人がわり   橘 雪子


 

 ケンちゃん。ケンジくん。ケンジ。ケン坊。ケンケン。ケンスケ。ケンシロウ。ケンタロウ。ケンタウロス。ケンブリッジ。バスケ部のケンジ、バスケンジ。
 わたしだけの呼びかたがないかな。
 秋奈ちゃんのお兄ちゃんから薦められて読んだ高橋源一郎の「さようなら、ギャングたち」っていう本の中に、恋人に自分だけの名前を付けるシーンがあった。秋奈ちゃんのお兄ちゃんは今年から国立大学に行ってて、そんな人の読む本は難しい。全体の意味は全然わからなかった。でもそのシーンだけ、何度も読み返した。
――早紀ちゃん本が好きなんだ、って言ったら、これ面白いから読んだらって。おまえは読まなくていい、なんて言うのよ。ムカつくよね。
 秋奈ちゃんがそう言って学校のトイレで渡してくれた本。トイレで渡すから、どんないかがわしい本かと思った。その直後に始まった数学の授業は「三角形の合同」。三角形が合同かどうかなんて全然興味がないから、借りた本を開いてみた。冒頭から、わたしにはよくわからなかった。だけど最初のほうに恋人に名前をつけるシーンがあって、夢中で読んだ。変な名前がついてた。でもそれもなんだか、特別だからいいなあ、と思った。
 ああ、わたしもそんな世界に住んでいたらな、と考えているときに、チャイムが鳴って慌てて本を閉じた。帰って、もう一度冒頭から読み返した。
 それからわたしはずっと、同じクラスの大谷くんの呼びかたを考えてる。名前を付けるセンスはない。だからせめて、わたしだけの呼びかた。
 呼びかたがわたしだけのものになったら、あの人そのものも、わたしだけのものになるから。
 大谷くん、なんて呼びたくない。先生でもそう呼んでるし。おーたに、もダメ。秋奈ちゃんも美樹も、あとほかの女子だってそう呼んでる。下の名前。ケンジ。なんでこんなにありふれた名前なんだろう。呼びかたがほとんど決まってる。名前いじりの趣味がないから、突拍子もない呼びかたを思いつけない。大谷くんは、わたしだけのものになる気配すらない。

「これ、他のヤツに内緒な」
 隣の席の井端が紙切れを渡してきた。え、と顔を見るともう横顔で、何も聞くなよ、のほっぺただった。井端の顔はゴツゴツしていて、ほっぺた、という丸い感じからは遠い。野球部だし。冬なのに日に焼けてるみたいに浅黒いし。それにしてもなんていうか、無骨って言葉はこういうことか、と思うような横顔だなあ。無骨、って骨がない、って書くのに言葉から連想するのはこういうゴツゴツした骨太のオトコで不思議……あれ、武骨だったっけ、と考えてたら、井端がおい、と言ってこっちを見た。
「早く読めよな、ばかたれ」
「ばかたれって何よ。たれるほどバカちがうし」
「じゃあ、ただのバカでもいいけど。おまえホントにバカなんだろ」
「は?」
「やめろ、臼谷が気付く」
 臼谷は数学の先生で、今日は三角形の証明、とか言ってる。わたしのノートは真っ白。何のことかホントにわかんない。井端が言う通り、わたしはバカなのかもしれない。証明、の意味がわからないんだもん。この二つの三角形が合同だということを証明しなさい。って、問題出す人が合同だってわかってるんだったら、証明しなさい、とかいうのっておかしいと思うんだけどな。証拠出せ、っていうのは信じてない側の言いぶんじゃないの? だいたいさ、コピーして上に重ねたらすぐわかるじゃん、計算なんかしなくても。
「おい桜井、読めっつーの」
 井端に怒られた。そうそう、他のヤツには内緒な、だったっけ。
 机の下に入れた手の中で、紙切れを開く。

クリスマスパーティやろうぜ!

◎十二月二十三日(祝)昼まえから
◎相馬の家(ご両親が家をあけてくれるそうです! サンキュー相馬!)
◎宅配ピザ代をワリカンするので、テキトーに金持ってきてね☆ だいたい千円くらい!
◎プレゼント交換アリ! 千円程度のモノを用意すること。
◎メンバーは、相馬、ヨッシー、多田、いばっち、ケンジ、花岡、桜井、清水です。他の人には言うなよ!

 ケンジ。ドキっとしたのを井端に勘付かれませんように。

 授業が終わって秋奈ちゃんを見ると、ニコニコ笑って手を振っていた。
「クリパだね!」
 駆け寄ってそう言う。美樹もわたしの机までやって来た。
「楽しそうだよね?。相馬の家って行ったことある?」
 相馬と同じ小学校だった秋奈ちゃんがうなずく。
「中はないけど、前は通るよ。でかい。金持ち」
「へえ、そうなんだあ」
 美樹がチラっと教室の後ろを見た。「メンバー」の男子五人が集まって、意味もなく人の背中を叩いたりブレザーを引っ張ったりしてじゃれ合っている。
「おーたにも来るねッ」
 美樹がはしゃいだ声でわたしに言う。ええーーー? と秋奈ちゃんが声を上げる。
「美樹、おーたにのこと好きなの?」
「あたしじゃないよ、早紀ちゃんだよ」
 ええええええーーーーーー?
「声がでかい、秋奈ちゃん」
 美樹が笑いながら手で秋奈ちゃんの口を塞ぐ。わたしが驚くタイミングだったのにな。
「なんでわたしが」
 一応否定する。美樹はうふふふふ、と気味悪く笑う。
「早紀ちゃん、おーたにのことだけ、大谷くんって、くん付けするじゃない。いっつも見てるし。わっかりっやすーい!」
「ちぇ。ばれてたか」
 へえええ、と言いながら秋奈ちゃんが大谷くんを見てる。何をしてるのか、大谷くんは井端とじゃんけんをしてピョンピョン飛んでいる。ピョンピョンケンジ。
「ちょっと、あんまりあっち見ないでよ」
 そう言って秋奈ちゃんと、ピョンピョンケンジたちの間に立ちはだかる。
「そういえば大谷くん、って呼ぶね、早紀ちゃん。全然気付かなかったよ。なるほど、そういうことなんだ」
 わたしより少し背の低い秋奈ちゃんが、すぐそこでわたしの目をのぞき込む。軽く見下ろす形になって、わたしはちょっと、目をそらした。
「好き、だよ。うん。でも言っちゃダメだから。絶対言わないで」
「言わないよお。あたしたち、応援するからね」
 美樹ちゃんが笑って言ってくれる。秋奈ちゃんもうなずいてる。応援、て何してくれるんだろ。できたら何もしないで欲しいけど。
 ふ、と振り返って男子たちを見た。
 井端の後ろで、大谷くんがわたしを見ていた。
 あ、目が合ってる。
「ケンジ!」
 教室の外から彼を呼ぶ声がした。大谷くんのお兄ちゃんだ。ラグビー部の元主将で、いかつい大谷兄。がっちり。兄弟とは思えない。大谷くんは面倒くさそうに、はあ? と返事した。井端がでかいから、大谷くんが小さく見える。実際は大きくも小さくもない、学年で真ん中ぐらいの背なのに。細いから余計小さく見える。
「ケンジ、体操服貸して」
「なんでだよ」
「忘れたからに決まってんだろ。おまえ持ってるだろーが。貸せよ」
「忘れんなよな。ていうか俺のじゃ小さいだろ。ユニフォーム着とけ」
「バカ言うな。蹴られるわ」
「しょーがねえなあ。最近忘れ物多いぞ」
 井端から離れて体操服の入った袋を出し、教室の外に歩く。背も横幅も大きいお兄ちゃんに向かう大谷くんは、ますます細くて華奢に見えた。
「やっぱ、ずうーーーっと見てるねえ」
 秋奈ちゃんがいひひひひ、と笑う。
「まあ、おーたにって確かに目を引くけどねえ。顔ちっちゃくてスタイルいいし。顔は猿っぽいけど。そんで、なんか優しい」
「そうそう。すっごく優しいわけじゃないんだけど、なんとなく優しい。口は悪いのに」
 美樹も秋奈ちゃんも、大谷くんトークを始めてしまった。わたしだけの大谷くんには、やっぱりほど遠い。

「あした、うちでテスト勉強しようよ」
 秋奈ちゃんが帰りにそう言った。美樹は、いいよー、と軽く返事して手を振った。方角が同じわたしと秋奈ちゃんで、いつもの通学路を帰る。
「ねえ、気付いた?」
 二人きりだということを確認するように周りを見回して、秋奈ちゃんが小声で言った。その声色がいつもより暗くて、わたしは思わず足を止めてしまう。秋奈ちゃんがわたしの脇に手を入れて、歩くようにうながす。その目が笑っていないことに気付いて、今度は少し早足になる。
「美樹の足におっきいアザがあった」
 秋奈ちゃんの歩幅は小さい。わたしは一瞬足を止め、それから秋奈ちゃんに合わせて歩き始めた。
「気付かなかったけど、どこに?」
 わたしが答えると、秋奈ちゃんは歩きながら左のふくらはぎを指した。
「すごいおっきかった。あれ、自然にできるアザじゃないよ。ハイソックスで隠してたけど、わたし見ちゃった」
 思い出そうとした。見たとしたら体育のときだろうけど、全然記憶になかった。わたしがそう言うと、秋奈ちゃんはうつむいて、そう、と言った。
 しばらく何も言わないので、居心地が悪い。何かよくないことを話そうとしてるんだろうなと思う。美樹についてのよくないこと。足のアザに関すること。
 そう考えただけで、とてもいやな感じがした。秋奈ちゃんの口から出た言葉は、それを裏切ってはくれなかった。
「美樹、三年にいじめられてるんだと思う」
「え」
「ほんとに全然知らないの?」
 今度は秋奈ちゃんが足を止めた。
「知らない。三年って、だれ?」
 秋奈ちゃんを見つめて、わたしは答えた。秋奈ちゃんは、ふう、と息を吐いて、またゆっくりと歩き出した。
「わたしも名前までは知らない。でも派手な人たち、いるじゃない。どこでやられてるのかわからないけど、一回美樹に向かって四人ぐらいで、今日は逃げんなよ、って言ってるの見ちゃった。美樹は聞こえないふりしてたけど、あれは絶対美樹に言ってたと思う」
 意味がわからない。美樹が三年にいじめられる理由がない。なんで美樹が?
 わたしは混乱して言葉が出なかった。そんなわたしに、秋奈ちゃんは噂だけど、と前置きして、いっそう小声で話し始めた。
「美樹、おーたに兄と付き合ってるって。そんで一緒に歩いてるの見られて、生意気だって呼び出されて、それかららしい。現場見た人はいないけど、その三年が美樹にいろいろ言ってるところを見たのはわたしだけじゃないみたい」
 ちょっと待って。大谷兄と美樹が付き合ってるって?
「それ、本当?」
 秋奈ちゃんは首を振った。
「だから噂。モエから聞いた。今日もおーたに兄、うちの教室に来てたでしょ。最近よく来ると思わない? 美樹だってさあ」
 そこで言葉を切って、秋奈ちゃんはゆっくり言った。
「ちょっと、人が、かわった」
 そして言葉はスピードを戻す。
「何かあったのは間違いないの」
 すぐには何も言えなかった。でも秋奈ちゃんはいったん話し終えた顔をしている。だからわたしは、いちばん最後に聞いたことから処理していくことにした。
「美樹、どんなふうに変わった?」
 秋奈ちゃんはわたしを見て、久しぶりに笑顔になった。
「別に、いやな感じに変わったって言ったんじゃないよ。なんか、大人っぽくなったと思わない? もともと子供っぽかったわけじゃないし、うまく言えないけど、なんとなくね。わたしたちとはちょっと違うっていうか。思わない?」
 美樹はもともと大人っぽい。わたしはそう思ってた。でも出会った四月にどうだったかと言われたら、どうにも思い出せない。
「まあ、そう言われればそうかな」
「そう言われればじゃないよ。はっきり、変わったよ」
 秋奈ちゃんはそう言って、あはは、と笑った。
「取り越し苦労かなあ。もしおーたに兄とほんとに付き合ってるんだったら、いじめられて放置しとくわけないもんねえ。自分の彼女いじめられてんの、気付かないかな?」
 たしかに。わたしもそんな気がしてきた。秋奈ちゃんが気付くようなアザを、彼氏である大谷兄が見過ごすはずがない。きっとどうしたんだって聞くだろうし、美樹も助けを求めるに違いない。
「やっぱ、不自然だよ、その噂」
「そうだよねえ。明日美樹本人に聞こうかなと思ったんだけど、やめとこうか。違ったら恥ずかしいし、すごい失礼だもんね」
 秋奈ちゃんはスッキリした顔をして、そう言った。わたしも美樹に、いじめられてるんじゃないの? なんて聞けない。うなずいて、微笑んだ。
「ところでさあ、早紀ちゃんおーたにのこと好きだったんだね」
 さっきまでの顔とは全然違う、いたずらっぽい目をして秋奈ちゃんがわたしの腕をつかむ。
「ちょっとショック。うちのお兄ちゃん、早紀ちゃんのこと気に入ってたからさあ」
「なんでよ、本貸してくれただけじゃん」
「本が好きって聞いたからって、妹の友達に貸す? まあうちの兄ちゃんはおーたにに比べたらダサイし、キモイし、しかたないよねえ」
 秋奈ちゃんが道路側の手でカバンを振り回す。ぐるぐるぐるぐる。だれか通ったら危ないくらい。わたしは慌てて否定する。
「そんなことないよ、めっちゃ頭いいじゃん。わたしなんか、今日井端にマジな顔しておまえバカだろ、って言われたんだから」
「うーん」
 秋奈ちゃんは困ったような顔をしてわたしを見た。振り回していた手が止まって、カバンだけが胸の辺りまでふわ、っと浮いた。
「うらやましいな」
 困った顔のままで笑ってる。前髪を上げたおでこにエクボみたいなへっこみができて、かわいいなあと思う。秋奈ちゃんは色が白いからおでこのキワで産毛が揺れるのが見えて、ちいさい子みたいな顔になる。
「うらやましい」
 もう一度ちいさい子の顔でそう言って、秋奈ちゃんはわたしの腕をひじで突いた。
「井端の隣の席、いいよね」
 なーんだ。クリパ招待状の名前見てドキッとしたの、わたしだけじゃなかったんだ。

 次の日、本を返そうと持って行ったのに、秋奈ちゃんのお兄ちゃんは、いなかった。本は秋奈ちゃんに返した。感想も何も言わず、ありがとうって言っといて。とだけ。お兄ちゃんの感想を聞いてみたかった。恋人に名前をつけるところ、やっぱりいいなと思ったかな。秋奈ちゃんのお兄ちゃんには、恋人がいるんだろうか。昨日の秋奈ちゃんの言いかただと、いないのかも。中学の時は、どうだったんだろう。
 美樹が来て、わたしと秋奈ちゃんは顔を見合わせた。アザを確認しようと思ったけど、ジーンズをはいていて、ふくらはぎは隠れていた。
 一応教科書を持ってきたんだよ、開けてみようよ、と言った美樹には全然暗いところがなくて、やっぱり取り越し苦労だった、と安心した。だけどポニーテールの横顔をふ、と見ると、いつも見てるのと同じなのに大人っぽさが格段に違うような気がして、それは私服だからかもしれないけど、たしかに人がかわったような気持ちになって、ドキドキした。
 そうか、と思い出す。テストが終わったらクリスマスパーティ。制服じゃない大谷くんが来る。そうだ、わたしも何着て行くか考えなきゃ。どうしよ。
 結局しゃべってばっかりで、勉強なんか手につかなかった。美樹は明るくて、いじめられてるなんてあり得ないと思う。わたしはそれより、美樹の大人っぽさと大谷兄とつきあってる、っていう噂のほうが結びついて、バイバイと言うまで美樹を見るとドキドキしてしまった。

 楽しみなことがあると、時間の経つのがすごく遅い。家でも勉強はさっぱり手につかず、当たり前だけどテストはボロボロ。最初に返ってきたのは数学だった。井端に点数を見られて、「おまえって、マジで終わってんな」と言われた。マジで終わってるわたしは言い返せず、精一杯にらみつけるだけだった。
 数学のテスト返しのあと、さすがに美樹や秋奈ちゃんにも点数を言えなかった。秋奈ちゃんが「最悪。六十点取っちゃった。怒られるかも」と言ったけど、わたしの倍もある。
 テストが終わったあとの学校は一週間しかないはずなのに、その一週間がすごく長い。全部の教科、井端より点数が下だった。国語だけが同じくらいで、あとはずっと下。うんと下。井端はテストが帰ってくるたびに鼻で笑ってバカにしてたけど、そのうちかわいそうな子を見るような目でわたしを見るようになった。そのほうが腹立つ。
 井端がみんなにわたしのバカさを言いふらすんじゃないかとヒヤヒヤしたけど、案外思いやりがあるのか、誰にも言ってないらしい。数学の点数聞いたらヨッシーあたりがからかいに来るはずだけど、点数のからかいは、ない。ただ一度、何人かでしゃべってるときに井端が「桜井は数学がいちばん苦手だもんな」と言ってニヤニヤした顔でわたしを見たことがあった。「うるさい」と返すと、ヨッシーが調子よく「何だってぇ? 今回の数学は簡単だったぜぇ」と、お笑い芸人の真似をした。
「俺も数学悪かったぁ」
 そう言ったのは大谷くんだった。
「臼谷、何言ってんのかわかんねえ。証明とか、意味わからん」
 わたしも意味わからん! 一緒、一緒! と言いたかったけど、すぐに井端が「いやケンジはわからんって言いながら、そこそこできるじゃん」と、またニヤニヤしてわたしを見たので言えなかった。早く話題を変えないとヤバいな、と思ったら美樹が「うわ、ヨッシー、チャック開いてる」と言ってくれたので、すぐにみんなヨッシーをからかうモードに入って助かった。
 チャイムが鳴って席に戻るとき、大谷くんがわたしのすぐとなりで、
「桜井、こんど一緒に勉強しよっか」
 と言った。
「いいね、それ」
 わたしはもっと、わあい、やったー、するする! と喜びたかったけど、グッと我慢してクールに返した。
「一緒に井端に教えてもらお。あいつ、レギュラーなのに頭もいいんだよな。すげえ」
 なんだ、二人っきりじゃないんだな。と落胆は見せず、にっこり笑ってうなずいた。
「そうしよ。次に点取らないとヤバいから、ほんと」
「だよなー。ま、がんばろーぜ」
 そう言って自分の席に戻る大谷くんに、小さく手を振った。大谷くんも右手をす、っと上げてくれる。
 席に戻ると井端はもう座っていて、早く座れバカ、と言われた。そんな井端にも笑顔を向けて、はい、井端センセイ、と言って座ると、井端は口を開けてしばらくわたしの顔を見ていた。

 クリスマスパーティの前日、女子だけで秋奈ちゃんちに集まって作戦会議をした。わたしは大谷くんのために、秋奈ちゃんは井端のために、精一杯のおしゃれをしていこうという会議。美樹には好きな人がいないのか、と秋奈ちゃんとわたしで問いつめたけど、美樹は首を振るだけだった。
「あたし、同級生なんか興味ないから」
 それを聞いて、わたしと秋奈ちゃんは思わず顔を見合わせた。
「おーたに兄とつきあってるって、ほんと?」
 秋奈ちゃんが直球を投げた。美樹の表情が、すっと変わる。否定するにしても肯定するにしても笑ってくれると思ってたのに、美樹の顔はこわばって動かない。その動かない顔のまま、口を開く。
「なんで知ってるの?」
 その声も暗い。部屋の空気が突然重くなって、わたしは首を縮める。早く換気して、と祈るように見るけれど、秋奈ちゃんは固まったままで瞬きもしない。
「もしかして、みんな知ってる?」
 重い空気を壊さない声の大きさで、美樹が聞く。わたしは首を振った。
「そんなに知らないと思う。うん、大丈夫」
「そう」
 しーん、とする。空気、動かないかな。そう思っても、どうしても体を大きく動かせない。重さは見えないけど、ずっとそこにある。
「うん、つきあってる」
 しばらくしてから、美樹がそう言った。いいことなのに、わたしも秋奈ちゃんも笑ってあげられない。美樹が笑わないから。どうして。急に泣きたくなってきた。好きな人とつきあってるんじゃないの? それを友達のわたしたちに話すときって、もっと楽しいんじゃないの? わたし、大谷くんの話をするだけで楽しいよ。それって子供だから? 美樹は人がかわって大人になって、そしたらこんな顔して恋人の話をするもんなの?
 そうでないことはわかっていた。もうひとつの噂のほうが、どんどん現実味を帯びてわたしたちの前に、重力にひきずられて下りてきた。わたしと秋奈ちゃんは、やっとそれを直視した。重い部屋には、なんでも溜まる。
「美樹、いじめられてること、なんでおーたに兄に言えないの?」
 秋奈ちゃんが重さを破るように、突然強い口調で言った。
「三年の女子にいじめられてるの、わたし嘘だと思ってたけど、ほんとなんでしょ? おーたに兄は知らないの? そんなのってある? そんなこと言えない恋人ってある?」
 そう言いきってから、秋奈ちゃんの目からぶわ、っと涙があふれた。
「ていうかさ、なんでわたしたちにも言わないわけ? 美樹の考えてることわかんない。何なのそれ。大人ぶって、ガキには言えないの? なんにも言わないで、ひとりで悩んで、楽しいわけ?」
 美樹は表情を変えずに秋奈ちゃんを見ていて、そのまま唇だけ動かした。
「楽しいわけ、ない」
 また唇を結ぶ。秋奈ちゃんは泣きながらわたしに抱きついた。ちいさい子みたいな秋奈ちゃんを抱きしめながら、美樹を見た。美樹ひとりが、わたしたちとは違っていた。
「言えないよ。だってあと三ヶ月我慢すれば終わるんだから。あの人に言ったらもっともめるし。秋奈ちゃんに言ったらこうやって泣くし」
 美樹が全然表情を動かさずに、そう言った。
「でも、ごめん。言えばよかったね」
 言葉はそう言っているけど、美樹が本当にそう考えているとは思えなかった。わたしは大きく首を振った。
「こっちこそ、ごめん。もっと早く気付かなきゃいけなかったんだ」
 すると美樹が、ふわ、っと笑った。想像していなかった表情だったから、つい秋奈ちゃんの髪に手をひっかけてしまった。秋奈ちゃんが、いてて、と言って顔を上げた。
「ほんとにあたし、大丈夫なんだよ。あの人優しいし。結局三年のやつら、あたしのことうらやましくっていじめてるんだし。何やったって、あの人が好きなのはあたしなんだし、負け犬の遠吠えって感じ。そう思ったら全然大丈夫。もうちょっとくらい我慢できる」
 わたしにはまったく想像できない。そんなふうに思えるものかな。美樹は無理して強がっている。でも、と思い直す。でも美樹はこの中でひとり、大人なんだ。もしかしたら大人になったら、こんなふうに思えるのかもしれない。本当に大丈夫なのかも。我慢できるのかも。その可能性をわたしは消し切れない。だから「無理しないで、おーたに兄に言ったほうがいい」とか「先生に言わなきゃだめだよ」とか、そういう当たり前のことを言えない。そんなこと言うガキとはつきあってられない、なんて思われたらいやだ。
 秋奈ちゃんも同じことを考えたのか、それ以上何も言わなかった。学校では美樹をひとりにしないから、と言うのがやっとだった。
「ところで付き合ってること、おーたには知ってる?」
 涙を拭いて、落ち着いて、部屋の重さがどこにもなくなってから、秋奈ちゃんが聞いた。美樹はもう顔をこわばらせない。自然に首を振っている。
「知らないはず。あいつにだけは知られたくない、ってあの人が言うから。でもまあ、時間の問題なんだけどね」
 それから、わたしたちは美樹を質問攻めにした。いつから? どっちから告白したの? デートは何回した? どういうところが好き?
「あ、最後にひとつだけ教えて。ほんとに最後だから」
 わたしは困った顔をし始めた美樹に聞く。
「なんて呼び合ってるの?」
 美樹が、目を丸くしてわたしを見つめた。想像した質問とは違ったのかもしれない。わたしは、それはもう真剣に見つめ返した。
「むこうは、美樹、っていう。あたしは」
 清水さん、から美樹になった。おーたに兄、から?
「コウスケくん」
 わたしたちのまわりで大谷くんのお兄ちゃんをコウスケくん、って呼ぶ人はいない。少なくとも狭い学校の中では、大谷兄は美樹だけの人なんだ。
「違う人のことみたい。それってなんか、うらやましい」
 秋奈ちゃんもそう言った。美樹は、気のせいかもしれないけど優越感みたいなものを浮かべている。わたしなんか、みんなと同じ呼びかたすらできないのに、とじっさい敗北感を感じてしまう。
「早紀ちゃん、おーたにの好きな人、聞いといてもらおうか?」
 美樹が言う。あたしはそういうこと聞けちゃう特別な人間なんだよ、みたいな響きがあって、ちょっと気に入らない。わたしは首を振った。
「聞いたらそこで何もかも終わりそうだから、いい」
「そうだよ、美樹と違ってわたしらは、片思いを楽しんでるんだから。ねえ?」
 秋奈ちゃんがわたしの腕に腕をからめる。たしかにわたしは楽しいだけで、なんにもつらいことがない。それが悪いことのような気がする。もっと違う気持ちが生まれることが、大人になるってことなのかもしれない。今まで読んだ小説の恋には、複雑な感情ばかり出てきた。わたしは言葉でしかそれを理解できない。わたしはガキで、だから何もわからない。大谷くんが自分だけのものになればいいなと考えるとき、具体的な像を結ばない。人が自分だけのものになるってことが、ほんとうにはわかっていない。大人にはわかるはずだ。美樹にはわかっているはずなんだ。だから痛みもやわらぐ。コウスケくん、と人の呼ばない呼びかたで呼んでいるから、いじめられても平気でいられる。笑っていられるんだ。
 そのあと、どうしても美樹の意見を尊重する形で、わたしたちのオシャレ対策は進んだ。今年の流行りは何だとか、丸顔にはこの髪型が似合う、とかを持ち寄った雑誌やマンガを参考にして、ああだこうだと話し合った。
 理想の洋服や髪型があっても、わたしたちは少ないお小遣いをやりくりしている中学生で、服を買いに行くこともできないし美容院にも行けない。せいぜいドライヤーとホットカーラーを駆使して雰囲気を変えるだけだ。
 できる範囲のいろんなことを試して、明日は朝九時に集合しないと間に合わない、という結論に達した。各自候補の服を全部持ってきて、ヘアセットをお互いにやって、似合う服を決める。そしてドラッグストアで買ってきた色付きのリップクリームをつける。
「リップ塗って、キスしたい唇になるのがいい」
 美樹のその言葉に、わたしと秋奈ちゃんはくらくらした。

 相馬の家に着いたとき、まだ男子は井端とヨッシーしか来てなかった。
 井端は長袖にアディダスのカジュアルなTシャツを重ね着。野球部だという期待を裏切らないスポーティ。ヨッシーは真っ黒の長袖Tシャツに黒いスキニージーンズを履いていた。
「まっくろくろすけ」
 秋奈ちゃんが言うと、ヨッシーが「ロックなんだよなあ。わかんないかな、わかんないだろうなあ」と、歌うような調子をつけて答えた。確かにベルトにイボイボがついてて、そのへんがロックなのかもしれなかった。
 秋奈ちゃんの縦ロール、かなりかわいいんだけど。井端の反応を見る。井端は何も言わないけど、絶対気になってるはず。こんなにかわいいのに、気にならないわけがない。おかしいくらい、こっちを見ない。相馬と一緒になってテーブルの上にグラスを置いたり、取り皿を用意している。照れてるんだぜ。
 飾り付けやジュースの用意をしていると、玄関のチャイムが鳴った。
「おいーっす。おじゃましまーす」
 大谷くんの声。わたしはとっさに玄関のほうに背を向けて、準備を続けた。いつもは下ろしてる前髪を上げて、頭のてっぺんで後ろ髪と一緒にまとめている。おかしくないかな。それにニットのワンピース。ちょっとキャラと違いすぎるかも。ジーンズでさっぱりしたほうがよかったんじゃないかな。
「おっすおっす。あと多田だけ?」
 リビングに入ってきた大谷くんを横目で確認。袖にチェックの折り返しがあるシャツに、カーキのチノパン。手にコートを持っている。
「かわいい、おーたに。オシャレ」
 秋奈ちゃんが言う。井端にも何か言えばいいのに。気にしてない相手だと簡単に言えるんだな。
「ありがとさん。花岡も、どうした、その髪型。お嬢様だな」
「似合わねえよなあ」
 井端が言って笑う。
「そんなこと言わなくてもいいでしょ、もう」
 秋奈ちゃんが頬をふくらます。大谷くんがその肩をぽんぽん、と叩いた。
「いばっちは反対語しゃべってんの。似合ってるじゃん」
「おーたに、やさし」
 秋奈ちゃんがそう言いながら、井端をにらみつける。
「はいはい、かわいいかわいい。これでいい?」
 井端が笑って、秋奈ちゃんが小声で「もうあいつ無視だから」って言ったとき、チャイムが鳴って多田が来た。
 ピザと、相馬のお母さんが作ってくれたというポテトサラダと唐揚げをテーブルに乗せたらすっかりパーティになる。井端が玉手箱みたいな箱を上下に振りながら持ってきた。くじ引きで席を決めるという。
 じゃんけんで引く順を決め、一枚ずつ引いていく。開くとテーブルの絵と、座る場所が書いてあった。
「じゃ、みんな自分の場所に移動!」
 井端のかけ声で移動する。あ、と声が出た。わたしはテーブルの端っこで、となりが大谷くんだった。
「なんか、桜井まで女子」
 座って最初に大谷くんが言ったのが、それ。
「え、どういう意味」
 大谷くんが、わたしのすぐとなりで、わたしだけを見る。
「女子がみんな女子っぽくて、なんか変な感じ。落ち着かねえ」
 そう言われると、どんな顔して座ってればいいのかわからなくなる。
「じゃあ、乾杯しまーす」
 ヨッシーの声で、慌てて目の前のコーラを手に取る。そうだ、こういうときは大谷くんのコップに入れてあげるんだ、チャンス、と思ったら、大谷くんは自分でサイダーを入れていた。
「あ、わたしもサイダー」
 もしかしたら、大谷くんがわたしに注いでくれるかもしれない、と思ってそう言ったのに、はい、と言って大きなペットボトルを目の前に置かれてしまった。なんだ、それならコーラのほうがよかったんだけど。
 引くに引けず、自分でサイダーを注ぐ。みんなを待たしている気がして、慌てて少しこぼしてしまった。
「バカの上にドン臭い」
 向かいの席で井端が笑う。
「ドンくせえ」
 大谷くんも唇の端をゆがめて笑ってる。でも笑いながら、紙ナプキンでこぼれたサイダーを拭いてくれた。
「あ、ありがと。ごめん」
 サイダーを入れ終わると、ヨッシーが椅子の上に立ち上がった。
「それではみなさん、待ちに待った冬休みと、キリストの誕生日に乾杯!」
「かんぱーい!」
 ごくり、とサイダーを飲んだら、大谷くんが、
「今日ってキリストの誕生日?」
 と聞いてきた。わたしは首をひねり、
「キリストって何? キリスト教始めた人?」
 と答えた。
 前で井端が、口をポカンと開けて、こちらを見ていた。
 だんだんと大谷くんのとなりにも慣れ、というか、しょっちゅう井端やヨッシーがわたしをバカにするから学校にいる時と変わらない気がしただけなんだけど、まあまあしゃべることができた。
「なあなあ、小学校の卒アル持ってる?」
 ピザを食べながらヨッシーが、相馬に言った。相馬が、うんあるよ、と返事してサッサと席を立つ。
「すげえ。おれ、母親いなかったらどこに片付けてるか絶対わかんねえわ」
 大谷くんが心底感心した声で言う。そういえば、大谷くんは相馬と同じ小学校だった。
「大谷くんも写ってるんでしょ」
 当たり前のことを聞く。大谷くんも、当たり前の顔でうなずく。でもそのあと、少し笑って、
「今と全然違うから、ちょっと見られるのイヤかも」
 と言った。
「わたしもイヤだあ」
 同じ小学校の秋奈ちゃんも言う。
「お前たいして変わってないだろ」
 大谷くんが秋奈ちゃんを指差す。秋奈ちゃんは首をぶんぶん振っている。今日の姿はいつもと全然違うけどね。
「集合写真で、すっごい変な顔してんの。相馬、見つけられませんように」
 秋奈ちゃんの祈りも虚しく、相馬は大きな卒業アルバムを抱えてリビングに戻って来た。
「三人とも、六年間クラスは別だったんだよ」
 相馬が言って、ページをめくる。近くにいる数人がのぞき込んでいるけど、わたしの席からは遠かったから、すごく見たいけど我慢した。ま、見たいのは大谷くんだけなんだけど。
「おれ、吉川と同じクラスだった。あと三輪も」
 大谷くんがとなりで、何人かのクラスメイトの名前を挙げた。
「やっぱりバスケ部だったの?」
「うん。でもチビだったし、レギュラーじゃなかった」
「へえ。中学入ってから伸びたんだ」
「そう。ま、今もそんな高くはないけど。バスケやったらぐんぐん伸びると思ったのになあ」
「まだ、これから伸びるかもよ」
 伸びなくてもかっこいいけど。と心の中で付け加える。お兄ちゃんみたいにでっかくならなくてもいいよ。
「うわあ、ケンジ子供っぽい!」
 ヨッシーが声を上げる。
「こっちにも回せよ」
 井端が言って、大きなアルバムがバケツリレーみたいに回ってきた。
 井端の手にアルバムが届いて、わたしと大谷くん、それから美樹と多田がのぞきこんだ。もうさっき見てるはず、ていうか自分も持ってるアルバムのはずなのに、秋奈ちゃんが井端のうしろから顔を出した。いいじゃん、その距離。
 わたしも不自然じゃないように気をつけて、大谷くんに出来るだけ近付いた。大谷くんの背中にわたしの肩が触れて、あ、近すぎる、と思ったとき大谷くんが振り向いて、見える? と聞いてくれた。
「よく考えたら、おれ別に見なくていいや」
「大丈夫だよ、ちゃんと見えるから」
 そう、と言って、大谷くんはまたアルバムをのぞきこんだ。しばらくアルバムを見ずに、大谷くんの背中ばっかり見てしまった。
「あ、これおーたに」
 秋奈ちゃんが色の白い男の子を指差す。たしかに大谷くんの顔。でも笑顔が可愛らしすぎる。写真の中の男の子は、目がくりくりして、顔中でまっすぐカメラのほうを見ながら笑ってる。わたしの知ってる大谷くんは、ちょっと唇をゆがめてうつむき加減に笑うことが多い。写真の男の子は顔が丸い。大谷くんはもう少し面長だ。
 ヨッシーが言ったセリフを井端が繰り返した。
「ケンジ、子供っぽ!」
「違う人みたいじゃん」
「うっせえ、うっせえ。相馬、なんで持ってきたんだよ」
 そのあと秋奈ちゃんと相馬のページも見たけれど、二人はそんなに変わってなかった。ちょっと時間をさかのぼれば、こんな小学生になります、って感じ。秋奈ちゃんがイヤがっていた集合写真も、気にしてるのは本人だけで、全然おかしな顔なんかしてなかった。
「なんでケンジ、こんな変わったん? なんか、色まで黒くなってない? 室内競技なのに、へんなの」
 井端がおもしろくってしょうがない、っていう顔でそう言う。すると大谷くんは、少し真剣な顔をしてこう言った。
「人がわり、だよ」
 しん、とした。
「え、これケンジじゃないの?」
 ヨッシーが珍しく、真面目なトーンで聞く。すると大谷くんは笑い出した。やっぱりうつむき加減で。
「おれだし。そういう意味じゃないし」
「どういうこと?」
 ど、っと数人が笑った。
「びっくりするじゃん、人がわりっていうから、人間が変わったんだと思った」
「ほんと、なんなの、人がわりって」
 すると大谷くんは驚いた顔でみんなを見回した。
「え、言わない? うちだけ?」
「言わなーい!」
「で、何のことなんだよ」
 大谷くんは、うわあ、と言ってから、説明した。
「母親が、おれも兄貴も『人がわりがちょうど六年生の終わりで、かわいそうね』ってよく言うんだよ。声がわりみたいに、成長の中で見た目が変わることだと思ってたんだけど、そっか、普通は言わないのか」
 兄貴、というところで美樹をチラッと見てしまった。美樹が気付いて、素早く首を振る。
「母親は、みんなこのくらい人がわりするって言うぞ。おれたちは変わり目の、ぜったい残るような写真を撮る時期に人がわりするから、他の人よりも急に変わったみたいに思うだけだって」
「そう言われれば、もっと昔の写真とかだとオレも今とは違うからなあ」
 井端はそう言ったけど、ヨッシーは大きく首を横に振っている。
「言ってることはわかる。でもおれはこんなに変わってはいない」
「おまえはまだ成長しきってないんだよ」
 大谷くんがツッこむ。ツッこんでから、
「女の人がわりは、もっと後に来るってさ」
 と言った。男子たちがうんうん、とうなずく。
「わかるわかる。おれのねーちゃん、高校入ったら急に変わったもん。学校行くのに化粧なんかして、朝とかすげー早起きしてシャワー入ってさ。それまで顔も洗わなかったくせにな」
「だよなあ。近所の高校生も、ちっちゃい頃よく一緒に遊んだ癖に、最近会ってもツンとしてんの。見た目も変わったけど、中身もほんと、人がわりした」
 ヨッシーがそう言うと、井端が、ああ、と声を上げた。
「人がわりってあんまりピンとこなかったけど、そういうことかあ。女のほうがわかりやすい」
「おまえらもけっこう、人がわりしそうだな。ていうか、今日すでに」
 大谷くんが、わたしのほうを見る。わたしの、どこを見ているのか。中身にまで届くような視線で、思わずわたしは体をよじってそれをかわす。人がわりできないわたしを見られたくない。視界に美樹が入る。人がわりは、美樹のことだ。見た目は変わっていなくても、人がわりは起こる。わたしにもそれが起こるのか。ほんとうにだれにでもそのときが来るのか。考えながら、ほっぺたのあたりに視線を感じ続けていた。
「人がわり、したほうがいいの、しないほうがいいの」
 わたしは大谷くんを見ないようにしながら、そう聞いた。
 他の人たちは、また卒業アルバムに戻って、何組の誰だとか、この頃はおとなしかったのに不良グループに入ったとか、そういうことを話しているようだった。なんだかそんな話し声が、遠くでしているみたいに聞こえていた。
 大谷くんの声は、すぐそこで聞こえる。
「おれもしたから、みんなしたほうがいい」
 大谷くんを見る。目が合った。ああ、目が合ってるなあ、と嬉しくなって、それからすぐに恥ずかしくなった。でも目をそらせない。
「どうして」
 やっと声を出す。大谷くんも目をそらさずに答えた。
「ひとりだけ変わったって言われるのは、イヤじゃない?」
 ねえ、人がわりして、何がいちばん変わったの? 変わったってことが、自分でもわかるの?
 わたしには見つめ合ったままで聞きたいことがあった。いっぱいあった。ねえ、わたしの人がわりはいつ来るんだろう。それが来たら美樹みたいに大人になって、大谷くんのことをわたしだけの呼びかたで呼べて、「わたしだけの大谷くん」を手に入れることができるんだろうか。そしたらいじめられても平気で笑えて、友達や恋人の助けもいらなくなるんだろうか。大谷くんもそうなの?  大谷くんには君の気持ちがわかる?
 でも、ヨッシーがわたしたちの間に割り込んできたのだった。
「ケンジと桜井、いい感じじゃーん」
 みんなの声が急に近くでする。おいおい、ふたりの世界に入ってんのかー? やっぱクリスマスですねえ。その他笑い声。
「なにそれ。違うし」
 わたしが先に言ってしまった。大谷くんもすぐ、なんで桜井と、と否定する。わたしは本心じゃないけど、大谷くんは本心なんだろうなあ、と思うとヨッシーが憎い。せめて勘違いして見つめ合っていたかった。
 そのあと人生ゲームをして、プレゼント交換をしてお開きになった。もう大谷くんと二人でしゃべる機会は訪れなかった。プレゼントは井端の持ってきた、ハンドタオル二枚、だった。ハンドタオルもアディダス。さすが野球部。

 帰りぎわ、ヨッシーが「みんなで初詣行こう」と言った。近所の神社には小さな山があって、地域の人は大晦日の夜そこに登るのが慣習になっている。わたしも毎年、家族と登っていた。
「楽しそう」
 秋奈ちゃんが嬉しそうに言った。
「でも、親がいいって言うかどうか、わかんない。夜だし」
「じゃあ、行ける人だけでも、ってことで」
 バイバイ、と言って別れた。
 家に帰ると、お母さんが相馬の家に電話して、帰宅していたご両親にお礼を言っていた。まだ子供。わたしはそう実感して、大晦日に外出してもいいかどうか、聞けなかった。
 次の日おそるおそる聞いてみると、意外にもいいよ、という返事だった。大晦日の神社は夜じゅう明るくて人がいっぱいいるから、初詣して帰るだけならいいらしい。そのかわり寄り道と誰かの家に行くのはダメ、と言われた。クリスマスパーティでちゃんと門限に帰ったことと、相馬のお母さんが「わたしたちが帰ったら片付けてあったので驚いた」と言ってくれたことが大きい。遊び相手がちゃんとしてると言って、お父さんも安心したようだ。秋奈ちゃんと美樹のことはよく知ってるし。
 部屋でひとり、ガッツポーズした。
「大晦日に会えるな、早紀」
 大谷くんの口真似をする。まるで声がわり前の高い声は、人がわり前のかわいい顔を思い出させる。あの顔でこんな声で言われても、あんまり嬉しくないかも。早紀、っていうのが嘘っぽい。そもそも嘘なんだけど。
「早く会いたいよ、桜井」
 ちょっと譲歩。でも全然だめだ。どうせ嘘だし自分で自分をだますの難しい。何やってんだか。

 大晦日。なんと美樹は、大谷くんのお兄ちゃんとデートするらしい。親にはわたしたちと一緒に行くって言ってるという。バレなきゃいいけど。親にもだけど、三年の女子とかに。美樹がどんなことをされるのか、想像つかない。本当に美樹は大丈夫なんだろうか。やっぱり口だけじゃないんだろうか。でも人がわりしていないわたしには、人がわりした人の本当の気持ちがわからない。大谷兄とデートできたら、何もこわくないのかもしれない。だからわたしにできることは、今日のデートが親にもだれにもバレないように、神社で祈ることだけだ。
 秋奈ちゃんのお母さんは、わたしのお母さんと電話で相談して、OKを出した。男子は相馬と多田くんが家族旅行でいなくて、ヨッシーと井端と大谷くんが来た。
 今日は小さいながらも山だし斜面だし、ジーンズとスニーカーにした。秋奈ちゃんもスキニーパンツにポニーテールでさっぱりしている。自分たちでもこのほうが落ち着く。
「じゃ、行こうか」
 集合場所の駅から歩く。午後十一時、参道へ向かって人の列が伸びていて、その流れに乗らないと歩くこともできない。わたしは秋奈ちゃんと手をつないだ。目で大谷くんを追いかける。
「こんなに多かったっけ」
 秋奈ちゃんが言うから、わたしは首を振った。
「なんか、毎年多くなってる気がする」
「はぐれないようにしなくちゃね」
 井端が大きいから、見失うことはない。でも男子はわたしたちに構わず歩いていて、少しずつ距離が離れていった。
「井端の腕、つかんじゃえば」
 わたしが秋奈ちゃんに提案した。この人ごみなら自然に見える、と思ったのに、秋奈ちゃんが猛烈に首を横に振った。
「そんなことできないよ。早紀ちゃんこそ、おーたににくっついて歩きなよ。こないだも、なんかいい感じだったんだし」
 大谷くんの腕に自分の腕を絡めるところを想像する。ああ、無理無理。できっこない。
「今ごろ、美樹は腕組んでるよ、ぜったい」
 秋奈ちゃんが低い声で言う。どこに出掛けたのだろう。夜中にふたりで一緒にいて、もしかして。
「ねえ、美樹って、キスより先のことするのかな」
 わたしが言うと秋奈ちゃんがギョッとした顔をこちらに向けた。
「やっぱり早紀ちゃんもそう思う?」
 それからふたりとも、うつむいてしまってそれ以上話ができなかった。自分たちの現実と、それはあまりにかけ離れていた。
 しばらくして、秋奈ちゃんが口を開いた。
「すでにそういうことしたから、美樹は人がわりしたのかも」
 秋奈ちゃんを見た。秋奈ちゃんはうつむいたまま唇をぎゅっと結んでいた。
 わたしは返事できなかった。もしそうだとしたら、ますます美樹の考えてることなんか想像できない。本当にいじめなんかどうでもよくなって、三年の女子を見下して我慢してられるのかもしれない。わたしたちが美樹のことを心配することすらバカらしいんじゃないかと思う。美樹の見ている世界と、わたしたちの見ている世界は、全然、まったく、まるっきり、違うのだとしか思えない。
「あ、どこ行ったんだろ」
 秋奈ちゃんが首を伸ばして、きょろきょろする。わたしたちがうつむいている間に、男子たちが見えなくなってしまった。
「ああ、あそこ。やっぱり井端、でかくてよくわかる」
 秋奈ちゃんが差すのは、もう神社に着くところにある、うどん屋さんの横だった。
「なあ、横道行こうぜ、人多い」
 わたしたちが合流すると、ヨッシーがそう言った。
「ケンジが、てっぺん行って帰ってくる横道知ってるんだって。そっち行こ」
「暗いけど、いい?」
 大谷くんが聞く。わたしはうなずいた。いいに決まってる。
 わたしたちは、そのまま人波を離れた。大谷くんを先頭にして、人けのない道を通って山に入る。電灯が一本もなかった。歩く道と平行して走っている参道から漏れる光と月明かりを頼りに、暗い山を登り始めた。
「うわあ、わくわくするな」
 井端の声がした。うす明かりで、ゴツゴツした顔の陰影がはっきりして、なんだかこわい。見慣れない人みたいに思える。
「わくわくも、ぞくぞくも、するね」
 秋奈ちゃんが言う。
「おまえはオバケのほうがこわがるから安心しろ」
 井端が返す。秋奈ちゃんの返事がない。たぶんむくれているのだろう。
 つないだ手を離せないでいた。人はいなくなったけど、そのかわりに闇がある。あと少しでも参道と離れたら、真っ暗になるんじゃないかと思えた。
「おーたに、なんでこんな道知ってんの?」
 秋奈ちゃんが聞く。こころなしか、秋奈ちゃんがしゃべるとその手がふるえる。
「小学生のころ、よくここにカブト虫取りに来て。親父と歩くのこの道だった」
「おれもカブト取りに来て、ここ通ったのうっすら覚えてるわあ。低学年だったから、はっきり覚えてないけど」
「男子は知ってるんだ。わたし、全然知らなかった」
 わたしが言うと、秋奈ちゃんも、わたしも、と言った。
「ああ、そういえばお参りしてない」
 井端が突然大きな声を出すから、驚いてしまった。ははははは、とみんなで笑う。笑い声がちゃんとみんなのぶんあるか、心配になる。
「さっきより、暗いね」
 秋奈ちゃんの声がして、やはりつないだ手がぶる、っとふるえた。
「この先、もっと暗くなる。でもすぐ明かりのあるところに出るから、大丈夫だし」
 大谷くんの声がする。そろそろ、声しか聞こえない。輪郭だけはわかるけど、離れて歩く男子たちが見えなくなる。
「まっすぐ歩けよ。横に沢がある」
 という大谷くんの声を聞いたかと思うと、わたしの右足が、ずる、と濡れた枯れ葉を踏んだ。
 ずるずるずる。
「きゃあ、早紀ちゃん」
 さっきまでつないでいた手を、秋奈ちゃんが離している。いったいどうして、と思っている間に、自分の体がゆっくり降りていくのがわかった。
「もしかして、桜井落ちてる?」
 大好きな大谷くんの声がする。落ちてる、と言いたいのに、声が出ない。どんどん、どんどん落ちていく。ころころ転がるわけでなく。体はしゃんとまっすぐなままで、濡れた枯れ葉を手でつかみながら、足もとの高さだけがおりていく。
 底が来ない。上を見ても、月があるだけで月の明かりは何も見せてはくれない。どこまでも落ちる。体はどんどん降下し、気温はますます下がり、枯れ葉の感触もだんだん湿り気を増してくる。
「ほんっと、ドンくせえな」
 大谷くんの声。ケンジくんの声。ケンちゃんの。ケンジの。会いたいな。このまま会えなくなるのはイヤだ。
 右のふくらはぎに、何かぶつかった。少し遅れて、強烈な痛みを感じた。何だろう、木の枝かなにかで引っ掻いたのか、それとも「かまいたち」か。「かまいたち」はさっくりとふくらはぎを裂くという。夜の神社にはいかにも「かまいたち」が鎌をかまえて待っていそうじゃないか。この痛みはきっとそうに違いない。ジーンズを履いているのに、その分厚い布の下で血まみれになっている自分のふくらはぎが目に浮かんだ。
 ああ、美樹のふくらはぎ、となぜか見てもいないのに、内出血した美樹の白いふくらはぎを思った。こんなに痛いのに、平気なわけないよね。大人になったって何だって、痛いものは痛いに決まってるよね。
 わたしは座り込んだ。深い深い闇の中で痛みに耐え切れず、体を小さくしてやり過ごそうとした。
 自分のふくらはぎが、じんじんと脈打つのを感じる。蹴られて、殴られて、逃げるなよ、と言われて。たとえ自分だけの呼びかたで呼んでる恋人がいても平気でいられるわけがない。ひとりで打たれて痛い思いをして、それでも笑ってられるとしたらすごく無理してるだけで、全部自分の奥のほうに抱えてるってことじゃないか。耐えられない。わたしは耐えられない。ケンジくんに助けて欲しい。どうして言えないの。美樹、バレて今よりいじめられるのが怖いだけじゃないの? コウスケくん助けて、って言ってみればいいのに。美樹だけのコウスケくんなんだから。それに三年の女子が四人ぐらいなら、わたしと秋奈ちゃんと、ケンジくんと井端でも守れるじゃん。美樹。人がわりしたって痛いものは痛いよね。なんでもっと早くそう思えなかったんだろう。美樹に会ったら、ちゃんと言わなくちゃ。
 ああもう、痛いよ。ケンジくん、助けに来てよ。
 ふ、と、となりに人の気配を感じた。ああ、わたしは谷底で妖怪に食べられてしまうんだ、と目をつむって体を固くさせると、強く腕を引っ張られた。
「早く上がれよ」
 大谷くんの声だった。こわごわ目を開けると、たしかに大谷くんのようなものがすぐ近くにいた。
「すぐ上がれるだろ、このくらい」
 声が先に遠のいて、次に大谷くんのようなものが離れた。そして引っ張られる形で、わたしの体も動いた。
 上がってみると、三歩で元の場所だった。
「バカだなあ、ほんとにバカだなあ」
 井端が笑っている。いや、笑ってるのは井端だけじゃない。みんな笑ってる。ヨッシーも秋奈ちゃんも、大谷くんも笑ってる。
 わたしが黙っていると、だんだん笑い声が小さくなって、しまいには聞こえなくなった。そして、何も見えない月明かりに沿うようにそっと、大谷くんが聞いた。
「桜井、大丈夫?」
 わたしは答えた。
「ケガしたみたい」
 明るい所まで出て、みんなが見守る中ジーンズをめくった。あんなに痛かった右のふくらはぎには二センチほどの擦り傷があるだけで、血が滲んですらいなかった。
「なんともないじゃねえかよ、大げさなんだよ」
 大谷くんが笑いながら悪態をつく。わたしは恥ずかしさを隠すようにジーンスを直して、言った。
「でもすごく痛かったんだよ、ケンジくん」
 しいん、としたあとで、秋奈ちゃんが呟いた。
「人がわりした」
(了)


 

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