人じまい考    谷垣 京昇


 

 思いもよらず、一昨年から昨年にかけて、尿管がん及び膀胱がんの手術をした。がんを宣告されて感じるのは、否応なしに死と向き合わされることだ。いまや国民の二人に一人ががんになる時代だとか、がん治療は驚くほど進歩しているとか聞かされても、一旦がんを罹病して、再び普通の社会生活ができるまでに復帰ができるのは、運のいい人であることに変わりはない。
 書店に入っても、がんに関係の書物が目に付くと、つい手にとりページを繰るようになった。しかし、がんとの壮絶な闘病の末に生還した闘病記録などは、どちらかといえば敬遠しがちだ。それらは、長生きするにはこうすればよい、などの類いの健康生活本と同じく、その環境と条件にある人以外の者には実行できそうもないからだ。
 闘病をするうえで生に執着するのは大事なことと思うが、一方で生存率の僅かな病を患ったことの、人生の不条理を静かに受け入れている内容の手記などにむしろ心をひかれた。

 かれの意志に反して人は死ぬ。死ぬことを学ぶことなく。死ぬことを学べ。そして汝は、生きることを学ぶだろう。死ぬことを何も学ばなかったものは、生きることを何も学ばないだろう……(おおえ まさのり訳『バルド・ソドル』チベットの死者の書、講談社刊より)

 自分もその時に備えて一念発起し、身辺整理をすることにした。自分が逝ったあと残された遺品をまえに、家族の困惑を想像したからだ。もっとも、取り立てて言うほどの財産があるわけでもないから、大袈裟に考えることもないのだが、それでもいい加減に始末されたくないものがある。
 実際、よく言われる、自分に宝でも人には屑、の類いばかりなのだが。
 ところが、いざ整理をするとなると、これがなかなか容易ではないことに気づかされた。親がなくなったときに一番処理に困ったのは、膨大な記念写真アルバムの類だった。セピア色どころかいまだ鮮明な画像の小学校卒業式記念写真に始まり、死の数年前までに撮られた親の生涯における記録写真の類はアルバムにして十冊ばかりあった。金銭的価値のある物と違って、遺品整理の折には皆が尻込みをして引き取り手がない。かといって親が生きてきた証の記録を、ゴミ袋に捨てるのは気が咎め、本当に困った。
 そういう思いを娘や息子にさせぬようにと、まず最初に自分のアルバムや記念写真の類を処分することにした。押し入れの奥から引っぱり出したアルバムから、剥がした写真を次々とシュレッダーで裁断していくのだが、時に手が止まることがある。
 労組主催で行われた紡績工場の女子工員と、鉄工会社の工員との交流ハイキングでフォークダンスに興じる青春時代の一コマ。社員旅行でふざけている一コマ。どれもこれも、これまで生きてきた思い出の証がシュレッダーに吸い込まれていった。人じまい、人生の最後を締めくくる作業とは、ひたすら自らの過去を消していく行為にほかならない。
 家族には無用の長物とばかりに邪魔物扱いをされている、なかばコレクション的に集めたレコード。三十代から四十代にかけて、趣味で撮り続けた段ボール箱二個に詰められた写真のネガフイルムなど、どれも自分にとってかけがえのない宝物で、いざとなるとすんなり処分する気になれない。
 かつて趣味で鉄道写真を撮り歩いたころのネガのベタ焼きの束に目をとめれば、そのころ各地で活躍していたSLの残響がいまも蘇る。東海道線武庫川鉄橋を快走する往年の特急つばめ号牽引機C62型SLを流し撮りでとらえた一枚。除煙板のスワローエンジェルマークが朝日を受け誇らしげに映える。先ごろ歩道橋閉鎖で話題になった赤川鉄橋をいくナメクジドームのD51と吐き出される蒸気を避けるために日傘を傾けた女性のツーショット写真の裏には、一九六八年の五月と記されていた。
 複線電化前の旧片町線(現JR学園都市線)をいくSLの牽く列車など、手に取ればきりがない。すべて家族には厄介なゴミでしかないが、自分には撮影したその時々の思い出が蘇り、捨て去るには忍びない。
 それでも昭和の時代に、写真展で展示した三十数枚の全紙大の写真パネルは、昨年に馴染みのカフェで店主の厚意により二度にわたり展示したあと、断腸の思いで粗大ゴミとして処分をした。
 レコードはデジタル化して保存すれば、場所もとらずに、自分が居なくなっても保存されるだろうと考えた。しかし、音盤の溝に針をおとして聞いてこそのレコードであり、デジタル化することに何の意義もないことに気づいた。
 ましてや、SLの牽く列車の発車から次の駅に到着するまでの音をひたすら録ったLP盤など、マニアック過ぎて普通の人ならものの三分間も聞いていられまい。それでも現在では入手困難と思える希少価値のレコード類は、自分には宝であり死ぬまで絶対に手放したくない。考えた末に、通販でレコードのデジタルダビングできるプレーヤーを購入した。
 一方写真のネガフイルムはデジタル化保存が有効なのは明白なので、そのための機器を迷わずに購入した。さすれば物理的にスリム化した写真ネガも、家族にとり故人の思い出の品となり、天袋の奥にでも忘れられたように、ひっそりと保管されるのではないかと思うのだ。
 この正月のこと、娘と息子をまえにして、欲しいと思う書籍を持っていくように言ったら、二人とも口をそろえてどれも要らない、と首をふる。息子にいたっては、古本屋でも引き取ってくれそうもないな、とにべもない。
 飼い犬の散歩コースとして、近くの団地の前を通るが、ご多分にもれず住人の八割が高齢者であるらしい。そんな理由からか、よく遺品整理業者の車が止まっている。時にはトラックの荷台で家具や電化製品などのリサイクルできるものと、そうでない書類やカセットテープなどのガラクタ類をよりわけているところを目撃する。なれた手つきで大きなゴミ袋に投げ込まれるガラクタこそ、故人の生きていた証の品々であろうに、と思えた。
 顧みれば、自分の生きてきた証の品々を、あのように無造作に捨て去られたくはない。そのためには自らの手で、納得のいく整理をするしかない。
 ちなみに一年前に購入したレコードとネガフイルムをデジタル化するための機器は、六匹いる犬猫の世話と雑事にかまけていて、未だ梱包も解かずに部屋の隅で埃を被っている状態だ。
 とまれ、人じまいの作業は遅々として、思うようにはかどりそうにもない。


 

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