地下鉄の駅から地上へ出て驚いた。人があふれかえっている。巨大なおしくらまんじゅうが歩道いっぱいに広がって右へ左へと揺れているのだ。とっさに危ないと思った。巻き込まれたら息が詰まる。でも待ち合わせ場所はここだった。スタートから五キロ地点。仕方なくかたまりの中へ入ると案の定自由がきかなくなり、すぐに抵抗することをあきらめた。成り行きにまかせるしかない。車道へ飛び出そうになるのを沿道整備のボランティアが必死に抑えている状態だった。こんな中で人を探すのは無理だ。見つけても簡単に近づけない。
どうやらこの五キロ地点は最初のカメラスポットになっているようだった。カメラマンが何人も並んで、走ってくるランナー達にシャッターを切っている。あとで編集して一人ひとりに売ろうというわけだ。まだスタートして二、三十分なのでランナー達はみんな元気いっぱいに走っている。
ひじを突っ張ってなんとかコートのポケットから携帯電話を取り出した。
淳に電話をかける。
出ない。
美津子にもかけてみた。
美津子も出ない。
もう一度淳にかけるとつながった。しかし電波の状態が悪かった。
どう……あ……、おお……どこ……、で切れた。
左右から強い力で挟まれていく。踏ん張ろうとしても体が浮いてしまう。自分の力が役に立たない。
淳から折り返しの電話がかかってきた。
「どこにいるんだ。すごい人だな」
淳の大きな声があたりの雑音と一緒に飛び込んできた。
「だいぶ流されてるぞ」
「俺もだ。いま公民館の前にいる」
「公民館ってなんだよ。なんでそんなところにいるんだ」
「流れに逆らえないんだ」
淳は公民館の前にいる。でもそれはちょっと離れすぎている。ひと駅先だ。はじめから待ち合わせの五キロ地点を間違えていたに違いない。とにかく待ち合わせ場所を変えることになり、ひとまず近くの神社を目指すことにした。
淳から哲夫のフルマラソン挑戦を聞かされた時は冗談かと思った。まさかあの哲夫が走るなんて想像もつかなかった。それもいきなりのフルマラソン。大学のころから出不精でめんどうくさがりやで汗をかくのが大嫌いな男だった。運動とはまったく無縁でいつも下宿でごろごろしていた。最後に会ったのは十五年前だ。その時もさえない男だった。体重は八十キロを超えていて動きは鈍く、タバコ臭くてよく咳をしていた。髪の毛も薄くなっていた。三十歳になったばかりだというのにやけに年寄りくさかったのでオヤジオヤジとからかっていた。仕事がきつくてたまらんと言いながら大酒を飲んで居酒屋のトイレでひっくり返っていた。その後は連絡を取り合うこともなくなった。僕たちが知り合った大学の混声合唱団のOB会も開かれなくなり、会う機会もなくなって年賀状のやりとりだけになっていた。それが突然十日ほど前に淳から連絡が来たのだ。哲夫のやつが変になったんだという。確かめたらフルマラソン挑戦。そして十五歳年下の女と結婚したのだと。これにも驚かされた。
神社の境内は静かだった。誰もいなくて何も聞こえない。大通りからひと筋入っただけでこんなにも違うものなのかと思う。
しばらくしたら、おおっという大きな声で淳がやってきた。すかさず、はじめからここを待ち合わせにすればよかったじゃないかと言ってやった。
「知らねえよ。俺が決めたんじゃない。マラソン見るのなんか初めてだし、ちょろちょろ走ってるのかと思ったらあれだもんな。固まってどんどん来るじゃないか。一万人だってよ、一万人」
さざなみマラソンは今年で五回目になる。起伏が少なく、みずうみを二周したり森をくぐったりするコースが評判になって毎年参加者が増えている。それに比例して見物人も多くなり、道幅の狭い場所やカメラスポットでは大混雑になるのだ。
淳は美津子に電話して早く来いと誘っていたが、反対にわれわれが美津子のところへ行くことになった。人が少なくて見晴らしのいいところにいるらしい。
「おい、哲夫の嫁さんも一緒だってよ」
淳がにやりとした。
「六ヶ月だってよ」
「六ヶ月って、何が」
「これだよ」
淳は腹の前で半円を描いて妊婦のジェスチャーをした。淳もまた僕と同じで詳しいことは聞かされていなかった。美津子だけがいろいろ知っていた。哲夫の嫁さんとは同僚らしい。それでマラソンに合わせて初顔合わせをセッティングしたのだ。
おまえ全然変わってないなと淳はこっちを指さして言う。たしかに自分でも変わってないと思う。悲しいほどに変わってない。やせ形のままだし腹も出てないし髪の毛も十分にある。そしてなにより独身のままだ。
淳も雰囲気が全く変わっていなかった。百八十センチで九十キロというのもあの頃のままだ。四角い顔にでっかい目玉。相撲取りのような歩き方。そして声量たっぷりのバリトン。とにかく学生のころから目立つ奴だった。
歩きながら淳が体を寄せてきた。
「哲夫にはやられたって感じだよな。なんであんな不細工な奴が十五も下の若い嫁さんをもらえるんだ。やっぱりあっちの方が強いんだろうな。それしかないぜ。そう思うだろう」
さらにくっついてきた。
「俺のストライクゾーンは下に広いんだ。あいつよりももっともっと下に広い。なあおまえ、セーラー服はどうだ。セーラー服はいいぞ。セーラー服だったらひと晩で三回はいける。今晩、一杯飲んだ後でどうだ。いい店があるんだ」
下品なところも変わってない。セーラー服を連呼してしつこく誘ってくる。自信がなかったら薬を分けてやると言ってきた。効果抜群で朝まで大丈夫だという。顔面が脂ぎっている。これも変わってない。
美津子たちが待つところまでは少し歩いた。五キロ地点よりもかなり先へ行ったところだった。
美津子の隣には見知らぬ女性がいた。久しぶりに会う美津子よりもその女性に目がいってしまった。
吉田ゆかりですと挨拶してきた。哲夫と同じ名字だ。
若いと思った。さすがに十五の年の差は感じる。小さい顔に丸い目がふたつ。肩のあたりまで黒い髪を垂らしていて、その髪をつかみながら寒そうに肩をすぼめるとさらに若く見える。かわいらしい感じだ。本当にあの哲夫の相手なのかと思う。
ゆかりちゃんか、と淳がなれなれしく話しかけると、そうです、ゆかりちゃんで〜すと返してきた。それで一気にくだけた感じになった。
九時三十分になっていた。スタートから三十分が過ぎていた。だいたい最初の五キロは三十分ぐらいかかるだろうというのが美津子の予想だった。それなら単純計算でゴールまでは四時間ちょっとということになるけれどさすがにそれは無理で、まあ初挑戦だから完走できたら上出来、六時間を切ったら奇跡だわねと厳しいことを言っている。僕にはまるで想像がつかなかった。この寒いときに寒い格好で走るというだけでも信じられない。マラソンなんて暖かい部屋でポテトチップスでも食べながらだらだらと見るものなのに。
もう走って行ったんじゃないのかと淳が言った。
ゆかりちゃんが即座に首を振った。その仕草がまたかわいらしい。
ランナーたちはかなり固まった状態で帯状になってやってくる。このなかから哲夫を見つけるのは難しいと思った。ゼッケンは8299番だと聞いていたが、とてもひとりひとりを確認するなんてできない。サングラスに黒いタイツ姿という特徴もだめだ。似たような格好のランナーが多すぎる。小太り、というのはゆかりちゃんに否定された。減量に成功して今は七十キロを切っているという。それじゃますます分からない。もうまもなくやってくるということだけは確かなようだったので、ひとまずランナーたちに集中することにした。
派手な奴が走ってきた。金色のシャツにトンボめがね。両手を横に伸ばし、飛行機のポーズで旋回しながら、がんばりまーす、応援よろしーくと見物人に声をかけている。その時だった。ゆかりちゃんがぴくっと動いた。ジャケットからすばやくデジカメを取り出し、二、三歩前へ出てしきりに手招きをしている。
「哲夫さーん」
と澄んだ声が大通りに響いた。
すると集団から抜け出してこちらへ近づいてくるランナーがいた。サングラスに黒いタイツ。ゼッケンは8299番。しかしサングラスを取ってくれるまで哲夫だとは分からなかった。
「おおっ」「おおっ」とお互いを指さした。十五年ぶりにこういうシチュエーションで顔を合わせるなんて思ってもみない。本当に走ってるんだなと言うと、哲夫は足踏みしながらどうだとばかりに胸を張った。たしかにスリムになっていた。十一月だというのに日焼けした顔。その上にスポーツ刈りの頭が乗っかっている。知らない人が見たらいっぱしのスポーツマンに映るだろう。でも僕たちは十五年前までの哲夫を知っている。やはりスポーツ刈りは似合わない。絶対に無理をしていると思う。なんだか見てはいけないものを見てしまった感じだ。
ちょっと遅いんじゃないかと言うと、そうなんだそうなんだと哲夫はうなずいた。
「参加者が多すぎてなかなかスタートラインまで進まなかったんだ」
「でもまあ無理するなよ。期待してないから」
「楽勝楽勝、大丈夫だ。完走するぞ」
喋りながら哲夫はずっとゆかりちゃんのカメラを気にしていた。顔も半分そっちを向いている。
沿道整備の腕章をつけたボランティアが哲夫に立ち止まらないで走るよううながした。
「つぎは十キロのところで待ってるから」
「ありがとう。悪いな」
再び走り出した哲夫に向かって淳が叫んだ。
「このすけべオヤジー。若い嫁さんもらいやがってー」
哲夫は急いで集団の中へ入っていった。
十キロ地点までは近道があった。ランナーたちはそのまま県道を走り続けるのだが、見物人は農道を使って先回りすることができる。普段は地元の人しか通らないだろう畦道を一列になって歩きながら僕はようやく美津子に声をかけた。久しぶり、と。でも次の言葉が出てこなかった。美津子は明らかにやせて貧相になっていた。顔色も悪いし姿勢も悪い。猫背なんかではなかったはずだ。もっとぽっちゃりとしていた。しきりに濁った咳をするのも気になる。疲れているのかなと思ったけれどそれだけではなさそうだ。しばらく美津子の顔を見ていたら、こちらの気持ちを察したのか美津子の方から「喘息が出たのよ」と言ってきた。喘息? なんだそれはと思った。少なくとも大学時代の美津子は風邪ひとつひかない元気な女子だった。そんな持病があるなんて聞いたことがない。最近の事情が分からないだけによけいに美津子の変わりようが気になった。
三十歳の時にすでに中年のオヤジみたいだった哲夫がどうして十五も年下の女と結婚できたのか。美津子はその謎を解いてくれた。まずは一目ぼれした哲夫がゆかりちゃんに猛アタック。当然ゆかりちゃんは拒否。しかし哲夫はあきらめない。煙草をやめて再アタック。またもや拒否。酒を断って再々アタック。拒否。競馬もやめて再々々アタック。ゆかりちゃんの出す条件をひとつづつクリアーしてそのたびにアタックを繰り返す。そのうち次第に立場が逆転して、逃げ回っていたゆかりちゃんがいつのまにか哲夫を追い回すようになったのだという。全くマンガみたいな話だ。
「哲夫の粘り勝ちってとこか」
「まあそうね」
「それでこのマラソンとはどうつながるんだ」
「生まれてくる子供のために走るんだって。父親になる覚悟を示したいって」
「あいつが本当にそんなこと言ったのか」
「何回も聞いたわ」
「信じられん」
「それだけゆかりちゃんのことが好きなのよ」
美津子の声は弱々しく聞こえた。咳が出るのを抑えるために口先だけでしゃべっているようだ。声に力がない。晩秋の冷たい風が美津子の髪を乱した。こめかみのあたりに白髪が見えた。風にあおられるたびに白髪は増えていくようだった。ほおのくぼみが黒ずんでいるのは逆光のせいではない。頬骨のせいだ。痛々しいほどに目立っている。
十キロ地点には十時にスタンバイできた。予想では十時十分から十五分ぐらいに通るはずだった。
まず金色シャツのトンボめがねがやってきた。こいつが目印だ。
そしてすぐに哲夫がやってきた。五キロ地点で一度見ているから今度は分かりやすかった。四人全員が同時に見つけて「哲夫ー」とハモった。それからみんな同じようにデジカメを向けた。
哲夫は手を振って答えた。こちらには寄ってこなかった。集団のままであっというまに過ぎていく。
「パパー。パパー」
淳のバリトンがこだまする。
哲夫はまだまだ元気そうに見えた。背筋を伸ばし腕を振ってまっすぐに走っている。実際に走っている哲夫を見るにつれてますます妙な気持ちになった。明るくて若々しい哲夫が受け入れられないのだ。十五年前の不細工なままの哲夫でいてほしい、今日の哲夫は嘘であってほしいと思っている。
「この次はどこで見るんだ」
美津子に尋ねた。なんだかいらついて強い口調になっているのが自分でも分かった。
「折り返し地点よ。今からみずうみを二周するから、そうね、一時間ぐらい後かしらね」
それを聞いてゆかりちゃんが、そんなに早く走れませんと首を振った。
だいぶ時間があるので喫茶店に入った。今日は主人のためにわざわざ来ていただいてありがとうございます、とゆかりちゃんはバッグの中から小さな手提げ袋を取り出して僕たちに配った。中にはいかにも手作りらしいクッキーが個包装されて入っていた。主人、というのがまた不思議な響きだった。哲夫はいつの間にか主人になっていた。
淳とゆかりちゃんはすっかり親しくなり、一緒になって哲夫の変身ぶりをからかっている。哲夫は三日前にスポーツ刈りにして気合を入れ直していた。それもわざわざ美容院へ行って。日焼けサロンや脱毛エステにまで行こうとするので、さすがにそこまでは必要ないとゆかりちゃんは言う。
「だったらスポーツジムで鍛えてよって言ったら『しんどい』ですって」
「はははは、やっぱり哲夫だ。それが本来のあいつなんだ。安心した」
「でも家では毎日腕立て伏せと腹筋とスクワットやってますよ」
「そういうビデオを見てるだけじゃないの」
「ちゃんとやってます。哲夫さんはまじめなんです。あたしと子供のために一生懸命なんです」
ホットココアの甘い香りを漂わせながらゆかりちゃんは唇をとがらせた。
僕は笑わない美津子が気になっていた。改めて正面から顔を見ると目の回りがひどくくぼんでいた。ちょっと疲れてるというだけではすまない感じだった。首も細いし手首も細い。ダイエットではなくて病気のやせ方だ。しかし喫茶店の中ではそんなことは聞けなかった。今日の主役はあくまでも哲夫とゆかりちゃんだから。
十一時になったので店を出た。
折り返し地点といっても特に何かがあるわけではない。地面に三角のポールが立っていてそこをくるっと回るだけ。見物人もだいぶ少なくなっていた。ランナーたちは相変わらず帯状になって途切れることなくやってくる。さすがに歩いている人もたくさんいた。深呼吸をしたり屈伸運動をしたり。中にはしゃがみ込んでしまう人もいる。そういう人には「がんばれ」と声がかかる。するとまた走り出す。声援は魔法なのかもしれない。
「賭けようか」
と淳が言った。
哲夫は走って来るか、歩いて来るか。
「失礼ね」
と美津子はゆかりちゃんの方へ顔を向けた。
「賭けてもいいです」
ゆかりちゃんは答えた。
金色シャツのトンボめがねがやってきた。相変わらず飛行機のまねをして愛想を振りまいている。さっきよりも大きな声で「がんばりまーす」と見物人に手を振っている。疲れている様子はない。
「主人は絶対に歩いてくると思います」
ゆかりちゃんが自信たっぷりに「歩いてくる」と宣言したので賭けは成り立たなくなってしまった。いくら十キロ地点では元気だったとしても練習ですらハーフ以上は走ったことがないという哲夫だ。未知の領域に入ろうとしている。歩いてきて当然。走ってきたら化け物だ。ここのところは四人の意見が一致した。
トンボめがねが走り過ぎたあと、なかなか哲夫はやってこなかった。今度はだいぶ待たされた。淳はいらいらして哲夫の姿を探しに行ったりした。美津子は寒い寒いと言い出し、僕もそろそろあきらめた方がいいんじゃないかと思い始めた時、ゆかりちゃんが「キャー」と叫んで遠くの方を指さした。
哲夫がふらふらしながら歩いているのが見えた。サングラスはかけていなかった。腰に手を当て、うつむきながらゆっくりゆっくり歩いている。歩くのがやっとという感じだ。
目の前まで来るのを待ってから声をかけるとすり足で近づいてきた。膝が痛いという。すかさずゆかりちゃんがバッグの中から真新しいサポーターを出して哲夫に手渡した。
左右のひざがまっ白になった。
「二十キロのあたりで急にガクッときたんだ」
哲夫はひざをさすりながら笑って言った。つらそうだったが悲壮感はなかった。これくらいのことは予想の範囲内だとばかりにかえってアクシデントを楽しんでいるようにも見える。「無理するなよ」と声をかけようとして止めた。このまま哲夫を追いかけてゴールまで見届けたとしても僕は何も変わらないだろう。そう思うと情けなかった。哲夫は変わるだろう。きっと輝いているだろう。ゆかりちゃんも変わるだろう。一緒に輝いているだろう。
「まだ半分あるぞ」
そういうとすかさず哲夫は「もう半分しかないじゃないか」と返してきた。立ち上がって屈伸をして足踏みをして、よしっと気合を入れる。六時間以内に完走すれば記念にフィニッシュタオルがもらえる。そのタオルで風呂上がりの子供の体をふいてやりたいのだという。
折り返し地点からの哲夫の再スタートは明るいものだった。跳ねるようにして走り出した。踊っているようにも見えた。
次は三十キロ地点での応援予定だったが、これから先の哲夫のペースは全く読めなかったので、とりあえず自由行動にして一時に再集合ということにした。
淳はさっさとどこかへ消えていった。ゆかりちゃんも買い物に行った。美津子はあてがないというので一緒に日の当たる歩道を歩き始めた。
自分でもなんでこんなに緊張しているんだろうと思うくらいに言葉が出てこなかった。聞きたいことはたくさんあるのに聞けない。自然じゃない。
沿道ではランナーたちのためにバナナを切っている人がいた。ぶつ切りにされてむかれたバナナがケースに山盛りになっている。そのケースがいくつもある。いくら一万人が走っているにしても全員がむしゃむしゃ食べるわけではないだろう。
「絶対に余るよな」
と指さして言ってみたけれど美津子の返事はなかった。
「腹減ったな」「最近運動不足なんだ」「海外へ転勤になるかもしれない」「やっぱり腹減ったな」
何を言っても返してこなかったので間抜けなひとり言みたいになってしまった。
マラソンコースからはずれ、交通規制のかかっていない中通りを歩いた。最近ファッションビルが立て続けにオープンしていたので若者が多かった。待ち合わせスポットになっている噴水前まで来ると本当にあふれかえっていた。マラソン見物とは違って華やかな混み具合だった。ああこんな頃もあったんだなあと思ってしばらく眺めていると、どこからともなく「服部く〜ん」と名前を呼ばれた。とてもなつかしい響きだった。体の力が抜けてふわっと二十五年前の学生の頃へ戻っていきそうな気がした。
――服部く〜んー
――服部く〜んー
遠くからも近くからも聞こえてくる。
――服部く〜んー
――服部く〜んー
「服部君、服部君。何ぼーとしてるのよ。危ないわよ」
体をゆすられて我に返った。横断歩道の真ん中あたりに立っていた。慌てて渡りきるといっせいに車が走り出した。
「どうしたのよ、急に立ち止まったりして」
美津子はちょっと怒っている。
「うん、ちょっと……。悪いけどもう一度『服部く〜ん』って呼んでくれないか」
「なんなのよ」
「いいから、いいから。頼むよ」
美津子は不思議そうな顔でこちらを見ながら「服部君」と呼びかけた。
「服部君じゃなくて、『服部く〜ん』だよ」
「伸ばすのね」
「そう。伸ばしてちょっと上げるんだ」
分かったわと言って美津子は離れていった。どうするんだろうと思ったら、五十メートルほど遠ざかったところで人ごみに加わり、そこからきょろきょろとあたりを見回しながらいかにも人を探しているという感じで近づいてきて噴水前で立ち止まった。そして僕と目を合わせ、嬉しそうな顔で、
「服部く〜ん」
と声をかけてきた。
僕は笑って手を振った。
「えらく手が込んでるじゃないか」
「どう、その気になった」
「なったなった。気持ちよくなった。あの頃に戻りたくなったよ」
「なによそれ、いやらしいわね」
美津子はそう言って軽く手首のあたりを叩いてきた。肩でもなくて二の腕でもなくて手首を叩いてくる。学生の頃の美津子そのままだっだ。うれしい時や楽しい時、美津子は誰彼ともなく手首を叩いたりつかんだりしていた。落ち込んでいる時はそんなことはしなかった。手首を叩くのは美津子が喜んでいる証拠でもあった。僕は少し安心した。やせていることや顔色の悪いことはひとまず僕の勘違いにしておこうと思った。
「ねえ、覚えてる?」
美津子が真横に立って聞いてくる。
ああ、覚えてるさ。
心の中で答えた。
学生の頃一度だけ美津子とデートしたことがある。そのことを聞いているのだ。
大学に入ればすぐに彼女を作らなければならないという雰囲気があって、回りにはけっこう焦っているやつもいた。慌ててバイクや車の免許を取りに行ったりいくつかのサークルに顔を出したり。クラブやサークルで探すのが一番手っ取り早かった。僕も入団した混声合唱団の中で見つかればいいと思っていたけれど、みんな同じことを考えているのでなんだか早い者勝ちみたいなところもあった。美津子に声をかけたのは遅い方だった。夏になっていた。レンタカーを借りて海岸を走り、夕日を見て帰ってきた。美津子が、これってデートよねと聞いてきたので、よく考えずにああと答えた気がする。そのあと美津子とは付き合わなかった。なぜだかは分からない。僕は完全に落ちこぼれてしまい、彼女探しはどうでもよくなった。美津子は他の大学の学生と付き合いはじめた。同時に何人もと付き合っているようだった。みんな友達よと言いながら。
「ねえ、本当に覚えてるの」
今度は手首をつねってきた。
「もちろん覚えてるさ」
すると美津子はいやらしいわねと言ってさらに強くつねってきた。
「何がいやらしいんだよ。いやらしいことなんてしてないぞ」
「したわ。服部君が覚えてないだけよ」
絶対にしてない。けれど美津子が楽しそうだったのでそのままにしておいた。
四人が再び集まった。そして三十分が過ぎている。だれも昼ご飯を食べていなかった。べつにどうでもいいことだったけれど、ちょっと話題不足で退屈気味になっていたので何かしゃべってないと雰囲気が暗くなってしまう。
三十キロを過ぎようとしているのにランナー達は途切れることなくやってくる。歩いている人には激励の声が飛ぶ。
「7781番、がんばれ!」「まだまだいけるぞ」「ファイトファイト!」
金色シャツのトンボめがねはとっくに通り過ぎていた。さすがに疲れている様子だった。飛行機ではなくて普通に走っていた。
『服部く〜ん』が耳から離れない。大学を卒業してからしばらくはOB会や友達の結婚披露宴なんかで年に一度は会っていた。そのときは『服部く〜ん』が気にならなかった。なのに今日に限ってじ〜んときた。懐かしいなあと思った。そして少しセンチメンタルになった。これから先も僕のことを『服部く〜ん』と呼んでくれるだろうか。
美津子の横顔を見る。やっぱり年を取った。でもそれは当たり前のことだ。哲夫がフルマラソンなんか走ったりするから戸惑ってしまった。若い嫁さんをもらって若作りなんかするから嫉妬してしまった。美津子は普通に年を取っている。それでいいのだ。もっともっと年を取っておばあさんになった時の『服部く〜ん』を聞いてみたい。その時は告白しよう。頭の中では何回も何回もいやらしいことをしたということを。
「おい、何ぼーとしてるんだ。哲夫が来たぞ」
淳の声にはっとして前を見ると、哲夫がスキップしながらこちらへ向かってくるのが見えた。Vサインなんかしている。わざと沿道から遠いところを走って「ゆかり〜」と叫んでいる。
「哲夫さ〜ん」
「ゆかり〜」
「哲夫さ〜ん」
「ゆかり〜」
ばかばかしくて聞いてられなかったが、美津子が笑っているのでこれもよしとしよう。淳が何かヤジるのかなと思ったが静かにしていた。
哲夫は一度目の前を通り過ぎてからUターンして戻ってきた。スキップしていたのは、ゴール直前のカメラスポットを意識して練習していたのだという。
「余裕だな」
「あ〜だめだめ。足がもつれそうになった。スキップって難しいな」
「この調子だったら完走できそうじゃないか」
「いやいや、正直きつい。あと何分あるんだ」
哲夫は自分の腕時計を見た。
「あと一時間半か」
哲夫の表情が曇った。すかさずゆかりちゃんが大丈夫よと微笑みかける。すると哲夫は元気になった。与えられたレモンをかじって「よっしゃー」と雄叫びを上げた。
「おまえ本当に大丈夫か。悪い虫でも入ったんじゃないのか」
「これが本来の俺の姿だ」
「違うだろ」
「違わない。これが俺だ。がはははは」
哲夫の手の甲には十キロ、二十キロ、三十キロ、四十キロの目標タイムがボールペンで書いてある。ここまではなんとか予定通りにきているらしい。
「しかしきついなあ、まだ十二キロもあるのか」
哲夫は空を見上げてため息をついた。
「て・つ・お! て・つ・お!」
誰からともなくてつおコールが始まった。
「て・つ・お! て・つ・お!」
混声になって通りいっぱいに広がっていく。
「て・つ・お! て・つ・お!」
手拍子も加わる。
哲夫はちょっと照れくさそうに肩をすぼめながらまた走り出した。
だいぶ気温が上がってきた。空はきれいに晴れ渡っている。お前も走れという声が聞こえてきそうだ。冷たい風が背中を押す。お前も走れるんだと。
最後の応援をするゴール地点まではぼーとしながら歩いた。ぼーとしてたらまた美津子に『服部く〜ん』と呼んでもらえそうで。
――これってデートよねー
――何だよそれー
――あたしたち付き合ってるのよねー
――変なやつだな。付き合ってるも何も夫婦じゃないかー
――あたしたちいつから夫婦になったのー
――二十数年前からだー
――嘘。あたしたち夫婦じゃないわー
――夫婦だよー
――違う。夫婦になりたかっただけ。夫婦じゃないわー
――何を言ってるんだ。夫婦じゃないか。僕は君を愛してる。君も僕を愛してる。夫婦じゃないかー
――そんないやらしいこと言うのはやめてー
――何がいやらしいんだー
ひときわ大きな歓声が波紋のように広がってきた。若い女の子の悲鳴と絶叫。アイドルタレントが走っているのかもしれない。そういえば撮影カメラも見かけた。
ゴール地点の市民広場には大勢の人が集まっていて近寄ることができなかった。それならばと少し手前にある最後のカメラスポットへ行ってみたが、こちらもかなり混んでいた。考えることはみんな一緒だ。最後にドラマがあると思っている。泣き笑いが見たいのだ。
スタートから五時間半。ランナーたちは一様によれよれの走り方をしていた。それでも「完走おめでとう」という声援には笑顔で応えていた。四十二・一九五キロを走り切ろうとする喜びに満ち溢れていた。歩いている人はいなかった。ゆっくりでもみんな走っている。最後のカメラスポットだということも十分わかっていて、バンザイやガッツポーズをしながらカメラ目線で走り抜けてゆく。
一番前のよく見えるところに恰幅の良い初老の男が立っていた。背筋を伸ばし、肩幅ぐらいに足を開いてどーんと構えている。腰に手を当て、ランナーが目の前を通り過ぎるたびに野太い声でゼッケンを読み上げるのだ。
「六千三百二十八番!」
「九千とびとび六番!」
「七千とび八十八番!」
卒業証書授与みたいでおかしかったけれど、そのたびに拍手と歓声が起こるので盛り上げには一役買っていた。
あっという間に時間は過ぎる。二時四十五分になっていた。あと十五分で六時間になってしまう。急に深刻になった。やばいんじゃないかと思った。僕だけではなくて淳も美津子もゆかりちゃんもそう思っているはずだった。目が真剣になっている。そして無口。だめかもしれないと口にしたらそれが本当のことになってしまいそうで怖かった。絶対に来るぞなんてこともしらじらしくて言えなかった。吐く息がすべてため息みたいになってしまい、顔を見合わせるのも不謹慎な気がした。
また時計を見てしまった。二時五十分になっていた。
五、六人が固まって走ってくるのが見えた。随分と遠くまで目を凝らしているなと自分でも思う。もっと多かったらいいのになと思ったが実際は三人だった。その三人も違った。うわの空で拍手を送った。
ゼッケン読み上げ男が暫時休憩とばかりに水筒のお茶を飲もうとしたその時、目の前でゆかりちゃんが崩れていった。膝を折って体をくねらせてとなりの美津子に寄りかかっていく。一瞬空気が凍りついたけれど、美津子が落ち着いた声で「貧血だわねえ」と言ったのでああそうなんだと納得した。けれど場所が場所だし時間も時間だ。僕と淳が心配そうにのぞき込むと、
「大丈夫よ。あたしも貧血で苦労してるから」
と美津子は微笑みながら言った。
「救護へ連れて行こうか」
「そうねえ。どうしようかしら」
美津子の腕の中でゆかりちゃんは小さくなっている。
ゼッケン読み上げ男の咳ばらいが聞こえた。
「八千二百九十九番!」
拍手と歓声が地響きとなって伝わってきた。美津子に促されて僕と淳は最前列へ飛び出した。
8299番。
哲夫だ。
哲夫が走っている。
「こら〜」とまず淳が叫んだ。
「待ってたぞー」
「こら〜」
「おめでとうー」
「こら〜、すけべオヤジ〜」
哲夫は照れくさそうに笑っていた。そしてカメラマンの列を意識してスキップに変えた。
「下手くそ〜」
淳の叫ぶ通りだった。危なかしくて見てられない。転ぶに決まっている。
バンザイの手は胸のあたりまでしか上がっていなかった。ガッツポーズも弱々しかった。もう自分の力で走っているというより魔物にでも引っ張られている感じだ。前のめりで相当つらそうに見えた。
ゆかりちゃんが立ち上がっていた。美津子にささえられながら哲夫を目で追っている。もう十分声援を送ったから最後は何もいらないのだとばかりにただぎゅーと見つめている。
みんなでぎゅーと哲夫を見つめた。
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