軽音楽部の部室は校舎から離れていて、人工的に、わざわざうっそうと作られた樹林の中にあった。近くにはジャズ研究会やブラスバンドなど、音楽系の部室が集まっている。うっそうとした樹林は音消しの役目をしているらしい。隔離されている。
大学に入ったら、軽音楽部に入る。そう決めていた。わたしは中学のころからずっと、ロックバンドで歌を歌ってきた。やっとオリジナル曲を作るようになったと思ったら、メンバーの進路がバラバラになった。
新しいバンドを作って、自分のうたを歌う。
ドアを叩いた。返事はない。ドラムの音がしている。聞こえるわけないんだ。
ドアノブを掴んで、ひねった。自分のほうに引くと、ドラムの音が大きく外に漏れた。
「こんにちは」
ドラムの音が止まり、中にいた人の目が全部、わたしに集まる。
「あの、入部したいんですけど」
中にいたのはドラマーを含め三人だった。ドラマー以外は楽器を持っておらず、練習場の手前にある汚れたソファに腰かけていた。右側にいた男の人が立ち上がって、手招きする。
「どうぞどうぞ、入って。ようこそ。よく来てくれました」
軽く会釈して中に入る。外から見るより広い。ドラムセットが奥にあり、小さめのギターアンプが二つ、ベースアンプが一つあった。私物らしい楽器もいくつか置いてある。その手前に汚れたソファとパイプ椅子が三個。テーブルのかわりに段ボールが積んである。壁には書棚が二つ並んでいた。
「チラシか何か、見てくれたのかな? あ、おれ副部長の矢島です」
男性が書棚からファイルを取り出して、にっこりと微笑んでみせる。その笑顔が少し優等生過ぎるような気がして戸惑うと、煙草で色の変わった歯がのぞいた。わたしは少し緊張を解く。ずっと使っていた安い練習スタジオはタバコの煙の中にあった。ライブハウスも煙たかった。よく知っている空気。
「最初から、入ろうと思ってたんです」
「お、経験者?」
ドラムの前に座っていた人が立ち上がる。
「歌しか、歌えませんけど」
矢島さん、という男性が振り返って、ソファに座っているみっちりとした筋肉質の、前髪の長い無骨そうな男性を指した。
「彼も一回生。かつ経験者。ギタリストだって。えっと、高辻くんだっけ」
紹介された高辻という男は軽く頭を下げただけで、にこりともしなかった。
「いちお、入部届け。これに名前書いてくれるかな」
ファイルから出された紙に必要事項を書くため、わたしは高辻という人のとなりに座る。彼は興味なさそうに腰を少しずらした。
名前と連絡先、学部などを書いて矢島さんに渡すと、新入生歓迎会の日時を言われた。ほかの、練習時間の割り当てや部のルールについては教えてもらえない。こちらから聞かないと何も話してくれないのかもしれない。高辻くんという人は、相変わらず声も出さないし、どうすればいいのだろう、と居心地の悪い時間を数分過ごすと、ドラマーが大きな声を出した。
「全パート揃ったじゃん。なんかやってみよっか。実際音出したら緊張もとれるっしょ」
「いいねえ。どう?」
突然のことで驚いたが、たしかに演奏したほうがこのまましゃべらない一回生と同じ時間を過ごすよりいいかもしれない。演奏したあとなら、わたしも気兼ねなくいろいろ聞けるだろう。
「歌わせてください」
わたしが答えると、高辻くんが驚いたように細い目を見開いた。
「じゃあ、おれもやります」
太くて低い声だった。矢島さんがうなずいて、ドラマーを親指で指した。
「あいつとおれ、クイーンのコピバンやってるんだけど、なんかできる曲ある?」
高辻くんはわたしを横目で見ながら、少し唇の端を歪める。
「たぶん、どれでもできますよ」
少しだけしん、として、ドラマーが乾いた笑い声を立てた。
「どれでも? あんなに曲あるのに? すごいな」
高辻くんは肩をすくめて、またわたしを横目で見た。
「でも彼女はクイーンなんてCМソングしか知らないかもしれない」
わたしは彼の真似をして肩をすくめた。
「クイーンならたいてい歌えますけど」
矢島さんも笑う。
「なんだよお前ら。のっけから張り合うんじゃないの。しかし今年は豊作なんだなあ」
笑いながら楽器置き場に歩いて、肩をまわした。
「高辻くんもこの辺のギター使っていいよ」
わたしたちはしばらく楽器のセッティングに没頭する。高辻くんはいちばん手前にあった真っ赤なストラトを手に取り、無表情のままチューニングを行なう。わたしもマイクの準備をする。
「おれらのほうが、できる曲少ないんじゃないの」
矢島さんがベースを抱いて苦笑する。
「濱口さんが歌詞覚えてる曲をやろう。何がいい?」
ドラマーに尋ねられ、わたしはマイクを通して声を出した。
「Hammer To Fallを」
少しの空白のあと、高辻くんのギターからリフが始まった。太くて甘めのディストーション・ギター。リズムが正確だ。ドラムが入る。ベースが入って、わたしは気持ちよく歌い始めた。
時折崩れそうになるのはドラムがもたつくからだ。矢島さんのベースがそれを立て直す。高辻くんは器用に合わせて弾いている。ギターソロに入ると彼は気持ち良さそうにビブラートを響かせた。ブライアン・メイの演奏を細かいところまで再現しているので驚いた。わたしの大好きなフレーズ。聞き惚れていて、次の歌の入りに遅れてしまう。
曲が終わると、だれからともなく笑い声が漏れた。
「なんなの、あんたがた」
ドラマーが汗を拭きながら言う。
「やるねえ。いやほんと。びっくりした」
矢島さんが高辻くんの肩をぽんぽんと叩く。
「濱口さんも凄いなあ。ハイトーンもきれいに出てた。クイーン好きなんだね」
わたしはうなずいて、高辻くんを見た。彼も少し微笑んでわたしを見ていた。
緊張していたのは先輩たちも同じだったようで、演奏後の矢島さんは必要事項を事細かに話してくれた。
新入生歓迎会のときに一回生が全員揃うから、そのときメンバー集めたらいい、と言われてわたしと高辻くんは部屋を出た。彼はまた演奏前の無表情に戻っていた。
「ギター、長いこと弾いてるの?」
わたしから話しかけないと、と思って聞いてみる。ああ、と短い返事があって、わたしはまた何か言わないとと焦る。
「ブライアン・メイのビブラートだったね」
すると彼は立ち止まってわたしを見た。細い目が驚いている。
「わかった?」
「むかし、クイーンやってたんだ。すごく好きで」
高辻くんは、しばらくじっとわたしを見てから、悪かったな、と言った。
「何が?」
「おれ、さっき演奏するまでおまえのこと、どうせカラオケで上手いとか言われて調子に乗ってるポップス好きだろうと思ってた」
わたしはくすり、と笑う。
「なんで?」
「オンナだから」
そう言って、彼は目を逸らした。そして唇の端で笑う。
「こういう大学の軽音楽部に来るオンナなんて、優等生の初心者で、ロックっぽさに憧れてるだけだろうと思ってたから」
「ああ、それわかる」
彼は再びわたしを見て、細い目をさらに細めた。
「メシでも食いに行く?」
「いいよ」
彼はわたしの返事を聞くと、一人で歩き出した。わたしは後ろをついていくしかない。
大学を出てしばらく歩かされた。もうすっかり暗くなっていて、会社帰りの人が行き交う。
小さな居酒屋の前で高辻くんは立ち止まる。オシャレなレストランなんかは期待していなかったけど、のれんをくぐって入る店だとは思わなかった。
カウンターに座り、彼はビールを注文した。わたしも同じものを頼む。
「無理すんなよ、未成年」
彼はそう言って笑う。
「お互いさまでしょ」
わたしたちは小さく乾杯して、飲み始めた。彼はすぐに食べるものを注文して、それが届くと勢いよく食べ始める。話をするどころではない。
わたしも同じように脇目もふらず食べていると、ふと彼がわたしを見つめているのに気付いた。
「おもしろいな、おまえ」
わたしと目が合うとそう言って、にやにや笑う。
「それでさ、けっこう、いい歌うたうよな。荒っぽいけど。いつからやってんの?」
「中学の時から」
感心したようにうなずいて、彼はわたしの顔をじろじろと見る。
「で、ブライアン・メイのビブラートがわかるほど、クイーンが好きってわけ。ほかには? 何聴いてんの?」
わたしは好きなバンドをいくつか挙げた。彼はひとつ挙げるたびに大きくうなずく。
「いい趣味してる」
初めて見る嬉しそうな表情で、彼は言った。
「よし、おまえ、おれとバンド組もうぜ」
彼のような上手いギタリストとバンドができれば最高だと思ったが、もしかすると酔っぱらっているだけで、本心でないかもしれない。わたしが返事を戸惑っていると、彼は眉根を寄せてわたしの肘をお箸で突いた。
「おれが誘ってんだから、はい、って言えよ」
「はいはい」
きっと酔ってるんだと思って適当に返事した。すると彼はお箸を置いて肘をつかんだ。
「真面目に言ってんだぞ」
のぞきこむ彼の目は鋭く光っていて、わたしは思わず体を反らしてその光から逃げる。そして深く、きちんとうなずいた。
「本気です。一緒にやりましょう」
「よし」
彼は手を離して体を元に戻した。気がつくとわたしは激しく動悸していた。
「副部長のベースはなかなかよかったけど、ドラムはひどかったな」
彼はもう、違うことを話している。わたしはただうなずいて、残っていたビールを一気に喉に流し込んだ。
そのあと、これまでやってきた音楽のことを少し話した。彼の好きなギタリストの中にはやっぱりブライアン・メイが入っている。
すっかり食事を終えたとき、彼は当たり前のように言った。
「おまえ、今からうち来るだろ」
わたしは彼を見つめて、言う。
「ちはる」
「は?」
「濱口千春。おまえ、じゃない」
彼は笑ってうなずいた。
「わかった。千春、うち来るだろ」
「なんていうか、あんたってよっぽど自信あんのね」
「しゅんすけ」
「何?」
「高辻俊介だよ。あんたって言うな」
「了解。俊介、思い上がってるよね」
俊介は、鼻で笑った。
「初めて行った部室でこんだけ音楽的に合うオンナと出会ったら、勘違いもするぞ」
わたしも同じ気分だった。
「で、来るんだろ」
断る理由はない。わたしは彼の部屋へ行った。
彼のワンルームマンションではギターが三本、ラックに掛かって彼の帰りを待っていた。そのうちの一本、ギブソンのレスポールを手に取って、彼はGuns’
N’ RosesのNovember Rainを弾き始めた。アンプに繋がなくても、高価なレスポールはよく鳴る。前のバンドのギタリストが欲しがってたっけ。
「おれはこいつを買うために、受験生だってのに夏休みをバイトで潰したんだ」
「そういえば、学部どこなの?」
俊介は手を止めてわたしを見る。
「学部はいっしょ」
「文学部? 文学? 俊介が文学?」
「意外がるな。おれの何を知ってるんだよ」
彼は笑って弦をく。
「学科は違う。千春は国文学だろ。さっき入部届け見た」
うなずく。彼はEmのコードに乗せて、歌うように言った。
「おれはフランス文学」
その歌詞は、憂鬱なEmによく合う。
「フランス語、わかるの?」
アルコールのせいか、ギターの音のせいか、自分で気付くより早くわたしの手は彼の腕をつかんでいた。彼はギターをラックに戻して、わたしに体重をかける。
「おれは天才だからな」
言いながら、わたしを完全に横たわらせると、ゆっくり唇を重ねた。唇を離してわたしの目をのぞきこむと、やわらかく微笑んで言った。
「初めてみたいな顔、すんなよ」
初めてではない。でも、わたしの体は固く緊張している。
しょーがないな、と言って俊介が手を伸ばし、PCのリモコンを押した。ブラック・クロウズの乾いたサウンドがスピーカーを鳴らす。
※※※
「じゃあ、みんなとりあえずは弾けるんだよな」
新入生歓迎会のあと、バンドメンバーを募った。新入生は約三十人いたが、経験者は半分以下だった。その中から洋楽好きな人、と尋ねると、わたしを含めて四人しか集まらなかった。
「もう一人ギターが欲しい」
俊介がそう言って、生ビールをぐい、と飲んだ。
「しつこい。パート揃ったのが奇跡なんだから、もういいよ。次はバンド名決めよう」
高校でベースを始めたという絵里が、俊介の腕を叩く。
「あ!」
ドラム経験者の浩次が小さく声を上げた。
「高辻俊介って、しょっぱなからハンマー・トゥ・フォールをガンガン弾いたっていう? あの噂の?」
「そう。そんでこいつが、そんとき歌った千春。けっこういい歌うたうぜ、オンナなのに」
「おお、じゃあバンド名はクイーンの曲にしようぜ」
「レディオ・ガガ!」
絵里が叫んだ。
「わたしあの曲だーい好き!」
俊介が睨む。
「そのタイトルはレディー・ガガに取られたから却下」
「ウィ・ウィル・ロック・ユーは?」
わたしも参加してみる。でも俊介に睨まれた。
「バンド名としてかっこ悪いだろ」
「じゃあさ、ハートアタックは? ロック・ユーみたいな高圧的なことはしないけど、ハートアタックしちゃうバンド」
絵里の言葉に、俊介の眉が上がった。
「どうせなら、タイトル全部使おうか」
みんなで顔を見合わせた。
「シアー・ハートアタック」
声が揃って、俊介が笑った。
「よし、決まり」
バンドは俊介を中心にして、活動を始めた。軽音楽部では五月の末にライブハウスを借り切って、新入生バンドのお披露目会をするという。新入生歓迎会から一週間、わたしたちは初めてのミーティングを俊介の家で行なった。
とりあえず洋楽のコピーで出るか、と浩次が言い、俊介も日程的にそうなるな、と同意して決まりかけたが、コピー曲を選んでいる途中で、やっぱりダメだ、と言い出した。
「この短期間でオリジナル曲五曲ほど仕上げてみろ。みんなビビるって。一目置かれて部室も多く使えるし、今後のライブでもいい時間に演奏できる。一発、かましてやろうぜ」
単純なわたしたちは、そりゃそうだな、やろうやろう、と盛り上がり、曲ができたら連絡すること、とざっくりした約束だけをして解散した。帰って一人になると、途端に醒めた。できるわけない。だれが書けるのかすら、わたしたちは確認しなかった。みんな、だれかが書くと思ってるんだろう。
俊介から曲ができたから家に来い、というメールが来たのは、翌日の夕方だった。早すぎる。どうせ鼻歌で携帯電話に録音したようなものを聞かされるんだろうと思いながら家に行った。
「おまえ、詞を書くんだよな。一曲でもいいから、明日までにできる?」
ドアを開けるなり俊介はそう言って、PCのリモコンを押した。スピーカーから流れて来たのは全楽器分が作り込まれたデモ曲だった。
「これ、どこで作ったの?」
わたしは驚いて尋ねる。俊介は眉を寄せてしかめ面を作った。
「途中でしゃべんな。聴けよ」
玄関から中に上がることもできず、わたしは突っ立ったままで七曲を聴いた。俊介もすぐ横に突っ立っていた。ほとんどがワンコーラス分だけだったが、フルコーラスのものも混じっている。終わると三十分が経っていた。
「いいよ、しゃべっても」
やっと俊介の許しが出て、わたしは靴を脱いで部屋に上がりながら声を出す。
「自分で作ったの? 機材は?」
ドラムとベースは打ち込みだったから、シンセなどの機材が必要だと思った。俊介の部屋には見当たらない。
「PCだけ。ドラムパターンはネットに転がってるの拾ってきたし、ベースは手打ち。ソフトは最初から入ってたやつ。意外と使えるんだけど、肩凝る。ちっちゃいキーボード買おうかな」
「まさか、全部昨日今日で作ったの?」
いや、と短く声を返し、俊介は丸い折りたたみテーブルを出した。それからわたしにクッションを放り投げた。
「さすがのおれでも、それは無理だろ。入試の後で作ったやつがほとんど。二曲だけ、さっきまでかかって作った」
そう言いながらキッチンに立ち、ガスコンロをひねる。カチ、カチ、と音がして、火がついた。わたしはクッションを敷いて、座る。
「もう一回、聴くよ」
「ああ」
わたしはPCを操作して、最初の曲を再生した。明るい音色のギターリフで始まる、メロディが伸びやかな曲だった。
「広い道。すぐそばに川が流れてるみたい。川に沿って、歩いてる」
思ったまま口に出した。俊介が青いマグカップに紅茶を入れて持ってくる。彼の無愛想な顔と着古したTシャツに、新しいカップと紅茶の香りが似合わない。
「続けろ」
細い目を光らせて、座った俊介はわたしを見る。目の下の高い頬骨に手のひらを添わせて、テーブルに肩肘をついている。
「季節は春で、ただ歩くだけで楽しい。みんなハッピー。でも川に浮かぶ桜の花びらを見ると、自分でも気付かないくらいうっすらと、儚さを感じる」
曲が終わると、俊介は姿勢を変えずに唇を歪めた。
「イメージ、合ってる?」
まだ湯気の上がっているマグカップを手に取り、わたしはおそるおそる尋ねる。俊介の表情は変わらない。ただ口だけを開く。
「詞は日本語だけがいい」
気に入ったのか気に入らないのか、それだけを言った。そしてわたしに紅茶を飲む暇を与えず、次の曲を再生してイメージを語らせた。
どの曲にも、水が出てきた。雨、海、シャワー、川……。わたしは受けたままの印象を口に出す。自分でも不思議なくらい、見ているように景色と感情が浮かんだ。鋭いカッティングのギターの上に乗る、流れるようなボーカルライン。時々荒れるように高音に逃げる。土砂降りの雨の中で踊る少女。マイナースケールで進行し、サビの最後でメジャーコードを明るく響かせる。これはだれもいない、暗い海辺で見る花火。次の曲は夕立の予感。あの、強い雨のにおい。
俊介はただ聞いていた。時折紅茶を飲む。肩肘をついたまま、わたしの言葉を聞く。彼の音楽を通してわたしの中から出てくる、わたしの声に憑依した言葉を聞いている。
わたしはだんだん、時間の感覚を失っていった。この部屋にあるものがすべて、ずっとむかしからここにあって、遠い遠い先まで、ずっとここにあり続けるような気がする。曲を作った俊介も、その俊介の描いたイメージも、骨太の彼に似合わない紅茶の香りも、彼と二人きりで音楽を聴いている自分も。あらゆるものの境い目がなくなり、この部屋がまるごと溶け合っているような。
何も考えられない。考えて話しているのではない。ただ言葉と音楽だけが目の前にあって、わたしはそれを丹念に拾っていくだけなのだ。
七曲が終わるころ、彼が何も言わなくても、わたしは自分と彼のイメージが完全に一致していることを確信した。
しばらく無音が続いた。俊介とわたしは見つめ合ったまま、次の音を待ち続けた。
「気持ちいい」
音を出したのは俊介だった。
「今、すげー、気持ちよかった」
わたしはゆっくりと、うなずいた。大きく動いたり、声を出したりすると余韻が消えてしまうような気がした。
「まずは明日、絵里と浩次にできあがったものを聴かせたい。書けるよな。とりあえず一曲」
俊介の声も囁くように小さい。わたしはまた、ゆっくりうなずく。それを見て俊介は、這うようにして体をわたしの横まで持ってくる。
※※※
わたしは三日で五曲分の詞を書いた。あのときのイメージが強くあったので、文字数を合わせるのに苦労したくらいで、言葉は流れるように出てきた。
部室が空いている時間は授業を欠席して練習し、空いていない日は近くの練習スタジオに入る。
アレンジはほとんどの部分を俊介がPCで作ってきた。彼の頭の中ではもっと細かいところまで完成しているらしい。PCで作ったデモは結局デモでしかなく、本当にやりたい演奏とは大きく違うのだと言う。彼はそれを口で伝えられずに時折目に見えていらいらした。
曲の構成、アレンジが出来上がって、あとは練習あるのみ、という状態になったのは、お披露目ライブの二週間前だった。完成したのは俊介一人の能力といってもいい。わたしを含めて他のメンバーは、彼の引き出しの多さと音楽的な知識に圧倒されただけで、ほとんど建設的な提案ができなかった。出来上がった曲は、高校時代にやっていた和音をかき鳴らすだけのオリジナル曲とは違い、リズムパターンも構成もコードポジションも工夫されていて、とても完成度の高いものに思えた。
こんなに詰めて練習したことは今までに一度もない。練習をリードするのは常に俊介だった。曲を作ったのは彼だし、頭一つ飛び抜けて上手いから、わたしたちは口を挟むことができない。でもそのお陰でお披露目ライブに新曲五曲を揃えて、自信を持って臨むことができる。
ライブ当日、大学近くのライブハウスに昼ごろ集合した。内輪だけの会だし、出演バンド数も多いのでリハーサルといっても簡単な音出しだけをする。
前半に新入生バンドが演奏し、後半には先輩たちのバンドが貫禄を見せるという構成になっていた。
わたしたち以外にどんなバンドがあるのか知らない。新入生は歓迎会に来ていただけでも二十人くらいいた。初心者が多かったから、あまり期待していない。先輩のバンドも矢島さんのクイーンのコピバン以外は知らない。
「新入生バンド、六つもあるね」
絵里がサンドイッチを頬張りながら言う。自分たちの音出しを終え、冷たくて汚い床にへたり込んでほかのバンドがステージに上がるのを見ていた。音出しを終えるとライブハウスから出て食事を取りにいくバンドが多かったため、ほかには数えるほどの人しかいない。わたしたちはオリジナル曲の発表を控え妙に高揚していて、ライブハウスで食事を取ることを選んだのだった。明るい場所に出ると、高揚した気分が失われてしまうような気がした。
「ポップな感じのバンドが多そう。あんまりエフェクター多用してるバンドもないし」
わたしが言うと絵里はうんうん、とうなずく。唇の端にマヨネーズがついている。
「先輩バンド、楽しみだね。古いのやってるバンドあるかな」
「クイーンはあったよ。副部長の矢島さんがやってる。あ、いて!」
すぐ後ろに座っている浩次がわたしの頭を軽く叩いた。
「俊介からイヤってほど聞いたって、その話! おまいらの運命の邂逅、だろ。ロマンチストめ」
俊介は唇の端だけを歪めて、乾いた笑いをもらす。
「うらやましかったら、おまえらも付き合え」
絵里が小さな声で、そんな簡単にいくか、と呟く。まだマヨネーズをつけている。
定刻になり、部長の挨拶があってライブが始まった。部員でいっぱいになった客席にアルコールが持ち込まれ、お祭り騒ぎになる。
新入生バンドの演奏順は事前にくじ引きで決まっていて、わたしたちは三番目だった。一つ目と二つ目のバンドは初心者で、だれでも知ってるポップバンドのコピーをしていた。三曲ずつ演奏し、恥ずかしそうに挨拶をしてステージを降りる。
「よし、行くか」
俊介が言って、わたしたちは立ち上がった。ステージに上がって機材のセッティングを始める。わたしは最初の挨拶をする。
「シアー・ハートアタックです。今日は初めての演奏で、緊張してますが、聴いてください」
矢島さんが大きな声で、待ってました、と叫ぶ。そして客席の先輩たちに何か言っている。
「始めよう」
俊介の声がして、浩次がカウントを始めた。
ギターとベースの最初の音が完全に揃う。練習の成果。かっちりと刻むリズムが曲を進める。わたしは伸びるようなメロディラインを客席のいちばん後ろまで届けた。俊介のギターソロも、刻むベースの上で流れるように響く。わたしは川に沿って歩いている曲を、歩くようにして歌った。
一曲目が終わると、客席がざわついている。それを見て俊介は満足げに微笑んだが、すぐにいつもの無表情に戻った。わたしは客席に語りかける。
「ありがとうございます。えっと、うちのバンドはオリジナルをやってます。だからみなさんの知らない曲ばっかりなんですが、ええっと、次の曲いきます」
オリジナル、と言った時に、うおお、という声があちこちで上がった。やった。笑みがこぼれるのを見られないように後ろを向くと、絵里も浩次もにやにや笑っていた。俊介が一人、嘘くさい無表情のままで立っている。アゴをぐい、と前に出し、早く曲を始めろ、と浩次に合図した。
五曲の演奏を終えてステージを降りると、大きな拍手が沸き起こった。次のバンドがセッティングしている間、矢島さんを始め、たくさんの先輩に取り囲まれる。
「まさかオリジナルやると思わなかったよ」
「すげえなあ、よくこの短期間に仕上げたな」
「高辻俊介くん、やっけ、下馬評通りやなあ。めちゃうまいやん」
わたしたちはニコニコして、ありがとうございます、いやあ、がんばった甲斐がありました、などと言いながら頭を下げていた。ステージ上では表情を変えずクールに演奏していた俊介も、笑みを浮かべて照れくさそうにしていた。
新入生バンドの演奏が続く。俊介は曲が終わるたびに、機嫌良さそうにアハハ、と笑う。拍手までしている。わたしも緊張が取れて楽しくなって、ビールをたくさん飲んだ。
新入生バンドの最後は、男ばかりのトリオバンドだった。ギターボーカルとベース、ドラムの三人で、何も言わずに演奏を始めた。
曲は日本のポップバンド「クラップス」のコピーで、だれでも知っているCMソングだった。単純なエイトビートの軽いサウンド。なんだ、最後までゴリっとしたロックはなかったな、と俊介が呟き、足を組んでビールをあおる。
ところが曲が進むにつれ、俊介は組んだ足をほどき、前のめりになって聴くようになった。ギターが上手い。歌はそうでもないのに、ギターのカッティングがいい。細かいところまで丁寧で、メリハリも効いている。リズムも正確だ。ドラムとベースはあまり上手くない。
三曲目に入るころ、俊介の顔は真剣そのもので、細い目をギラギラと光らせて、唇をぐっと一文字に結んでいた。
「うまいね、ギター」
わたしが言っても、返事がない。まわりで数人の先輩が、あいつもやるな、などと話しているのが聞こえる。
三曲で演奏は終わった。俊介が大きくため息をついた。
「ああ、疲れた。あれ、だれ?」
わたしは首を振る。矢島さんが後ろから、黒田くんだよ、と答えてくれた。
「今年は豊作なんだよ、豊作」
笑っている。わたしも微笑む。けれど俊介は笑っていない。
「選曲は、ほかの二人に合わせたのかな」
だれに聞くでもなくそう呟くと、すっと立ち上がる。ステージを降りる彼らに向かって歩き出した。わたしも後を追う。
「おつかれさん」
俊介が声をかける。黒田くんはさわやかに、にっこりと笑った。整った顔立ち。
「おつかれ。すごかったね、シアー・ハートアタック」
汗で前髪が目にかかったまま離れなくて、黒田くんは腕で目をこすった。背は俊介より少し高く、華奢な体つきでギターが重そうに見える。笑った口元に八重歯がのぞいて、人懐っこい印象を与えた。
「黒田です、よろしく」
ぺこ、と頭を下げる。顔を上げるとまた笑う。笑うと小鼻に皺が寄って、ますます人懐っこい。
「なんでギターソロのある曲をやらなかったんだ?」
俊介が聞くと、黒田くんは小首をかしげた。
「やりたい曲に、ギターソロがなかったからなあ」
先輩バンドのセッティングが始まったので、わたしたちはステージ前をよけて端のほうへ歩く。
「ドラムとベースに合わせてあの曲にしたわけじゃねえの?」
俊介が素っ頓狂な声を上げる。黒田くんもおかしな顔をして見ている。
「クラップス、ぼくが好きなんだ」
俊介が、はあ? と声を出した。
「もったいねえよ、あんだけ弾けるのに」
黒田くんはニコッと、歯を見せて、ありがとう、と言った。
「今後挑戦してみるよ。これからもよろしく」
黒田くんは楽器を置きに、楽屋へ入っていった。俊介は腕を組んで後ろ姿を見送り、姿が見えなくなると首だけを動かして隣に立つわたしを見た。
「あんなポップなヘタクソバンドが好きなんだってよ。もったいねえなあ。本家よりあいつのほうが上手いんじゃないか」
「たしかに、もったいないよね」
「でもあいつがああいう曲やってるうちはライバルにならないから、いっか」
そう言って俊介は笑った。
「おれたちがいちばんだったな、今日」
わたしも笑う。
「俊介のおかげだよ」
「まあな」
そのとき、先輩バンドの部が始まった。
※※※
夏が過ぎた。俊介とわたしは週の大半をいっしょに過ごしている。音楽の話ばかりしていた。俊介が突然ギターを弾いて、曲を作り出すことがある。わたしはそれを聴いて、そこにあるイメージを拾い、言葉にする。そうしてわたしたちは何曲も作った。そうしている時間はいつでも気持ちよくて、ほかの何をしている時よりも、彼には代わりがいないということを思い知らされる。二人の境界がなくなっていく、大切な時間。
学園祭のちょうどひと月前、俊介の誕生日が来た。わたしは家庭教師のアルバイト代を一ヶ月分使ってアコースティックギターを買った。その値段では、あまりいいギターは買えなかった。いっそ服か財布にしようかとも思ったが、俊介への初めてのプレゼントは安物でもギターがいい。
わたしはアルバイトの帰りに、予約しておいたギターを受け取って俊介のマンションに向かった。
部屋に入ると、彼は細い目をいっぱいに開けて、驚いた。
「ギター、買ったのか?」
「お誕生日おめでとう」
ますます目を見開く。こんなに開けられたんだ。目。
「おお、千春、さすがだな!」
わたしの手からハードケースを奪い取って、金具を開ける。中に入っているアコースティックギターを確認して、彼は天井を仰いだ。
「欲しかったんだ!」
ネックの下にそっと手を差し入れて、ギターをケースから出す。抱えて弦を弾くと、部屋中に音が響いた。
「待てよ、弾けるようにしてやるからな」
俊介はギターに優しくそう言ってケースに戻し、立ち上がって押し入れを開ける。押し入れを閉めて振り返った手には、音叉が握られていた。
いつもチューナーを使うのに、と言うと、新しいギターに対する礼儀だ、と答える。
「意味わかんない」
笑ってしまう。でも声を出すとチューニングの邪魔になるから一所懸命我慢する。
「アコースティックギター、ほんとに欲しかったんだ。中古の持ってたんだけど、こっちに出てくるとき荷物多くて友だちに譲ったから。すげえ欲しかった」
子供のように同じことを何度も言う。チューニングをしながら、ボディを撫でている。コツンと小突くと、しっかりホールに響いた。
「よし」
チューニングが終わった。俊介は一息大きく吸って、ふう、と吐いた。
「じゃあ、ボブ・ディランで、knockin' on Heaven's door」
珍しく、俊介が歌う。大切そうに指で弦を弾きながら、あまり器用ではない歌い方で。新品のギターの鳴りは、少し固い。途中から、そっとコーラスを入れてみる。俊介が歌いながら微笑む。
歌い終わって、俊介は満足そうにうなずいた。そして眩しいものを見る目をして、初めて家に来た新顔のギターを見つめた。
「大事にするからな」
それから俊介はギターを離さず、十一時が過ぎた時に迷惑だからやめるように言うと、毛布を被って弾き続けた。
俊介は次の朝、アコースティックギター用の曲を作ったと言って聴かせてくれた。でたらめの歌詞で、明るく歌う。その日の夕方にはギターに付ける小型マイクを買ってきて取り付けた。ライブでも使うから、と言って。
俊介は、授業の合間も弾きに来られるようにと、そのギターを部室に置くことにした。ギターケースにA4の白い紙を貼って、そこに大きく自分の名前を書き、それより大きく「絶対触るな」と書いた。
学園祭でステージがあるので、わたしたちはその練習に入っていた。不特定多数の聴衆に聴いてもらうのはそれが初めてだったから、練習にも力が入る。
「ここで顔を売るぞ」
俊介が言う。
「おれたちだけで客を集められるようになろうぜ。どのバンドにも負けないようにな」
作曲者である俊介は、各楽器の演奏にも注文をつけた。わたしにも細かく指示を出す。ブレスの位置、ファルセットの使い方、歌詞の符割。
「ちょっと。その歌詞わたしが書いたんだけど。わたしの言葉のリズムで歌わせてよ」
たまらず言うと、俊介は露骨にイヤそうな顔をした。
「言ったところ以外は好きに歌っていいよ。でもそこだけは言う通りに歌えよ」
曲を書いたのは俊介だし、バンドの中で飛び抜けているのは俊介だし、きっと客を喜ばせるのも俊介なんだろう。どうしたって目は俊介に行く。上手さが違う。わたしは自分をそう納得させて、彼の言う通りにした。
学園祭ライブにはたくさんの人が来た。わたしたちは後ろから三番目に演奏させてもらえた。あとの二バンドは他の大学でも人気のある、先輩たちのバンドだった。
黒田くんのバンドは今回も、前回と同じバンドのコピーで出ている。曲数は増え、ドラムとベースも以前より上手くなっていたが、やはり黒田くん一人の上手さだけが目立つ。でも俊介は前回と違い、あまり真剣に見てはいなかった。
「ああいう曲だけやってるようじゃ、宝の持ち腐れだよな、あいつ」
嘲るように鼻で笑って、俊介が言う。でもその俊介の前で、黒田くんはさわやかに、誰でも知っている曲を歌い、大きな歓声を浴びていた。
ライブが終わった後の打ち上げで、わたしたちはトリを務めたバンドのリーダーから、一緒にライブをやらないかと誘われた。
「じっさい、いちばんよかったよ高辻のバンドが」
酔った先輩が俊介の肩を抱く。
「きゃあきゃあ、オンナがうるさかったの、聞こえてただろ?」
「まあ、いつものことですから」
「うちのバンドにも一応、ファンがいてね。ライブやるとそこそこ入るんだわ。一緒にやってライブハウスいっぱいにしてよ」
俊介は何度もうなずく。
「やりますやります。な、やるよな」
わたしたちも、もちろんキツツキのようにうなずいた。
初めての学外ライブが決まって、気持ちよく酔っぱらった帰り道の俊介は上機嫌だった。
「聞いたか? オンナがきゃあきゃあ言ってたらしいぞ」
「黒田くんの間違いに決まってる」
俊介は鋭く睨む。でも目の奥が笑ってる。
「俊介、鏡見たことあんの? あんたギター弾いてなかったら無愛想でゴツゴツしてて、カッコいいとこなんか、ひとつもないんだよ」
「ギター弾いてカッコ良く見えるんだったら、いいじゃねえか。おれ、たいがいギター弾いてるし」
「黒田くんのほうがモテるって。あの人はホントにきゃあきゃあ言われてたもんね。曲もわかりやすいし、まあオンナ受けは負けてるよね」
「うるせえな。ギターの腕で勝ってるから、いいんだよ」
俊介の携帯電話が鳴る音で目が覚めた。時計を見ると五時だ。帰宅したのが二時過ぎだったから、二時間ほどしか寝ていない。
俊介はピクリともしないので、体を揺さぶって起こす。
「……はい」
ぼんやりした声で出た俊介が、次の瞬間大声を上げた。
「すぐ行きます」
言うが早いか布団を飛び出して、着替え始めた。
「だれ?」
「早く着替えろ」
「だから、どうしたの?」
「燃えてる。おれのギターが燃えてる」
俊介は抑揚のない声でそう言いながら、ジーンズのベルトをがちゃがちゃいわせた。
「燃えてる?」
わたしが布団から出るのと、携帯電話が鳴るのとが同時だった。出ると絵里からだった。
「連絡網。部室が燃えてる。原因はわからないって。わたしはとりあえず、向かってる。なんか、よくわかんないし。ただの小火かもしれないって」
もう俊介は玄関で靴を履こうとしている。わたしも行く、とだけ言って電話を切った。連絡網を回し、急いで着替えて俊介を追った。
「鍵、家の鍵、かけなきゃ」
「泥棒なんか入らねえよ」
「そんなのわかんないでしょ」
「もういいって。引き返す時間がもったいないだろ」
どちらともなく走り出す。消防車の音が聞こえ始めた。
人工的な樹林に入ったところで、黒い煙が見えた。小火ではない、と確信する。部室には、俊介のギターがある。
部室は炎に包まれていた。炎は生きもののように自由に動き回っている。黒い塊が真っ赤な中でうねっていて、遠巻きに見ているだけで、ものすごく熱かった。こんなに大きな炎を見るのは、生まれて初めてだ。足がすくんで、動けなくなった。
すでに消防による消火は始まっていた。樹林の手前まで消防車が入り、何人もの消防士が消火活動にあたっていた。あとからまだ、消防車が来るようだ。
普段気にしたこともない消火栓がジャズ研の部室前にあって、そんなところにあったのかと初めて気付く。集まってくる部員の数もみるみる増えて、すぐに人だかりができた。
俊介はわたしのとなりで、唇を固く結んで炎を見つめている。炎に降りかかる消防の水を見ている。ホースから勢いよく出る水は、一直線に炎に飛び込んでいく。まっすぐな水のまわりには霧のような粒が飛び散っていて、明け始めた夜の、最初の光を反射してガラスの破片のように見える。
消えるようには思えなかった炎も、そのうちに小さくなっていった。炎が消え始めてからわかったが、燃えていたのは軽音楽部の部室だけではなく、その背後にあったブラスバンドの部室と二つだった。
消え始めた炎の中から出てきたのは、もう原型を留めていない部室だった。俊介が近寄ろうとする。まだ火があるから制止される。
「おれのギター」
俊介の目は、かつてギターのあったところをじっと見つめていて離さない。
「おれ、なんであんなとこに置いといたんだ。持って帰ればよかった」
俊介はまばたきをしない。
「絶対燃えてる。何も残ってないもんな。ドラムセットも燃えてるんだから、あんなスカスカの楽器が残ってるはずないもんな」
わたしは俊介の手を握った。俊介はされるままになっていて、わたしを見ることもない。
完全に火が消えるまで、わたしたちはそのまま立っていた。もうすっかり夜は明けて、部員のほぼ全員が揃っていた。
「樹林に燃え移らなくてよかったよなあ」
「新しい部室、建ててくれるんかね」
「なんで燃えたんだ? 放火?」
あちこちで声がしている。見回すと、絵里も浩次も立ち尽くしていた。
部室は入り口に近い五分の一ほどを残して、きれいに燃えていた。背後のブラスバンドは全焼していたから、そちらから火が起こったのだろうということだった。
楽器はすべて、奥にあった。俊介のギターももちろん、他の楽器と同じように燃えてしまった。ドラムセットやアンプは燃え残った金属の部分が転がっていたが、アコースティックギターはハードケースとともに、跡形もなく燃えていた。何も残っていなかった。
「家に帰ったら、何事もなかったかのようにギターケースにおさまってそうな気がする」
俊介は立ち入り禁止のテープの前でしゃがみこんだ。
「おれが悪い。あんなところに置いとくんじゃなかった。おまえにも、ギターにも、申し訳ない」
これまで、俊介が自分を責めるのを見たことがない。わたしはうなだれる彼の前で、何も言うことができなかった。
※※※
火事の原因は、ブラスバンドのタバコの不始末だった。跡地でミーティングをしているところにブラバンの部長が菓子折りを持って謝りにきたが、矢島さんにボコボコに殴られた。
ブラスバンド部は野外で練習するようになったが、軽音楽部は電源がなければ練習できない。部室が燃えてから練習はいつも外部のスタジオになり、ライブハウスの出演が決まったというのに今までのように毎日音を出すということができなくなった。
「おまえら、まじめにやれよな」
ライブを二週間後に控えた日曜の練習で、俊介が突然演奏をやめて声を荒げた。
「そのブレイクは完全に揃えなきゃ意味ねえって。考えたらわかるだろ」
俊介のすぐとなりに立つ絵里が、不服そうに言い返す。
「でも二回同じ場所でブレイク入れるより、一回にしたほうが効果あると思うんだけど」
俊介は細い目を尖らせて絵里を睨みつける。
「おれの曲だ」
「おい」
浩次が立ち上がり、ドラムセットの向こうから大きな声を上げた。
「曲の解釈は話し合えばいいだろ。何でも作曲者の指示かよ。おれらリズムマシーンじゃねえんだぞ」
「曲の解釈だと?」
俊介が肩からギターをおろす。やばい。わたしはいつでも彼を止められるよう、マイクをスタンドに置いた。
「どうせわかんねえんだから、考える時間が無駄だっつってんだよ。おれの言う通りに叩けば出来上がんのは知ってるだろ」
「調子乗んじゃねえぞ」
浩次がシンバルを蹴ってドラムセットから出る。俊介も浩次に向かって行こうとした。絵里がわたしに目で訴える。わたしは軽くうなずいて、俊介の腕を取った。
「いい加減にしなよ。練習しなきゃ、日がないんだから」
「日がないから言う通りにしろって言ってんだろうが」
ちらっとわたしを見てそう言うと、俊介はまた浩次を睨む。
「アイデア出して、一回やってみて、それで違うんだったら却下したらいいじゃない。言う通りにしろなんて、そりゃ気分悪いって」
俊介は腕を振り払って、その手でわたしの肩を突き飛ばした。よろけたわたしを絵里が支える。
「その時間がもったいないだろ。完成した曲はおれの頭ん中にあるんだよ。一回やれって言うんなら、おれの言ったのをまずやれよ。おまえら言ってもすぐにはできねえじゃねえか。ただでさえ練習時間少ないんだぞ。わかってんのかよ」
浩次が俊介の胸ぐらをつかんだ。
「おまえ、ふざけんな」
「やめてよ、もう、やめてよ」
絵里が声を上げる。
「時間がなくて焦ってるのはみんな一緒じゃない。ケンカしてる時間、もったいないよ。わたしが言い返したのが悪かったから、今回は俊介の言う通りにやろう」
浩次が手を下ろしながら、それでも俊介と合わせた鋭い目の光はゆるめない。
「こいつの言う通りにすんのかよ」
「そういう話はスタジオ外ですればいいじゃない。部室じゃないんだから、時間限られてるんだよ。今は少しでも練習しようよ。」
「ばかばかしい」
浩次がやっと俊介から視線を外し、ドラムセットへと歩いた。納得しないまでも練習を再開するのかと思ったら、ドラムスティックを自分のカバンにしまい、スタジオの二重扉を開けた。
「帰る。叩く気分になれねえ」
俊介はあさっての方を向いている。絵里が浩次の名を呼んだが、浩次はそのまま出ていってしまった。
「ほっとけ」
俊介が言う。もう練習をする空気ではない。
「仕方ないね。今日は終わろう」
わたしが言って、全員楽器を片付け始めた。ギターを担いで俊介が、何も言わずに出ていった。
「ごめんね」
絵里が呟く。
「なんで謝るの。俊介が悪いよ。わたしも腹立つもん、あいつブレスにまで口出すから」
わたしが言っても、絵里は首を振っている。
「千春はうまいし、自分で歌詞も書いてるから。わたしは俊介の言う通りで、言われたことすぐにできないし、俊介から見たら曲について口だすなんて百年早いって感じだと思う。冷静に考えて、これまで通り俊介の指示通りに作っていくしかないって思うの」
絵里はベースのソフトケースを抱いてアンプに腰かけた。
「でもあいつ、傲慢すぎるよ。いくらうまくても、あんな言い方ないよ」
わたしの言葉に、絵里は少し微笑んだ。
「浩次、次の練習来るかな」
わたしも絵里を真似て微笑む。
「絵里が来てって言ったら来るよ」
次の日、俊介から電話がかかってきた。開口一番、田舎に行きたいと言う。何だかんだ言って昨日のことがショックだったんだろうと思ったら、アコースティックギターを失った傷心旅行に行きたい、と言う。
わたしたちは共にアルバイトのない木曜の朝、大学には行かず最小限の着替えだけを小振りのカバンに詰めた。
俊介の選んだ旅先は日本海の手前にある小さな町だった。そこにある、人の手の入っていない川を見たいと言う。わたしたちは特急に乗って二時間の町を目指して出発した。
特急の中で、俊介はずっと窓の外を見ていた。何か考えているのだろう。でも無表情な彼の考えていることは、たいていの場合わからない。音楽を通してしか、わたしは彼を知らないのではないかと、途端に不安になった。
「このあいだ」
わたしが声を出しても、俊介はこちらを見ない。
「黒田くんが、ライブ来るって言ってたよ」
窓に映る俊介が、わたしを睨む。
「二人で会ったりしてないだろうな」
「なんでそうなるの」
笑うと俊介の目がますます鋭く光る。
「あいつのほうがカッコいいんだろ。それにあいつのほうが優しいぞ、きっと」
「いくらカッコよくて優しくても、音楽が違いすぎるよ」
俊介は何も言わずにまた、窓の外に視線を動かした。ぽつり、と雨粒が窓に落ちた。
「ブライアン・メイのビブラート、聴きたいもん。あんなふうに弾けるのは、俊介しかいないでしょ」
「だったら」
ようやく俊介が体の向きを変えてわたしを見た。
「だったらなんで、おれの思うように歌わないんだよ」
「え?」
「なんでおれの頭ん中の音楽がわからないんだよ。おまえだけはわかると思ってた」
俊介の背後で、強い雨が窓を打ち始めた。
「それって、めちゃくちゃ」
「絵里とか浩次がわかんなくてもいいよ。でもおまえは、わからなきゃおかしいだろ」
「俊介だけの音楽じゃないでしょ。あんたの中から出たときから、あんただけの音楽じゃないんだよ。わたしに見えてる景色だってわかって欲しいのに、俊介は押し付けるだけ」
彼は腕組みをして柔らかいシートにもたれかかる。横目でわたしを睨みつける。
「でも曲を聴いておまえがそこから言葉を出してくるときは同じものを見てるじゃないか。それ、ずっと見てろよ。なんでそこから離れるんだよ」
わたしは返事をしなかった。俊介から視線を外してわたしもシートにもたれる。
しばらくしてから、俊介がごめん、と言った。
「そういうこと言わないですむように、旅行に来たんだった」
雨の音がガラスを通して聞こえるまでになっていた。俊介はまた、窓の外を見た。
「おまえの買ってくれたギター、かわいそうだった」
彼が静かに言う。
「俊介のせいじゃないよ」
わたしたちはそれから一言も話さずに、到着を待った。
着くと大雨だった。折りたたみの傘を開いて駅を出る。駅前のロータリーでタクシーを拾って、宿の名を告げた。
「こんな何もない田舎に、若い人がご旅行ですか」
運転手がバックミラー越しに、じろじろとわたしたちを観察している。
「川が見たくて」
俊介が無愛想な声で答える。
「たしかに川はありますけど、川なんてどこにでもあるんじゃないですか」
ひ、ひ、と笑って、運転手はスピードを上げた。田舎道で対向車がほとんど来ないとはいえ、雨の中少しこわい。
「まあ、魚は旨いですよ。でも旨いのは海の魚だねえ。川見たくて来るなんて、物好きだね。二人ならどこでも楽しいだろうけどね」
「海より川って気分なんでね。海はちょっと、強すぎる」
訳の分からないことを抑揚のない声でしゃべる男に、運転手はもう話しかけなかった。
山のふもとの宿に着く。ログハウス風の外観。インターネットで見るより大きい。入り口の前に広い駐車場があるが、車は三台しか停まっていなかった。砂利敷が雨に濡れて光っている。
部屋にカバンを置いて、わたしたちはすぐに出掛けた。受付で大きな傘を一つ借りて、二人で中に入る。俊介がわたしの肩を抱いた。
「すごい雨」
傘を打つ雨の音にわたしが言うと、俊介は久しぶりに楽しそうに笑った。
「傷心旅行にぴったりだ」
砂利敷の駐車場を来たほうとは逆に歩き、舗装された道路に出る。錆びたバス停の横で、なぜか季節外れの鯉のぼりが雨に濡れている。歩道はないが、車も通らない。少し山の方に歩くと川が見えた。広くて流れの速い川。雨のせいもあるかもしれない。大きな橋の上を歩く。
真ん中あたりで足を止めて、川を見下ろす。町なかの川とは違い、川べりに下りられるような通路はなかった。ゴロゴロした大きな岩が両岸にあって、でも川幅は広い。山を抜けてきた勢いそのままに、まっすぐ川下へと向かっていく。整備された川しか知らないわたしには、とても荒々しく見える。
「川はいい」
すぐ横で彼が呟く。
「でも川に落ちる雨は、もっといい」
彼の目はまっすぐ川に注がれている。その言葉は彼の音楽のようにわたしに届いた。目の前の景色が実際に見えているものなのか、言葉を通して見えているだけなのか、わからなくなるほどだった。
「思った通りの川だった?」
わたしが聞いても、彼は返事をしない。少し経ってから、静かに口を開いた。
「おれ、自分が人を傷つけてるの、よくわかるよ。おれが何か言うと、自分の外にあるモノとぶつかるんだ。昔からそう」
俊介は川を見下ろしている。傘で跳ねる雨の音が、時折彼の声をかき消そうとした。わたしは注意深く、彼の言葉を拾う。
「人にいやな思いなんか、させたいわけないんだ。なのに自分で自分を持て余す。ときどき、自分だけ他の奴らより境界がハッキリし過ぎてるような気がするんだ。みんな、もっとうまくやってる。外の世界に合わせて。溶け合うみたいに自我なんか消して」
「わたしだって、そんなにうまくできないよ。やっぱり大きな自我があって、それが境界になってる。みんなそうなんじゃないかな」
俊介がすぐ目の前で、わたしを見つめた。
「みんなそうなんじゃないか、って、本当に、本気で信じられる? おれは自分のことしかわからない。だからおれのことだって、だれもわかるわけないんだろうと思う」
突然、雨粒がわたしの髪の毛を濡らした。俊介が傘を外したからだ。雨は彼の髪も、肩も、頬も濡らした。
「自分と外との境界なんてなくなればいい」
彼は濡れながら、また川に落ちる雨に目をやった。秋の終わりの雨は、体温を奪う。わたしは何も言わず、彼に体をくっつけた。濡れた服が、わたしと彼のあいだにべったりとへばりついていた。
翌日には雨が上がっていた。俊介の傷心も雨と一緒にどこかへ消えた。彼は朝からギターを持ってくればよかったと何度も言って、うるさかった。
「最高にいい曲ができたぞ。早く帰ろう」
それでわたしたちは朝食を食べてチェックアウトするとすぐ、どこにも寄らずに駅に戻り、特急券を買った。絵里と浩次へのお土産も買わなかった。
「土産は新曲だ」
行きとは別人のように俊介は特急ではしゃいで、ビールを何本も飲んだ。
「出演バンドでいちばんいい演奏するんだ。そのうちスカウトが来て、おれたちはメジャーデビューが決まる。おれと千春がいる限り、いい曲は生まれ続けるんだから、うまくいく」
特急は雨のやんだ景色の中を通る。まるで初めての土地のように。
俊介は帰るとすぐ、ギターを手に取った。歌詞は「あー」だけだったが、最後まで出来上がった新曲を歌った。
「もう一回」
二度目も細部まで同じだった。俊介の中には景色があって、それをなぞるように歌っているだけなんだ。
三度目に、わたしは彼の中の景色を拾い上げて言葉にする、いつもの作業を始めた。
「川に落ちる雨」
わたしは言った。
「混じり合ってわからないのは雨粒だけじゃない。どこかで子供のころ聴いた歌が流れてて、体が記憶の中に散らばっていく」
俊介が手を止める。
「こうしてる時に、境い目がなくなることってあるよな?」
「しょっちゅう、ある」
「言葉は境界をはっきりさせるものなのに、ときどきこうして、境界をこわす」
何度も歌いながら言葉を乗せて、その日のうちに新曲「川に落ちる雨」は完成した。
週末の練習に、浩次はちゃんと来た。俊介は練習で必要以上に指示を出さなくなり、少しずつ、俊介以外からも編曲のアイデアが出るようになった。
※※※
シアー・ハートアタックはたまに衝突しながらも、一年が終わるころにはあちこちから一緒にライブに出ないかと誘われるようになっていた。
同じように人気が出たのはやはり黒田くんのバンドだったが、彼らはコピーバンドだったので一緒になる機会はほとんどない。
二回生になって新入生が入って来るかというころ、練習の休憩時間に浩次が、噂だけど、と前置きして黒田くんの話を始めた。
「あいつ、デビュー決まったらしいぞ」
俊介の顔がこわばる。
「うそだろ」
「うそかもしれんし、本当かもしれん。ライブ見てたスカウトが名刺置いていったって」
「だってコピバンじゃん」
「だから、バンドでデビューじゃなく黒田だけ。曲書けるヤツと組ませりゃいいんだろ。あいつのルックスとギターセンスだけ買うってことなんじゃね?」
絵里もうなずいている。
「だって黒田くんのファンって多いもん。女の子の数すごいじゃん。あり得る」
「ありえねーよ」
俊介は笑って、ギターをスタンドに掛けた。
「ありえねーって」
そう言って腕組みをする。
「噂なんだろ」
「そう。うわさ。でも火のないところに煙は立たんぜ。おれだって、なんで? って思うけどさ」
新入生が入ってきて歓迎会をするころ、その噂は本当だということがわかった。燃えた部室の代わりに建てられたプレハブの中でお披露目ライブの演奏順を決めているとき、今年度から部長になった矢島さんが、黒田くんがデビューすると言った。
「だから悪いけど、オオトリは黒田のバンドでいいかな。あいつここで演奏すんの最後だと思うし」
だれも異議を挟む者はいない。俊介も何も言わなかった。
新入生の中には、明らかに黒田くん目当ての女の子もいた。音楽は聴くだけで、楽器なんて触ったことないです、という子が下手な歌を歌っている。お披露目ライブでは誰が上手いか、ではなく、誰がかわいいか、という話題で客席が盛り上がるほど、女の子が多かった。
「音楽やりに来いよ」
俊介は興味なさそうにそう言って、ステージを睨みつけていた。
黒田くんは最後の演奏をした。相変わらずコピーバンドで、せっかくの上手さを発揮できていない曲を演奏した。俊介はドアを開けて、ライブハウスから出ていった。
打ち上げの席ではやはり、黒田くんが囲まれる。仕方ない。デビューが決まったんだから。わたしがそう言っても、俊介はつまらなそうな顔を隠そうともせず、先輩たちと早いピッチで飲んでいる。
わたしは俊介の傍を離れ、絵里と一緒に黒田くんにお祝いを言いに行った。
「おめでとう。がんばってね」
「CDできたら持ってきてよね。悔しいし買わないんだから」
「ありがとう。どうなるのか全然わかんないんだけど、できる限りやってみるよ」
そう言って笑った黒田くんは自信に満ちて見え、わたしに突然強い憎しみが湧いた。おもちゃみたいな音楽しかしないくせに。いくら上手くても、技術だけのくせに。ちやほやされて、きゃあきゃあ言われて、そうやって上っ面だけの音楽を手に、何も残さないギターを弾いていればいい。バカみたいにステージ上で笑って、ストロークだけのギターを弾いて。
「そうそう」
黒田くんが笑顔のまま声を出したから、わたしはそれ以上考えなくてすんだのだ。
「『川に落ちる雨』、すごくいいね。ぼく、あの曲好きだな」
黒田くんは小さな声で歌い出した。
「雨は川に落ちて行く お互いに溶け合って」
そして、えへへ、と笑った。
「ぼくもがんばるよ」
健康的な笑顔をわたしは直視できない。溶け合えない俊介を、わたしを、音楽から離れたところでは存在すらつかめないわたしたちを、おまえなんかにわかるのか、
とまで考えて、わたしは笑ってありがとうと言った。
急に音楽がつまらなくなった。せっかくの練習も、一曲弾いたところで止まってしまった。
「なんかさ、結局は一般受けとか、見た目がいいとか、そういうことなんかな、音楽って」
浩次が言う。
「だって黒田より、絶対俊介のほうがうまいし。歌だって千春のほうがうまいよ。おれたちにしかできない音楽やってるって思うよ。だけど自己満足なのかな。音楽なんかで何も伝わらないのかな。そういうこと見てるのって演者だけで、実はどうでもいいことなんかな」
いつもの俊介なら、何言ってんだ、ターゲットが違うだろ、とか言うはずなのに、黙っている。わたしも浩次の言葉にうなずいてしまう。
「そうかもしれないね」
だれも否定しない。絵里はうつむいて、ベースを抱えていた。練習スタジオには、ぶーん、という機械音だけが響く。
「わたしは、好きだよ」
長い沈黙のあとで、絵里の声がした。
「わたしは、だれかに伝えようとか、あんまり考えられなくて。ただ弾いてるのが好きだよ。俊介におこられながら、でも目の前で音楽ができていくの、好きだけど」
絵里はそこで顔を上げて、俊介を見た。
「音楽だけでいいと思うのって、何も考えてない?」
俊介はしばらく絵里を見つめていた。そしてアンプを通さないジャリっという生の音で、Emを鳴らした。
「音楽だけでいい」
その歌詞は、憂鬱なコードによく乗る。いつかこんなことがあった。記憶と現実が溶け合う。
「そう思える絵里は脳天気だ」
俊介はギターを鳴らして歌うように話し続ける。
「脳天気で脳天気でどうしようもないけど、そんでやっぱり黒田のことも悔しくて腹が立ってどうしようもないけど、それから」
わたしを見る。
「音楽から離れると不安で不安でどうしようもないけど、でもたしかに、音楽してるときだけは、そのときだけは」
そして俊介は手を止めた。
「なに言ってんだ、おれ」
浩次が笑う。
「ギタリストはロマンチストなんだってよ」
うん、と俊介が言う。ギターの音量つまみを回した。ギターの電気信号がアンプに流れ込んで、低いうなるような音がする。
「川に落ちる雨」
マイクを通して俊介が言う。ドラムがカウントを始める。
ギターとベースが同時に入る。
あの日二人で見た景色が、狭い室内に広がる。
わたしはその記憶を丁寧にたどって歌うだけでいい。
(了)
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