夏中(げっちゅう)さん   塚田 源秀


 この頃、母が縁側で過ごす時間が増えてきています。古いオルガンの下にある菓子箱を取り出しては、その中に乱雑に入っている写真を一枚一枚ひろいあげてしげしげと見ています。それもくりかえし、くりかえし。写真の数は、数えもしませんが、ざっと千枚ちかくはあるのではないでしょうか。その多くがセピア色に変色した白黒写真です。
 幾度となく、ファイルを買って整理をしてあげようかと私が言葉をかけるのですが、母は首を横に振ります。無作為にひろいあげた写真を見ては、その当時の世界に入り込んで楽しんでいるようです。いや、楽しんでいるばかりではなく、悲しんでいることもあるのかもしれません。いつも陽の当たるところで見ています。居間にいる私のところからだと、背を向けている格好なのでよくわかりません。丸くなった背中は、まるでノミをとる猿の姿にそっくりです。
 色あせたすだれが一枚ガラスの引戸に当たってカタンカタンと音をたてています。すだれからこぼれる淡い陽も消えて、辺りは暗くなってきています。まだ日が暮れるには早すぎます。
 私は居間から敷居をまたぎ、そろっと足をおろします。縁側の床板も薄くなっており、張り合わせた箇所も隙間ができ、わずかな明かりが入ってくるほどです。立て付けが悪くなった一枚ガラスの引戸を落とさぬよう自分の身体にあずけながら力を入れて開けます。むっとした空気が入ってきます。すだれの縄が切れないようにそっと上に巻き上げます。
 裏庭の木々は青々として、つい一ヵ月まえに刈った雑草が伸びてきています。
「よく降るな」とガラス戸を閉めます。
「そらそうや。もうじき、げっちゅう夏中さんやでな」
「夏中さんか……。懐かしいなあ」
「わたしも、久しぶりに参らしてもらわんと」
 母は目を細めて、今にも雨が降りそうな空を見上げています。そして私も空を見上げます。しばし沈黙の時間がありました。
「順平、頼みがあるんや」と母は言います。
「何?」
「人を捜してくれんか」
 またか、と思いました。近頃、母は昔のことを思い出しては、いま一度その人たちに会ってどうしても償いをしたいと言うのです。写真をしげしげと見ているのも、そのかくにん作業のひとつかもしれません。
「また?」母を睨みました。「金を払わないと約束してくれたら協力してもいいけど。誰?」
「お前が小学校三、四年だったと思うから、もう三十数年まえになるな。夏中さんの時や。覚えているか? 家に一週間ほど、泊まった母娘のこと」
「ああ、かすかに」
「捜して欲しいんや。謝りたくてな」
「――」
 私はあの頃を思い返そうとしていました。
 すると、ガラス戸がガタガタと鳴り響き、雨がざっと降りだしてきました。裏庭の低いところに雨水がどんどんたまってきます。不意の大雨だったせいか、地面も水の逃げ道を開けておくことを忘れていたかのようでした。

 長浜にある真宗大谷派の大通寺で七月二日から十日の九日間つとめられるげちゅう夏中法要のことを、地元では親しみを込めてげっちゅう夏中さんと言います。期間中この寺では勤行、講座、法要、法話などが行われ、それにあわせて市街地には多くの露店が軒を連ねます。この法要が終わると、本格的な夏がやってくるのです。
 母娘は見世物小屋の人だったと記憶しています。今はほとんど見かけませんが、むかしはサーカスやお化け屋敷などの多くの見世物小屋があったのです。あの当時、祖父が商店街の役員などをやっていまして、各方面のさまざまな筋の方と付き合いがありました。どういう事情があったのかわかりませんが、とにかく母娘を泊めることになったのです。祖父はこれまでもいろいろな人を連れてきては泊めていたので、さほど驚きはなかったものの、母娘ということとなれば私の祖母と母はどう思ったのでしょうか。娘は私と同い年だったので、女親も、母と大きな差はなかったと思います。
 母娘は、瓜二つというほどよく似ていて怖いほど美しかった、そう覚えています。

 母はもう何人かの人と会っていて、すでに償っているとのことです。その償いの金額が五十万、百万円と渡しているらしいのです。だから、私は一度も手を貸していませんでした。おそらく母が自分で会いたい人の連絡先を見つけることは容易ではなく、誰かの協力を得てのことだと思われます。何の償いかと私が聞くと、罪づくりの、、、おなごやさかい、の一辺とうで、教えてはくれません。むかしどんなことがあったにせよ、その金額の多さに、驚きと怒りさえ覚えました。こと細かに息子の私に話すと怒られると思い寡黙を通すつもりでいるのでしょうが、ろうもう老耄の域に入った母はついつい事の断片を喋ってしまいます。
 四ヵ月まえのことです。私が長浜の市街地に小さな喫茶店を開業して、ようやく半年が経とうとしていたころでした。ある日のこと、償いの相手から私の店に電話があり、お会いしたいと言ってきました。
 来たのは、七十前後の夫婦。母より五、六歳ほど若いように見えました。身なりもきちっとしていて、二人そろって頭をぺこっと下げました。悪い印象は受けませんでした。
他の客はだれもおらず、ゆっくりと話を聞くことができそうでした。婦人のほうが、ぽつりぽつりと話しはじめました。私は聞くほうに徹しました。どうやら償いの相手は婦人の方らしい。
「実は、お母様のことで」
「――」
「突然、家にお見えになって……。私が留守だったもので、主人が対応しまして。お母様が玄関先で、あの時は大変申し訳なかったことをした、そのことを伝えて欲しいと。頭を何度も下げて、紙袋を置いていかれたんです」
 婦人は主人に視線を向けました。
「お茶でも、とは言ったんですがね。急いでおられる様子で。あとで、紙袋の中を見たら、びっくりしました。女房と話して、早くご家族の方に話をしとかないと、と思いまして。それで……」
 二人は、どうも居心地が悪いようで、どこか落ち着きがないように見えました。二人に出したコーヒーは、ほとんど口にしていませんでした。
「そうですか。失礼ですが、紙袋の中は……」
 主人が人差し指をゆっくりと一本立てると、私は、あっ十万円かと思いました。一瞬ほっとした安堵感につつまれました。
「はい。百万円です」
「えっ」
 平静を装うつもりでしたが、えっという言葉がついうっかりでてしまいました。その後の言葉がありません。
こちらから積極的に聞くこともためらわれ、ただひたすら待ちました。
「この百万、頂いてもいいのかどうか……」
 婦人は、私に乞いました。
「大金ですね。でも、母のお金ですから。私から言うことはなにも」
 しばらく、沈黙がありました。
「では、お預かりするということで。よろしいでしょうか。何かあったらご連絡ください」と主人が言いました。
「ええ……」
 二人は、すっかり冷めたコーヒーを「美味しいコーヒーですね」と言って、するすると飲み干しました。ドアの開く音がしました。こういう時にかぎって、お客というのは来るものです。お金の決着がつけば、早々に腰を上げて帰っていきました。これから本題に入ろうと思っていたのですが、二人を引き止めることができませんでした。償いの理由を聞くことができなかったのです。でも、話の流れから察すると、母が勤めていたころの人間関係によるものだと思いました。
 妹にあたる叔母や、嫁いだ私の姉に聞けば、もっと驚くような話を聞くことになるのかもしれません。

      *

 昔の母は、一言で言いあらわすと、現世利益の権化のような人でした。それには、理由があります。彼女の子供の頃は、いっとき祖父の事業で華やいだ時期があったものの、戦後の不況による事業の衰退や兄である叔父の失踪など、いろいろとあったようです。家財や、祖父が集めた高価な掛け軸や壷などが、次々と無くなっていく。本来であれば、叔父が家を継ぐはずなのですが、その時分から子供心にこの家を守って背負っていかなければならないという運命みたいなものを肌で感じていたのでしょう。そして若い頃一時期ですが、難病を患っていたようです。薬ではあまり効果がなかったようで、行き着くところはやはり宗教だったようです。そして、助けてもらったのが、お大師様だったのです。家の宗派は浄土真宗でしたが、おかまいありません。日々の朝のお勤めは、まず仏壇に背を向けて、近くのお大師様に向かって般若心経を唱えるのです。実母である祖母とよくそのことで衝突していました。祖母の実家は浄土真宗のお寺だったものですから、世間体というのもあったのでしょう。
 思い起こせば、宗教がらみでいろいろありました。母は何かにつけて信心深い人です。基本として当時はお大師様を中心として信心していましたが、周りから「あの○○宗教はええよ」と耳にすると、時折つまみ食いをします。なにせ現世利益の人でしたから。生長の家、キリスト教、日蓮宗……。付き合わせられる私や姉は、たまったものではありません。勉強もそうですが、何かにつけて私の中に攻め込もうとする母に、私は頑強に自分の中の何かを守ろうとしていました。
 償い――。であれば、私もきっとその対象者になるべき存在だと確信しています。なぜならば、子供の頃から、母に何度も殺されてきたからです。殺されなくなったのは、親元を離れた大学生になった頃だったと思います。もちろん、それは夢のことですが――。満月がぽつんと浮かぶ、そこは山の中。私と母だけです。ランドセルを背負ってほぼ裸の姿で私は追われます。
 追うのは、出刃包丁を持った母です。白装束の姿で、奔る、奔る。私は、逃げる、逃げる。ランドセルの中にある教科書が上下に揺れ、筆箱がカタカタ鳴ります。草木は低く隠れる場所もなく、月明かりは私を照らします。振り向き、また振り向き、私と母の距離は、不思議といつも一定です。やがて、崖っぷち。下を覗けば光の届かない深海のような闇。仕方がなく、闇の世界へエイ! と私は飛び降りるのです。
 そして、眼を覚ますのです。汗をかき、心臓の鼓動もはやくなっています。この夢を何度見たことでしょう。十年あまり同じ夢を見続けているわけですから、当然といえば当然かもしれませんが、私はずっとランドセルを背負った子供のままです。現実、ランドセルを背負わない年齢になると、夢の中でも、もしかしたらこれは夢かもしれないと想像もできました。しかし、わかったからといってどうしようもありません。きっと、ランドセルを背負った時期から脱出できない自分がいたのです。
 間仕切りのカーテン越しに、四つ上の姉は私のうなされた声を聞いていました。この夢を、母または誰かに言うべきか言わざるべきか子供心にも考えていた時期があって、そのうち成長して大人になり記憶の底に沈めてしまったようです。一度だけ、何かの折に思い出して母に話したことがありました。母は「大嘘つくな」と一笑しました。「お前の幸せを考えていない人がどこにいる」と。
 また母が工場で働いている頃は高度成長期と相まって、残業、残業という日々、会社の上司にも重宝され、給与アップ。お金を稼ぐということに対してひときわ執着してきた母でしたから、同僚の多くから反感を買ったことも容易に考えられます。
 でも、です。会社というところは、腹が立つことや嫉妬などが渦巻いているところであって、多かれ少なかれ誰にでもあることだと思われます。しかし、対価としての、償いの金銭があまりにも大きすぎます。彼女の中で何かが狂い始めたのでしょうか。
 こんな母ですから、父はどちらかというと穏やかな人で怒られたこともほとんどありませんでした。父がたまたまそういう性格だったのかもしれませんし、努めて穏やかに振る舞っていたのかもしれません。私が今こうやって世間に憚ることなく生活できるのは、父のおかげだとつくづく思います。肩身のせまい婿養子の立場でよく頑張られました。年金がもらえて、さあこれからという時に亡くなるとは、可哀相で可哀相でなりません。

         *

 この十年の間は、年に一度ぐらいのペースでしか家に帰っていなかったこともあったせいか、間隔があけばあくほど、見る見る母が老けていくのを感じざるを得ませんでした。とにかく家が汚くなっていました。日常的に家の中のあらゆる所にあらゆる物があふれていて、整理できずにホコリ、米つぶ、ネズミの糞も見つけられます。
以前の母は実年齢よりずっと若く見えていたのですが、今は年相応いじょうに身体がおとろえはじめてきて、白髪になり、よくコケ、忘れっぽくなり、最大音量でテレビを観るほど耳が遠くなり、すべてに対していらつくことがあります。過去の思い出が、事あるごとに歪曲化され、誇大妄想となっていくこともあるようです。
 母の呪縛からずっと逃れてきた私ではありましたが、月日は流れ、そういった一人暮らしの八十ちかい彼女のことが気がかりでしたし、都会での生活が充実していたかといえばなにか物足りないものを感じていましたから、一年まえにさっぱりと帰ってきました。二十五年ぶりになります。
 こちらで会社勤めなどまったく考えていませんでした。四十半ばで雇ってくれるところもないでしょうし、組織の中でペコペコ頭を下げるのももう十分だと思いました。都会ではよく会社を抜け出して喫茶店の隅っこで本を読んでいたり、思索に耽っていたりしていました。その時間こそが私にとって至福のときでした。こういう時間がもっと増えたらいいのにと心のどこかで持ち続けていて、そうだ、実家の方で自分が喫茶店をやればいいのだと考えたのです。そして三ヵ月の喫茶開業スクールを経て、現在に至っています。
 たしかに経営的には全然ですが、好きなことをやれる楽しさ、人に指図されないというのがいいです。なにせ暇は、私にとって至福の時間ですから。母への反動かもしれませんが、貯蓄というのもありません。すべて使い切りました。

 平日の午前中、母は近くの福祉施設でボランティアをしています。入所者である高齢者や認知症の方とお話し相手をしているそうです。母はふらふらしながら自転車で出かけ、ふらふらと帰ってきます。遠くから見ていますと、ピンとが合わないブレた被写体のようです。
 ある日のこと、店に警察から電話がありました。母が横断歩道を自転車で走行中、車と接触して怪我をしたというのです。病院へ行くと、母はベッドに寝かされてはいたものの意識はしっかりしていました。救急病棟にはカーテン越しに何人かの患者がいて、看護師が忙しく動き回っていました。母は私を呼びました。「わたしが青で信号を渡っていたら……」と同じ文句を二度、三度口にしました。ベッドの横にいた若い警察官が息子さんですねと、声をかけます。
「はい」
「事実確認をしているところですが、お母様もこういう状態ですし」
 母は茶々を入れてきます。
 警察官は「大丈夫ですよ。これから、息子さんと話しますから」母の耳元で大きな声をかけます。
 どうやら母は赤信号で渡って車と接触し自転車ごと倒れたようです。大きな事故には至りませんでした。しかし、その後の足腰が心配です。
 警察官が帰ったあとも、母は信号が青だったと、繰り返します。
「周りにいた人の証言もあるんだ」
「嘘や」
「嘘をつく必要がどこにある」
 私は周りの目もあるため、抑えて言いました。
 これで二回目です。以前に自転車ごと川に落ちたことがあります。急に腹立たしさが沸いてきて、母の腕をきゅっとつねりました。
「痛い! 何をするんや、親に向かって。罰があたるぞ」
「これで二度めだよ。神さんからのお知らせで、もう自転車に乗っちゃいけないんだ」
「わたしは救われたんや。ほんまやったら、死んでた人間や。まだまだ、償いができてない。ナンマイダ、ナンマイダ」
 顔の前で、合掌します。その表情が亡くなる前の祖母にそっくりでした。

       *

 オープン前の客のいない時間、朝陽が店内に入ってきます。ひと通りの準備を終え、私はテーブル席に座ってコーヒーを飲みます。誰にも邪魔されない寛げるひとときです。外に目をやると、朝の団体客が足早に通りすぎていきました。向かいの団子屋の塀には、見かけたこともない朱の毛筆かきの案内文らしきチラシが貼られていました。窓のほうへ近づきますと、夏中さんのことが書かれていました。あと十日ではじまるとのことです。
 席にもどり、椅子の背に体を預け、母が償いたい母娘のことを考えます。
 三十数年前の、よく素性のわからない母娘を捜すことは雲をつかむようなことです。あまり気が乗りませんでしたが、あの娘はその後どういう人生を歩んだのだろう、そんな知りたい気持ちは少なからずありました。
 母に捜してほしいと言われてから、インターネットで数少ない検索ワードを頼りにいろいろ探しました。最初からわかっていたことですが、まったくいい情報を得ることはできませんでした。でも、そういう時間を費やすことによって、母娘のいたあの一週間の輪郭がすこしずつですがおぼろげに見えてきたような感じもしました。
 私が学校から帰ったら、母娘の二人がいました。玄関ちかくの水場のところでした。その日は梅雨の晴れ間で、外は眩しかったと記憶しています。色白で白いブラウスの似合う二人でした。都会の人だったせいか、どこか洒落ていたような。娘の名前は、マリコでした。
 むかし祖父母がこの家で多くの人を雇ってビロードを作っていましたから、空いている部屋も多く、そのひとつが母娘に貸し与えられました。縁側沿いにある突き当たり部屋で、厠とお風呂がちかくにありました。裏庭に繁った大きな樹が傍にあったせいか、いつも湿っぽさを感じさせ、あまり近寄りたくないところでした。食事は別で、お風呂も最後に入っていました。
 母娘が家に滞在している間、家の中でとくに何かが変わったということはなかったと思います。ただ夕食の際は、みんな他人行儀で、話をする雰囲気ではなかったように記憶しています。祖父の咳払いだけが妙に耳に残っています。誰ひとり母娘や夏中さんのことには触れませんでした。
 見世物の仕事のため母親は家にはあまりいませんでしたが、娘は家にいました。私が学校から帰ると、縁側に座っていました。脚をぶらぶらさせ、裏庭のどこを見るというわけでもなく、それも飽きもせずただぼうっと。いつも一人でこんな風に過ごしているのだなと、居間のところから見ていました。
 彼女が来て二日目、そろそろ声をかけたいなと思っていたので、勇気をもって彼女の横に座りました。どうやって話しかけたのか、その後どんな会話をしたのかほとんど記憶にありません。
 目の前に紫のリラの花が咲いていました。庭の周りは幾種の木々で覆われているので、多くの小動物が集まってきます。祖父の自慢の庭でしたが、正直言って、私は苦手でした。絶えず小鳥がさえずり、雨上がりには亀がのそのそと歩き、ヘビが庭石の上でトグロを巻いているときもあります。とくに梅雨の季節はそうです。商売が軌道に乗っていた頃は、鯉を飼っていた時もあったようです。
 聞きたいこと、やりたいことはいっぱいあるのに、なかなか行動に移すことができません。水の中にいるような一時を過ごしているような感じでした。
 でも、とにかく私はうれしくて、浮き立つ気分でした。級友や近所の友達に見られることはありません。二人の時間を誰にも邪魔されたくない半面、誰かに見せびらかしたい気持ちもありました。一度、近所の友達が遊びの誘いに家に来ましたが、裏庭の方を振り返ってみると、マリコがこちらをじっと見ていました。教えちゃいけなよ。黙っていてね。そんな風に感じ取れました。それは私の思い過ごしだったのかもしれません。
私がぬるくなったコーヒーを口にすると、カランとドアの鈴がなりました。眼をそちらに向けると、六十ぐらいの男性が「いいかな? コーヒーだけど」と顔を覗かせました。私は壁掛けの時計をチラッと見て、いいですよ、どうぞ、と応えました。男が入ると、その後ろからぞろぞろと十名くらいでしょうか、男女が入り混じって入ってきました。さきほど通り過ぎた団体客でした。
「マスター、悪いね、オープン前なのに。周り、どこも開いてなくてさ」
「もう、オープンするところでしたから」
「みんなホットでいいよね」と彼は安堵した様子で近くの席に座りました。「あの表に貼ってあった紙に夏中(なつなか)って書いてあったけど、あれ、どう読むの?」
「げちゅう、です」
「げちゅう?」
「ええ。近くの大通寺で行われる法要のことを言うんですけど。たしか由来は、夏の雨期の間、外出を止めて勉強に励むインド仏教僧の慣習からきていると聞いていますが」
「へえ、そういう意味があるんだ」
 厨房に入り、私は一杯一杯、丁寧にコーヒーを淹れていきます。湯を入れ、一度むらします。乾いた粉から良質の汁を取るために、三十秒ほど待つのです。すると、粉から美味しいエキスが出はじめ、甘い香りが出てきます。この瞬間が私は大好きです。ささやかな幸福感といったらいいのでしょうか、ふっと周りをやさしくつつんでくれます。
 ずっと抽出されたコーヒーを見つめていた私ははっとして顔をあげました。知らないうちにホールは大賑わいです。私はため息まじりに、コーヒーを出していきます。
 バスの時間があるらしく、団体客は嵐のように去っていきました。コーヒーをほとんど口にしていない客もいて、テーブルの上は菓子くずや菓子袋、観光パンフレットが残されていました。これだから、団体客は嫌いです。ふっと息をついて、片付けます。椅子の上に男性週刊誌が残されていました。最新号のようです。忘れていったのか捨てていったのか、きっとバスでの道中、退屈しのぎに読んでいったものでしょう。
 片付けの手を休め、席に座って週刊誌の頁をパラパラめくっていきます。すると、「懐かしの昭和 その後の見世物小屋」という見出しが眼にとまりました。その頁を開くと、女の写真がありました。見た瞬間、のどの奥から「あっ」という声が洩れそうになりました。モノクロでかすれた古い写真なのですが、当時の母親の面影に似ているではないですか。眼を凝らして見るほど、似ているように思えました。こんな偶然があるものかと、不思議でなりません。私に見てもらうために、置いていったとしか考えられません。オープン前に団体客を入れたというのも、必然的というか、何かのお導きなのか。母がよく口にする神からのお知らせかと思うくらいでした。昔の写真を掲載しているのか、もしかしたら娘かもしれません。記事を読んでいると、昭和三十年代をピークに栄えた見世物小屋は社会福祉が充実してきた昭和五十年ごろを境にほとんど姿を消していったとのこと。それでも東京ではわずかばかり存続していて、その暮らしぶりが詳しく書かれていました。各地の縁日にお呼びがかかれば出向いているとのことです。女の写真の下には、へび女のAさんとクレジットされていました。きっと取材された本人でしょう。七月中旬には京都のあるところで興行するとも触れていました。それは十日後のことで、長浜の夏中さんと時期が重なっていました。
 マリコの視線が浮かんできました。そうでした。私とマリコは庭にある小さな井戸を覗いていて、そして目を合わせました。何かが動いていました。一瞬私は身を引きましたが、マリコが私の腕をつかんで大丈夫と言いました。黒っぽい水の中で黒の光沢のある大きな生き物がくねくねと身体を動かします。魚のようで魚ではない。ヘビやカエルでもない。ぬめっとした皮膚にやたら頭が大きく手足は小さい。それも二匹です。異形のような生き物、サンショウウオでした。図鑑でしか見たことがなかった生き物だったので、腰をかがめて二人でじっと見ていました。山やきれいな水にしか棲むことができないと聞いていましたから、どこから来たのでしょうか。井戸を覗いたことなど一度もなかったので、実はむかしからずっといたのでしょうか。
「すごいね」私は言います。
「うん」
「内緒にしようね」
「うん」
 二人は飽きもせず、次の日も、そして次の日も井戸の中のサンショウウオを見ていました。
 雨の日でした。庭には出られないので、二人は縁側沿いにある仏間にいました。仏間は広く、下座の隅には多くの掛けと敷布団が積んでありました。布団は、祖母の親交のある信者たちが使っていたものです。月に一度、家では一泊二日で僧侶を招いての法話があったものですから。十五人分はあったでしょうか、二段に分けても当時の私の背丈ぐらいの高さはありました。
 私は事あるごとに、この布団にもぐりこむのです。母が、私の中に攻め込もうとしている時もそうです。私を捜し終わるまでじっと隠れているのです。夏でもヒヤッとして、染入った線香の匂いがします。
 私は布団の間にもぐりこみました。
「冷たくて気持ちいいよ。おいで」
 細くて白い彼女の腕をひっぱると、きゃっと小さく声を上げて私のところへもぐりこんできました。
 いつもの時間、祖母の足音が近づいてきます。仏壇の戸をきしませて開け、供えてあったおぶくさんをコトコトと音をさせて下げていきます。そして、りん鈴を鳴らして、そろそろと経文を唱えはじめるのです。線香の匂いがしてきます。祖母の動きが、手に取るようにわかるのです。二人は目を合わせて、クスッと笑います。
「とても静か。重たくて、線香くさい」
 マリコがささやくように笑います。
「嫌い?」
「嫌いじゃない」
「良かった。ここで、こうやっているのが好きなんだ」
「ずっと、こうやって?」
「うん」
「順平くんとわたし、なんかサンショウウオになった気分ね」
 祖母のお経は続きます。せかせかとして気ぜわしい母の般若心経とは違って、角がとれた祖母のお経を聞くと、なぜかほっとするような気持ちになりました。
 祖母のお経はすでに終わっていて、それでも二人はもぐり続けていました。しーんとした布団の圧力感のなかで、聞こえてくるのは二人の息をする音と自分の高鳴る心臓の音でした。じっと眼をみひらいて、暗闇のなかにあるのは、私とマリコだけでした。怖いものなど、なにもありません。ここでは自分が少し勇気を持てたような気がしました。
 夏中さんが終わろうとしていたある日、マリコが縁側に置いてあったオルガンを見て、弾いてもいい? と聞きました。私は周りを見て、うんと答えました。母の自慢であるYAMAHAのオルガンです。姉がほとんど独占していて、私には触らせてもらえませんでした。マリコが弾きます。細く白い指が吸い付くように鍵盤をタッチしていきます。なめらかな音が縁側の向こうまで響き渡ります。姉が奏でる音しか耳にしていない私にとって、こうも違うものかとびっくりしました。時を忘れて、聞きほれてしまいました。
 その時でした。誰かが立っているような感じがしました。はっとそちらを見ると、母でした。母は険しい顔で近寄ってきて、オルガンの蓋をパタンと閉めました。白い鍵盤の上に凍りついた指が、もう少しで挟まれそうでした。はっきりとは聞き取れませんでしたが、汚らわしいといった類の言葉を発したように思います。母は踵を返して、さっさと居間の方へ戻っていきました。マリコと私は、どれぐらいの間だったでしょうか、呆然として立ち尽くしていました。
 翌日の学校から帰ってくると、マリコの姿が見えません。祖母に聞くと、さっきお世話になりましたって、母親と一緒に帰っていったよと素っ気なく言います。夏中さんは残り二日あるはずです。昨日のことが原因だったのかよく判りませんが、それっきりになってしまいました。
 けっきょくこの年、母は夏中さんには連れて行ってはくれませんでした。自分で行こうとすれば行けたのかもしれませんが、なんとなく気がすすみませんでした。学校では夏中さんの話でもちきりでした。「ねえねえ、見た見た?」「すげえ怖かったよな、ヘビ女に蜘蛛娘」サーカス、人間ポンプ、お化け屋敷、のぞきからくり……といった見世物の名前がでてきます。いやでも想像してしまいます。おどろおどろしい絵柄が描かれた看板に「さあ、さあ、入って入って、間もなくはじまるよ。お代は観てからでもいいよ、親の因果が子に報い、哀れなるかなこの有様」はっぴ姿の小人の男が口上して幕を開ける。むっとした小屋の中に女の姿が……。
 もう来るはずのない親子でした。二度と家へ来ることもないだろうなと父がぼそっと言い、その通りになりました。

        *

 夏中さんの初日、母を車椅子に乗せて大通寺へ連れて行きました。境内に入るのは三十年振りでした。天高くそびえたつ大きな本堂が眼に飛び込んできます。周囲には堅牢な木材のみで組まれた伽藍などがあり、たしかにうらびれてはいるものの四百年の歴史を感じさせます。まだ朝だというのにとてもむし暑い。敷きつめられた小石からの照りかえしで、眩しいかぎりです。境内のあちらこちらから念仏の声がこだまして聞こえてきます。本堂にはたくさんの参拝者がいて、ほとんどが高齢の女性の方です。空いているスペースはほとんどありません。後ろの隅っこに椅子を立てて、母を座らせました。扇子のあおぐ音と扇風機が回るカチカチした音が重なります。
 今日の法話は、福井から来た住職の話です。定刻に現われた住職は、七十代ぐらいの男性です。深く会釈して、この夏の暑さや稲の生育のこと、周辺の折に触れたエピソードを交えながら場の雰囲気をつくっていきます。住職の存在はいかんなく発揮され、機知に富んだ話に参拝者は前かがみになりちいさくうなずきます。正信偈や歎異抄から、極楽浄土や地獄のあり様について説いていきます。
 母も耳に手を当てて、真剣に聞き入っています。現世利益だけの母でしたが、どうやら今では償いというかたちで謝罪しお金を使い切り、無形の貯金をして来世へ持っていこうとしているようです。死の迎えがそう遠くない彼女にとって、五十万、百万などはさほど大きな問題ではないようです。母は死が怖くなくなったと言います。死んで、極楽に行ければ一番の幸せ。地獄に堕ちようとも、またそこも住処や。もし、あの世が何にもない世界だったらぞっとするわ、とも言います。
 さいきん折に触れて、私も死後の世界を考えます。人は死ねばごみになると、誰かが言っていましたが、私もこの考え方に賛成です。死んだら無だと思っています。しかし、無の世界が怖いという母の気持ちもわからないでもありません。たしかに死を考えたとき、極楽浄土があると思った方が楽ですし、地獄に堕ちると思ったら、もっとこの世でいい生き方をしなければとも思います。そして鬼籍に入った家族や愛する人なども、地獄に堕ちてほしくはないですし、無に帰ったとしたらやはり寂しくもあります。そんなことを考えていますと、ふと、独り身の自分が死んだら誰が悲しんでくれるのだろうと、頭をよぎります。
 法話はまだまだ続いています。
「そろそろ店へ戻るわ」
「えっ?」
「戻る。店へ。迎えは姉に頼んどいたから」
「今、大事なところや。阿弥陀さんが罪つくりの私らのために、光をあてて助けようとしてくれるんやと。お前も、聴いてけ」
「もう、いいよ」
「白い鍵盤がな……」
「何の話?」
「美しい音色やった。誰が弾いているかと思えば、あの娘さんやった。どうしたわけか、無性にかっとなって、オルガンの蓋をバンと閉めてしもうた。あの娘の指を挟んでしもうたかと思って。挟んでいたら、痛かったやろな。本当に悪いことをした……」
 手を合わせて、私に向けます。母はすこし涙ぐんでいるようにも見えます。
 隣の老女がこちらをチラッと見て咳払いします。私は合掌する母の手を右手でそっとかぶせて、立ち上がります。

 山門を出て、店に戻ります。界隈の通りには何台もの車が入ってきて、露店の準備に入っています。今はこういう商売も大変だと聞いていますが、どの顔もみんな明るい表情をしています。
 たこ焼き、綿菓子、りんご飴といった甘くて香ばしい匂いがすえた臭いと絡まって鼻をかすめていきます。傍らでは、金魚すくいや、お面、ヨーヨー釣りの露店も見られます。昔となんら変わっていない光景に、なつかしさを感じました。今夕から四日間、多くの露店が軒を並べるのです。
 私の店も、お好み焼き屋とから揚げ屋のテントに挟まれて、奥まってしまいました。これではお客も見込めません。とはいえ、縁日にコーヒーを飲んで寛ぐという雰囲気ではありませんけど。周りの既存店もここぞとばかりに、折りたたみのテーブルを出してビールサーバーや、焼き鳥、から揚げなどの仕込みの準備に余念がありません。
「順平さんのところ、何にもせんのかいな?」
 向かいの団子屋の店主がやってきました。いつもは物腰が柔らかい人なのですが、今日に限ってはアドレナリンを飲んできた後のような感じで、やたら元気そうに見えます。
「いや、なにも……」
「あかんで、ここで稼がんと。商売っけないんやで。ただ開けといたら、ただ無料の便所場に使われてしまうがな」」
「夏中さん、はじめてなもんで。何をしたらいいか……」
「そうや。電動のカキ氷機械が一台余っているで、それ貸したるわ」
「簡単にできるもんなんですか?」
「できる、できる。氷を入れて、スイッチを押して、蜜をかけるだけや。誰でもできるがな。後で持ってったるわ。それに容器に蜜も。これは、実費やで」
 店主は言うだけ言って、さっさと戻っていきました。
 いつも通りにオープンの準備を終え、客席に座ってコーヒーを飲みます。表のテントのせいで、窓からはわずかな採光しか入ってきません。露天商たちの笑い声や怒号だけが入ってきます。
 私の店は、孤立した島のように思えてきました。外は蒸し暑いのに、店内は冷房もいらないくらいにヒヤッとしています。照明を点けました。脇にあった例の週刊誌を手にして、女の写真を見ます。繰り返し見ていますが、最初の時と印象が変わって見えました。最初に見た時の高まりがそうさせただけであって、あの母娘とはどうも人違いのように思えてきたのです。私の心が宙に浮いたままです。
 外が賑やかになっていく一方で、私の店はますます暗くなっていきます。店の中がまるで井戸の中のようで、誰からも気づかれることなく、足早に通り過ぎられてしまうかのようです。
私は、マリコと見たあの二匹のサンショウウオのことを思い出しました。小さい井戸の中で周りの苔や藻を食べながら、いつ僕たちを見つけてくれるのだろうと、ずっと待ち続ける彼らの想いに心を寄せました。すると不意にあの夢が浮かんできたのです。母に殺された夢です。あの夢は、一体何だったのでしょう。母への恐れだけだったのでしょうか。たしかに白装束の姿は母ではありましたが、もしや、と思いました。マリコが去った後に、あの夢がいっそう色濃くなっていったことです。
「そうだ!」と私は思いました。私は彼女にプレゼントをしたかった。どうしても気持ちを伝えたかった。しかし、プレゼントを買うお金などありません。仕方なく姉の勉強机の引き出しから紫色の花のブローチを盗んだのです。姉の大切なものでした。私は紙にそれをつつんでランドセルの中に隠したのでした。ランドセルの中でカタカタ鳴ったのは筆箱ではなく、マリコに渡せなかった花のブローチだったのです。プレゼントできなかった悔いが、そうさせたのかもしれません。そう考えれば、いつまでたってもランドセルを下ろせない自分がいたことも理解できました。記憶の底に沈めたものがすーっと浮き上がって、解放されたような感じがしました。
 母の償いは、私の中に埋もれていた三十数年まえの遠い記憶を呼びもどすための、いわば誘い水であったのかもしれません。忘れかけていたマリコへの想いがこんな形で現れてくるとは、不思議でしかたがありません。
 やっとランドセルの荷を下ろすことができました。もうマリコを思い出すこともないはずです。もちろん、京都へ足を運ぶ必要も。
 二杯目のコーヒーを淹れながら、母には母娘のことをどう言おうか、と考えていました。
するとカランとドアの鈴が聞こえたと同時に、団子屋の店主の声と夏の眩しい光が店内に入ってきました。

 

 

もどる