ロータスルート   西村 郁子



ロータス ルート
          Lotus root (英)蓮の根・れんこん

  

 姉の隆子から家族のことで相談があるとメールがきた。
宗一郎は、三月の後半の土日に大阪の実家に帰る予定だと返信しておいた。それは今から一週間後のことだった。
 大阪の実家というのは、正しくはない。いまやそこは、一階が、隆子が切り盛りする居酒屋になっており、二階の居住スペースに宗一郎の部屋がいまだにあるにはあるが、十年前に父親は母親から離婚したいといわれ、家を追い出されていたし、母親は六年まえに亡くなって誰も住んではいないからだ。
予定日の前日に、天満の寿司屋に席を予約したので家に帰る前に食事しようと、ついてはJR天満の改札に六時に待ち合わせしたいと姉の隆子からメールがきた。
 天満駅のホームに降り立つと、そこは思いのほか狭く、ホームとしてはあまりにも脆弱な感じがした。先に歩く人について階段をおり、改札近くまでくると、隆子が改札の外でどこをみているのか分からない顔つきで立っていた。むかしはほっそりとして、友だちからもお前の姉ちゃん美人やなと言われていたこともあったが、この十数年で隆子の体はすっかり中年のそれに化けてしまっていた。それは、宗一郎も同じだ。容姿のことはなるべく考えないようにしている。
 隆子の目に自分の姿が映ったと思ったが、手を振るでもなく、黙って見つめている。宗一郎はやがて、左肩を落として、首を左にかしいだいつもの姿勢で、とぼとぼと歩く自分の姿をみられているのだと気づいた。
宗一郎には負い目があった。それは、一昨年の夏、是非会わせたい人がいると打ち明けていたからだった。そして、それは宗一郎の都合で反故にし、隆子からは、それについての質問はなにひとつなかった。
宗一郎が隆子の前に行くと、隆子は、体の向きを変えた。それから、二分も歩くと、寿司屋の前に着いた。
「ここ、前から知ってる店?」
 宗一郎は大将から差し出された、真っ白なおしぼりで顔を拭きながら隆子に訊いた。
「ううん、雑誌で知ったの。毎日、天満市場で仕入れしてるけど、夜はここではあまりご飯食べたりしないからね」
 それでも食べ物商売をしている隆子の嗅覚は当たりが多く、どちらかというと、食に無頓着な宗一郎にとって、隆子との食事は楽しみであった。
 カウンターに置かれたメニューにはコースしか載っていない。しかも、三千八百円の一コースのみである。
 瓶ビールを頼むと薄ガラスのコップがでてきた。
このコップを使う店は、作る料理に自信がある店だと思う。なぜなら、ちょっとした衝撃で割れてしまうコップを扱うのは店の側だけではない。ある程度、気を張って食事することに訓練された客が使うことが前提のコップなのだ。それを提供するのは、訓練された客がほとんどであるという証なのだ。
若い店主ひとり。自分が四十五歳だから、三十歳代の男は、みんな若いということだが、この店主はまだ、どこか尖がったところが見え隠れし、そういうところが若いと感じさせるのだ。
寿司といっても、最初はイカの塩辛だとか、鰊の酢〆などの小鉢が続く。カウンターだけの十席ばかりの店だが、席がすべて埋まっている状態では、店主は客と話す時間もなく、作って、給仕するのに終始している。
二つ目の小鉢がでてきたころ、隆子は、
「良治のことなんだけどね……」と言って、薄ガラスのコップのビールを一気に飲み干した。
「良治、どうも事業が上手くいってないみたいでね。年末からずっと、うちの店にきて、相談ともつかない話をしてんねん」
 良治は年子の弟。小学校から高校まで同じところに進んできた。良治はクラスの人気者だったが、自分は目立たぬ男だった。姉の隆子だって六歳上だったにせよ、児童会委員になったりする存在だった。
「前職の上司だった、その人に裏切られたようなのよ」
 隆子の声が、どこか遠くから聞こえてきた。
「えっ、なに、裏切られるって。どういうこと?」
 それはお金に関わる問題になるのかと、内心、ここにくるのではなかったと思った。
「それがね、わたしもよくわからないのよ。良治は、アメリカで作った法人会社を整理してたたんでくるって、この一月に渡米したんだけどね。やっぱり、起業してまだ、何もしてないってことが、本人にはあきらめがつかないの。それで、もう少し、このまま仕事をやらせてくれって、奥さんに言ってるんだけど、彼女、まったくしらけちゃって、良治の話しを聞こうともしないんだって。彼女はすぐに勤め人にもどってもらいたくって、早く以前の様な生活に戻ることを望んでるということらしいよ」
 そらそうだろうと、宗一郎は思った。
「それを言うなら、上場会社の役員だったときに、命がけで止めるべきでしょ。何、夢みてるのって。子どもはまだ小学生だし、生活の安定が基本だろうって。なのに、一年前は、わかった風に会社を辞めることに反対しなかったくせに、たかが、一年の停滞で夫を信じられないなんてさ」
 宗一郎は、どきっとした。そういうものなのか、何かを決断するときに、誰かの意向を考えるなんて経験がなかったから。相談相手といえば、母親だけだった。
 隆子が、「宗ちゃん、熱燗飲まへん」と鼻に皺をよせる、楽しいときにみせる笑顔で聞いてきた。
「いいけど」と気のない返事をしているが、姉とは言え異性と酒を飲むのは華やかで楽しいと思う。そして、ここにいるのが姉じゃなくて織江だったら、さらに、どんなに嬉しいだろうかと思ってしまう。
 しばらくすると、隆子はすっかり酔いがまわったようで、少し淫靡なくらいとろんとした目をして、
「なあ、わたしたちで、良治の一年くらい支えてあげようよ。嫁は一年しか猶予を与えないってさ。でも、弟なんよ、良治は。わたしらがなんとか……」
 それを遮るように、
「そんな金ないわ」
 はじくように言ってしまった。
「えっ」
 隆子はびっくりしたような顔をむけた。はじめ宗一郎は、良治の援助を断ったことを非難されているのかと思って、身構えていた。しかし、その反応は別のことであった。
「お金ないって、あんたがそんなこと言うのおかしい」
 こいつ、酔ってるくせに何でそこに気がいくのかと思ったが、仕方がないので、
「毎月、渡してる。彼女に」
 と、告白してしまった。
「はっ、なに」
 さらに隆子の反応が明晰さを増すのがわかった。
「渡してるって、前に会わせたいって言ってた、鹿児島の女の人か」
 隆子に会わせたいと言ったとき、おやじや良治には知られたくなかったので、口止めと引き換えに隆子には、聞かれるまま、織江とのことを話していた。一昨年の夏に話してから、今日にいたるまで、何も言えなかったのには、いろいろあったからなのだ。
「え、ちょっと、なんぼ渡してるん」
 まだ隆子は、お金から離れようとしない。仕方なく、左手でVサインをすると、しばらく沈黙があって、
「二十万か。あんたそれ、ほんまか」
 さっきまでの、トロンとした顔はすっかりなくなり、素面に戻ったようになっている。
 話す順番を間違ったと思った。隆子の切り込みが上手すぎて、ぽろっと本当のことを言わされるのだ。
 カウンターの向こうから、小さく握った白身の寿司が一貫、まな板がわりのハランの上に置かれた。隆子は、そちらに視線を戻すと、箸で小さな寿司を挟み、ネタを下にして、醤油にちょこんと漬けて、ひと口で食べた。二回、三回、咀嚼している間は、薄目である。このまま、大将が間髪いれず、寿司をだしてくれれば、と思っていると、隆子の目がふたたび見開かれた。
「鯛の昆布〆やわ。ええ仕事してるわ」
 小声で言った。それを聞いて宗一郎も寿司を口に入れる。昆布〆がなにか分からないが、明らかに生とは違う食感である。歯が押し返されるような弾力はないが、ネットリというか、歯型が付くようなもちっとした感じがして、噛んでいると出汁のような旨みが広がってくる。
 そうして寿司に集中していると、隆子がふたたび、
「じゃあ、その人と結婚の約束したんやね」
 と、話しを戻された。
 寿司を噛んでいる振りをして、どう答えようかと考える。
 自分は四十五歳のこの歳まで、結婚を考えるような女性と付き合ったことがない。織江とは、去年までいた鹿児島の支店にいるとき、よく通ったスナックのチーママと客の関係だった。
 最初は、その店の若いホステスのことを好きになり、織江に相談していた。織江は、好きになった女の子の気持ちを知っており、脈がないことを傷つけないようにと気遣って、うまく諦めさせてくれたのだった。
そうしているうちに、今度は織江を好きになっていた。若い女の子にはない気遣いや、よく観察してみると、明るく笑ったその最後にうっすらと陰のある表情をすることがある。細い人差し指を頬から耳の後ろにゆっくりと上下させて、考え事をする仕草が大人の女を感じてぞくっとしたりする。ずっと織江を見つめている自分に気づかず、視線が合ったりする。織江はそんなときも、しっかりと視線を受け止めて優しく笑うのだった。
仕事が終わると、織江に会いたくて仕方がなく、同僚を誘って店に足しげく通った。誰も行かないという日は、ひとりでも行くようになった。
結婚したいと初めて思ったのが、織江だった。
 今回、お金の援助を申し出たときに、結婚のことを少し匂わせると、織江もそうなれたらいいのに、と言ってくれた。
「そのつもりやけど、彼女にいろいろ事情があってね」
 ごくりと飲み込んでから、言った。
「宗一郎、あんたこの前言ってたよね。ばついち、二十歳くらいの子どもがいて、肝臓が悪くて、歳は宗一郎と同じ。この他に何の事情があんの」
 畳みかけるとは、こうすることなのだ。隆子の口元をほれぼれと見入ってしまう。自分も部下を注意するとき、これくらい滑らかに言葉がでてきてくれたらなどと思った。
「まあ、そうやね。体の具合が悪いっていうから、仕事、変わりっていうたんや、僕が。それで、次の仕事までのつなぎは僕が面倒みるって」
 それを言ってから、まもなくして、織江は仕事をやめた。ほんとにいいの、ごめんね、と何度も言って、これは、もらうんじゃない、借りるの。仕事をしたら返すからと約束してくれた。宗一郎にとっては、結婚するのなら、返してもらわなくてもいいお金だ。
「ほんま大丈夫。あんたは、経験知がないねんから、騙されてるかもしれんよ」
 案の定、隆子の反応は悪かった。これは、織江とも話していたのだ。きっと、このことを大阪のお姉さんがきいたら、わたしのこと、悪く思われると言って泣いた。まさに、その通りになり、宗一郎は織江のことを思うと、胸が締め付けられる思いがした。
織江はよく泣く女だった。酒に酔うとその傾向は強くなり、彼女の頬に涙のスジが残っているのは、見てはいけないもののひとつにいれている。ただ、女に泣かれるのは、宗一郎の母親もそうであったので、それほど苦ではなかった。それと、聞いたことはないが、織江の両手首には、数本の切り傷がケロイド化したものが残っている。辛い人生を送ってきたんだろうと、その傷さえいとおしく思っている。
「彼女、沖縄のあんたのうちに来てくれたの?」
 トリガイの握りがハランに載せられた、そのときに不意打ちをくらった。
 そう、二十万円を渡し始めたのは、四ヵ月まえであった。ちょうどそのとき、宗一郎は仙台の支店の短期の赴任から、沖縄の支店へ転勤になったのだ。陸続きではなくとも、鹿児島と沖縄なら、ずっと往き来もできるだろうと、内心浮かれたのは事実だった。でも、暗に来て欲しいというと、犬がいるので、どうしても家が空けられないと謝った。
「犬がいるから、家は空けられないって」
 また、正直に言っている自分がいる。
 隆子が黙り込んでしまった。いくら待っても話し出そうとしないので、不安になって横顔を覗き込んだ。
瞬間、隆子の頬骨のあたりなんかが、母親に似てると思い、ついで母親のことを思い出してしまった。
もし、いまも母親が生きていて、この話を知ったら、その反応は隆子どころではなかっただろうと思う。
母親は、弟の良治が大学生の頃に付き合っていた彼女に対し、良治にきた手紙を勝手に開封して、良治に渡さなかったりしたこともある。その話を母親本人から聞いた隆子は、だいぶ母親を責めていたが、母親に反省する気持ちなど到底なかった。良治と彼女は、別れ話がでていたころで、彼女はその別れを拒んでいた。母親は、良治を守るためにしたことだと言い張った。
隆子は宗一郎の方は見ず、熱燗を手酌で注ぎながら言った。
「お母さんが生きてたら、わたしみたいなリアクションじゃすまないやろね」
「僕も今、まったく同じことを考えてた」
「良治の時の、手紙捨てたり、電話を取り次がなかったり。あんた、知ってる? あの時の彼女、家まで来てんよ。それでも、お母さん、ふたりを会わさんと、彼女に早く諦めて、違う人見つけなさいって言ったんやで」
「ほんまに。それえげつないな」
 宗一郎も熱燗を自分で注いで、一気に飲み干した。
「お母さんやったら、たぶん、明日朝いちで鹿児島に行ってるやろね。ほんで、あんたの彼女を呼び出して、つぶしにかかってるわ」
 死んだ母親の悪口ともつかない話をしているからか、隆子の表情にうっすら笑いが浮かんできた。
「まあ、あんたも大人やし、自分のお金やねんから何もとやかく言われることはないよね。たださ、思いも寄らんことって、ほんとにあるんやから。たとえば、練炭を買って、焼肉を彼氏に食べさせるつもりでした、なんて、誰も信じないようなことを平気で言って、人を何人も殺している女もおるんやで」
 何のことかよくわからず、しらっとしていると、いきなり、カウンターの向こうにいて、忙しそうにしていた店主が、笑いだした。
「ねえ、可笑しいでしょ」
 少し酔いがまわった隆子が、店主に言う。
「いや、練炭事件すごいですよね。何人もの男がそれで殺されてるっていうのは。オレオレ詐欺と一緒で自分だけはそんなことないっていうのがあるんでしょうね」店主も意味がわかっているらしく頷いている。
 みれば、カウンターには宗一郎と隆子しかいなかった。どうも、その開放感からか、店主はうってかわってフレンドリーになっていた。
「ねえ、ご主人にきいてもらおう。いいよね」
 完全に酔っ払っているが、姉なのでどうすることもできない。
 隆子は、これまでの話を仔細に店主に話している。
まま、どうとでもなれという気持ちになっているので笑われても平気だ。
 歳若い店主は、真剣に隆子の話をきいていた。話を聞き終えると、ほどなく、
「お金をもらったりする関係は、恋愛とはいえないでしょう。それに犬がいるから沖縄の家に行けないって説明もあかんでしょ」
 隆子が大きく頷いている。店主にはどちらに味方する気もないのがうかがえるが、織江のことをますます悪く言われだしたので、腹が立ってきた。心の中で、ここまで言われたが、自分の気持ちに変わりはないということを、織江に伝えたかった。
 隆子は勝手に、
「わかった、こうしようよ。来月の今日、ここに彼女をつれておいでよ。ふたりが幸せそうであるなら、わたしはなにも言わないよ」
 そういって、大将に三人分の予約を入れていた。そういうところは、姉らしいと思ったのだが。
 別に住む隆子と別れ、実家の自室に戻ると、なぜだか猛烈にお腹が痛くなった。
トイレの便座に座り、ポケットから携帯を取り出した。メールは届いてなかった。本心、織江が自分を好いてくれている自信なんてない。隆子が、あんたら体の関係はあるんやろねと、ずばっと訊かれたときも、ないと本当のことを言ってしまった。それを一緒に聞いていた店主の驚いた顔が浮かぶ。

翌朝、帰り支度をしているとメールの着信音が鳴った。昨夜、織江に送っていたメールの返信だと思い、急いでみると、弟の良治からだった。良治は仕事でロスに行っているらしい。
良治の忠告はさらにひどかった。
「ねえちゃんから話しを聞いたが、その女性はきっと、結婚する気はなく、宗ちゃんが勝手にお金を貢いでくれていると思っているので、お金をくれなくなったら離れていくから、そうしてみるべき。もしくは、男がでてきて脅されるかもしれないから充分気をつけろ」と書かれていた。おおきなお世話だと、そのメールを削除してやった。
リムジンバスに乗って伊丹空港にきた。沖縄に直接帰らず、鹿児島で一泊して行く。織江には昨夜そのメールをしていたが、午後になっても返信は来ていない。
チェックインを済ませ、二階の土産物でもみようと、エスカレーターに乗る。三連休の真ん中だというのに、空港ロビーはそこそこ混みあっている。
織江に買っていくのは、プリンと決めている。それもモロゾフの瓶に入ったプリンだ。大阪ではどこの家にもあの瓶があるという話しをしたら、けらけらと笑っていた。最初は、大阪にも遊びに行きたいと言っていたが、まだ実現していない。隆子に会ってもらおうと思っていたのも、このころの会話があったからだ。
メールの着信音が鳴った。
織江からだった。鹿児島空港まで迎えに行けない。ごめんなさい。六時にシルクで待ち合わせしようと書かれていた。シルクはこの前まで織江がチーママをしていた店だ。いまも人が休んだりしたときは、ヘルプを頼まれて行っていると聞いている。
よっしゃ、とプリンの紙袋の持ち手を力いっぱいに握り締めた。
保安検査場を通り、搭乗ゲートの待合で腰をおろすが、お茶を買おうと思い売店に入った。レジ待ちのあいだ、スポーツ新聞や週刊誌のスタンドを見るともなく見ていると、練炭という文字が目に留まった。どこかで聞いたなあと考えていると、ゆうべの隆子の言葉だった。練炭を買って焼肉するとかなんとか。その週刊誌も一緒にレジでお金を払った。
待合の椅子に座り、お茶を一口飲んだ。週刊誌は練炭の記事がトップのようで、表紙をめくるとすぐにある女が婚約者を次々殺していくという事件を報じていた。容疑者の顔写真も大きく載っていた。高校生のころだろうか、学校の制服をきた女は太って細い目に丸い鼻のお世辞にも美人タイプといえない容姿だった。驚いたことに、女はずっと男たちからの援助を受け、贅沢な暮らしをしてきたらしい。
なるほど、これが自分と織江の関係でもあるという意味か。隆子の心配はお金じゃなくて命のほうだったかと、頬がゆるんだ。
記事は、女が結婚相談所やネットのお見合いサイトなどで、独身のかなり年配の男をみつけ、結婚をちらつかせながら、男のお金を自分のために使わせて、その金がなくなると、睡眠薬で眠らせてから練炭で一酸化炭素中毒で事故死したとみせかける手口だった。
全然違うじゃないかと、宗一郎は隆子に向かって言いたかった。
記事の隅には、練炭の写真が載っていた。子どものころ、宗一郎の家も練炭火鉢を使っていた。長屋の隙間だらけの家だったから、一酸化炭素中毒もあったものではないが、母親は用心深い性格だったので、長屋の玄関先でまず七輪で練炭をいこす。それも練炭全体が赤々と光りだすほどまでいこすのだ。それを今度は練炭火鉢用の、練炭がすっぽりと収まる方に移し替える。そんなことを思い出していたら、黒い鉄でできた練炭鋏の形まで思い出すことができた。
マンションなんかの機密性の高いところでなら、事故が起こっても不思議じゃない。車の中で練炭自殺を図ったりするのも、練炭に完全に火がまわらず、黒いままの部分を多く残した状態なんだろうなと想像した。
記事は大げさな見出しと異なり、なにも断定していなかった。女はお金をもらっていたことは認めている。そして、男たちを殺したことは認めていない。
当然なのだが、自分のまわりで何人も男が死んでいることに疑いが向けられる。女はそういうことを承知していたのだろうか。
きっと、この女はバレないと思ってやっていたと思う。たとえ、ネットで七輪を何個も買おうとも練炭を使って焼肉すると言えば、言い逃れができると信じている訳だ。
くだらんと心の中で言い捨て、週刊誌をゴミ箱へ捨てて、機内に向かった。
宗一郎の席は、中ほどの通路側の席だった。隣は若い女性で、マスクをし、耳にはアイポッドから伸びたイヤホンをしている。宗一郎はシートベルトを締めると、目を閉じた。隆子や良治の心配を全部否定してきたが、いまになってじわじわと効いてきている。まるでボクシングのボディブロウみたいに。とりわけ、体の関係がないことが変だと言われたことが、気になって仕方なかった。そして、全くなにもないわけでもないのだと、大きな溜息とともに、危うく口をついて出そうになった。
隣の女の子が咳払いをした。なんか文句でもあるのかとそちらを見ると、すみませんと言ってトイレに立った。
スナックシルクのトイレも人を立たせないと入れないような造りであった。宗一郎がその日最後の客で、誰も座っていないカウンターの椅子と壁の隙間を横向きに歩いてトイレに入り、また同じように出てきたところで、織江がおしぼりを持って立っていた。おしぼりは受け取らず、そのまま織江を抱きしめていた。一分かそこらそうしていると、織江が軽く両手で宗一郎の胸を押した。
すると、織江のほうから唇にキスをしてきたのだ。あとは、織江が宗一郎の体を触れるか触れないかくらいのタッチで胸や背中、そして股間にも。おもわず、腰をひいたので、織江は止めてしまった。だから、体の関係はあったかもしれないのだと自分に言い聞かせた。
いつ寝たのか、周りがざわざわとしてきたので、目が覚めた。飛べば一時間で着く。首を右左にかしいでみる。隣の女の子をそのついでに見る。顔まですっぽりとブランケットを被って寝ていた。
寝ていた気がしなかったのは、大阪にいる夢をみていたからだろうか。
千里の万博公園で友だちと遊んでいる夢だった。大きな池があり、そこにカメラに三脚を立てた人たちが並んでいる。池には美しい蓮の花が咲いているのだ。
宗一郎はいつのまにか池の前にきて、すぐ目の前の蓮を見下ろしている。ピンクのグラデーションの蓮の花が水面すれすれに咲いている。
蓮の花はあんなに美しいのに、すぐ下の水の中は泥なのだ。いつか、テレビで見たれんこんの収穫の場面を思い出した。泥の中に長々と節を連ねたれんこんが埋まっている。それを胸の下あたりまで泥につかりながら、高圧の水で掘り返していくのだ。そんなことを想像しながら見ていた。
すると、花の真ん中にある穴のあいたれんこん状のものが、どんどん黒く変色していく。その黒が水に溶けて、綺麗だった花も汚れていく。最後には花の真ん中は寸胴の練炭になっていた。
広い池面が墨汁を流したように汚らしく、夥しい数の黒い練炭で埋め尽くされている。それはまるで練炭女に殺された男たちの墓標のようで、なんとも気持ちの悪い夢だった。
 鹿児島の空港は、眼前に霧島山がみえ、市街地よりは高度も高いところにある。リムジンバスに乗れば、天文館近くにあるシルクまで小一時間で行けるだろう。
腕時計を見る。鹿児島神宮にお参りしてから行こうと決めた。転勤の多い職場なので、新しい土地に行くとそこの神社にお参りにいくのが習慣になっている。鹿児島神宮も最初にお参りした神社なのだ。
鹿児島支店で働いていた頃、住んでいたのが鹿児島神宮の近くだった。住宅地の中に、ひっそりとあるのが、鹿児島神宮で、よく間違われるのは霧島神宮だ。関西の近江神宮や伊勢神宮に次ぐ大きな神宮で格が違うのだろう。
宗一郎は、賽銭箱に千円を入れ、うやうやしく二礼し小さく拍手をうって、頭をさげた。織江といっしょになれますようにと、願った。今夜、その約束がちゃんとできるよう、自分に力をくださいと心の中でつぶやいた。
頭をあげたとき、そういえば中学校のとき、家の近くの神社で、片思いだった女の子と同じクラスにしてくださいと祈ったことを思い出した。その子とは同じクラスになれなかったのだが、そのとき、神様にそういうことをお願いすることがいけなかったのだと反省したのだった。今日の願いは性懲りもなくと思うと、つい首がすくんでしまった。
シルクは雑居ビルの二階にあるカウンターだけの店だ。ドアを引くと、真っ先に見えたのは、ピンクの派手なドレスをきた年配の女性のお尻だった。まだ、六時半をまわったばかりなのに、補助イスを使っている盛況振りに驚いた。お尻の女性は、イスの上に膝立ちして、カラオケの画面をみていたのだ。
宗一郎は織江を探す。カウンターの中にも客席にもいない。どうしたんだろうと思っていると、入口の戸が開き、炭酸ソーダを持った織江が入ってきた。
宗一郎をみるなり織江は口元で、ごめんね、と言っているように見えた。
宗一郎の席は、織江がちゃんと取っていてくれていた。
「宗ちゃん、ごめんね。今日はわたしもお客でこようと思ってたんだけど、アオイちゃんが、あの、大学生の。彼女が試験があるからってお休みしたらしくて、ママからヘルプを頼まれたの」
 織江はすらすらと言ってのけた。だが、宗一郎はなんとなく、織江が最初から店で仕事をしているような気がした。それは、姉や弟から言われたことでナーバスになっているからだろうか。いや、そうではない。ママの姿がないということは、今日は織江が店を切り盛りすることを意味する。宗一郎が店に足しげく通っていたころ、織江にきいたことがある。バイトや若い娘だけだと、六十歳になるシルクの経営者のママは店に立つけれど、織江がいるときは、最後の売り上げを計算するだけで、店は任せっきりなのだと。
 騒がしい一塊が店を占拠していて、なかなか織江と話すきっかけができない。キープしているウイスキーのボトルから水割りを三杯飲んだところで、ふと、隣にもひとりで飲んでいる若い男がいるのに気づいた。坊主頭なのだが、背が高そうで、ひと目で俳優の誰かに似ていると思った。
 すると、向こうから、
「旅行ですか」と尋ねられた。
「そ、旅行ではないですが、地元でもないので、半分旅行者みたいなもんです」
 宗一郎は初対面の人と話すときは、だいたいこんな具合にしどろもどろになる。
「そうですか。僕も旅行者のような、そうでないような」
 ふふと笑った男の頬に長い皺が入った。笑うと一変して、人懐っこい顔になる男だと思った。
「何飲んでます? よかったらわたしのウイスキー飲まれませんか。キープしてるけど、そんなに来れないから飲みきったほうがいいんで」
 織江がそんなことはしないと分かっているが、若い男に気を使わせないように言った。
「ほんまですか。ほな、いただきます」
 若い男のイントネーションが変った。
「もしかして、関西の人ですか」
 宗一郎は体を若い男の方に向けた。
「ええ、八尾ってご存知ですか。大阪の」
「知ってますよ。だって、ぼくは東大阪出身」
「ご近所さんやないですか」
「ほんとに」
 宗一郎と若い男はグラスを近づけ乾杯をした。
 若い男の名は三浦と言った。なにか訳ありそうだが、酔うにつけ、明るさが増すタイプらしく、すっかり口数も増えて、そんなことは気にならなくなっていた。
 ふたりの会話はもっぱら地元の話しだった。とはいえ、宗一郎は鉄道好きの地味な男であるのに対し、三浦は中、高とバスケットボールをしていたスポーツマンだ。歳は宗一郎の六歳下だった。
 織江がちらちらと何度もこちらを見ている。こちらというより、三浦のほうを見ているのがわかった。三浦はなにも悪くないが、だんだん疎ましく思えてきた。
 ピンクのドレスを着た客たちのグループが帰っていったので、店は、三浦と宗一郎だけになった。
 織江の顔を見ていると、額にうっすらと汗が滲んでいて、客にもらったのか酒を飲んだようで、頬が赤くなっていた。
 宗一郎は背広の胸ポケットに手を置いた。かさっと乾いた音がした。ここに今月渡す二十万円が入っている。これまでの、四回もすべて手渡ししてきた。それは渡すことを口実に会いに来たいと思っているからだ。
 宗一郎が話しをしなくなったので、三浦はまた元のように沈んでいってしまった。この状況だと、どちらが先に帰るのかを図っているみたいだ。
 織江が片づけを終えて、宗一郎と三浦の前に立った。そこでも、織江の視線は三浦に流れがちだ。
「バタバタしちゃって。宗ちゃん、ごめんね。ママに頼まれちゃったから断れなくって」
 三浦が顔をあげて、宗一郎を見やった。宗一郎も三浦の視線を受けて、内心とても優越感に満たされる思いだった。
 すぐ、三浦は勘定と言った。宗一郎は、心の中で万歳をしていた。しかし、織江が急に慌てだした。
「どうしたの。三浦さん、まだ、帰らなくっても。わたしもいっしょに飲ませてもらおうって思ってたのに」
 そう言って、織江は宗一郎にも同じように懇願の顔をした。
「三浦さん、織江さんが頼んでるんだし、たぶん、これからは奢りだろうから、少し付き合いませんか」
 そう言いながら、宗一郎は馬鹿かと自分に言っていた。
 織江を真ん中に、宗一郎と三浦が座る。織江は体を三浦の方にむけ、手をうしろにまわして、宗一郎の手を握ってきた。宗一郎は、織江と三浦の会話にさも入っているようにしながら、スーパーの前に括られた犬の気持ちだった。
 三浦が帰ると先に言った。今回はそれほど嬉しくはないなあと思いつつ、グラスのウイスキーを一口のんだ。
 送ってきますね、と織江が言って、ドアを開けて三浦と出て行った。五分、十分すぎても織江は帰って来なかった。
 バタバタと廊下を走る音が聞こえ、織江が戻ってきた。
「三浦さんがね、もう一軒行きませんかって。宗ちゃん、行くでしょ。行こうね」
 織江はあっという間に片づけを済ませた。レジのお金をどうするのか見ていると、空になったアイスペールの中に入れていた。
 お待たせといって、服を二、三回上から下に払う仕草をした。
織江の服は決まって黒だった。前に黒い服ばかりだねと聞いたら、クローゼットの中は、黒と白とグレーしかないと答えた。
 宗一郎は、胸のポケットから封筒を取り出すと、
「これ」
 と、言って差し出した。
 織江はしばらく封筒をじっと見つめ、それから宗一郎の顔をおなじだけ見つめた。
「どうしたの。これ、来月の分」
 宗一郎がそう言い終わるか終わらないかで、
「なんで優しいの。わたし、宗ちゃんに何も返してない。お金じゃなくて、沖縄の家にも行ってないし、大阪にだって」
 織江はそう言い、宗一郎の胸の中に入ってきた。細い体がまた更に痩せたようだった。その体を壊さないよう、少しずつ力を入れて抱きしめた。今日、自分のホテルに来て泊まって欲しい、来月大阪へ一緒に来て欲しい。結婚して欲しい。その言葉を頭の中で何度も繰り返していた。
 織江は少し顔をあげ、宗一郎にキスをしやすい態勢をとっている。宗一郎は織江の唇に自分の唇をくっつけるようなキスしかできなかった。
 離れたとき、織江は人差し指で唇を拭った。宗一郎は、その瞬間、言おうとしていた言葉を全部飲み込んだ。
 戸締りをして店をでると、織江は宗一郎の手をとって歩き出した。織江の鞄の端から宗一郎の渡した封筒がのぞいている。いつのまに受け取ったんだろうと思った。
 二辻ほど歩くと、焼き鳥屋の前で織江が立ち止まった。繋いでいた手を離すと、暖簾をあげて中をうかがっている。
「いた、いた。宗ちゃん、入ろう」
 織江は手招きした。
 店に入ると、三浦は頬杖をつき、眉間にしわを寄せた険しい顔だった。織江はそんな様子を気にするでもなく、三浦に駆け寄り笑っている。三浦もそれに気づき、宗一郎の方をみて口角を少し上げた。
「何飲んでるんですか」
 宗一郎は三浦のカップを指で指した。
「白波のお湯割り」
「美味しいんですか」
「いや、いちばん安いので」
「じゃ、ぼくもそれをもらおう」
 織江がそれをきいて、店員に手をあげた。
「三浦さんも、お代わり? 白波のお湯割を三杯。それとももの炭火炙り、つくね、えびタルタル、枝豆も」
 宗一郎の隣に織江が座り、てきぱきと注文をした。
 ふと、三浦の視線が織江の揚げた手に止まっていることに気がついた。織江の傷を見たのだ。その気持ちはわかると、自分も最初にあの傷を見たときのことを思い出した。傷は横にではなく、縦に斜めに長い線を引いたように無数にある。
「すんません。お名前きいてなかったんで、なんとお呼びしたら」
 三浦は両手をテーブルにつけ、深々と頭を下げながら訊いた。
「ぼくは吉田宗一郎です。三浦さんでよかったんですよね」
「ええ、そうです。三浦克人っていいます」
「お仕事は何をなさってるんですか」
 宗一郎は流れのように訊いた。
「してたっていうんですかね。仕事はシステムエンジニアでした。仕事辞めてこっちにきたんです」
「あ、さっき旅行者のようなもんだって言ってましたね。オーバーホールですか」
「それもあるんですけどね。実はわたし、とある仕事を探してるんですわ」
「え、何か伺ってもいいですか?」
「いいですよ。あほみたいに聞こえるかもしれませんけど、炭焼き職人になろう思て」
「炭焼き、あの備長炭とかの?」
「そうそう、それです。山に篭って、ひたすら炭を焼くんが昔からの夢やったんですわ」
「まだ、若いのに随分しぶい夢ですね」
「人のお金儲けの手伝いは、もう嫌なんです。ほんとは高校のときにわかってたんですよ。でも、技術を持ってれば、人と関わらんでもええかなと思って、専門学校に入って、この間まで仕事しとったんです。結局、人の中でしか仕事は成り立たない」
 結婚はされてたんですかと、思わず訊きそうになった。
 男が社会からでていくには、ひとりでないとできない。三浦がその決断を四十歳を前にできたのは、そういう事情もあるだろうと思った。逆に今の自分は社会から出て行くわけにはいかない。織江の方をちらっと見た。
「吉田さんは?」
「ぼくは機械の設計技師です」
「設計って、吉田さん、ごっつ頭ええんとちゃいます」
 三浦はさも感心したように言ったが、社会を捨てようとしている男に興味のあるはずもなかろう。
 しかし、乗ったふりをして、宗一郎は織江に聞かせるために声をはって話し出した。
「ぼくが会社入りたてのころは、機械の設計って全部電卓で計算してたんですわ。なんというか、力づくでねじ伏せるように計算で弾き出して、設計というものはしてたんです。それが、最近は、人の作ったパソコンのシステムで設計をしていかなくてはならない。人の作ったものは、製作者の思想が入ってて、製作者のミスであるバグがある。ぼくはそれが理解できないんですよ。それでつい、昔ながらのやり方をしたくなるけど、そんなこと許してもらえない。だから、ぼくは自分でシステム作ることから、仕事が始まるんです」
宗一郎の転勤が多いのは、システムを作る功罪なのだ。出世からは見放されているが、便利屋として会社は宗一郎を手放さないだろう。
「僕はその逆の仕事やから、よう分かりますよ。ええかげんな奴が作ったシステムはええかげんです。人がね。仕事には人がでるんです。ぼくらはシステムを作るとき、その会社に入り込んで仕事をするんでね。ぼくらが作っているはたから、ろくに知識もない奴が口を挟んできよるんです。いじめみたいなもんです」
「それで三浦さんは、決意したんですね」
「そんな決意なんてかっこええもんちゃいますって。仕事先の責任者と上手くやれへんから、会社にクレームが入る。派遣先を三回も変わらされたら、おるとこないようになるんですわ」
 三浦はそういいながら、大きな手をこぶしに握って、もう片方の手で何回か擦り合わせるのだった。
 料理が運ばれてきて、この話はそこで終わった。
 三浦はこれから九州をめぐって、炭焼き窯のあるところで修行をさせてもらえるかを尋ねて歩くつもりなのだそうだ。三浦が言うには、天草にもいい炭を作るところがあると聞き、九州に来ようと思ったのだそうだ。
「じゃあ、どうして鹿児島にいるんです?」
 当てのない旅なのだから、別にいい訳だが、なんとなく妙に思えた。
「実は、知覧に行きたかったんです。昔から」
「特攻隊の」
「ええ、行ってきました。語り部の人から話しを聞かせてもらってたら、泣けて泣けてどうしようもなかったんです。自分の境涯、これを持ってながらこの体たらく」
 知覧は姉の隆子が行きたがったので、一緒に行ったことがある。隆子はずっと泣き通しだった。宗一郎はというと、日本史が特に好きで勉強してきたせいもあるのだが、歴史のなかで起こることは、感傷としてではなく、未来を予測することのできるものだと思っていて、どうしても分析的にみてしまうのだ。
 話に間が空いたので考えていると、信楽の陶芸の村と隣接した寂れた村を思い出した。
「炭焼きの窯だったら、滋賀の多羅尾がむかしからの炭作りの土地ですよ」
 と、言った。
それには三浦の目が輝いたように思えた。携帯を取り出して、何かを打ち込んでいた。
 ふと、話に織江が入ってこないなと、隣を見ると、白波のお湯割りが入ったカップを両手で包むように持ち、そのカップをじっと見つめていた。
「織江さん、どうしたの。退屈?」
 宗一郎は酔いのせいでいつもよりはしゃいだ声になっていた。
「ごめんなさい。ごめん」そういう織江の声はうわずっている。もう酔ってしまったのかと宗一郎は驚いた。
織江はふらっと席を立つと、ちょっと疲れたので先に帰りますと言って、財布からお金を出そうとした。宗一郎が手で押しとどめた。
織江が帰ってから、三浦と焼酎を二、三杯飲んだだろうか。別れ際、三浦がウイークリーマンションにいることを知った。
 結局、織江には何も言えずじまいだった。来月の大阪の件だけでも言っておくべきだったと、ホテルの部屋に戻ってから思った。
 シャワーを浴び、ベッドに入ったがなかなか寝付けなかった。
いままでは宗一郎が織江を家の近くまで送って行ったのに、今日もそのつもりだったのに。何度も寝返りを打っては、悶々とした気持ちのやり場に困った。
 その夜、織江からは連絡がなかった。
 だが、三浦と三人で飲んでいるときからいろいろと考えた。かりに織江が三浦に気持ちがあったとしても三浦はこれから孤高の人生を選ぼうとしている。ふたりの関係は発展することはない。それに、織江にはまず生活力のある男が必要なのだ。織江が毎月の金を受け取ることこそが、その先に結婚という形でふたりを結びつけるものだと信じている。自分は恋愛をしたいのではない、結婚がしたいのだ。
織江は別れた夫にDVを受けていた。織江の母親も織江の父親からDVを受けていたのだとも。結婚に慎重なのは、前の結婚のせいだと織江は言った。それを聞いたとき、宗一郎にとっては、弱い女を殴るという男の気持ちよりも、その男から逃れられない女の気持ちのほうが不可解だった。僕は絶対に暴力はふるわないと言ったら、わかっていると織江は頷いた。
宗一郎も子どものころに一度だけ、父親が母親を殴るのを見たことがあった。母親が何かを言い募っていたのだと思うが、突然、父親がちゃぶ台をひっくり返し、そこにあった中身がこぼれたアルミの鍋で母親の頭を数回殴ったのだった。宗一郎も良治もそれに驚き大泣きしたが、姉の隆子だけは、泣きもせず鍋を持った父親の前に立ち、押し留めたのだ。
大人になってから姉の隆子とその話になったとき、お父さんは、わたしが前に立って軽く手で体に触ったら、すっと鍋をおろしたわ。あっけないくらいだった。お父さんがお祖母ちゃんの家に電話して、いまからそっちに帰らすからって、興奮して言ってたのをきいた。わたしはてっきりお母さんが家をでていくと思って、風呂敷に下着を何枚かいれて準備していたのやでと言ったのが面白かった。
母親は、おそらく鍋で叩かれたあと、黙って畳に散らかった食器や食べ物を拾い集め、怒る父親に一歩も引かず家に居座ったのだ。

 鹿児島から帰ってひと月が経とうとしていた。
 メールのやりとりはある。
織江からは、体調のことだったり仕事探しのことだったりの報告が主だった。
宗一郎が会いたいだとか、君が好きだと言った内容のメールを送ると、わたしもそうだと言う返事が返ってくる。そのメールをみると、じわっと喜びが沸いてくる。
そういうメールの流れを見計らって、大阪行きを誘ってみた。
答えはやはり無理だということだった。宗一郎は、どうしてなのと、今回は理由を訊いた。今度も犬のせいにするのなら、はっきり結婚の意志を訊いてみようと思ったからだ。すると、織江のほうから、結婚するとちゃんと決まっていないのに、お姉さんに会うのは順序が違うと思うと返ってきたのだ。
 近々、今月分の二十万円を渡しに行こうと考えているときに、会社にハガキが届いた。三浦からだった。なんと、宗一郎が話した多羅尾に炭焼きの勉強ができる場所を見つけたという内容だ。そこには、三浦の住所も載っていて、是非、遊びにきてほしいと書かれていた。
 隆子の約束の週末もあることだし、鹿児島の織江のところに行くのは一週間遅らせて、今週は三浦のところを訪ねようと思った。
 住所を調べると、駅からすぐというわけではなさそうだった。それで伊丹までのチケットを取るとき、ネットでパック旅行のレンタカー付きの一泊ホテル付きというのを申し込んだ。すると、往復の航空運賃よりも安く行けるのだ。制約があるとしても、いままで高い値段を払っていた身としては、同じサービスを受けてこの値段はどうしたことかと思ってしまう。ホテルは大阪市内のビジネスホテルだから、当日キャンセルしても決済済みなので問題はないはずだ。
 予定を整理してみると、伊丹空港に到着が十三時だから、隆子との約束の寿司屋に行くとすれば、多羅尾へは翌日にしなくてはならなくなるなと思った。すると帰りの便が午後すぐなので、どちらにしてもどっちかを取りやめにしないと無理だと分かった。織江を連れて行かないのであれば、寿司屋のほうをキャンセルでいいかと思った。
 隆子にメールを打った。仕事が入ったので行けなくなったと。返信はすぐきた。了解とだけだった。嘘だとバレているのだろう。それでもあれこれ訊かれるよりは、ずっとましだ。
 伊丹空港に行くときは、なるべく窓側の席を取ることにしている。車輪が出されるくらいのタイミングで下をみると、場所を特定できる目印を探すのが楽しいからだ。淀川のうえを越すと、高速の豊中インターチェンジのぐるぐるが眼下に迫り、その直後に滑走路に下りる。宗一郎が大学生のころは、同じ歳くらいの男は免許を取ると、頭金もそこそこに高いローンを組んで車を買ったものだ。それでデートをするのに、伊丹空港の近くの千里川の土手に車を止めて、着陸する飛行機を真下からみるのが定番だった。
 彼女のいない宗一郎は、初めて買った車で弟の良治と試し運転がてらそこに行った。後日、良治は彼女をそこに連れて行き、彼女がとても喜んだと話した。
 到着ロビーから玄関にでると、レンタカー会社の送迎車が何台も止まっていた。その中から宗一郎が借りる会社を見つけると、板ばさみを持った男に名前を告げた。
 男は、板ばさみに目をおとし、上から順に探している。あ、はい、吉田宗一郎さま、ありました。どうぞ車に乗ってお待ちくださいと言った。中にはすでに五人乗っていた。カップルが二組と若い男がひとり。宗一郎が乗ると、すぐあとに、今度は年嵩の男ばかり三人が乗ってきて車はドアを閉めて走り出した。
 宗一郎にあてがわれたのは、水色のマーチだった。禁煙車にしたので車内も心地よかった。さっそく多羅尾の住所をカーナビに入れた。名神高速豊中から入って新名神信楽を通るルートが表示された。
 長い間大阪を離れていたので、名神を走るのは久しぶりだった。京都南から京都東にかけての慢性的な渋滞はまだあるのかしらと想像しながら、高速の入口に向かった。すると、警報のような大きな音がなり、ETCカードが入っていないことをカーナビが通知してきた。片手を離して、財布からカードを抜き出しセットした。
吹田を過ぎ茨木までの間に万博記念公園がある。この前、飛行機の中でみた夢は、ここの蓮の咲く池だった。観蓮会というのがあって、早朝人が集まってきて、そこでお酒がふるまわれるらしい。宗一郎の生れた東大阪は一九七〇年の大阪万博の影響でインフラ設備が進んだ市だった。宗一郎の住んでいた町も中央環状線が通り、それまで桃の木が生えていただとか、れんこん畑だったとか聞いたことがある。
唐突に、夢で蓮が黒い練炭に変わったときの、気味の悪さが心に割り込んできた。それは織江に対する不信の表れではないかと思った。毎月のお金だって、いつまでも続けるのは不可能だ。
宗一郎はハンドルを二度、しごくように握り締めた。
だいたい、隆子に会わずに帰る今回の帰省は何に突き動かされたというのだ。三浦からのハガキか。そうではあるまい。
もう一度ハンドルを力いっぱい握った。そうだ。見届けるためなのだと思った。三浦が、鹿児島に、織江の傍にいないことを確かめたいのだ。
やっぱり、鹿児島に寄って帰ろうと思った。そして、結婚を申し込むことだ。そう考えを巡らせていると、ざらざらとしていたさっきまでの不穏な気持ちが、すっとなくなっていくのだった。
 表示がでてきた。京滋バイパスとある。略された地図では、京都南、京都東を通らないルートであるらしい。宇治方面を通るそのルートに決め走った。やがて、新名神への合流点がでてきた。
山の高いところを走る新名神は幻想的でさえあった。音が消え、風の抵抗を受けた車は、まるで人力で自走しているような重力を感じる。
信楽で一般道に下りると、あとは一本道だった。狸の置物が並ぶメインストリートを過ぎると、またひと気のない道が続いた。多羅尾は温泉施設のある場所としてガイドブックには紹介されていた。バブルの頃はゴルフ場でも有名だったようだ。
カーナビが、国道から逸れるように指示してきた。ここで大丈夫かと思われるような細い道だった。そこへ入ってしばらく走ると、目的地周辺ですと通知してナビを終了してしまった。放置されたのは、右手に何かの工場施設のある会社と左手には、農道のような土の道がのびているところだった。地図をみるとGというマークがでているのは、農道を通った先だったので、左に曲がることにした。道は行き止まりになった。そこで、車を停車させ降りてみた。ブナやナラの原生林だったところを開いたような土地だった。
私有地のようだが、その先に民家があるようなので、そこで尋ねようと中に入っていった。手製の柵が拵えてあって、それは無造作に開かれていた。
「すいません」と、中に声を掛けながら歩く。
 すると、三浦らしき長身の男の背中が見えた。すぐさま声をかけようと、喉まででかかったとき、三浦がどうも怒って誰かと口論しているような感じがした。身振りが激しく、相手に手を出そうとしているようにさえみえた。
 喧嘩なのか、その相手は全身黒い服を着た女の人だった。顔はよく見えないが、背格好がそうだった。
 立ち止まってみていると、三浦が長い腕を思いっきり振って、前に立つ女の人を突き放した。女の人はその場にしゃがみこんだ。と、その瞬間、それが織江であることがわかった。
 宗一郎は小走りに走った。途中、目に付いた火かき棒のような鉄の棒を手にした。相当近くまで行ったのだが、ふたりはまだ宗一郎に気づいていなかった。
 三浦は、頼むからほっておいてくれと、言っている。織江の声は聞こえない。
 また、織江が立ち上がって、三浦の方へ近づいている。
 宗一郎は火かき棒を持ったまま、走っていた。
 ふたりにいよいよ近づいたとき、宗一郎は持っていた火かき棒を頭の上に持ち上げ、ふたりの前にきて止まった。
 驚いた顔の三浦と、涙で化粧がぐちゃぐちゃになった織江の顔があった。
 震えた声で織江が何かを言った。何を、誰に言っているのか。宗一郎は分からなかった。
 いままで聞いたことのない泣き声だった。それは嗚咽というものなのか。苦しそうに空気を搾り出しながら、低い声で唸っている。
地面に座り込んだまま、何度も何度も砂利の敷き詰めてある場所でこぶしを小さなこぶしを叩きつけていた。泥がつき、織江の体から血が滲みでてきても、織江は止めなかった。

 こんな気持ちは、始めてだなあと思った。考えが働く前に動くことって。
 三浦がその場からいなくなり、宗一郎もよたよたと車に向かって歩いている。
 一度振り返って織江をみた。その黒い塊をちゃんと見ておこうと思った。腕は泥まみれになって、その場に突っ伏して動いていない。
宗一郎は車へと、再び歩き出した。
このまま高速に乗って、大阪へ戻ろう。隆子に会いに行こうと。これからあの寿司屋に行けるか、予約を戻してもらうよう連絡しようと思った。
携帯を探して胸のポケットを上からなぞると、そこには織江に渡す封筒がかさっという音をたてた。  

 

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