駿(しゅん)
妊娠して二十週ごろに受けたエコー検査で、胎児がまったく大きくなっていなかった。医師はプローブを私のお腹に当てゆっくりと左右に動かし、時々立ち往生するかのように止めて、「小さいなあ」と呟いた。原因は分からなかったようだ。「もう少し様子を見ましょう。血液を通じて栄養が行き渡ってない可能性があるので、あまり動かないように」と指示があった。一人目を産んだときは出産予定日ぴったりで、母子ともに元気だったので、二人目もとうぜん元気で産まれてくるものだと思っていた。
二十五週、三十週と過ぎていったが、胎児はなかなか大きくなっていかなかった。子どもの名前をそろそろ考えてもいい時期なのに、そんな気分にはなれなかった。医師はしきりに首を傾げた。眉間にしわを寄せて、エコーの画像を食い入るように見る。ついには匙を投げるかのように「万が一の場合、うちでは対応ができません。総合病院で診てもらってください」と言われた。三月初旬のことで、当時私は主人の実家である大垣に住んでいた。
主人の長期にわたる海外出張や、二歳になる長女のことを考え、実家のある盛岡の総合病院に移ることに決めた。決めるひとつに、医療分野で進んでいる東北大学があるところだから、きっと周辺にはいい先生がいるに違いないという安易な発想も手伝った。
実家に移って翌朝のことだった。目が覚めて起き上がろうとした時、かすかにぽんという音が聞こえた。桔梗の花のつぼみが開く音だった。お尻から太ももあたりに何か生温さを感じて掛け布団をめくると、ゼリー状の血液が一面に広がっていた。まったく痛みは無かった。用心しながらそろそろと立ち上がると、下半身にまとわりついた血液が足の先へと流れていった。凍てつくような寒さが襲ってきた。病院へ連絡しなければと思いながらも、風呂場に向かって、血で汚れた下半身をシャワーで洗い流した。
原因がわからないまま、その日に入院ということになって、産科病棟の六人部屋に移された。胎児を子宮に留めておく処置をするため一日二十四時間、点滴につながれていた。三十六週で二〇〇〇gに至っておらず、普通の胎児に比べ一〇〇〇gも少ない。トイレだけは許されたが、絶対安静ということを言われた。私はこんなに元気なのにと思い、一度スタンド式の点滴を動かして廊下を歩いていると、看護師に見つかり注意された。
入院から数日後のある日、腕に点滴が入らなかった。針の位置を変えても入っていかない。その数分後、破水した。長女を産んでいるから、すぐにわかった。三十七週と四日目のことだ。分娩室に連れられ、陣痛を測る検査などを行った。お腹に激痛が走っているのに、医師や助産師は「おかしいですね。お腹のはり、ほとんどみられませんよ」と言う。破水したままこのままの状態では、胎児に万が一のことがあるかもしれないということで、陣痛促進剤を打たれた。さっきまで打っていた点滴とは逆で、早く分娩させる薬なのだ。
三十七週目の深夜、子どもが産まれた。男の子だった。普通より約一ヵ月早い出産だった。体重は二二〇〇gと標準より一〇〇〇gもすくない未熟児だった。
産声が聞こえたと同時に、助産師は赤ん坊をタオルでくるっと巻いて「幸子さん、保育器へ連れていきますね」と分娩室から出て行った。持ち去られていく感じだった。未熟児だから仕方がないと思った。私も弛緩出血と言われる産後の出血がひどい状況で、自分の子を見る間もなかった。それでも安堵感が伝わってきた。
病室に戻ったのは、二時ごろだった。もちろん部屋は真っ暗で、みんな寝ている。しーんとした部屋内で、私はまだ高揚していた。しばらくして産婦人科の主治医が入ってきた。主治医は女性で、美しい人だった。大きな息子さんがいるようには見えなかった。頭が切れ、ひとつひとつの行為にまったく無駄な動きがない。いつもクールで笑顔はいっさい見せなかった。周りの女性患者の憧れの存在だった。彼女がそばに来て「お子さんに、心雑音が聞こえます。小児科の先生から、今日話しがあると思います」と私の肩に手をそっと当てて、クールな表情を崩さず、静かに退室していった。もうすこし温かさもあってもいいかなと思ったけど、彼女だったからこそ、かろうじて子どもの命を救ってくれたのかもしれない。
一睡もできなかった。心臓にどんな障害があるのだろう。いろんな事を考えると、涙がでてくる。子どもに名前を付けなければならないにしても、この子の命は一体いつまであるのだろうか。日勤の看護師たちが検温や朝食を運んでくる際に「産んじゃったんだって」「良かったわねぇ」と笑顔で声を掛けられた。心雑音のことは、まだ知らされてはいなかったようだ。私が返答に戸惑っていると、彼女たちは怪訝な表情をした。そして、すぐ察したようだった。
夕方、病室の隣にあるナースの詰所に呼ばれた。詰所という部屋は病室からもガラス越しに見えるところで、看護師たちがすぐこちらに飛んでいけるようにと配置されている。多くの聴診器やファイルが雑然と置かれていて、看護師たちの動きがよく見えていた。ときおり深夜勤の看護師たちがお菓子をつまんでいる様子も窺えた。コアラのマーチを食べていたでしょ、と言うと、あら、見てたの、と「気をつけなくちゃね」と手を口にした。詰所とはそんな部屋なのだ。
詰所に入ると、ちょうど小児科の先生が外来から戻ってきたところだった。急いで来たと見えて、彼は肩を上下にゆらしていた。熊のぬいぐるみのような風貌で、やさしい目をしていた。山下という名の循環器専門の主治医だった。「こんな時間になってごめんなさいね」どうぞ、と椅子を引いてくれて先生の隣の椅子にすわった。
山下先生は静かな話し方で「お子さんは、ファロー四徴症という先天性の心臓疾患です」と言った。はじめて聞く病名だった。一万人に一人といわれている難病である。私が不安な顔をしていると、先生は「けれど、手術をすれば治ります」と付け加えた。心臓の図が書かれたプリントを手にして、詳しく説明してくれた。私は、はいはいと答えていたが、ぼうっとしてなかなか頭に入っていかない。それでも彼は丁寧に疾患のある箇所を赤いペンでなぞりながら話してくれた。肺動脈狭窄、心室中隔欠損、大動脈騎乗、右心室肥大の四つが同時に起こる症状で、心奇形のひとつである。
先生はひと通りファロー四徴症の説明をし終え「問題は輸血です。近年、C型肝炎などの後遺症を発症する症例が多く見られますので、無輸血で手術を行った方が良いと考えます。無輸血で手術をするには体重が十三キロになるのを待たなければなりません。しかし四歳くらいまでに手術ができないと、命を続けることは難しいと思います」
彼は口を一文字にして「今は、綱渡りをしている状態で、どちらにしても危険です」
私はありがとうございますと言って、病室へ戻った。医師の「治ります」の一言を聞くまでは、子どもに会うのが、正直こわかった。でも、心に余裕が持てたような気がした。
会いに行こうと病室のドアを開けた。廊下沿いの面会ガラスの向こう側には、多くの元気な赤ん坊が一人ひとり小さなベッドに収められていた。自分の子がそこにはいないことは知っていた。奥に隣接されてあるNICU(赤ん坊の集中治療室)の部屋に向かった。部屋の前にあるロッカーから、消毒された真っ白いエプロンと帽子、使い捨てのマスクを身に付けて引き戸のドアを開けた。機械が呼吸しているような無機質な音が聞こえた。乾燥した無菌室の部屋に入っていくと、すこし離れた場所でぽつんと置かれた保育器の中で緑色の光を浴びている我が子を見つけた。黄疸の子に必要な処置なのだとわかった。未熟児などで生まれた子どもによくある症状のひとつなのだ。近づいてみると、看護師が声を掛けてきた。「今、二十tミルクを飲ませたからね」と言いながら、保育器のケースを開けてくれた。「抱いてあげて」と。ミルクをあげたといっても口からではなく鼻から腹部まで通している管を使ってだった。哺乳瓶から直接飲むには吸う力が全く足りなかったからだ。その鼻から通された管はうさぎの形に切り取られた絆創膏で可愛く固定されていた。看護師の心遣いはうれしかったが、小さな身体にその管はとても痛々しかった。また、涙がこぼれた。
子どもは何本かのコードや管につながれて抱くにもどう抱いていいのか分からなかった。
看護師が手際よく抱き上げると「ちょっと抱きにくいけど」と言って、私に渡してくれた。子どもの顔を見ながら、はじめて名前を付けなくてはと思った。どのくらい抱いていたのだろう。しばらくすると、眠りはじめたようで、そっと保育器に戻した。
病室に戻って、「子どもの名前をつけなくちゃ」と誰にでもなく投げかけたら、誰かが、「そういうのって生まれる前に考えておくものじゃないの」と言った。私は「うん」と言いながら、子どもがお腹にいるときからの状況を話した。すると、患者の一人が「これ、見る?」と言って、子どもの名前を付ける本を貸してくれた。
一日、二日と過ぎ、気持ちが落ち着いてきた。夜の時間が長かった。どうしても寝つかれないときは、病室を出て食堂を兼ねたフリースペースへ行った。テーブルや本、テレビ、給湯器、一角に子どものプレイルームがある休憩室のような部屋で、二十四時間薄明かりが点いていた。カーテンを開けると、盛岡の街のネオンが北上川に反射してきらきら光っていた。その部屋は、深夜でも誰かひとりはいた。
ある夜、編み物をしている女性に声を掛けてみた。眠れなくてねと言って、笑顔をくれた。乳がんの患者だった。私も生まれた子どものことを話した。他には誰もいない部屋で二人、月明かりの下、語り合った。日差しのある屋外に出て話しているような暖かみを感じた。
ちょっとの時間だけですよ、と看護師の許しを受けて、はじめて病院の屋上に上がってみた。一人になる時間が欲しかった。名前を付けなければならなかったからだ。五日前に産まれた息子の名前を。産まれた翌日から、早く決めてね、まだ決めてないの、と何人かの看護師たちから幾度となくせがまれてきた。でも、心の整理がつかないまま、今に至っている。ポケットから息子の診察券を手にしてみると、小田ベビイと印字されている。そして、1998.3.20生まれの文字が刻まれていた。本来、健康な赤ん坊であれば、診察券なんか必要ではない。治療のため、息子の診察券が必要だったのだ。そして、役所にも早く届けなければならない。
ひんやりとした風にも柔らかい陽射しがあり、放射線状に張られたロープに干されていた何枚もの白いシーツが時おり吹く風に揺れ、眩しかった。十数年ぶりに帰ってきた盛岡の街が見渡せた。あとひと月もすると、桜の季節がやってくる。ベンチに座り、入院している同室の妊婦さんから借りた、子供の名前を付ける本をぱらぱらとめくってみる。大らかに育って欲しい子に付ける名前、優しい子に育って欲しい子に付ける名前、健康に育って欲しい子に付ける名前などいくつかのテーマでたくさんの名前が書かれていた。また、かわいい、元気な、はしゃいだ子供たちのイラストが各ページに添えられている。ふっと息を吐き、本を閉じる。
本を横に置き、ベンチから立ち上がった。三階の病室から見ている風景とは違って、遠いところまで見渡せることができた。ふと目を止めると、フェンスに囲まれたグラウンドで人を乗せた黒い馬が一頭走っていた。校舎もあったので、すぐ学校だとわかった。きっと馬術部があって、練習をしているのだろう。この辺りは競馬場もあり、昔から馬とのつながりがあるところだ。
聞こえるはずもない蹄の音がこちらに届いているようで、グラウンドを何周も回旋していた。たてがみをなびかせて颯爽と走る姿を、ずっと飽きずに見ていた。
あっと思い、駿(しゅん)という字が浮かんだ。覚えやすくて、響きのいい、呼んだときにかわいい名前だと思った。そして、この字には「ん」という文字が入っていた。冬至には「ん」の食べ物を食べると一年間、健康で過ごせるという。ささやかな言い伝えではあるが、何かいい事を付け足してあげたかった。自分の中でぴたっとはまった感じだった。
さっきまで回旋していた馬はいつの間にか姿を消していた。
「どうする? 駿ちゃんママ、先に帰る?」と看護師に聞かれた。「駿ちゃんはまだ帰れないから、一緒にいてくれてもいいよ」退院できるところまで自分の身体は回復したんだと思った。娘も実家の母に見てもらっているし、そろそろ帰らなくてはいけないかなと思いはじめている頃だった。
退院の日、病衣から私服に着替えて、医師や看護師に一通り挨拶を済ませ、同室の人たちに見送られながら病院を後にした。
そして十日後、駿が家に帰ってくる日、山下先生から今後生活する上での諸注意を受けた。「あまり、泣かせないように、笑わせないように」と。
退院後も一年ほど通院し、多くの時間を駿に取られた。
小学生の頃から菓子作りが大好きだった私は、それでも時間を見つけては実家のオーブンでクッキーやケーキを焼いていた。駿の生まれた内祝いの時も、大小さまざまなハート型のクッキーを山ほど焼いた。
今日も焼いた。オーブンを開けたとき、熱風とともにいつも部屋いっぱいに広がるバターと蜂蜜の甘い香りが好きだ。何かいやな事があった時でも、お菓子を焼けば不思議と心が落ち着く。まとまらない想いを生地と一緒に混ぜ込んで焼いてしまう。そして一歩前に進めるような気がする。
子どもの頃、お祝いごとがあると祖母がドライフルーツのいっぱい入ったバターケーキを焼いてくれた。大きなボールを抱え力いっぱい卵を泡立てていく。私はそれを覗き込みながら、卵がどんどん増えていく光景にわくわくした。卵の黄色い生地にドライフルーツの茶色い生地が落とされると、その色は渦巻きに広がり、追いかけっこをはじめる二つの色は徐々に濃い色は薄く、薄い色は濃く次第に二つの生地が新しい色に生まれ変わる。溶け合った生地はオーブンの中で山型に膨れ上がっていく。焼きあがったケーキは大きなミトンをはめた祖母の手で取り出される。祖母のしみだらけの腕はいつもお祝いの席を華やかにさせた。私もそんなふうに人を笑顔にさせるケーキを焼いてみたいと思うようになっていた。
駿も私がお菓子を焼いているときは、機嫌よく手足をバタバタさせて、その時間を一緒に楽しんでいるようだった。いつの日か、友達をたくさん呼んで誕生日のお祝いができたらいいな、と思った。
心膜
お花見に行こうと、ピクニックシートとお茶を持って長女と四歳になった駿を連れて大垣市内の公園に行った。穏やかな天気で、桜も満開に近かった。平日だったせいか、あまり人はいなかった。私がシートを広げて準備をしていると、長女が体を揺らしながら「駿ちゃんが、お腹が痛いって」と駿をお姫様だっこしてよたよたと駆け寄ってきた。無酸素発作だった。今までも、たびたび発作を起こすことはあったが、今回はいつもと様子が違った。すでに顔や唇は黒紫色になり、体は小刻みに震え、呼吸はしていないと思うほど、静かに波打つだけで意識はすでに遠のいていた。もうこのまま返ってこないかもしれない。そんな思いが一瞬あたまをよぎったが、すぐに打ち消し近くの公衆電話で救急車を呼んだ。
「意識がもどって良かったね」大きな発作を起こしてそのまま返ってこなかった子供たちのことを小児科の医師が話してくれた。「次、発作が起きたらどうなるかわかりませんよ。一日も早く手術をしないと」医師は険しい表情をみせた。
その時、駿の体重は十一キロ。まだ手術ができるまで二キロ足りない。けれどもう待てないと思った。こんな大事なときに、きまって主人はいない。駿を守れるのは私しかいない。
数日後、私と駿は盛岡の病院にいた。入院の日、「心臓の部屋」と呼ばれる四人部屋に案内された。本来は六人部屋の広さをもつが、モニターや酸素テントなどの機械を置かなければならないため、一人当たりのスペースを広く取っている。
看護師が扉を開けてくれた。扉の上半分が病室の中の様子を見通せるようにガラスになっている。重いから手をはさまないで、と言った。「この部屋は準無菌室だから、ご家族はお母さん以外、入れないですからね」
部屋に入ると、窓側の一角に一組の母親と子どもがいた。わっ、住んでいると思った。ベッド周りには、機械音がでるおもちゃや犬のぬいぐるみなどがあって、壁には戦隊者のカレンダーが貼っていた。テレビは置かれていない部屋なのに、ビデオテープが観られるテレビが置いてあった。ベッドの下には透明なショーケースが四つ並び、中には季節の着替えや、日常生活につかう食器などがたくさん入っていた。
あとで聞いた話だが、長期入院の子どもに限って、ある程度のことが許されているそうだ。
子どもの名前は、開くんといって、駿よりひとつ年上の男の子だった。腎不全の病気で、一年以上も入院していた。薬の副作用のせいで、顔や身体ぜんたいがむくんでいた。「心臓の部屋」にはときおり、彼のような重症の患者が移されてくる。
駿はぶかぶかの病衣には着替えたが、どうしても靴下だけは脱がなかった。脱ぐと、家に帰れなくなってしまうと思ったようだ。
開くんと遊ぶようになったのは四日後だった。駿の機嫌がわるくてぐずっている時、開くんが戦隊者のおもちゃをそっと手渡してくれたり、お笑い芸人のモノマネをしてくれた。駿が食事制限で食べられない日には、気を遣って別の場所で食事を摂ってくれた。母親からの目の合図や、息子の肩をトントンとたたくことによって、開くんは和やかな空気を乱さないかのように勘を働かせていた。自分自身も腎不全という大変な病気なのに人への配慮ができるのは、自分もそうされてきたからなのだと思った。
心臓の手術は、入院から十日目に決められていた。それまでの間に駿がしなければならないことは、手術に備えての一日おきに自分の血液を溜めておくことだった。自己血という。
私は、いつも翌日の検査の予定を駿に詳しく話してやった。駿は幼いながらも、検査の様子を思い浮かべて、痛い、これは痛くない、と自分に言い聞かせていた。
手術前日の昼間、ICUの責任者である看護師や麻酔科の医師が書類を持って顔合わせに来た。こと細かに明日の手術の説明や注意ごとを話していった。
そして夕方、看護師に呼ばれた。窓のない広い部屋に通された。防音室のようなその部屋は静かすぎて、私の緊張をさらに高めた。白い大きなテーブルと、多くの椅子があった。家族が座れる分だけは用意してある。本当なら、ここに主人がいるはずなのに、と思う。
そして、緑色の手術着を着た男の医師が勢いよく扉を開けて、「手術が長引いたので、遅くなりました」と言いながら、席に座った。明日の手術執刀医で心臓外科手術を担当する長尾という人だった。
「お母さんひとりで、大丈夫?」と長尾医師に聞かれた。
「私しかいないので」と言うと、「私が付き添いましょうか」と看護師が申し出てくれ、私の横に座った。テーブルを挟んで、彼による説明がはじまった。先日からの検査で、駿は出血が止まりにくいことがわかったようだ。それに人工心肺を使い、一時的にも心臓を止めることも危険だという。
駿の場合、止めていられる時間は長く見ても一時間半、その間にすべての箇所を修復しなければならない。手術の重要なところは、大きく空いたしんしつちゅうかく心室中隔を馬の心膜で閉じ、狭くなっている肺動脈弁をすこし広げることだ。
「止血剤と凍結血しょうは、十分用意しました。でも、止まらないときは」と間をおいて、長尾医師は顔を上げて「仕方ないですね」と言った。仕方がないという言葉は、死を覚悟しなければならないことだと思った。
彼は二十分ほどの説明を終えた。そして、一枚の紙を渡された。手術を受けるに当たり、死んでもかまわないというような内容の書面だった。
「よく読んで、お母さんの名前を書いてください」その後、彼は寡黙に私を待った。
躊躇することなく、サインをした。それしかないからだ。
私は病室へ戻り、絵本を見ていた駿をそっと抱き上げると、プレイルームに向かった。
いつもと同じ盛岡の街が見えた。仕事を終えた日勤の看護師たちの姿が見えた。扇状に急ぎ足で散らばるかのように、光の中に吸い込まれていくようだった。
一人で抱えきれない不安と心細さで押し潰されそうになった。駿を連れて逃げたいと思った。
「駿ちゃんのお母さん」と後ろから声を掛けられた。山下先生だった。「手術のこと、説明あった?」いつもと変わらない優しい表情だった。
私は「はい」と答え、長尾医師との話をした。「仕方がないね」と言われたことが頭から離れなかった。山下先生は察して「外科の先生はいろいろ言うけど、大丈夫。なんとかするから」この手術には山下先生も携わることになっていた。
面会時を終えたこの場所は静まり返っていたが、遠く分娩室から看護師たちの靴音がカタカタと響いた。あぁ、産まれたのかなあ、と思った。
消灯の頃だった。いつもはこの時間になると開くんのお母さんがベッドの仕切りカーテンを閉めて、開くんと二人でその日の無事を感謝する乾杯の声が聞こえてきた。この日は、カーテンを開けたまま、「明日の駿ちゃんのために乾杯しよ」と彼女は食事に配られるほうじ茶をカップに注いでくれた。みんなで乾杯と言いながら、四つのカップを合わせた。
手術当日の早朝、駿はごそごそといつもの朝と変わらぬ様子で、まだ布団の中にいた。検温で回っているのか、ナースの詰所には誰の姿も見えない。遠くの廊下の方からカッチャン、カッチャンという金属音がこちらに近づいてくる。金属のタイヤが一回転すると、何かが落ちていくような音だった。その音は私たちの病室の前で止まった。黄色いベッドが来ていた。このベッドは、病児を手術室へ移動させるためのもので、点滴などの医療器具が固定できるようになっている。子供たちからは、恐怖の黄色いベッドと呼ばれていた。
まもなく手術室の看護師三人が「駿ちゃん、行こうか」と迎えに来た。
事前に飲んだチョコレート味の精神安定剤が効きはじめてふらふらしている駿を黄色いベッドの真ん中に座らせた。私は駿の肩をささえながら手術室まで付き添った。
手術室の扉の前で、駿は私にしがみついて離れようとしなかった。無理やり引き離して、「じゃーね」と手を振った。
厚い扉が閉められた。しばらくの間、扉のほうを向いたまま立ち尽くしていた。駿の泣き声が遠くのほうから聞こえ、やがて止んだ。
プレイルームに戻ると、母や親戚の人たちが心配して様子を見に来てくれていた。みんな、たくさん話をした。どれも他愛もない話であったが、気が紛れた。
夕方になると、みんな帰って私ひとりになった。朝九時からはじまった手術は予定の五時をまわっても終わらなかった。いろんな心配が頭を駆けめぐった。外に目をやると、昨日も、その前も、同じ青空だった。空を見上げながら、とにかく待つしかないと思った。
六時を過ぎたとき、担当の看護師が手術の終わりを知らせに来てくれた。すぐにICUに向かった。
ICUに入ると、一番奥のベッドに寝かされていた。遠くからでも、たくさんの細い線に囲まれているのがわかった。透明なストローが揺れているようだった。恐る恐る近づいてみると、その細い線は駿の身体のいたるところにつながれていた。酸素マスク、胸にはたくさんのモニター、お腹からはドレーンと呼ばれる二本の管が左右に突き出ていた。ラインと称されるそれらの器具が駿の身体にくくられていた。かわいそうよりも、恐さが先にたった。
駿は目を開けたが、まだうつらうつらとしていた。熱もあるようで、額にタオルを乗せてもらっていた。私は駿ちゃんと声を掛けたが、返事はない。手を握って、終わったよと言ったけど、何の反応もなかった。無表情で真っ白い顔が、まるで蝋人形のようだった。
ICU横のロビーで山下先生から話があった。「肺動脈弁は温存しました。執刀医の長尾先生は、人工弁にしてしまおうって言ったけど、話し合って、残しました」今の弁が何年使えるかわからないが、しばらく様子をみていくことになった。「なんとか上手くいきましたが、今夜が山場になるでしょう。僕が付き添っていますから、安心してください」
お願いしますとだけ言った。
手術から二日目の日、駿の顔を見に行くと、人工呼吸器が外されていた。まだ駿の表情に変わりはなかったが、今までチアノーゼで紫色だった唇が薄いピンク色をしていた。きれいな血液が身体じゅうを廻っている証拠だった。「自発呼吸ができるようになったので、今朝、呼吸器を外しました」看護師がにこやかに話してくれた。
手術が上手くいったんだ、とそのとき実感した。
四日ぶりに戻った病室は、がらんとしていた。手術の日、見送ってくれた開くん親子は治療のため個室に移されたと、看護師から聞いた。今夜はこの広い空間に駿と私のふたりきりだ。山下先生は駿をベッドの中央にそっと寝かせると、駿の身体に付いているあらゆるラインを整え「また、様子を見にくる」と言い、退室した。痛々しいドレーンは外してもらったが、ハートワイヤーはお腹に残った。緊急事態が起こったとき、このワイヤーの先にペースメーカーを付けて、危機を脱出する装置だ。ベッド周りでは看護師が忙しく動きまわった。それでも駿は、天井をみつめたままじっと動かなかった。何を思っているのか、まだほとんど口を聞いてくれず、元気がない。
利尿剤が処方された。術後、普通であれば体重が減るはずだが、駿の体重は減らなかった。身体に水分が溜まって、心臓に負担がかかっているためだった。
二日後、開くん親子が病室に戻ってきた。強い薬を使った治療だったようで、隣の個室にいたのだ。薬の影響で、物を投げつけたり、性格がひょう変する理由だった。
開くんは、ベッドに横になっている駿を覗き込み「お帰り」と声を掛けてくれた。駿は私を見て「開くん」と声を出した。手術後にはじめての、かすれたちいさな声だった。これで、すこしずつ元気になってくれると思った。
駿は起きあがることができたが、日中のほとんどをベッドで過ごした。開くんは駿のそばでよく遊んでくれた。
駿は、開くんが持っているおもちゃの中で機関銃がとてもお気に入りだった。駿が四方にバンバンと撃つと、開くんは撃たれたスポンジの弾を拾いに行く。幼稚園に通えなかった駿は、開くんがはじめての友達だった。この場所が病院であっても、駿には小さな社会であった。
朝の回診では、山下先生とその日の担当看護師がガーゼ交換をしてくれる。山下先生は手際よくピンセットでガーゼを一枚ずつ挟んで駿の胸に乗せていく。それを看護師がビニールテープで固定した。ビニールテープを使うのは、剥がすときに痛くないようにするためだ。
「駿ちゃん、今日は何色のテープにする?」と言いながら、看護師はポケットから何色ものビニールテープをベッドの上に広げた。黄緑、紫、ピンク色など普段あまり目にしない色もあった。駿はいつも迷うけど、黄緑色を選んだ。看護師たちのポケットには、他にもいろいろな道具がぎっしりと詰まっている。秒針の時計や体温計、ハサミ、布テープ、紙テープ……。看護師のなかで、七つ道具と呼ばれている。駿は、何でも出てくるポケットを、ドラえもんの四次元ポケットと名付けた。
ある日、看護師は七つ道具のひとつである聴診器を貸してくれた。駿は、毎日出入りする山下先生や看護師たち、開くんの心音を幾度となく聴いた。自分の鼓動を聞きたくて、胸に聴診器を当ててみた。「どんな音がする?」と私が聞くと、「電車の音がする」と言った。
「電車の音?」
「ゴトン、ゴトンって」
私は駿のイソジン焼けした赤茶色の手術痕を見ながら、「この傷はね、勝利の金メダルなんだよ」と言った。「駿ちゃんの心臓はね、お馬さんからもらったんだよ。お馬さんみたいにたくさん、走れるようになるといいね」
私は洗濯物を取り込みに屋上へ上がった。からっと乾いた洗濯物を両手いっぱいに抱えると、お日様の匂いがした。このひとときが大好きだ。早くこの匂いを駿に届けたくて、病室へ戻ろうとした時だった。ふと四年前のあの馬のことを思い出した。校舎のグラウンドの方向に目をやった。白と茶の二頭の馬が走っていた。あの黒い馬はいなかった。でも、蹄の音ははっきりと今でも耳に残っていた。
私ははっとした。洗濯物を落としそうになった。あの音……。どうしたわけか、駿の心臓を治すために、あの黒い馬が身代わりになってくれたような気がした。
退院の朝、私と駿は、医師や看護師に送られながら、病院の玄関口に出た。病院へ来たときよりも手荷物が倍に増えていた。駿は「開くんは? 開くんに会いたい」と口にしたが、治療中ということで会えなかった。
自動ドアが開き、とことこと私の前を歩く駿。手術前までは、ファロー四徴症の特徴であるそんきょ蹲踞(しゃがむ姿勢)が頻繁にみられたが、今はゆっくりではあるが、休むこともなく歩くことができた。
表はいい天気だった。きれいに晴れわたっていた。「お外って、こんなに明るいんだ」と駿は足を止めて、空を見上げながら言った。「お空って、こんなに広いんだ」
手術するまでは、ほとんど抱っこで過ごしていたから、自分の高さで空を見上げるのははじめてだったかもしれない。
絵手紙
幼稚園もほとんど通うことができず、ここまで来るのにすんなりとはいかなかった。
軽度の難聴があった反面、観察力は普通の子よりも優れていた。複雑な迷路や、隠れた積み木の数を数えることが得意だった。
小学校入学の二ヵ月前、入学許可書が届いた。うれしくはあったけど、本当に駿は入学できるのだろうか。私は何度も市の教育委員会へ足を運んで、話し合いの場をつくってもらった。入学許可書が届いていたのにも拘わらず、話がすすむにつれ、相手はしぶる表情をみせた。「友達とコミュニケーションが取れますか?」「運動はどれくらいできますか?」「校外学習は参加できますか?」こういった事務的な質問に対して、私は周りの子どもたちと合わせなければいけないのかと、思った。普通学級には入れてもらえないのかと尋ねると、前例がないときっぱり言われた。「預かるとしたら、お金もかかりますし……」と言葉に漏らした。前例にしてくださいと強くでると、上と検討しておきます、と席をたった。
泣き虫だった私は、駿を通して強くなったと思う。駿を守るため事あるごとに、様々な場所で声を形にしてきた。同じ心臓病の子どもを持つ親たちと「心臓病の子どもを守る会」の支部を立ち上げたり、ちょっとした非難の声にも怯むことなく言い返すことができた。
ある日、近所の人に言われた。「学校では、体育の授業を見学しているのに、家ではキャッチボールをしているのは、おかしいんじゃないですか」と指摘されたことがある。駿が世の中に出て行くには多くの理解が必要と思う出来事だった。世間には、いろんな人がいるのだと思った。
しばらくして、教育委員会から「受け入れの準備ができました」と連絡があった。
駿の登下校には、毎日私が付き添っていた。ランドセルはいつも空っぽだった。身体に負担がかかるためだ。入っているのは、給食用の箸と、布で作ったふで箱だけだった。教科書は二セットあり、一つは学校にもう一つは家にある。
クラスのほとんどの子は、休み時間になると校庭へ飛び出していく。ひとり教室に残された駿のそばにはいつも担任の女の先生がいてくれた。先生は物柔らかな人で、駿にじっくり時間を与えてくれた。駿は自由帳にカブトムシやクワガタなどの昆虫を描き並べるのが好きだった。病院にいた頃、開くんの昆虫フィギュアで遊んでいたことや、昆虫図鑑をよく見ていたからだ。本物を見たこともないのに、関節などの細かい箇所も丁寧に色鉛筆で塗りわけていた。今にも動き出しそうな虫たちに、私は驚かされた。この子は絵で生きていけるかもしれないと思った。人との歩調に合わせることが難しい病気なので、人に左右されない場所で才能を伸ばして欲しかった。
三年生になった時、担任の先生が代わった。それまで慕っていた先生と離れてしまい、駿はしょんぼりしていた。私は、先生との距離を保つために絵を送ってあげたらと、駿にすすめた。先生と蛍を見に行きたいという願いを込めて、ハガキに描いた蛍の絵を投函した。
それを見た先生は、とても喜んでくれた。そのことがうれしくて、毎日絵に言葉を添えて、投函した。動植物から静物までありとあらゆる物を描いた。魚屋さんにはよく通った。「どれ食べたい」ではなくて、「どれ描きたい」そう言っていつも迷っていた。時には、高価なカニを買わされたこともあった。その数が五百枚を超えた頃、何かのきっかけで駿の病気や絵手紙のことを新聞社が記事にしてくれた。一社に取り上げられると、二社、三社と取材が続いた。テレビ取材もあった。
ある女性の新聞記者は何度も私の家へ来てくれて、熱心に私の話に耳を傾けてくれた。そして、駿の病気のこと、絵手紙のことが全国に広がった。絵手紙の展覧会は北海道から九州まで、三十箇所を回った。
いろんな人が観に来てくれた。学校の先生や生徒たち、病気を抱えている夫婦など。
地方で展覧会をしていたある日、三人の子どもを連れた夫婦がやって来た。観に来てくれる多くの人たちの表情といえば穏やかなものではあるが、その夫婦はそわそわしていて、絵を観るという雰囲気ではなかった。末の女の子がファロー四徴症ということだった。朝、新聞で知り同じ病気の子が近くにいるとわかって、ワラをもすがる気持ちで来たと言った。医者からの情報だけでは足りなくて、とても困っていた。
「どうやって育ててきたんですか?」母親は溜めていた思いを一気に吐き出すように聞いてきた。
どういうふうに言ったらいいか私は考えた。
駿のことが参考になるかわからないが、こと細かに話してあげた。最後に「愛情が手伝ってくれるから、大丈夫」と励ました。
それでも母親は、この現実を受け入れられないような様子で、帰っていった。
それぞれの人がそれぞれの想いを持ち帰ってくれた。でも、絵を通して何が伝わったのだろう、本当にわかってもらいたいことが伝わったのだろうか。
駿はすこしずつ学校に馴染んでいった。友達とも遊べるようになった。でも駿に放課後はなかった。学校にいるだけでも相当な体力を奪われていき、家に帰って休むことが必要だった。横になったまま、本を読み、宿題をした。そして気をつけなければならないのが、出血と風邪だった。日常行う何でもない事もいくつか制限された。土日でさえも穏やかな日でなければ、外へ出ることはしなかった。
しかしそういう暮らしの中でも、美術館や動物園へは一緒によく足を運んだ。たいていの子どもはいろいろな動物を見たくて歩き回るものだが、駿はひとつの動物を長い時間見ているのが好きだった。動かない動物でも根負けして動いてしまう。最低でも一時間は観る。絵画でもそうだった。私は「他のも観よ」と言っても、なかなか動こうとはしなかった。「もうちょっと、待って。この絵は何も言わないけど、何かに引き寄せられるんだ」駿は壁に掛けられた絵を凝視したまま立っていた。細部にいたるところまで脳裡に刻み込んでいるようだった。きっと頭のなかでいくつものデッサンを描いているのだろうと。そういう駿の姿を誇らしく思う時がたびたびある。体力では勝負できない駿だが、持ち備えている能力を存分に生かして欲しい。人のためになるのであれば、なおさらだ。
爾来、駿も中学生になり、ちょっとした反抗期を迎えている。
通院も以前に比べればかなり減ったが、月に一度の定期検査と、二年に一度、盛岡でのカテーテル検査は欠かせない。
夏休みに一度、盛岡の病院で開くんを見掛けたことがある。待合室で駿の検査が終わるのを待っている時だった。Tシャツと半ズボン姿だった。入院していた頃の開くんとは違って、よく日焼けして痩せていたので、すぐにはわからなかった。診察に来ているらしく、私に気づかないまま、私の前をすっと通り過ぎて玄関ロビーの方に歩いていった。そして、人混みの中に消えてしまった。
どうしたわけか、声をかけそびれてしまった。ふと、病院というところはそういう場所なのかもしれない、と思った。入院時にはそれぞれが互いの気持ちをいたわりまるでひとつの家族のようになるものだが、それを過ぎるとまた他人に戻ってしまう。後で「もう、会うこともないね」と言うと、駿も「うん」と答え、そのとおりになった。
駿は、毎日絵を描くことはなくなったが、それでも思い立ったように遮二無二描きまくることがある。展覧会の開催もほとんどなくなっていたが、観てくれた人たちからの励ましの手紙は今でも届く。駿君にと絵本をプレゼントしてもらったり、養鶏場を営んでいるところから、定期的に卵が届いたりする。
駿がはじめて傘をさした雨の日のことだった。それまでは、空のランドセルと同じように傘を持たせず、カッパでずっと通学させていた。
買い与えた黒い傘を持って、いつ雨が降るのかと空を見ながら心待ちしているようだった。
雨の日、駿は玄関先でパッと傘を広げて、雨の中に飛び出した。傘の内側を見上げてしばらくの間、じっと雨の音に耳を傾けた。
「雨の音って、いいね」
「そう?」
「うん。周りの音を消してくれるんだ」
「それで?」
「音のなかった、あの頃に戻れるから」
駿は難聴であまり聞こえなかった頃を懐かしんでいた。数年前に聞こえるようになった耳のことを煩わしく思っていたのは確かだった。聞こえるようになったその頃、私と一緒に町を歩いている時「お母さんはこんなにうるさい世界で、生活していたの」と言った。「聞こえるということが、ぜんぶ、いいっていう事ではないよ」
また駿に何かひとつ教わったような気がした。
主人は、以前のような長い海外出張は減ったものの、それでも一年の半分くらいは海外へ行ったり来たりしている。駿が生まれた頃は駿の病気に対して近づいてこなかった。まるで他人事のように。別れようとも思った。今では、三者懇談などの学校行事にも足を運んでくれるようになり、教育や家庭にも心を傾けてくれるようになった。
私はと言えば駿の手も離れ、前よりもケーキを作る時間が増えた。今では、誕生日ケーキの注文を受けることも多くなった。
急な注文も入ることもあった。夕方にケーキを作っていると、駿がそばに寄ってきて、「手伝うよ」と言って、粉をふるいに入れてくれたり、卵を割ってくれたりした。
ある日、バナナケーキを作っている時だった。駿がフォークの裏でバナナをつぶしながら、「お母さん、明日から送り迎えしなくていいよ」と言った。えっ、と口にでそうだったが、「あ、そうなの」と視線を駿に向けた。
駿は視線を合わせず、丁寧にバナナをつぶし続けていた。
あくる日、下校時間ちかくに学校のそばまで様子を見に行ってみた。いつも出てくる時間になっても駿の姿は見えなかった。しばらくすると、昇降口から友達と喋りながら楽しそうに出てくる駿が見えた。
友達がいてくれるから、もう大丈夫かな、と思った。ようやく、親離れもしたんだな、と。
送り迎えが無くなって、ぽかんと空いた時間ができてしまった。この時を望んでいたのに、どこか寂しかった。何かをしなきゃ、と思った。「誕生日のケーキ 作ります」の看板を玄関先に立てた。そして、近くのケーキ屋の前を通りかかった時、求人広告を見つけた。クリスマス限定の、短期のアルバイト募集だった。
働くことが決まって、二十年ぶりに外に出ることになった。初日の日、厨房に入った。
店主は生地を作り、次々と焼き上げる。オーブン扉の小窓から、焼きあがる様子を何度も何度も確認して、一瞬のその時を見逃さない。焼き上げ時間はあくまで目安だ。オーブンから出てきたスポンジ生地は、黄金色に彩られ、波打っていく。まるで命を吹き込まれたかのようだった。甘い香りをのせた熱風が厨房に広がった。
私も、こんなケーキを焼いてみたい。でも、とうてい真似できないと思った。
「すごいですね」自然と言葉がでた。
「だって、プロだからね。これで飯食ってんだから」そう言って、スポンジの端を切った。
「食べてごらん。これが店の味だよ」
美味しいのことば以外、何も見つからなかった。
「このクリスマス時期でも、何十個と予約を受けているんだけどね。大事なのは、注文された方の喜んだ顔をイメージして、ケーキをつくることなんだ。そう考えると、手を抜くことなんて出来ないよ」
オーブン脇の壁には、数多くの注文表が貼られていた。お世辞にもあまり洒落ているとはいえないこの店だが、清潔感は行き届いていた。厨房の什器や備品は黒光りし、店主の手の爪は短く切られていた。ここから、多くのクリスマスケーキが送り出されていく。たしかに大手のチェーン店やスーパー、コンビニに比べれば、その数はたかが知れている。でも、私が選ぶとしたら、店主がいるような個人店でケーキを買いたい。お客のわがままにも応えてくれて、それ以上のものを受け取ることができるからだ。
「うち、今まで広告出したことないんだよ。お客がお客を呼んでくれてね。その人たちに引っ張られて、ここまで続けることができたんだ」
私は、ケーキを焼いている店主の姿を見ながら、今の自分と重ね合わせていた。駿と私は、めぐり合った時から誰かの手に引かれるように前だけを向いて歩いてきた。よそ見をすれば、たちまち綱渡りから落ちてしまうと思ったからだ。これまで駿を応援してくれた多くのひとたちと会った。きっとあと何年かのうち、駿は自分の力で道を切り拓いていくだろう。
調理台いっぱいにデコレーションされたケーキが並んだ。店主のごつごつした手で小さなイチゴが乗せられていく。そして、もみの木、サンタクロースが添えられた。
「そこの泣かない粉砂糖、取って」店主は私に言った。
えっ、と聞き返した。「泣かない、粉砂糖ですか?」私は、はじめて聞いた言葉だった。それは、溶けない粉砂糖のことだと、すぐにわかった。でも、いつも使っている砂糖が、こんな名前で呼ばれていたなんて。
店主は、こ漉し器でイチゴやもみの木に粉雪を落としていく。最後の仕上げをする泣かない粉砂糖は、クリスマスの主役を引き立てる存在なのだ。はかないけど、裏切らず、最後まで役割を果たすと、口の中ですっと消えていく。
張りつめていた気持ちが、ぷつんと切れた感じがした。どこからかわからないけど、涙があふれてきた。
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