好色な男   上月 明



 今日から東京へ出張だったが、朝から気分が晴れない。その原因は妻との口喧嘩だった。
「東京へ行ったら、また寄ってくるんでしょう!」
「まだ言っているのか。こっちも仕事でストレスが溜まるんだ」
 先月、本社での支店長会議で東京へ行ったとき、浅草ロック座に寄ってきた。スーツのポケットに残っていた入場の半券を、妻に見つかってしまった。いつもは帰りに捨ててしまうのだが、忘れていた。
 妻は私の行動に、いちいち干渉してくる。それが鬱陶しい。職場の魅力ある女子社員の話をしただけで嫉妬する。そんなに亭主のことが気になるのなら、魅力ある妻になれと言いたい。
 身体には脂肪が巻き、腹が出て尻が垂れ、ウエストにはくびれが見られない。それに二重顎。もう少し見栄えを気にする女になってほしい。
 ストリップ劇場で、スタイルの良い綺麗な女を見ると、妻への鬱積しているもやもやが、洗い落とされる気がする。出張先などで時間があれば、劇場を訪れストリップショーを観賞する。
紫煙がライトの中で立ちのぼり、別世界にいる心地がする。よどんだ空気が観客をうっとりとさせている。そんな中で美しいプロポーションをした女が潤んだ目に、エロチックな微笑みを浮かべて舞台に登場してくる。
 バックミュージックにのって、観客をじらし、ゆっくりと踊る。観客は口の中に唾液を滲ませ、真剣な眼差しで踊り子を見ている。「こんな美しい女の裸体が見られるのか……」そう顔に書いてある。感動に近い気分が徐々に高まってくる。
 身につけている衣類が一枚一枚剥がされていく時間に、無性に喜びを覚える。そして、口の中に溜まった唾液を一気に飲み込む。観客の視線は不思議なものでも見るように一挙手一投足に注目している。この時間帯がたまらなく幸福感を感じさせる。高姿勢な社長の顔を忘れさせ、脂肪の巻いた妻の身体を脳裏から消すことができるからだ。
 衣類を剥ぎ取られた裸体は、身体を反り返らせ悩殺ポーズをとっている。七色の光線に輝く肌、白い腿の交差点に群生している密林、乱れた長い髪が顔半分を隠し、半開きになった口元、羽毛のような柔らかい陰毛が反り立ちカクテル光線によって、虹色に光り輝いている。舞台に飛び上がり、陰毛の中に窒息するくらい顔を埋めたいという衝動が走る。
周囲の視線を気にするように平静心を装い、いつもヌード作品を見ているんだという顔付きを心がける。しかし、身体は正直だった。口の中は唾液が吹き出し、男性自身は命令を無視し、いきり立っていた。四十歳半ばの年齢を考えると、自分の性欲が異常に思える。美しい女性を目の当たりにすると、衣類を剥ぎ取り思い切り抱きしめたくなる。もちろん頭の中でのことだが……。
地元のストリップ劇場に行くことには抵抗があった。会社で年頃の女性を部下にもつ支店長としては、周囲の目が気になった。それに、綺麗な顔に、美しいプロポーションの踊り子が登場する劇場は、やはり大都会が群を抜いていた。
 妻に少しでも均整の取れた体形になってほしいと、会社で売っているトレーニング機器を職員割引を使って買ってきたが、一週間ほど使っただけで部屋の隅に置いたままである。
「どうして、トレーニングをしないんだ。もっと汗を流さなきゃ、豚になってしまってもしらないから」 
「きついことを、言うのね。わたし、しんどいことはだめなの」
「鏡の前でじっくり自分の体形を見てみたらどうなんだ」
「健康でいるからいいじゃない」
 そう言って、苦虫を噛んだ笑いを顔に浮かべて逃げてしまう。亭主としては、少しでもスタイルの良い女になってほしいが、妻は努力をしようとはしなかった。
「ストリップもたまにはいいけど、夫婦生活も大事にしてくださいね」
 私が妻の体形にふれると、反抗的な言葉を返してくる。トレーニングをしない代わりに、エネルギーをもてあましているのか、性欲は強く、暗にセックスを要求してくる。
 スタイルの良い綺麗な女なら、性欲も湧いてくるだろうが、今の妻では、気分が乗らない。
 私が聞き流し、拒否をすると、妻は不機嫌になる。
「夫婦生活をどう思っているの」
 そう言って、怒りだす始末である。そんなことの繰り返しでは、夫婦関係がうまくいくはずがない。
冷え切った夫婦の関係を、やり直せないかと、いろいろ努力してきた。昨夜もそうだった。妻がセックスを求めてきた。
「自分の体形を考えてから言え」と、言い返したかったが、小学四年生になる娘の優香のことを考え、何とか夫婦関係をうまくやるために、妻の要求に応じた。
 普段は別々の寝室であったが、昨夜は妻のベッドで一緒に寝ることにした。ムードを出すために、部屋の明かりを豆球だけで薄暗くし、少しでも妻の身体を見えにくくしたつもりであったが、数分もしないうちに、暗さに目が慣らされて、相手の動きも体形もよくわかり、ほとんど効果がなかった。
 妻のドラム缶のような身体は、何回見ても性欲が減退してしまう。そんな気持ちを抑え、自分自身に鞭を入れた。
 少しでも気持ちを奮い立たせるために、妻を仰向けに寝かせ、両膝を私の両肩に乗せ、結合している部分を目のあたりにしながら、行為を行った。
 妻は大きな奇声とも思われる声を張り上げ、体中をくねらせ、これ以上ないといえる快楽の表情を見せた。しかし、私は燃えなかった。脂肪の巻いた弛んだ体形を見せられ、気の狂った声を聞かされたのでは、たまったものではない。気分が乗るどころではない。
(こんな女のために自分自身に鞭を入れ、サービスしなければならないのか)そう思った途端に、男性自身が縮んでしまった。
 重く感じだした妻の両脚を、布団の上に投げ落とした。妻は驚いた顔になり、中途半端な表情になり、そして不満顔になった。
 私は無視して、布団に寝ころんだ。四十歳半ばの年齢では、まだまだ性欲が衰えるはずはないのだが、妻とはいくら努力をしても、立つものも立つ気がしなかった。
「どうしたのよ、途中でやめたりして」
妻は身を起こし、私を見下ろす格好で、語尾を強めた。
「だめなんだよ。わかるだろう」
「だめだ、だめだといつも言うけど、まだまだ衰える歳じゃないでしょう」
「男と女では違うんだよ」
「何が違うのよ。あなたのあそこは弱いのかしら」
「そんなこと、おまえに言われる筋合いはない」
 一言一言からんでくる妻の言葉に腹立ちを覚える。
「もしかして、外でセックスをしているんじゃないでしょうね」
 そう言って、妻は私の顔を覗き込んだ。
「うるさい。この嫉妬女が!」
 自分の体形のことを棚に上げて、私の行動に干渉してくる妻に対して、頭に血が上ってしまった。妻を無視し、ベッドから出ると自分の寝室に戻った。
 毎回こんなやりとりをしていることに嫌気がさす。頑張ってもセックスができそうにない妻と、一緒に暮らすことが、時間の無駄に思えてくる。
 昨夜のことで、朝から鬼の顔をしている妻を見るだけで、気分が悪い。
「おまえには、亭主が仕事に行くときだけでも、気持ちよく送り出してくれと言っているだろう。それが主婦としての最低限の務めだ。出張から帰ってくるまでのあいだ、じっくり反省していろ!」
 妻からの反論を聞く前に玄関のドアを強く閉めた。
「くそったれが!」
 朝の出来事を思い出すだけで、腹が立つ。
 時間的に余裕を持って家を出ようと思っていたが、妻との口喧嘩で出るのが遅れてしまった。それに気分が悪い。このまま妻とこんな生活を続けることを、将来後悔するのではないかと考えてしまう。
地下鉄に乗り新神戸駅で降り、階段をあがり地上に出ると、真っ青な秋空が広がっていた。目の前に三階建てのホテルがフェンスに囲まれ取り壊されようとしていた。白壁が薄黒くなり、周囲の新しいビルと比較をすると違和感を覚えた。取り壊されかけているホテルに見覚えがありそうな気がした。立ち止まりフェンス越しに眺めていた。
頭の片隅に残っていた記憶が蘇ってきた。この建物は麗子と初めて情事を楽しんだ建物に違いない。周りは徐々に高層ビルが建てられ、土地の有効活用を図る意味なのか、古くなったビルは取り壊されていた。
 二年前のこのあたりは、深夜になるとほとんど人通りがなかったし、もっと寂れた街だったように思う。記憶がはっきりしないのは、このホテルを利用したときは夜だった。だから昼間にこの建物をじっくり見た記憶がない。彼女がスナックを辞める直前だった。飲みに行っていた私は、勤めていた麗子と会えなくなってしまうと思い、家まで同じ方向だから、タクシーで送らせてほしいと懇願した。
 ポートアイランドの海岸で、潮風に当たり神戸の夜景を眺めた後、二人の関係を誰にも話さないという、彼女との約束を承諾してからホテルに向かった。新神戸駅の近くでタクシーを降りた。ホテルの入り口が幹線道から脇道に入り込んでいたので、人目につきにくそうだったし、誰にも見られないよう用心した。
 スナックで彼女に一緒に帰ろうと声をかけたときに、周りにいた男たちは聞き耳を立てていたにちがいない。他の客が面白がって後をつけているかもしれないと、慎重になってしまった。
 着物がよく似合う女だった。麗子はよくスナックに着物を着てきた。三十歳後半と思える容姿から品が漂っている。彼女を求めて飲みにくる客は多い。だから、私以外の男たちもアプローチをかけていたに違いない。そう思うと、いつも神経が苛立った。
 私を夢中にさせた麗子は一年前、母親と一緒に京都に引っ越しをしてしまった。私は彼女が諦められず、京都まで追いかけた。今日も新幹線を途中下車して、彼女に会うことになっていた。
 新神戸駅の、人が並んでいるエスカレーターを尻目に、階段を二段跳びに駆け上がった。ひんやりとした空気が忍び寄ってくる。動悸が早くなり温もりかけた身体には心地がよかった。改札を入り時計に目をやり、立ち止まることもなく二階へ急ぐ。新幹線のプラットホームに、滑り込むように東京行きの新幹線が入ってきた。
休む間もなく、停車した新幹線の一番近い入り口から飛び乗った。座席を確認するために手に持っていた乗車券が、波打つ鼓動に合わせるように揺れている。乱れた息を抑えて通路を歩く。視線は座席に座っている女たちに向いていた。なかには視線が合う女もいたが、やはり麗子の方が綺麗だと思った。視線の合った彼女たちは、私の視線を無視し目をそらせた。
 通路側の指定席に腰を下ろした。身体中から汗が噴き出し、カッターシャツの襟が肌に密着して、首を絞めてくる。無造作にネクタイをゆるめた。胸元を広げ口を開け、速くなっている鼓動が静まるのを待った。列車は動きだし、車窓のプラットホームがカット写真を見ているように、場面が変わっていく。ウイークデーだというのに満席に近かった。
 座席を少し倒し、麗子ともうすぐ会える楽しみを、ゆっくり味わっていた。
明日は月一回の定期的な本社での支店長会議だった。トレーニング機器販売会社も、世の中の景気が悪いせいか、健康ブームの割には販売業績は現状維持が精一杯である。
 社長から檄を飛ばされるのはわかりきっている。どう弁解しようかと思い悩む。私が任されている兵庫支店では、市町村の公民館関係にトレーニング機器を低い金額の見積りを出し、儲けなしで設置させてもらい、毎年行う定期点検や修繕で利益をあげ、何とか営業成績を上げていた。
 荒い息づかいがおさまってくると、隣が気になった。座席を少し倒し、窓際に頭を押しつけ目を閉じている女がいた。褐色の肌に鼻筋が通っていた。軽く茶色に染めているストレートの髪が首に巻き付き色気が漂う。
 淡いピンクのブラウスから想像できる盛り上がった胸、スカートの下からストッキングに覆われた二本のしなやかでほっそりとした脚、それに引き締まった足首、芸術作品を見ているようだ。歳は二十五、六というところだろう。やはり歳が若い分、麗子より肌の艶と張りは目の前の彼女の方が上のようだ。
隣の女が目を閉じていたので、じっくりと見ることができた。光沢を放つ髪と、肌にしっくりと塗り込まれた化粧が色気を滲ませている。身体を寄せると、香水の匂いに混じって体臭が、鼻孔に流れ込んでくる。これがたまらなく性欲を刺激する。
 車窓からは、稲刈りを終えた稲株だけ田圃に取り残されている風景が、走馬燈のように流れていく。女に目を落とすと、肌にピンク色が射し込んでいる。
「男とセックスをしている夢でも見ているんだろう……」
なめ回したいすべすべした肌を、なおも食い入るように見ていると、口の中に唾液が滲み出てくる。むらむらとしたものが襲い、身体が武者震いを起こし唾液を飲み込んだ。
 眠ったふりをし、鼻を近づけて、若い女の匂いを楽しんで嗅いだ。そして、女の上に覆い被さり、形のいい脚に手を添わせ、ふくらはぎをなでた。女の動悸が速くなるのを感じ取った。左手を女の首に巻き、右手でピンクのブラウスに光っているボタンを、ひとつひとつ丹念にはずしていく。そして自分のズボンのベルトに手を掛け、留め金を外すとファスナーを下げ、ズボンと一緒に、トランクスをずらした。
彼女が、不意に大きな目を開けた。驚いた視点の定まらない目だった。しかし、女の身体は窓の側壁に押しつけられていたので身動きはとれない。彼女は自分の身に何が起ころうとしているかを察したようだ。同時に、この場の出来事が信じられない顔つきになった。
「何を……!」
美しい彼女の顔が歪んでいる。強張った表情になってきた。私は押し黙ったまま彼女に自分の体重を預けていく。
「何をするの!」
 叫びを無視し、私の片手は、彼女の肩を押さえる。そしてもう一方の片手で口をふさぐ。柔らかい身体がもがき、押し殺した叫び声をあげた。
彼女は充血した目を大きく開き、顔の皮膚は引きつり、身体は石地蔵のように固くさせていた。素早く彼女の口にハンカチをねじ込んだ。そして、女の背中に手を回し骨が折れるくらい、思い切り抱きしめた。
 私の片方の膝は、彼女のスカートの上から股間に押し込まれていた。腰をひねるたびに彼女の腿の感触が、膝に伝わってくる。彼女がもがくたびに膝は、内腿の奥にねじ込まれていった。
私の頭の中には、野犬が逃げまどうウサギを追いつめ、もて遊ぶゲームの構図が浮かび上がっていた。身体中の血液はゲームへの緊張感にはしゃいでいるようだ。

「すみません、お客さん……」
低音の渋い声がどこからか聞こえてくる。
(だれだ、邪魔するのは)そんな思いが、脳裏を横切る。
「すいません、お客さん、乗車券を拝見させていただきます」
今度は肩口を揺すられるのを感じた。その手を振り払うようにして目を覚ました。
 眠ってしまっていたのか……。皮のゆるんだひげ剃り後の青くなった顔が覗いている。その顔が車掌であることに気が付くまで、しばらく時間がかかった。そして、素早くズボンに手をやる。乱れていない服装に気が付き、また指先から伝わってくる布地の感触に安堵を覚えた。
隣の女の視線を感じた。そのとき、股間に異物がある感触を覚え、顔が強張る。顔が紅潮するのを無視し、彼女に悟られないように脚を組んだ。
「お休みのところ申し訳ありませんが、乗車券を……」
 車掌の言葉に身を起こし、むっとした気分で内ポケットから乗車券を取り出すと、車掌は乗車券に検印を押した。

京都の駅前からタクシーを拾い、麗子との待ち合わせ場所に向かった。東京には今日中に着けば、明日の朝からの会議に間に合う。
 麗子とホテルに入るとき、いつも彼女は私を睨み返した。それでも私が手を引き、入ってしまうと素直に従った。
 今日の彼女は和服だった。和室を選んだ。部屋の真ん中にひとつだけ敷かれた布団の中に、私が先に入り天井を見るようにして、部屋の隅で帯を解く麗子の姿を横目で追った。
「ねえ、わたしたちが知り合ったときのこと覚えている?」
 帯を解きながら懐かしそうに言った。私は布団の中でうなずきながら聞いていた。
 退職する先輩の送別会の帰りに、たまたま寄ったスナックに麗子が、病気になった友達のピンチヒッターとして勤めていた。彼女は着物だった。スナックで和服は不釣り合いかもしれないが、着物の似合う女性が好きだった私は一目惚れしてしまった。
 毎日そのスナックに通った。どことなしに品のある彼女のそばにいるだけで楽しかったし、気持ちが癒された。最初のうちはほとんど会話ができなかった。意識をしてしまうと、話題が浮かばず、話が詰まってしまった。無口の分だけお酒の量が増えた。
「明日仕事なんでしょう、あまり無理をなさらない方がいいわ」
 そう言って、笑みを浮かべて、あまりお酒を勧めなかった。そんな彼女が天使に見えた。
「ねえ、むこうを向いてくれない」
 着物を脱いでいるところを見ていると、麗子から色気があふれ出ていた。掛け布団をはね除け、思い切り抱きつきたくなる。
彼女は母親がやっている着付け教室を手伝っていると言った。会うときは、できるだけ和服姿を見たいと頼んだ。それから二回に一回は着物だった。中背の彼女は和服姿がよく似合う。
 麗子は結婚後三年で離婚していた。子どもはいないらしい。私が家庭をもち、子どもが一人いることを知っていたが、そのことには触れてこなかった。
「このままでもいいのか?」
 私は聞いたことがあった。
「あなたのようなタイプが現れたら結婚するかも……」
 冗談とも本気ともとれる言い方に、私の心の隅でくすぶり続けていた彼女への煮えきらなかった気持に、火がついてしまった。
 麗子がたまらなくいじらしいと思った。妻と別れてほしいとは口にしない。それだけに、私には妻と別れて彼女と一緒になるのか。それとも麗子と別れて彼女を自由の身にしてあげなければならないのか。決断を迫られている心境だった。自分の年齢を考えるとタイムリミットのように思える。
「やはり着物はいいなあ。脱いでしまうのが惜しい気がする」
 今日は薄い山吹色地に小さな花柄模様を散らした和服姿が、身体にぴったり合っていて、これぞ大和撫子であると思えた。
「好んで脱いでいるつもりはありません」
 私を睨み付ける目になり、帯を解きかけていた手が止まってしまった。
「そうだったな、私が頼んでいるんだっけ」
「だったらわかるでしょう」
「わかったよ。でも早くしてほしい」
 麗子と反対の方を向いた。後ろからしゅるしゅると帯を解く音が聞こえてくる。そして、着物が肩からすべり落ちた音がかすかに聞こえてきた。
 彼女とは何度も結ばれているが、いまだに着物を脱いでいるのを私が見ているといやがった。恥ずかしそうな仕種に清らかさを感じる。
 待たされるのは慣れていたつもりであるが、いつも麗子が布団の中へ入ってくるまでが、途方もなく長く感じる。彼女は着物や帯を部屋の隅に小山にして置くと、長襦袢姿で寝床に近づいてきた。掛け布団の端をあげてやると、腰から身体を滑りこませてきた。それを待ちかねたようにして抱きしめると、肌からの温もりと甘酸っぱい体臭が私の身体を潤し、いっきに欲情が火柱のように燃え上がった。
 情事のあと脱力感を覚える。麗子も私の胸に顔を埋めたまま動こうとはしない。乱れた髪が私の顎に触れていた。
「どうだった?」
 いたずら半分でよく聞いたりした。彼女はさきほどの余韻がまだ残っているらしく、すぐには返事が返ってこない。
「よかっただろう」
「そういう言い方、いやだわ」
 顔をあげた麗子は、わかっていながら聞いてくる私を睨み返した。彼女は私の愛撫に成熟した身体を敏感に反応させ、ときには声を出すこともある。しかし、妻のように感情のまま、露骨な表情をだすのではなく、恥じらいがあった。
「おかあさん、ふたりの関係知っているんだろう?」
「わたしが出掛けるから、この頃うすうす感づいているみたい。でも、あなたのことは知らないと思うけど」
「……」
「それより、いい人がいるなら早く再婚しなさいと、うるさいの」
「それで、その気はあるの?」
「ばかねえ……」
 麗子は私の真剣になった顔に、ちらっと視線をやってから微笑んだ。
 私の脳裏に妻のことが浮かんだ。妻は結婚という安住の中に浸っているせいか、体形を気にすることもなく、それに口やかましくなっていた。もう妻との間に愛というものが感じられない。麗子のような清らかさは残っていなかったし、着物を着ることもなかった。
今朝も妻は私の楽しみをののしる言い方をした。
「東京へ出張だと言っているけど、仕事をほったらかして、浅草ロック座へ行っているんじゃないでしょうね」
「仕事を済ませてからだ。心を癒すために行って、どこが悪いんだ」
楽しみに干渉してくる妻に腹立ちを覚える。まぶたを腫らした寝起きの鈍い顔に、髪も整えていない姿が一層幻滅させた。こんな妻との結婚生活は失望していたが、しかし、離婚となるといちばんの犠牲者は娘である。そのことを考えると、なかなか踏み切れなかった。
「どうしたの、さっき言ったこと気にさわったの?」
「いや、でも妻と離婚をするとなると娘のことがあるから……」
 この頃、もう一度人生をやり直せたらとよく考えることがある。
「あなたを困らせる気はなかったのよ」
 麗子を改めて抱き寄せた。長襦袢が乱れ、胸元が広がった。解けた髪が彼女の顔を覆い私の胸をなでた。
「気になっていることがあるんだが」
 喋る口元に麗子の髪が絡みついた。
「なに?」
「なぜ離婚したの。君のような素敵な女性と別れる男の気が知れないと思うけど」
「ばかねえ」
 麗子はよく「ばかねえ」と言った。それが口癖だった。彼女は私と仰向けになって並んだ。
「言いにくいわ、もう別れた彼のことだし、それに夫婦の恥になることだから……」
 麗子は別れた夫のことを「彼」と呼んでいた。
「無理にとは言わないが、相当な理由があったと想像がつくよ」
 少し思案をしている様子を見せたが、さきほどの情事の余韻が麗子の口を軽くさせたようだ。
「もう少し彼に、やさしくしてあげるべきだったと、今考えると少し反省しているの」
 私は麗子の頭の下に左腕を入れると、身体を密着させ、右手を彼女のやわらかい胸の上に置いた。
「彼が数名の部下と一泊の出張があり、その晩ホテルでお酒を飲んだらしいの。ホテルが温泉場だから、酔いにまかせて部下を誘ってヌードを見に行ったらしいの」
麗子の口から出たヌードという言葉に、私は一瞬戸惑いを感じた。
「そんなこと、温泉場だったらよくある話じゃないか」
平静を装い夫の行動を肯定した。
「そのヌードショーで、彼は部下の人に大きな声で『職務命令だ!』と言って無理矢理に舞台に押し上げたらしいの……。舞台に上がると言うことは、どういう意味かわかるでしょう」
麗子が言っている場面が手に取るように想像できた。事実何回もそんな場面に出くわした。京都へ出張に行ったときもそうだった。
 東寺DX劇場で中年のネクタイを締めたサラリーマン風の男が、ダンサーからの呼びかけに応じるように舞台に上がっていた。下半身部分だけ衣類を脱ぎ捨て、上半身は衣類を付けたまま胸のところに腕を組み、目をつむったまま仰向けに寝転んでいる。よっぽど好きか、それともヤケになるようなことがあったのではないだろうか。そう思いながら、ダンサーにもてあそばれている男を見ていた。
「部下の人も舞台に押し上げられたとしても、自分で降りることができるじゃないか」
 別れた夫に親しみのようなものを感じ、弁解してやった。
「そうなんだけど、部下の人もすごく飲んでいたらしく、みんなが見ている前で、ヌードの人と関係を持ったらしいの」
 部下の恥ずかしい行いに、どうして離婚の話になっていくのか理解ができなかった。
「想像はつくけど、どう離婚と関係があるんだい」
 麗子は過去のことを思い出して、少し興奮していた。
「部下の人が、酔いが醒めてから、彼に職務命令だと言って舞台に押し上げられなかったら、こんな恥ずかしいことをすることはなかったのだと会社に訴えたのよ」
「職務命令は関係ないだろう。常識的に考えて、守らなければならない職務命令かどうか、誰だって判断できるだろう」
「わたしもそう思うけど、彼が言った『職務命令』という言葉は、他の部下たちも聞いているの」
「ご主人もそれに部下も、お酒を飲んでいたんだろう」
「飲んでいたからといっても、部下の方に申し訳なくて、それに彼が行ったことは許されることではないわ」
「しかし、まさかご主人が喋ったわけじゃないだろう」
「彼は、わたしには知らん顔を決め込んでいたわ。彼の同僚の奥さんが教えてくれたの。彼に問い詰めても、何も話さなかったわ」
「会社のご主人の立場はどうなったの」
「部下に対するパワーハラスメントだということで、平社員に降格になったらしいの、そんなこと彼はなにも言わないからまったく知らなかった。でも噂で知ったの」
「そんなこと、奥さんには言えないだろう」
「それ以後、彼が不潔な人に思えて愛情もなくなってしまったの。それから、わたし彼とあまり口をきかなかったの。夫婦関係も冷えきってしまったわ。そしたら、彼、女をつくったの……」
 私は言葉に詰まってしまった。
「奥さんである君は、まったく悪くない。離婚は当然だ。ご主人が原因をつくったのだから」と慰めればいいのか。それとも「ご主人は、運の悪かった面もある。うまく部下を手なずけておけば、パワーハラスメントだと訴えられることはなかったんだ。要領が少し下手だったんだなあ」と、言おうかと迷った。
 私の腕枕で仰向けになっていた麗子の目に涙が浮いていた。離婚原因を聞いてしまったことに後悔の念が湧き出てきた。
今の時代では珍しくなったカチカチと壁に付けられている、時計の時を刻む音が室内に響くのが聞こえた。窓にはめこまれた障子を通して外の明かりが和室に鈍く差し込んでくる。
 しんみりとした雰囲気になると、いつも麗子との関係をどうするか、脳裏に浮かび悩まされる。
 妻と別れ彼女と一緒になりたい願望は持っているが、麗子の母親が同意するかどうかだ。また娘のことを考えると迷いが出てくる。
そっと麗子は横向けになった。薄い掛け布団を胸に抱えるようにしていた。目の前に彼女の背中がある。きめ細やかな白い肌だった。ゆっくり掌を当て撫でてみた。すべすべした肌から温もりが伝わってくる。肌にそっと頬を押し当ててみた。亡くなった母の温もりと同じものだと感じた。麗子は反応しない。
この肌を私のものにしたい。毎日この肌に接することができるのなら、冷えきった家庭なんか捨てたとしても、惜しくはない。娘だっていつも妻から、父親の悪口を聞かされているらしく、私にはなつかない。夫婦喧嘩のときは、いつも妻の味方をしている。離婚すれば妻に付いていくのはまちがいないだろう。
今がチャンスだ。東京出張から帰ってきたら、はっきり言おう。「おまえとは離婚だ!」と、旦那の稼ぎで安住の生活に浸っていたことが、いかにありがたかったことか、思い知らせてやる。
麗子と新しい生活を始めるのだ。夜の生活だって、六十歳半ばくらいまでだろう。残された年数は、あと二十年しかない。
「もう起きなくても大丈夫なの?」
身体を少し起こし、私を覗き込む格好で声をかけてきた。
「会議は明日の朝だから、今日のうちに東京へ着けば間に合うよ」
「そうなの」
そう言って麗子は、全身の力を抜いて、仰向けになり天井を見ていた。たぶん私と同じことを考えているのではないかと思った。
「今なにを考えている」
「何を?……そうね、あなたとの今後のこと」
胸を締め付けられるのを感じ、言葉が出せない。彼女はバツイチであっても、独り身である。それに引きかえ、私には妻があり娘がいて家庭がある。今のままでは、麗子との結婚について、切り出すことができない。
「そろそろ起きましょうか」
「そうだな」
 彼女の言葉で、よどんでいた気まずい空気が動いた。
「わたし先に起きるから。少しのあいだ、むこうを向いてくれない」
 麗子は布団から出ると浴室へ行った。振り向くと、その長襦袢を肩に掛けた後ろ姿から、プロポーションのよい身体の線が窺えた。
 彼女は浴室でシャワーを浴び、髪をなおしてから出てくると、和室と障子で仕切られ応接セットが置いてあるところで着物を着る。着付けるのに、少し時間がかかるので、私はいつもすぐには布団の中から出なかった。
「来週くらいに、また会おうか」
「仕事忙しいんじゃないの。無理をしないほうがいいわ」
 障子の向こうから声が返ってくる。
「別に無理はしていない。また会いたいから言っているだけだ」
「あまり会いすぎると、あなたの奥さんに知られてしまう気がするの」
「そんなこと、心配する必要ないよ」
「わたしたち、たまにしか会わないから、続いてきたんじゃない」
 確かに彼女の言うとおりである。これからも、ふたりの関係を続けていくためには、彼女の言葉に従うしかない。
「シャワーを浴びてくる」
 布団の中から抜け出し、裸のまま浴室に行った。
 私が腰にタオルを巻いて出てくると、布団の乱れが直され、私がいまから着ける衣服が、部屋の隅にたたんで置かれていた。麗子にはこのような実直なところがあった。
「もう少し休んでから出ようか」
「じゃ、お茶でも入れましょうか」
 椅子に腰をおろした。私は彼女の仕種をじっと見ていた。
「和服姿がじつによく似合う。さっきまでの君とは思えないなあ」
「急にどうしたの」
 私は麗子の入れたお茶を飲んだ。この時間を真剣に考えなければ、どこかへ消えてしまうのではないかと不安が忍び寄る。
「行こうか……」
「ねえ、やっぱり来週会いましょうか」
 立ち上がった私に彼女は思い出したように言った。
 私はうなずきながら、妻と麗子のどちらかを選択しなければいけない時期が、きている気がした。
 先ほど、『妻と離婚』を決断したのに、まだ離婚のことを、じめじめと考えている優柔不断で、何も決められない自分自身の不甲斐なさに、苛立ちが沸いた。
 麗子の手を強く握った。
「必ず妻と離婚する」
 彼女の目を見てはっきりと言ってしまった。今まで胸のあたりに、つっかえていたもやもやが、消えていくのを感じ取った。
 麗子は何も答えなかった。少しだけ顔の表情が緩んだように思えた。私にはそれだけで十分だった。

 東京行きの新幹線の中で、一時間ほど前のことを思い出した。麗子に「妻と離婚する」と言ってしまったことが、頭の中に広がっている。気が重たくなってきた。乗車している美しい女の顔を見ても、いつものように楽しむ気分にはならなかった。
 離婚となると、貯金の半分は渡さなければならないだろう。娘が妻に付いていけば、毎月の養育費を請求してくるだろう。マイホームだって結婚してから買ったものだ。妻にも半分権利があるはずだ。
 妻の要求する権利を認めていけば、麗子との結婚生活が、経済的に成り立つのか、不安になってくる。
 麗子と一緒のときはあんなに力強く言えたのに、先ほどの意識が揺れ、霞んでいくのがわかる。
「やっぱり、離婚するのをやめようか」不安がつのると、そんな言葉が独りでに口元から零れた。
 車中で支店長会議の内容を整理しようと思っていたが、離婚のことが頭の中を占領し、なかなか前に進まない。
支店長会議では、毎月の営業利益を数字で表さなければならない。いつも緊張する。社長は営業成績の悪い支店長に対して、「支店長の替わりは、いくらでもいるんだ!」と、集まっている支店長たちの前で、みんなに聞こえる大きな声を出す。
 兵庫支店は何とか黒字を維持しているが、いつ怒鳴られる立場になるかわからない。黒字か赤字かなんて表裏一体である。ちょっとしたきっかけで入れ替わる。
 営業成績が思うように伸びないときは、ゴルフをして気分転換を図る。そして「わりきらなければ」と自分に言い聞かす。仕事のことで、悩んで鬱病になった同僚だって何人も見てきている。その同僚たちは役職のポストから外され、休職している。
 何ヶ月後に職場へ復帰しても、今までのように仕事ができるかどうかは疑問だ。一度精神を病んでしまうと、治ったとしても、いつ再発するかびくびくしながら、仕事をしなければならない。再発したものは背中を丸め、うなだれた格好で会社を去っている。鬱病の怖さを同僚たちを見て知った。
 会議が終われば、支店長たちは仲間を誘って、飲みに行っているが、私は行かない。
「やり残している仕事があるんで、兵庫支店に戻ります」そう言って、仕事人間であることを、見せつけてから、淺草ロック座へひとりで行く。これも気分転換なのだ。
 みんなと飲みに行ったとしても、営業成績や社長を肴に、管を巻くだけだ。愚痴をこぼして、気分晴らしをしている自分を想像するだけで、惨めになる。
 淺草ロック座までの道中、「社長なんか、糞くらえだ!」と腹の中で叫んだあと、気持ちを切り替え、カクテル光線に照らされ、七色に輝く裸体を想像した。

「どうだったの支店長会議、社長さんから何か言われなかった?」
 夜遅く帰ると妻は、昨日の朝のことは忘れたかのように機嫌良く、顔に笑みを浮かべていた。
「いや何も、兵庫支店は何とか利益をあげているから」
「それはよかったわ。食事まだなんでしょう。お風呂も湯が入っているから」
 妻は遅い夕食の用意をしてくれた。私は一瞬戸惑った。食卓の上には、手の込んだシチューや、野菜サラダ、焼き魚にみそ汁。私の好みの内容だった。
「どうしたんだ。これまで遅く帰ってきても、こんなサービスなんか、なかったじゃないか」
「別に何でもないのよ。あなたが働いて稼いでくれるおかげで、わたしや優香がご飯を食べられるのよ。食事の準備をするのは、当然のことだわ」
 妻の優しい言葉を聞いてしまったら、離婚の話などできなくなってしまった。それとも私が考えている離婚話に気付いて先手を打ってきたのだろうか。今だけ優しくされたとしても、麗子との結婚話を取りやめにするわけにはいかない。
 寝室のベッドに寝ころぶと、麗子のことが頭に浮かぶ。あの白い肌が恋しい。彼女を毎日抱きながら眠れたらどんなに幸せなことだろうか。
 気分が高まって眠れそうにない。ベッドから出ると、妻の寝室に行った。相変わらずいびきをかき、悩み事がない寝顔をして眠っていた。
「おい、起きろ」
 ベッドの端に腰を下ろし、妻の肩を揺り動かした。
「何よ、こんな真夜中に」
 妻は眠そうな目を擦りながら、身体をベッドから起こした。
「話があるんだ、リビングまできてくれないか」
 そう言って寝室を出た。今話さなければ、先に延ばしたところで、いつ話せるかわからない。
「何ですか」
 妻はパジャマの上にガウンを羽織っていた。リビングのソファに向かい合って座ると、私の顔をじっと見た。寝込みを起こされたので、少し機嫌が悪そうだった。
「夫婦生活についてどう思う」
 直接離婚という言葉は出せなかった。ドラム缶の体形からマグマが吹き出すような気がする。
「夜中に起こしておいて、何を言っているのよ。そんな話だったら、昼間でもできるじゃない」
「昼間は仕事があるし……朝は優香がいるし……」
 煮え切らない言い訳をしている、自分が情けない。
「はっきり言いなさいよ」
「……」
 苛立っている妻の顔を見ると、なおも言いにくい。
「言わないんだったら、寝るわよ」
 そう言って、妻はソファから立ち上がろうとした。
「離婚してくれないか」
 思い切って言ってしまった。立ち上がりかけた妻の動きが止まった。
「もういっぺん言ってくれない」
 ソファに腰を下ろしなおした妻は、じっと私の顔を見ていた。話を切り出した以上、もう後には引けない。
「離婚だよ、離婚をしてほしいんだ」
 言葉に力をいれた。
「離婚だけじゃわからないわ。はっきりわかるように説明してよ」
「もう一度人生をやり直したいんだ」
「何を身勝手なことを言っているのよ。あなたはいいかもしれないけど、わたしと優香の生活はどうなるのよ」
 返す言葉が見つからなかった。麗子の前では、力強く離婚という言葉を出したが、妻が簡単に同意しないことは、初めからわかっていたことだ。
 妻の顔が、憎たらしい女の顔に見えてくる。自分の心臓がどきどきと音をたてているのが聞き取れる。
「離婚しろ!」
 怒鳴ってしまった。この女には、冷静な対応では、つけあがってくる。ここは怒鳴って、威圧的に進めることがベストなのだ。私の大きな声が娘の部屋にも届いたのか、何事かと優香がドアを少し開け、私たちのやりとりを聞いているのがわかった。
「何を言っているのよ。大きな声を出せば、わたしがうなずくとでも思っているの」
 押してもだめなら、引いてみろという言葉もある。
「すまない。君には悪いと思っているんだ。私の一生に、一回だけのわがままを聞いてほしい」
 私は下手に出て、妻を拝み倒した。娘に見られていようが、男のプライドを捨ててもいい。
「何よ、その態度。ぺこぺこして。男でしょう。男らしくしなさいよ」
妻に言われっぱなしである。腹が立つ。一発ぶん殴ってやろうかという気持ちを抑えた。ここで感情的になって暴力を振るってしまったら、より多くの慰謝料を支払わなければ、ならなくなってしまう。
「優香も見ている。君の寝室で話の続きをしよう」
 場所を替えることにした。こうなれば奥の手を使うしかない。私に続いて寝室に入ってきた妻を、ベッドの上に押し倒した。
「何をするのよ」
 妻は驚いた様子だった。私は妻のパジャマと下着を剥ぎ取った。そして全身を口と掌を使い愛撫をした。私は真剣だった。失敗は許されない。精神を集中し、麗子の顔と裸体を頭の中に描き愛撫を続けた。最初は身体を堅くし愛撫を拒んでいた妻だったが、徐々に全身の力が抜け、口元をかすかに開き声を漏らすようになった。
 私は下半身に力を入れ、濡れている妻の股間に男性自身をぶち込んだ。妻は全身をひねり奇声らしきものを口から吐いた。
 気を緩めなかった。なおも男性自身を股間の奥深く沈め、何回もピストン運動を繰り返した。妻はのたうち回り、私から離れようとしたが、離さない。妻の腰に手を回し引きつけて互いの腰を密着させ、こね回した。
「申し訳ないが、離婚に同意してくれないか」
 妻の耳元に、優しくささやいた。
「……」
「離婚したって、君のセックス相手が必要なときは、いつでも飛んで行くよ。それは約束しよう。もちろん君はこのまま優香と一緒に、この家に住めばいい。私が出ていくから」
 そう言って、男性自身に力を入れ、妻の中ではね起こした。
「……やめて、それ以上動かさないで」
 腰を密着させ、妻の乳房を手で揉んだ。私の下で寝ているだけなのに、掌からにちゃっとした感触を覚え、汗が肌から浮き出ているのがわかる。
「優香の養育費は、毎月口座に振り込むよ。いい人が見つかれば、君だって再婚したっていいんだ」
「……」 
 妻がすぐに返事をしないのは脈がありそうだ。ゆっくりとピストン運動を繰り返した。妻の体内から愛液が溢れ出ているのが、滑り具合でわかる。
 妻の背中に手を回し、強く抱きしめてやった。目をつむり、麗子のきめ細やかな白い肌と甘い香りを連想し、ゆっくり腰を左右、前後、上下に動かした。妻の上半身は緊縛から逃れようと強い力で抵抗してきたが、力を緩めなかった。
 妻は両脚を大きく広げ男性自身を受け入れ、私から逃れようと身体は左右に振るが、結合部分は反対に押しつけてきた。
 麗子は、こんな大胆な仕種はしなかった。いつも控えめで恥ずかしそうに両脚は少ししか開かない。だから彼女の両脚の間に、私の両脚をそろえて入れ、腕立て伏せをする格好で、静かにゆっくり男性自身を沈めていく。麗子は決して自分の方から、迫ってくることはなかった。
 上半身を起こすと、密着していた互いの肌が離れるときに、汗でにちゃっとした。
「離婚に同意してくれないか」
「ちょっと……」
 妻は呼吸が乱れていて、すぐには返事ができないらしい。私は腰を押しつけ、しつこく動かした。妻は顔を背け、私の動作に耐えていたが、奇声を漏らすようになった。
「わかった。わかったわ」
「そうか、離婚に同意してくれるんだね」
 優しく声をかけた。しつこいセックスに観念したのか、妻はうなずいた。
「あなたが言った条件は、守ってよ……」
 妻はこちらを向いて、それだけを言うのが、精一杯らしく、また全身の力を抜いて、仰向けに寝たまま、顔を背けてしまった。男性自身は、まだ妻の中に入ったままである。
 今日は妻の排卵日でないことを、知っていたので、そのまま激しくピストン運動を繰り返した。妻は身体をくねらせ、大きな声を吐き、快楽の頂点であることを全身で表した。私も男性自身から快感が走り抜け射精した。 
妻は大きないびきをかき眠ってしまった。離婚話の続きは、明日の夜でも行うことにした。やはり妻の気持ちが変わらないうちに、早い方がいいだろう。
 そんなことを考えながら、自分の寝室に戻った。ベッドの上に寝ころび、麗子との新しい生活を連想した。
 舌に違和感を覚えた。ただれているのか、ひりひりとする感じがした。原因をしばらく考えて理解ができた。
 妻の身体を愛撫するために、舌を使ってなめ回したので、舌の表面が少しただれたのだ。
 先ほどの行為で、全身に脱力感と疲労感を覚え、すぐに眠ってしまった。

 次の夜、リビングで妻と向き合って座った。二日連続でこんな座りかたなんて、今まであったのかどうか記憶にない。妻とじっくり座って話し合う機会もなかった。
 前もって区役所から、もらっておいた離婚届の用紙に、私だけが署名押印したものを、テーブルの上に静かにおいた。
「昨夜話した離婚話の続きなんだが、了解してほしんだ」
 妻の表情を窺いながら、優しい言葉遣いを心がけた。妻の表情が離婚という言葉を出しただけで、強張っていくのがわかった。
「何よ、その用紙、どういう意味なの」
 妻は離婚届を睨みつけていた。今にもその用紙を破いてしまわないかと気になった。
「見ればわかるだろう。離婚届だよ。昨夜、同意してくれたじゃないか」
 妻が離婚届に印鑑を押してくれることを願った。
「昨夜の話なんて、忘れたわ」
 開き直った言い方に、腹が立ってくる。
「それはないだろう。はっきりうなずいたじゃないか」
 ここは冷静になるしかない。
「馬鹿じゃないの。寝物語なんてどこへ持っていっても、通用しないことを知らないの」
 寝物語で言わせたことが、法的拘束を持つなどとは思っていない。それでも妻の口から、場所はどうであれ、離婚の同意を取り付けたことは、事実なのだ。
 一瞬、頭の中に、力ずくで離婚届に署名、押印をさせようかと浮かんだが、妻から無効の訴えがあれば、何にもならない。
 鼓動が速くなるのを感じた。ここはじっと我慢だ。
「そうかもしれないが、よろしく頼むよ」
 もう、妻に頭を下げるしか、離婚をしてもらえる手だてがないと思った。
「昨夜言った離婚の理由だけど、もう一度人生をやり直したいとは、どういうことなの。わかるように説明してよ」
 妻は私から視線をはずさなかった。
「深い意味はないよ。人生をやり直したいだけだよ」
「そんな嘘の言い訳で、わたしが納得するとでも思っているの。女ができたんでしょう。はっきり認めなさいよ」
「女なんて、いないよ」
 ここは離婚話で不利にならないように、否定することにした。
「白を切るのなら、同意しないから」
 妻は私を睨み、引き下がろうとはしなかった。
「認めれば同意をしてくれるのか」
「考えてみるわ」
 妻の言葉なんか、信用できないのは、わかりきっている。認めれば離婚話を進めるうえで、慰謝料が多く要求される可能性がある。しかし、話を前に進めるためには、損得だけを考えるわけにはいかない。
「じつは……好きな女性がいるんだ」
 迷ったが、いずれわかることだと思い、本当のことを言ってしまった。
「あなたは、わたしに隠れて浮気をしていたのね。いつ頃からなの」
 妻の目がつり上がっていくようだった。
「そんなこと、いつからだっていいじゃないか。離婚の件頼むよ」
「夜の行為も少ないと思っていたら、やっぱり外で女とセックスをやっていたんじゃない。この浮気男の役立たず!」
 妻の怒鳴った顔が鬼に見えた。ここは耐えるしかない。
「機嫌なおして、署名押印してくれよ」
「何よ、その言い方。ひとにものを頼む場合は、『署名押印してください』でしょう」
 妻に何を言われても、我慢するしかない。
「離婚届に署名押印してくださ。お願いします」
 もう屈辱でしかなかった。
「本当にあなたは、馬鹿な男ね。外で女をつくった亭主に、なぜ協力しなければならないの」
妻はふてぶてしい笑みを浮かべ、私をあざ笑う態度に見えた。静まりかけていた鼓動が、一気に速くなり息苦しくなった。
「頼みます。離婚してください」
 テーブルに両手をつき、頭を下げた。何とか気持ちを抑え、言葉を絞り出した。
「馬鹿じゃないの。わたしはお人好しじゃないの。離婚はしないし、一生付きまとい、あなたに稼いでもらうから」
そう言って妻は、テーブルの上においてあった離婚届を鷲掴みにすると、破いてしまった。
 瞬間、私の体中の血液が頭に上り、頭の中が爆ぜってしまいそうになった。掌を思いっきり握りしめた。妻の顔面を殴りつけてやろうかと思ったが、かろうじて思いとどまった。ここで妻を殴ればすべてが終わってしまう。
 今まで妻から罵声と思える言葉にも耐え、いつかは麗子と一緒に暮らせることを、夢見て辛抱できた。それが、妻に離婚を拒否され、彼女との結婚ができなくなってしまった。
 麗子の性格を考えると、妻と離婚しないで同棲という形で一緒に暮らすことは、彼女自身が望まないだろう。
 目の前には、破られた離婚届がテーブルの上に散らばっている。目に涙が浮き、身体が震えだした。
 妻は表情を硬くしたままソファから立ち上がると、リビングから出ていってしまった。
 静かになったリビングで、自分の身体が異常に興奮しているのがわかる。心臓音が唸り、鼓動が激しく脈を打っている。
離婚できないと麗子に話せば悲しそうな、寂しそうな表情を浮かべるだろう。そんな彼女の顔が脳裏に浮かび、徐々に遠ざかっていく。全身の震えが止まらない。
 ふとリビングの入口付近を見ると、娘の優香が立っているのがわかった。

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