あの猫撫で声からすると、恋人が隣の部屋で応対している電話の相手は、二十歳になる彼の娘らしい。戸平真那は洗い上がった洗濯物をカゴに移しながら、聞き耳をたてる。この様子では、明日映画を観に行くという約束は、彼女に取って代わられるようだ。
五十歳ちかい男と四十手前まできたおとな二人なのだ。それぞれの事情があって当然だが、離婚した母親と暮らす娘の都合が第一にされると、先約が入っていますよ、忘れていませんか、とぼやきたくなる。彼のマンションに、金曜日の夜に来て日曜日に帰る真那の存在を、五年たった今も娘に伏せているのは仕方がないとしても。
でも今回は約束が反故になるなら丁度よかった。長く休んでいる市民オーケストラの練習に出られる。演奏会まで二か月を切った。明日は本番を振る指揮者との初合わせがある。
恋人は、アマチュアオーケストラの団員のことを、週末の夜をひたすら趣味の練習に費やす老若男女諸君と皮肉っぽく言う。彼がよい顔をしないのは、離婚した夫がオーボエ吹きで、アマチュアながらかなりの腕前だと言ったのが自慢げに聞こえたからだ。離婚をする際、真那が在籍するオーケストラには、エキストラであっても吹きに来ないことを条件にしたとも言い添えたのだが。
彼のオーボエを今も好きなことが恋人に伝わってしまったなら、仕方がない。本当のことだからと真那は思っている。
少し上ずった恋人の電話の声をあとに、洗濯カゴを抱えてベランダに出た。
マンションの五階から見る秋の夜空は広びろとしている。真那の住むコーポの二階からは、周りの建物に遮られた矩形の空しか見えない。十時をまわったところだ。セーター一枚ではすこし肌寒い。あとで彼のカーディガンを貸してもらおう。宵越しで洗濯物を室外に干しておくのは気がすすまないが、明日は七時に起きて出勤する。晴れの予報が出ていたから、夕方には乾いているはずだ。
真那はハンガーに掛けた自分のパジャマを、男物ばかりが並ぶ物干し竿の端に並べ、大きな洗濯ピンチでしっかりと止めた。隣に下がっている彼のワークシャツを両手で叩いて皺を伸ばす。
後ろで掃き出し窓が開く音がする。電話は終わったようだ。今度は彼に聞こえるよう、わざとパンパンと音をさせて忙しく叩いた。
「なんか、ぼくが叩かれてるみたいだ」
「こうしといたらアイロンなしで着られるわよ。夕方には乾いてるわ」
彼のお気に入りのシャツだから、明日着てゆけるように、しっかりと皺を伸ばしておこう。
「あしたの映画と晩メシだめになった。なんなら日曜日はどうだい」
「そうねえ。オケの練習に行こうと思うのよ。夏から休んでいるでしょ。日曜日は、弾けなかったところをさらいたいから、午後には部屋に帰りたいわ」
丸いハンガーピンチに、彼の七足のソックスを吊しながら言う。
「わるいな」
「練習に出るなら」真那は薬剤師をしている医院を昼過ぎに出てからの時間を算段する。遅れないようにしなくては。先週の団員あて連絡メールには、遅刻厳禁のような内容の注意書きがあった。
「介護施設に寄って、かあさんの箪笥の衣類を冬支度に交換してから、楽器を取りにダッシュでうちに帰る。余裕で間に合うわ」
恋人が、また練習かぁとは言えないでいるのをよいことに、ちょっと意地悪かなと思いながらも真那は続ける。
「バイオリンはアタマ数がいるの。あたしという正団員が一人増えるでしょ、するとエキストラさんの謝礼が一人分浮いて、あたしが払う演奏会費が団の収入になる。いるだけで値打ちがある場所なんてそうざらにはないわよ」
裏返しになっていないソックスがあった。濡れ物をひっくり返すのは手間がかかる。
「おかあさんに兄さんのこと、伏せてるんだろ」
「ヘルパーさんが、一生知らなくて過ぎるほうがよい場合もあるって。現場で介護しているひとの言葉って重いね」
両親と兄の四人家族で暮らした実家には、父親が定年を過ぎて死んだあと、母親の知津子と兄の尚志が残っていた。尚志には大学受験のころに発症した精神疾患がある。七月に知津子が認知症で介護施設に入所した一か月後に、尚志は熱中症で死んでしまった。納骨もすませたが、母親は息子の死を知らないでいる。
「きつくないか」
「黙ってること?」
「うん」彼は言って息をついだ。
「でもな、言うな」
「自分の子供が死んだのを知らないって酷だとおもう。けど黙ってるのがわたしの仕事」
彼は部屋に戻り仕事を続けた。真那は空になった洗濯カゴを抱えベランダに立ったまま、ポケットに入れていた携帯電話でパートリーダーに出席のメールを送った。
翌朝、まだ寝ている恋人を置いて仕事に出た。介護施設で三時のおやつを二人で食べたあと帰ろうとすると、知津子が駅まで送ると言い出した。付き添いなしでの入所者の外出はできないというのに。
「かあさん、わたし今日は練習に出たいの。駅まで来てくれたら、またここまで送って来なくちゃならない。それじゃ遅刻してしまうわ」
「娘さんはご用がおありなんですよ、だからここでお見送りしましょうね」ヘルパーさんが二人の間に割って入る。
「なんで娘を送ったらいかんのよ。えらそうに言うな。ちゃんと帰れるがな」
知津子は喉が切れそうな裏返った声で「ばかにするな」とヘルパーさんに殴りかかった。
振り上げられた腕を鷲づかみにして真那が言う。
「わかった、部屋にもどろう」
よろける知津子と楽器とバッグを乱暴に一抱えにして、廊下を戻った。
知津子はベッドに座ると、点きっぱなしのテレビに顔を向け、「わたしはなんであんたに怒られるんやろ」としきりに首をかしげる。
真那はベッドの足下に置いた丸椅子に掛けた。知津子の記憶は二分と保てなくなっている。自分の気配を母親の前から消し、こっそりと部屋を出られるのを待った。
西日の差す歩道を駅から駆けた。遅刻なのは電車に飛び乗ったところで分かっていた。でも急げば練習が始まる六時に公民館に着ける。廊下で楽器を準備して後ろのドアからバイオリンの席に潜り込む。全員のチューニングが終わって指揮者が台に立つまでに三分かかってくれればいいのだけれど。
だがそうはならなかった。ケースから出した楽器を片手に持ち楽譜を脇に夾み、空のケースとバッグをまとめて提げてホールの扉の前に立ったときには、すでに練習は始まっていた。
固い扉に耳を寄せ、漏れてくる演奏が途切れるのを待った。耳慣れた旋律を、譜面を思い浮かべて聴きながら、頭の中で頁を繰る。もう真ん中あたりまで進んでいる。
先週に届いていた団員あてのメールは大袈裟ではなかったのだ。(今回の指揮者は特に時間に厳しい先生です。定時音出しでおねがいします。集合六時ではなく、六時音出しです)とあった。この進み具合からすると、時報とともに指揮棒が振り下ろされたらしい。
響きが静まった。重い扉を引いた。指揮者はコントラバスに指示をだしている。人が入ってきたのをみとめると指揮棒をおろし、席に着くのを待ってくれた。
練習は次の楽章に移った。聴かせどころは、後半にでてくるゆったりとしたオーボエの独奏を、セカンドバイオリンと低弦がささえる長いフレーズだ。休符に入る管楽器やファーストバイオリンにとっては、オーボエの技量しだいで、心地よくなれる箇所だった。ファーストバイオリンにいる真那は、楽器をおろしてオーボエを待った。
出だしの二分音符が響きだした瞬間、体がぴくりと動いた。オーボエの音が、膝に置いた楽器と真那の胴体で共鳴する。記憶が揺さぶられる。あの響きは離婚した夫の道岡のものだ。
「いい音だわねぇ」
誰に言うでもなく隣の人がつぶやく。真那も頷くが、視線は、譜面台の縁に置いた鉛筆に向いている。指揮者の注意を譜面に書き込むためのものだが、丸い鉛筆が乗っている。床に落ちても転がらない三角形のはどこにやってしまったのだろう。
オーボエはゆったりと歌っている。たしかに道岡の音だ。でもブレスのあとがちょっとちがう。
バイオリンパートがオーボエのソロを引き継ぐ小節が近くなり、コンサートミストレスが楽器を構える。体温のあるオーボエの揺らぎが真那の胸に溜まっていく。息を細めて慎重に弦に弓をおく。
指揮棒がおりて楽章が終わった。指揮者が手のひらに指揮棒の先を当てて小さく拍手をする。
「うん、ブラボーだね、きみね。当日よろしく。ここのところは僕は振りません。低弦はオーボエによくついて」
「あのぉ、ぼく、代吹きなんです。すいません」
ああ、やっぱり道岡だ。申し訳なさそうな口調で言うのは、褒められたときの照れなのだ。
彼とは離婚して八年がたつが、子供のいない夫婦だったこともあって、別れたあとのことは何も知らない。彼が何人家族になったのか分からないが、上の子供は八歳になっているはずだ。
「そおですか」指揮者が口の中でもごもごと何か言ってから、「では少しもどします。べー、B、ベートーベンから」指揮棒が振り下ろされ演奏は進んだ。三時間の練習は時間きっかりに終わった。
真那は困惑していた。別れるとき、今後は同じステージに立ちたくないと真那が言い、結婚する前から在籍していた市民オーケストラを、二人して辞めた。賃貸マンションをたたむ前に、真那は隣の市にあるこのオーケストラに移った。彼はもちろんそのことを知っていた。
なんで彼がここに現れたのか。ホールの椅子をキャスターに重ねて乗せ、倉庫にしまう片づけを手伝いながら思う。今日だけの代吹きだからかまわないと思ったのかしら。いやな気分だ。
積み上げる椅子の数は十五脚と決まっている。真那が数えおえたところに、十六脚目が持ち上げられた。
「あ、すみません、それはあちらに乗せてください」と顔を上げずに言った。相手はなんだかぼさっとしている。見ると、道岡が椅子を抱えて立っていた。
「やあ」
「あらこんばんわ」真那はとっさに微笑んだ。道岡は椅子を床に下ろして何か言いかけた。目を逸らせて真那は言った。
「それ、あっち」
離れたところにあるキャスターを指で示した。
「えっと」彼は指さされた方を見る。「あれね、うん」
素直に従う彼の背中に、怒りを含んだ声をぶつける。
「へたよ」
「ごめん」
向こうから来た管楽器の男性が立ち止まり、二人の顔を見比べ道岡にぺこりと頭を下げて、おつかれさまでしたと言って通り過ぎていく。
「はこびまーす。どいてください」
別の若い団員が横から来て、カートを押して行った。
真那は壁際に丸めて置いたコートに腕を通しながら、手元の時計を見た。急げば次の電車に間に合う。楽器ケースを肩に、バッグを腕に掛けてコートのボタンを止めながら急ぎ足で公民館の玄関を出た。
駅の手前にある深夜まで営業しているマーケットがひときわ明るく見える。夕飯にする弁当を買っていると電車に乗り遅れる。急ぎはしないが、早く道岡のいる場所から離れたい。
四つ角の信号に止められ、足踏みをする気持ちで立っていると、後ろから来た人がすっと横に並んだ。
「彼女は大学オケのずっと下の後輩なんだ。俺のソロを聴いたことがあって、代吹きを頼んできた。きみは休んでると聞いたから。すまない」
信号がかわった。左折する車が横断歩道の手前にさしかかってきた。道岡がさっさと渡りはじめた。ライトが彼を照らしだす。相変わらず危ないことをしているなと真那はおもう。
(この距離なら車をやり過ごしてから渡るものよ。歩行者優先っていったって車が突っ切ってくるかもしれない。ドライバーが規則を守ってくれるとはかぎらないでしょ。まだそんなことしているのね。ぽーんと跳ねられちゃうよ)
真那は止まりかけた車を横目に小走りで渡る。先を行く彼に、知り合ってから繰り返し言ってきた同じことを、今は声に出さずに投げかける。
彼は歩調を緩めず歩道を行く。真那は、横断歩道を渡りきったところで彼を見送るように立ち止まった。そうなのだ。ついていくことも追いかけることも、ゆっくり歩けと後ろから文句を言うこともしなくていいのだ。彼は、約束をたがえて怒らせてしまった相手に、道端でひとこと謝るという用件をすませ、家に帰って行くのだ。
もう急ぐことはないのだ。恋人のいるマンションへ帰ろう。真那はマーケットに寄って弁当と果物を買い、駅に向かった。
改札口を入ると、乗り越し精算機の角から、道岡がふらりと出てきた。薄茶色のセーターに同系色の厚手のブレザー。コールテンの黒っぽいパンツ。ブレザーの外ポケットに長いマフラーの端をつっこんでいる。髪が伸びて分け目が真ん中寄りになっていた。
「愚図だなあ」
真那は提げているレジ袋を見せた。
「めし喰ってないの」
うなずく。喧嘩をする間柄でもないのに、ひどく劣勢なところにいる気がする。
「いそがしかったから」
「何か喰って帰る?」
「いい、終バスにおくれたくないの」
ホームにあがる階段を真那が先に行く。
「出たあとだな」
道岡は、ひと気のないホームを見回した。真那が荷物をベンチに置いて腰掛けると、彼も並んで座った。
「きょうがわたしの練習初日なのよ。実家でいろいろあって休んでいたんだけれど、やっと少し落ち着いたの」
広げた膝に肘をあずけた道岡は、下を向いたまま口籠もるように、おかあさんと兄さんは変わりないかと言った。真那は向かいのホームに顔をまっすぐに向ける。
「死んだわよ」
「えっ」真那の横顔に彼の視線が張り付いて動かない。頬が強ばって痛くなりかけたとき、彼が俯いて何か言った。到着する電車の構内アナウンスが大きくて、聞こえない。
「なに」
「おかあさん、いくつだった」
「ちがうわよ、おにいちゃんよ。熱中症だったの。かあさんは認知症で介護施設にいるわ。元気よ。ちょっと凶暴老人だけど。にいちゃんは訪問看護師さんが看てくれていたんだけどね、あたしが様子を見に行ったら倒れてた。それで実家は空っぽになっちゃった。かあさんが寝起きしてた二階の部屋と台所はきれいなのよ。だけどお座敷に壊れた物が積んであるの。片づけに行くたびに、うんざりしちゃうのよね。おにいちゃんの部屋はたばこのヤニとほこり」
電車が薄暗いホームに入ってきた。
「お参りにいくよ。次はいつ実家にいくの」と立ち上がりながら彼が言った。
「えっ、なんで。月に一回、三週目の土曜日に決めているけど。再来週の土曜日、これからは練習まえに寄ることになるけど」
真那は開いたドアに体を半分入れて、ベンチの前に立つ彼に答える。
「実家の電話番号、かわらないだろ」
本当に来るつもりなのか。真那は戸惑った表情で、ええ、と答える。発車のブザーが鳴りやんだ。
「電話してから来てね。実家の留守電にわたしの携帯番号いれてるから」
「午後から行くよ。おれ、あっちのホームだから」
ドアが閉まると、向かいのホームに渡る連絡通路の階段を降りていく彼が見えた。
電車はすいていた。座席に落ち着くと、すぐに後悔した。座敷の仏壇の前は、大型ゴミ収集に出すような雑多なもので塞がれている。兄と母が積み上げた物だ。まずあれをどうにかしなければ仏壇の扉は開けられない。
お参りをしたければ、道岡があのがらくたをどければいい。線香でもなんでもあげればよいと思うが、手伝うきもちはなかった。
電車は恋人のマンションのある駅で止まった。一人になりたかった。真那はそのまま乗り越し、自分の部屋に戻った。
翌週の練習では別の人がオーボエの代吹きをしていた。道岡の後輩だという正団員の女性は妊娠しており、体調が落ち着くまで休むということだった。
第三土曜日がきた。快晴なのは昼過ぎまで、夜には雨になるという予報がでていた。
駅から川沿いの道を歩いた。住宅街に入ったところで楽器ケースを足下に置いて自動販売機のお茶を買っていると、頭の上でカラスが騒がしく鳴いた。釣り銭の取り口に手を伸ばしたまま見上げる。
高い空がまぶしい。雨の予報は当たってるのかしら。真那は目を細め首をめぐらした。電柱に三羽いるのが見えた。大きいのが一羽。少し細めなのと、ひとまわり小振りなのが一羽。だみ声をあげているのは大きいやつだ。背中の羽根が逆立っている。足を踏み替えては体を低くし、翼を交互に広げる。あとの二羽はてんでばらばらな方を見渡していた。
眉間に縦皺がよった。恋人のマンションの掲示板にあった張り紙を思い出したからだ。通りを隔てた向かいの公園で、犬と散歩をしていた人が、カラスに襲われたという記事だった。後ろから飛びかかって耳たぶを嘴で切った。公園の木に巣があるので注意するようにとあった。
巣らしきものがないかと見回すが、大きな木はない。飼い主が襲われたのは葉桜のころだった。今は秋なのだ。子ガラスもおとなになっているだろう。
釣り銭をジャケットのポケットに納め、ペットボトルを手に取った。楽器のケースを提げ、ジーンズの膝をそっと伸ばしすぐ先の角を折れた。
車一台ぶんの道幅の両側には、十数軒ほどの家が切り通しのように並んでいる。どの家にも玄関脇にカーポートがあり、敷地いっぱいに建っていた。その突き当たりに、庭と玄関を南向きに開いた家がある。無人になって三か月になる実家だった。
柿の枝が一本、生け垣を越えて道路側に降りている。先の方に色づいた実がなっていた。あれなら手が届きそうだ。生り年の今年は、数も多く甘い。
またカラスが鳴いた。怖ごわ後ろを見ると、大きいのが移動してきている。電線を伝ってきたのだろうか。
子供の声がした。実家に近い通りの奥の家から、勢いよく女の子が走り出してきた。強い羽ばたきが真那の頭上を掠め、翼を広げて女の子に向かっていく。ぶつかると思ったその瞬間、高さを保ったカラスは、女の子の上を素通りし、柿の木のてっぺんに降り立つと、翼をゆっくり畳んだ。
女の子の悲鳴が泣き声に変わり、おばさんが家から出てきた。女の子の祖母だった。おばさんはしゃがんで孫娘の顔をのぞき込む。しゃくりあげる合間に、カラスが、と泣く。おばさんは立ち止まっている真那をみとめると、四角ばった体と、めがねを掛けた顔をこちらに向けた。
「カラスが実を食べに来るんやわ。おとながおっても平気。人の前でもかまわんと横切っていく。からかってるんや。長いこと住んでるけどこんなこと、はじめて」
おばさんは、腕で目の前を水平に切る仕草をして言う。
「びっくりするわ。それにねぇ、食い散らかした実が腐って臭うてね」そして先月、空き巣に近所の三軒の家がたて続けに入られたと話し始めた。
真那はおばさんの話を聞きながら、柿採りをやめたのはいつだったかと考えるうちに、おととしのことを思い出した。夏草が茂っているのを、訪ねてきた真那が見かねて庭掃除を始めると、知津子はとたんに、「こんどわたしがするから、そのままにしておいて」と不機嫌そうに言った。真那は、軍手を嵌めた手で麦わら帽子を押さえ、母親に構わずに柿の木の下に潜り込んだ。雑草を引いている真那を、縁側に立った知津子は仏頂面でしばらく眺めていたが、もう我慢ができないという勢いで、突っかけを履いて庭に出てきた。
「わたしがします。わたしの仕事です。ここはわたしの家なんやから、あんたが手をださんでいい」そして尚志のいる部屋に向いて、
「妹が働いてるのやから、あんたも出てきて手伝わんと。引きこもりはいかんよ」
柿採りしないの、と訊いても、ぼつぼつするからと曖昧に答えるばかりだった。あの秋から柿の実は、樹上で崩れるまで熟し、雀や小鳥の餌になったのだ。でもカラスの姿は見なかった。
おばさんの話がおわった。真那が会釈をすると、機嫌の直った女の子とおばさんのお喋りが家に入り、ドアが閉まった。
ジャケットのポケットで携帯電話が鳴った。開けてみるが、入っていたのは宣伝のメールで、道岡からではなかった。来るなら電話がほしいと言ったのに、今になっても返事がないのは、忘れていると言うことだろう。「お参りに行く」と言ったのは、思いがけなく会ってしまった相手への彼なりの挨拶だったのだ。「気遣ってくれてありがとう」と受け流すべきだった。それなのに「再来週に」なんて間抜けな返事をしてしまった、と真那は思う。
玄関を開けてカラスを追っ払いに階段をいっきに二階に上がった。カーテンの隙間から掃き出し窓のガラス越しに見ると、大きいカラスは縄張りを誇示するように、枝を飛び移っては体を膨らませ頭を低くして、次に狙う相手を捜している。あとの二羽は向かいの家の屋根にいた。
勢いをつけてカーテンをあけ、サッシに掛けた手を強く引いた。滑りの悪いレールが砂を噛むような大きな音で軋んだ。カラスの膨らんでいた黒い体がすっと細くなった。両腕を開いてフェンスに体をあずけた。熟し柿の甘く饐えたにおいが鼻をさす。人の全身を見せつけられた鳥は、貧相につぼんだ体できょときょとと周りを見、鳴き声をのばして木を離れた。続いて、屋根にいる二羽が飛び立った。
カラスの声が遠のいた。視線を伸ばした先に、彼らが止まっていた電柱があった。電柱から柿の木まで分厚い空気のスロープがあって、彼らはそれを滑り降りることを楽しんでいるのだと思った。
伸び放題の山茶花の生け垣が外に向いて傾いでいる。柿の枝葉が日を陰らせているあたりには青い下草がまばらに残っていた。そこに真っ赤な柿の実がいくつか転がっている。
三十数年前のことだ。越してきた中古の一戸建ての庭先に柿の木があった。家族四人の一家は、甘柿がなると聞いて楽しみに秋を待った。
柿採りは、叉木で実を落とす役と下で受ける者で組みになる。記憶にあるのは、父親が叉木をあやつり、小学生だった兄が木の下で虫取り網を広げている光景だ。
「落ちるぞ」父親の掛け声がする。大きいのが降ってくると縁の針金がたわみ、網の底が抜けそうに沈んだ。兄のもとに真那が駆け寄り、底に手を伸ばして掴み出す。疵のあるものを縁側に並べるのが、幼稚園児だった真那の役だった。
柿は疵がついたり打ったりすると、そこから果肉が緩んで、見る間に柔らかくなってしまう。母親が包丁で疵を落とし、歪な形になった実を剥いて皿に置く。それを真っ先に食べるのが真那だった。
バケツ三杯ほど採れるようになったのは、真那が結婚し道岡と組むようになったころからだった。
「もうちょっと右」とか「網を上げて」などと指示をだし「落とすよ」と彼は言った。葉の隙間から落ちてくる埃を、目を細めてよける。道岡は器用に網の真ん中に落としてくれた。その情景に尚志の姿は欠けている。精神科の病院に入院している年もあったし、家にいるときは部屋に引きこもっていたからだ。父親が死に、真那が離婚してからは、柿採りは、真那と母親の仕事になった。
カラスのいなくなった庭に出て、潰れた柿の実をゴミ袋に集めた。生け垣の一部になっている背丈ほどの椿が半分枯れている。納屋から出してきた刈り込み鋏と鋸で茶色くなったところを落とすと、そこだけが透けてしまった。
どれだけ時間がたったか分からないまま、日当たりのよい二階に上がった。玄関のブザーが鳴った。飲みかけたペットボトルを座卓に戻し、立ち上がろうと膝をたてた。
家の片付けに来ると、人が訪ねて来ることはあった。いずれもこの家の事情を知らない人で、宗教の誘い、屋根の修理、牛乳の宅配それに新聞の勧誘員だった。
この家にインターホンはない。階段の電球は切れたままだ。断りをいうために、昼間でも薄暗い急な階段を降りていくのは面倒だ。そのうちに諦めて帰ってくれるだろう。少し横になってオーケストラの練習に備えないと夜の九時まで集中力がもたない。
また膝をくずし、ペットボトルに手を伸ばした。冷えて渋くなったお茶が胃を重くする。壁の時計を見あげると四時まえを指していた。三時間ちかく庭の掃除に立ち働いていたことになる。今日は介護施設に知津子を見舞うのを休んだが、仕事のあとに実家の片付け、それからオケの練習という一日は無理があるのかなと思う。ふっと道岡でもよいから手伝ってほしかったと思ってしまう。
何かおなかに入れてから練習に出なくっちゃ。真那はジャケットを羽織りポケットに財布を滑り込ませ、階段を降りて行った。頃合いを見計らったつもりだったのに、階段を降りたところで、待ちかねていたようにブザーが長く鳴った。
格子のガラス戸に覗き窓はない。玄関を開けて対応するしかない。知津子の頑なな声が思い起こされた。
「顔見てうっとおしい人やったら、戸を閉めるのよ。インターホン、そんな面倒なものいらんよ」
不用心だから取り付けよう、とすすめる真那に知津子はそう答えた。そのあと襖の張り替えの業者に押し切られ高額の支払いをしたときも、インターホンを強く勧める娘に、「断ってるのに門開けて入って来られてしょうがなかったけど、これからは気をつけるから、そんなものはいらない」と強く拒んだ。腹を立てた真那は母親をうっちゃっておいた。
玄関に向かって大きな声で返事をし、知津子が言っていたように、すぐに閉められるよう引き戸を少し開けて覗いた。茶色のブルゾンを着た小柄なおじいさんが、にこやかにこちらを見ている。手にはなにもない。近所の人だろうか。そのまるまっちい顔のどこかに見知った特徴がないかと探しながら、曖昧な会釈をした。
「わたし、民生委員をしてる板谷と言います。まえに通りかかった折りに、ヘルパーさんが来とられてましたけど、このところずっとお留守みたいで気になってました。二階の窓が開いてたのでどなたかおいでやったらご様子お聞きしよかとおもいまして。いやなに、ついこの先に娘夫婦がおりますので、しょっちゅうここは通りますのや」
気をつかった話し方だった。イタタニという名前に聞き覚えはあった。真那が高校生だったころ、自治会の世話係の順番が回ってきたことがあった。そのときの会長さんの名前を板谷さんと知津子が言っていた。川沿いの道に降りる角を左に入った大きな家で、剪定された庭木がきれいだったのを覚えている。
会ったことがあっただろうか。あれから二十年あまりがたつ。真那は門扉を大きく開けて挨拶をし、この夏、兄と母親に立て続けに起こったことをかいつまんで話した。認知症を発症していた母親が風呂場で転倒をして入院し、それを機に介護施設に入所したこと。一人暮らしになった兄は、訪問看護を受けていたのだが、盆明けに熱中症で死んだこと。
「熱中症ですか」板谷さんが驚いた目をした。真那は板谷さんの動揺にかまわずに続けた。
「母がいなくなって、ずいぶんお酒がすすんでいたみたいです。わたしは時どきしか来られませんが、部屋を整理しながら、この家をどうするか考えています。このままでは庭も荒れ放題でご近所に迷惑をかけていますし」
「救急車が来とったのは聞いとります。ご病気やと思うとったんやが」
視線を足もとにおとして何度も頷き、小学生だった兄を知っていると、お悔やみを言った。成人した兄が精神障害者になってしまったことは、町内で周知のことだった。
「部屋で亡くなっておられたんですな」と俯いた板谷さんはお悔やみを繰り返し、つっと顔をあげた。
「妹さんやったですか、見つけてあげられたんは」
「はい、わたしが来る六時間ぐらいまえに死んだようです」検死をした医師から聴いたことを言った。帰っていく板谷さんの丸い背中が角を折れていくまで真那はじっと立って見送った。
玄関の戸締まりをし、ポケットを探って携帯電話に道岡からの連絡が入ってないのを確かめた。
バス停前のパン屋に寄って戻って来ると、刈りこんで透けた生け垣の内でちらちら動いているものが見えた。近寄ってみると、赤い大柄なチェックのシャツを着た道岡だった。
「なにしてるんですかぁ」
振り向いた彼の返事を待たずに庭に入った。
「おまえさぁ、こんなふうに積んどいたら、焚き火されちゃうぞ」
真那が集めた朽ち葉と枯れ枝の山をゴミ袋に詰めながら言う。
「そのゴミ袋どこにあったの。捜してたんだけど」
「相変わらずのんきなこと言ってるな。袋は納屋にあったよ。前からそうだろ」
「すっごい記憶力」
「ばか言ってないで手伝え」
袋の端を結び合わせて閉じようとしているがうまくいかない。息を切らしてまですることかしらと、腕組みをした真那は、しゃがんだ彼を見下ろしている。
「詰めすぎじゃないのそれ」
新しい袋を取り、一振りして空気をはらませると、彼の前に突きだした。
「もうすこしだ」袋の端を合わせながら言う。「さっきおばさんが覗いてた。近所で空き巣が三件あったそうだ」
「さあ、できた」と言って立ち上がった彼は、真昼の陽気を受けて上気している。
「ちょっと」と真那は耳の横で彼に手招きした。
「なんだ」彼がつられて彼女に顔を寄せる。
「来たのって、そこのおばさんでしょ。めがねかけて四角い顔した。あんたが空き巣じゃないかって、心配で見に来たのよ」とささやく。
「おれがか」彼も小声で返す。
真那は背筋を伸ばし「さあ、知らないよ」と突き放すように言い捨てると、踵を返して玄関に向かった。
「電話くれたら断るつもりだったの。お参りにきてくれても、お仏壇開けられない」
真那は居間に入ると、座敷との境の襖を開けた。
「おじゃましまーす」と言いながら上がってきた道岡は、真那の肩に触れそうなところに立っている。
「携帯忘れてきたんだ。登録はしてるけど手帳にメモをし忘れて」
庭に面した広縁のカーテンは閉まったままだ。ストーブや電気炬燵、厚手のカーペットに掛け毛布と、知津子が普段使っている冬物がまとめて置いてある。トイレットペーパーや洗剤の買い置きもあった。
「えらいことになってるな」と道岡が言う。
広縁に入りきらず座敷に溢れている物はどれも古くなって用済みになった物ばかりだった。仏壇の扉を塞いでいるのはソファーに布団、クビの折れた扇風機や壊れた掃除機、テレビ。オーディオセットもある。
「うちの仏壇、大きいからね。そのうちにこれも処分しなくちゃならない。かあさんが生きているうちはこのままでもいいけど、あたしのあとは世話する者がいないから」
道岡は黙っている。
「尚志くん、倒れていたのは自分の部屋?」
真那のつむじのあたりに彼の息があたった。彼女は彼の脇をすり抜けて廊下の奥のドアを開けた。
「そうよこの部屋。あのベッドの下に俯せで倒れてた」
「かわいそうだな」
ドアを閉めて振り返ると、彼がしょげかえって突っ立っていた。肩をおとしていると老けこんでみえる。そんな顔しないでよ、真那は言葉に出さずにおもう。
「二階の部屋が暖かいわよ。こことは別世界。先にあがっていて。インスタントコーヒーならあるから」
道岡は踏みしめるように階段を上っていった。
コーヒーをトレーに乗せて二階に上がると、道岡は掃き出し窓を開けて外を見ていた。
「カラスって人が住んでいないってわかるのかしら。ただの留守ではないのが。そのうちにこの家、カラスのお宿になってしまう」
道岡はなんのことだろうという顔をしてコーヒーを受け取り、立って飲みながら言う。
「この家を整理して住まないのか」
「四十歳になったら結婚するの。この家売ってかあさんの介護費用つくって、残りで別の家を買って練習室を作る」
床に両膝を立てて座りコーヒーを混ぜながら真那が言う。
「いい計画だな」
「あと一年ちょっとでかたづくかな、結婚もがらくたも。業者に頼めばずいぶんお金がかかるのよ。かあさんの通帳貯金ゼロになってたの。光熱費の引き落としもできなくなっていて。まいっちゃうわ。あたしの定期預金解約してお金をつくったけど、それも余すところ僅か」
数羽の小鳥が柿の実を啄んでいる。雀より小さい。小さすぎて色あいが判別できないが、細身の体に似合ったかわいらしい声で鳴いている。
「本社に戻ってきた。いま寮にいる」
「転勤してたの、知らなかった、そう」
家族で住める寮ってなんだろうと思いながらも尋ね返しはしない。彼はため息のような息をつき、決心するような口調で言った。
「一年間、俺にこの家貸さないか」
意外な提案に真那は思わず彼の顔を見上げた。道岡は柿の木から目を外さない。
「俺がゴミ捨てを手伝ってやる。家中のゴミを大小に関わらず捨ててやる。おまえには何もしてやらなかったからな。おまえは暇なときに来てゴミをまとめろ。座敷の物はいちばんカネのかからんやりかたで俺が処分してやる。光熱費は払うが余分なカネはないから家賃は払えん。家族は」道岡はちょっと間をおいた。「実家に移った。こっちではおれ一人だから独身寮にいる」
「寮から越してくるってこと?」
「いやそうじゃない。休みのときだけここに居させてくれ。尚志くんの部屋もきれいにするよ。ここなら気兼ねなく音もだせるしな」
「さいきん吹いてない?」
彼が頷く。
「そうね、寮じゃ無理ね」
彼の横顔の背景の空に薄雲がかかってきたのが気にかかる。真那は空に顔を向けたままでいる。
「結婚、切羽詰まってんの?」
彼は下を向いた。
「子供と二人で彼女の両親と暮らしている。別れたいと言っている」
小鳥の群れがふわっと空ではじけた。真那は目をつむった。ちょうど今頃の季節、電話の主は子供ができたから夫と離婚してくれと言ってきた。
閉じた目に、柿の実に群がっている小鳥たちの残像がある。彼らの嘴が、入れ替わり立ち替わり真那を啄む。チクチクと痛い。しばらく強く目をつむっていた。
目をあけると、道岡が不安そうに見下ろしていた。
「だいじょうぶか」
しゃがれた彼の声に真那は頷き、ジャケットからキーホルダーを取り出し、実家の鍵を外した。
「うちにかあさんのがあるから、これ渡しておく。あたし、練習あるからもう行くけど。代吹きすれば。そうだ、ちょっとご近所さんまで付き合ってくれる。民生委員の板谷さんのところへ一緒に行って、あなたのこと紹介するわ。さっきみたいに不審者だと思われてもいけないし。そうね、遠縁のものでいいかしら」
演奏会当日、迫り出したおなかの後輩を心配して、道岡は客席で待機していたが、彼の出番はなくてすんだ。
演奏会のあと道岡とは実家で一度会った。市の清掃課にトラックでゴミを運んでもらうのに、真那も立ち会ったのだ。
「おーい真那、これもゴミかぁ、どうするんだ」
「そこに置いてるのはちがうって言ったじゃない。ちゃんと聞いていてよね」
「おくさん、これもですか」
職員が真那に訊いてくる。収集車が投げ込まれた物を、ばりばりと粉砕している。ご主人と呼ばれた道岡が、はいはいと返事をして市の職員を手伝っている。
座敷はさっぱりとした。次の仕事は、押入や戸棚から引っ張り出した不要品を、不燃物と燃えるゴミに分別して袋に詰めることだ。真那が袋詰めにして並べておく。量がまとまったら、収集日の前日から泊まり込んだ道岡が早朝にゴミ置き場まで運ぶ。この分担作業を一年計画でする。
用事があれば、台所のテーブルにメモを残した。必要があればメールで連絡をすると取り決めたが、お互いの受信箱に要件が入ったことはない。
今日はメモする事もなかったので、食卓に敷き直したレース模様の白いテーブルクロスのことを書いた。
(きれいでしょ。もうじき春です)
(そうだな。寒いな、雪になるかもしれんな)
|