をあけずにそっとしといた。夜になってから段ボール集めにいくんだろう、と思っていた。
 奇声と蝉の合唱が聴けなくて物足りなかったけれど、言ってませんけど、と少し馬鹿にされた口調で言われて怒ってしまうことを考えたらそっちのほうがいい。
 一階の部屋に降りていくと共同トイレの天井から水が漏れていると介護のおばさんに言われたので、中村くんに用が出来たと私は二階に駆け上がった。
「もしもし、いてる?」
 ドアをノックして間を開けずに扉を開いた。中村くんは布団の上で座っていた。
「なぁ、一階のトイレの天井から水が漏れてるねんけど、みてくれへん?」
「あ、はい。後でみてみます」
「後やったら、私がいてないから、今」
 今でも後でもどっちでもよかった。
「わかりました」
 一緒に階段を下りてトイレに向かう。中村くんの部屋は倉庫がわりにもなっているので、出て行く時にセメントのチューブとハシゴを担いできた。
 共同トイレの天井からゆっくりだがポタポタと水が漏れている。二階の同じ場所には洗面所があるので、そこから漏れているのだろう。中村くんは二階と一階を行ったり来たりしている。私はトイレの外で座って見ている。ハシゴを使って天井にセメントを塗りつけようとしているので私はハシゴが倒れないように支えた。
「大丈夫? なおる?」
「はい。あとはここを塞ぐだけです」
 中村くんを見上げる。行ったり来たりしているので汗だくだ。
「素手でぬってるの?」
「はい。軍手、なくなっちゃったんで」
「あるのに、部屋に」
「もういいです」
 中村くんの右手が白色になっている。首と顔に玉の汗が沢山ついててこぼれ落ちそうだ。腕も背中も汗をかいていて私には持っていない、生きている感じがした。
「なぁ」
 はい、といって私の方を見るときに中村くんの汗が数滴、私の頬に当たった。
「うわっ」
「な、なんですか」
「汗がついた!」
 ハシゴから降りようとするので、いいから続けてと言った。頬についた中村くんの汗と私が今さっきだした汗が混じり合っている。さっきまで暑くなかったのに、中村くんの汗のせいで私まで暑くなってきた。それから丁寧にセメントを塗っている中村くんを見上げると、たまに汗が私の顔に落ちてくる。私の汗と混じる。今、手を放してしまうと彼がハシゴから落ちてしまうかもしれないから顔を拭わない。時々、顔を見たいから、見上げて汗を落とされる。
「あの、終わりました。降ります」
 ハシゴから降りてきた中村くんがふうっと息をはいた。汗が見上げていた時よりも出ている。
「あ、ありがとう。おつかれさま」
 私も汗を拭こうと手で額に手をやると中村くんがセメントで汚れた手で私の額の汗を拭った。
「う」
 額に温かい手を感じたので後すざりした。
「びっくりした」
 中村くんは黙っている。手はあげたままこっちを見ている。私はまた汗をかき始めている。触ってくるとは思わなかったから予想外に胸がどきどきしている。
「ありがとう。あとでお酒あげるから片付けしたらおいで」
 中村くんはまだ何も言わなかったから、顔が見られなかった。トイレから出ると、アッアッアッウエーが聴こえた。
 管理人室から実家に帰る道に十五匹も蝉の死骸をみた。隣の家に大きな木があるので、そのせいで死骸が多い。始めは一匹、二匹、と数えて帰っていたけど、十匹を越えたあたりから二十匹みたら幸せになれる、と勝手に願掛けしながら帰った。

 次の日、管理人室にいると中村くんがお酒を下さいと言いに来た。顔が日焼けして真っ黒なので余計に目が血走っている。
「お酒、あかんよ。体しんどいんじゃないの?」
「違います、大丈夫です。眠れないんです」
 声も張りがない。
「暑いからじゃない? クーラーつけてていいんよ。これからもっと暑くなるし」
「はい。でも、お酒、ください」
 元気がないのが分かったのでお酒を一杯、注いであげた。
「はい。ゆっくり飲んで。しんどかったら病院いってね」
 水を飲むように一気に飲んだ。
 病院いってね、っていうたけど、お金ないよなぁと思った。だから中村くんはそれに対しての返事は無言だ。
「これ、洗濯したやつ。もっていける?」
「あ、はい。いつもありがとうございます」
 袋に詰めた服と下着を渡す。重たそうで体がよろけている。
「大丈夫? 持っていけるの?」
 一旦荷物を降ろして持ちやすいように整理している。
「はい。あの、お酒もう一杯だけ、もらえますか?」
「あかんよ、もう、やめとき」
 渋々階段を上がっていった。
 お酒じゃなくて、何か食べ物を与えた方がいいなと思ったのでコンビニでおにぎり二つと、明太子パスタとアメリカンドックを買って中村くんの部屋に届けた。中村くんは布団の中でじっとしている。
「しんどそう。中村くん、ごはんたべれる?」
 布団の中で目だけが動いて、はい、と言った。
 体を起してあげて、明太子パスタを食べさせてあげた。二口ぐらいたべると、後は自分でたべますから、といってまた寝てしまった。
「なぁ、救急車よぼうか」
 と聞くと、いいです、といった。
 布団の横で私はじっと座っていた。明らかに苦しそうでしんどそうなのは分かった。汗もかいている。着替えさせないといけないと思い、さっき中村くんが運んできた洗濯したばかりの服と下着を出した。
「中村くんごめんやで」
 布団を剥いでズボンと下着を取った。下着は三枚も着ていた。初めて男性の性器をみるんだなぁと一瞬、どきっとしたが、性器よりもお腹が妊婦さんのように膨れている。触ると固くなっている。
「中村くん、これ、痛い?」
「い、痛いです。」
「やっぱり、救急車よぼうや、こわいわ」
「やめてください」
「こわい。いやや」
「おかね、無いんで」
「お金はいいよ、なんとかするから」
 中村くんの肩を揺さぶる。
「病院から生活保護の申請もできるみたいやで。中村くん、受けてみてもいいと思うんやけど」
「いいです。結構です」
「なんで」
 口をつぐむ。体がおかしいのに意思は固い。
「あの、服。服だけ着させてください」
 下半身丸出しの中村くんをみて、とりあえずそうしようとおもった。下着は三枚つけといた。上着は、中村くんに似合うなぁと思っていた薄いブルーのTシャツを着せた。着せるときに上半身をおこすのも辛そうだった。
「お願い。心配やねんけど」
「いいです、ほっといてください」
 布団をかぶせると息をするように言って目を閉じている。呼吸をしているのを確認して、さっきまで着ていた服を持って出て行った。

 洗濯するには少なすぎるので管理人室の隅の方に置いてそれをじっと見つめながら思った。
 救急車を呼ぶべきか。中村くんの意思を尊重してあげてこのままそっとしとくべきか。どうして保護の申請をあんなに拒むのか。
 管理人室にはお酒がまだ少し残っている。中村くんはこのままほうっておいたらいなくなってしまうと思った。どうしたら中村くんが一番嬉しいのか考えた。管理人室で一人考え込んでいると頭から自分が飛び出していって中村くんの部屋にいってしまいそうだった。傍にいたいんだ、私。残りのお酒を持って、中村くんの部屋に行った。

「中村くん」
 呼びかけにも反応しなかった。寝ているのか。近づいてみると呼吸はしている。顔に汗が付いている。クーラーは効いていて部屋は冷たいぐらいなのに。無理に起こしてもいけないとおもったのでしばらく隣で中村くんの顔を眺めていた。目ヤニが出ていて目が開けられる状態では無い。指で目頭にたまっている目ヤニをすくった。睫毛について固まっている目ヤニを指で引っ張ってとった。私はそのままその指を私の口の中に入れた。中村くんを少し貰った気持ちになった。
 汗を手で拭ってあげた。濡れた手は布団になすりつけた。頭を撫でた。
「中村くん」
 もう一度言うと目が開いた。
「ごめん。起こして」
 目が瞑りかける。
「ごめんなさい。しんどいのに」
 何も言わず、また目を閉じてしまった。
 しばらくたってまた顔に汗がでてきている。今度は唸っている。かなり痛いんだろうなぁとおもう。顔を拭いてあげたいのと、お酒を飲ませてあげたい気持ちが重なってしまって、残っているお酒を中村くんの顔にかけた。
「中村くん、お酒」
 うう、といって顔にかかったお酒を舌を出して舐めている。口周りをべろべろに舐めたら次は自分の手で顔を拭ってそれを口の中に入れた。
「お酒、まだあるけど、いる?」
 中村くんは頷いたので寝ながら飲めるようにゆっくり口に注ぎこんだ。お酒が空になると中村くんはまた寝てしまったので私は部屋から出て行った。

 一日経った。部屋からでてくる気配も無い。蝉だけがうるさい一日が過ぎた。中村くんの奇声が聴きたい。
 二日目。
 私は中村くんの部屋をみることにした。もう想像はしていた。昨日一日沢山心の準備をした。だからちゃんとしないと、いけない。仕事をしなきゃいけない。
「中村くん、あけるよ」
 といってドアを開けた。部屋は臭かった。二日前に置いてあった明太子パスタの匂いがきつかった。
 ただ、布団の中にいた中村くんがいなかった。
「中村くん」
 布団の距離が近くなるたびに、それは無いものだとわかる。念のため足で布団を踏んでみたが、布団の感触しかなかった。
 トイレに行ってるかもしれない、と一階の共同トイレに急いでいったがいなかった。私の知らない間にお風呂にいったかもしれない、と思ったが、促されないかぎり銭湯にいきたがらない。新しく買った荷台も外にあった。
 彼はいなくなってしまった。


 管理人室に戻ってどれくらい待とうかと考えた。前は二日間で戻って来た。けど、もう戻ってくる気配はない。一週間待とうか。いや、今すぐにでも警察に行った方がいいんじゃないか。警察が真剣に彼のことを探してくれるとは到底思えないけれど、行かないと、誰かに伝えないと、と思い、近くの交番に行った。
中村くんの生年月日、見た目、身長、何をしている人でアパートに住んでどれくらいで、とかを聞かれた。最初は声が震えてしまったが、話をしているうちに、ちゃんと話せてしまって、頭の中でもう一人の私が、冷静になってるやん、と突っ込んだ。
「仕事は段ボール集めですか。この人、家賃とか払えてるん?」
 はつらつとした警察の人が私の顔を覗き込むようにして聞いてきた。初めて会ったのに距離が近い人だ。
「あの、払えてます」
 中村くんの口調で標準語になってしまった。
「生活はできるんですか? 段ボールとか集めているだけで」
 こういう聞き方をする人は苦手だ。私も塞ぎがちになる。
「あの、詳しくはわからないんですが、父だけが知ってるんです。父は今、病気で」
「そうなんや」
 この人は私に普通に話してくる人だな。まだ目をみてくる。
「中村くんは、ここでしか生活できないんです」
「そう。写真とかある?」
「無いです」
「もういいです。わっかりました。捜索願いを出す、ということにしときます」
 ペンのお尻をカチャっとおして胸ポケットにしまった。見つからんと思ったに違いない。
「あの」
「はい」
 面倒臭そうに書類を出してきた。
「見つからなかったら。もし、帰ってこなかったらいつまで、部屋をおいといたらいいですか?」
「うーん」
「台車もあるんですけど、置いとかないと駄目ですか」
「そうですね。だいたい一か月くらいは置いといて下さい。また連絡しますので」
 ペンをまたカチャカチャと音をたてた。
こんな人はきっと結婚してもしんどいだけやわ。私はいま普通に顔みて男の人と話すことはできたけど、こんな人ばっかりやったら中村くんと話してるほうが楽しい。

 部屋はドアと窓を開けて風が通るようにした。写真でもないかなと探したけれど無かった。そのままにしとくべきだったのだが、部屋をみていると涙がでてきて、もう帰ってこないと思ったので服も全部捨てた。あの人、何とかして下さい! と中村くんのことをいう近所の人達も中村くんが居なくなって何も言わなくなった。父に彼のことを言わないといけないけれど、余計に体調を崩してしまうのは分かるので、まずは私の中の無くなってしまったものを、無かったものにしないといけない。今でも目を閉じると嬉しそうにお酒を一気飲みする中村くんがでてくる。また一か月もしないうちに生理になって、一連の生理の悪口を言って、残りのおむつを履いて中村くんを想いながら眠る。蝉も鳴かなくなって、涼しい風を感じても私の中は暑く、置いてかれている。あの標準語と喋りたいなぁ。あの声が聴きたい。アッアッアッウエェーウェー、が聴きたいなぁ。


 

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