「村上春樹氏の小説が、そしてご本人自身までもが、どうして日本だけでなく世界中の多くの国の人々を引きつけるのかを知りたくて、取材に来ました」日本のマスコミに逆インタビューされ、そう回答したスイス人記者の顔には、口調は穏やかにもかかわらず、苛立ちの表情が垣間見られた。
平成二十五年五月六日、村上春樹は、京都市左京区の京大百周年記念ホールで、「魂を観る、魂を書く」と題した講演および公開対談を行った。聴衆は抽選で選ばれた五百人だけしかも撮影や録音は一切禁止。
そんな訳で、長い時間(スイスからどれくらいかかるのだろうか?)飛行機に乗り、たどり着いた日本の古都での企て、春樹ファンのハイジのための、素敵な取材記事は泡沫と化す。やれやれ!
「村上氏には、世界中に膨大な数の熱狂的な読者がいるのだから、彼らに対してもう少しオープンであるべきだ」と、彼はそう呟いて画面から消えた。
新聞記事によると、村上さんが国内で聴衆を前にして講演などを行ったのは、阪神・淡路大震災後の朗読会以来十八年ぶりのことだそうである。
彼は、自分が公の場にあまり姿を見せない理由を、『僕は文章を書くのが仕事なので、なるべくそれ以外のことには首を突っ込みたくないのが正直な気持ちです。絶滅危惧種のイリオモテヤマネコのようなものと思ってもらえるとありがたい。見かけても遠くで観察してほしい。触ったりすると怯えて、噛みつくかもしれませんので、気を付けてください?』と語ったとのことである。
応募用のネットには、当選した場合、受付で当選者本人かどうか確認するので、運転免許証等を持参すること、との注意書きがあった。ID確認ができない場合には、入場をお断りするとも記されていた。煙草の販売機に搭載されたタスポ・システム並の厳重さだ?
会場の周辺に多くの人々が群れをなしているのが、TV画面に映し出されている。カメラや竿つきのマイクをもった報道陣、チケットを入手できなかったにもかかわらずやってきたファン達、そして主催関係と思しきスーツに身を包んだ男女、そこへタクシーが滑り込んでくる。スニーカーをはき、チノパンツに紺の格子柄の半袖シャツ、野球帽を逆にかぶり、黒いサングラスをかけた村上春樹が現れる。彼は警備の人に先導され、周囲には一瞥もくれず、鉄製の扉の中に消える。これじゃまるで映画「SP」のワンシーンではないか? テロリストによる爆破予告でもないかぎり、少し奇異な観がある。
「ワトソン君、人が普段と違うことや常軌を逸する行為をしたときには、かならず、それなりの理由があるのだ」コナン・ドイルの小説の一節を思い出した。名探偵ホームズ流に言えば、村上春樹には、村上春樹なりの理由があるという訳である。つまり、彼がイリオモテヤマネコに変身しなければならなかった不条理な要因、「それを知りたいのなら、どうか僕の作品を読んでください」と村上春樹が、言っているような気がする。
湾岸戦争が勃発した91年に発表された彼の短編小説に「沈黙」という作品がある。この作品について彼自身がこう書いている。『「沈黙」は僕が書いたものとしてはかなり珍しいタイプの話である。きわめてストレートでシンプルな話だ。故ないいじめにあって、孤立して一人じっとそれに耐える男の子の姿が描かれている。(略)どうしてこんな話を書いたのか、それなりの理由はあるのだが、これについてあまり語りたくないので、語らない。僕にもそういう種類の経験がある、というくらいのことしか言えない。』
めちゃくちゃ乱暴に要約すれば、語り手の僕が、仕事上の関係者、大沢さんから聞いた中学時代の「いじめ」の話である。大沢さんは、絵に描いたような優等生の青木を一度だけ殴ってしまう。その後、彼は陰湿で巧妙な嫌がらせを受ける。そして、夏休みにクラスメイトの松本が自殺したとき、その原因が大沢さんの暴力にあるように仕組まれ、彼は学校内で四面楚歌に陥る。孤独の中で徐々に彼は、表層にしか価値を見ない青木に対する感情が、怒りから憐憫へと変わっていくのを自覚する。
話の終局で大沢さんはこのように語る。『僕が怖いのは青木のような人間ではありません。ああいう人間はおそらくどこにだっているのです。(略)本当に怖いと思うのは、青木のような人間の言いぶんを無批判に受け入れて、そのまま信じてしまう連中です。自分では何も生み出さず、何も理解していないくせに、口当たりの良い、受け入れやすい他人の意見に踊らされて集団で行動する連中です。彼らは自分が何か間違ったことをしているんじゃないかなんて、これっぽっちも、ちらっとも考えたりはしないのです。(略)本当に怖いと思うのは、そういう連中です。(略)』(文春文庫「レキシントンの幽霊」に収録されていますので、ぜひご一読ください)
本対談で、村上さんは書くことの意義について『人の本当の姿は見えない部分にあり、小説は見えていない部分を描きだすことが必要だ』そのうえで、『小説を通してそれぞれがもつ物語が共感しあい、深みを増していくもので、心のつながりをつくりたい』と述べたそうである。
人は自分には見えない部分、あるいは見せない部分がある。それらと対峙するためには、自分の心の中の地下室や井戸の中に降りていかなければならない。そこで、はじめて人は自らの物語と遭遇することができるのだ。小説を読むとは、それらを助長する行為なのだ。読書に口当たりの良い、受け入れやすい教訓を求める人は、心のネットワークにログインすることはできないということであろうか?
昔々のことである。私が人事課長二年目の予算作成時に、時間外勤務手当の三割カットと残業時間数の予算化を命じられた。これは法的には、あまり好ましいことではなかった。そこで、各部門の庶務担当部長と課長を招集し、説明会を行った。その資料として部門別個人別に、過去三年間の時間外数の実績と有給休暇の消化状況を作成して渡した。それによると、残業をする社員とそうでない者とに明確な偏りがあった。休日に出勤して翌日に年休を取るというパターンの常習者もかなり見られた。そこで担当業務の見直しと発令時に必要性の一段のチェックをお願いした。
同時に人件費の予算手続きについて簡単に説明をした。人件費全体のパイは決まっているので、時間外が予算オーバーしたときには、賞与の支給額を減らすか、昇給を押さえるしかない旨を、正直に伝えた。
すると、ある部署で人事が、サービス残業しなければ、ボーナス減らすと言っているという噂がたった。一方、別のところの営業部長からは、人事が、給与関係について、こんなにきちっと説明してくれたのは、初めてや、頑張れよ、とエールをもらった。
同じ話をしても、聞き手により、種々様々に解釈されて伝播してしまうものなのだ。
村上春樹が、滑稽なくらい頑なまでに、撮影や録音を拒否するのは、過去に作為的な引用により、本意をねじ曲げられた苦い体験があったのでしょうか。
イリオモテヤマネコさん、もしあなたをどこかで見かけても、声を掛けたり、触ったりしませんので、春樹ファンのハイジのためにも、早く講演の全文を発表して下さい! ヤッホー?
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