六十五歳の誕生日を終えたばかりの、十月の中旬であった。僕はがんの手術を受けるために、K総合病院へ向かうタクシーに乗っていた。折悪しく朝のラッシュ時と重なり、先ほどからタクシーは発進と停止を繰り返している。
シートにもたれた僕は、傍らに置いた入院中の着替えなどを詰め込んだトートバッグを引き寄せた。オレンジ色のバッグをあけると、手探りで中からK病院名の刷られた茶封筒を取り出した。封筒のなかにある入院申込書を出し、広げた書面を改めて見つめた。
書面の上段には、入院する本人の大下六郎と僕の署名がしてある。下段に連帯保証人の欄があり、長男の克夫の署名がしてある。連帯保証人は二名なのだが、もう一名は空白のままだ。
空白の欄はこれから病院で会うことになっている、元職場の同僚だった小林峰子さんに依頼してあった。
急にタクシーの速度が落ちて止まった。正面の信号が赤になっている。車の前の横断歩道を、堰を切ったように行列が続き、渡りきった人波が歩道いっぱいに膨らんで続く。
三方向へ向かう線路の分岐駅に近いため、電車が発着するたびに繰り返される光景なのだろう。この人々のうち三分の一は、K総合病院を目指す人たちなのだろう。フロントガラス越しに、K総合病院のクリーム色の建物を眺めて僕は思った。
信号が変わり走り出したタクシーは横断歩道を越えると、すぐに左にハンドルを切り病院の門を入った。タクシーは広々とした前庭を迂回して、正面玄関に横付けをして止まった。
料金の支払いを済ませて外をみると、小林さんとその娘さんの由佳が、開いたドアの向こうでこちらを覗くようにして掌を左右に小さく振っている。
傍らのトートバッグを掴み、車外に降り立った僕は「すまないね、朝早くから来てくれていたのか」なかば照れ隠しのつもりで、大げさに顔をしかめて二人に声をかけた。
「少しまえに来たの。ここで待ってれば会えるはず、と話してたら、やって来たタクシーに乗ってるんだもの」
小林さんはそう言い、由佳と顔を見合わせて笑った。乗ってきたタクシーが行ってしまうと、すぐに次のタクシーが着き、警備員に促されるままに三人は入り口の横に設置されてある郵便ポストのところまで移動した。
「久し振りだなぁ、由佳ちゃん。そろそろ就活か?」
「就活は来年からよ。それよりおじさんはどう?」
「どうって、どうよ」
僕のおどけた調子に由佳は笑い、小林さんもつられて笑いに引き込まれている。
瓜実顔で大きなメ瞳、美人顔というより、どちらかといえば可愛い顔立ちで、この親子はまるでコピーしたくらいにそっくりだ。ただ百四十センチ足らずの小柄な母親に比べて、娘の由佳は百六十以上はありそうだから背丈だけは似通っていない。それに由佳に言わせると、母親はボインなのに娘の私は絶壁だと口を尖らせていたから、そのあたりも異なっているのだろう。
ひとしきり近況などを話し合ったあと、由佳は大学へ行く途中に立ち寄ったので、これから登校すると行って別れた。由佳は病院の門を出る時に一度振り返り、見送る僕と小林さんに手を上げると電車の駅に向かって歩き出しすぐに見えなくなった。
週明けの月曜日ということもあってか、病院内に足を踏み入れると、受付がある広いロビーは右往左往する人々と、案内と大きな名札をつけた職員の甲高い声、院内のカフェの開店を知らせるスピーカーのアナウンスの音など、ちょっとした繁華街の雑踏を思わせる賑わいだ。
「大下さん、私が手続きしてくるから、診察券と書類を出してよ」
がん患者相談窓口、と大書きされた案内板に見とれていた僕は、小林さんの声に我に返った。ここでは診察を受けるにも、各種の検査を受けるにも診察券の提示から始まる。診察券が院内すべての通行手形なのだ。
小林さんは入院申込書の入った茶封筒と診察券を受け取ると、手に提げていた紙のショッピングバッグを僕に預けた。「例の件頼みます」僕は右手で拝む仕草をした。彼女はピースサインをして「ここで待ってて」と言い残し、入院手続きと書かれた窓口へむかって足早にいってしまった。
僕は小林さんにすべてを任せた格好で、所在なくそばの長椅子に腰をおろした。彼女が戻ってきて座る席を確保すべく、紙バッグと他人と取り違えないために大きめの名札をつけたトートバッグを横に並べておいた。
それにしても、小林さんがこんなに朝早くから、来てくれるとは思いもよらなかった。
定年後にビル管理会社に警備員として再就職した僕は、ショッピングセンターの警備員として派遣された。そこで同じビル管理会社から、警備員として派遣されていた小林さんと知り合ったのだった。
何人もの警備員がいるなかで、特に彼女と親しく接するようになったのには、何かにつけて気が合うことが多かったからだろう。それに、飾り気のない性格、ほとんど素顔にちかい薄い化粧、独り身でありながら娘を育てていることに、ひたむきなものを感じた。それらが、長く独身を通してきた僕の心をとらえたのかもしれない。
ところが、半年まえに、我々を派遣しているビル管理会社から、突然他の業者と入れ替わることになったから、と通告された。つまり職場がなくなり、失業したのだ。
僕は年齢的にも引き時かな、と別段慌てもしなかったが、まだ五十二歳の小林さんは、ハローワーク通いをしているものの、未だ仕事を見つけることが難しいようだ。
一昨日のこと、僕はこのたびの入院に際して、小林さんに連帯保証人になってくれるようにとメールをしていた。連帯保証人二人のうち、あと一人は他人であることが望ましかった。
自分が、がんに冒されたことを知られたくない思いから、親しい友人や知人に依頼するのは気が進まない。半月ばかりまえに、やはりこのK総合病院で精密検査を受けたときにも、小林さんに付き添ってもらっていて、一番に彼女が依頼しやすい存在であったのだ。
夏の終わりに近いある日、突然に血尿が出たため、普段に通院している家の近くの医院へ駆け込んだ。僕を診察した医師は、即座にK総合病院を紹介した。ただならぬものを感じた僕は、衝動にかられるように、小林さんにそのことをメールで伝えた。しかし、付き添ってくれ、とは言わなかった。なのに、当日の朝、病院の入り口に彼女は僕の来るのを待っていた。
その前日の夜に、近くに住む娘の初恵に電話をかけて、病院まで車で送ってくれないかと頼んでみたが、仕事を口実にタクシーで二千五百円もかかる道程を送ってきてもくれなかった。おまけに、診療手続きぐらい自分でできるでしょう、長いこと生きてきたんだから。などと言って電話を切った。
そんな昨夜の初恵の言い草を思い出し、小腹をたてながら病院に着いたところに、小林さんがいたのだから、驚きと感激とが同時に押し寄せたのも無理はない。
ひとりでは心細いでしょうから。と微笑む小林さんに、三十年近くずっとひとりでしたから、特にどうってことありません。それより、あなたこそ他に用事があるでしょうに。と内心を隠して虚勢を張ってみせたものの、安堵感で自然と表情が緩んだ。
もしや、それまでは他人事だと思っていた、がんの宣告を受けるのでは、などと考え膨れ上がる不安を懸命に押さえつけてきた。
思えば職場を去ってからも、連絡を取り合っては映画を見に行ったり、近場の観光地へ遊びにいったりしていた小林さんに、衝動にかられるようにメールをしたのも、そんな心の内を誰かに言わずにはおれなかったのだ。
僕は小林さんの顔をみるとそれまでのウツセキ鬱積した不安感が一気にほぐれ、胸の内を思い切り吐露したいような思いにかられた。
K総合病院では、造影剤によるCT撮影のほか、内視鏡による検査も受けた。
「大丈夫よ、単なる検査だからすぐに終わるわ」
よほど不安げな顔をしていたのか、小林さんの言葉に押されて検査室に入ったものの、この検査は僕にとってかなり衝撃的なものだった。にこやかに僕を迎えた四十歳前後と思える女性看護師は、差し出した診察券に目を落としながら「お名前を言ってください」と言う。「大下六朗です」答える僕に、患者さまを取り間違えないための確認です。と言いながら業務的に〈僕にはそう思えた〉微笑んだ。
「それでは大下さん、上はそのままで、下はパンツを脱いでこちらへきてください」
「……!」
検診台のところに、もう一人さっきの看護師よりも少し年長の看護師がいて、こちらをむいて声をかけた。
「なにも恥ずかしがることはありません。ここは病院ですから」
一瞬躊躇するこちらの心底を見抜いたのか、看護師はにこやかに続ける。顔はにこやかでも、言葉のトーンは極めて命令的であるのだ。六十五歳の馬齢を重ねていても、意識的にはまだ枯れきっているつもりはなく、看護師とはいえ妙齢の女性のまえで下半身をさらけだすのは、なんとも気恥ずかしさがともなうのは致し方がない。
すっかり観念した僕は、下半身すっぽんぽんのまま、おそるおそる指示された検診台にあがった。
「女の方のお産の場面を想像してください」
えっ、冗談じゃない、そんなもの想像できるものか。年配の看護師の言葉に心中毒づきながらも「お産に立ち会ったことがないので、無理です」と答えると「そうね、大下さんの時代では、男性がお産に立ち会うことはあまりなかったでしょうね」といって年若の看護師と顔を見合わせて笑っている。なにがおかしい。笑ってる場合かよ! 内心で大いに毒づくも、不安感で気持ちは消え入らんばかりだ。
準備がととのったらしくて、白衣を身にまとった二人の男性医師が現れた。どちらも三十歳なかばの若さだが、同性の医師の顔をみて、僕は心なし安堵した。
体を丸めた状態で背中に麻酔の注射を打たれたあと、両足の脹ら脛をアームで持ち上げられたままの、大股開きの格好で検診台に仰向けに横たわった。なんとも恥辱的なポーズに、尊厳もなにもあったものではない。世の女性たちは、皆このような体験をしているのか、いざというときの物に動じぬ女の強さが頷けもした。
内視鏡が這入りやすいように、ペニスの先からゼリーを挿入されたあと、麻酔が効くのを待って検査が開始された。医師はモニターの映像をみながら、膀胱から腎臓に通ずる尿管へと内視鏡を挿入していく。このモニターの画面は検診台に横たわる僕からもみえていて、初めて目にする自らの内臓器官に不思議な感動すら覚えた。
ふたたびその日の診察で、頬から顎にかけて髭を生やしたN医師は僕と小林さんをまえに、机上のパソコンのモニター映像をボールペンで指しながら、先ほどの内視鏡検査の結果をおごそかに言い渡した。「これが腫瘍です。とくにこの場所にできるのは九九パーセント悪性の腫瘍なのです」モニターには海底に揺らめくイソギンチャクに似た画像が写っていた。
「本日腫瘍部分から採取した細胞を病理診断科で、どこまで浸潤しているか検査をします。場合により、腎臓摘出もあり得ます。いずれにしても、手術による病巣の切除が最善の治療法となります」
N医師はそう言い、僕の顔をじっと見つめた。他に選択はないぞ。生きたかったらオレに任せろ。そう眼が語っている。すごい眼ヂカラだな、この先生。まだ死にたくはない。僕は手術をうける意志を固めた。背後に立って話を聞いている小林さんを振り仰ぐと、僕を見て顔でうなずいた。
「先生、お願いします」僕は手術を受ける意志を、固めたことを伝えた。
N医師はうなずくと、さっそく手術のための入院日の検討を始めた。白衣のポケットから携帯電話を取り出すと、少し離れた壁に貼られてある大判のカレンダーに目をやりながら話している。入院予約の状況を、問い合わせているらしい。
その結果、二週間後の十月なかばに入院をして、手術を受けることに決まったのであった。
受付を済ませた小林さんが戻ってきた。
「ここで待っていたら、病棟の看護師さんが迎えにきてくれるんだって」
小林さんはそう言い、僕の隣に腰をおろした。小林さんは手に受付で渡された緑色のファイルを持っていて、中には入院患者つまり僕に関する資料が挟まれているのだ。他にも黄色や赤色のファイルを持った人もいて、察するところ色分けにより入院する病棟が区別されているようだ。入院申込書の連帯保証人のことが気になり、尋ねると「手続きは全部すませたし、心配しなくてもいいから」彼女はそう言って微笑んだ。気持ちが落ち着かぬせいか、知らぬ間に貧乏ゆすりをしていて、小林さんにたしなめられる。
しばらくすると数人の看護師が待合ロビーに現れ、それぞれが色分けしたファイルを持つ者に声をかけてまわり始めた。
僕と小林さんは、緑色のファイルを持つ他の患者やその付き添い人とともに、迎えにきた看護師に引率されて、これから入院する病棟へむかった。着替えなどをいれたバッグはカートに載せられ、係員によって病棟まで運ばれるみたいだ。病棟へむかうエレベーター内ではみな無口で、それでいてそれぞれが相手を観察しあっている。エレベーターが六階で止まり降りると、そこが僕の入院する泌尿器科病棟だった。
スタッフステーションのまえまでくると、何人かの看護師が待ち受けていた。名前を呼ばれて返事をすると、なかの一人が僕と小林さんに、自ら胸の名札を指しながら担当のSです。と笑顔で自己紹介をしたあと、白いビニールのわっかを僕の右の手首にはめた。入院病棟、名前と生年月日が記されてある。僕は「まるで牧場の牛みたいだな」と言うと、S看護師は笑いながら、病室まで案内してくれた。
スタッフステーションから数えて、片側五部屋ならんだ廊下の突き当たり右側の四人部屋だった。入院予約の際に個室か相部屋かを選択するので、個室で一人いれば余計な事を考えて、精神的によくないと思い、四人部屋に決めたのだ。
病室に入ると、それぞれのベッドのまわりはカーテンで囲まれていて、先住者の顔はみえない。S看護師は二人を病室を入ってすぐ右側のベッドに連れて行った。ベッドの枕元には主治医のN医師とH医師の名が書かれた札がつけられていた。S看護師はさらに、ロッカーや冷蔵庫の使い方など、一通りの説明をして出て行った。
まだ二十代前半と思えるS看護師は、患者と接する折りの大きな瞳の笑顔がとてもよくて、僕的には好感度抜群だった。
小林さんは、僕の持参したトートバッグのなかから着替えの下着や洗面道具などを取り出して手際よくロッカーに入れたあと、振り向いて「寝間着は?」と尋ねた。病院のを借りるから、わざわざ寝間着は持ってこなかった。と答えると、病院からの貸出は手術着だけだそうよ。ちゃんと説明聞かなかったの? と少し口を尖らせ上目遣いに僕を見る。
「私、ちょっと売店へいって買ってくるから」
慌てて財布から代金を取り出そうとする僕を尻目に、彼女は病室から廊下に出ていった。足早に、待合ロビーの一角にある売店へ向かって、足音が遠のいていく。
思えば、女性に身の回りの世話をやいて貰うなど、離婚していらいのことだ。小林さんに睨まれ叱られても、悪い気などはしない。持参した書物や携帯ラジオなどを、ベッドの上に取り出しているところへふたたびS看護師がやって来た。
明後日の手術のことで、主治医のN先生から説明があることを告げた。看護師は続けて「説明は五時からですが、どなたか家族の方にきていただけますか」と言った。
昨夜初恵と克夫に電話をかけて、病院から呼び出しがあるやも知れない。とは言っておいた。だが初恵も克夫も勤めがあり、その時間に病院へ来るのは到底無理に思えた。
もう一度、連絡はしてみるつもりだが、あてにはなりそうもない。困ったことになったと思いながら「あの、どうしても、その時間でなくてはなりませんか」などと返事を濁しているところに、小林さんが売店のレジ袋をさげて戻ってきた。
「お世話になります」会釈する彼女に看護師は「奥さまですか」と言い、先ほど僕に話した内容を再度伝えた。
「あ、そうですか、わかりました」
板に付いた動作で了承する彼女に、S看護師は「じゃ、お願いしますね」と言い出ていった。
「小林さん、先生の説明は五時からだけど、そんな時間までここにいて大丈夫かな?」
「今日は、由佳も遅くなるから夕ご飯はいらない、と言っていたし、そんな心配しなくてもいいから」
戸惑いながら恐縮する僕に、彼女は大丈夫というように笑みを浮かべて言った。彼女がいてくれれば心強い。それならと、素直に彼女の言葉に甘えることにした。
「これ、着てみて、裾がちょっと長いかも……」
そう言いながら、彼女はレジ袋から男物のパジャマを取り出した。肩からさげたポシェットからソーイングセットを取り出し、なかから小さなハサミを取り出すと、素早く値札やラベルを切り取った。
僕がパジャマに着替えている間にも、彼女はビニール袋から晒しの腹帯やT字帯などを取り出してベッドの上に並べた。これらの品は、病院からまえもって用意するものと指示されていたものだ。
「悪いなぁ、買ってきてくれたのか。あとで売店へ買いにいくつもりだったのに」
ますます恐縮する僕に「バッグのなかに見当たらなかったから買ってきたんだけど、間に合ってよかったわ」と言って笑った。さらに「これも、ないようだったから買ってきた」と言いつつ、包み紙をはがして湯飲みを取り出した。
僕がパジャマに着替えおわると、峰子さんは紙バッグから小さな包みを取り出して僕にみせた。それは何かと尋ねると、ふりかけよ。食欲がないときに、いいでしょう。そう言って目で笑うと小声でこれから同室の患者に挨拶にいくと言う。
「挨拶?」いぶかると「顔つなぎをしておけば、なにかといいでしょう」と耳元で囁いた。
二週間ばかりの入院なのに大げさな、と思ったが、同室の者に顔つなぎをしておくのも、悪いことではない。そこまで気配りをしてくれる小林さんに感謝しながら、促されるままに、隣のベッドを囲むカーテンのまえに立った。
「すみません、ちょっとよろしいですか」
遠慮がちに声をかけると、なかから「どうぞ」の返答があり、おずおずとカーテンの隙間から顔を覗かせると、ベッドの主はスポーツ紙を顔にかぶせたまま仰むけでベットに横たわっていた。両手をみぞおちあたりで組んでいて、こちらを見ようともしない。
「あの、今日から入院してきた大下です。よろしく」
僕の声を聞いた途端に、相手は顔のスポーツ紙を払いのけてむっくりと起きあがった。無精髭を伸ばしたその顔をみて、六十歳前後か、もしかして僕と同い年くらいかなと思った。
「下はなんちゅうねん」
「下……ですか?」
「六朗です」と答えると「ワシはこれや」と言いつつ、ベットの枕元につけられた名札を指した。竹本健二と書かれた上の主治医の名は、僕と同じN医師ではなく、別の医師の名であった。
初対面なのに、いきなりなれなれしい物言いに面食らっていると、横合いから小林さんが「ほんのお印ですけれど」と先ほどのふりかけの包みをベッドの脇においた。
途端に「そんなん、せんでもええがなぁ」と先ほどの横柄な態度を一変させ、竹本は恐縮してみせた。
僕と彼女は竹本のところを出て、次のベッドにいきカーテンに手をかけた。
「ちょっと待てや」
声に振り返ると、竹本がベッドから起き出してきた。立ち止まる我々より先に、向かい側のベッドへいき「社長、ちょっとよろしか」と声をかけると、なかからの返事を待たずにカーテンの隙間から首を突っ込んだ。
「社長、今日からきた入院人が、顔つなぎやそうですわ」と僕のことを説明している。
いったい、どこの社長さんかね。内心で突っ込みをいれながら竹本のおせっかいが煩わしく、振り返ると彼女もおなじ思いらしく、瞳の奥で苦笑いをしている。
カーテンをあけた竹本がこちらをふりむき、わずかに顔を振ってなかへ入れと促した。「お邪魔します」声をかけながらなかへ入ると、坊主頭の男が半身を起こしてベッドに座っていた。ベッドの上に伸びるアームで支えたテーブルの上で、広げた書類に見入ったまま、顔をあげようともしない。
「大下六朗です。よろしくお願いします」
フルネームで自己紹介をしたのは、竹本みたいに下の名前は、などと問われるのは癪だったからだ。ところが相手は「うん」と頷いただけで、こちらを見ようともしない。なんだこいつ、社長か何か知らないが、礼儀をわきまえん奴だな。
「ここへくる者は、お互いにみな命の綱渡りです。お手やわらかに頼みます」
ムッとした僕は、男を睨み付けながら、ちょっと皮肉を込めて言ったあとで、すぐにこれでは顔つなぎじゃないな。と反省をした。相手は僕の言葉にようやく書類から目を離して、顔をあげたが無言のままだ。その貌からして、七十歳はこえていそうだ。
「こちら木村さんや、運送屋の社長はんやねん。ほれ、まるのなかにキ印のトラック見かけたことあるやろ」
そんなトラック見かけた覚えはないが、間に入ってとりなそうとする竹本に免じて曖昧に頷いた。
改めてみる男の顔は浅黒くて、浮腫んでいるのか全体が腫れぼったく、覆いかぶさる瞼の奥の眼差しだけが、こちらを見据えている。
「これ、ほんのしるしですけど」
小林さんから受け取った紙包みを、ベッドの端にそっとおき僕はそこを離れた。終始無言であった男の態度に、僕は気分を害していて、この時ばかりは挨拶回りを促した小林さんをチョッピリ恨んだ。
自分のベッドに戻り一息いれていると、枕元のスピーカーを通して体重測定にスタッフステーションまでくるようにと、看護師から呼び出しがあった。小林さんはその間に、給湯室へいってお茶をいれてくるからと言い、保温ポットを持ってともに病室を出た。
途中で小林さんと別れてスタッフステーションまでくると、入り口におかれている測定器の傍らで担当のS看護師が待っていた。指示通りに測定器に載り姿勢を正していると、少し離れたところに立っている看護師と目が合った。相手が笑い顔になったので、こちらも笑ってやった。
測定器は体重と身長を同時に測れる優れモノで、あっというまに測定は済んだ。
スタッフステーションから病室に戻らず、その足でデイルームへむかった。テレビと冷蔵庫共用のカードの販売機があると説明で聞いていたので、それを購入する目的だった。
昼食時にはまだ間のあるデイルームは、車椅子に乗った婦人が一人でテレビを見ているだけだった。しかしよく見ると婦人は居眠りをしていて、壁の大型テレビの音だけが響いている。僕は券売機に近寄り、機械の挿入口に千円札を入れカードをかった。そのあと、自然と足は日差しが降り注ぐ窓際に歩み寄った。
一枚ガラスの大きな窓の外に、広がる街の景色に目をやった。陽光に映える白壁のマンション、高架を走る都心にむかう電車、ビルの合間にのぞく公園の茂み、街路樹に隠れて辛うじて点滅する信号機だけが望めるロータリー。
行き来する車の音と、歩行信号が青になったときに響く単調なメロディー、屋根だけがみえる走行するバス。眼下の狭い路地をいく青い大きな箱を乗せた宅配便のリヤカー。漠然として眺めていると自然に三日後に控えた手術のことを考えた。
なに変哲ない日々の暮らしがそこにあるのに、なぜ自分がこんな非日常の世界にいなくてはならないのだ。僕の家系に、がんで亡くなった者がいるなどと聞かされたこともない。それなのになぜなのか。自分のいまの状況が、理不尽に思えてならない。いき場のない苛立ちと同時に、やがて迫りくるだろう死の恐怖が、現実感をともなって胸底に沈んでいる。
病室まで戻ってくると、入り口のところで小林さんとS看護師が立ち話をしていた。彼女は僕を見ると「どこまでいってたの?」と言い、すみませんね、と看護師に詫びている。どうもデイルームで物思いに耽りすぎたようだ。
照れ隠しに笑いながら頭をさげると、看護師は血圧を測りますと言い、患者のカルテを書き込んだノートパソコンが載っているキャリー付きの台を押して、入り口から僕のベッドのそばまで移動した。
看護師はパソコン台の中段の棚から血圧計を取り出すと、手慣れた動作でベッドに横になった、僕の右上腕に血圧計を巻きつける。そんな様子を背後に立って、じっと見つめている小林さんと目が合った。別に意味もなくニヤリとすると、彼女もつられるように笑い顔になった。
血圧を測り終えた看護師は、持参した薬があればこちらで管理するので渡すように言った。僕は高血圧症なので、普段から通っている医院で処方してもらう薬をビニールの袋ごと渡した。看護師によると、薬は病院の薬剤師が調べた結果により、手術後に服用の可否が決まるとのことだ。
廊下のむこうから、聞き覚えのあるメリーさんの羊のメロディーが聞こえてきた。
電子音のメロディーは昼食の配膳車のものらしく、だんだんと近づいてくる。そのうち病室のまえまできて音楽も配膳車も止まった。僕は急に、空腹感におそわれた。
配膳する足音が隣の竹本のところで止まり「今日はカレーうどんですよ」と女性の話しかける声がする。「ありがとう、そこに置いといて」竹本が気のない返事を返す。聞いていて今度は、じわ〜と口の中に唾液が湧いた。三度の食事がカレーでもいいくらいカレーは僕の大好物であり、カレーうどんにいたっては、ちょっとしたうんちくを有するくらいだ。
なにせ、戦後の食糧難の時代に幼少期を過ごした経験が染み付いていて、いまもって飯時が一番の楽しみで、食い意地の衰える兆しがないのは元気の源だと自負してきた。それはガンに冒されたいまも、恥ずかしながら食欲だけは旺盛なのだ。
「大下さま、お食事です」少し開けたカーテンから、給食係の女性が顔をのぞかせた。
「あ、どうもありがとう」小林さんはトレーを受け取り、テレビ台の下部にある簡易テーブルを引きだすと、その上に置いた。添えられたメニュー表とともに見ると運ばれてきたのはカレーうどんなどではなく、白身の魚のフライ、厚揚げと小松菜の煮物にわかめの酢の物の小鉢、どんぶり飯に味噌汁と漬物がならぶごく普通のメニューではないか。隣がカレーうどんで、なんでこちらは魚のフライなのか。
もっとも、入院時の説明で、抗がん剤の副作用による食欲減退には、特別なメニューがあることを聞かされていたから、竹本も食欲不振に悩まされているのだろう。小林さんは保温ポットから湯飲みにお茶を注いでくれたあと、ちょっと下へ降りてくるから、と言い残して病室から出ていった。
彼女は、昼食を食べにいったのだろう。ここの地階には、手頃な値段で豊富なメニューの並ぶレストランがある。僕も何度か利用していて、カレーはイマイチだがミニうどんの付くカツ丼定食など味もなかなかのモノだ。レストランと並ぶカフェのカツサンドも、そのボリュームからして病院内の店とは思えない、お値打ちメニューだ。
慌ただしい足音が近づいてきて、病室に入るとベッドを囲むカーテンを揺らせて通り過ぎる。
「竹本さん、お食事食べられたぁ」看護師が竹本のところへきたのだ。「見ただけで、胸につかえそうや」竹本が低い声で応答する。
「美味しそうなカレーうどんやないの、選択メニューでオーダーしたのに、少しでも食べてみたら」看護師の気遣う声。
「食う気がおこらんのや。看護師さん、よかったら持っていって食べてや」
「あのね、私が食べても竹本さんの体は回復しないでしょう」
竹本の投げやりな言葉と、看護師とのやりとりに気をとられていると、不意にカーテンが開いて小林さんが戻ってきた。
「あら、まだ食べてなかったの?」
まだ箸をつけていない食事と、僕の顔を見くらべる。
「あ、小林さんが戻ってくるのを待ってたんだ」
まさか隣の会話に聞き入っていたともいえず、場当たりの言い訳をした。
足音がふたたびカーテンを揺らせて、部屋から出ていく。看護師が竹本の説得を諦めて、戻っていくようだ。その後を追うように、竹本も病室から出ていく気配で、廊下を足音が遠のいていく。
「さきに食べていればいいのに」小林さんはそう言いながら、手に提げていたレジ袋を椅子のうえに置き、膳のまえにある箸箱から箸を取り出して私の手に握らせた。
「ありがとう」僕が箸を受け取ると、彼女は保温ポットのお茶を紙コップに注ぎレジ袋を手にとり椅子に掛けた。紙コップのお茶を一口飲み、レジ袋から菓子パンを取り出して食べ始めた。
てっきり、昼食を食べにいったものと思っていたら、売店へパンを買いにいっていたのか。自分としたことが気配りに欠けていた。
地階のレストランは結構いけるよ。とか言って、昼食代を渡すべきだった。
僕の掛けているベッドの端より、彼女の掛ける椅子は一段低く、少し俯き加減で、ちぎったパンを口へはこぶ様子を見ながら悔やんだ。
「食べる?」不意に彼女は顔をあげて、ちぎったパンを僕に差し出した。
「いや、いいよ。僕はご飯があるから」
「じっと見ているから、欲しいのかと思って」
ちぎったパンから垂れそうなとろりとしたクリーム、僕を見あげる彼女の瞳、突然わけもなくジンときた。
どうして、ここでジンとこなければいかんのだ。三十代半ばで離婚をして以来、六十五歳の今日まで、女性に縁がなかったのならともかく、独り身の気軽さから、女性との交際はそれなりに何度かあった。しかしながら、このような思いをしたのは初めてであった。
思えば、好みの女性の歓心を得るためになら、僕はその労力を惜しむことはなかった。何度かあった再婚話にも関心を寄せずに、現在まで独り身を通したのも、家庭という枠に縛られることなく自由な恋愛を謳歌していたからだ。下世話に言うなら、女に不自由はしなかったから、ということになる。
その結果は、預貯金など貯まることなく女性に貢いだが、逆に女性から優しくされた覚えはなかった。クリームパンをちぎって差し出す目のまえの彼女の優しさは、僕の胸底に熱い波紋を描いた。
思わず涙目になりそうなのを悟られまいと、とっさに僕は味噌汁の椀を手に取りすべてをどんぶり飯のうえにかけた。さらに、漬け物の小皿を傾けて汁かけ飯のうえにのせると、箸でかき混ぜながら音をたてて頬張った。
「どんな食べ方なの、木枯らし紋次郎じゃあるまいし」
あきれ顔の彼女。その古いテレビ時代劇の例えに、僕は咽せた真似をし、声を出して笑いながら指でそっと目をぬぐった。
僕が食べ終わると、小林さんはそれを待っていたかのように座を立ち容器をのせたトレーを持ち、スタッフステーションのまえに止めてある配膳車まで返しにいった。彼女が病室をでていくと、僕は傍のティッシュペーパーを手に取り派手に鼻をかんだ。
「お風呂へいってきたら、みんなお昼ご飯食べているから、いまなら誰も入っていないようだし」
戻ってきた小林さんは、僕に風呂へいくことをすすめた。詰め所のまえに貼ってある順番表によれば、月曜日の午前十一時から男子の入浴時間帯とあったから。などと言いながら彼女はロッカーから着替えの下着やバスタオルを取り出してまとめると、洗面器のうえにのせて僕に差し出す。有無を言わさぬ彼女の動きに、僕はせきたてられるように浴場へむかった。
浴場は入るとすぐに壁に大きな鏡の部屋があり、そのまえに洗髪台がある。おかれている椅子はリクライニング機能を備えたもので、なかなかの設備だ。棚にドライヤーとか、整髪料などがおかれている。
その奥に引き戸があり、男子入浴中と表示があるのを確認して戸を開けると、そこが脱衣場だった。
その奥が浴場らしく、すりガラスを通して人影が動いて体を洗っている様子がうかがえる。一番乗りのつもりが、彼女の予想も外れたわけだ。飯の早食いは僕の特技ともいえるが、まだ上手の者がいるらしい。などと、つまらぬことを思いながら浴場の戸をあけると、背中一面に、火炎に包まれた不動明王の彫り物が目に飛び込んだ。一瞬気持ちが引いたが、素っ裸になってしまった状態で引き返すわけにもいかない。
「ごめんなさいよ。一緒させてもらいます」などと遠慮気味に声をかけて、何食わぬ顔で横に並んで風呂場用の腰掛けに腰をおろした。同時の入浴は、ふたりまでと担当の看護師から聞かされてはいたが、実際に座ってみると隣人との間隔が僅かしかなく、かなり窮屈な思いを強いられる。相手は髭を剃りながらチラとこちらをむいたが、顔も頭もシャボンの泡に包まれていて人相もよくわからない。
「おう、もう飯食うたんかい」
なれなれしい物言いに、よくみると竹本ではないか。
「えっ、あぁ、竹本さんでしたんか」
返事を返しながら、なんだよ、そのスジのお方だったのか。えらい奴と同室になったもんだと思った。
「早いですな。昼飯は食いましたんか」
「大下はん、人間の三大欲望とは、なんぞや」
僕の問いかけに、竹本は剃刀を持った手を止め、こちらをむくと、禅問答でもしかけるかのような口調で言った。
「三大欲望――ですか? 人間は欲望のかたまりみたいなもんですからなぁ、三つに絞るのは難しいなぁ」
「それでも、人間が生きていくのには絶対に必要なもんや」
そう言うと、竹本はふたたび鏡にむかい剃刀を動かし始めた。人間の欲望と昼飯を食うことと、どんな関係があるのだ。生真面目に考えるほどのものでもない、と思った僕は洗面器から石鹸やシャンプーなどを取り出して、粛々と体を洗う準備を始めた。
竹本は髭を剃り終えたのか、剃刀を洗面器の湯につけて洗っている。と、いきなり竹本のシャワーが全開されて、僕はほとばしる飛沫を避けようと、思わず顔をそむけ身をよじる。
「要するにやな、食欲物欲性欲と、これが人間の三大欲望や」
シャワーを止めると、竹本はタオルで顔を拭きながら、まるで鏡にむかって喋るように正面をみつめて話した。
いきなりうんちくをかたむけられても、僕には「はぁ」と間の抜けた返事を返すしかない。
「その一番肝心の食欲がないのや。これは悲しいわ、生きることを否定することに他ならん。なぁそう思わへんか」
なぁて、そんな同調を求められても、僕には答えようもない。「昼のカレーうどん、食べなかったんですか」などと、わかりきった事をボソボソと相づちをうつ。
「何でも食べたいモノを言え、ゆうからカレーうどん言うただけや。スシも天ぷらとか、どんなご馳走でも口元へ持っていっただけでこれや」
竹本は、そう言って嘔吐の真似をした。
「クスリを止めるわけにもいかんでなぁ」
肩を落とし、やるせなさそうにつぶやく竹本、こうなると話題を変えなければ危ない。気分の滅入りは、治療にもマイナスになる。
「ところで大下はん。あんたの病名はなんや」
話題を変えようと思った矢先に、竹本が問いかけてきた。
「がんですわ」と言ってから、この病棟は皆が、がん患者であるのに気付き、尿管にがんができてまして、と言い足した。
「ほんで、手術日はいつやねん」
「あさっての水曜日です」
竹本は黙って頷き、しばらくして「手術は序の口や。あとが大変よ」と相変わらず鏡を見つめたまま話す。
「手術をして、だいぶになりますのか」
僕が問い返すと、竹本は、三ヶ月まえに手術をして、いまは抗がん剤治療のために再入院をしている。と言い、「もう難儀してるわ」と言って顔をしかめた。
ひどい食欲減退に悩まされていることを、言っているのだろうが、僕に返す言葉はみあたらない。
さきに体を洗い終えた竹本は、ステンレス製の浴槽に浸かりながら、さらに話しかけてくる。職業は何かと尋ねられ、もともとは鍛冶屋だと答えると、自分はとび職人で、現役のころには高さ三十メートルの鉄骨の上を駆け足で渡ったものだと、若い頃を懐かしむように話した。
とび職人か、それなら背中の彫り物も納得がいく。昔は彫り物をした、とび職人をよく目にした。それは危険と隣り合わせの作業に従事する男たちの、気概の象徴であったのだ。彫り物をみて、てっきりヤクザと思ったことをすまなく思った。
竹本は、最初は前立腺がんの診断をうけて、手術をすることになった。ところが事前の検査で肺がんがみつかり、肺の手術をさきにおこなった。彼が話すには、運送屋の社長とかの木村も、これまでに何度も入退院を繰り返していて、顔なじみなのだとか。どうりで社長などと言って、馴れ馴れしくしているわけだ。
「こうなりゃ、じたばたしても始まらん。なるようにしかならんわ。おお、ゴツド神様や」
竹本は両手を広げると肩をすくめてみせて、勢いよく立ち上がり浴槽からあがる。入れ替わりに、僕が浴槽に浸かった。
「あんたは、ええヨメはんがいてるから幸せや。こないなったら、つくづく女房がいたらなぁ、ほんま、そう思うな」
竹本は、神妙な顔をして言い、浴室から出ていった。
そうか、彼も女房がいないのか。初対面では横柄な物言いと態度で、僕は竹本にいい印象を持たなかった。こうして接してみると、それほどアクのある人物でもないようだ。裸の付き合いとは、よく言ったものだ。脱衣場の戸が開いて次の入浴者が入ってきた気配に、僕は浴槽からでた。
浴場から病室へ戻る途中、デイルームの窓際の席で竹本が所在なげにテレビに見入っていた。彼が気づかなかったので、僕は黙って通り過ぎた。
その日の夕方、N医師との約束の五時を過ぎても、まだ看護師からの連絡はなかった。六時から夕食タイムだから、下手をすると飯も食わずに話を聞くことになる。しかし、僕が焦る原因は、そんなことよりも小林さんのことだ。
帰りを遅らせてまで、N医師の説明に同席してくれる彼女に対しての恐縮と、早く帰らせてやらねばの思いが、僕に普段の落ち着きを失わせていた。先ほどから何度も、ベッドから病室の出入り口までを往き来して、スタッフステーションのあたりを窺っているのだ。
「少し落ち着いて、座って待っていたらどう」
そんな小林さんの声にも、苛々は増すばかりだ。すでに窓の外は暗く、点滅するカラオケボックスの電光広告さえ、僕の気持ちを苛立せた。
そうこうするうちに、看護師がやってきたが、初めての顔だ。夜勤につく担当の看護師が、日勤の看護師との勤務交代したことを伝えにきたのだった。
N先生から話があると言われて待っている。すでに約束の時間を三十分近く過ぎている。僕は看護師に、それらを一気にまくしたてた。
「今日は手術日なので、手術が予定時間より長引いているようです。申し訳ありませんが、先生がこられ次第にお呼びしますから」
苛立つ僕を刺戟しないようにか、看護師は言葉柔らかに言い残して病室を出て行った。
「ったく、もうすぐ夕食がくるのに、最悪だよ」
「大下さん、あなた、ここへ病気の治療にきてるのとちがうの?」
「……」
「看護師さんも、手術が終わり次第、先生がこられたらお呼びします。言っておられるのだから、静かにして待ってたらどうなの。ホテルに食事にきてる、わけでもないでしょうが」
小林さんの見つめる眼差しに、僕の気持ちが萎縮する。彼女が、こんな厳しい表情で話すのは、これまでになかったことだ。虚をつかれた僕は、返す言葉を失う。おそらく、傍からみれば母親に叱られている少年みたいに、ほとんど泣きそうな顔をしていたに違いない。
そのとき、ベッドの枕元のインターホンのスピーカーが、僕にスタッフステーションまでくるようにと伝えた。
「ほら、先生がこられたみたいよ」
小林さんは椅子から立ち上がり、僕を促した。彼女とスタッフステーションへむかいながら、僕は先ほど小林さんから、子供みたいに叱られたことを思い、それが妙に心地よく感じられた。いまから手術の説明を聞きにいくという不安感が、少しずつ胸の中で薄められる気分だった。
スタッフステーションのまえまでくると看護師が待っていて、隣の処置室に入って待つようにと言った。処置室へ向かって歩きだすと、夕食を運んできた配膳車とすれ違った。電気モーターで走行する二台の配膳車が、繋がって時速五キロぐらいの速度で横を通る。前後に一人ずつついている係員と会釈を交わした。総菜の匂いがふんわりと鼻孔をなぞり、空腹感をいたく刺戟した。
処置室のまえまでくると、いよいよ手術なのか。その結果次第では、生死の分かれ目になるやも知れない。などとあれこれ想像がわき、法廷にはいる被告みたいに気持ちが揺れた。
「なにをしてるの?」背後から小林さんの声に押されるようにドアをノックした。
「どうぞ」なかから声がして、僕は意を決する思いでドアを開けた。
部屋のなかでは、N医師が処置用のベッドを背にして、椅子に掛けていた。スタッフたちのいる部屋との間を仕切るドアは開け放たれていて、何人かの看護師が、忙しく立ち働いていた。机の上に置かれたパソコンのモニター画面には、CTスキャンの画像が映し出されている。
N医師は、約束の時間に遅れたことを詫び、僕と小林さんに椅子にかけるように勧めた。
「いまから、尿管および腎臓の腫瘍の手術を行うにあたり、ご説明をさせていただきます」
僕の心中の不安を察するかのように、N医師はにこやかに話しかけた。四十代半ばか、頬から顎にかけての髭に覆われた風貌は一見強面だが、こんなときの患者を見つめる眼差しは柔らかい。髭がなければ、さぞや女性に追っかけられるタイプなのだろう。
「この白い部分が、腫瘍のあるところです」
モニターの画面をボールペンで指しながら、N医師は説明を始めた。画面いっぱいに、腎臓と膀胱を繋ぐ尿管の画像が映し出されている。画面が変わると、今度はカラー映像で他の臓器も一緒に映し出された。まるで百科事典に見る人体標本図のような自身の体内の画像に、僕は驚きとちょっとした感動を覚えた。
「この部分が腎臓です。通常のものより、かなり腫れております。尿管とともに手術で切除するということになります」
「先生、このまえの外来でも、腎臓も切除することはあり得ると聞いておりました。腎臓も侵されているのですか?」
小林さんが身を乗り出すようにして、モニター画面を見つめながら質問をする。
「検査の結果、腎臓もがん細胞が浸潤しているのがわかりました。尿管の腫瘍と場所的に近く、同時に切除しなければ、がんを残したままということになり、手術をする意味がありません」
N医師は、回転椅子を回して体をこちらにむけ、僕と小林さんの思いを探るように見つめた。
「……」
「手術で、できうる限りまわりのがん細胞を取り除き、あとは薬による治療になります」
疑わしきは切除するということか。以前に、がんにおける手術を批判的に記した雑誌の記事を読んだことがあり、そのことが脳裏をよぎる。薬による治療とは、抗がん剤治療のことなのだ。その副作用による苦しみは相当なものらしく、耳学問でそれなりに知識としてもっていた。
そのとき、通路側のドアが開き、三十代半ばと思える医師が入ってきた。きちんと五分刈りに揃えた頭髪に精悍な目つきは、白衣を着ていなければ、腕のいいエンジニアといった感じだ。
「遅くなりました。手術を担当させていただくHです」
副主治医でもあるH医師は挨拶すると、そのまま傍らのパイプ椅子を引き寄せ、N医師と並んで腰をおろした。
中断をした会話が再び始まる。
「お話をしたなかで、ご質問があれば言ってください」
N医師はそう言い腕を組み、視線だけが僕と小林さんの間を交互に往き来する。
先ほどの説明により、主な話は終わっている。質問と言われても、すぐには浮かんでこない。
「先生のおっしゃる手術をすれば、がんは全部とれ切除るということでしょうか?」
押し黙ったままの僕に、しびれを切らせたのか、横合いから小林さんが質問をした。それを受けて、H医師が口を開いた。
「やるからには、がん細胞をすべて取り除くつもりで行います。リンパ節転移の可能性が低い場合は、腹腔鏡による手術が可能になります。利点は傷が小さくてすみ、あとの痛みも少なくて患者さんの負担も軽くなります」
「僕の場合は、その腹腔鏡での手術になりますか」
小林さんに触発されるかたちで、僕も質問を試みた。
「その予定でおりますが、先にも言いましたように転移の状態で方法を変えざるを得ない場合もありますが、大丈夫、大下さんの場合は腹腔鏡でいけると思っております」
H医師はそこまで話して、僅かに微笑を浮かべた。
「ただし、切除した腎臓を体外に取り出すために、右の下腹部を十センチばかり切ることになります。それほど負担はかからないので、安心してください。」
H医師の言葉に、僕は僅かに首を上下にふり無言で頷いた。
「手術の傷が癒えたところで、再発を防ぐために抗がん剤治療をおすすめします。それにより腫瘍を叩きのめします」
H医師が話しているあいだ、黙って我々の顔を見ていたN医師が言った。
「抗がん剤とかの治療費は、高額になりますわね……」
「もっとも、これらの治療は高額医療になります」
峰子さんの問いにN医師は答えると、手にしたボールペンのキャップの部分で顎の髭をなぞりながら、僕たちふたりを見つめる。
「一応、がん保険はかけてはいますが……」
N医師の言葉に、僕は狼狽して、これだけ言うのがやっとであった。がん治療には高額の治療費がかかるということを覚悟はしてはいたが、どのくらいかかるのか。最低でも二、三百万の覚悟はしなければならないのか。しかし、それで治るとは限らないから、そうなれば僅かな蓄えなど、あっという間に失せてしまうことになる。
残りの人生は、そこで終わりになるな。手術により二つある腎臓を一つ失うことより、僕には、治療を続けていく費用をどう捻出するかが、さしあたっての問題と思えた。
こうなったら充分生きたことにして、治療をやめるか……。胸の内で逡巡していると、ふたたび峰子さんが口を開いた。
「先生、どうか、よろしくお願いします。」
そう言い、頭をさげる峰子さんの横顔を、僕は呆然として見つめた。彼女は実質、僕の女房になりきっているようだ。
「それでは手術についての説明は、これでおわります。明後日は、頑張りましょう」
N医師も、そのような状況を自然に受け入れている様子で、もとの柔和な笑顔に戻って僕に言った。
モニター画面がわたしのカルテに変わり、N医師がキーボードを叩く。画面のカーソルを目で追えば今日の日付についで、画面の端に、本人と奥様に説明、という文字が打ち込まれていた。奥様! 思わず背中の皮がカッと熱くなった。そっと小林さんの顔を窺ったが、気づいているのかいないのか、彼女は平然としていた。
処置室を出ると、僕は病室に戻るまで無口だった。肝心なことを何一つ言えず、すべて小林さんにもたれたような結果は、人間的に頼りなさをさらけ出した格好になった。
「前期高齢者の僕が、いまさら高額の医療費のかかる治療をしてまでも、生きようとは思わない。そうだろう、小林さん、そう思わないか」
病室に戻ると、僕は吐き捨てるように言い、ふてくされたそぶりでベッドに寝転んだ。
「治療は、これから始まるのよ。いまからそんな自棄をおこしてどうするのよ」
小林さんは、少しあきれた顔でこちらをみる。一方の僕は、彼女に対して駄々っ子みたいに振る舞うことで、なんだか少年の昔に戻ったような気分が心地よかった。それに、病気とカネの不安を少しでも紛らわせたかった。
「あ、それから洗濯物もって帰るわね」
彼女はそう言いながら、入浴時に着替えた下着などを僕が持参したトートバッグに入れている。
「そうは言っても、いまの僕には高額の医療費を払うより、死んだ方が楽なんだよ」
「バカなこと言ってないで、退院したら、すぐに役所へいって、高額医療費補助制度の申請手続きをしなくては」
「ちょっと、そんな制度があるの?」
彼女に言われて、思わず僕はベッドの上で起き上がった。
「大下さん、あなた、そんな事も知らないの? 普通こんな病気になったら、いろいろと調べるでしょう」
彼女は信じられないといった顔で、僕を見つめた。
「いや、何もしなかったわけではないよ。厄神さまにお稲荷さん、八幡さま、とお詣りしたし、それにお不動さんでは、お百度を踏んで、がんの因縁が切れますようにと願をかけてきたんだ」
「あのねぇ、そんな神仏頼みは、最後の最後にするものよ」
小林さんはあきれた顔でため息をつき、トートバッグを肩にかけ「それじゃね」といって帰りかけた。ベッドから下りた僕は、慌てて後を追う。途中彼女は振り返り、見送りはいいから、と言ったが、僕はエレベータのところまでついていった。
上がってきたエレベーターが止まり戸が開いた。降りてきた女性を見て、僕は「あっ」声をあげた。偶然に降りてきたのは、娘の初恵だった。
「いまごろきて遅いぞ」
「仕方ないよね。これでも必死できたのだから」
初恵はふくれっ面をして、僕をにらんだ。隣の下りのエレベーターが止まりドアが開いたが、小林さんは乗らずに僕たち親子を見ている。
「初恵、こちらはお父さんが仕事にいってるとき、同じ職場でお世話になった小林さんだ。いまも初恵がくるの遅いから、一緒に先生の話を聞いてもらったんだ」
「あ、それはどうも、初恵です。父がお世話になって、どうもすみませんでした」
娘は挨拶を述べながらも、瞬時の目の動きで相手の頭のてっぺんから足下までを観察している。
小林さんはとんでもないといったふうに、右手を顔のまえで左右に振り、自らも自己紹介をしている。
お互いに愛想笑いを浮かべながらも、初対面の女同士のぎこちない表情に、こういうのを火花が散るというのだろうな。との思いがした。
「それじゃ」小林さんは、下りのエレベーターがやってきたのを機に、僕と初恵に軽く頭をさげて乗り込んだ。ドアが閉まり下りかけたエレベーターの小さな窓越しに、こちらを見ている彼女に僕は軽く手をあげかけたが、初恵を意識して目だけで見送った。
小林さんを見送り、病室へ戻るときも僕も初恵も無口だった。互いに何かを言いたくて、そのきっかけを待っているような、それでいて、そうなることを望んでいないような、なんとも気まずい時間がすぎ経過る。
病室のベッドまで戻ったところで、初恵が口をひらいた。
「洗濯物を出して、もって帰るから。着替えたのでしょ」
僕は返事をせずに、戻ったばかりの病室から、初恵を促してふたたび廊下にでた。廊下は行き止まりになっていて、三メートルばかりの空間になっている。つきあたりには大きなガラス窓と、非常用階段のドアがあるだけだ。
初恵は怪訝な顔で病室からついてでてきたが、僕としては内輪の話を同室の者に聞かれたくなかった。
「洗濯物は、いま会った小林さんが持って帰ってくれた」
「へー、下着まで洗ってもらうのって、ずいぶんと親密なのね」
そらきた。我が娘ながら容赦のない初恵の言葉が、僕の胸に突き刺さる。
「なんだ、その言い方は。あの人は職場が一緒だったよしみでしてくれてるのだ」
「普通、アカの他人がそれだけの理由でそこまでする? 六十歳半ば過ぎておまけにがんになっても、父さんのそのビョーキは治らないみたいね」
「なにを言いだすのだ初恵、そんな言い方したら、あの小林さんにも失礼だろ」
思わず声高になった僕は、周囲を見まわし話し声のトーンを落とす。
「何度も言ってるだろ。あの人は元の会社の同僚だ。半年まえまで一緒にいろいろと助け合いながら仕事をしてたんだ。それ以外に、なにもない」
「ただ、それだけ?」
初恵はそう言い、僕に挑戦的な眼差しをむける。
「なんだ、その目は、なにもないと言えば、なにもないのだ。親を信用できんのか」
「あたりまえよ! 私と克夫が小学生のときだった。父さん女の家に入り浸って、一週間も帰ってこなかったときあるわね」
「もう、そんな話を、ここでしなくてもいいだろ」
初恵がこの話を持ち出すと、少々厄介だ。いつも最後は互いに罵倒しあう親子喧嘩になり、親である僕の威厳が徹底的に打ちのめされて終わるのだが、場所的にここで罵りあうのはまずい。
「あのときの事は忘れないわ。まだ小学三年生だった克夫は泣きだすし、二人で父さんのいそうなところを探そうと夜道を歩いてたら、通りがかりのスナックからでてきた顔見知りのおじさんが、父さんはこの店にいると連れて入ってくれたわ」
「わかったから、もう、その話は時効だ……」
「目の前で、父さんが左手で女の肩を抱きながら顔をくっつけ、マイクもって歌っていたあの光景は、大人になったいまも忘れられないわ!」
「だから、なにが言いたいのだ! おまえはそう言うけど、父さんは親としてすることはしたつもりだ。大学もちゃんといかせたし、結婚式の費用も全部だしてやったじゃないか! いまさらなにが不足というのだ!」
一気にまくしたてる内容は、いつも同じで精彩がない。動じる様子もない初恵の視線のまえに、僕の反撃もそこまでだ。
「親ならそんなこと当然でしょ。だけど、そういう問題とは違うわ。育児放棄までしたその女癖は、死ぬまで直らないみたいね! もう、大概にしてほしいわ」
「わかった。そんなに気にいらないのなら、もう来なくていい!」
「あそう、じゃあ帰るわ。好きにしたらいいでしょ!」
初恵はそう言い捨てると、踵を返してエレベーターの方角に歩き始めた。僕は後を追うつもりで二、三歩踏み出したが、思い直して足を止めた。
諍いの最後は、いつもこうなる。これが普段なら、互いに往き来しなければよいのだ。そのうち、初恵から電話がかかり、旅行に行くからと、飼い犬の世話だの植木の水やりなど留守中の用事を言いつけてきて、ジエンドとなる。つまり、時の経過に解決を委ねることになるのだが、いまの状況下からみて先行きはどうなることか。
減らず口をたたきやがって。病室のベッドへ戻るも、初恵の言い草を思い出すだけで、胸のうちがムカついた。
ふと、目の前の簡易テーブルの上の布巾をかけられたトレーを見て、まだ夕食を食べていないのに気づいた。腹立ちが収まらないなか、食欲もなかば失せてしまっている。それでも食わねば、夜中に空腹で眠れないことになるのもかなわない。
布巾をとれば、魚のみそ焼き、絹さやソテー、サラダ、野菜炒め、味噌汁と丼飯が、狭いトレーのうえで押しくらまんじゅうをしていた。
「さぁて、冷や飯でも食らうか」
僕はすでに冷めきった食事を見て、なかば捨て鉢につぶやいた。
「これ、食うか?」竹本の声がして、いきなり隣のベッドとの間の仕切りのカーテンが、もさもさとたくしあげられ、にゅうっとオムライスののった皿が差し出された。焦げ目のない鮮やかな黄色の卵焼きと、どろりとしたケチャップの赤さを見て気持ちが和んだ。
「いいんですか。竹本さんは……」
「ちょっとは食えるかと頼んでみたんやが、現物を見ただけで胸いっぱい腹いっぱいや。よかったら食うてや」
「本当によろしいんですか。それでは遠慮なく戴きます」
僕はオムライスの皿を右手で受け取ると、左手で夕食の載ったトレーを一旦パイプ椅子の上に置いた。
竹本はさらに、給湯室に置いてある電子レンジでチンしてきたら、とアドバイスをしてくれた。が、給湯室へはスタッフステーションのまえを通らねばならず、この際面倒なことはやめにして早速オムライスを戴くことにした。
始めにオムライスの中心に箸を突き立てて、それからいくつもの孔をあけた。そこへ取って置いた、昼食に添えられていたとんかつソースを流し込む。こうすれば、まんべんなく飯にソースが染みわたるのだ。別れた妻は、こうした僕の食べ方を品がないと嫌っていた。しかしながら、オムライスなど滅多に食べられない時代に育った者には、貧しさから身についた合理的な食し方であり、この歳になってもその癖は直らない。
食べ終わったあと、箸をつけなかった夕食の膳とオムライスの皿を返しにいこうとしていると、ふたたびもさもさとカーテンがたくしあげられ「皿は、こっちに返してもらうわ」と手が差し出された。
まだ配膳車は、スタッフステーションの付近に止められているはずだ。ついでだから一緒に返してくる。と言えば「余計なことをせんでもええ」となかば強引にオムライスの皿を引き取った。
少し申し訳ない気がしたが、相手がそう言うのだから仕方がない。夕食の膳を返しにいき、戻りがけ窓越しにステーションのなかに目をやると、奥まった一角で、H医師が神妙な顔つきでパソコンと向き合っていた。
病室に戻りベッドのうえに寝転んでいると、竹本の担当の看護師がきたらしくて「よかったわねぇ、全部食べられたのね」などと話かけている。例によって竹本は、ブツブツとはっきりしない返事をしている。そういうことか、僕は竹本がオムライスの皿を返しにいくのを強引に断った理由を、改めて納得した。
「オムライスばかりというわけにもいかないから、普段に家で食べているもので好きなモノあるでしょう。そういうのなら食べられるんじゃないかなぁ」
「ラーメンかなぁ」
「ラーメンなら食べられる? 選択メニューでオーダーしておくから明日のお昼には間に合うよ。あ、それから醤油味? それとも味噌味どちらにする?」
「どっちゃでも、ええわ」と、竹本が気の乗らなさそうな言葉を返している。
二人のやりとりを聞きながら、僕はまずいことをしたと後悔した。勧められるままにオムライスを食べたが結果として、なにも食べないでいる、竹本自身の回復を遅らせることになるではないか。看護師に知られれば、咎められるのは必至だ。たとえ厚意であっても、ふたたび竹本が、おなじようなことを言ってきても次には断ろう。
看護師が行ってしまうと、竹本はテレビに見入っている様子で、時折一人笑いをしている。僕も所在なく、持参した文庫本を取り出してページを繰ってはみたが、字面をなぞっているだけで頭には全く入らなかった。
突然に演歌のメロディーが室内の静寂を破った。携帯電話の着信音らしく木村の応答する声が響く。まわりに気遣って声のオクターブを下げるでもなく、耳障りだが我慢するしかなさそうだ。
ここへきて意外だったのは、病室での携帯電話の使用が午後九時までと、規制が緩いことだ。
普段に通う家の近くの医院など、待合室でメールをしていても咎められる。なのに、大病院であるにもかかわらず、ここでは医師も看護師も院内での業務連絡には、ごく普通に携帯電話を使用しているのだ。なにか、電波の害を防ぐ仕掛けでもしてあるのかと、K病院に通院するようになってから、疑問に思っていることだ。
それはともかく、木村は怒鳴るように、警察はきたのか、だの積荷はどんな具合だ、だのと察するにかなり切迫した様子に思える。
竹本から運送会社の社長だと聞かされていたが、会社で問題が起きれば病床にあっても、安穏としておれない境遇に同情をした。
消灯時間の十時になり、そろそろ寝ようかという時になって息子の克夫からメールがきた。(入院中の父のところへは、いかなくてもよい)と初恵からメールがきた。というものであった。
メールは(また姉ちゃんと喧嘩したのか)と結んでいた。どうせ初恵が腹立ち紛れに、くだらないことを言って克夫のところにメールをしたのだろう。
初恵の言うことなど気にかけるな。明後日の手術には、身内の者が立ち会うように、病院から言われているから必ずきてくれ。と返信をした。
折り返し克夫から(コドモ姉弟に頼らんでも、立ち会うヒト女がいるのだろ。一応休暇はとっているが、それならいく必要もないな)と返信があった。
初恵のやつ、余計なことを言いやがって! こうなれば父親の面目にかけても、あいつらを立ち会いにこさせなければ格好がつかない。そう思い、それから何度も克夫にメールをしたが、それっきり返事はこなかった。
親の手術日にも来ないとは、あいつらは、なにを考えとるんだ! 僕は、まさに怒り心頭に発する思いであった。考えれば考えるほど腹が立ち、今夜はとても眠れそうにもない。気を紛らわそうとイヤホーンでラジオの深夜放送を聞こうとしたが、どの局も、僕には雑音にしか思えない、世代の違う歌ばかりやっている。舌打ちをして諦め、耳からイヤホーンを引っ張り抜いた。
さらに廊下を挟んで真向かいの女性部屋は、容体のよくない患者がいるとみえ、先ほどから看護師と医師の出入りが慌ただしいのだ。眠れぬ夜は、夜明けが待ち遠しい。酷いストレスを感じて、これでは治る病も治りそうにもない。
翌日の朝、午前七時に売店が開くのを待って朝刊を買いにいった。待合ロビーでは清掃員が掃除機をかけていて、その一隅にある売店の辺りだけが、明るく何人もの人影があった。
朝刊と紙パック入りのトマトジュースを買い、支払いを済ませて出ようとしたところで、木村が点滴台を押して入ってきた。昨夜は携帯電話で、切迫した感じの話をしていたが何事もなかったのか。挨拶を交わそうとしたが、木村はこちらに目をくれることもなく、狭いショーケースの間を点滴台を押しながら、店の奥へいこうとしている。
このまま出ようかとも思ったが、もし相手が僕に気づいていたら気まずいことになる。思い直して、寄っていき声をかけた。
「お早うございます。社長、言ってもらえばお使いしましたのに」
愛想で笑みを浮かべて話しかける僕に、木村は一瞬振り向き「いや、いい」と言い、陳列棚の品物に目を這わせはじめた。
同室のよしみで、手を貸してやればいいのだろうが、相手の素っ気ない態度にムカついた僕は、外へ出ることにした。出口にむかい歩き出すと、背後から「おーい、男まえ」と呼ぶ声がした。間違っても自分を、いまふうのイケメンとは思わないが、つい振りむいた。木村が手招きをしている。近くに女性客がいたが、男は僕しかいない。すると男前とは僕なのか? そう呼ばれて悪い気はしないから、急いで木村の傍へ引き返した。
「なんですか、社長」
「これなら食うかな?」
木村はアイスボックスのところで立ち止まり、なかの氷菓子を覗きながら尋ねた。
「そうですなぁ、メロン味は大のつく好物です。でも社長、そんな気は使わんでください」
「これなら竹本クン食えるやろ。アイスクリームは滋養もあるし」
あ、そう言うことか、それを先に言え。僕は早合点して、尻尾を振った卑屈さを内心で恥じながらも、何食わぬ顔で「それならクセがないバニラがよろしいな」と、取り繕った。
木村は「そうか」と頷き、バニラのアイスクリームを二つ買った。僕にも「君もどうだ」と言ったが「とんでもない」と、こんどは固辞した。
点滴台を押して歩く木村のあとについて病棟へ戻ると、病室から出ようとする竹本とバッタリ会った。木村は振り返り、僕に持たせていたアイスクリームの袋を、竹本に渡すようにと顔で促した。
「社長、そらあかんわ。もう、そんなんされたら困るわ」
遠慮しながらも竹本は手を出しかけていて、僕の差し出すアイスクリームの袋を両手で受け取ると、目の高さにまで捧げて、木村に礼を言っている。そのくせ、木村が自分のベッドへいってカーテンを閉めると、手にしたアイスクリームの一つを僕に差し出した。
「それは、駄目ですよ」
おなじことを、今度は僕が言っている。声を出さずに訴える竹本の、手振りと表情から察するに、アイスは苦手のようだ。二個は食えないから僕に一個やるということか。あまり貰いたくもないが、チラリとカーテンに遮られた木村のベッドに目をやり、受け取った。
竹本から貰ったアイスをとりあえず冷蔵庫に入れたあと、ベッドの上で朝刊を広げていると、メリーさんの羊が聞こえてきた。朝食を運ぶ配膳車がやってきたのだ。
朝食はお粥かパン食を選ぶことができて、普段の朝食がパン食の僕は、入院時に当然のごとくパン食を注文した。
食パンとパック入りの牛乳、ミカン一個にカリフラワーの卵スープ煮という朝食を、残さず食べ終わりかけたときだった。
病室の入り口ちかくがざわめき、いきなり数人の足音が病室へ闖入してきた。身構える暇もなく僕のカーテンが引き開けられると、十人ほどの医師がまるで顔見せみたいに立っていた。担当の看護師から聞かされていた、平日の朝行われる医師達の回診なのだった。
主治医のN医師をはじめ、H医師などの見覚えのある顔もあったが、三人の女医を含めて大方が初めてみる顔だった。
「お早うございます。大下さん、変わったことはありませんか。明日は手術ですね」
大勢の医師をまえにして、為す術もなく突っ立っている僕に、N医師は髭の顔をほころばせて語りかけた。
「よろしく、お願いします」
深々とお辞儀をした僕が頭をあげた時には、医師の集団は隣の竹本のベッドへと移動を始めていた。
手術の前日ということで、この日は慌ただしかった。麻酔医、薬剤師、手術室付きの看護師などがやってきた。概して万全を期すので手術には安心をして臨んでくれるように、といった内容のことを喋っていった。
十時きっかりに、小林さんがやってきた。
「お早う。気分はどう?」
顔を見るなり笑顔で話しかける彼女に「朝早くから悪いね」と恐縮しながらも、なにかほっとするものがあった。
「いいのよ。悪かったら来ないし」
そう言い、僕を見つめて微笑む瞳に、一瞬、気持ちが揺れた。手術を控え、なにを考えているのや。と自分を戒めた。
彼女は、肩からさげてきたトートバッグをベッドの端に置くと、なかから昨日持ち帰り、洗濯をして折りたたまれた僕の下着を取り出し、ロッカーにしまい込んでゆく。
それをおえると、外で買ってきたヨーグルトや、小さなパック入りの梅干しに瓶詰めののりの佃煮などを取り出した。冷蔵庫のまえにかがみ込むと、それらを手際よく冷蔵庫にいれていく。あす手術というのに、そんなものいま買ってこなくても、と言えば、手術のあとは熱が出たりして普通にたべられないと思うから、と言った。
「アイスクリーム買ってきたの?」アイスクリームを見つけた彼女は、ベッドの僕を見あげる。無言で竹本のカーテンを指さすと、彼女もまた無言でうなずき冷蔵庫の扉を閉めた。
しばらくして看護師が熱と血圧を測りにきた。担当する患者は日ごと代わるらしくて、今日は三十代前半と思える顔だった。所定の作業を終えると、明日の手術をまえに、必ず入浴をするようにと指示をしていった。
看護師と入れ替わりに、若い女性のクラーク(病棟事務員)がやってきた。手術に際しての同意書や輸血などに関する同意書を持参していて、サインと捺印を求めた。
さらに「手術時には、お身内の方はこられますね」と念を押すように言って、僕の顔を見つめた。
娘の初恵と諍いしたこともあり、口ごもっていると「奥様はこられますわね」と、クラークは当然のように小林さんに視線をうつす。
「はい、大丈夫です。私がきます」きっぱりと返事を返す彼女に、僕は無言で頷くしかなかった。
クラークがいってしまうと。僕は「いいのかなぁ、無理を頼み」と、またも恐縮するしかなかった。
初恵も克夫も血のつながった親子だ。悪たれ口を叩いていても、いざとなったらきてくれるだろう。とは言っても、もしこなかった時はどうなる。看護師たちには妻だと思われているようだが、まことアカの他人の小林さんだけ、というのでは格好のつかないことになる。
身内が誰もこないという、最悪の事態を避けるために、僕は今回の入院に関しては、いままで何も話していなかった弟に頼もうと考えた。小林さんに聞かれるのを避けて、僕は携帯電話を掴むとデイルームへむかった。
観葉植物に遮られ通路からは目に付きにくい、奥まった窓際の席に座り弟に電話をした。十歳離れた弟の紀孝は、五人いる兄弟のなかで最も近くにすんでいるために、疎遠になりがちの兄弟のなかでも交流のある方だった。
電話にでた弟は、現在の状況を話す僕に「なぜ、もっと早く言ってくれなかった」となじった。もっとも、初恵と諍ったことなどは、おくびにもださなかった。
携帯電話の電波が遠いが、どこにいるのかと尋ねると、昨日から夫婦で北陸方面にきていたが、夜には自宅に帰り着くといった。
「オレが手術で生きるか死ぬかというときに、おまえはヨメと温泉めぐりかよ」
「拗ねるなよ。手術にはちゃんといってやるから、そんなことより遺言状は書いたのか?」
わざと嫌みを言う僕に、紀孝は笑いながら冗談めいた言葉を返して携帯電話を切った。こんな折りに茶化しやがって、ちょっとだけ憤慨したが、これで恥をかかなくてもすむわけだ。
午後に僕が入浴を済ませるのを待って、三時をまわるころに小林さんは着替えた洗濯物を持って帰っていった。エレベーターまで送っていった僕に「明日は九時に手術室へいくから、いつもより早くくるね」と言って乗り込んだ。降下するエレベーターの窓から小さく手を振る彼女の姿が見えなくなると、言いようのない空しさに襲われた。
病室に戻ると、特別にすることもなく、まだ間がある夕食まではヒマだった。患者を見回る看護師の姿もなく、ほんの一瞬だが病棟に慌ただしさが途切れる時間帯なのだ。思い出して、朝、竹本がくれたアイスクリームを食べようと冷蔵庫から取りだしたものの、フリーザーがなく溶けてしまっていて捨てるしかない。
テレビをつけてみたが、古いドラマの再放送ばかりで諦めて、朝刊を広げ読み残した記事に目を這わせた。すると、いきなりカーテンが開けられ、主治医のN医師とH医師の二人が顔を覗かせた。
「どうですかぁ。変わりありませんかぁ」
N医師はいつもの調子で、僕にむかってにこやかに問いかけた。
「手術に関して、なにか不安なこととかありますか」
N医師は微笑みをくずさずにつづける。
いきなりなにか質問をと言われても、咄嗟に答えられない。しかし、僕は手術が決まってから、抱き続けていたたった一つの不安があった。それを、ここでおずおずと問いかけた。
「先生、あの、手術で男性機能が損なわれることはありませんか」
「ハハハ、そのぐらい元気なら、心配いりませんな」
N医師は、僕の問いには答えずに、そう言って笑った。僕はくだらない質問をしたのかと、うつむいてしまった。
「それじゃ、今夜はよく休んでください」
N医師はそう言い、H医師を促して病室をでていった。
「大下さん、大丈夫ですよ」
H医師は笑顔で言い、僕の背中を軽く叩いてN医師のあとを追って出ていった。
翌水曜日の朝、いよいよ今日は手術を受ける日だ。小林さんは八時過ぎにやってきた。手術を控えて朝食ぬきの僕は、承知していながらお腹が空いたと彼女に訴えた。
「いい歳をして、なにを聞き分けのないことを言ってるの!」
彼女に叱られる小気味よさを感じながら、僕は迎えの看護師が来るのを待った。
九時きっかりに、二人の看護師が迎えにきた。僕は二人の看護師に挟まれて歩いた。振り返るとあとからついてくる、小林さんと目が合った。彼女がニッと笑みをうかべたので、つられて僕もニッとした。
普段は気にかけなかったが、デイルームを通り越したところに大きな磨ガラスの扉があり、看護師がボタンを押すと扉は左右に音もなく開いた。なかへ踏み入れると、その奥に手術室へ向かうエレベータが二基並んであった。両脇を看護師に挟まれて歩く様は、なんだか刑場へ引かれていく囚人みたいな気分になる。
小林さんは看護師から、見送りはここまで、と言われたため、僕はもう一度ドアの外に佇む彼女を振り返った。目があっても、こんどは互いにニッとはしなかった。
二階でエレベーターを降りると、病棟の看護師の白衣に代わり、薄緑色の服を着た二人の看護師が待っていた。「それじゃ、私たちはここまで、頑張ってね」病棟から送ってきた看護師は、僕を激励して再びエレベータに乗り込み戻っていった。
引き継いだ看護師は、顔半分が隠れるほどのマスクをしていて、無言のまま僕の両側について歩いた。進むほどにいくつかのドアが現れ、近づくと音もなく開いた。行き先を指示するかのように、足下をLED照明の灯が明滅し、灯りの帯は通路の奥まで続いている。
さらに、歩いている周囲の壁も天井も薄緑色に統一されているのに、改めて気づいた。まるで異次元の世界へ紛れ込んだ気分で、SF映画の世界だなこれは。などと思いながら歩いた。
いく度目かの(記憶はたぶん四度目)のドアが開くと、通路はそこで行き止まりであった。通路と手術室エリアの境目にある、大きなコンベヤーみたいな装置が僕の目を引いた。
数人の看護師が待機していて、なかの一人が僕に近寄り挨拶をした。マスクに覆われているが、昨日病室へやってきた看護師だとわかった。
看護師は「これから手術室へ案内します」と言い、僕はそのあとについて歩いた。手前から一号室二号室三号室と手術室が並んでいて、看護師は最初の一号室のまえで足を止めた。
手術室に入ると、すでにH医師がいて「お世話になります」と僕は挨拶を交わした。
室内は様々な器具が並んでいて、H医師はそれらの調整に余念がないようだった。看護師が中央の手術台を指して、あがるように指示をした。いよいよか、すでに緊張度は極限に達していた。もしかして、これが最後に見るこの世の風景になるやも知れない。などと悲壮な思いで周囲を見渡した。
名前を呼ぶ声に薄らと意識が戻りかけている。目を開けると徐々に視界が鮮明になり、覗き込んでいるN医師の顔があった。横にH医師もいて、すでにSICU(外科系集中治療室)へ移動しているようだ。
「大下さぁん、手術は無事に終わりましたよ」
N医師が、呼びかけるように話しかけ、「奥さんですよ」と言いながら場を譲り退いた。小林さんもいてくれたのか。彼女は僕をみると、何も言わずにただ微笑んだ。僕もなにか喋ろうとしたが、言葉も浮かばず口も動かなかった。
瞬きみたいな時が過ぎると、代わって紀孝に初恵と克夫が顔をのぞかせた。彼らとも言葉を交わす間もなく、面会は終わった。もっとも僕は激しい嘔吐感に襲われていて、それどころではなかった。
嘔吐を訴える僕に、看護師が急いで顔を横にして、口元に受け皿をあてる。
「吐き気があるのは、痛み止めのせいです。しばらくの我慢です」と語りかけるN医師の声が次第に遠くなり、僕は再び眠りに落ちた。
翌日の昼過ぎに、小林さんが面会にきてくれた。今日は何日だと尋ねると、十月の十八日の木曜日だと答えた。さらに、思いのほか手術が長引き、手術が終わり呼ばれてSICUにいったのは、午後の九時で十二時間もの手術であったこと。夜になって、僕の娘や息子がきたため、気を遣って帰ろうとしたが、紀孝から差し支えなければいてやってくれるように、と言われて午後十時ごろまで病院にいた。などと昨夜の報告をした。ここでの面会は三十分と定められているために、慌ただしく話して小林さんは帰っていった。
彼女以外には、この日は誰も顔を見せなかった。
手術をして三日目の金曜日の朝十時に、僕はSICUを出て病室に戻った。若い女性の看護助手に付き添われ、点滴台を押しながらのおぼつかない足取りだ。それでも、歩いて戻れることに(無事に手術がすんだ)と実感した。
SICUは病棟と同じ階にあるので、そのまま歩いて病室まで戻れる。詰め所のところまでくると、S看護師が出てきて「大下さん、お帰りなさい」と満面の笑みを浮かべていった。
「Sさん、あなたの顔を見られて、生きててよかったぁ」
「なに言ってるの。病室で奥さんがお待ちかねよ」
S看護師は、僕の言葉を受け流して言った。今日の彼女は、僕の担当ではないらしい。
病室の近くまでくると、小林さんが入り口のところに立っていた。彼女の姿に、おのずと足早になるのを看護助手が「慌てないで」と注意を促した。
小林さんも僕が戻ってきたのを見ると、足早に寄ってきて「大丈夫?」と小さな声で問いかけた。病棟の看護師から、僕が戻ってくるのを知らされていたとかで、彼女も十時前には来て待っていたらしい。
看護助手は僕を送り届けると、小林さんに「私はここで帰りますが、何かありましたら担当の看護師を通してSICUへ連絡願います」と言って戻っていった。
僕は手術の折に、彼女を長時間いさせてしまったことや、弟たちや娘や息子などと顔を合わせることで、いらぬ気を遣わせたのではないかと、詫びと礼を述べた。
「いいってことよ」彼女はおどけた調子で言い「なにも気にしなくてもいいからね。嫌なら来ないんだから」と言って笑った。
弟の紀孝にも電話をかけ、手術のときにきてくれたことへの謝意をのべた。
「なかなかええヒト女性やないか。いっそ、再婚したらどないや」
「オマエなぁ、半分死にかけている人間つかまえて、よくもそんな無責任なことをけしかけるな」
僕は半分笑いながら紀孝にそう言い、携帯電話を切った。
自由にトイレにいけないこともあり、その日は一日ベッドに伏していた。SICUにいっている間に、真向かいの空いていたベッドも塞がっていた。
小林さんの話では、丸田と名乗る五十歳前後の人物らしい。ところが、ひっきりなしに携帯電話がかかり、そのたびに聞きたくもない着信音楽を長々と聴かされるのには閉口気味だ。それに面会者の多いこと、昼間から夜の制限時間まで数人のグループがきては、あたり憚らず談笑するのだ。若い男女から年配のおばさんの集団までと幅広く、水商売でもしているのかと想像してしまう。
そのことを彼女に話すと「他人のことなど、気にしなくてもいいの。早くよくなって、退院することを考えたら」と話にのってこない。
彼女は二時になると帰って行く。そのあと、僕は決まって、いいようのない空しさに取り巻かれる。
入院期間は二週間ぐらい、とN医師から予告されているが、退院すればするで寝ているわけにもいかず、また慌ただしい日常が始まる。それに入院してからは毎日きてくれて、何かと世話をしてくれている、小林さんとも会えないことになる。退院は喜ぶべきなのだが、一方では気分が今ひとつ浮かない。
決して依頼したわけでもないのに、毎日やって来ては、何かと身の回りの世話をしてくれる彼女を見ていると、余計にその思いを強くするのだった。
手術から五日目に、自力でトイレにいけるようになった。しかしベッドから起き上がるときや、横に伏すときなどに手術の傷跡に痛みが走った。
朝の九時ごろに看護師のSさんがやってきて、入浴は駄目だがシャワーを浴びる許可がおりたから、と言った。久し振りにシャワーを浴びればすっきりするかと思い、是非シャワーを浴びたいと伝えた。Sさんは「まだ傷口が完全に塞がっていないので、ビニールなどで傷口をガードしてならシャワーを浴びれます」と言ったあと「私が手を貸してもいいけど、奥さんに洗ってもらう方が絶対にいいわね」と言ってまじまじと僕の顔を見た。
その表情が可笑しくて吹き出した僕は、傷口を押さえて「痛い、痛い」と口走る。Sさんは慌てて顔をしかめる僕に謝ったが、その顔は笑っている。
「それは、無理だわ」思わず口走る僕に「どうして、羨ましいくらいに仲がいいのに」と、腑に落ちぬ顔をした。
そうなんだ。傍からみれば仲のいい夫婦なんだな。僕は小林さんのことを思い、深いため息をついた。
「内縁なんでしょう。でもいい奥さんね」
「えっ……」
どうして、それを、いや、彼女と内縁だなどと言った覚えはないし、第一僕にそのような認識はない。何気ないSさんの言葉に、僕はひどく狼狽えた。
そんな僕の胸中を察する様子もなく、Sさんは「入浴室の順番をとっておきますから」と言って病室を出ていった。
病院では、僕が小林さんと内縁の夫婦になっているのか? そういえばN医師もH医師も看護師も、皆が彼女を奥さんと呼んでいるのだ。手術の説明を受けた時のカルテにだって、奥様に説明と打ち込まれていたではないか。もしや娘の初恵が、病院に余計なことを喋ったのでは? しかし、いくらなんでも、それは考えられないことだ。
もし小林さんが僕と内縁関係だなどと、病院側に思われていると知ったら、もう来なくなるのではないか。Sさんが残していった言葉に、僕は困惑した。
いつものように、十時きっかりに小林さんがやってきた。手に提げたスーパーのレジ袋をベッド脇の椅子に置き、肩にかけたトートバッグをベッドの端におろした。バッグから洗濯を済ませた僕の着替えを取り出し、ロッカーにしまい込んでいく。ここまでは、彼女がやってきてからの、いつもの動作だ。
ところが、今日はロッカーの棚から、洗髪洗剤やボディソープなどの入浴用具をいれた洗面器をとりだした。
「さっき詰め所のまえを通ったとき、Sさんから呼び止められてね。今日からシャワーの許可が、おりたのでしょう」
彼女は僕を振り向いて言い「予約十一時にとってあるらしいから、十分ぐらいまえにいったら丁度いいわ」と続けていった。さらに白地にひまわりを染め抜いたバンダナを取り出して「こういうこともあるかと、持ってきたの」とあっけらかんとして笑った。
一瞬、僕は息を深く吸い込んだ。そうしながら返すべき言葉を探した。この歳になって異性問題で、ためらうものは何もないはずだったが、これはまずいと思った。こうして毎日きてくれて、何かと世話をかけているだけでも恐縮なのに、体まで洗わせるのは厚意に甘える限界を超えている。「え、あぁ」と僕は曖昧な返事をした。
シャワー室の予約時間が迫ると、僕は小林さんに促されて腰をあげた。シャワー室に入ると、自力で入浴ができない患者が利用するために、横に伏したままで入浴する器具や、特殊な用法の椅子などが並んでいる。
自分では衣服の脱着ができないために、小林さんの手を借りねばならなかった。最後のパンツも、彼女はためらうことなく下げ降ろした。それでも僕は、あとは自分で洗うからと、彼女に脱衣場で待っていてくれるように頼んだ。
「なにを言ってるの」そう言うなり彼女は、下腹部の手術で縫合したところを軽く触れた。鈍い痛みが走り「痛い」僕は悲鳴をあげて前屈みになった。
「そらみてごらん。そんな状態ではどこも洗えないわ。無理よ」
いたずらっぽく睨む彼女に、僕はバツが悪くてうつむくしかない。
そこへSさんが、防水用の薄いビニールとテープを持って現れた。当然のように、小林さんはSさんと二人がかりで、僕の下腹部の傷跡にビニールを貼り付ける作業を始めた。
「これで万全だわ。それでは、あとをよろしく」防水作業を終えたSさんは、まるで気を利かせるみたいに、そそくさとシャワー室から出ていった。
頭髪が濡れないようにバンダナをつけた小林さんは、体を洗い始めると、慎重に僕の体にシャワーを浴びせた。頭髪のシャンプーから始まって、ボディソープを泡立てながら背中から下腹部へと、傷口の回りを避けながら、しなやかな指先の感触が僕の羞恥心を弄ぶ。こうなればもう、躊躇だの恐縮だのと言っている場合ではない。ただ相手の意のままに委ねるしかない。
彼女はしゃがみ込み、何の反応も起こさない僕の股間をソープの泡で包み込み、丁寧に洗い始めた。これはまずい、彼女が厚意でよくしてくれることには甘受できよう。しかし、それ以上のモノ感情を抱かれるのはまずい。
とはいっても、身内以上に身の回りの世話をしてくれている彼女に対しては、僕は口には出せない感謝以上の気持ちを抱き始めていた。実際に半年も遡るが職場の同僚としてともに働いていたころ、僕はたしかに彼女に好意をもっていた。
何度か食事や飲みに誘い、彼女もそのつど、娘の由佳を連れて応じてくれていた。ある夏の宵に僕は彼女をドライブに誘い、まるで由佳の父親のような気分で車を走らせていた。彼女もまた同じように気分が昂揚していたのか、ハンドルを握る僕の肩に寄りかかる。カーステレオから昔見た外国映画のサウンドが流れて、和やかな一家のドライブを演出させた。
山岳ドライブウエイの夜景スポットで、駐車している若者たちの車のなかへ割り込むように車を入れて止めた。
車を降りると、周囲は多くの人々であふれていた。人目も憚らない行為に夢中のカップルもいるが、誰も気にかけるふうもない。乾いた夜風が昂ぶった気持ちを撫でるなか、ふと気がつけば小林さんの手が軽く僕の手を握っている。僕は体中の血が超スピードで体内を駆けめぐる思いで、足下が震えた。
後ろを歩く由佳は、そうした親の姿をみても、許容しているのか。
あかずに眺めたはずの夜景なのに、あのときのことは、いまだに記憶が飛んでしまったままなのだ。
あれ以来、僕は職場を去るまでの間に、彼女を誘うことはあっても、意識の奥で慎重になった。
気持ちとは裏腹に、それ以上の、深入りを避けねばという思いが増したからだ。離婚経験から、自分を結婚生活不適格者と断じた僕は、再婚を前提としない。相手がそれを求めて居るのを予見した段階で、その交際は諦めるのを鉄則としてきた。一方では、仲の良すぎる小林さん親娘のなかに、僕が立ち入りすぎて由佳に嫌悪感を抱かれるのを恐れた。
それに、仮にいま考えを百八十度変えたとしても、いまや一人の女性の人生に責任を持てる歳ではない。これまで女性と関わっても、再婚などは範疇外でショートラブを楽しんできた僕だ。それがどうしたことか、がんを患い、ともすれば自分のエンディングの時が見え隠れしているというのに。バンダナで覆った彼女の頭を見つめ、この歳にして僕はオウノウ懊悩の淵をさまよい始めていた。
シャワーを浴び、久し振りにすっきりした気持ちのはずが、こころなし気分が晴れなかった。昼食時には、僕のために、昨夜煮たのだと、タッパーに入れた野蕗と山椒の実の佃煮を嬉々として勧める。そんな彼女に、僕の胸中は抑制がきかないくらいに揺れた。
僕が食べ始めると、小林さんは菓子パンは飽きたからと、カップラーメンを取り出した。給湯室で熱いお湯を貰ってくると、保温ポットを持って出ていった。
克夫からメールが入った。文面を見ると、どないや、まだ生きとるのか。それだけだった。バカ者が親をからかいおって、返信をするのも腹立たしく携帯電話を切った。
湯をいれた保温ポットを抱えて、小林さんが戻ってきた。カップラーメンに湯を注ぎ始めると、香ばしい匂いが広がった。
「うわ〜たまらん匂いや」
カーテンの向こうから、竹本の掠れた声がした。そういえば僕が手術を終えて戻ってから、彼の声を聞くのは久しぶりだ。小林さんを見ると、彼女は黙って目で頷いた。
「竹本さん、よかったらラーメン食べるかい」
「ええのんか、悪いなぁ」
竹本の返事が終わらないうちに、小林さんは自分のためにお湯を注いだカップ麺を持って竹本のベッドへ向かった。
どうぞ、という彼女の声に、奥さんえらいすんまへん、と竹本の声が重なる。
戻ってきた小林さんは、冷蔵庫から僕が残していた朝食のバナナを取り出して皮をむき始めた。それを見た僕が何か言おうとすると、彼女は人差し指を口に当て発言を封じた。竹本が聞いて気を遣うのを心配したのだろう。気配りのきく人だ。
隣のベッドとの境のカーテンがモサモサと、たくし上げられスパゲティを盛った皿が差し出された。
「代わりにいうたらなんやけど、これ食うたってくれまへんか」
竹本はそう言って、咳き込んだ。僕は躊躇したものの皿を落としてはと、慌てて受け取りながら「大丈夫かぁ、看護師さんを呼ぼか」と声をかけた。
竹本は大事ないと言ったが、最初に会ったときに比べて、かなり弱っているように思えた。
「ナポリタンとは、こらまた豪華だなぁ」
鶏肉のホワイトシチューに野菜サラダ、といったこちらの献立に比べ、病院食らしからぬメニューだ。
「ワシはそんなんより、これがよい、これなら食えるわ」
カップ麺を啜る音とともに、竹本の声がした。
小林さんは割り箸を割ると、竹本のよこしたナポリタンを食べ始めた。僕は竹本のカーテンを指で指し小声で「まえよりも弱ってきてるみたいだ」囁くと「何も食べないからでしょう」と小声で言い、黙々と箸を動かした。
小林さんが帰っていく午後の三時になって、僕はエレベーターまで見送っていった。スタッフステーションの近くまでくると、すぐ手前の個室部屋のドアが開け放たれていて、面会人が数人立ち話をしていた。彼女は不審げに目をむけていたので「ここへ入れられると、もう先がないってこと。入院患者の間では、お迎え部屋と呼ばれている」と言ってやった。
すべて竹本から聞いた受け売りだが、「ふうん」わかったのか、どうだか、彼女は頷いたきり何も喋らなかった
エレベーターまでくると、彼女は「それじゃ、また明日ね」と僕の手を軽く握った。エレベーターに乗り込むと、いつもそうするように見えなくなるまで小さく手を振った。
彼女が帰ってしまったあとは、どうしようもないほど空しく退屈な時間が待ち受ける。缶コーヒーでも買っていくか、とデイルームへいくと竹本がいて目があった。
自販機で缶コーヒーを二本買い、竹本のいるテーブルにいった。缶コーヒーを竹本のまえに置いてやると「すまんなぁ」と礼を言い、いきなり「ようできたヨメはんやなぁ」と感嘆したように言った。
唐突な言葉に黙っていると、
「あんたのヨメはんや。毎日かかさずきて、ちゃんと世話して帰って行く。なかなかできんことや」
「女房に、聞かせてやりたい言葉ですな」
自然と出た言葉に、我ながら照れ笑いをするしかない。
「久しぶりのカップラーメンや、完食したで」
話題を変えた竹本は、昼間に昼食を交換したことを言った。看護師から、特別食にはいろいろなメニューがあるので、好物があれば言うように言われているが好物などない。たっていうならカップ麺や、それも今日の昼、そちらからまわしてもろた銘柄のやつな。あれにコンビニのおにぎりがあれば最高や。家なら、それで焼酎の湯割りをキューや。竹本は目を細め、さも旨そうにジェスチャーをした。
「麺に卵を落としたら、なおよかったですな」と言えば「卵を落とすのは、王道や。けどワシは、そんな王道の食い方をあえて外すんや」と深い目をして僕をみた。
売店へいっておなじカップ麺を買ってきてやろか。と言うと「あの銘柄のカップ麺は、ここの売店には置いてないんや」竹本は残念そうな顔をした。銘柄にこだわりがあるらしい。
「カップ麺といえども、その食し方には作法があるんや」
「作法……?」
カップ麺を食べるのに作法があるとは聞き始めだが、どうせヒマだから彼の話し相手になってやる気になった。それに竹本の話は大仰だが、この男のそんな話ぶりを僕は好きだ。
「カップ麺は、うらぶれたアパートの他に誰もいない部屋で、一人で啜るのが最高や」
竹本は、そう前置きして話し始めた。
「カップ麺に湯を注いで蓋をするやろ。できあがるまでの三分間に、いろんなことを考えるわな。昔別れた女は、いまどうしているやろか。幸せに暮らしているやろか、とか……」
「なるほど、うらぶれてますなぁ……」
竹本は、僕の言葉に構わず続けた。
「そろそろ三分たったころや思って蓋を剥がすと、独りぼっちの部屋に芳ばしい匂いが漂う」
「聞いているだけで、なんやカップ麺喰いとうなりますわ」
竹本は、僕に構わず続ける。
「ちゅるちゅると麺をすすりながら、ふと目をあげ窓の外を見るとやな、立ちのぼる湯気の向こうに、何が見えると思う」
「湯気の向こうにですか……?」
僕は、竹本の話の情景を想像しようと努めた。
「赤とんぼや、どこから来たのか、二匹の赤とんぼがスイスイ飛んでるんや。秋なんやなぁ」
言いながら竹本は窓に顔を向ける。つられて、僕も窓に顔を向けた。一枚ガラスの大窓の外を、駅を発車したばかりの電車が次第にスピードをあげ、やがてビルの陰に隠れていく。
「なにか、侘しい情景ですなぁ」
「そら好いた女との別れは、身をヨジ捩るほど侘しいがな。女が去った後、置き忘れたみたいに口紅が、畳の上に転がってるんや。それを握りしめて、自分の不甲斐なさに声をあげて啜り泣くんやわ」
竹本は自身のことを、脚色して話しているのか。つい引き込まれて、僕は神妙に聞き入っていた。
「大下はん、いまごろになって、つくづく思うんや。ワシには過ぎた、ええ女やったなぁ」
「……」
「こんな病気になってしもたいま、なんや知らんけど、そんなん、よう思うんやわ」
竹本は話しながら、感極まったように涙声になり、流れ出た鼻水が上唇を濡らしている。ティッシュを差し出すと、受け取り鼻をかんだあと、そのまま目頭までふいている。
病で気が弱くなっているのはわかるが、カップ麺のうんちくから、湿っぽい話になり、僕はさっさと病室へ帰るべきだったと後悔を始めていた。
「すまん。大下はんみたいに、ええヨメはんいてる人に聞かせる話と違うわな」
「そんなこと、ありませんよ。人間誰しも、辛い過去の一つや二つはありますよ」
竹本の話に感銘をうけていることを伝えるつもりが、月並みの言葉しか浮かんでこない。
竹本は話を変え、自らの病状のことを語り始めた。
それによれば、抗がん剤に加えて放射線治療も始めたらしい。近いうちに、K総合病院の系列の最新の設備を整えた病院へ治療にいくことになっているとも言う。
話しながらも何度も咳き込む彼に、そろそろ病室へ戻るから、と告げると、竹本は自分も戻ると言って腰をあげた。
スタッフステーションまでくると、隣のお迎え部屋のまえが先ほど通った時より、面会人らしき人の数が増えていて廊下にまであふれていた。
「明日あたり退院になりそうやな」並んで歩く竹本がポツリと囁いた。
「……」
「引き潮は明日の午前二時ごろやから、多分そのころやな」
不審顔を向ける僕に、竹本は裏口退院のことを言い足した。それを裏付けるように「おじさん○○や、わかるか」などと病人の枕元で呼びかける声が、開け放たれた入り口から廊下にまで漏れ聞こえる。すでに意識も朦朧としている病人に、自分が駆けつけて来たことを知らせようと懸命に呼びかけているのだ。
こうして、今晩がヤマといった患者は、看護師の目がいつでも届くようにと、それまでの病室から、このお迎え部屋に移されるようだ。
夕食がすむと、消灯までの時間はテレビを見るか、本を読むかして過ごすのだが、今日はどちらも気が向かない。それというのも、向かいの新入りのところへ、入れ替わりにくる面会人の声が耳障りなのだ。甲高い女の話し声に、男の高笑いをする声など、はた迷惑もいいとこだ。
そういえば、手術の日にきたらしい初恵や克夫も、あれから一度も顔をださないばかりか、電話もかけてこない。あいつら、親のことなど、これぽっちも考えてもいないのか。
もう考えるのはよそう。余計なストレスとなっては、体によくないだけだ。そう思うのだが、思う矢先に腹立たしさが増して、このままでは眠れそうにもない。入院中でないのなら、寝酒でもやりたいところだ。悶々としていると「ちょっと、よろしやろか」と声がした。
「どうぞ」と答えるとサッとカーテンが開けられて、むかいのベッドの主が顔を出した。賑やかだった面会人が帰ったようだ。
「大将、えらい喧しゅうてすんません。貰い物で失礼ですけど」
そう言い、ベッドの上に上等そうな菓子折りを置き「丸田言います。よろしく」と名刺を差し出した。
「そんな気ぃ遣わなくても、よろしいのに」
そう言い、差し出された名刺を受け取り見れば、創作料理『和』と太書きされたのが目につく。並べて丸田某と姓名が書かれてある。店のある場所は、僕の住まいからだと、そう遠くない私鉄の駅前商店街のなからしい。
まさか、入院していて名刺交換などすると思ってもいないから、自分の名刺など持ち合わせていない。渡された名刺に目をやりながら「飲食店のオーナーですかいな」と問うと「はい、オーナーシェフです」と答えた。
「それは大変ですな。機会があれば、寄せてもらいます」愛想で言ったところ「近くに来られた節には、ぜひともお寄りください。来るまえに電話をしてくだされば、駅までうちの若い者を迎えにやります」などと言って自分のベッドに戻っていった。そのあと、僕は丸田の店のある商店街の、最近の寂れようを思い浮かべた。
しばらくしてトイレにいったついでにデイルームへいき、小林さんに電話をかけた。カップ麺とコンビニのおにぎりを、買ってきてくれるように頼んだ。彼女は「竹本さんに頼まれたの?」と尋ねた。
頼まれてないけど、あのカップ麺は売店においてないらしいから、と答えると「了解」と即答した。さらに「いま何してるの」と尋ねるので、電話をかけている。と答えると「バカ」と言って電話を切った。可愛いヒト女だ。
そろそろ消灯時間というときに、のそっと娘婿がやってきた。実家より、お義父さんに見舞いを託されたので、それを渡しにきたのだと言った。初恵にいかなくてもいいと言われて、これまで来なかった。などと言い訳めいたことをボソボソと喋り、十分ばかりいて帰っていった。帰り際に「貰い物だが、よかったらそちらの親御さんに食べてもらってくれるように」と先ほど丸田がくれた菓子折を持たした。病室の入り口に立って見送ると、すでに照明が落とされた通路を、背中を丸めて歩いていく姿はまるで覇気がない。初恵の尻に敷かれてばかりいるから、ああなるのだろう。
手術後八日目の朝、回診の折にN医師が手術で縫合したところを見たいと言った。カーテンが広く開けられ、ベッドで仰向けの状態の僕は、下腹部を大勢の医師の衆目にさらされることになった。
「うん、よくなっていますね。これなら抜糸できるね」
N医師は後ろに立つH医師を振り返って言った。H医師は寄ってきてN医師と並んで立ち、腰をかがめると縫合したところを軽く手で触れて頷いている。H医師は去り際に「あとで抜糸をしにきます」と言った。
「先生、まさかペンチでブチブチ切るのではないですよね」
抜糸といっても、一見大きなホッチキスで止めてある案配なので、冗談まじりに言ってみた。ところがH医師は「そうです。ペンチを持ってきてブチブチやります」と本気か冗談だかわからぬ言い方をした。
十時まえに再び、H医師が看護師とともにやってきた。抜糸ならぬ「今からホッチキスの金具を切ります」と言い、本当にペンチを取り出したのには、僕もさすがに驚いた。
ちょうど、そんなところへ小林さんが来てくれた。
「順調にいってますから、あと二、三日で退院できると思います。」
H医師は、やってきたばかりの小林さんに向かって言った。
「先生、本当にありがとうございました」彼女はそう言ってH医師に深々とお辞儀をしたあと、今度は僕に「よかったねぇ」と嬉しそうに言った。
処置を終えたH医師と看護師が、スタッフステーションへ引き揚げるときに、彼女は再び礼を述べてお辞儀をした。
「あなた、よかったわねぇ。本当によかったわねぇ」
二人だけになると、彼女はベッドにかけている僕の肩を抱きしめんばかりにして言った。その目尻が濡れているのに気づいたとき、僕は胸が熱くなってきて、思わず抱きしめてやりたい衝動を堪え、ただ「ありがとう」を繰り返した。
小林さんが「これ」と言って、カップ麺とおにぎりの入ったコンビニ袋を僕に渡した。
竹本のベッドへ持って行ってやると、彼は恐縮して、何度も礼を述べた。
ベッドに戻ると、小林さんは洗濯をして持ってきたばかりの僕の下着と、洗面器を出して入浴の用意をしていた。
「今日は、お風呂十一時だからね。お昼ご飯までに入ってきたら」 スタッフステーションの入り口に貼ってある、入浴の時間割をみてきたのだろう。まだ十一時までには間があったが、彼女からせかされるように風呂場へむかった。
時間まえということもあり、風呂場は誰もきていなかった。狭い浴室は人がくると気を遣うので、先に急いで体を洗いステンレス製の浴槽に身を沈めた。
退院するにあたり、小林さんにお礼をしなければ、と考えるが、どのようなかたちのお礼をすればいいのか、考えあぐねた。
入院の日から毎日来て、あれこれ世話をしてくれ、おまけに洗濯ものまで持ち帰り、翌日にちゃんと洗って持ってくる。わが子でさえもなかなか来ないのに、入院中はまさしく女房の代わりをしてくれたのだ。
頭に浮かぶのは金銭のお礼だが、彼女に対してそれは失礼なことに思えた。もともと最初に入院することになったと知らせたが、世話をしてくれとか、何かを頼むと言った覚えはない。
女房ならともかく、身内の者でも、ここまでの世話はなかなかしてくれないだろう。金銭のお礼がまずいとなったら、一体どのような形でお礼の気持ちを表せばいいのか。浴槽のなかで思い悩んだ。
その日、小林さんは帰る間際になって、少し言いにくそうに「明日はこれないから」と言った。
「いいよ、これまで毎日きてもらってるだけでも、勿体ないくらい感謝してます」
即座にそう返したものの、退院が間近になったとはいえ、何かあるのかな。と思い今ひとつ腑におちなかった。
「近くのスーパーがパートを募集しているの。電話してみたら面接をするから、ということになって」
「ほう、そうなんだ。近くというのがいいわなぁ」
「雇ってくれるかどうかわからないけど、一応いってみようかと思って」
伏し目がちに話す小林さんは、僕が頼りにするいつもの、しっかり者の女房の雰囲気はなかった。
彼女を見送ったあと、僕は病室に戻り所在なくテレビを点けたものの、小林さんのことを思うと画面に集中できるはずもなく、再びテレビを消してベッドに寝転んだ。
女一人の力で娘を大学に行かせて、そのうえでの生活は決して楽なものではないだろう。そんな現実に思いをかけることもなく、彼女の厚意に甘えてきた自分が、どうしようもなくノー天気に思えた。
ささやかでも彼女のお礼は、お金にしようと決めた。問題はその渡し方にある。いきなり差し出せば、彼女の立場がないだろうし、こちら側の上から目線的行為とうつりかねない。
どのようにして渡せば、相手の抵抗感がなく受け取れるだろうか。僕はお礼の渡し方を真剣に模索した。
明くる朝、目覚めと同時に勃起しているのに気づいた。にわかに信じられず手に触れてみて思わず感激した。そうすると、改めて男としてまだ踏ん張れるかもな、という気がしてきた。気持ちにみなぎるものが湧いてきて、廊下に出て腕を振ったり膝の屈伸運動をしてみた。向かいの病室から出てきた、看護師が怪訝な視線を投げかけたが、何も言わずに通り過ぎた。
再婚はせずが終生の方針だったが、ここにきて気持ちが揺らいだ。いや、変わらねばならないと思った。小林さん母娘のためにも、もうひと踏ん張りしてみようかという気がおこった。
その日、回診のH医師に、久々に勃起したことを告げた。H医師は「薬の作用でありうることですが、ともかく、よかったね」と片目を瞑った。相手が医師でも、男の会話は成立するものだ。僕は薬の影響でないことを祈った。去りしなに、H医師は手術後の傷の癒え具合から、そろそろ退院が近いことを告げていった。やれやれと思う反面、これまでのように小林さんと会えなくなることに、気持ちがいまひとつ晴れなかった。
九時を過ぎると、今日の担当看護師が血圧をはかりにやってきた。それとなく、電子カルテのモニター画面を覗き見て、端にでも小林峰子内縁の妻、とかの文字がないか目を走らせたが、わからなかった。
退院の日が近づいたと、初恵と克夫にメールをしかけたが、連絡して反応がなければ、腹が立つだけだ、と思い直して止めた。一日中所在なくテレビを見て過ごしたが、午後の三時ごろになって由佳がやってきた。
「母さんの、お使いできたわ」僕の顔を見るなり、彼女は人懐っこい笑みを浮かべて言った。代わりの洗濯物を持って帰るように言われたから、と言ったが、いいからそんなもの。と断り、地階のカフェに誘った。
僕は由佳を先にカフェにいかせて、ロビーの売店にいくとATMで十万円を引き下ろした。頃合いの封筒を買い、その場で封筒に札を入れると、由佳の待つカフェにむかった。
外来診療も終わったこの時間、カフェの店内は空いていた。由佳は奥まった隅のテーブルにいて、僕が席に着くとすかさず店員がオーダーを受けにきた。由佳はジンジャエール、僕は珈琲を注文すると改めて「変わってないね」同時に同じ言葉を言って顔を見合わせ笑った。
「大病をしたから、変わってないことはないだろ」
「でも復活したよね。母さんが言ってたわ。あの人は妖怪なみだって」
「おいおい、妖怪なら、こんな病気にならないぞ」
僕と由佳は、声をあげて笑った。
「マジな話、今回は由佳ちゃんのお母さんには本当にお世話になった」
「そんなに、気を遣うことなんかないと思うけど。母さんはあれで、結構楽しんでいたみたいよ。だって、病院での大下さんとの話をするときなんか、生き生きとした顔してるもん」
由佳は屈託なく笑いながら話すが、そうなんだ、では済まない。
「そう言うけど、僕の感謝の気持ちは言葉では言い表せないよ」
「ふ〜ん。おじさんて、意外と生真面目ね」
「そういう訳だからさ、由佳ちゃんからこれ、僕から預かったと言って、お母さんに渡してくれないか」
僕はポシェットから封筒を取り出し、テーブルに置くと、由佳の前に滑らせた。
「何よこれ?」
一瞬由佳が怪訝な顔をした。
「お世話になったお母さんに、せめてもの僕のお礼の印なんや」
「それって、まさかお金?」
「大した額でもないから、そんな大げさに考えられたら困るけど」 由佳の表情が険しくなり、僕は焦りを感じ始めた。
「そんなことされたら、母さんきっと悲しむわ……」
「誤解しないでほしい。お母さんが親切の気持ちで、僕の世話をしてくれたのは、充分にわかってる」
礼金を由佳に託そうとしたのは、どうやら思惑が外れたようだ。少し考えが浅かったかと、僕は後悔をした。
「おじさん、母さんのこと、どう思っているの?」
「嫌いじゃないよ。由佳ちゃんのお母さん、いい人だもんな」
何を言い出すのだ、この娘は。クルッとした大きな瞳で僕を見つめる由佳の視線に、そう答えるのが精一杯だった。
「どうして、そんな言い方になるの? 嫌いじゃないは、好きだ、にはならないよね」
「……」
「母さん、結婚するかもよ……」
「本当か……冗談ではないよな。お母さん、いい人に巡り会ったんだな。きっと……」
思いもしない由佳の言葉に、僕は努めて平静を装って言った。
「いつだったか、おじさんと母さんと私の三人連れ立っていったわね。母さんの友達がオーナーのスナック。あのとき、終電に乗り遅れて、おじさん駅前のビジネスホテルに泊まったじゃない」
そういえば、そんなこともあったな。あの頃は結構楽しかったな。由佳の言葉に、過ぎ去った日が懐かしさを伴い脳裏をかすめる。
由佳の話では、小林さんは、友人の経営するスナックで会った客の男から、結婚を申し込まれたというのだ。相手は大手企業に勤めていて今年に定年を迎えたらしい。連れ合いは十年まえに他界して、独り暮らしだということだ。
「母さんは、結婚こそしなかったけど、女として子供だけは産んだわ。でも男の人と暮らしたことは、一度もないらしいの」
「そうなのか。これまで由佳ちゃんのお母さんは、離婚したものとばかり思っていたなぁ……」
「だから、いまさら結婚をしても、相手の、身の回りの世話ができるのか。ちゃんとした家庭の生活ができるのか。すごく悩んでいるみたい」
そこまで話すと、由佳は手にグラスを持つとストローに口をつけた。無数の気泡とともにジンジャエールが見る見る減っていくが、彼女の目は僕を見つめっぱなしだ。
「それは心配いらないよ。お母さんならやれる」
僕は思いと裏腹に、冷静で物わかりのいい、おじさんを演じた。
「それに相手の人、母さんのタイプじゃないもの。何度か母さんと招待されて食事にいったけど、いつも有名レストランかホテルのレストランよ。それで、メニューを選ぶのは向こう。こちらに選択の自由はないの。わかるでしょう。そういう雰囲気って」
まだ若い由佳に、女としての母親の気持ちがわかるのか? 僕にはこんな場合返す言葉もなく、黙って曖昧に頷くしかない。
「でも、一つだけ悪くはないな、と思えるところがあるの」
「ほう、由佳ちゃんがそう思うことってなんだろう?」
「オ、カ、ネ、持ちってところ。結構、財産持ちみたいよ」
由佳は身を乗り出すと僕に顔を近づけ、そう言って悪戯っぽく笑った。「そりゃいいわ」僕も笑うしかなかった。
「それでね、今日母さん相手の人に招待されて、向こうさんのお家を見にいったんよ。」
「えっ、スーパーの面接じゃなかったのか?」
「本当のことは、おじさんには言いにくかったんよ。きっと」
僕は黙って、由佳の顔を見つめた。
「ふた言めには、片親だと由佳の就職にも差し障るからと言うの。母さん、私のことなんか、考えなくてもいいのにね」
「お母さんの、気持ちもわかるなぁ」
由佳の話を聞くうちに、僕は小林さんの心のうちの葛藤を思った。
「私はずっと母さんと暮らすわけじゃないもの。大学を出たら家も出ることになるわ」
由佳は言い終わると、友人と約束があるからと席をたったが、そのまま話を続けた。
「母さんたらね、大下さんみたいに、自分のペースで付き合える人なら申し分ないんだけど。なんて言ってるの。相手の人に、結構プレッシャー感じてるみたいよ」
「でも、僕はおカネ持ちじゃないから」
由佳は僕の言葉にペロっと舌を出して笑ったあと、改まった調子でお辞儀をするとそのまま店の外に向かって歩き出した。
親離れ子離れできない親子だと思っていたが、子の方はしっかり親離れしてるな。由佳の後ろ姿が見えなくなっても、僕はそのまま店の出口を見つめていた。
目を落とすと、由佳が押し返した茶封筒が目に入った。僕は腕を組んだまま封筒を見つめ、しばらく席を立てなかった。
翌日、いつものように、十時になると小林さんはやってきた。昨日、由佳が洗濯物を持って帰らなかったことを「遊ぶことばかり優先させて、しようのない子だわ」などと言いつつ、僕にそのことを詫びた。
持って帰らなかったのは、僕がいいと言ったからだと、僕は由佳を弁護した。そして、小林さんが再婚話をいつ打ち明けるのか、そのとき、僕はどんな顔をして、何を言えばいいのか、などと考えてばかりいた。
ところが、小林さんはいつもそうするように、ロッカー内の整頓から始まり、読み散らかした新聞や週刊誌をまとめて、清掃員が回収しやすいようにベッド脇に置くなど、こまめに立ち働いている。昼になれば給湯室へお茶を汲みにいき、コンビニへいって菓子パンを買ってきて食べていた。意識しすぎて言葉数の少ない僕を気にかける様子もなく、彼女は普段と変わらなかった。
午後になって、担当の看護師がきて、三日後の退院が決まったことを告げた。小林さんは看護師に頭をさげて、丁重に礼を述べていた。
その日、小林さんは僕に再婚話を打ち明けることもなく、いつものように洗濯物持って帰っていった。
夜になって、弟の紀孝に電話をかけ、退院日が決まったことを報告した。手術の折りには、心配をかけた。細君にもよろしく伝えてくれるように、と、ひと通りの礼を述べると、紀孝は「それはおめでとう。で、これからどうするつもるなんだ?」と、独り暮らしをする僕の今後を案じている様子だ。
どうもしない。いままで通りだ。と答えると、
「独りでは大変だろう。三度三度店屋物を食っているわけにもいかないしな。初恵や克夫はどう言ってるんだ」
「独り暮らしにはなれているよ。心配はいらん。それにオレは子供らの世話になるつもりはないんだ。もっとも、あいつらもその気はないだろうけどさ」
僕は言いながら、最後は笑い飛ばした。
「ほら、小林さんとか言ったな。兄貴はどう思っているんだ」
「おい、何が言いたいんだ。あの人にはずいぶんお世話になったが、それ以上のことはないよ」
紀孝が小林さんのことを言い出したことを、僕は不快に思った。
「見るかぎりでは、女房みたいに兄貴の世話をしていたじゃあないか。何もなければ、あそこまでやれないとおもうな」
彼女は結婚するらしい。とも言えず、僕は早く電話を切りたかった。
「兄貴、一緒になれよ。オレは似合いの夫婦だとおもうな」
「おいおい、彼女は、まだ五十歳を過ぎたばかりだぞ。そんなの、向こうにすれば、まるきり介護結婚をするようなものだ。それにオレ自身いつ再発するかわからん病気持ちだ。爆弾を抱えた老人と一緒になるなんて、ありえんことだ」
僕は一気に喋り、疲れたから、と言い、紀孝がまだ話そうとするのを無視して電話を切った。携帯電話を枕元に放り投げ、ベッドに寝転ぶ僕を空しさが包み込んだ。
翌日、そろそろ小林さんが来るころだと、廊下を近づく足音にも思わず気持ちが弾んだ。ところが、カーテンをかきわけて顔を見せたのは、クラークだった。
予定では明後日の退院だが、その日が土曜日なので会計の窓口も休みになる。そのために支払いは後日に振り込みとなるが、明日の午後四時までに支払いを済ませて、退院をしてもらうのも可能です。と伝えていった。
クラークと入れ替わりに、小林さんがやって来た。僕は顔を合わせると、すぐにクラークが伝えて来たことを、そのまま彼女に話した
「それじゃ、土曜日まで病院にいる意味がないわね」
小林さんは、肩から下ろしたトートバッグをパイプ椅子の上におくと、僕の顔を見て言った。
たしかに、土曜日は医師の回診もなく、僕のような患者はその日が退院日だからいるだけ、ということになる。小林さんと相談をして、その場で明日の午後四時の退院を決めると、僕はスタッフステーションへいき、クラークに、そのことを告げた。
病室へ戻りながら、小林さんのことを医師や看護師が、奥さま、と、僕の妻として呼ばれていることが、気になった。もしかして、僕が故意に、そのように仕向けたと彼女が思っているとしたら。退院するまでには、彼女が納得できるようにしなければ。それに、一日退院を早めたことで、小林さんとの別れも一日早まったことになるな。歩きながら、とりとめのない思いを巡らした。
病室に戻ると、小林さんはロッカーを開けて、僕の持参した書物とか、見舞い客に貰ったままで封を切っていないクッキーとカステラの箱などをベッドのうえに並べていた。
「明日は、午前中に先生の回診があるでしょう。いまから整理をしておかないと、本も、しまっていいわね」
彼女は僕の顔を見て言い、菓子箱などとともに、大きな紙のショッピング袋に入れている。
「お菓子は持って帰ったら、由佳ちゃんが食べるだろ」
「由佳、由佳って、由佳も、よくしてもらったわねぇ」
小林さんは手を休めると、僕の顔を見つめた。〈そんな瞳をして見ないでくれ。いまのは別れ言葉なのか……〉僕は堪えきれずに彼女から視線を外した。
「帰るんかぁ」
竹本の掠れた声がして、思わず僕と小林さんは顔を見合わせた。僕はベッドから下りて、竹本のところへいってみた。ベッドの傍に点滴台がおかれていて、彼の首のあたりにチューブが繋がっていた。点滴台に取り付けられた機器が、何やら数字を刻んでいる。抗がん剤の投与を受けているのだ。
「社長も明日退院や言うてたわ。皆帰ったら、寂しいなるなぁ」
竹本は、敷き布団に埋もれるようにして、顔半分をこちらに向けている。声が弱々しく、抗がん剤による体力の衰えが窺えた。
「また、外来へ来るから、その時には、顔を見に寄りますよ」
「そのときまで、ワシがおれたら、ええけどなぁ」
「大丈夫、大丈夫ですよ。それに、僕も抗がん剤治療を受けるので、いずれここへ入院することになります」
僕は力を込めて言った。半分はカーテンの向こうにいる、小林さんにも聞かせるつもりで言っていた。一ヶ月後の抗がん剤治療のための入院時には、もしその時に彼女が結婚していなかったら、来てくれるだろうか。霞みたいな淡い期待でも、いまの僕は持たずにはおれなかった。
小林さんは帰る時間になっても、僕に結婚することを告げなかった。僕はいたたまれずに、水をさし向けた。
「小林さん、実は謝らなければならないんだけど」
「何を謝るの?」
「先生も看護師さんも、小林さんのことを奥様と呼んでいるけど、気を悪くしていたら、申しわけないな。と思って」
僕は彼女の表情を窺いながら、言葉を選んで言った。
「あ、そのことなら、謝るのは私の方だわ。入院の手続きに窓口へいったとき、連帯保証人の欄で本人との関係を書かねばならなかったの。友人は変だし、知人にしよかとか迷ったんだけど。後ろがつかえていたから焦ってしまって、とりあえず内縁と書いておいたの」
「そうだったのかぁ。僕はまた、奥様と呼ばれることに、気を悪くしていないかと思って」
「言っておけばよかったのにね。気が回らなくてごめんね」
「謝ることなどないよ。奥様でいてくれたおかげで、病院側とスムースにいけたんだから」
小林さん自らが、内縁関係と書いたのは驚きだったが、決して悪い気などするわけもなかった。しかし僕が関心を持つ、自身の結婚については、何も語らずに帰っていった。
翌日、いよいよ退院の日だ。朝の合同回診のあと、所在なくテレビを見ていると、木村がカーテンの隙間から顔をのぞかせた。いまから退院する。ここで会ったのも何かの縁と言いたいが、ここで、また会おうとは言われないな。と言って苦笑し、竹本は眠っているから黙っていく。よろしく言っておいてくれるように、と言付けをして行った。
竹本はこの二、三日夜に眠れないとか言っていたが、明け方ぐらいから眠りについているみたいだ。
しばらくしてH医師が一人でやってきた。H医師は、午後に放射線科へいってレントゲンを撮るように、何時がいいかなと尋ねた。僕は、窓口業務が終わる五時までに退院したいのですが、と答えた。
H医師は、白衣のポケットから携帯電話を取り出して、放射線科に連絡をとっているようだ。午後の早い時間に一人頼めないか。などと話しているのを聞いていると、耳から携帯電話を離したH医師は、昼から一番にはさんでくれるらしいから、午後の一時に放射線科へいくように、指示をして出ていった。午後も遅くからだと退院を控えて何かと煩雑が予想されたが、一時からだと後にそれだけ余裕があって、助かると思った。
テレビを見ながら、そろそろ十時だなと思っていると、五分と違わずに小林さんがやってきた。いつだったか、時計みたいに正確だな。と言ったことがあるが、いつも決まった電車に乗るからと微笑んだ。この時間に彼女を待ちわびる、そんな楽しみも今日で終わりなのだ。
「どうしたの」
小林さんは一瞬の物思いに沈む、僕の顔を見つめた。
「今日は、退院の人が多いから、ざわつくなぁ」
僕は咄嗟に病室の入り口に目を向けて言った。退院は週末を控えた金曜日に多く、退院時間も十時前後が一番集中する。だから、この時間帯の廊下やエレベーターの辺りは、迎えの家族なども入り混じって慌ただしい。
「そういえば、病室から廊下へ運び出されている空きベッドの数も、いつもより多いみたい」
小林さんは、そう言いながらロッカーを開けて、入院時に着てきた僕のシャツを取り出して見せ「上着を着るから、半袖でもいいかな」
と独り言みたいに言った。
僕は、いまのうちに入院費の支払いのために売店へ行き、現金を用意しなければ、と思った。
小林さんに、売店へいって支払いのカネを引き出してくる。と言うと、早くからおカネを持たなくても、支払いのまえにしたら。と言った。僕もその通りだと思い、彼女の意見に従うことにした。
昼食時になり、献立は、炊き込みご飯にハンバーグと野菜スープだった。小林さんは「わぁ美味しそう」と言って、いつものように僕の湯飲みにお茶を注ぎ、箸箱の蓋をあけてから売店へ出かけていった。
小林さんが菓子パンを買って戻ってくると、僕も食事を始めた。
「炊き込みご飯美味しそうね」
菓子パンをちぎりながら、小林さんはこちらを見て言った。
「食べてみるかい」
そう言うと、彼女は立ち上がり、菓子パンの袋をベッドにかけている僕の傍に置いた。僕から箸を受け取ると、彼女はプラスチック製の器から掌に炊き込みご飯をとり、口へ持っていた。
「美味しい、いい味してるわ」頷くように言ったあと、野菜スープもスプーンで掬い上げて飲んでいる。
そんな彼女を見ながら、僕は手に触れた袋から食べかけの菓子パンを取り出した。パンのちぎったところが、食べかけた彼女の歯形に思えて夢中で口に押し込んだ。
一時まえになって、僕は放射線科へいった。窓口で診察券を見せ指示されたレントゲン室までいくと、午前中の外来患者らしき人が、まだ数人待っていて、しばらく待たなければならないようだ。僕は長椅子の空いているところへ、周囲に気遣いながら腰をおろした。
レントゲン室は二室あり、その奥にCTスキャナー室とMRI室とがあった。午後からは入院患者の撮影が集中しているのか、病室着の人や看護師が押してくる車いすの患者などで、通路が混んできた。
所在なく壁のポスターや掲示板に見入っていると、待つこと二十分スピーカーが僕の名を呼び、二番のレントゲン室へ入るように指示をした。
放射線科から病室に戻ってくると、由佳がきていて二人がベッドにかけて話していた。
「おじさん、退院おめでとう」
由佳は僕の顔を見るなり立ち上がり「これ、チョコレートだけど、私のささやかなお祝い」そう言ってリボンをかけた小箱を差し出した。
「ありがとう。由佳ちゃんまできてくれて、すまないねぇ」
「気を遣うことないよ。最初から、母さんとここで会う約束してたんだから」
由佳は屈託なく言い、小林さんと顔を見合わせている。
「早く終わってよかったねぇ。もういつ退院してもいいんでしょう」
「そういうことになるな」
僕は言いながら、小林さんは自らの結婚については、明かすつもりはないのかなぁ。などと考えていた。
「どうしたのよ。浮かぬ顔をして、そこに着て帰る服を出しておいたから、早く着替えていきましょうよ」
小林さんの声に押されるように、僕は着替えを始めた。小林さんと由佳は、着替えているあいだデイルームで待っているから、と言って先に病室を出ていった。
僕は、小林さんが出しておいてくれた外出着に着替え、脱いだパジャマなどをトートバッグに詰めた。由佳がくれたチョコレートの小箱も、バッグの隙間にしのばせた。履いていたスリッパを靴に履き替え、脱いだスリッパは屑かごに押込んだ。
病室をあとにするまえに、竹本に声をかけてから行こうと思った。竹本のベッドへ行き、カーテンを開けるまえに、別れ際に彼がピースサインをしないことを祈った。
僕はこれまでに、別れ際にピースサインをして死んでいった奴を何人も見ている。つい二年まえにも、六十歳の定年で退職した同期の男が、僕が見舞った帰りにピースサインをして、別れたあと三月も経たずに他界した。僕にとり、病人が別れ際にするピースサインは鬼門なのだ。
そんな思いでカーテンを少し開けて覗けば、すでにこちらの会話を聞いていたのか「もう行くんか」と先に言った。
「お世話になりました。外来にきたら会いにきますよ」
「わざわざ会いにきてくれても、その時には、もうおらんかもなぁ」
「何を気の弱いことを、背中のお不動さんが守ってくださりますよ」
「そうや、大下はんはワシの彫り物見てるんやなぁ」
「そうですよ。先生も一生懸命に治療されているのですから、頑張ってくださいよ」
「おおきに、ワシにそんなこと言うてくれるんは、大下はん、あんただけや」
話しながら、竹本は喉に痰をからませて何度も咳き込んだ。僕はこのあたりが退けどころと思い、彼の手を握り握手をすると、カーテンの外に出ようと背をむけて歩き始めた。
「大下はん……」竹本の呼び止める声に立ち止まり、僕は振り向いた。
「ヨメはん、大事にしたげや」
竹本はそう言い、僕を見つめている。僕が黙って頷くと、微笑を浮かべて右手を挙げようとしている。〈よせ、やめろ!〉胸中で叫んだとき、わずかに挙げた掌で竹本はピースサインをしていた。
僕は竹本に向かってお辞儀をし、その足で自分がいたベッドに寄り、パイプ椅子の上に置いてあったトートバッグの持ち手を掴み、逃げるように病室をあとにした。
スタッフステーションまで早足で歩き、居合わせた担当看護師に今から退院することを告げた。看護師は白衣のポケットからハサミを取り出し、手首のわっかを切り取ってくれた。なんだか晴れて自由になったみたいな気になり「お世話になりました」と挨拶もそこそこに、小林さんと由佳が待つデイルームに向かった。
デイルームでは、二人は向き合いテーブルについて話していたが、僕の顔を見るとすぐに席を立った。僕はこの場所で、彼女らともっと話をしたかったのだが、デイルームをあとにしてエレベーターに向かった。
一階のロビーは外来の患者の姿もまばらで、閑散としていた。壁の大時計は二時四十分を指していて、この時間ともなれば、いつもは待たされる会計窓口も人影はまばらだ。僕は会計で支払いをするので、売店に寄りATMで現金を引き下ろさねばならない。売店のまえで二人と別れることになった。
「おじさん、いろいろとありがとうございました」
由佳は改まった顔で言い、軽く頭を下げた。
「元気でな、就活頑張れよ」
僕も由佳に、笑顔をつくり言葉を返した。
「このたびは、本当にお世話になったね。言葉で言い表せないほど感謝をしています」
僕は小林さんに向かって、深々とお辞儀をした。
「そんな大袈裟に言わないでよ」
彼女はそう言って笑ってみせたが、すぐに神妙な顔になり「頑張って、長生きをするんよ」その瞳は、もっと何か言いたげだった。
一瞬、僕は胸が迫り、返す言葉を失った。
「それじゃね」小林さんはそう言って僕に背を向けると、由佳をうながして正面玄関にむけて歩きだした。二人の姿が外に消えるまで、僕はその場にたちつくした。
会計の窓口では待つこともなく、支払いを済ませた僕は駅へ向かった。二週間ぶりに外の空気に触れ、開放感を味わった。入院の時はまだ暑さが残っていたのに、清々しくて街はすっかり秋になっていた。入院をする時にはタクシーで乗りつけたが、このまま帰宅する気にはなれなかった。
ここから上り電車で一駅だが、そこはたいそう賑やかな繁華街なのだ。久し振りに、繁華街をぶらつき、夕飯でも食って帰ろう。そんな思いで駅へ向かった。
駅に着いて改札を通り抜けると、まっすぐに上りのホームへ向かった。階段を降りホーム東寄りのベンチの近くまで歩いて立ち止まった。この位置が降りる駅での階段に近いのだ。
傾きかけた秋陽はホームの端々まで届いて、電車を待つ人々の陰を伸ばしている。
何気なく、向こう側の下りホームに目をやった僕は、そこに立つ二人の女性に気づいて凝視した。紛れもなく小林さんと由佳だ! とっくに電車に乗って行ったものと思っていたのに、まだいたのか。
こちら側から見れば二人は横向きに向かい合って立ち、楽しげに笑いながら互いに肩をつつき合ったりして、まるで親しい友達と語り合っているみたいだ。
僕は何も考えずに、上りホームへ来たことを悔やんだ。僕のいる上り普通電車の着くホームと、二人がいる下りの快速電車専用ホームの間には、普通電車の発着するホーム、それに別方向へ向かうホームとの二本のプラットフォームをまたがねばならない。いまから階段を駆け昇りコンコースを走り抜け、エスカレーターを駆け降りても二分はかかるに違いない。ましてや、体力の落ちているいまは二分では、とても行けそうもない。
その間に電車が来るだろう。息を切らせて行き着いたら、電車のドアが閉まるというのも悲惨だ。そうだ、メールをしよう、いやメールより電話だ。いまから、そちらのホームへ行くと伝えたら、待ってくれているだろう。
やっぱり駄目だ。小林さんは今日を限りに、僕との関わりを切ろうとしている。電話をするなど未練たらしく思われるし、ましてやストーカーまがいの行為と取られても不本意だ。
二人のどちらかが、こちらを向いてくれないか。そうしたら両手を振って合図をするのに。僕はわざと片腕をあげてみたりして、向こう側のホームから目につくような仕草をしてみた。
折り悪く向かいのホームに電車が進入してきた。二人がいるホームへの見通しが、一瞬にして遮断された。都心とは別方向へ向かうこの電車は、接続待ち合わせのために三分間も止まるのだ。電車から、降りてくる人波が途絶えた。僕は停車している電車の窓を通して、二人のいる場所が見通せないかと試みたが無駄だった。
上りの普通電車が到着するアナウンスが、ホームに響いた。それと重なるように、下りの快速電車の到着を告げるアナウンスが、微かに聞こえた。
僕の胸中は絶望的な思いで破裂しそうだった。一瞬、由佳が僕に言った言葉が脳裏をよぎった。〈おじさん、母さんのこと、どう思っているの。嫌いじゃないよは、好きってことにはならないわよね……〉手前に止まっている電車の屋根越しに、むこう側に停車している快速電車のパンタグラフがゆるゆると動き出した。
僕の体は反射的に、下り方向へホームを駆けだしていた。十メートルばかり走ったところで、男とぶつかり合い罵声をあびせられた。頭を下げるのもそこそこに、再び駆け出した。
ホームの端の先に、西日を浴びて遠ざかる電車が見えた。瞬間、僕は足がもつれて転倒した。誰かの悲鳴に似た驚き声を耳にした。
僕は起き上がろうとしたが、右膝に激痛を感じて、再びホームに倒れ込んだ。上りの普通電車のドアが閉まり、動き始めた電車のドア付近に立った男が、窓越しにこちらを見ていた。僕に罵声をあびせた男だ。そう見えた。
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