白狐   阿井 フミオ


 

 トーストを齧りながら、朝刊を読んでいると、速報を知らせるデジタル音が聞こえた。また、地震かな、と思いながら、テレビに目をやると、画面の上部にテロップが映し出されていた。

藤圭子(62)死亡
知人男性のマンションから
飛び降り自殺

 リモコンを取り、音量を上げる。キャスターが、慌て気味に、スタッフから原稿を受け取る。
「ただ今、訃報が入りました。宇多田ヒカルさんのお母様で、歌手の藤圭子さんが、東京都新宿区の高層マンションの前で倒れているのが発見され、病院に搬送後、死亡が確認されました。遺書などは見つかっていないようですが、衣服の乱れや争ったような跡がないことなどから、新宿警察署は飛び降り自殺を図ったとみて、引きつづき調査を行っているとのことであります」

二十六日、Yahooのトピックスのメニューに「宇多田ヒカル、コメント発表」とあった。開くと次のような要約が載っていた。
「『八月二十二日の朝、私の母は自ら命を絶ちました。さまざまな臆測が飛び交っているようなので、少しここでお話をさせてください』と切り出し、『彼女はとても長い間、精神の病に苦しめられていました』と明かした」
詳細を見ようと、公式サイトへのショートカットをクリックしたが、ビジー状態でアクセスすることができなかった。

そのコメントが私に十四、五年前のある出来事を思い出させた。

「『First Love』、買う?」と、受話器の中で[なん]が言った。小学四年生の直子は、自分のことを一年ほど前から突然[なん]と呼びだした。[なん]は、遠縁の子だ。私の母と彼女の祖母が、又従姉妹にあたる。私と彼女が、何親等になるのか、よく分からないが、心情的には姪っ子というのが最も近かった。大阪では唯一の血縁でもあり、家族ぐるみで互いの家を行き来していた。
「それって何?」
「ファースト・アルバムだよ、ヒッキーの」
 信じられへん、なんで分からんのやろう、という思いを込めた溜め息が、聞こえた。
「1作目のシングル出したばかりなのに、もうアルバム?」
去年のクリスマス・プレゼントは、彼女の希望で宇多田ヒカルの『Automatic』だった。
「フーニイが買うんだったら、ダブっちゃうから[なん]買うのやめようかなって思って……」彼女には、三歳年上の兄が一人いるが、彼のことはおニイと呼び、私のことはフーニイと呼んだ。
 小学校の下級生の頃までは、会うといつも纏わりついてきたが、この頃はいっしょに歩いても、手を繋がなくなった。しかし、おねだりしたいものがある時には、自然と幼児期の引っつき虫に戻った。
「発売日はいつ?」
「ナウ・オン・セール」
「[なん]は英語も喋れるんだ」
「だって、来月から五年生だよ」
「じゃあ、日曜日は、難波にお出かけしなくっちゃ、いけないね。ママに話しとくよ」
「わかった。ナウ・オン・セールだもんね」と言って電話を切った。

 タワーレコードでお目当ての『First Love』を買い、高島屋でオムライスを食べると、心斎橋筋を不二家へ向かう。その間に三軒大型のゲームセンターがある。それらに入りUFOキャッチャーをするのが、最近のお決まりコースだった。小銭入れにあった百円玉を十枚渡す。レストランでの作戦会議で本日の目標は、アンパンマンシリーズのぬいぐるみのうち、すでに所有しているカレーパンマン以外のキャラクターを二体獲得することに決まっていた。結果は上々で一軒目でドキンちゃんとジャムおじさんとばいきんまんをゲットした。キティちゃんの財布には、百円玉はまだ四枚残っていたが、[なん]は、「今日はこれでおしまい」と言って、通りに駆けだした。慌てて後を追う。彼女は、北上する人の流れと南下する流れが潮目のようになっている中央部を、お尻を振りながら歩いていた。デニムのミニスカート、水色地に白いドットの七分袖のパーカー、ピンク色の格子模様のポシェットを、右から左へななめ掛けし、右手にはゲームセンターのビニール袋を持っている。振り返って私を確認すると、左の掌をひらき、小さく振ってから、また歩きはじめた。
黒のショートパンツに豹柄のチュニックを着た若い女とすれ違った。[なん]の手にした袋が弾かれ、中からばいきんまんが飛び出した。女が何かを言い、[なん]が言い返すのが見えた。
「だいじょうぶ?」駆け寄って声を掛けた。
「ねぇ、フーニイ、靴、見た?」
「誰の?」
「さっきの人、[なん]にぶつかった女の人」
「そんなの見てないよ」そう答えながら、振り向く。女の姿はすでに人ごみに紛れ込んでいた。
「超カワイかったよ。大きなリボンがついた真っ赤なパンプス。でも、ぜんぜん似合ってへんの。あの靴、可哀そう。自分に相応しくない人に履かれるなんて」
ビニール袋の輪になっている持ち手のところが、一カ所切れていた。そこを結び直し、もう一方も同じ大きさになるように調整した。
「ありがとう。ねぇ、あの人、きっと転ぶよ。だって、サイズ合ってへんし、それに、おしっこガマンしているときみたいなおブスな歩き方で、七センチのヒールは無理やもん」と言って、[なん]は、にっと笑った。

 時間が中途半端なのか不二家のパーラーは空いており、お気に入りの窓際の席に座ることができた。五分も経たないうちに、苺のショートケーキとミックスジュースとコーヒーが運ばれてきた。[なん]は、ケーキの上にのっている大きな苺をつまむと、一口に頬張った。彼女の表情は、九歳の女の子に戻っていた。
「ねぇ、この土二つの漢字なんて読むの?」タワーレコードの黄色いパッケージから出てきたパンフレットを見せながら[なん]が言った。
「けい」と、答える。
「けいこ、か…… ねぇ、藤圭子ってヒッキーのママだって知ってた?」
「知ってたよ」
「歌手なんだよね?」
「60年代終わりから70年代初めにかけて活躍したよ」
「[なん]の生まれる前か。どんな歌? R&B?」
「演歌。彼女の場合、うらみ歌って書いて怨歌という人もいるけどね」
「よく、わかんないけど、ヒッキーとは違うんだ。フーニイ、藤圭子、歌える?」
「たぶん……」
「じゃ、こんどカラオケで歌ってよ、約束だよ。それにしてもヒッキーとママ、親子なのに全然似てないね」デビュー当時の藤圭子の写真を見ながら[なん]が言った。
「めちゃめちゃ、きれいだね」と、溜め息をついた。「ヒッキーもかわいいけど……自分が美人ママに似てないなんて、娘としたら超ビミョウ」と言ったまま、黙ってパンフとCDジャケットを見比べていた。
「昔ね、[なん]、信田のお婆ちゃんとお芝居に行ったことあるねん。男の人が、お化粧して女の人の役をするお芝居やけど……白いキツネさんが恩返しでお嫁さんになるお話……ヒッキーのママって、その白キツネさんに似ている。ちょっと、怖い感じ」と言って、「コン」と鳴き真似をした。

 なんばウォークの地下街から電車のホームに降りていく広場前に人だかりができ、ざわついていた。エスカレータは、上り下り共に止まっていた。乗降口には、赤い三角柱に虎ロープが張られ、通行止めになっていた。幅広の階段上にもかなりの人が立ち止まっている。テレビで観たサリン事件の光景が一瞬過った。[なん]からビニール袋を受け取り、空いた右手をしっかり握った。地上に出た方がいいかな、と思ったが、後から新たな人が来て、身動きがしづらかった。
「怪我人が出ています。その場でしばらくお待ちください」数人の駅員が拡声器を手に階段を上がって来た。
人々が彼らを取り巻き、質問攻めにした。その遣り取りから推測すると、女性がエスカレータの降り口で転んだため、エスカレータが緊急停止をし、その反動で負傷者が五、六名出たらしい。
 それらの情報が浸透していくと、人々は拡散していった。周りが目に見えて空いてきた。そこへ、救急隊員が、十人ほど駆けつけ、階段を早足で降りていった。
 階段の流れも復旧してきたので、[なん]と壁際をゆっくりと降りはじめた。
 エスカレータが一本再稼働したようだ。頭部に三角巾を当てた中年の男性が隊員に付き添われて上がって来た。引きつづき女性が三名男性が一名退避してきた。
「すみません。道を開けて下さい」    駅員の先導する担架が見えた。救急隊員が、担架を階段と並行に持ち、横歩きで慎重に登って来る。二チームいた。私と[なん]のすぐ脇を通った。最初の担架には白髪の男性が乗っていた。次の担架には、若い女が横たわっていた。毛布の間から豹柄の上着の一部が見えた。右足には、副木が添えられ包帯が巻かれていたが、左足は、リボンがついた真っ赤なパンプスを履いていた。ヒールは取れて、なかった。
[なん]が強く手を握った。「なに」、と言って[なん]を見ると、無言でにっと笑った。
見上げているためか、[なん]の切れ長な大きな眼の目尻が、吊り上がり気味になっていた。
子狐のようだな、とふと思った。


 

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