道を歩きながら、今朝あったことを思い出した。
午前二時ぐらいだったと思う。頭が重いというか、痛いというか、そんな不快な気分に襲われ、目が覚めた。身体を動かすと、腰の辺りや、肩の辺りの筋肉が痛い。しばらく掛け布団の端を掴みながらじっとしていると頭の重みや痛みは収まり、再び、眠気が生まれた。うつらうつらとした。ところが、眠るとすぐ、今度は誰かに脅かされている夢を見た。誰に、何を脅かされているのかがよくわからない。しかも、脅かしているのが自分のような気がした。自分が自分を脅かしているなんておかしな話だが、お前は何をしているんだ、お前は馬鹿か、お前はもうそんなに老いぼれてしまったのかと罵っていた。罵られている俺が大声を出して何かを叫んでいるのだが、何を叫んでいるのかがよくわからない。
眠りの中ででも、俺は、やはり、これはおかしい、昨日のあのことが原因しているに違いない、一度、病院へ行って検査を受けた方がいい、と思った。だが、朝、起きてみると、身体を動かせば、筋肉痛はするし、頭の重みも消えていないが、痛みはほとんどなかった。だが、病院で検査を受けたほうがいいと思ったことは覚えていて、自分では頭を打つことは避けたと思っているのだが、こめかみに軽い擦り傷があることから頭を打ったかもしれない。本当はどうだったのか、と不安が過ぎり、やはり、一度、病院へ行ってみよう、と思って、朝食も食べずに家を出てきたのだ。
昨日のあのこととは、自宅のアパートを出て、自転車で図書館へ本を返しに行こうと思い、アパートの路地から、少し広い道路に出て、ゆるい坂道の歩道をペダルを漕いで上っているときに起こった。
平らなところではなんなく漕げるのに、少し上り坂になると、息が上がってしまう。漕いでいる足先に鉄塊をくくりつけられているような、あるいは、後ろから誰かに引っ張られているような感じがした。やはり、歳には勝てないのか。しかし、毎日、ストレッチやジョギングを欠かせたことがない。実年齢は六十代の終わりに近づいているのだが、体力はまだ五十代前半だと思っている。
こんな坂ぐらい、登り切れるはずだ。いや登り切らなければいけない。今日は何だか調子が悪いようだ。すでに足には耐えられないほどの重圧を感じている。そんなことを考えながらサドルから腰を浮かし、立ち上がる格好で漕ぎ出した。自転車は大きく左右に揺れた。
いつもこんなとき、炎の姿を思い描く。すると何だか力が沸いてきて、坂を登り切ることができる。平凡な考えだが、火につられて俺の力の源が燃え始めるのだと思っている。
炎はすぐに思い描けた。かなりはっきりとしている。きっとどこかで見た炎だろう。先日、近くで起こった空き屋の火事の炎かも知れない。あるいは、去年、見に行った那智の火祭りの炎かも知れない。
ものが勢いよく燃えるとき、炎と同時に、必ず、音が聞こえる。低いが、ゴーゴーといった力強い音だ。炎からではなく、周りの空気の中からする。今回も音が聞こえた。するといっそう力強く漕ぐことができた。
と、同じ路面を坂の上の方から、若い男が、すごいスピードで降りてくるのが見えた。危ない。俺はハンドルを切って端によけようとした。だが、何かが、ハンドルに当たった。自転車は大きく揺れ、車輪がコンクリートの路面を滑った。
自転車は道路脇のフェンスに当たって倒れ、俺は、路上の右側に放り出された。腰や左肩を強く打ったが、頭はかろうじて肘でカバーした。頭は路面とは接触しなかったはずだ。だが、少しくらっとした。額には少し砂がついた。
立ち上がって、若者を見たが、若者の自転車はもう遥か下を猛スピードで降りていった。そして、すぐにカーブして見えなくなった。
「危ないですよ。もうそのお歳で自転車に乗るのはちょっと危険かも」
声のする方を見た。営業マン風で、黒に近い紺色のスーツを着た男だった。三十代後半のようだ。
「あいつ、俺にあたったのでしょう」
俺は、傍の若者にも少し腹が立った。歳に関係ないだろう。自転車にぶつけられれば誰だって倒れる。
「いや、あなたが左右に大きく揺れて、自ら倒れたんですよ。あの石に乗り上げたのかも。それ、あそこにちょっとした石があるでしょう。誰が持ってきたのかな。でも、前を向いていたら気がつくはずだが。あの若者は、うまくあなたをよけて走りすぎていっただけですよ。俺、もし、あなたが気でも失われたら、救急車でも呼んであげようと思って、じっと見ていたんです。でも、軽い怪我でよかった。気をつけてくださいよ。本人が若いと思っていても、やはりお歳なんだから」
男はさもいいことをしたと言った満足げな表情をした。その顔付きがどうも気にくわない。嫌な顔付きに見える。それは、数年前、定年後、再就職で自転車置き場の管理人をしていたとき、若い男が美しい女といっしょにやってきて、自転車を置き、女と手をつないで出て行こうとして、ちらっと俺の方を見て、ご苦労さん、だが、俺はあなたたちとは違うのでね、といった同情的な顔付きをする。前に立っている若者も何だかあのときの彼らの表情に似ている。あるいは、その声にしたって、男性と女性との違いがあるが、先日、飼っていた犬が死んだので、動物愛護団体から捨て犬をもらおうと思い、そこへ電話をしたとき、電話に出てきた若い女の子の声と似ている。「お歳は?」と彼女が聞き、正直に今の年齢を答えると、「それではだめです。近ごろの犬は長生きをします。ひとり暮らしでそのお歳では犬は渡せません」と、かん高い声で言った。「自分の歳を考えてから電話してきてよ」という批判めいた臭いが読みとれた。それに、最後の言葉が俺を完全に打ちのめした。
「私たちは、あの子たちが幸福になることを願っていますので」
その声は自信に溢れ、犬のことを本当に思っているのは私たちよ、と言いたげだった。
俺が愛犬家であることは自他ともに認めている。「お宅にもらわれてきた犬は幸福やわ。こんなに大事にされて」とアパートの向かいの自転車屋のおばさんがよく言ってくれた。その俺が犬を不幸にするなんて。その言葉は衝撃だった。瞬間だが、頭がくらっとし、痛みが走った。しかも、その痛みは、今朝、夢の中で感じたあの痛みと似ていた。
彼らは、根は親切な若者かもしれないが、いやに腹が立つ。お前たち、年寄りの気持ちがまったくわかっていない。まるで異星人でも取り扱うような態度をとるな。
そんなことを考えていると、今度は息子のことが気になった。
腹が立つと言えば、息子にも腹が立っている。ここ数ヶ月、まったく電話を掛けてこない。電話一本ぐらい寄こしてもいいものを、俺を無視するかのように電話が鳴らない。妻とは離婚して息子は母親に引き取られたのだが、養育費はずっと払いつづけたのだし、学費も出した。会う機会も度々つくり、親の勤めは果たしたつもりだ。だが、最近は息子の勤め先が遠方になったことをいいことに、会うこともなくなり、電話も掛けてこなくなった。いや、息子からだけではない。他の誰からも電話が掛かってこない。まるで、家に電話がないかのように。ちらっとだけでも、気にかけてくれる人がいてもいいものを。
そう思ったとき、小さな辻公園の横に公衆電話ボックスがあることに気づいた。足がその中へ吸い寄せられた。息子に腹が立っているのなら、こちらから電話をして、「電話一本ぐらいかけてきたらどうだ。お前の父親は俺しかいないのだから」と言ってやろうと思った。それに、こちらだって、息子のことが気になるのなら彼に電話すべきだろう。それが親の役目というものだ。こちらからも電話を掛けないのだから、まあ、おあいこということだ。
あいつの職場の始まりは遅い。まだ、働いている時間ではない。俺は公衆電話ボックスに入った。中の空気は、澱んでいて蒸し風呂のようだった。持っていた手提げ袋を電話帳置きの棚に置いた。
早く、気の変わらないうちに、と焦りが起こる。何を焦っているのだ。ただ、息子に電話を掛けるだけなのに。
ええっと、確か、090の1469の、ああ、間違った、1499と回した。もう一度、やりなおし。受話器を電話置きに掛ける。肩が痛い。少し間を置く。ちらっと電話ボックスから外へ目をやる。横を通っていくスーツ姿の中年男性と目が合う。男は慌てて目をそらす。「へえ、今時、電話ボックスから電話を掛けている奴がいるんだ」そういう目つきだった。まるで、イグアナでも見るような不思議そうな顔付きをした。俺から言わせれば、携帯電話など必要な人間はそういるはずがない。特に、俺のような六十歳を越えた人間には、どう考えても、携帯電話などいらない。家には電話があるし、第一、電話を掛けるような相手もいない。電話も掛かって来ない。女房も子供も去り、今、独り暮らしの俺には携帯などまったく不要だ。
ええっと、090の1469の31……。今度は正確に回した。しばらく、呼び出し音が鳴っていたが、出ない。と、そのうち女性の声がしはじめた。「現在、携帯を切っているか、繋がらないところにいるかしていますので、留守番電話に繋げます。ピーという音が鳴りましたら、お話ください」
俺はしばらく受話器を持っていた。ピーという音が鳴った。だが俺は何も言わない。しばらくそのまま立ち尽くした。それから受話器をもとに戻した。
俺の電話が拒否されたという気がした。携帯の良さは、どこにいても本人と繋がることだ。普通の電話なら、今、家にいないのだな、と思える。拒否していると思わなくて済む。だが、携帯だと何となく電話連絡を拒否されたような気がする。もちろん俺をねらい打ちしているわけではないだろうが、拒否する一人に入れられていることは確かだ。「用もないのに電話など掛けてくるな」と言われているようだ。「俺は仕事で疲れているんだ。親父のように一日中遊んでいるわけじゃない」という息子の声が聞こえる。
電話ボックスから外へ出た。気分が悪い。きっとストレスがかかったのに違いない。頭が重い。不快感、あるいは、焦りのような気分が広がり、心のざわめきが強まる。
最近、同じアパートの下の階の男が胃の激痛で病院に運ばれた。噂では、ストレスが原因らしい。「ひとり暮らしで、自由気ままな生活をしていて何がストレスだ」と若いアパートの住人たちは言い合っている。彼らには、誰も話し相手がなく、一人で部屋にこもっている状況が何にもまして強烈なストレスだということがわかっていない。それは、いつ執行されるかわからない死刑囚が独房に入れられ、死を待っている状態とよく似ている。
そう考えたとき、突然、俺の頭の重みや痛みなど、病院へ行ったってなおらない、俺がいそいそと行くところが病院だけだなんてなんと情けないことか。そんな思いが吹き上がってきた。
その時だ。「やあ、どこかへお出掛けで」と、声がした。まるで、俺の心を見透かしてでもいるかのように。
見ると、名前は知らないが、ときどき暮れ町公園で見かける男だ。細身の身体で、日焼けした面長な顔をしている。俺は朝日町公園と暮れ町公園へはしょっちゅう出掛ける。二つの公園はけっこう広いが、アパートの部屋とはそう離れていない。スーパーやコンビニへ行く以外、最近はそこにしか行っていない。特に暮れ町公園では雀に餌をやるために行く。公園へ行き、周回道路を歩きながら、雀を見つけると、フライパンで煎った米を撒いてやる。このごろは俺が公園を歩き始めると、すぐに、数羽の雀が俺の横に降りてくる。俺の横をぴょんぴょんと跳ねながらついてくる。さらに、頭の上にも、たくさん雀が飛び回りながらついてくる。米を撒き始めると、それらもいっせいに降りてきて地面をつつき始める。そんな俺を、笑顔でじっと眺めている男がいる。俺よりも七、八歳上かもしれない。「よく慣れているな。こうなるのにどのくらいかかった?」と男が聞く。「いや、公園の雀は人間に慣れているので、そうはかかりませんよ。一ヶ月、毎日やり続ければ、こんなふうになりました」と答える。「俺もときどき朝日町公園で鳩に餌をやっているんだけど」と彼が言う。
その男が、今、俺に声をかけてきたのだ。もちろん、この男との付き合いはそれだけではない。周回道路の終わりのところに藤棚があり、その下には、どこかに棄てられていたに違いないテーブルや椅子が置かれていて、そこで、数人の男たちがよく将棋をしたり、麻雀をしたりしている。男はそこの常連だ。俺は時々、彼が将棋を指しているのを見る。彼は将棋が強そうだ。勝負があったとき、強いですね、強いですね、と驚嘆してみせる。男は、上を向き、顎を突き出すようにして俺に微笑む。
その男が「どこかへお出掛けで」とまた同じことを言う。出掛けるところなどないことをわかっているくせに。
しかし、この男、いつもと違って、白いワイシャツの上に買いたてのジャンパーを羽織っていた。細手の紺色の綿パンもはいている。両方ともユニクロで買ったのだろう。いつものジーンズではない。それに、帽子も野球帽ではなく、しゃれたハンチング帽を被っている。
「もし、暇なら、ちょっと付き合ってくれへんか。独りで行くつもりやったが、何だか心細くって。いや、いっしょについてきてくれるだけでいいんや」
男は真剣な顔付きで言う。将棋を指している時の顔と同じだ。どこへ行くつもりなのか。だが、俺は少し嬉しくなる。行くところがあるということだけで嬉しい。
「行くところは二箇所あるんや」とハンチング帽が言う。「どこへでも付いて行くで。どうせ暇なんやから」と俺はありったけの力で微笑む。
俺たちは朝日町公園の入り口までやってきた。なんだ、こんなところか。ここならいつも来ているところではないか。やはり、俺たちの行くところはこんなところしかないのか。
入り口を少し入ったところの左側に花壇があり、その奥に雑草の生い茂った狭い土地がある。そこに市の作業着ふうの制服を着た男と二人の中年女性と、さらに老婆が一人立っている。
ハンチング帽の男は花壇の縁を回って彼らへ近づいていった。俺も彼の後につづく。
「そんなの、屁理屈というものですよ」と鍔の長い日よけの帽子を被った女が叫ぶ。
「だって、動物を虐待したらいかんと法律でも決まっていますやん」と老婆が言う。
「でもね、害を与える動物は殺してもいいのよ。家の近くへ出てきた熊なんか射殺されているでしょう」
日よけ帽の女が興奮した声で言う。この女、どこかで見たことがある。そうだ、先日、この公園へ来たとき、友人らしい女性たちとここの花を植えていた。それに、土曜日には朝早くから公園を掃除しているのも見たことがある。朝日町公園・美化奉仕会という腕章を巻いていた。
「猫は人を襲いませんから。あんたこそ、屁理屈やと思いますわ」老婆が食い下がる。
少し白っぽい老婆の目がいっそう白くなる。
「公園の入り口に、猫や鳩に餌をやらないでください、と書いてあるでしょう。あなたはそれに違反しているんですよ」
作業服と同じベージュ色の帽子を被った市の男が言う。
「猫は人に害を与えないって、あんた、おっしゃいますけどね、ここを見てよ。花の上にうんち、こんなにしているのよ。それに、花を踏みつけにしているわ。これが害でなくてなんやの。公園課の人の指導でみんな苦労して、鉢植えで花を育て、ここへ持ってきて植えたのよ。これでは花がだいなしだわ」
「私も遠慮して、フェンスぎりぎりのところに餌を置いているの。それに猫のうんちなんか花にはちょうどいい肥料やんか。猫かって子供が遊んでる中央広場ではうんちはしません。彼らだって気をつかっているのや」
老婆の声は涙声だ。
「土は腐葉土をつかっているので肥料なんかは要りません。特に猫の糞なんか」
日よけ帽の女の声が高まる。
突然、今まで黙って聞いていたハンチング帽が声をあげた。
「子供はなあ、花を見るより、猫を見る方が好きなんや。なんでもあかん、あかんて。公園は、みんなが遊んでなんぼや、美しいだけがノウやない」
老婆も女たちも市の吏員たちも男のほうを向く。猫かて公園の大事な要素だと言いたいらしい。俺は男の言い分に納得する。俺もこの公園へ来たときは、花よりも猫の方を見る。猫が俺の方を向いて大きな口をあけ、ニヤゴとなくと、俺を迎えてくれているような気がする。また、俺の顔を見るとすぐに逃げるやつがいると何とかあいつと仲よしになれないものか、よし、今度来るときは、市場で煮干しを買ってきて与えてやろう、と思う。
背が縮んで小さくなった老婆に詰め寄っている市の吏員や公園美化奉仕会の女性たちに腹が立つ。よく言ってくれたよ、ハンチング帽と思う。
ふっと、先日、この公園へ来たとき、いつも、公園の奥でひっそりと低いテントを張っていたホームレスが寂しそうな顔をして置き石の上に、まったく元気のない顔で、静かに座っていたのを思い出した。その時の顔が目の前にちらついた。白くて長い仙人を思わせるあご髭さえ、元気なく、ただ垂れ下がっているといった感じだった。
俺が女房と別れてひとり暮らしを始めるためにこの街へ引っ越してきたときから、公園の奥まったところで、長いあご髭をはやした男が高さわずか五十センチぐらいの低いテントを張って、寝泊まりしていた。昼はアルミ缶を集め、得た金で食材を買い、石を組み合わせて作ったかまどのようなものの上に鍋をのせ、辺りの枯れ木を集めて燃料にし、ちょっとした煮炊きものをしていた。
だが、テントがなくなっていたので、不思議に思い、プードルを連れて公園でよく見かける女性にそれとなく聞いてみたら、公園美化奉仕会の人たちが市に掛け合って退去させたということだった。公園にホームレスが寝泊まりしているなんて許せないということらしい。市が保護施設に連れて行った、とも言った。
暮れ町公園の藤棚の男たちにも彼のことは知れ渡っていて、彼らは彼を仙人と呼んでいた。数日前だったか、俺が将棋を見ていたとき、誰かが「あの仙人、死んだらしいで」と言った。「あいつには施設は合わなかったんやなあ」と言った。俺が見たのは、彼が死を悟り、自分が好きだった朝日町公園を最後に見に来たときかも知れない。
「あんた、誰やの。関係ない人、黙っといて」今度は背が高くて紫っぽいサングラスを掛けた女性がハンチング帽を睨んだ。
「関係ない人とはなんや。俺は毎日、この公園にきてんねん。時々、鳩に餌もやってるし、あんたたちよりよっぽどの関係者や」とハンチング帽は答えた。
「あなたですか。鳩に餌をやっているのは。公園の周りに鳩が群れてきて、糞が物干しや洗濯物に落とされて困っているという苦情が私たちの会に寄せられているんですよ。人の迷惑も考えないで」日よけ帽の女が言う。
「本当に、この頃の年寄りって困るわ。いくら暇やからといったって、迷惑になることは止めてほしいわ」サングラスの女が言う。サングラスの縁が銀色に光り、もう一つの大きな目になる。
「高齢者社会って、いやよね」日よけ帽の女が言う。
何を言ってるのだ。薄のろ野郎、お前たちだって、すぐに高齢者になるくせに、と俺は思う。
「でもね、あんたたちの考えに同調して、ボランティアに参加してくださるお年寄りもいるんだから」と市の男がなだめる。
「まあね」二人の女性が少し困惑気味に言う。ボランティアの中でも老人は歓迎されていないようだ。
「猫に餌をやって、野良猫を増やしたらたいへんなことになるわよね。猫は病原菌をまき散らすんだから」日よけ帽の女が言う。そのとき俺は初めて日よけ帽の女はかなり太めであることに気づいた。薄い長めの裾がハの字型になっている。
「ばかを言うな。そんなに清潔、清潔と言ってるから、海外へ出て一番先に腹をこわすのが日本人やと言われているんや。みんな、やわい身体になりやがって。清潔が必ずしもいいことやない」
ううん、と俺は呻る。俺もそう思っていた。この頃、清潔、清潔と言い過ぎる。この間、旅行家で海外へよく出掛ける人が言っていた。「私は自分の腹を鍛えるために、ものによっては、食べものを一度土の上にばらまいて、それを拾って食べています」と。俺もそれを言いたかった。俺たちが小さいときは泥や砂のいっぱい付いた手で炒り豆やサツマイモを食べていた。学校では手を洗いなさいと言われていたけれど、そんなことをする奴は誰もいなかった。
猫が追い出され、鳩が追い出され、ホームレスが追い出され、将棋や麻雀をしている老人たちが追い出され、それからきっと今度は子供が追い出されるだろう。
近所に子供公園があるが、そこには子供がいない。噂では、子供たちが打ったボールが高い金網を越えて向かいの家の窓ガラスを割ったらしい。それで、その家の住人が怒り、学校や公園の管理団体である町内会へ怒鳴り込み、何らかの対策を講じない限り裁判に訴えるとわめいたらしい。適切な対策が見つからず、また、近所にそんなおっかないおじさんのいる公園で子供は遊ばせられないと親たちが思い、今は、草ぼうぼうの無人の公園となっている。
猫の餌やりばあさんが追い出されれば、最後には人間全部が追い出される。現に俺はそんな公園を知っている。昔はものすごく賑わっていたのだが、がらの悪い人がよく集まるということで、入るのに入場料を取ったため、誰も行かなくなり、都市の真中で、美しく整備された人のいない公園となっている。
「あれ、猫のおばあさんがいないわ」突然、サングラスの女が言う。
「ええっ」
みんな一斉に辺りを見回すが、猫の老婆はどこにもいない。猫たちも一匹もいない。一瞬のうちに彼女たちは忍者のごとく消えた。
「しかたがないな、本当に。これだけ言っておいたのだから、ちょっとは注意をするでしょう」市の吏員が言う。
女性たちは黙っている。
「いつも公園で見張りするわけにはいかないしね」とサングラスが言う。
「そんなことしたら、奉仕会の会員、きっと減るわよ」日よけ帽が言う。
「ねえ、市で何とかしてよ。苦情を私たちのところへ持ってこられて困っているんだから」
市の吏員は黙っている。ハンチング帽は俺の腰をつつく。俺たちも黙って彼女たちから離れる。
「公園の横の家のおばさんから電話が掛かってきて、猫のおばあさんがとっちめられている。助けに来たってよと言われた。二階から見えたらしいわ。猫のばあさんを守る会ができているみたいや」
ハンチング帽が笑う。老婆もハンチング帽も立派なものや、彼女らに一歩もひけをとらなかった。だが、俺は何も言わなかった。そんな自分に苛つく。
俺たちは公園の前の道路に出た。
「すまんけど、もう一箇所、つきあってくれな。頼むわ」
ハンチング帽は、すまなさそうに、また、心許なさそうに言う。いったい、今度は誰とけんかをするつもりなのか? 俺はまた黙って見ているだけなのだろうか。
よもやこんなところへ連れてこられるとは思わなかった。ここは裁判所の小さな法廷だ。
背高い机を前にして、ハンチング帽は裁判長の方を向いて立っている。だが足が小刻みに震えている。もちろん帽子は被っていない。髪の毛は五分刈りで、ほとんど白髪である。
先程まで弁護士にいろいろ尋ねられ、それにしっかりと答えていたが、足の震えは質問が始まってからずっとつづいている。
ハンチング帽は、吉田という男がハンチング帽の外からの呼びかけに慌てて、金を払うのを忘れてスーパーの外へ出たんだと、そればかりを繰り返していた。
吉田という男は弁護士の机の前の長椅子にじっと座ってハンチング帽の言葉を一つも聞き漏らさないといった表情で、背筋をピンと伸ばして座っていた。彼は、ハンチング帽が一区切り喋るごとに頷いて、嬉しそうな笑みを浮かべながら聞いている。褐色で筋肉だけの頬や顎をしていて、座高は低いが、職人風の強さを感じさせた。
ハンチング帽は彼を見る余裕など全くなかった。ただ、弁護士の質問に一生懸命答えようとしていた。弁護士は、ハンチング帽がスーパーの外から、吉田という男にどのような働きかけをし、吉田がどのような反応したかを尋ねていた。
弁護士の質問が終わり、今度は、反対側に座っている人の質問になった。おそらく検事という人なのだろう。
俺は傍聴席の一番前に座ってハンチング帽の背をじっと見ていた。俺自身が緊張して、心臓が痛いほどだ。あそこに立たされているハンチング帽はさぞかし緊張しているだろう。声も震え気味で、力強さに欠ける。もう少ししっかりとしてほしい。
「では、反対尋問を許可します。原告側、どうぞ」と裁判長が一段高いところから言う。薄い布でできた黒い衣服を着けている。
立ち上がったのは、まだ若い、二十代後半かと思われる紺の背広を着た男だ。彼はハンチング帽の方を向く。いやに色白で鼻筋が通っていて、秀才男によくあるタイプだ。秀才男はハンチング帽に何かを言っている。だが、その声は聞こえない。声が小さすぎる。ハンチング帽は首をかしげる。ハンチング帽は俺よりも耳が遠いはずだ。あんな小さな声では聞こえるはずがない。若い男なのに声は小さすぎる。わざとそうしているのか。裁判長は注意すべきだ。相手は高齢者なのだ。「もっと、滑舌よく、張りのある声で喋ってください」と。だが、裁判長は何も言わない。
ハンチング帽の足はいっそう強く震える。
「どうされたんですか。答えてください」裁判長が言う。裁判長も検事の味方のようだ。
「ええっと、ええっと。何と言ったのか、もう一度、言ってください」
秀才男は顔をしかめる。いかにもうるさそうだ。何だってこんな年寄りを証人に呼んだ、と言わんばかりの表情だ。
「それではもう一度言います。被告人は耳が遠いということなのに、あなたが呼んだら、あなたの方を向いたのですね。おかしくはないですか。あなたはすでにスーパーの外にいたのだし、被告人は、まだ、レジからも離れたところにいたんでしょう」今度は少し声を大きくした。それでかろうじて聞き取れた。
「聞こえたかどうかはわからんけど、俺が叫んだらこちらを向いたんや。きっと、以心伝心というやつです。吉田と俺とはちっちゃいときからの友だちで、何でも通じ合える仲や。俺は先にスーパーを出て待っているからなと言ってあったから、俺の顔がスーパーの窓越しに見えて、俺が怒っていることに気づいたんや、いや、気づいたんです。とにかく俺に気をとられたことは確かです。それで、俺は両手を使って早く出てこいと合図したもので、奴はきっと、しまった、俺を長く待たした、と思ったんだと思います。それで、パニックになって……。そうに違いない。それまで、自分の買うものばかりに気をとられていて、俺のことをすっかり忘れていたんや。吉田はいつもは一人で買い物に来ているから、その癖が出て。年寄りってそんなものや。彼は、その時、とんでもないことをしたと思ったのに違いない。だって、俺が買い物を終えて店の外へ出てから、かなり時間が経っていたもの。こちらも苛立っていて、何をしてたんや、早くしろと怒鳴ったぐらいだから。二人で、憩いの家でのカレーを食べる会に出るつもりやったから。そう約束していたから。早く行かないとカレーがなくなるんです。二杯も食べる奴がいるもので。俺もかなり焦っていた。それが窓を通して奴に伝わったんだと思います。そうや、カレーを食べに行くことになっていたんや。これはいかん。吉田はものすごく慌てたと思います。それで、金を払うことをすっかり忘れてしもたんや。いや、すでに金を払ったと錯覚したのかもしれん。人間って、思い違いってあるでしょう。ちょっとしたミスって。吉田はそうに違いない。それなのに吉田が泥棒やなんて。あんたたち、それはあんまりや。ひどいよ。どうかしているよ。いや、どうかしています」
ハンチング帽は、声を震わせながら高い声で言った。足がものすごく震えている。直立不動の姿勢で喋っているのだが、身体が椅子に触れるのか、前の机が音を立てている。言っていることは筋が通っているのに、なぜそんなに震えるのだ。
秀才男は、眠そうな、聞く気のないような顔付きをしている。
秀才男はまた何かを言う。聞こえない。本当に苛立つ。人にものを尋ねるのならもっと大声を出せよ。ハンチング帽も首をかしげている。彼も聞こえなかったのに違いない。
「ええっ?」
ハンチング帽は聞こえないことに焦っている。足の震えもおさまっていない。俺はますます苛立ってくる。
「ここから見ると、あなたもかなり白内障が進んでいるような目をしている。あまり遠くのものが見えないのと違いますか。だのに、あなたに気づいて慌てたとどうしてわかったんですか。彼の様子などわかるはずがないと思うんですが」これも声が小さい。
「それは、ええっと」ハンチング帽がつまる。
彼は確かに白内障なんだ。将棋をやっているとき、いつかそのようなことを言っていた。図星を指されたと思ったのかもしれない。
「異議あり」と反対側に座っている若い男が言う。裁判長は彼の発言をうながす。
「白内障かどうか、断定できません。憶測でものを言うのはやめてください」
「異議を認めます。質問を変えてください」
「では、改めて質問します。遠くにいるあなたが、彼が動揺したことをどうしてわかったのですか」
「だから、俺が大きく手を振っているのを見たら、俺が苛立っていることぐらいはわかるはずや。げんに吉田はそう言っているじゃないですか。早く行かなくちゃ、と焦ったって。そんなことは吉田の姿を見ただけでわかるよ、いや、わかります。俺たちの付き合いは何年やと思う。いや、何年だと思いますか? 六十年だよ。いや、六十年です」
ハンチング帽は泣き声になる。
俺は吉田の方を見る。吉田の背筋は椅子の背と平行で、座禅している高僧のような姿勢だ。ハンチング帽をしっかりと見つめている。身体には自信が漲っている。微動だにしない。彼は何かに似ていると思った。だが、それは何なのかがわからない。
「とにかく、この証人の言うことはきわめて主観的で、単なる憶測に過ぎません。被告が万引きをしようと思っていなかったという何の証拠にもなりません。そのことを強く言っておき、私の質問を終わります」
そこだけはいやに大きな声で言った。それから、なんだかつまらなそうにして、下を向いた。
「次回は検察側の証人としてスーパーの保安員を招聘いたします。次回の日程を打ち合わせします。こちらとしては、○日、○日、○日ぐらいはどうかと思いますが、いかがですか」と、裁判長が秀才男と弁護士の双方を交互に向く。日にちの声は聞こえない。彼らはいっせいに手帳をめくり始める。なにやら裁判長に言っているが、何を言っているのかわからない。裁判長もまたしきりに手帳をめくり始める。何だか、彼らは今までで一番生き生きしているようだ。
裁判長は、ハンチング帽がまだ突っ立っているのに気づいた。
「ああ、証人は退廷していただいて結構です」と慌てて言う。
ハンチング帽はあたりを見回し、一歩だけ歩き出すが、すぐに立ち止まり、別の方角を向く。どこへ行ったらいいのか戸惑っているのだ。お客を呼んでおいてそれはないだろう。こちらへどうぞ、と案内するのが常識と言うものだ。ハンチング帽は、弁護士のところへ近づき何かを小声で言っている。弁護士はそれに答えているが、手帳からは目を離さない。ハンチング帽は右側のドアのところへ行きそれを開けて外へ出た。俺も立ち上がり、左側の扉から法廷を出た。廊下には法廷を見学に来た人たちが大勢いて、笑いながら喋りあっていた。俺はあらかじめ約束しておいた一階の玄関のところへ行こうと歩き始めた。歩くと腰の辺りや脇腹が痛むが、そんなことはどうということはない。ただ、頭が重苦しいのは嫌だ。それがいっそう強まっている。
盗むのと金を払い忘れるのとは大違いや。どちらもいけないことには違いないが、まったく別のことだ。吉田は金を払い忘れただけや。ちょっとしたミスや。お客さん、お金がまだですよと言ったらそれで済むことだ。年寄りにはよくあることだ。俺だってつい最近、喫茶店で金を払わないで出ようとした。「ちょっとお客さん、お金がまだで」とレジの女店員が叫んだ。そうだ、俺はまだ金を払っていなかったのだ、と苦笑いをした。
「吉田が窃盗罪やなんて、むちゃくちゃや」頭の中で言葉が舞う。
それが俺の声なのかハンチング帽の声なのかがわからない。
裁判所の出口の丸い石柱に背をもたせかけてハンチング帽が出て来るのを待っていると、ふっと、また、炎のイメージが思い浮かんだ。
炎がちらちらと燃えている。時々、それが大きく膨らむ。炎は朱色だけではない。黒いところがある。黒いところと朱色とが激しく捩れる。時々、黒い方が強まる。そんなときぎくりとする。また、そんなとき、お前はろくでなし、お前はあかんたれと、俺を罵る声が聞こえる。
ハンチング帽が先程の青ざめた顔のまま現れた。まだ、緊張がとれていないようだ。
「すまん。待たせたな」
俺とハンチング帽は黙って歩く。ハンチング帽は来るときの元気さはない。下向き加減で、力の抜けた感じだ。うまく喋れなかったと思っているのだろうか。あれでは無罪にできないとでも思ったのだろうか。次回に呼ばれている保安員はもっと上手に言うだろうと、気を病んでいるのかもしれない。
俺は、吉田が万引きの容疑をかけられたというスーパーにぜひ行ってみたくなった。「吉田がとっつかまったスーパーってどんなとこや、一度、連れていってくれへんか」と俺は頼んだ。
「ああ、どうせ帰り道だから」と、ハンチング帽は気のない返事をした。不承不承といったところだ。行って何になる、と思ったのかもしれない。
それから俺たちはバスに二駅乗って、スーパーに着いた。俺は吉田という男のことはよく知らない。きっとあの藤棚のメンバーに違いない。俺は何度か見ているのだろうが、今日までまったく意識にはのぼらなかった。だが、吉田に親しみが湧いてくる。あんな間違いは、俺だって絶対にする。
アパートには風呂がないので時々銭湯へ行く。銭湯の洗い場で頭にシャワーをかけて髪についている油を落とし、それから、洗髪用の石けん液をチューブから掌に出して、それを頭につけて髪を洗う。さらに、再び、髪にシャワーをかけて石けん液を落とす。しかし、シャワーをかけ終わったとき、時々、今のシャワーは、最初のシャワーなのか、後のシャワーなのかわからなくなるときがある。すでに髪を洗い終わったのか、それとも、これから髪を洗おうとしているのかと。考え事をしながら頭を洗っているとしょっちゅうそうなる。だから、お金を払ったつもりになってスーパーを出てしまうなんてことは俺にだって容易にあり得ることだ。籠を持たないで買い物をするとき、数が多くなりすぎ、手に持てなくなって、小さなものはちょっとポケットに入れ、レジで出せばいいやと思って、そのまま家に帰ったことがある。次回、スーパーに行ったとき、その旨を告げ、レジで金を払った。吉田だって、気がつけば俺といっしょで金を払ったに違いない。それが万引きなのか。
ハンチング帽は元気がない。絶えず下を向いている。黒く焼けた頬には艶が消えている。「あそこ辺りで女性の保安員にとっつかまったんや」
ハンチング帽は頼りなげにスーパーの玄関から数メートルほど離れたところのベンチの辺りを指さす。そうか、保安員は男性とばかり思っていたのだが、女性だったのか。
「吉田の奴、最初にごめん、と言ったのが悪かったんや。あいつ、人にものを言うとき、いつも、ごめんやけど、とか、ごめん、ちょっと喋っていいか、とか、何でも最初に、ごめんという癖があるんや。保安員は、ごめんといった以上は、一度は万引きを認めたと、言い張っている。それに、万引きを認めたらひょっとしたらそれで事が済んだかも知れへん。けど、あいつは頑固やから絶対万引きを認めなかったんや。ちょっとしたミスや、ミスに気づいたら払いに帰ったはずや、それって万引きと違う、と言い張ったらしいわ。前はそれで通ったらしいけど、今度は、二度目やったから、万引きにされてしまった。謝ったらよかったのに、万引きと言われてかっとなったんと違うか、万引き扱いをしやがってとか、言って怒ったのに違いない。あいつは俺に言っとった。ミスを責められたらすぐにでも謝った。土下座してでも謝った。そやけど、万引きやと言われて誰が謝るもんか、裁判でも何でもやってくれと言ったらしいわ」
ハンチング帽はますます悲しそうな顔をする。それに、どうも、ハンチング帽は吉田の態度に百%賛成していないようだ。だが、俺は吉田という男が立派に思えてきた。老人として闘っている。もし、俺がそんな立場に立たされたら吉田のようなことはできない。「お前は万引きをした」と言われれば「すいません、すいません」と謝りつづけただろう。「万引きするつもりはなかったんですけれど、万引きと言われても仕方がありません」と言いそうだ。
俺は自転車駐輪場の管理人を辞めたときのことを思い出す。「若い奴に席を譲ったってくれ。困っている奴がいるんや」と市の外郭団体である「駅前等自転車管理協会」の事務長に言われた。「君はあと二年で年金が満額入るだろう。それまでは基礎年金も入るし、退職金もあることやし、少しは蓄えもあるやろうから、何とかやれるやろう」俺は何の抵抗もしないで「はい」と言ってしまった。「この辺で、もう、楽してもいいんと違うか」と事務長は何度も言った。俺は「こんな仕事ならまだまだやれる」と思ったが、瞬間、彼の言う通り、とも思った。定年は六十歳や。そう思って高校を卒業して以来、水道局の現業の仕事をずっとつづけてきた。休暇もあまり取らず、定年になったら、ゆっくりできるからと、それを楽しみに働いてきた。それに定年を過ぎてからも三年働いた。だから、この辺で一応区切りをつけてもいいのではないか、と思った。だが、そう考えたのは事務長のいいなりになるための口実なのだ。自分でもわかっている。「それは違う。年金を政府が六十五歳に伸ばした。だから、それまで仕事の保障はすると市長は組合との交渉で言っていたではないか。ここで辞めろとはおかしい」と詰め寄るべきだった。みんなならそうするだろう。だが、俺は、ひとと争うのが大の苦手なのだ。そういう時は必ず逃げる。子供の時からそうだ。後で聞いた話だが、事務長の息のかかった人間を採用したかったらしい。仕方がないよ。これが俺の個性だ。
俺は、吉田が捕まったというベンチの近くをじっと眺めた。真上から陽があたり、それが陽炎を作りながら反射している。ベンチの下のコンクリートも鏡のように輝いている。
「吉田は言ってたのや。俺の人生はこれと言って誇れるものは何一つない。ただ、警察にやっかいにならなかったことたせけが唯一の誇りやと。今度でそれが崩れる。何とかしてやらんと」
ハンチング帽は半泣きになっている。まるで、自分が吉田のようだ。
俺は先程見た吉田の姿を思い起こした。ときどきハンチング帽の言葉に頷く以外、背筋を微動だにさせないで直立して座っている吉田には何か言葉にはできない力、あるいは気迫のようなものを感じた。そして、ああ、これは何かに似ていると思ったのだが、それが今ようやくわかった。それは風のない中、すくっと立ち上る炎、例えば、巨大なろうそくの、静かだがなかなか燃えつきない執念のこもった炎に似ている。
そのとき、俺は、今まで思っても見なかった一つのアイデアを思いついた。ほんとうにふとだ。だのに、俺は、息がつまるほど緊張を覚えた。
「なあ、ちょっとあんたのハンチング帽、俺に貸してくれや」
俺はハンチング帽に言った。
「何すんねんな。いったい」
「いいから。何をするのか俺にもはっきりわからへんねん。でもちょっとしたアイデアが思いついたんや。思いついたらやってみることや。あかなんでもともとや」
俺は今まで言ったことのないような言葉で言った。いや、言葉が飛び出したと言った方がいい。ハンチング帽は帽子を脱いで俺に渡した。
「どうや。よく似合うやろ」
「びっくりや。人が変わったようや」
「そうか。よし。じゃ、あそこのベンチでちょっと待っていてくれ。スーパーで買い物してくるから」
俺は吉田がその近くで捕まったというベンチを指さす。
「買い物?」
「いいから、ちょっと待っていてくれ」
俺はスーパーの入り口に向かって歩く。
ハンチング帽はこちらを見ている。いや、ハンチング帽はこの俺かと思うと笑いが出てくる。ハンチング帽からバトンを手渡されたような気がする。ポケットから老眼鏡も出し、それも掛ける。
俺は、いくつかの買い物をし、再び、ハンチング帽のところへ戻ってきた。
「案外、早いな、いったい、何を買いに行ってきたんや」
五分刈り頭のハンチング帽が言う。日焼けした頬にかすかな微笑みが戻っている。
「仕事はまだこれからや。もう少し、ここで待っていてくれ。それから、これ返すわ」
俺はハンチング帽を返す。老眼鏡もポケットにしまう。これで俺はもとの俺に戻った。だが、バトンは返してはいない。俺はハンチング帽の後を引き継ぐ。やれるかどうかはわからないが、それに、今まで踏み込んだことのない領域へこの歳になってようやく踏み込むのだから不安いっぱいだ。ほかの奴はとっくの昔、小学生のときにすでにやったことを俺は六十を過ぎてからやるのだ。だが、俺にだって心の奥にはまだ黒い炎を出して燃えあがる芯があるはずだ。
「もう少しや。もう少し待っていてくれ」
「いったい、何をするつもりや」
「だから、もう少ししたらわかる」
俺は再びスーパーへと向かう。
店内を歩き、辺りを見回す。防犯カメラを見つけようとする。あそこやな。俺はそれを見つけてからまたゆっくりと店内を歩きまわる。緊張のためだろうか、筋肉痛は消えている。だが、頭の重さは相変わらずだ。
いつ何時、買い物をしたくなるかもしれないので、俺はいつも布の袋を持ち歩いているのだが、先程買った品物を袋に入れて持ってきた。その中からいくつかをポケットに入れ直す。俺は何も買わず、店員がどこにいるか探りながら、店内を一、二度、回った。
俺は、先程買った品物のところへ行き、ポケットから品物を取り出し、そっとそれを置く。置くときにかがまなければならないのだが、その時、筋肉痛がする。腰やももが痛い。しかし、痛みに勝たなければ。そう思うと痛みが快感に変わる。辺りを見回し。素早く再びそれを掴むと、袋の中へと入れる。それから辺りを見回し、次のところへ行く。二、三度、それを繰り返したとき、明らかに人の視線を感じた。二つほど離れた棚の向こうから俺をじっと見ている目を。興奮してくる。手が少し震える。しかし、気持ちは案外落ちついている。これからが勝負だと思う。何とか手の震えを押さえられないか。いや、震えているほうがいい。そのほうがいかにもそれらしく見える。震え、もっと震え。
俺は自分の手の震えを見て、一瞬、それが自分の身体から出ている炎のように思えた。腕が炎に見えるなんておかしい。だが、そう見えた。それに、徐々に快感を感じだした。もしこれが本当の万引きだったらもっと緊張し、もっとどきどきし、もっと快感を味わえるのではないか。
商品を置くときが難しい。俺を見ている視線を避けなければならない。俺は用心深くそれを行う。目当ての商品の横の商品をとっていろいろと見る。それを元に戻すとき、すばやくその商品にくっつけて、すでに買った商品をその置き場に置く。置いた商品をしばらく眺め、それを再び、すばやく袋の中に滑り込ませる。けっして今までしてこなかったこと、禁止されていたところへ足を入れるような快感が起こる。興奮の度合いが高まり、身体全体が熱くなる。まるで炎の中にいるようだ。俺は、同じことを繰り返す。
最後に、牛肉のパックとソーセージを一袋ずつ籠に入れてレジへ向かう。
金を払って、スーパーの出口を出る。後ろを振り向かない。歯はぎゅうとかみしめながら歩く。
「ちょっと、お客さん」
振り返ると丸顔で気の強そうな中年女性が、黒いスラックスをなびかせながら近づいてくる。
俺は、ベンチのハンチング帽に笑ってみせるが、彼は何も気づかない。俺がただようやく買い忘れの品物を買って出てきたとばかり、不機嫌そうな顔をしている。
「その袋の中を見せてくれる」
おかっぱ頭の丸顔の女性が言う。
俺は袋を抱え込む。俺が本当に万引きしてきたような気がする。
「ちょっと見せてよ」
丸顔の女が太い腕を鞄の中に入れて、商品を取り出す。
「これ、お金、払ってませんよね」
俺は黙っている。身体の震えをぎゅっと押さえる。襲ってくるのはランナーズハイと似た快感かもしれない。
「ちょっと来てもらえません」
「はあ」
俺は驚いたような顔付きをし、丸顔の女性の後をついていく。ちらっとハンチング帽を振り返ると、ハンチング帽は、先程と同じような不機嫌な顔付きをしてこちらを見ている。何事が起こったのかまったく理解していないようだ。俺は少し得意になる。
丸顔に付いていくと、トイレの横の通路から小さな部屋へ通された。片側の壁には店内を見渡せるテレビ画面が映っている。三箇所からの映像が映っている。やはり、俺の思ったとおりだ。それでも、これだけならたった三箇所を見られるだけだ。これだけで広い店内を隈無く映せているわけではない。やはり彼女が俺を見張りに出てきて俺の後をつけていたのだ。
「そこへ座って」
俺は黙って座る。座るときももが痛い。
「盗ったものみんなその机の上へ出してみて」
俺は黙って商品をすべて机の上へ出す。一番最後に、二個入りの蓬饅頭のパックを取り出す。笑いたくなる。なんと安価なものばかりか。
「あのねえ、品物を買ったら、お金払わないといけないの。お金を払ったのは、お肉とソーセージだけやないの」
「ええっ!」と驚いてみせる。
「今、何とおっしゃいました?」
俺は、とっておきの丁寧な言葉でつづけて言う。いよいよだ。まったく思った通りにことが運んでいる。だが、相手をどう攻めるかがわかっていない。どう攻めるのが最も効果的なのか? 仕方がない、出たとこ勝負でいくしかない。
「あのね、お金を払わないで物を持っていくのは窃盗という犯罪なの。泥棒なのよ。あんたはうちの商品、泥棒したんやないの」
俺は、ふっと、吉田もこんな風に言われたのだろうと思った。腹がたつ。えらばった、上から目線の言葉。吉田が腹をたてたのも無理がない。本当に万引きしようと思ってしたのなら、神妙にしていられるだろうがそうでないなら耐えられることではない。
「俺が泥棒? あなたは俺のことを泥棒と言いました。間違いないですね」
「ああ、泥棒や。店の物を黙って持ちだしたら泥棒や」
「じゃ、ここへあんたの字で、あんたは泥棒と書いてください。あんたの名前も」
俺は手帳を出して、白いページとペンを渡す。丸顔は少し驚いたようだ。何かを気づいたのかもしれない。不思議そうな表情でじっと俺を見つめる。それから、あんたは泥棒と書いた。俺はゆっくりとズボンのポケットから財布を取り出し、大事に仕舞ってあった先程のレシートを見せた。
「いつ、俺が金を払わないであんたところ店の商品を外へ持ち出した。これら全部、金を払っているやないの。全部や。これ見てみ、これは、ここ、これはここ。これもここ。それに、これはあんたところのレジ袋や。嘘と思うのやったら防犯カメラでも何でも調べてみてくれ。俺がレジを通るのが映っているはずや」
俺は一つずつ、レシートと商品とを付き合わせた。最後にはこのスーパー専用のレジ袋をテーブルの上に置いた。
「あんたところはちゃんと金を払ったお客まで万引き扱いするんか」俺はありっだけの声を張り上げた。
丸顔女性はいっきに顔を青ざめさせ、まぶたの上をぴくぴくと震えさせた。しばらくは品物をじっと見ているだけだった。俺は、手帳の中の彼女の文字をさす。
「その証拠がここにある。どういうことや」
女性はしかめっ面をする。上歯で下唇を噛んでいる。
「俺はなあ、自分の選んだ品物が一番いいやつやったかどうかをもう一度確かめたかっただけや」
そのとき、扉が開いて制服姿の女店員がハンチング帽を連れて入ってきた。ハンチング帽が俺が見て、ほっとした顔をした。
「どうしたんや」
ハンチング帽が尋ねる。テーブルの上を見つめる。
「お前、まさか?」ハンチング帽は言う。
「何言うてんや。俺が万引きするわけないやろ」
「そうやな。そうやな」
まだ、事情がよくわかっていない。 '
「すいませんでした。本当に申し訳ありませんでした」
初めて丸顔女性が机の上に額があたるほど頭を下げた。髪の毛が机の上を撫でていく。
「あんた、万引きを掴まえて、彼らが謝ったらすぐに許してやるのか。それやったら、何で、俺の友だちを警察などへ引き渡したんや。彼かって、払い忘れたこと、何度も謝ったと言っている。でも許してくれなかったと。万引き犯やと言って警察に手渡したやろう」
「彼って?」
「吉田という男や、今度、裁判所であんたが彼の行動を証言するのやろう」
「ああ、あの頑固じじい。万引きを認めん」
「彼は万引きをしていない。それをわかってやってほしい。頑固じじいとは何事や。名誉毀損や。あんただって、今ミスをしたやないか。人は誰でもミスをする。あんたはプロや、万引きをしようとしたやつと、払い忘れたやつとの区別ぐらいはつくやろう」
俺は、今まで、こんなに人を責めたことはなかった。責めるようなことが起こらなかったのではない。責めるべき時にも責めなかっただけだ。責めることから逃げただけだ。責めれば逆に責められる可能性がある、それが怖ろしかった。それほど自分に自信がなかった。
「抵抗してきた彼の言い方に腹が立ったの? それとも、相手の言い分を認めることが自分のプライドを傷つけるとでも思ったの?」
俺は目の大きな丸顔の女性を問い詰める。俺の中にたまっていた汚物をはき出すに。
この女性、俺たちをどうとらえるだろうか。無理にでも吉田の正当性を認めさせたい友人と思うのか。あるいは、巧妙にはめられた、何という嫌なやつらだ。悔しい、許せん、と思うのか、それとも、腹が立つ、でも、まっとうなことを言っているわ、と思うのか。
「聞いたところ、被害者の申し立てが罪に大きな影響を与えるそうや。あいつは、万引きするような奴と違います。ちょっとした思い違いやミスは、歳とったら誰でもするものです。何とかわかってやってください」
ハンチング帽は頭を机にくっつけるほど下げた。
しかし、俺は頭を下げない。哀れみを請うような言い方はしない。吉田もそれを望んでいないはずだ。
「裁判所で吉田という男にどのような証言をするか、そこにあなたの人柄のすべてが出る。今後、この仕事をする原点にもなる。プロの面目にかけて、彼が万引きをしたと思うのか、それとも単なる思い違いをしたと思うのか。もし、後者だと思うのなら、ぜひ、勇気を出してそう証言してほしい。もちろん、俺はミスを認める人間なので今回のことを抗議するつもりはない。プロだってミスをおかす。客だってミスをおかす。人間はみんなミスをおかすものや」
俺は言いたいことを強く言えてほっとした。これはまっとうなやり方ではないが、まっとうな攻撃などというものはどこにもある。攻撃とは、策略を練り、だまし、すきをとらえてやるものだ。非力で、体力の衰えた老人ならなおさらのことである。老人を甘く見るな。老人だって攻撃はする。
机の上の商品を黒い布袋に入れる。見せたレシートは財布に入れた。
「本当のところをちゃんと言ってやってよ。間違いなく本当のことを」
俺は保安員の顔を睨みつけながら言う。
立ち上がるとき、やはりももが痛い。筋肉痛は消えていない。だが、不快ではない。
扉を開けて部屋を出る。相手もほっとしていることが背中でわかる。
ハンチング帽は、後を追ってくるが、時々、俺の前にまで回ってきて、何かを言いたそうだ。確実に吉田に有利な証言をさせる確約のとれなかったことが不服なのだろう。あんなところで引き下がって、と思っているのに違いない。
彼にかまわずスーパーを出た。彼女はどのような証言をするかはまだわからない。ただ、機械的には証言できないだろう。なにがしかの考えをめぐらすに違いない。吉田に有利な証言をしないかもしれない。だが、そんなことをしないと俺は思うことにした。
「何かよくわからんかったけど、彼女、かなりこたえていたようや」ハンチング帽は後ろから言う。
俺は当事者でないから、あのようなやり方で終わったのかもしれない。だが、実際、当事者でないのだから、当事者でないやり方で終わらせてもしかたがない。
「まあ、彼女はどう証言するのかわからないなあ」と俺は言う。
「どっちにしても、吉田の奴、あんたのしたことを聞いたら、きっと喜ぶと思うわ」とハンチング帽は少し落ちついた声で言う。
雲が切れたのか、陽が頭上にまともに落ちてきて、身体の熱さを増した。それにつれ、頭がかなり軽くなった。
今夜、できれば炎の夢を見たいものだ。それに、ここしばらくの間は、頭の痛みや不快感は襲ってこない気がする。
「吉田の件が落ちついたら、いっぺん、いっしょに飲もうや」とハンチング帽が言った。
「吉田さんが万引きしたのではなく、ただ、金を払い忘れただけや、ということになったらな」と俺は答えた。
了
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