プルースト「失われた時を求めて」を読了した。「皆で読めば怖くない! 長編古典を読む会」という読書会で、毎月一巻ずつ読み進め、ほぼ一年がかりであった。打ち上げで乾杯したビールの旨かったこと!
冒頭、主人公が幼い頃過ごした、パリ郊外「コンブレー」の思い出から、この長い小説は始まった。記憶の断片がだらだら続く冒頭に度肝を抜かれ、果たして読み進めることができるだろうか、という危惧を抱いたのは、私だけではなかったようだ。しかし誰も止めようとは言わない。何かしら捨てがたい魅力を感じたのも、私だけではなかったようだった。
お茶に浸したマドレーヌを口に含んだ瞬間、主人公の記憶の断片が一続きの姿となって立ち現われてくる、あの有名なシーンに辿り着くまでもけっこう長かった。しかし、人物や場所についての細かな言及は、これら細部が、壮大なタペストリーの一部をなすもので、最後まで読めば、そのタペストリーの全貌を眺めることができるのではないか、という予感に満ちていたのだ。
コンブレーでの隣人である、ブルジョワユダヤ人で知的なスワン。スワンと高級娼婦オデットとの恋については一巻をさいて語られた。また大貴族ゲルマント家のシャルリュスについては、そのグロテスクな性癖を克明に暴きながら、陰影深く造型されていった。スワンとゲルマント、コンブレーにおける二方向への散歩道は、タペストリーの主要なモチーフとなり、最後に到って、このふたつの道はひとつに繋がっていくのであった。
教会の鐘塔が見える村の風景。驟雨が襲った時の雨の匂い。パリの朝の物売りの声。随所に魅力的な文章がさし挟まれる。そして、土地の名や、語源についての、何ページもさいての執拗な言及。ひとつのものを指す言葉が時とともに変容していく中で、その原初の姿を探すということは、つまり、時を辿り、失われた時を捉まえる、ということに他ならない。
そして、いよいよ最終章。この章はいわゆる「仮装パーティ」と呼ばれる場面が大半を占めている。
ブルジョワ出身の夫人が、今や大貴族の夫人となって、マチネを主催する。それに出席した人々の、時が刻んだ変貌を見て、作者はこの長大な小説を発想するのである。登場人物は読者にはすでにお馴染みの面々である。作者は周到にこの小説の設計図を引いていたことを知る。
「失われた時」を見出す作業に取りかかる、という決意を込めて名付けられたのが、この最終章「見出された時」であった。
つい先頃、私も「失われた時」を見出した。
時を遡ること三十数年。私が小説を書き始めていた二十代終わり頃の事である。勤めていた大学図書館で、「生野銀山と生野代官」という本を見つけた。生野は実家の祖父の出身地である。著者名を見ると実家の姓である。祖母に聞くと、本家ゆかりの人だと言う。縁を感じて手紙を書いた。折り返し返事が来て、何度か手紙の往復があった後、藤沢にあったお宅を訪問した。その人は学者で大学教授。今大部の著作の追い込みで多忙だが、これを仕上げた暁には、生野の本家を舞台とした、島崎藤村「夜明け前」のような歴史小説を書きたい、あなたが小説を書いているのなら、その時はぜひ手伝ってください、と言われた。若かった私は、歴史小説なんて、とその時は思っていた。その後、私は出産や子育てで小説からは遠ざかり、その人は亡くなった。小説は書かれずじまいであった。
話は現在に戻る。今年六月、友人と京都で待ち合わせていた。途中のJRの駅で、「出石、生野方面」の旅のパンフレットを見つけて、ふと手に取った。生野はずっと心の片隅に引っかかっていたのだった。そして、書かれなかった小説のことも。
行きの電車の中でそのパンフレットを眺めていた。そして京都で遊んだ帰り道、友人から、なんと、「出石へ行けへん?」というお誘いがあったのだ。彼女の知り合いが大阪から転居して、遊びに来いと言ってくれているらしい。これは運命であると思った。「行く!」と即答していた。
出石から生野を巡る旅だった。旅の終わり、生野では初めて本家を訪問した。祖父が早くに亡くなっているので、私が本家を訪れたことはなく、本を通じてのみ知る本家であった。
いつかここを舞台にした小説を書きたいと思っている。三十年前の約束を果たしたいと思う。
「深く自分の中に降りていけば、あの鈴の音(門に取り付けてある鈴が鳴ると、お客が帰ったということで、ママンが私におやすみのキスをするために二階へ上がって来てくれる。お客があるためにママンが私におやすみのキスをしてくれなかったことを、私は悲しんでいた。)に出会える。あの瞬間は今の私に繋がっている。」
私が「失われた時」を見出すことができたのは、プルーストのお蔭かも知れない。
(文中の引用文は、集英社文庫ヘリテージシリーズ「失われた時を求めて 完訳版13 見出された時2」鈴木道彦訳から)
映画タイタニックの中で、仕事を求めてアメリカ大陸に移民する二等船客たちによる船底での夜のパーティで踊られていたものである。
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