火へのターム、&、……  奥野 忠昭


 

 私はパソコンの前に座った。電源を入れたまま放置していたため液晶画面は黒い。
 中央には私の顔や肩がはっきりと映っている。しかし、その左側の玄関のドアはかなり薄い。玄関には外からの光がほとんど届かず、しかもそこにある電灯が消されている。
 パソコンの右横には木製の大きな机がある。その前には、部屋に一つしかない窓が薄いレース状のカーテンで覆われている。光は入ってくるが外は見えない。例え見えたとしても、団地と呼ばれていた頃に建てられた鉄筋コンクリートのビルなので、狭いベランダと防護のための鉄柵があり、さらにその向こうには家々の屋根が見えるだけである。
 さらに右側の壁には、数年前に駅にあったポスターが貼られている。若草山の山焼を撮したものだ。
 左側に目を移すと、壁側にそって組み立て式のステンレスの棚がある。棚には積み上げ式のプラスティックの箱がいくつか重ねられているが、プラスチックの箱の右側が灰色になっていて、そこにも何かが映っている。数字がいくつか並んでいるようにも見える。おそらく、対面の壁に掛けられているカレンダーの数字かもしれない。そう言えば、すでに十月が終わり、十一月になっているのにまだ十月のままほうってある。
 私は何げなく、アイコンをクリックして、先日、失業保険をもらうための手続にハロー・ワークに行った帰り、小型のデジカメで撮った公園のスナップ写真をB5ほどの大きさに映しだした。
 公園の写真には、手前にはベンチが一つあり、中年の男が一人、カップ酒の蓋をとって飲んでいる。近くには、すでに学校を終え、遊びに出てきたのか、小学校六年生ぐらいの少年がひとり、サッカーボールを蹴っている。その向こうには、また、ベンチがあり、そこには三十歳を少し過ぎたぐらいの女の人がひとり、足を組んで、本を読んでいる。足を組んでいるのでシューズの底が見えている。黒っぽい灰色をしている。
 被写体には西日が強くあたっているため、ところどころに白トビがある。ただ、女、少年、男と、斜めに流れるように撮ったのが工夫と言えば工夫である。
 女は一番遠くに写っているので、しかも、ピントが一番手前のカップ酒の男に来ているので、少しぼやけているが、かなりのところははっきりしている。顔は丸顔で現代ふうに小さい。髪は真中で分けられていて、その髪が耳の下で束ねられていて、下の方だけが、再び、顔からはみ出して見える。目は細くて少しへの字型をしている。眉毛とよく似ているので、目が眉毛のコピーのような気がする。額や頬の肌は少し青みがかっている。疲れているのか、それとも緊張しているのか。白いシャツの上には紺色のセーターを羽織っている。ブランドものとはほど遠いものだ。
 再び、右側の机の上に目を移すと、左端には先程まで読んでいたフランスの小説の文庫本が置かれている。作品は、新しい文学として、かなり以前にもてはやされたものだが、読むのにかなりのエネルギーが要った。一日二〇ページも読めればいいほうで、すでに、一度は読み終え、二度目の読みに入っている。読むのにたいへん苦労するものだが何となくおもしろい。できたら私もこんな小説を一度書いてみたいものだ。
 その横には、たたまれた今日の新聞が置かれている。先程、社会面に少しだけ目を通したのだが、あまりたいした記事は載っていなかった。ただ「解雇を憤って放火の準備で逮捕」というのが少し興味をひいた。私も先頃会社から解雇されたからである。記事に依れば、店に不都合な働きかたをしたので解雇された男が、事務所へ行って、これからここを燃やしてやる、とわめいたらしいのだが、その男が、家に帰ってからしばらくして灯油を買いにガソリンスタンドへ行ったところを「放火予備」ということで逮捕されたということだ。「放火予備」などという罪があったのを初めて知った。もし彼がひょっとして自分の家の石油ストーブのためにそれを買いに行ったのなら、まったく冤罪ということになる。燃やしてやるとわめいたって、解雇されたのだからそれくらいのことは言わしてもらいたい。
 机の手前の方に目をやると、表面に白い輪ができている。机の表層のニスが浮き上がっている。きっと、先程、そこに置いていたコップの痕なのだろう。熱いお茶が入っていたので、熱が陶器の底を通して伝わり、机の表面に何らかの刺激を与えたのだろう。それとも、底に付着していた水が机を刺激して付いたものか。いずれにしても、少し前、陶器の茶碗がそこに置かれていたことは確かだ。存在していたものには、必ず存在した証がほんの少しだけ残る。 
 私は、白く浮き上がった輪の形から先程の茶碗を想像した。土色の釣り鐘を逆にしたような茶碗がそこに置かれていた。それを私が流しへ持っていき、洗ってコップ立てに逆さに置いた。待てよ、そこに残っている丸いコップの痕は、コップがそこにあったということを示す痕跡なのか、それとも、そこにコップが置かれるまでのいきさつを示す痕跡なのか、あるいは、今、台所の食器入れの中にあるコップの痕跡なのか。
 例えば、私の頬に殴られた傷があるとする。それは誰かに殴られたことを示す痕跡なのか、傷をつけられるに到るまでのいきさつを示す痕跡なのか、さらには、その後、殴った彼に復讐を企てようとする私の未来の行為の痕跡なのか。そんなことを考えていると、何だかよくわからなくなる。ただ、痕跡も時間の中にあるということだ。痕跡とは時間の流れの中にある節目のようなものかもしれない。
 今度は、机が窓のカーテンに接するほどのところを見ると、ボールのように丸められた紙が転がっている。先程、それを丸めてゴミ箱に棄てようと思って、机の上に置いたのだが、何かにあたってそこまで転がっていったものだ。それには、先日、再就職のために受けた会社の面接の結果が書かれている。残念ながら採用はできないと書いてある。ゴミ箱に早く放り込まなければならないと思うのだが、立ち上がってそれをするのがおっくうなのでそのままにしてある。
 私は再び、公園の写真に目を移す。今度は中年の男の方を注視する。ちょうど私と同じ年格好だ。おそらく五十歳の少し手前ぐらいだろう。何だか、やけ酒を飲んでいるような気がする。何があったのだろうか。会社で成績が上がらず、上司に小言を言われて、がっかりしているのだろうか。「どうしたのかね、君の営業区域の成績がさっぱりではないか。意欲が低下しているのと違うか。成績が新米の営業部員よりも悪いというのはどういうことかね。係長がこんな成績じゃ、下に示しがつかない。身体でも悪いのと違うか」これは、先程、コップ酒の男が言われた言葉だ。いや、それはまた、私が以前、課長に言われた言葉でもある。春の人事異動で営業が最もやりにくい区域に回された。それも私をリストラをするための上司の策略のひとつだったのかもしれない。
 カップ酒の男の髪の毛は七、三に分けられている。分量は平均的で、首筋が少し長め、後ろからしか見えないが、痩せもせずふっくらともしていない、これも平均的な様子である。顔が見えないが、おそらく面長のような気がする。目も少し窪んでいるのではないか。しかし、それも目立つほどではない。鼻も高からず低からずといったところか。これといって特徴のない、どこかでいつも見ている男のような気がする。ひょっとして私が彼の横に立っても、区別が付かないかもしれない。だが、彼はまだ失業はしていない。証拠がないがそう思う。
 男の目はうつろだ。何か、抱え込んでいる問題に思考がとらえられていて、他のことが何も考えられないようだ。それは彼の肩の感じでわかる。少年をも、女をも、その向こうの林をも見ていない。視線は前を向いているのに、そこには何も映っていない。飲んでいる酒もおそらく何の味もしていないだろう。
 男の手先に目を移すと、カップ酒を持っている手が少し震えている。疲れているのかもしれない。いったい、男はここに来る前、どこで、何をしていたのか? カップ酒と手の震えは、彼が先程まで関わっていた出来事や彼自身の有様の痕跡。だが、その痕跡はどういうことの痕跡なのか、私にはわからない。
 私は、マウスを動かして、一度、写真を消し、線のあるルーズリーフのような白紙の画面を出す。何も書かれていない画面をしばらく眺めてから、キー・ボードに手を這わせて、ゆっくりと言葉を一つだけ打ち出した。「困るのですよ、こういうことは」
 やけ酒を飲んでいる男がつい先程そう言ったような気がしてならないからだ。いや、そうではなく、私が、面接結果の通知を読んだとき、つい口に出して言った言葉かもしれない。いやいや、そうではなく、他の誰かがそう言ったのだ。「困るのですよ、こういうことは」
 私はその後をつづけるため再びキー・ボードの上に指を這わす。

 
「困るのですよ。こういうことは」
 わたしは、低いが鋭い声をあげたつもりだ。それに加えて、力を込めて、取り調べの刑事を睨み付けた。それから、刑事の額の辺りを注視した。額はかなり広い、毛の生え際には産毛がなく、長い毛のみで、それがきっちりと後ろに引っ張られている。一本、一本がはっきりと見える感じだ。額は油っぽく、上の蛍光灯を映して柿色に光っている。わたしより十歳は若いようだ。
「これは取り調べではなくて、あくまでも参考人としてご足労を願っているわけでして。あなたの上司にも、その点は充分説明してありますからご心配なく」
「上司がわかってくれていたとしても、同僚はそうはいきませんよ。あの人が警察に呼ばれた、というだけで役所中の噂になります。うさんくさい人というレッテルが貼られます。それに、これでは取り調べとあまり変わらないではありませんか」
「以前、何か取り調べを受けたことがあるのですか」
「とんでもない、そんなことは一度も」
「だったら、取り調べといっしょなんて言わないでくださいよ」
 取り調べはこんな生やさしいものではないぞ、と言いたげだった。
「だから、五日前で少し記憶は薄れてはいるでしょうけれど、よく思い出して、したこと、見たことを言ってもらえばいいだけですよ。それを隠しているのは一番よくないことです。隠しているというのは何か後ろめたいことがあるということですから」
「だから、先程から何度も言っているように、役所を出てからのことは、ほとんど何も思い出せないって。これ、医学的にもあり得ることだと証明され、名前までつけられているんですよ。一過性全健忘と。つい最近のテレビで知りました。ちょっとした海馬の異常からきているらしいのです」
「そういうことってあるかもしれないけれど、あまりにも都合がよすぎはしませんか。火が上がる寸前にあなたにとてもよく似た人がその廃屋から出てきたという証言も、その人がそこから出てくる様子を携帯で撮ったという人もいるんですから。写真だってあるんですよ。もちろんはっきりとは写ってはいませんけれど。撮った人はあなただ、市役所に勤めている人だと言っているもので。あなたが何らかの事情を知っていると思うのは当然でしょう。あなたはそこへ行っていないというのなら、それを証明してもらわないと」
「そんな馬鹿な。私が写真に撮られているなんて、そんなことはあり得ません」
 よく似た顔付きの人間なんてごまんといる。それに、服装だって、よく似たものを着ている人がたくさんいるだろう。だが、わたしの記憶が曖昧。まさか……。わたしがそこへ? そんなことはあり得ない。
「そこへは行っていないんですね」
「いいえ、行っていないとは言っていません」
「やっぱりね。でしょう」
「いや、違いますよ。ほとんど思い出せないんですから、行ったとも、行かなかったとも、はっきり言えなかっただけで。いいえ、そこへは行っていません。行っていないということを証明さえすればいいわけですね。絶対、証明して見せますよ。先程も何度も言いましたように、行く予定のところははっきりしているんですから。そこへ向かっていたはずです」
「ほほうー」
「絶対、別のところで、わたしを見たっていう人がいるはずです」
「えらく自信があるんですね」
「そりゃありますよ。そこへ行こうとしていたんだから。その時は、何もぼけてはいないんですから」
「午後四時十分ごろ、あなたは別のところにいた、ということさえ証明されれば、それでいいんです」
「でも、二日か、三日は待ってくださいよ。調べるのに時間が掛かりますから」
「最大、三日だね。四日目には再びあなたにお目にかかりますから。幸運を祈りますよ」
 刑事はわたしを見て、にやりとする。目は鋭い。言い逃れは絶対許さないぞと言わんばかりの目だ。最後に「証人が見つかれば、警察に証言してもらえるという確約をとっておいてくださいよ。それは絶対にお忘れなく」と付け加えた。


 私は、クリックして再び写真を映しだし、自分の目を写真に近づけ、男を見つめた。
 カップ酒の男は、手の震えを止め、右の人差し指でカップ酒の底をしっかりと支えている。左手もコップに軽く触れている。顎もコップの側面に触れている。しかし、酒を飲むのをやめ、はじめて、彼は視線を公園の入り口の方へ向けた。
 若いサラリーマン風の男が入ってくる。紺のスーツ、縦縞が入っているようだが、よくわからない。まだ、仕事中といった感じだ。エネルギッシュで疲れた感じを受けないが、顔がどうも苦痛に満ちている。横側が小さく写っているだけなので、細部のことはよくわからないが、そう見える。きっと、私の心境がそれに投影されているためだろう。私も、ハロー・ワークからの帰り、あんな顔付きをしていたのに違いない。だが、あの歩き方は、失業者の歩き方ではない。失業者はあんな颯爽とした歩き方はしない。ゆっくりと歩く。でも、その颯爽さは、偽の颯爽さかもしれない。彼もまた大きな不安を抱えて歩きまわっているのではないか。
 しかし、若い男もカップ酒を飲んでいる男も、失業はしていない。彼らは働いている。それに比べ、私は失業している。そう思った途端、何とかしなけりゃ、と一気に焦りが襲ってきた。仕事は何でもやるつもりなのだが、履歴を出すと、以前の会社でのお仕事を拝見すると、どうも私どもの会社には向いていないようで、と即座に断られる場合が多い。失業保険も残り少なくなった。後少しで打ち切られる。何とかしなけりゃ。
 視線を再び女に向ける。女は何のためにこの公園に来ているのだろうか? 本を読むため? そんなことはないだろう。本を読むのなら喫茶店にでも入るだろう。それに、あの目付きは、活字から目をそらし、視線を紙面から滑らせるようにして公園の入り口あたりを見ている。ひょっとして、彼女もそこに現れたサラリーマン風の若い男を見ているのかもしれない。若い男が彼女の待ち人なのか。 
 そんなことはない。あの目付きには、喜びがまったく感じられない。おそらく待ち合わせている恋人がまだ来ないので苛々しているのだ。
 女の前にいる少年がこちらに向かってサッカーボールを蹴る。ボールはカップ酒の男の前まで転がってくる。少年は走って来て、それを拾おうとして、ベンチの下を見る。ボールを拾う前に何かを拾う、拾ったものを右手に握りしめながらボールを両手で挟むようにして持つ。右手は何かを握ったままだ。少年は拾ったものをカップ酒の男に見つけられ、何かを言われないかと、少年は何度もこちらを注視しながら後ずさっていく。確かに、ボールを挟んでいる右手はパーではなく、グーになっている。今拾ったものを握りしめているのだ。
 ちょっと待てよ、少年はこちらを向いているが、彼の視線はカップ酒の男から完全にそれている。少し左側へ、さらに上を向いている。もっと高いものを見つめているのだ。
 ああ、と私は声を出す。男の腕や左側のベンチに少しだけ黒い影が写っている。それは確かに写真を撮っていた私の影だ。あそこには私がいたのだ。少年は私を見ている。私が何を拾ったのか気づいたのに違いないと思いながらこちらを向いているのだ。影は、あのときの私の痕跡。子供はいったい何を拾ったのか?


 わたしは、警察の庭から路上に出る。陽は陰っているが、雨が降りそうでもない。時計を見ると、まだ、午後一時過ぎだ。十時に警察に入ったのだから、調べられたのは、実質、二時間もなかったことになる。だが、わたしの感覚では一日中取り調べられたという思いがする。疲れた。路上の上でもいい、ごろりと横になりたい。横になると、すぐに睡魔に襲われそうだ。だが、この疲れはいつもの疲れとは違う。身体の芯のところが疲れている。
 あの日も役所を出るとき、疲れた、と思った。その疲れと今のとはそう大差はない。役所を出るときからわたしは少しおかしかった。眠たかった。ぼんやりとしていた。
 午前中、五十箇所ほどに電話を掛けた。掛かったのはそのうち半分もなかった。あなたの税金がまだ払われていません。住民税が二年以上滞納されています。手紙も二度お出ししていますが未だに何の音沙汰もありません。どうなっているのですか、といった意味のことを何十回も喋った。返答もほとんどが同じだ。すぐお払いします、と言うもの。何言ってるんだ。払う金がないんだ、金が入ったら払うよ、と言うもの。何でこんなもの払わなきゃならないんです。役所になんか何の世話にもなっていないのに。税金泥棒、電話など掛けてくる暇があれば、市民の役に立つことでもしろ、と居直るもの。だが、徴収率のいいのは最後のもので、済みません、明日払います、というのが払いが一番悪い。話の最後には必ず住民税を払わないとたいへんなことになりますよ。財産の差し押さえに参ります、とできるだけ鋭く言う。
 午後は、三年以上滞納している者の家を訪問することになっている。それでも払わなければ最後の手段となる。それを告げに書類ではなく、役所の人間が行くことになっている。物を差し押さえて競売に掛けたって、いくらにもならない。それよりも払ってもらう方がお互いにいい。そういう市長の意向で、わたしたちの市では税務課の滞納徴収係がそれをする。おそらく、わたしはその仕事のために役所を出たのに違いない。しかし、それもはっきりとしない。書類上では誰を訪問することになっていたかがわかっているのだが、どこを通って、どのような家を訪問したのかがはっきりとしない。本当に訪問したのかさえわからない。
 とにかく、まず、役所の食堂で寿司定食を食べたことはわかっている。種類を覚えているのは、いつも昼飯はそこでそれを食べるからである。種類は変えたことはない。役所を出たこともはっきりしている。担当地域に行けるバスのバス停は役所からかなり離れたところにある。役所を出て、大通りをバス停に向かって歩いていた。だが、それが起こったのがどの辺りを歩いていたときなのかがはっきりとしない。バス停近くの喫茶店に立ち寄った後なのか、それとも立ち寄る前なのかも、定かではない。
 とにかく向こうから大きな荷物を両手にぶら下げたおばあさんがときどきよろけながらこちらに向かって歩いてきた。彼女に少しでも身体が触れれば、よろけて転んでしまいそうなので、わたしは車道側によけようとした。途端、わたしの足が何かに蹴躓き、その拍子に今度は足が歩道と車道を区別するブロックに蹴躓き、身体が大きく傾いて、前のめりになり、あっという間に倒れた。頭を手で覆ったが、ブロックのところに頭を打ち付けた。臑もコンクリートに打ちつけた。一瞬、世界が暗くなった。だが、すぐに暗さがとれ、起き上がって、おばあさんを見た。おばあさんは相変わらずよろけながら歩いていた。わたしは、臑の辺りを眺めた。ズボンをめくりあげた。臑のところがこすれて血が滲んでいた。だが、痛みはそれほどでもない。頭を振ってみた。痛くなかった。ただ、眠い、疲れた、といった感覚が以前よりも増したことは確かだ。
 わたしはあのときと同じように今も黒くて厚い布でできた鞄を持っている。それを眺めた。少し離れてみると何の変哲もない、五日前と同じ鞄に見える。だが、それを手繰り寄せ、何か変わったことがないか、何一つ怪しいものを見逃さないぞといった鑑識の警察官のように眺めると、一筋、傷がついている。それもかなり長い傷だ。確かに転んだとき埃がいっぱいついていたのでそれを思いっきり払ったのだが、その埃が傷の中にかすかに残り、一本の傷の線となって残っている。これが、路上に倒れたわたしの痕跡。この痕跡の向こうにわたしの五日前の躓きの事故があり、その後の五日間があり、今がある。だが、これはわたしのアリバイには何の関係もない。
 傷と言えば、このような傷が、わたしの心の中には無数にありそうだ。よく見ないとわからない、でも、必ずどこかについている傷。例えば「もう君はうちの会社では十分に能力を発揮してもらう場所はないので、このまま会社に残ってもらっても君のためにはならないと思って。ぜひ、今回の希望退職には応募してくれないか」という部長の声。「会社には私はいらないということですね」という私。部長の無言の頷き。「再就職については会社はできる限りのことはするから」という空手形の言葉。今、私は人として傷つけられているのだ、必要がないと言われてどうしてこの会社に残れようか。幸い私は独身だ、自分一人くらいの食い扶持は何とかする。それさえできなくてどうする。こんな会社は自分から払い下げてやる。それが私の尊厳を守る唯一の方法だ、と思った。「はい、わかりました。希望退職に応じます」といとも簡単に応じた。「いや、男らしいね、きっと君なら新しいところでいい仕事をすると思うよ」と部長のにこやかな笑い。
 だが、後から知ったのだが、これがリストラのための常套手段。マニュアル本にさえそう載っていた。まんまと相手の手の内に乗せられたということだ。怒っても後の祭りである。
 いや、いけない、これは私の傷で、わたしの傷ではない。後で消す。

 わたしは、五日前の足取りを辿るつもりで、警察を出て、いったん役所から少し離れたところにある喫茶店に向かった。あの日も、その喫茶店に入ったことだけは確かだ。外部出張の唯一の楽しみは、喫茶店に入れることだ。市民から、役所の人間が昼の日中、喫茶店で油を売っているやつがいる。あれはどういうことだと投書や電話で苦情が寄せられる。従って、外勤の折、喫茶店などへは絶対入るなと上司からきつく言われている。「例え昼休みでも、街中での飲食は慎んでもらいたい。市民はどこにでもいる。特に、市民と接触する機会の多い職種の者は慎んでもらいたい。食事は役所内の食堂でとるように」と上司は言う。しかも、あのときは昼休みの時刻ではなかった。昼飯は役所の食堂で食べた。わたしは、外への出張の時は、いつもその喫茶店に立ち寄って気合いを入れてから行くことにしている。あの喫茶店のコーヒーはうまい。役所の食堂の比ではない。確かに、時刻は一時を少し廻っていたが、納税の相談の電話が長引いて、食事に行ったのは十二時も終わりに近かった。腕時計で確かめたので間違いがない。もちろん、できるだけはやく喫茶店は切り上げて、出張に出るつもりだった。だが、その日は、市民の対応で、昼食も遅れたのだし、少しぐらい出掛けるのが遅れてもどうということはないだろう、とたかをくくっていた。それに、ここは役所からかなり離れている。わたしの顔を知っている人などいるはずがない。今まで出張の時は、ほとんどここを利用してきたが、役所の人間に見つかったり、苦情が届いたりしたことは一度もない。ここでうまいコーヒーを飲まないとあとの仕事がはかどらない。わたしはゆっくりとコーヒーをすすりながら、スポーツ紙を読んだ。前日、ひいきのサッカーチームが久しぶりに勝っていたので、つい、夢中になって記事を読んだ。だから、いつもより、時間をくった。時計を見た。これはいけない、出掛けなければ、と思い、腰をあげようとしたとき、保守系の市会議員が人を伴って入ってきた。彼は主に予算委員の実力者で、よく我々の課へ何かを調べるために来る。わたしが対応したこともある。彼は、やたら職員の勤務にはうるさい。市職員の意識改革をして、みんなに奉仕できる職員にしてみせる。気づいたことがあれば何なりと自分に言ってくれと言って、人気を博し、トップ当選を果たしてきた人間だ。彼はわたしがそこにいることを知り、軽く会釈をしてテーブルに着いた。いやなやつに会った。何と運が悪いことか。わたしが慌てて喫茶店を出た。出るとき、そっと後ろを振り返った。彼は腕時計を見、手帳に何かをメモしていた。一時を三十分ほど超過している。「遅刻は朝だけではないぞ。昼の時間の始まりにも遅刻するやつがいる。昼の休憩時に時間通りに帰ってこないやつは、減給にでもしろ」と以前、市議会で発言していたと聞いたことがある。わたしの心臓がぎゅっと縮んだ。遅くまで市民と対応していることは見逃され、こんなところだけが咎められるのかと思うと、余計に気分が重くなる。
 それでもわたしは今日も同じ喫茶店に向かい、店に入って、コーヒーだけを頼んだ。腕時計を見ると、時刻はすでに一時半を少し廻っている。五日前とほぼ同じだ。
 あのとき、訪れる予定の家は三軒だった。二軒は夜の仕事をしている女である。一人は小さなスナックのチイママ、一人は高級料理旅館の仲居である。それにあとの一人は年金暮らしの女性。
 彼女らに「会社に言って天引きしてもらうよ」「家財道具を差し押さえさしてもらうよ」などと言っても、ほとんど効果がなさそうだ。何と言って説得すればいいのか。それとも「支払い不能」ということで処理してしまうか。しかし、それをやると、徴収率が悪くなる。徴収率はお金の額で計算されるのではなく、件数で計算される。「徴収不能」が増えれば増えるほど、徴収率が悪くなり、特に、わたしの受け持ち地域の徴収率が悪くなり、上司からとっちめられる。
「払いたいけど、払うお金がないんです。もし払うと、息子がせっかくやる気を出して、塾に通い始めたのに、それを辞めさせなければなりません。どうか、息子を助けると思って、来年まで待ってください。来年、息子は高校へ進学しますから、塾を辞めさせます」そう言って泣きつかれるのがおちだ。
 コーヒーが運ばれてきた。わたしはゆっくりとそれを飲んだ。そうだ、一つだけ、思い出すのを忘れていたことがある。わたしは、スポーツ紙を読みながら、時々、それを止め、横の窓から、空を眺めた。役所を出るときは曇っていたのだが、少しだけ青空が見えたのだ。雲と雲との間に、わずかに見える青空は、深いコバルト色に見えて、それが意識を吸い込み、それをじっと見ていると、今いるところから、魂だけが窓から抜け出ていくように思えた。いや、本当に抜けていったかもしれない。
 わたしは、あのときと同じように窓の外を眺めた。だが、今日はどんよりとしていて青空のかけらもない。だから、魂の行き場がない。
 これから、行く予定だったところへ行き、「五日前、わたしは、あなたを訪問しませんでしたか」と尋ねればいい。ことは簡単だ。だが、そうはしたくない。だって、わたしは彼女たちにどのようなことを言ったのかがわからない。おそらく、彼女らが喜ぶようなことは何ひとつ言っていないはずだ。いや、彼女らのところへ本当に行ったのかさえよくわからない。行っていないのなら、このひと、少しへんなんじゃないの、こんな変な人を寄こすようなら、住民税なんてほっといても大丈夫、などと思わせかねない。それに、どうも行ったという実感がない。むしろ、あのコバルト色の天空に向かって歩いて行ったような気がしてならない。
 それに、今日、朝、役所に行き、調べたところによると、いずれの女からも住民税が払い込まれていない。
 行った証拠は何ひとつない。でも、今行くべきところはそこしかない。彼女たちに会わないでどうする。他の誰かに会っていたかもしれないが、それが誰だかわからない。勇気を出して、もう一度、彼女たちを訪問してみよう。
 
 バスを降り、辺りを見回した。この街には確かに来たような気がする。街の匂いとまではいかないが、この雰囲気は確かに感じた。いくら記憶喪失といっても、感覚まで喪失していない。
 わたしは、片側一車線の道路脇の歩道を歩く。立ち止まり、訪問先の地図を取り出そうとして鞄のチャックを開けた。鞄の中には、手帳、財布、文庫本、訪問先への書類と地図が見えた。これはわたしが警察に出頭するときに入れておいたものだ。自分がその日、どこへ行ったかを聞かれたらすぐに答えられるためにだ。
 地図を便りに、細い路地へ曲がり、二階建てのアパートに着いて上を見上げた。子供が乗る三輪車が見えた。鉄でできた三輪車ではない。プラスティック製の三輪車だ。大人なら片手でも持てそうなものだ。子供はまだ小さいのだろう。昨日、テレビの七時のニュースで、虐待で長男を殺した母親の家を映し出していたのだが、ちょうど、同じような文化住宅で、扉の横には、殺された子供の乗っていたであろう三輪車が映し出されていた。それとよく似ている。まさか、彼女ではないだろうなあ。彼女が長男を虐待して、今、警察にいるなんてことは。
 彼女の収入は並にあり、免除の対象者ではない。だが、彼女の住まいは免除者と同じような感じがする。わたしは、端にある錆びた鉄の階段を上って、最初の部屋の表札を眺めた。訪れようとした家である。わたしは彼女がまず、家にいるかどうかを確かめるために電気メーターを探す。これはすぐに見つかった。入り口のドアの上の片隅にあった。だが、メーターは止まっている。電気が使われていない証拠だ。留守かもしれない。
 念のためにインターホンのプッシュボタンを押す。中で音が鳴っているのが聞こえる。彼女の名前を呼んでみる。やはり返事がない。しかたがない。こんな徒労はいつものことだ。わたしは鉄の踏み板を鳴らしながら降りた。
 二軒目はかなり以前に売り出された安物の二階建て建売住宅だった。玄関前の両脇に墓石に似た門があり、小さな鉄扉で閉められていた。電気のメーターは鉄扉の中に入らないと見られない。これもインターホンで呼んでみたが応答はない。調べによると、所帯主の女は、夫と離婚、女は息子と二人暮らし。息子はすでに成人しているので、控除の対象にはならない。町の料理旅館の仲居頭として働いている。それほど収入は多くはないが、住民税を払えないような額ではない。何故払わないのかわからない。すでに三年滞納している。ひょっとして、息子が放蕩息子で、借金をしたり、パチンコに凝ったりしているのかもしれない。不在なら致し方がない。五日前も不在だったのだろうか。
 わたしは三軒目の家を訪れるために、先程とは違う片側一車線の道路を歩く。ときどき立ち止まって、地図を眺める。どこにでもあるような街並みがつづく。自動車の整備工場、豆腐を主に作っている食品工場、サラリーマンが住んでいそうな三階建ての住宅、空き家になった昔風の家、ピザ屋とピザを運ぶためのバイク置き場、看板だけがあってシャッターの下ろされた印刷屋、小さな地蔵さんの社。
 来たことがあるような、それでいて、先週来たかと言われれば、まったく記憶のない街。ここにもまた昭和四十年代に建てられたような建売住宅の群れが並ぶ。すでに新しい家に建て替えられている家もある。西洋の街にあれば似合いそうなしゃれたクリーム色の壁、花の生けられている出窓、隣の家を買い足して、二軒を一軒にして建て替えたのに違いない。その家だけが目立っている。私がこの辺りでは一番成功した人間ですよと言いたげな表情。
 その隣がわたしが訪れる家である。いや、訪れた家である。あの時、玄関が開けられ、テレビの音がかすかに聞こえていた。唯一、在宅の家だった。最初に何と切り出すか。先週来たのにまだ住民税が振り込まれていません、どうしたのですか、などと言えばいいのか。でも、先週来たという確証はない。どこかで、わたしは、その日の仕事を放棄したような気がする。行ったって行かなかったって、金が振り込まれなければ、同じことだ。それに、この頃は、昔のように脅すような取り立てはできない。あくまでも相手がお客さんのような態度をとらなければならない、お金を払っていただくという。
 まず、先週、来たかどうかを、彼女の表情、仕草、言葉で察しなければならない。「先週来られたのに、また」などと言ってもらえれば最高である。
 わたしは腕時計を見た。三時五十分。もし、彼女の家を訪れたことがはっきりさえすれば、わたしのアリバイは成立する。タクシーに乗って駆けつけたとしても火事のあった場所までには着かない。
「今日は、おじゃまします」わたしは緊張しながら玄関から奥に向かって声を掛けることを想像する。
「どなたさまで?」ときっと、かなり年を食った女が出てくるはずだ。年金暮らしの、元国家公務員で、年金額はかなりあり、税金を未払いで済むような額ではない。だのにこれもここ三年間滞納している。だが、彼女がわたしの来たことを証明してくれれば、来たかいがあったというものだ。
 最初、わたしは「あのう、市の税務課から来ました」と言うより他はないだろう。彼女は何と返事をするだろうか。わたしが五日前に来たという痕跡が認められる返事が返ってくるだろうか? 「市の税務課? って、何のご用ですか」とまったくわたしが訪れた痕跡を示さない言葉が返ってくるかもしれない。「いや、おたく、住民税が滞納されていますので、ぜひ払っていただこうと思って」と言うより他はない。
 ちょっと待てよ、先週、わたしはそのようなことを言った覚えはない。だが、何となく、この家には見覚えがある。ここまで来たという感覚は残っている。意識の記憶がなくても、感覚としての記憶が消されてはいない。
 わたしは、じっと佇む。家の玄関を見つめる。
 確か、玄関先に、五分刈りで、体格のいい、しかし、黒っぽいだぶだぶのズボンをはき、白いワイシャツの上に黒っぽいブレザーを乱雑に着ていた男が、白髪の女性に覆い被さるようにして立っていたのを思い出す。それに、男は何か紙のようなものを老女性の前でひらひらとさせていた。
 別の場所ではまったく思い出せないことでも、実際にその場所に来れば記憶が甦る。目に見えないが、そこにはさまざまな痕跡が残っていて、それらが無意識に作用して、何かを思い起こさせるのだ。記憶とは痕跡を媒体にした想像像なのかもしれない。
「あなたの息子でしょう。だったら、借金の肩代わりをしてやってもいいのとちゃいますか。息子が困ってるのをあんたほっとくのか。ひょっとしたら自殺するかもしれないよ」
「ここでは何ですから、家に入ってください」
 はっきりと老女性の声を思い出した。間違いない。老女性は、皺のいった頬をひくひくさせているのが少し離れたところからでもわかった。
「家に入らんでもいい。人さまにも聞いてもらいたいのや。息子夫婦が借金を踏み倒し、夜逃げしよったんや。どこへ行きよったんか、知っているんやろう」
「いいえ、わたしは何も。商売がうまくいってない、ということは聞いていましたが。三年ほど前から、孫の学費の足しにと、少しは援助もしてきましたが、もう貯金も使い果たし、何も残っていません」
 白髪の老女性が背の高い男を顎を突き出すようにして見上げた。
「息子がしでかした不始末や。親にも責任があるやろう。ある金、全部出したりや」
「申し訳ありません。でも、今、申し上げたとおりの年金暮らし。払える金などあるわけはありません」
「だったら、あんたの年金の入る通帳と印鑑、わしらにあずけたりや。あんたの死なん程度には金は渡したるがな」
「そんな、……」
 老女性は突然、喋るのを止め、男から視線を外し、視線を遠くへ送った。パトカーのサイレンの音が聞こえてきた。それと同時に男も振り返り、遠くを見た。わたしもそれにつられて遠くを見た。
 パトカーがこちらへ向かって走ってくる。いつもの散歩するようなゆっくりとしたものではない。明らかに、事件に駆けつける速さだ。この家へ向かってくる。
 男は何も言わない。慌てて、とめてあった車のほうへと走っていき、それを発車させる。
 パトカーが老女性の家の前でとまり、中から警官が二人降りてくる。いつ現れたのか、警官の横に、もう一人、彼女と歳格好が同じぐらいの老女性が立っている。二人の違うところと言えば、白髪と、髪の毛が少し黒いのとの違い、それに、着ているセーターがベージュ色と灰色との違いぐらいである。あとは何も違わない。
「おはずかしいことで」白髪の老女性が三人に向かって頭を下げる。白髪が西日にあたって銀色に光る。
「お怪我はないですか」
 若い方の警官が頭の先から足下まで視線を這わす。
 隣に立っている灰色のセーターを着た老女性が鼻とこめかみに皺を寄せられるだけ寄せて笑う。
「女の人が大男に殴られている。殺されそうや、はよう来てやって、と一一〇番したんや」
 灰色のセーターの女性は明るい声で言う。やや得意げだ。
「ありがとうございます」再び、白髪の老女性は前よりも深く頭を下げる。
「息子が借金したかって、親が返す必要なんかないわな。お巡りさん」
 灰色のセーターが言うが、警官は何も答えない。
「おはずかしいところをお見せして」白髪の老女性がまた言う。
「何の、何の、お互いさまや。どこの家でも何かはある。何の問題もないとこなんかあるかいな」
「殴られたとか、脅されたとか、されましたか?」
「いいえ、ただ、息子の借金を返せと」
「息子の借金は、連帯保証人にでもなっていなければ、あなたには何の関係もありませんから」
「逃げ足の速い男や、パトカーを見ただけで逃げ出しよるんやから」
「では、気をつけて、また、何かあったらご連絡ください」
 二人の警官は再びパトカーに乗って去っていく。
「ああ、悟君、帰ってきたわ」灰色のセーターが言う。
 悟君と呼ばれた高校生がブレザーを着て、わたしの横を通り過ぎる。振り返り、灰色のセーター女性に軽くお辞儀をして家の中へ入る。
「行儀のいい子やね、成績もいいというやないの」
「大学へ行きたがっているけれど、親があんなんではね」
「やってやりいな、何とかして」
「でも、先立つものがねえ……。それに、きょうび、いい大学へ入ろうと思えば、塾にも通わさないと」
「あんたの年金、かなりあるというやないの。長いこと公務員をやっていたんやから、退職金だって相当の額が……」
「貯金はほとんど息子のために……。悟にも苦労をかけるわ、かわいそうに……」
 突然、白髪の老女性は声をつまらせる。涙声になる。二人の間に、沈黙の交流がなされる。「いつまでたっても、お互いに苦労が絶えんわねえ」と灰色のセーターの老女性、「あなたも、旦那さんの介護でたいへんで……」と白髪の老女性。お互いの目尻に涙の粒が流れる。「おばさん、あかんか? 俺、大学へ行きたいねん。働いたら、必ず金を返すから、それに、新聞配達でも何でもして、生活費は何とかするから」農業を夫とともにやっている伯母に、わたしは何度も頭を下げて頼んだことを思い出す。
 わたしは五歳のときに父を失った。母は、自律神経失調症を病んで寝ていた。家には金などまったくなかった。伯母は怒りを含んだ声で言う。「うちの五人の子、誰一人、大学へはやっていない。お前だけ大学へやるわけにはいかん。絶対にできん。お前を高校へやるのに、どれだけ援助してやったと思う。それが精いっぱいや。お前は金持ちの子やない。貧乏人の子や」その声は今でもはっきりと思い出す。あれ以来、わたしは自分がやりたい、なりたいと思うこと、つまり夢を封印してきた。夢などわたしには無縁のことだった。ずっと、選択肢の極めて少ない中での一つを選ぶという生き方をしてきた。わたしのなかに残した伯母の痕跡。それは今のわたしの痕跡でもある。
 悟という少年が消えた玄関を見る。おそらく、住民税の金が悟という子の学費の一部になったのだろう。
 わたしは、老女性には何も言わずにそっとそこを立ち去ったのだ。だから、彼女には会っていない。わたしがそこにいたという証拠はない。路上には誰の痕跡も残っていない。人は路上ではテーブルのコップよりも存在性が薄い。

 黒い布製の鞄の中をまさぐった。何かあの日の痕跡がないのか。メイン収納袋には書類以外に何もなかった。側面のファスナー付きポケットのジッパーを引っ張って、ポケットに手を突っ込んだ。小さな紙の感触があり、それを取り出した。あった。わたしは小さな声をあげた。コンビニふうの小さな店で、小さなペットボトル容器のお茶を買った。そのレシートがわたしの親指と人差し指に挟まれている。日にちがちゃんと打たれている。だが、時刻は示されていない。わたしは半ば喜び、半ばがっかりした。だが、とりあえず、痕跡が見つかった。小さな紙切れがわたしの生の証。あとは、何時頃、わたしがそれを買ったのかを店員が証言してくれさえすればいい。そうすればわたしの疑いのすべてが消える。しかも、レシートの一番上には店の名前も書いてある。だが、その店がどこにあったのかがわからない。行きずりの店の位置など誰も覚えてはいないだろう。
 店はどこだったのか。誰かに尋ねてみよう。辺りを見回す。学校帰りの小六ぐらいの少年が鞄を重そうに持ちながら、下を向いてこちらへやってくる。わたしは少年を呼び止めて、店の名前を言い、知っているかと尋ねた。知っていると答えた。どう行けばいいのか教えてくれないかと頼んだ。少し歩かないといけないと少年は答えた。付いておいでよ、とも言った。
 わたしと少年は、昔、街道だったような道を歩いた。道沿いにあるかつて商店だったと思われるようなところは、ほとんどシャッターが降りていた。開いているのは、自転車屋、郵便局、食堂、クリーニング店、車整備店、お寺、保育園、散髪屋、などだった。少年は突然、左に折れ曲がった。道はさらに狭くなった。こんなところへわたしは何をしに来たのか。まさか、コンビニを探しに来たわけではないだろう。ここには、訪れるべき滞納者の家などない。それなのに、街の奥まったこんなところへ何をしに?
 ここだよ。少年は店の前に立つ。庇が道まで張り出している。店と言っても古い民家を改造したような店だ。店の名前があるかどうか、探った。ガラス扉に書かれていた。レシートの名と同じだ。ありがとう、と言おうとして辺りを見回すが、少年はすでに消えていた。いや、すでにもと来た道を早足で帰っていく。
 店に入った。店ではパンとお菓子と煙草とお酒やビール。それに小型容器のお茶と缶ジュースと缶コーヒーが売られていた。レジには、白髪の老女がいた。先程の老女性よりもはるかに歳をとっている。背も低く、腰も少し前屈みになっている。
「このレシート、お宅のですね」
 わたしはレシートを出した。老女店員はレシートに目を近づけた。名前を確認しているようだ。
「ここの店番はお宅がずっとやっておられるんですか」
「はい、朝は店長が店に出ていて、わいは、午後一時からで」
「五日前、わたしがここへ来たことを憶えていますか」
 老女店員はわたしの顔をじっと見る。レジの端に置いてある老眼鏡を取ってきて、それを掛けて再び見る。
「はじめて見る顔やな」
「そんなこと、ありませんよ、五日前に来たんですから」
「お客さんの顔なんかいちいち憶えていませんよって」
「だったら、防犯カメラにわたしの姿、写っていませんか。それを見せてもらえませんか」
「防犯カメラって、それ、何ですの。そんなのうちにはあらしません」
「防犯カメラがないって」
「そんなハイカラなもん、うちみたいなちっちゃな店にあらしません」
「だったら、わたしの顔をよく見て、思い出して」
「なんべんもうちのパン買ってくれるお人やったらわかるけど、おたくは、はじめてや」
「はじめてと違います。二度目です。レシートがちゃんとあるでしょう。日付も書いてあるでしょう」
「そない言われても」
 老女店員はレシートとわたしの顔を見比べる。
 彼女はわたしの言うことには耳をかさない。いったい、この後、どうすればいいのか。諦めるほかはない。「おたくははじめてや」そう言われれば、わたしも老女に会ったのがはじめてのような気がする。わたしがそう思うのだから、老女店員がそう思うのは無理はない。彼女は加齢のため、ほとんど全健忘に近い状態なのだ。
 店を出た。依然、曇り空だ。だが、陽はほんの少しだけさしてくる。晴れでもなく曇りでもない。ましてや、雨でもない状態。ちょうど、今のわたしの記憶のような。 
 わたしは空を見回す。ああ、あれだ。あれにはかすかな憶えがある。厚い雲の隙間から、ちらっと青空が見えたような感じがした。かなり向こうの方に、細くて高い煙突が三本立っている。煙突は家々に隠れて、下は見えない。煙突は白いのだが、ところどころで朱色の輪が帯のように巻かれている。それがよく目立つ。遠くから見ると、その煙突がこの辺りに立っているように見えたのかもしれない。だが、近づくとそれらはさらに遠のく。実際はずっと向こうの海岸に近いところにある石油精製所のものかもしれない。
 今は、煙突の先には何もない。だが、あのとき、ちろちろと赤い炎が出ていた。それが風になびいて、煙突を旗竿にして、炎の旗は空高く掲げられていた。朱色黄色白色の小さな三色旗の旗は、青空に向かって元気よく縦にひるがえっていた。
 あれをもっと近くで見たいと思って、わたしはここまでやってきたように思う。そうに違いない。でも、ここまで来ても煙突は遠ざかるばかりだ。まったく近づくことができない。それでここで近づくことを諦めた。わたしの今までの多くの思いと同じように。
 わたしは狭い道の真中に立って、家々の屋根のはるか向こうに、三本、家々の屋根を突き刺さしてでもいるかのようなやり鎗に似た煙突を眺めた。煙突からは煙さえ立ちのぼってはいなかった。


 私は、台所の調理台のところへ行き、コップに水を一杯入れ、いっきに飲んで、再び、パソコンの前に座り、写真を取りだして映した。先程飲んだ水の雫が顎の先に付いていた。先程飲んだ水の痕跡。
 写真の中の少年を再び見つめた。少年は、サッカーボールを少しずつ後ろに蹴りながら遠のいていく。突然、グーの手がズボンのポケットの中に入れられる。出されたときには、掌はパーになっている。持っていた物をポケットにしまったのだ。
 少年は後ろ向きに若い女性に近づいていく。女はただ黙ってそれを見ている。
 女が座っている長いすの足のところに鞄が一つ置いてある。私は今までそれに気づかなかった。女にばかり目がいっていた。少年の鞄がそこにあるということは家に帰ってはいないということか。そうとばかりは言えない。彼はこれから塾に行く途中なのかもしれない。彼は塾には行きたくない。彼はサッカーボールで遊びたいのだ。サッカーボールはこの公園のどこかに隠してあったのかもしれない。あるいは家のどこかに。
 少年は鞄の取っ手に手をかけ、持ち上げる。軽々とした感じだ。教科書など入っていない。鞄の横に、サッカーボール入れの網袋が引っかけられている。少年はそれにボールを入れ、鞄の取っ手に手を掛けて持ち上げる。サッカーボールの袋が大きく揺れている。鞄のチャックが閉められていないようで、中が少しだけ見える。コピー紙の端が覗いている。数枚ありそうだ。少年が大事に思っているのは鞄の中身ではない。サッカーボールの方だ。
 少年は金網でできた筒状のゴミ箱に向かう。中を覗くが、何かを諦めたように、そこを立ち去る。ただ、立ち去る直前、ゴミ箱に手を突っ込み、何かを取り出したようだ。それを大事そうに左手に握りしめていた。何だか棒状のもののようだ。割りばしかもしれない。
 少年は、長椅子に座っている女の前まで来て立ち止まる。前といっても五メートルは離れている。それから、右に逸れ、藤棚の下まで行く。そこは煉瓦の床になっている。床には藤棚の枠組みの影が映っている。少年はしゃがみ込んだ。鞄やサッカーボールは地面に置かれる。棒状のものは鞄から少し離れて置かれた。
 少年は鞄からコピー用紙のような紙を数枚取り出し、じっとそれを見つめている。顔を顰め、暗い表情をする。顔がこちらを向いているので、表情がよく見える。特に眉間がよく見える。老人のように眉間に皺を寄せている。きっとその紙には少年にとって嫌なことが書かれているのだ。母親から塾の先生に見せるように言われた学校のテストの成績かもしれない。それとも、全国規模の大手の塾の模擬テストの成績報告書。親の期待する学校には到底入れそうにはない成績。こんな成績でどうするのよ、希望の学校など到底入れないわ。しっかりしてよ。お父さんは一流大学を出ているのよ。だから、今のような生活ができるの。本当に頑張ってよ。どうしてこんな悪い成績なのよ。母親は泣き声になる。親の失望感をもろに受けた少年の傷の痕跡。
 突然、少年は紙を持っている両手を近寄せながら小さく上下させる。紙は皺になり、縮まる。ちょうど硬い紙を柔らかくしているような仕草だ。私はなんだかかすかな快感を覚える。皮膚にこびりついた瘡蓋を剥がすような快感。もっとそれが強まればいい。
 少年はズボンのポケットに手を突っ込み、何かを取り出す。それは、先程、カップ酒を飲んでいた男の前で拾ったものだ。左手でしわくちゃにされた紙を目の前にぶら下げ、それから、右手で手に持っているものを紙に近づける。指を動かせているように思う。紙の端が燃え始める。曇っているため、炎がよく見える。どうも、先程拾ったのはライターのようだ。少年は今、ライターで、自分にとって嫌なものを燃やし始めたのだ。炎は大きく、また、小さくなったりする。少年は、ライターを放り投げ、右手で、先程、鞄のちょっと離れたところに置いた棒状のものへと近づき、それを使って燃える紙を摘み、右手に持ち替えた。その途端、小さな火の粉が線香花火のように散った。
 彼は、何か嫌な自分の痕跡をなくしたいのだ、しかも、誰かによって消されるのではなく自らの手で。少年に与えられているほんのわずかな自由の行使。
 再び、右手にそれを持ちかえると、左手で鞄からさらに同じような紙を取り出し、同じようなことをする。炎は前よりも大きくて強い。少年の頬は少し朱色になる。炎の影が頬の上を動く。それを見ている私の心がかすかに軋むのを感じる。
 いつの間にか、本を読んでいた女が少年の横に立っている。何かを話している。少年は頷く。彼女は鞄から写真ぐらいの紙を取り出して少年に渡す。少し枚数が多いようだ。きっとあれは写真だ。恋人と撮った写真に違いない。携帯で撮ったのをプリントして持っていたのだろう。写真はプリントして初めて写真になる、とプロの写真家が言っていた。彼女はそれを実行したのだろう。だが、今、それを焼き始めたのだ。携帯の中ならすぐに消し去ることができるのだが、プリントしたものはゴミ箱に棄てるか、焼くより他はない。ゴミ箱に入れても結局誰かによって焼かれるのだ。それよりも、自らが焼きたい。自ら痕跡を消したいのだ。いったい女と恋人との間に何があったのだろうか。ひょっとして女は妊娠をし、それを男に告げ、男は堕ろせと言い、二人は仲違いをし、男が女から逃げようとしているのかもしれない。女は堕胎をするのか、シングルマザーになるのかを迫られている。最後に、男がこの公園に来て、いっしょに育てようと言ってくれるのを期待していた。しかし、来ると言っていた男は来ない。男は確かにこの公園に来ると約束したのだ。いや、強引に約束させたのだ。別れるのなら別れるで仕方がない。でも、それをここではっきりと言ってほしいとせがんだのだ。この公園は女と男がはじめてデートしたところなのだから。男は不承不承承知した。だが、行く勇気が出てこなかったのか、それをすっぽかすことで、自分の拒否がいかに強いかを知らせようとしたのか。女は男と会って最後の決断をしようと思ったのに違いない。だが、約束した時間に男は現れない。携帯で呼び出しても応答がない。
 少年は先程と同じように、女から手渡された紙を燃やし始める。女は食い入るように炎を見つめる。
 私は苦痛を覚え、写真画面から目をそらす。それから写真を消す。

 わたしはもと来た道を引き返そうとする。それは簡単なことだと思ったのだが、どうも甘かった。振り返った街の風景は来るときとはまったく違う。皆裏返っている。まるで、ポジがネガになったような感じだ。それに、逸れるところが左だったのか右だったのかがわからない。ただ、光の方向だけはわかる。それを便りに歩く。まったく頼りない。誰かに尋ねてみよう。しかし、肝心のバス停の名前を忘れてしまった。何と言って尋ねればいいのか。
 大きなレジ袋を下げた女が歩いてくる。「あのう」と声を掛けると立ち止まってくれた。わたしは、よく知られているターミナルの名前を告げた。そこへ行きたいのだが、どうすればいいのか、と尋ねる。「わたしはここへ先頃引っ越してきたばかりのもので」といかにも気の毒そうに女は言う。「とにかく一番近いバス停はどこですか」と尋ねる。「バス停?」と怪訝そうな顔付きをする。「ここらはバスが通っていませんので、みんな車で。わたしも主人に乗せてもらって、スーパーまで行って、今、そこのところで降ろしてもらったところです。一方通行で、家までは行けませんので。主人はすぐに自分の店に戻りました」女は荷物を持つ手を持ちかえる。「そうですか、どうもすみませんでした」と頭を下げる。  
 わたしは、確信のないまま歩き始める。きっとバス停はある。現にわたしが乗ってきたのだから。いや、五日前のわたしは、バスに乗って帰っていったのに違いない。家に辿り着いているのだから。彼女は引っ越してきたばかりだと言っていた。彼女が知らないだけで、バス停は必ずある。では、わたしはどのようにして家へ辿り着いたのか。辿り着くまでわたしはいろいろなことをしたはずだ。だったら、その痕跡はあるだろう。この辺りでわたしがいたということの痕跡があれば、わたしは、大手を振って警察へ行ける。
 人が見つかればまた尋ねてみよう。だが、人が見あたらない。ゴーストタウンに迷い込んだようだ。
 何か手がかりになるようなものがないのか、衣服はあの日の着たものとそっくりのものを着てきた。わたしはスーツの上着のポケットを探る。何もない。内ポケットも探ってみた。わずかな埃をつまみ出しただけだ。ズボンのポケットを探った。固い物が右手の指先に触れた。何だろう。どうもプラスティックの感触だ。つまみ出した。それは安物のライターだった。そう言えば、あの朝、出勤途中、急にトイレに行きたくなり、駅のトイレへ駆け込んだとき、トイレの物置きの棚にライターが置いてあった。わたしは、ああ、これ、墓参りの時、線香に火をつけるのに役立つ。今度、百均で買おうと思っていたのだがちょうどよかった、と思った。それをポケットに仕舞い込んだのを忘れていた。わたしは、キャップを開け、ロックを外し、親指で点火のところを動かした。小さな炎がぽっと点く。じっと炎を見る。平凡な灯が灯る。朱色と黄色の混じり合った、しかも、芯のところとまわりのところとが微妙な色の違いを呈している。目に見えないほどの震えがあり、小さい炎は小さいなりにやはりどこか危なっかしさを感じさせる。わたしは瞬間、炎の中に意識が入り込む。この炎を何かに移してみたい。そんな気が起こる。
 とその時、路地から不意に人影が現れた。わたしはあわててライターの蓋を閉め、火を消した。現れたのは野球帽を被った少年だった。先程の少年か? しかし、わたしの記憶から、先程の少年の顔や身体つきは消えている。それに、少年は少し離れていて、わたしに背を向けて歩いているので顔はまったくわからない。
 わたしは少年の後をつける。少年の足は速い。できれば追いついて、バス停を尋ねるつもりだったが、追いつけなかった。と、突然、少年は右に折れ曲がり、姿を消した。小走りになり、消えたところまで辿り着いた。少し息が切れた。折れた道の向こうには公園があった。この街にしては大きな公園だ。少年はまっすぐ広場を横切り、藤棚のところへ向かって行く。まるで、わたしがついて来るのをを知ってでもいるかのように。
 わたしは、少年に見つからないようなところを捜した。藤棚の少し横に小屋のような小さなトイレがあった。わたしはその壁のところへ行き、隠れた。少年は藤棚の下へ行く。藤棚のところには紺色の制服を着けた警官らしい男がすでに二人立っている。彼らは軽く少年に向かって手を挙げる。少年と何事かを話し合っている。わたしはトイレに入る格好をして、さらに藤棚に近い方へと移動する。彼らの声に耳を澄ませる。
「見たんだな。ここで火を燃やしているのを」
 警官の声が聞き取れた。少年は二人の警官に挟まれている。
「ここでたき火をやっているとき、この公園にいたんだろう」
「はい、あそこの入り口のところから入ってきて、トイレがしたかったのでトイレに入って、その窓から、ここを見ていました」少年も警官たちもこちらを見る。わたしは慌てて身を隠す。少年と目があったような気がした。
「火をつけるところから見ていたのかい」
「いいえ、もう、かなり燃え上がっていました。でも、藤棚が燃えてはいません」
「あそこにあるような、ほら、あれ、高鉄棒の横に置いてあるあれと同じ、金網でできているゴミ箱、あれがここに置いてあって、その中のものが燃えていたんだな」
「はい」
「小尿をしてから君もここへ来たんだろう」若い警官が言う。
 少年は黙っている。
「いったい、何人いたんだい。ここに」年配の警官が尋ねる。
「少し寒かったから。みんな火にあたりたかったんだと思います」
「そんなに寒くなかっただろう。だって、まだ、冬とは言えないんだから」
 若い方の警官が言う。実際、若いかどうかわからないが、何となく声が若々しかった。
「そんなことではなく、尋ねたことにちゃんと答えなさい」
 年配じみた声が叱責するように言う。
「わかりません」
 少年がきっぱりと答えた。
「一人じゃなかったんだろう」若い方が言う。
「僕、火が燃えているのがおもしろかったから、そればかり見ていました」
「火の方に興味があったということか」年配が言う。
「ここにいたのは一人じゃなかったんだな」若い方が言う。
 少年は答えない。
「君もここへ来たんだろう」若い方がまた言う。
「おい」と年配が若いの睨む。「そんなに慌てちゃだめだよ」とたしなめる。
「とにかく、ここで、みんなで火を燃やし、それを見ていたんだな」
 少年は頷く。
「だったら、一人じゃないよな」年配が言う。
 少年は頷く。
「君も火を見にここへ来たんだろう」年配がつづけて言う。
 少年は頷く。
「大先輩の防犯協会の会長の言うとおり、こんなところで火が使われたら危なくてしかたがないな」とこれも年配の方が言う。
「でも、たいしたことにならなくてよかったです。ぼやにもなってもいないし、それに、後で起こった工場の廃屋の火事とは何の関係もないでしょう」若い方が言う。
「確かにここでの焚き火と火事とを結びつけるのはどうかと思うよ。防犯協会の会長も、ちょっと考えすぎと違うか」と年配が言う。
 わたしは藤棚の下のゴミ箱の中のゴミが音を立てて激しく燃えている様子を想像する。炎の先が藤棚の支えの木を焙り、這っている蔓の葉を焙っている。もうすぐ藤棚の天井が燃え出すぞ。そう思うと、ぞくっとする。藤棚が燃え、激しい炎が立ちあがるのを想像する。こころが騒ぐ。わたしは、ポケットに手を突っ込み、ライターを触ってみる。
 少年はじっとこちらを見ている。わたしがいることに気づいたようだ。あの目は興味を示している目だ。だが、警官はまったくわたしの方を見ない。
「あのう、女の人がひとりと、スーツを着た、かっこいい若い人と、それから……」少年はわたしの方を見つづける。だが、二人の警官は書類を一生懸命に書きだした。相変わらずこちらを向かない。
「カップに入ったお酒を飲んでいたおじさんがいたよ」
 もう一人おじさんがいたじゃないか。今、トイレの陰からじっとこちらを見ていているおじさんが、とわたしは言いたくなる。だが待てよ。ひょっとして、わたしがカップ酒を飲んでいたのかもしれない。バス停を捜しているとき、自販機でカップ酒を買うことなどたやすいことだ。半日、足を棒にして歩きまわったのにすべて徒労に終わったのだから。
「おじさんがいたのかい」
「はい、お酒を飲んでいた」
 少年がまたもやわたしを見る。
「あの男じゃないかなあ。それ、いつも今ごろ、酒を飲みに来る、元、公務員のひとり暮らしの男」と年配が言う。
「でも、あれはおじさんではなく、おじいさんでしょう。ちょっと歳をとりすぎていますよ」
「子供にとっては、おじさんもおじいさんもあまり変わりがないよ」
「その男、ここが大きくはげ上がっていなかったか」
「はい、大きくはげあがっていました」
 それはやはりわたしではない。額が大きく後ろにそっているといってもはげているとは言えないだろう。
「ね、やっぱりね」年配が言う。
 警官は、また書類を書き始める。
 では、もう一人、おじさんがいただろう。黒い鞄を持ったおじさんが。ではなぜ少年はそう言わないのだろう。これではまるでわたしがいなかったのと同じではないか。
 ひょっとしてわたしがいなかった。そんなばかなことはないだろう。だって、五日前とまったく同じように辿ってきたのだから、わたしが今、ここにいるのだから、あのときもわたしがここにいたはずだ。
 わたしがそのことを思い出せないなんて、まるで自分で自分の痕跡を消しているようなものだ。他人がわたしの五日前を消しているのと同じように、わたしはわたし自身の五日前を消している。自分で自分の痕跡を消し去るなんて到底許すことはできない。何としてでも思い出してみせるぞ。ほんのわずかな痕跡をも見逃しはしないぞ。そのためにも、今の、この場所をしっかりと見つめなければ。
 ここからでも少しすすけた黒っぽい藤の葉の群れが見てとれる。おそらく、それほど高くは燃えあがらなかったのだ。煙がかろうじて届く程度だったのだろう。藤の蔓を支える藤棚の木も、少し黒っぽくなっているだけだ。それも焼けた痕などではなく、すすがくっついているにすぎない。棚が炎を出して燃えたなどという痕跡はどこにもない。
 わたしは藤棚を見つづける。藤棚は燃えてはいない。湿った覆いのような姿は変わらない。
 突然、「しょぼいなあ」と誰かが言ったことを思い出す。やっぱり、わたしはここにいたのだ。「ほんとうにしょぼいわね」と女の声。「ぱあっと燃えないのかね」若い男の声。「ぱあっとね」「おれ、山焼きを見たことがあるけれど、すごかったで。火の粉なんか風にあおられて、空に舞い上がるんだ。それに、ごーごーと音まで鳴っているんだ、山鳴りみたいに。土地が震えていると思ったほどだよ」若い男の声だ。「すごい、見たかったな」カップ酒の男の声。「まるで、火山が噴火するみたいやね」と女。「火山の噴火、見たの」「見れるわけなんかないわよ。見れるのだったら、お金払ってでも見に行くわ。テレビで見たのよ、いや、映画だったかな。でも、すごかったわ。迫力があったわ」
「ああ、それならわたしも見た。テレビでですよ。島の真中の火山が大爆発をして、島民全員が島から出て行かなくてはならなくなって」その声はわたしの声だ。
 わたしははっきりと思い出す。火口が盛り上がり、火柱が間歇的に立ちのぼる。赤い溶岩が蛇状になって麓に向かって流れていく。おそらく空撮したものだろう。突然、アップからロングになって、幾筋もの朱色の川が山頂から流れていく。
「しょぼいよ。こんなの」
 男の声が甦ってくる。これもわたしの声だ。わたしはやはりここにいたのだ。
「しょぼいです。本当に」若い男の声。
「しょぼいな。こんなの」
「こんなの火ではないよ」
「僕、燃やすものがいっぱいあるところを知っている」
「へえ、本当、燃やしてみたいね、そんなのをぱあっと」
「本当だ、本当だ」
「ぱあっとね。いいわ。嫌なものを全部すきっとさせてくれるほど、ぱあっと」
 嫌なものを燃やすのではない。嫌なものの痕跡を燃やすのだ。痕跡は何度も嫌なものを再生産する。だが、わたしは少しもやもやする。彼らは痕跡を消したがっている。わたしは痕跡を求めている。彼らとわたしとは少し違うのか。
 これは今思ったことか? それともその時思ったことか?
「ところで、人間の世界に初めて火を持ってきた人、誰だったのか知っている?」
 わたしが言ったような気がする。
「火を持ってきた人って、誰?」少年が目を光らせてわたしを見る。
「知ってるわ。神さまから盗んできたのね」
「そう。それで、その人が神様からたいへんな罰を受けたんだ。岩山にくくりつけられ、ハゲタカに内蔵を食い散らされて」
 確かにわたしの声だ。
「誰、おじさん、誰?」
「プロメテウスという人。なぜ、神様は怒ったと思う」
「盗んだから」
「それもある。でも、怒りようが尋常じゃなかった。火は人間を神に近づけると思ったからさ」
 みんなは一瞬黙った。
 火力が弱まってきた。もう消えそうだ。誰かが放置されていた傘を捜してきてゴミ箱を掻き回した。薄い紙切れの灰が虫のように舞い上がった。だが、炎の勢いは強くならない。若い男が慌てて抱えていた鞄を開き、紙の束を取りだし、クリップを外して白い紙をバラバラにして、一枚一枚を丁寧にゴミ箱へ棄てた。炎がそれに移り、辺りを明るくした。紙はどんどん黒くなり、そこから炎があがった。黒いところは嫌なものの塊。炎はそれを浄化していく。
 あの紙の束はなんだったのだろうか。何日もかかって練り上げた企画書。それを会議でいとも簡単に、こんなのはだめ、練り直してこいと否定されたものかもしれない。何十時間もの努力の痕跡。いたらない自分の能力の痕跡。上司たちの無慈悲さの痕跡。
「ちゃんと、火はみんなで消しました。あそこの水道から落ちていたお茶のペットボトルに水を入れて燃えかすにかけました」
 突然、少年の声は現実の声に変わる。わたしも現実に引き戻され、辺りを見回した。今度は、少年も警官もわたしを見ていない。
「これでいいんじゃないですか。ちゃんと少年を呼び出して尋ねたのだから」と若い警官が言う。
「ゴミ箱のゴミを燃やしたのは確かだが、火消しもちゃんとしていたし、問題にするようなことは何もなかった、これでいいな」年配の警官が腰の警棒を触りながら言う。
「はい」
 若いのが応じる。
「これだけしたんだから、会長もなっとくしてくれるだろう」年配の警官が言う。
「うるさいからね、会長は。でも、我々の大先輩だからそうとも言えないし。それに、上とも繋がっていることだから」
「おい、おい、めったなことを言うもんじゃないよ」
「はい」
 二人は笑う。二人ともほっとしたような表情をする。
「あのう、火をみんなで消し終わったとき、遠くの方からサイレンの音が聞こえてきました。ずっと遠くの方から」と少年が言った。
「ふうん、だったら、君たち、先頃の火事とは何の関係もないわね。火事のときここにいたんだから」と年配の警官は言った。
「はい」と少年が答えた。
 明らかに少年は嘘をついている。火を消してから少年はゆっくりと公園の裏口の方へと歩いていったのだ。みんなはそれを見ていたが、しばらくして、一人、また、一人と少年の後を追うようにして彼らもまた裏口の方へと歩いていった。まるで少年の後を追うように。最後にわたしも同じようにした。サイレンの音などまったく聞こえてはいなかった。


 私は、再び写真をディスプレイの上に取り出し、椅子を少し後ろに引いた。写真は小さくなった。しかし、それの方が私にはよく見える。写真が動き出す。「写真を見ていて物語が見えてこないような写真はだめ。撮るときは物語を作りながら撮りなさい」と市民文化講座のデジカメ教室に参加したとき、三十歳を少し過ぎたぐらいの若い女性講師がわれわれにさかんに言っていた。今までの写真はどれも物語など想像できなかった。ただ、今回は違う。物語が動き出す。
 私はふっと机の方を見る。机の右端の壁を見る。そこに大きな若草山の山焼きのポスターが貼ってある。夜空を焦がす山焼きの上に、花火と五重塔が重ねられている。奈良へどうぞという観光用の写真だ。その写真は、私が、終電車が終わってから、駅に忍び込み、ポスターを剥がしてきたものだ。私が窃盗まがいのことをした唯一のものだ。どうしてもそのポスターがほしかった。山焼きの炎が空を焦がしているのがたまらなかった。だが、今、それを見ていると、どうも炎がくすんで見える。時が経ち、古びてしまったためだろうか。それに、花火の写真が山焼きの上に重ねられているのも気に入らない。これ見よがしに美しさを強調している。私は、それから目をそむけ、パソコン上の写真に目を向ける。
 ここに映し出されているのは、先程見ていた公園の写真とよく似ているが少し違う。最初の写真を撮ってからしばらくして、もう一枚撮ったものだ。公園を撮ったものが二枚あり、その後の方だ。その写真には、少年も女も若者も写っていない。ただ、以前、女が座っていたベンチの後ろには林があり、その中を通って裏口へつづく細い道がある。そこに向かって歩いていく男の後ろ姿が写っている。それはカップ酒の男だ。
 カップ酒の男は森の向こうで訳のわからない言葉を大声で叫んでいる。こちらまではっきりと聞こえてくる。まるで口から火を噴き出すような感じで。
「ばかやろう、憶えておけ。このままですむと思ったら大間違いだぞ」誰かに向かって叫んでいる。
「おんどれ、あほんだらめ、今度、街であったら何されるかわからんぞ」
 公園の中には誰もいない。いや、前方には、長く伸びた人影が映っている。あれは私の影。叫んでいるのは私。相手は私の上司と人事部長、それとも、この間再就職のために訪れた会社の面接官。
 その時、突然、カップ酒の男と見間違うような男が大声をあげて公園へ入ってきた。
「火事だ、火事だ。ヒグチ製作所が燃えているぞ」
 公園の林の向こうを見る。白い煙がもくもくと立ちのぼっている。遠くでサイレンの音が聞こえる。公園の中を何人もの人が、火事だ、火事だと喜びに似た声を出しながら走っていく。


 二人の警官が立ち去り、少年もあのときと同じように裏口から去った後、わたしはひとりで、あのときと同じように公園の裏口を出て、ここへやってきた。
 廃屋の玄関前には石の門柱があり、樋口工業株式会社社員寮という大きな木の表札が門柱に張り付けられていた。
 目の前の焼け落ちた火事跡にも、まだ、あのときの社員寮の面影がわずかに残っている。入り口の石柱とその後ろの部分、つまり、二階建ての社員寮の右三分の一だけが原型をとどめている。しかし、左の方の三分の二は黒こげの柱がいくつか残っているだけだ。黒い柱の折り重なった間から白っぽい空が見えている。焼け跡であることには間違いない。火事があったことをしめす痕跡としては充分すぎる。だが、この社員寮で、若い社員たちが疲れた身体を休めながら、好きな女の子にどのようにして近づこうかと考えたことを示す痕跡などはもうどこにもない。
 わたしは古びて何の役割も果たさなくなった社員寮がさらに火事によって、焼けただれた姿を晒しているのをじっと眺めていると、五日前、まだ社員寮がかろうじて家の形をとどめていた姿が甦ってくる。それは思い出しているのか、それとも、痕跡によって想像しているのかがはっきりとしない。でも、五日前、わたしはここにいたという思いだけは強まっていく。前にある社員寮はわたしがここにいたということを示す痕跡。
 少年が「もっと燃やすものがたくさんあるところを、僕、知ってる」と言ったとき、そこにいた誰もが驚きの目で彼を見つめたものだ。
 中年になりかけの女、若い営業マン風の男、カップ酒の五十男、みんながまるで神からのお告げを聞いたような顔をした。
 だが、少年が公園から姿を消すまでは誰も彼の後を追わなかった。彼らはじっと藤棚の金網のゴミ箱を見つめていた。ところが、彼が見えなくなった途端、まるで、ハーメルンの笛吹き男の後を追うねずみのように、一人、また、一人と少年が歩いていった方へと消えた。もちろんわたしもそうした。
 だが、この場所に着いたとき、誰の姿もなかった。ただ、少年が燃やすものがいっぱいあるところ、と言ったのはここしかないと思った。
 周りは金網で囲われ、コンクリートの床の割れ目にはえのころ草が生えたいた。その向こうにはスレート屋根の工場らしき建物が見えた。広い入り口は開け放されたままで、放置された機械類が見えた。
 工場の入り口を示す二本の石柱の右側の道路に沿って、まず、コンクリートの三階建ての事務所らしい建物があり、その隣に、木造二階建ての細長い社員寮があった。事務所と社員寮の間は十メートル以上は離れていて、大風でも吹かない限り、類焼の怖れなどまったくなかった。それに、社員寮の右端の向こうも広いコンクリートの広場で建物はない。それに道路を挟んだ対面は田圃だった。まったく、朽ちかけた社員寮が余計なものとしてぽつんとそこに建っていた。
 工場跡地は金網が周りに張り巡らされているが、ところどころが破られていて、中に入るのはたやすかった。わたしは少年がその中へ入ったに違いないと思った。わたしも身を縮めながら金網の穴へ身体を入れて、工場側に出た。そこで、上着のポケットに手を入れ、ライターがあるかどうかを確かめた。指先に手応えを感じ、それを取り出した。それから社員寮の裏側に回った。裏側はひどかった。そこにはいろんなものが積まれていた。看板の古いもの、油のいっぱいついた柱の破片、棚の壊れたもの、ビニール紐でくくられている書類の束や段ボールの束。「燃やすものならいくらでもある」と言った少年の言葉が甦ってきた。と、途端、枯れた丸太、乾燥した竹、枯れたヒバの枝、かき集められた松の落ち葉、不要になった藁束、それらが広い庭の真中に山のように積み上げられている光景が思い浮かんだ。人々がそのまわりに集まり、取り囲んでいる。火がつけられ、炎が天に向かって勢いよく燃え上がる。温かさがひとびとを包み、みんなが陽気になる。
 誰々のところに男の子が生まれたって、それが○○グラムもあったって、あの小さなお嫁さんからよくもそんな大きな子供が産まれたものだ。誰々のおばあさんは九十歳になってもまだ畑に出ているって。誰々の息子は町の学校でも成績がよくて、一番だって、などと喋りあい、そして、何度も火を見つめ合う。煙が漂ってきたらそれを避けるため火のまわりをぐるぐると移動する。
 あのような火をわたしはもう何年見ていないだろうか。火は、ことごとく隠され、押さえつけられている。昔は、庭掃除をすればすぐに落ち葉に火を付けて燃やした。ゴミができると、ドラム缶の中でそれを燃やした。ご飯を炊くと言えば、かまどに枯れ木や落ち葉を放り込み、マッチでそれに火をつけた。瞬間、大きな炎が立ちのぼり、火を付ける快感を味わった。風呂を沸かすのは子どもの仕事だった。煙突があったためか、風呂の火はゴーゴーと音を鳴らして燃えた。田畑では枯れた豆の木が燃やされ、枯草が燃やされ、それが大きな炎となって天空に舞った。幼少のときにこういう経験ができたのはわたしの故郷が、かなり山奥であったためかもしれないが、五〇年ほど前ならば、どこででも見られた光景である。
 火は抑圧され、わたしたちの身の回りからほとんど姿を消した。
 わたしは、ライターをしっかりと握りしめ、段ボール箱が折りたたまれて積み上げられているところに近づいた。段ボールは落ち葉のようによく燃えるぞ。段ボールから炎が上がるのが見えるような気がする。空高く、ふんわりとした雪のような白い灰を空に撒き散らしながら燃えるぞ。そう思うだけで、私の心は快い。うっとりとする。だが、いっぽうで緊張もする。それがまた心地よい。緊張する癒しというのがあるような気がする。
 さらに社員寮に近づく。社員寮が先程の思い描いた藁束や大豆の取られた木、枯れ枝や廃材など、燃やすものの山のような気がする。
 と、突然、段ボールや廃材の向こうから煙が立ちのぼった。それらがこちらに向かって流れてくる。熱風さえ感じられた。どういうことだ。わたしは驚き、廃材や廃物の向こうを見た。
 何かがすでに燃えている。誰かが廃物に火をつけたのだ。かなりの勢いで燃え始めている。炎は社員寮の板塀を上に向かって這っている。音さえ聞こえてくる。勢いを感じさせる音だ、いったい誰が火をつけたのか? 
 急いで廃物の周りを回って、社員寮の反対側へ行ったとき、すでに金網の穴を抜けて誰かが外へ出るのが見えた。それは影のようなものだった。それは気配だった。あの少年に違いない。わたしはそう思った。
 すでに穴の辺りは煙と炎で塞がれている。わたしは元の位置へ帰って、入ってきた金網の穴から顔を出そうとしたとき、道の右の方から少年が歩いてくるのに気づいた。先程の少年だ。とすると、火をつけたのは少なくとも少年ではない。では誰が? そう思った途端、これはいけない、彼に見つかれば、わたしが火をつけたと間違われるかもしれない、と思った。慌てて顔を引っ込めようとしたとき、少年は携帯をわたしの方に向けた。写真を撮ったのだ。どぎまぎすればかえって怪しまれると思い、今度は身体全体を金網の破れに入れ、道路側に出た。彼はそれをもまた撮った。
 そうだ、彼の携帯の中に、わたしが何時何分にここにいたという証拠が残っているはずだ。疑われている火事現場からほど遠いこの場所、その時刻に、わたしがここにいたという絶対の証拠がある。しかし、……。あのとき、場所が違うここでも火事が起こったのだ。火事は二箇所で起こっていた。
 ただ、少年は、火事の場所に自分がいたことなど警官には告げなかった。ましてや携帯で写真をとったことなど、警官は知らない。
 しかし、それをわたしが警察には言えない。それを言えば、わたしが放火したと疑われる。わたしがここにいたという証拠があるのに、それは誰にも見せられない。
 あのときわたしは自分の動揺を隠すために咄嗟に少年に声をかけたのだ。
「バス停はどこかな」
 彼は意味ありげな笑いをした。
「バス停ならこの道をまっすぐ行くと広い道に出るから、そこ」
「この道かい」
「そう」
 すでにここからも見えるほどに社員寮のあちこちから煙が立ちのぼりだした。
「あれ、煙が出ている。何か燃えているみたい」と少年は声をあげた。
 ガラス窓がすでに割られていて、部屋の壁が見えている。そこから黒い煙が勢いよく出てくる。ちろちろと炎さえ見えだした。少年はそれをも撮る。
「火事だ、火事だ。すごい、すごい」少年は高い声を出した。
 わたしと少年は黙って社員寮の道側の二階の二つの窓から勢いよく炎が吹き出し始めるのを見ていた。まるで龍が口から火を吐いているようだった。白色、黄色、朱色、黒色の炎が布の舞いのように戯れ、捩れ、はためきながら大気の中へと消えていく。その勢いがわたしの中のわだかまりをきれいさっぱりと消し去っていく。
 背の後ろの方に、この光景を眺めている複数の人のいる気配が感じられた。カップ酒の男、三十過ぎの女、若いサラリーマン。
「あっ、誰かがこちらへやってくる」と、突然、少年の視線が道の右側を向いた。わたしもそちらを見ると、額のはげ上がって肥った男がこちらに向かって歩いてくる。
 少年はすでに反対方向に走り出して、細い路地の方へと曲がっていく。わたしも彼の後をつづいた。
「火事だ、火事だ」と男が大声を出し始めた。だが、路地はひっそりとしていて誰も出てこない。「火事だ、火事だ」と犬の吠え声のような声が何度も聞こえるが、それらはただ路地の上を駆け抜けていく。

  
 この後、「わたしは」いったいどうしたのだろうか。さらなる証拠を見つけるために再び奔走し出しただろうか。それとも、結局、見つけても見つけられなくても同じことになると思い、ばからしくなって証拠を見つけることなど止めてしまったのか。
 私はどうも後者のような気がしてならない。自分が犯人にされてもいたしかたがないと、とんでもない考えにとりつかれたような気がする。だって、あそこで火をつけなかったのは、すでに誰かが火をつけていたからであり、火をつけなかったのはただの偶然にすぎないのだから。
 だが、そう考えたとき、放火犯と疑われ、ひょっとしたら何年も刑務所に入れられるのと、自分は放火とはまったく関係がないとされるのとではやっぱり大違いだと思い、その後も彼は必死で自分の痕跡を探しつづけたのではないかとも思った。だが、いくら探しても、彼がそこにいたという証拠は見つからないだろう。
 そう考えたとき、首の付け根のところがかなり痛くなった。私は、首を縮めて、元に返した。その運動を何度か繰り返した。それから、キッチンへ行き、陶器のカップを取ると、棚のところのインスタントコーヒーを入れ、湯を沸かしてそれを入れ、こぼさないように、パソコンのマウスの横に置いて、ゆっくりと啜った。気分がかなり落ちついてきた。だが、そのつづきを書く気が起こらなかった。
 私は、パソコンで「若草山の山焼き」というのを打ち出した。ユーチューブの動画がたくさん載っていて、そのいくつかを見た。どれもこれも迫力がなく、つまらなかった。火はすべて映像の中に閉じこめられていて、本物のろうそくの火よりも劣っていた。
 私は、立ち上がって、右端の貼られた若草山の山焼きのポスターに近づき、それを壁から外した。それを幾重にも折り曲げた。これに火をつければ燃えるだろう。そうすれば、これを密かに手に入れた私の痕跡はきれいに消されるだろう。私はそれを脇の下に挟んだ、それから、机の上の採用拒否の通知の紙を拾い、左手でそれを持った。さらに、机の右の奥のところに、もう少しで床に落ちそうになっている百円ライターを腕を伸ばして取ると、それを右ポケットにしまい、玄関に向かった。行き先は公園。そこにはカップ酒を飲んでいる男、何だか陰鬱そうな顔をした若いサラリーマン風の男、待てどもこない恋人を待っている女、サッカーボールを持った少年がいるかもしれない。少年は私に「燃える物がいっぱいあるところ、僕、知っている」と言って、そっとその場所を教えてくれるはずだ。


 

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