「シュウカツ」という言葉がある。
就職活動のことではない。自分の『終焉』を見つめることで、今をよりよく生きるための活動、つまり「終活」だそうだ。
私事で恐縮だがここ二、三年の間に三度も入退院を繰り返し、持病もいくつか持っている身としては、ふと考えてしまう。
まあ、そういう者に限って長生きしたりするのだろうけれど。しかし、実際のところ自分の最期を見つめるとはいっても何をどうすればいいのかよくわからない。
少し前に、エンディングノートなるものが話題に取り上げられたことがあった。
家族、友人へのメッセージや延命治療の有無や葬儀のこと、財産や相続などの項目があり、フォーマットに沿って自由に書いていけるらしい。購入しようかなと思いながら今に至ってしまっているのだが、自分の性格からいって買ったとしても、きっと多分書かないだろうと思う。
残すべき財産などは何もない。家族や友人へのメッセージだなんて恥ずかしくて死んでも書けない。葬儀の規模は残されたものがお金と相談して決めてくれればいい。というより、葬儀代くらいは残しておかねばならないだろう。写真だけは、これを使ってほしい、というのがあるのだが、十年二十年先になればちょっと若すぎる、と言われかねない。
しかし自分の最期といえばやはりまず、葬儀の方法だろうか。最近では海や山への散骨をはじめとした『自然葬』というのが広がり始めているらしい。
海が好きだった人は海に、山を愛した人なら山に散骨してもらいたいと思うのだろう。明確な法規定はなく「節度を持って行われる限り、違法性はない」らしい。でもだからといって何処でもかしこでも撒けばいいというものではない。県によっては散骨を条例で規制しているところもあるそうだ。海でも山でもなく、街に撒いてほしいという人もいるかもしれない。
ご存知だと思うが散骨といっても骨をそのまま撒くのではなく、パウダー状にするらしい。
聞いた話によれば、桜の木の下に自分の場所を確保してそこに遺骨を埋めてもらうという方法もあるとか。もちろん定められた桜の木なのだろうが。少子高齢化や墓地不足、などでお墓を維持できない要因もあるだろう、という記事を読んだ。
死んでまであんたと一緒の墓は嫌、と思っている夫婦だっているかもしれない。
自分がこの世からいなくなってまで居場所の心配をしないといけないなんて、ちょっと考えてしまう。
私なら山がいいな。子どものころからずっと見ている生駒山がいい。ハイキングコースからちょっと外れて、大阪平野の夜景がきれいに見えるところがいい。でも、住み慣れた奈良盆地や大仏殿の見える奈良側も捨てがたい。
話を「終活」に戻そう。
残された家族に迷惑をかけないようにするためにはまず今ある自分の要らないものを処分しておくしかない。いや、要らないものは即捨てられる。厄介なのは要るけれど残しておけばあとあと問題が起きないとも言い切れないもの。たとえば日記や手紙の類だ。そのころ有名人にでもなっていれば、若かりし頃の日記とかいって誰かが本にでもしてくれるかもしれないが、凡人の日記など家族だって見向きもしないだろう。
手紙だってそうだ。誰それとの往復書簡として世に出るか、またはゴミとして捨て去られてしまうか。
それだけならまだいい。読まずに捨ててくれるのならそうしてほしい。けれど、もし読まれたら……それは困る。だからといって棺に入れてほしいとも言えないだろうな。エンディングノートにそのように記しておけば叶えてくれるのだろうか。死んでしまった身としてはわからない。
生きているうちに自分で処分しておくしかない。処分しなければならないような手紙を後生大事に持っていることが、まず非難されそうだが、誰にだってそういうこともあるのではないだろうか。
日記や手紙類はできれば自分の手で燃やしたい。一枚ずつ火をつけて思い出のすべてが炎に包まれ、灰になっていくのをこの目で確かめていたい。
しかし、マンション住まいには無理な望みだ。ベランダで燃やすわけにもいかない。古新聞の回収に出すというのも切ない。シュレッダーにかけて細かくして燃えるゴミの日に出すしかないが、住んでいる自治体はゴミの出し方にうるさくて、大量の同じ種類のゴミは回収してくれないことがあったらしい。毎回、小分けにするしかないのだ。
話が逸れてしまった。これは「断捨離」の分野だ。
小学生のころ、二十一世紀には何歳になっているのかと数えたことがある。四十年、五十年先であってもその日は必ず来る、という楽しみのようなものがあのころはあった。今、リニア新幹線が二〇三〇年や四〇何年に開通すると聞かされてもピンとこない。第一、もうこの世にいないかもしれないのだし。
六十年生きてきた。この先、その半分も生きられないだろう。それなら自分の終わりを最高の形で迎えるために何かしておかなければ、と思う。思うのだけれど、面倒くさい。
とりあえずこれ以上入院しないようにすること。
映画を観たい。温泉に行きたい。孫を抱きたい。せめてもうひとつだけ小説を書いてみたい。などなど、望みは多い。だからその時までガンバル。
日記や手紙は時期が来たら自分で捨てよう。通販で衝動買いした服は誰か貰ってくれるだろうか。やはりこれも寄付なり何なりしてある程度は処分しておこう。拙作の掲載された同人誌は、思い出してもらう縁として残しておこう。延命治療は希望しない。それが必要にならないような逝き方を心がけるつもりだ。
できれば四月の暖かな雨の日に眠るように逝きたいが、こればかりは神のみぞ知る、といったところか。
まあ、そうなればすべてよし……。
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