朱の塗りば    奥野 忠昭


 

 時刻は夕方の六時を少し過ぎたころだろう。六月の初旬なので道路にはまだかなりの西日が残っている。
 私は、柴犬の華子を連れて、いつも来ている公園に着いた。華子は入り口にある花壇の石垣に鼻を擦りつけ、臭いを嗅ぎ始めた。私は、華子から目をそらし、公園の奥の方に目をやった。ヒマラヤスギや楠や銀杏のほつえ上枝が残光で緑色に輝いているが、片側は色を失って影色になっていた。さらに、その下はもはや光が届かず、かなり暗かった。さらに、木々の間を縫って周回道路があるのだが、そこを何人かの男たちが犬を連れて散歩していた。みんな、すでに十数キロを歩いてきたような疲れた歩き方をしていた。それに、よく見ると、その中の二、三人は、辺りを見回したり、自分の犬に引きずられたり、向かってくる犬に気を遣ったりして、何だかおどおどしているようにも見えた。
 散歩しているのはほとんどが男性で、しかも、年齢は私よりも上のようだ。きっと、定年になり、この時刻、することがないので散歩を日課にしているのだろう。私は、まだ、彼らの歳までに数年は残っている。だから彼らとは違う。何しろ、今はまだ現役なのだ。
 とはいっても、彼らとそれほど大きく違う訳ではない。私は、公立大学の事務職員で、しかも、部局長などという出世コースからは疾うに離れてしまったので、重要な仕事はあまり与えられず、ほとんどの日、定時で終わり、家へは、車で二十分もかからないので、六時前には必ず家に着いている。それで、夕方の犬の散歩は私の役目になっている。女房の由美は近くのスーパーでレジ係として三時頃から、七時頃までパートで働いている。
 私はあたりを見回し、犬が落ち着いて散歩ができるかどうかを探った。周回道路はジョギングコースなのだが、それを近くにある高校の運動部が占拠していて、たくさんの高校生が集団になって走っているときがある。今のところ、高校生の姿はなかった。やれやれ、これで、今日はここで散歩を済ませることができる。もし、高校生が走っていたら、華子は怖いのか、それを嫌って、いっさいの排泄を拒否してしまう。それに、公園から出ようとする。そうなったらたいへんだ。排泄を済ませるまで、いろんな場所を歩き回らなければならない。華子はきまったところでは容易に排泄をするが、そうでないなら、自分の好む場所が見つかるまで探し回る。それがどこにあるのか私にはまったく見当がつかない。
 華子は植え込みに向かって歩き出した。そこは、いつも華子が排泄をするお気に入りの場所である。私は華子の後を付き添うようにして歩いた。
「やあ、今ですか」
 突然、横合いから声が飛んできた。声の方を向くと、茶色のトイ・プードルを連れた、私より七、八歳は上かと思われる女の人が、鍔のひろい日よけの帽子を被り、だぶだぶのズボンをはいて立っていた。
「お宅も犬の散歩で、トイ・プードルはいつ見てもかわいいですね。それに、今日はちょうどいい気温で、散歩するにはもってこいですわ」
 私は、そのトイ・プードルのおばさんに挨拶の言葉を掛けた。
 この人とは、よく、ここで出会う。以前、トイ・プードルの目がとてもかわいかったので、家から持ってきたジャーキーをやった。すると、次に会ったとき、トイ・プードルがクンクンと鳴いて必死に綱を引っ張って私に近づいてきた。それで、また、ジャーキーをやると、私の脚に飛びつき、ズボンの裾に土をつけた。それをおばさんがとても気の毒がり、何度も謝ったのがきっかけで、公園で出会うと挨拶をするようになり、また、道で会ったときも挨拶をするようになった。だが、彼女がどこに住んでいるのかは知らない。もちろん名前も知らない。ただ、一度、住んでいる場所を尋ねられたことがある。その時、平井郵便局の前の一戸建ての住宅です、と正直に答えた。
 華子は歩きを止められたので、不服そうにじっと佇んでいる。トイ・プードルは華子の傍に近づき鼻を鳴らし始めた。
「それはそうと、お宅のお隣、みのだ簑田さんのところですよね」
「ええ、そうですが」
 隣といっても駐車場を挟んでの隣だが、突然、名前が出てきたので驚いた。ひょっとして、私の名前も知っているのかもしれない。
「あそこのおくさん、近頃、見かけられます?」
 彼女は顔中に笑みを浮かべながら言う。
 そう言われれば、最近、見かけなくなった。以前はよくゴミ集積場などで見かけた。もちろん挨拶をする程度で、付き合いはない。年齢は女房の由美よりも少し若いようだ。よくわからないが五十歳にはなっていないだろう。いつも身にぴったりの細いパンツをはいたスタイルのいい女性だった。
「あそこ、おくさんとご主人、何だかうまくいってないらしいわ。何か聞いてはります?」
 突然、そんなことを言われたので驚いた。
「へええ、そうなんですか?」
「うちとこと同んなじようなことにならなければいいがと思って。だけど、この頃の女の人って、何を考えているのかよくわからんから」
 あのご夫婦が? うちとこと同じようにって? 
「どこから、そんなことをお聞きになったんですか」と尋ねた。
「わたしね、最近、駅前のスポーツジムのシニアクラスの会員になってエアロビクスをやってんのよ。そこでね、みんなが噂し合っているのを聞いたの」
「そうなんですか。エアロビクスをねえ。凄いですね」
「すでに、家を出たっていう人もいて。ご主人、とても困ってはるって」
 そう言えば、あのおくさんは、まだ、若い。旦那さんと十歳以上は違う、といつか由美が言っていた。
「うちところの息子といっしょ、と違うかなと思って、そうなったら、ご主人、かわいそうやから」
 再び、同じ言葉を繰り返した。いかにもそれに興味を持っているといったふうで、言葉に張りがあった。
「うちところといっしょって?」と私は思いきって聞いてみた。
「いいや、うちところの息子の嫁さんがね、まだ幼い子供が二人もおるのに、男をつくって出て行きましたんや。それも、しょうもない男と」
 おばさんは顔中に、丸めた紙をもう一度延ばしたような皺を作った。
 私は、あまり思い出したくもない若いときのことを思い出した。私も、一度、女房に逃げられている。
 かなり以前のことなので、細かな事は忘れたが、今でもはっきりと思い起こすことが一つある。それは、女房がいなくなるまで、そんなことが起こるとはまったく思いもしなかったことだ。女房はかなり以前から準備をしていたらしく、洋服とか、下着とか、彼女の当座の暮らしに必要なものはすべて持ち出していた。それなのに私はまったく気づかなかった。当時、趣味のカメラに熱中していたこともあるが、女房のことをまったく見てはいなかったということだ。なんと鈍感な男であったことか。思い出しただけで自分に腹が立つ。心に痛みを覚える。
 ああ、もうそんなことは思い出したくもない。そのためにも、このあたりでトイ・プードルのおばさんとは別れなければならない。
「息子の嫁さんがね、スーパーに勤めたんやけど、そこの店長といい仲になって」
「そうなんですか。それはとんでもないことで。どこの家庭にでもいろいろ問題がありますからね」
 はやく離れないと、また、嫌なことを思い出す。華子が私を引っ張ってくれないか。それに引きずられるようにしておばさんから離れられるのに。だが、華子はいつになくトイ・プードルが気に入ったらしく、鼻をくっつけ合ったり、おしりの臭いを嗅ぎ合ったりしている。
 ふっと、隣のご主人の気のよさそうな笑顔が思い浮かぶ。いつも私と会うと眉毛をハの字形にして笑う。あのご主人も私と同じような鈍感男だったのだろうか。
 だが、今の私は違うぞ、と思う。一度、そんなことを経験しているので、あれ以来、趣味に凝ることもなく、由美にはいつも気を遣っている。少しでもそういう気配を感じたらたちどころにわかるはずだ。
 幸い、由美とは大きなトラブルもなく二十年以上が過ぎた。前の女房よりも結婚歴ははるかに長くなった。しかし、心をゆるめている訳ではない。ずっと、緊張感を持って彼女を見つめている。あまり、変化はない。変化などあっては困る。もう二度とあんなことはごめんだ。ただ、最近、少し以前と違うことが起こっている。それは、これまではどこかへ出かけるときは、必ず、その行き先と帰る時刻を私に告げて出ていったものだが、最近はいっさいそういうことをしなくなった。黙って出て行く。ときどき私がどこへ行くのかと尋ねると「うるさいわね。わたしがどこへ行こうとほっといて、あなたにそれを聞かれるとぞっとするわ。まるで上司に許可を得てから外へ出て行く社員のような気がして」と言う。
 それに、やたら虫除けの薬のコマーシャルを見るとにやりとする。あの笑いはどこか普通の笑いとは違う。そのコマーシャルとは、小学校一年ぐらいの男の子と女の子が夫婦ごっこをしているものだ。男の子が言う。「米びつの中に虫がおるぞ」。女の子が言う。「あなたはいつもそうやって他人事なのね。私は、あなたにはもう何の期待もしていないけれど、そう言われるとやっぱり腹がたつわ。わたし、あなたとはもういっしょのお墓には入りませんから」そこで、由美は私の方を見て、にやりと笑う。
 とその時、再びトイ・プードルのおばさんの声がつづいた。
「もしも、何か、お隣のことで分かることがあったら、ぜひ教えてほしいわ。隣なんでしょう。ご主人に会ったら、何か訊き出しておいて」
「ええ、機会があれば。でも、隣といっても少し離れているし、ご主人とはそれほど親しくはありませんから」
 私は少し困惑する。だが、可能ならば私もぜひそれを訊いてみたい、と思った。
 トイ・プードルはようやく、道に新しく姿を現したパグに興味が移ったらしい。そちらに向かってひもを引っ張りだした。トイ・プードルのおばさんはよろめいた。その機会を逃さずに、すっと彼女から離れて公園の出口へと向かった。華子のお気に入りの場所には行けなかったが仕方がない。しばらく、その辺をうろつくか。

 なかなか華子の気に入る場所がみつからなかった。街中なので、草むらはそう多くはないが、少しでもそれを見つけると華子は臭いを嗅ぎに行く。だが、気が進まないのか、すぐにそこを離れてしまう。かなり苛立っているようだ。いつもは、散歩をしている犬を見ても、近づきも吠えもせず、無視して通り過ぎるのに、今日は、立ち止まって大声で吠えたり、相手の犬が吠えだすと、それに突っかかっていこうとする。力が強いので私はよろけそうになる。
 華子を引っ張って強引に家に帰ろうかとも思うのだが、そうしたら、欲求不満の華子は夜中に起き出して、トイレのための散歩に行けとばかりに吠え出すに違いない。女房の由美が起き出し、機嫌が一気に悪くなる。華子のことはあなたに任せてあるのに、犬の面倒さえ見られないの。散歩の時、きちんと排泄をさせなかったからでしょう。野球の試合を見たいから、十分散歩をさせないで急いで帰ってきたのじゃないの。そういう由美の怒りの声が想像できる。
 と、それにつられるようにして、食事のときに交わした由美とのやりとりを思い出した。
 簑田さんのご主人はね、定年になってから料理教室に習いに行って、今では、週二回は夜のお食事を作っているらしいわよ。ご主人がそう言ってはった。えらいわ、いいご主人だわ。ほんと、すごいな、と私も応じた。私も、そうしなければならないと思ったが、そんなことは定年になってからでもいいとも思った。ただ、それを聞いてから、私は、お好み焼きを三回と焼きそばを二回作った。致し方がない。私はまだ現役だ。由美は働くといっても四時間働いているだけではないか。それに、パートの金はすべて由美の小遣いにしている。まあ、夕食の後片付けは私がしているのだし、メモしてある用事はみんなこなしているのだから、何か文句があるか、と私は口の中で呟くが、何だかまったく迫力がない。怖い母親を前にして、小さな声で文句を言っている子供のような気がする。
 あんな理想的な簑田さんのご主人でさえ、おくさんが出て行ってしまうのなら、私の女房がそうならないという保証はもう何処にもない。
 石段の所まで来た。上に広場が見えた。先程の公園よりもかなり狭いようだ。公園の周りには木々が植わり、木々の隙間を通して、遠くの方に、朱色の鳥居らしきものや、色あせてはいるが赤い幟が何本も立てられているのが見えた。
 草原があるかどうか探ったがそれは見えなかった。だが、草原のない公園はないだろう。行けば華子の気に入る場所がきっと見つかるに違いない。
 私は、階段を登りだした。階段はかなりあったが華子は素直についてきた。登り切ったところで私は辺りを見回した。
 公園の左奥には確かに朱塗りの社らしきものがあった。それに、さらにその向こうにはお寺の屋根だけが見えた。どうも、社の下にはお寺があるようだ。お寺側からも公園には登ってこれるのだろう。この社はお寺の一部なのかもしれない。神仏習合なのでお寺の中に神社があってもおかしくはない。
 眼を右に向けると、向こう側にも出口があった。土地そのものが高くなっているので、向こう側の出口はそのまま通りへとつながっている。だが、出口まではかなりある。思ったよりも広い公園だ。
 出口のところに女性がひとり、通りへ出ようとしていた。女性はくるりとこちらを振り向き、社の方に向かって手を合わせ、丁寧にお辞儀をして、また、道路の方へと向き直り、歩き出した。深い帽子を被っていて、しかも逆光なので顔はよく見えなかったが、私は、はっとした。
 あれは、簑田さんのおくさんではなかったのか。昔、天女の話を聞いたとき思い浮かべたような褐色の薄い布の上着にジーンズを履いている。上着の裾を鳥の尾っぽのようにひらひらさせていた。あの服装は確か、以前、簑田さんのおくさんが買い物に出掛けて行くとき、よく着ていたものだ。それに、歩き方もそっくりだ。軽く肩を左右に振るようにして長い足を運ぶ。
 そんな馬鹿な。人違いだろう。おくさんがこんなところにいる訳がないだろう。しかし、簑田さんのおくさんだという思いは消えなかった。
 ただ、それは簑田さんのことだ。簑田さんのことなどどうでもいいことではないか。
 華子がリードを引っ張ったので華子を見た。華子はさかんに鼻を前に突き出して、草のある方へ行こうとしている。華子に引きずられるようにして出口とは反対の方へと歩いた。
 華子はさらに向きを変え、朱色の柱と白い壁でできている小さな社の方へ行こうとする。社の柱はすべて朱色で壁は低いところと高いところが白い壁になっているが、まん中は格子のような細い木で取り囲まれている。社の入り口の両側には左右に赤い幟がはためいていて、それだけでも、少し気味悪さを感じさせた。
 社の奥には祭壇があり、何かが祀られているのだろう。女性は出口のところでこちらを向いていてそれにお辞儀をしていたが、何かを必死で願っているような拝み方だった。いったい何を願っていたのだろう。きっと、この社にお参りをして、その帰りだったのに違いない。
 華子は先に立って社に向かっていく。朱塗りの小さな鳥居をくぐって社の前に立つ。前方には扉のついた小さな祭壇らしいものがある。扉の前には小さな鏡のようなものが置かれている。社の中を見回すと、壁のかわりをしている朱塗りの細い木の群れには左右に伸びる柱が取り付けられていて、そこには、絵馬がたくさん掛けられていた。きっと下のお寺で手に入れたものだろう。その絵馬は少し変わっていた。絵馬の裏側には、恐ろしげな鬼の絵が描かれていた。
 私はさらによく見ようと、朱塗りの囲いの中へ入って、絵馬を眺めた。辺りが薄暗くなっていたのだが、文字がはっきり読み取れた。それは、みんな黒いマジックペンで、強い筆圧のもとに書かれていた。
 ○○大学に合格できますように、とか、○○会社に就職できますようにとか、ありふれたことが書かれているのだろうと思い、ただ、何となく読み始めたのだが、途中で、何度か唾を飲み込んだ。普通の絵馬に書かれているようなものは何一つなかった。どれも、切実な思いがほとばしっているものばかりだった。
 どうか、娘が今付き合っている人と別れてくれますようにとか、どうか夫が浮気の女と別れて私のもとへ帰ってくれますようにとか、私は彼が好きになりました、夫と離婚ができますようにとか、そのようなものばかりだった。
 中には、どうか早く姑が死んでくれますように、というものもあった。その横には、彼と付き合っている女が交通事故にでもあって死んでくれますように、とあった。暴力夫から逃れたい、どうか神様、夫を早くあの世へ送って下さいというものもあった。
 私はひやりとした。こんなことまで書くのか、と思った。怖い本音が赤裸々に出ていた。
 ああ、そう言えば、いつか由美が近くに「縁切り神社がある」と言っていた。それがここなのかも知れない。まさか、由美もここで何かを書いたのではないだろうな。でも、絶対ないという保証は何処にもない。いつか、保険金目当てで夫が殺された事件がテレビで放映されているとき、あんたも気をつけた方がいいわよ、女は怖いよ、と言っていたことがある。たちの悪い冗談だとその時は聞き流していたが……しかし……。 彼女も他人だ。他人の心の中はわからない。いったい由美は今何を考えているのだろうか? やめた、もし、私が、一瞬でも由美を疑ったなどとわかったら、たちどころに彼女は怒りを爆発させ、ただごとではすまなくなるだろう。考えただけでも怖ろしい。
 中には、夫は家のことは何も手伝ってくれません、どうか夫が悪い習慣と縁が切れますように、とか、わたしがコンピューターゲームにはまりました。それと縁が切れますようにとか、ほほえましいものもあった。それに、ほとんどが女性のものだった。女性の方が、今でも、呪いたいものをたくさん持っているということか? ただ、男性のも少しはあった。俺はバーの女に騙され、あり金すべてをむしり取られた。あの女が交通事故にでも遭って大けがでもしますようにとか、○○という嫌な上司とはやく縁が切れますようにとか、私は○○会社に首を切られた。○○会社が早く倒産して此の世からなくなりますようにとか。
 絵馬はいくつも重なっているので、すべてを読むことはできない。それに、数も多すぎる。読んでいると、家に帰るのさえ怖ろしくなる。
 再び、簑田さんのおくさんのことが気になりだした。もし、あれが簑田さんのおくさんなら、どうしておくさんがここにいたのか? おくさんは何か、呪いたいものでもあったのか? あるとすればそれは何か?  
 まさか、由美が、とまた思った。だが、彼女には絵馬に願いを書くような不満はあるはずがない。あれば、もうとっくに私に向かって言っているはずだ。だが、待てよ、すべてを私に言えるとは限らない。言えないことだってあるかもしれない。例えば、何のトラブルもなく、相手を傷つけもしないで、ごく自然に、すっと別れられますようにとか。
 ここまで考えたとき、忍耐強い華子も、限度にきたのか、私を強く引っ張ったので、華子といっしょに社を出た。出るとき、社の脇の柱に金属板の板が取り付けられているのに気づき、ちらっと眺めた。そこには社の由来が書かれていた。祀ってあるのは「鬼姫大明神」ということだった。深い恨みを持った豪族の娘が神にお願いをして鬼姫となり、さらには縁切りの神になったといったことが書かれていた。やはりここが縁切りの神社だった。
 華子はさかんによそへ行きたがったので、さっと眼を通しただけでそこから離れた。
 華子は少し歩いたところの草原で、ようやく、排泄を済ませた。華子が排泄をしている間、空を眺めた。夕日があたっているところは鬼姫の住んでいるところのような気がした。青いところへ目を移したが、その透明感に満ちたグラン・ブルーの美しさがかえって無気味に思えた。美しさの裏に得体の知れない闇が滲み出てきているような気がしてならなかった。
 華子の排泄物をビニール袋に入れて、もと来た階段へとって返した。
 階段を降りるとき、もう一度、社を振り返った。夕日を受けて、建物全体が炎をたてて燃えているようだった。

 食卓には、私の好きな焼き魚と肉じゃがと野菜のおしたしとみそ汁が置かれている。その他にも、市販の大豆の煮付けなど、たいへん豊富だ。
 すべて、由美が用意をしておいてくれたものだ。ありがたいことだ。だが、今日は、ただ、感謝しながら暢気に夕食を食べる気にはなれなかった。先程の散歩の件がどうも引っかかる。
「簑田さんのおくさん、いなくなったんだって、本当?」
 私は由美にその件を尋ねるのを少し躊躇した。何故だかわからないが、なるべくなら触れたくはなかった。だのに、尋ねてしまった。 
「よくしりません」
 由美は言った。由美がこういう答え方をするときは機嫌の悪いときだ。注意しなければいけない。
「そんな噂が立っているらしいよ。あのご主人、理想的な亭主だったのに、信じられんな」
「誰からそんな話を聞いたの」
 由美は驚いているのだ。世事のことにはまったく疎いと自他共に認めている私がそんなことを言うものだから、彼女は不思議に思ったのに違いない。
「知っていたのか。俺に何も言わなかったじゃないか。公園で犬友だちのおばさんに」
「知りませんよ、本当に。よそ様のお家のことなど。夫婦にはいろんな事情がありますからね」
 由美は本当にこういうことには興味が湧かないのだろうか。まさか、何らかのカムフラージュではないだろうな。
「簑田さんには確か息子が一人いたな。よくできる息子さんが。一流の国立大学を出て商社に勤めているという」
 由美は確かにそんなことを言っていた。由美は羨ましそうだった。今は、確か、ニューヨークにいるはずだ。そこへでも遊びに行ったのかもしれない。
 由美は何も答えないで、魚の肉を口に運んでいる。
 何もかもよくわからない。不安な気分だけが強まる。隣に何が起ころうと私には関係がないことなのに、まるで自分に起こっているような気にさえなる。
「それはそうと、今日、スーパーに働きに行ってたの?」私はまた、へんなことを口走ってしまった。
 いったい何を言っているんだ。行っていたにきまっているじゃないか。いつものとおりだ。いつもと何も変わってはいない。だが、前の女房が出て行ったときもそう思っていた。いつもと変わりはしない、そうたかをくくっていた。何でもたかをくくってはいけない。でも、見たのは簑田さんのおくさんで、由美ではない。だのに、まるで、あれが由美であったような気分になる。
「ええっ? 行ったわよ、おかしいわね、どうして?」
「いや、なんでもないよ、ちょっと尋ねてみたかっただけだ」
 由美は私を少しの間だけじっと見つめる。 
 ――いや、あのね、華子を連れての散歩の途中で、何だか君に似たひとがいたものだから――、ふっとそう言いそうだった。なぜ、思ってもみないことが口に出てくるのか。
「ばかじゃないの。本当に」由美が言う。
 私は黙る。次の言葉が出てこない。
「まるで私がどこかをほっつき歩いているみたいじゃないの。冗談じゃないわ」
 由美は機嫌を悪くしたようだ。なぜ、私はそんなことを言ったのだろうか。原因は何処にあるのか。
 私は、由美のことを本当に信頼している。いい女房だと思っている。ただし、由美はどう思っているのかがわからない。夫として、いたらない点が多すぎる。いくら由美に注意されても、その時は直そうと思うのだがなかなか直せない。それに、私は逃げるのが上手だ。今までこれといって他人と大げんかしたことがない。そのような状況になればすぐさま逃げる。逃げるのが習性になっている。由美の攻撃にもすぐさま逃げてしまう。まともには対峙しない。もうこの年になってそれは止めようと思うのだが、まったく心許ない。
 由美の食事がおおむね終わった。最後にお茶を飲むのを待つ。湯飲みがテーブルの上に置かれていた。中を見ると、すでにお茶は入ってはいない。全部飲んだようだ。よし、私は間髪を入れずに立ち上がる。由美は驚いて私を見上げている。私は自分の食器を持ち、すぐに台所の流しへ行ってそれを置く。すぐにテーブルへ戻ってきて、今度は由美の食器を持って流しへ行く。
 食器を洗い始める。すぐに行為を起こさないと、由美の行動は早い。私のやるべきことがなくなってしまう。由美は振り返りながら、私が洗うのをじっと見ている。文句は言わせないぞ。ちょっとでも手抜きをしていると思わせたら、すぐさま飛んできて、そんな洗い方では駄目だ、あなたは食器さえちゃんと洗えないんだから、と言って取り上げられてしまう。私は、洗剤をスポンジにつけて洗う。泡が食器全体を覆うほどだ。私は、それを由美に見えるように高くさし上げながら洗う。
 簑田さんのご主人もこのようにして洗っていたのだろうか。そんなことはないだろう。もっと悠々と洗っていたに違いない。ふたたび、眉毛の下がった眼を思い出す。ゆったりとして幸福そうな眼だ。あのような夫の元では、おくさんはさぞゆったりとした気分になれただろう。おくさんのことにもよく気がつき、家事全般さえやれる男、私が足下へも及ばない男。それなのに何故? それに、おくさんがいなくなった今、彼はどうしているのだろうか? 昔の私の場合は、私はまだ若かった。だから、いくらでもやり直しができた。それに、家事に戸惑ったときには、当時、母がまだ健在だったので、すぐさま手助けに来てくれた。
 皿洗いが終わりに近づいたころ、突然、救急車のピポピポという音が厚いガラス窓を通して聞こえてきた。あの音を聞くとちょっと興味が湧く。音は、だんだんとこちらへ近づいてくる。
 その音に促されるようにして、昨日、華子を連れて道を歩いているとき、どこからともなく聞こえてきた会話を思い出した。
「……の旦那さん、おくさんに内緒で友だちの連帯保証人になっていたって、それでえらい借金を背負ってしまったらしいわ。家だって人手に渡り、早晩、出て行かなくてはならなくなったんだって」
 そうだ、確か、簑田さんの家から少し行ったところを右に折れたところにあるコンビニのあたりで、どこに住んでいるのか知らないが、よく見かけるダックスフントを連れたおくさんとラブラドールを連れたおくさんとが立ち話していたのだが、そこから聞こえてきたのだ。だが、私はその時は、まったく気にも留めなかった。華子はあのダックスフントに嫌われている。だから、早急に、離れなければならない。すでに、ダックスフントは華子を見て、数度、吠えた。私は迂回しようと華子のリードを引っ張るのが精いっぱいだった。だのに、今、ふっと、その会話を思い出した。
 その時はどこの旦那さんのことを言っているのかはまったくわからなかったのだが、どうも簑田さんのご主人のように思えてきた。もしそうなら、いかに家事を手伝っていたとしても、おくさんは頭に来ただろう。節約に節約を重ね、ローンのお金を工面してようやく手に入れた家まで根こそぎ持って行かれるのだから、頭に来たに違いない。友だちの頼みを非情になって断れなかった夫の不甲斐なさにあきれはて、絶望し、彼を見限ったとしても不思議ではない。
 だったら私の方がまだましだ。私は一銭なりと言えども借金はない。友だちの連帯保証人にもなっていない。それに、酒も飲まない、タバコも吸わない、パチンコはしないし、競輪、競馬はしない。カラオケはしないし、ゴルフはしない。キャバクラなどというところへも行ったことがない。服装に凝ることも、金のかかる趣味に凝ることもない。喫茶店にも居酒屋にもレストランにも行かない。友だちを家に連れてきたこともない。国内旅行も海外旅行もしない。もちろん、浮気などをしたことがない。仕事を終えればすぐさま家に帰ってくる。由美が帰ってくる前に、冷蔵庫から作りおきのおかずを取り出し、暖め、お茶を沸かし、帰ってきたらすぐさま食事ができるようにしておく。
 どんな食事を出されてもおいしく食べる。出されたものは全部食べる。給料の明細は由美に渡し、銀行のカードは由美が管理している。小遣いは由美からもらう。でも、必要なのは職場での昼食代と時々飲む自販機からのお茶代ぐらいだ。ときどき、散髪はする。だが、それも、二ヶ月に一回ぐらいだ。夜は眠いので、十時前になったら必ず床につく。五分もあれば眠る。朝は五時に起き、華子を連れて一時間は散歩する。別にそうすることが不満だとは言っていない。そうしたいからそうしている。私は健康的な生活を心がけているのだ。
 私は、以前、由美に頼まれた食材をスーパーに買いに出かけたとき、同じようにスーパーへ行く途中の簑田さんのご主人に会ったことがある。日曜だったので、お宅は、ゴルフなどはしないのですか、と尋ねた。すると、逆に、お宅はなさるのですか、と尋ねられた。まったく、趣味がないもので、と答えて、ゴルフどころか、酒もタバコも、麻雀もパチンコもカラオケもからきし駄目なんですと言った。そうしたら、よかった、私も同じで、とハの字の眉を下げて笑った。
 ただ、あのご主人には私にできないことで、彼にできることが一つある。それは家事だ。彼は料理が得意だと言っていた。私はからっきし駄目だ。私が家事ができたら完璧な夫になれるのだろうか? もし、家事ができていたら、前の女房は家を出て行かなかっただろうか? 完璧な夫とはどのような夫を言うのだろうか?
 何だか救急車の音が聞こえなくなる。まさか、簑田さんの家の前で止まったのではないだろうな。しばらく、耳を澄ませていたが、じっとしていられなくなった。簑田さんの家の前に止まったに違いない。そう思えてくる。
 食器を洗い終わるとすぐに、居間のドアを開け、玄関に向かった。「どこへ行くの」という由美の声がしたが「ちょっと、救急車を見に行ってくる」と言って、突っかけを履き、門扉を開けて外に出た。
「おかしいわね、救急車の音なんかしなかったのに」と由美が言ったように思うのだがそんなことは無視する。
 由美の言うように、確かに、何処へ行くのと尋ねられるのは煩わしい。行為を阻害する要因になる。
 隣といっても、本当の隣は駐車場だ。かなり広い駐車場を挟んでの隣だ。
 道に出て少しだけ簑田さんの家に近づく。それから、立ち止まって、道の前方をじっと見つめる。確かに、駐車場の向こうの簑田さんの家のさらに少し向こうに車が止まっている。救急車のバンだ。だが、その辺りは街灯がなく、また、向かい側も倉庫なので明かりがなく、暗がりになっている。だから、車は、ほとんど黒っぽい塊のようにしか見えない。
 だが、あれは救急車に違いない。車の上の赤いランプが点滅している。少し見えにくいが間違いない。簑田さんの家あたりから、上り坂になり、その先が交差点なので、前の車が止まっていて、上方のブレーキの赤いランプとも考えられなくもないが、あれはそうではない。救急車の屋根近くの左右に点いている赤いランプだ。確かに、片一方は電柱の影で見えなくなっているのだが、予想通り、簑田さんの家へ救急車が来たのだ。
 暗いのだが、交差点辺りの明るさで、救急車の近くに一人だけシルエットになっているひとが見える。あちこち動いている。
 じっと見つめていると、目が慣れたのか、はっきりと見えるようになった。担架のようなものを四人の男が持ちながら、簑田さんの家の門扉から出てきた。だが、いっさいの音がしない。庭の端の方にはさほど高くない木々が影の中でいっそう濃い影となって無気味に立っている。ぞくりっと寒さが体の芯を打つ。担架に乗せられた黒い影がバンの後ろに乗せられる。あれはすでに重病の患者、いや、すでに死体となった人間かもしれない。簑田さんのご主人が自ら命を断ったのか? それとも、急病に襲われ、自ら救急車を呼んで倒れてしまったのか? おそらく後の方だろう。第一、おくさんがいないのであれば、あの家にはご主人以外誰もいるはずがない。
 夕方の朱塗りの社を思い出す。そこで女性が一心にお祈りをしていた。私との縁が切れますように。いや、私のこれまでの苦労をすべて無にした。そんな男は絶対に許せない。彼が何とかなりますように。
 彼女の祈りの効果が早速現れたのか。
 簑田さんの家は、住む人がいなくなって、まるで、巨大な墓石のように佇んでいた。怖ろしさが強く私の心を掴んでくる。
「あら、どうされたんですの」
 不意に声がした。驚いて辺りを見回した。今日、夕方、公園で会ったトイ・プードルのおばさんだった。夕方と同じ鍔の広い帽子を被っている。犬を連れていて、犬は小走りに足を動かせている。
「簑田さんのご主人が、今、救急車の中に入れられました」 と言おうとして、簑田さんの家の門扉の向こうを見たが、不思議なことに、救急車はもうどこにもいなかった。黒々としたブロック塀が監視兵のように立っているだけだ。私は戸惑い、一瞬、何を言おうかと迷った。
「いいえ、ただ、何となく。お月様でも眺めようかと思って」
 私がそう言ってから、夜空を見上げた。確かに、三日月が出ていた。
「何か、えらく思いつめたような感じがして。何かあったのかと思って。では、今日の最後の散歩に行ってきますわ。この子は、こんな時刻に散歩しないと、朝までおしっこが持たないんですの」
 おばさんは、犬に引っ張られるようにして簑田さんの家の方へと歩き出した。
 おかしなことだ。救急車は音もたてずに去ってしまったのか。

 私は、そのまま家に帰らずに、駐車場に入った。ブロック塀の所まで行き、車止めになっている台の上に登り、簑田さんの家の側面を眺めた。窓がある。窓の障子は開けられている。中を覗きたくなった。
 窓の向こうが見えた。コの字型になっている壁面がある。その前はどうも洗った食器置き場のようだ。三つぐらい鍋が棚の上に置かれている。だが、その鍋が少しへんなような気がする。私は塀を手すり代わりにして、つま先だって立つと、鍋を上から眺めることができた。鍋の中はすべて黒こげになっていた。中を金属のたわしで擦られてはいるが、まだ、焦げが付いていた。三つの鍋はすべてそのような状態だった。「あなた、なにしているのよ、鍋が焦げているんじゃないの。何だか焦げ臭い。物を煮ているときは台所を離れてはいけないと言ってあるのに」と言う由美の声が聞こえてきた。しまった、ジャガイモとにんじんとを煮ていたのだ、忘れてた、と思う。ちょっと間があるので、テレビをつけたのだが、ニュースをやっていたので、それに気を取られてしまったのだ。自分の履いているスリッパにけつまずきながら、台所に行くと、鍋の蓋の間から黒い煙が立っている。蓋を取ると、一気に顔面を煙が覆う。中を覗くと、まったく水分が無くなり、切り刻んたジャガイモが黒こげになっていた。
「任しておいてくれ、今日はうまいカレーを俺が作るから」と言っていたのだ。
 洗濯した衣類の仕分けをしていた由美が、台所を覗きに来た。「なにやらしてもまともにできないんだから。まったく。苛つくわね,あなたといっしょにいると」と言った。
 簑田さんの主人も同じようなことをしでかしたのか。ひょっとして、それがおくさんだったらどうか。
「何してんだ、主婦のクセして」と主人が怒鳴り上げたとしたら。まさか、そんなことはあるまい。
 私は身体を右横に少しずらし、さらに中を覗く。ドアの取っ手が見える。勝手口の扉だ。そこにいろんな物が乱雑に立てかけられている。いろんな物も散らかっている。黒い塊の山だ。それらは、おくさんがいなくなってから、そうなったのに違いない。
 いくら家事が得意だといっても、おくさんがいなくなれば、ああなってしまう。第一、家事をする意欲さえ失われるだろう。家事が得意な簑田さんのご主人でさえこうなら、私など、どうなるか。考えただけでも、地の底へ落ちそうだ。
 そう思った途端に身体のバランスが崩れた。私の身体が傾き、慌ててブロックの台から飛び降りた。
 まあ、すべては簑田さんの家のことだ、と自分に言い聞かせた。私には関係のないことだ。おくさんに家出をされようと、別居されようと、離婚を迫られようと、ご主人が心労で倒れようと。私の由美は健在だ。今はまだちゃんと家にいる。
 私は、そっと家に帰り、リビングを見た。由美は机に向かって書き物をしていた。私は、ほっとした。
 トイレに急に行きたくなった。小尿をし、ドアを出ようとしたときにふと思った。せめて、言われたことは確実に守り、由美を苛つかせないようにしよう。まず「便器の小尿が零れていないか」と思い、見ると洋式便器の先が濡れている。いけない。横の小物入れから、拭き取り用のティッシュを取り、拭く。手洗いで手を洗い、「手の洗った水が床に零れていないか」と心の中で言う。床を見る。やっぱり幾つかの水しぶきが零れていて蛍光灯の光を反射させている。ポケットからハンカチを取り出してそれを拭き取る。ドアを開けて外に出る。「電気は消したか」と言って、スイッチをオフにする。これも同じく何度も注意されたことだ。「よし、すべてOK」と言って部屋に帰る。ああ、机の上に茶碗が置いてある。「自分の使ったものはちゃんと元に戻しておく」と言って、それを流しへ持っていく。茶碗を洗うとき、水しぶきが飛び、ステンレスの台が水玉で汚れる。「水が飛び散ったときは布巾で拭いておく」と言って水を拭き取る。

 夜、眠っていたのだが、何かが動く気配を感じて眼をさました。毛布から首だけを上げて辺りを見回す。まさか、泥棒が入ったわけではないだろうなあ。耳をそばだてるが、その気配はない。犬の華子が起きだしたのかと思い、さらに首を上げて華子の寝床としている小さなソファーを眺めた。華子は身体を伸ばしてだらしなく横たわっている。別に、変わったところはない。
 私はトイレに行くため起きる場合があるが、何かが動く気配で、夜、目覚めたことなどただの一度もない。
 ガタン、ギイーと、その時、確かに玄関の方から音がした。あれは扉の開く音だ。待てよ、誰かが外に出るつもりなのかもしれない。あれは玄関に向かう扉の音だ。しかし、出るとすれば由美しかいない。私は、隣に寝ている由美の布団を眺めた。確かに膨れてはいるが、いつもとは違う。私は手を伸ばし、上から押さえてみた。抵抗なく山が萎んでいく。やっぱり、由美がいない。
 私は飛び起きた。慌ててズボンをはき、上着を着けた。もう一度、ベッドの側へきて由美の布団を押さえた。やはり由美はいなかった。
 これは、まったく前の女房のときと同じだ。前の女房は彼女の持ち物をすべて私に気づかれずに夜中に近所の友だちの家へ持ち出し、そこから、新しい家がきまったときに送り込んだのだ。それを知ったとき、前の女房には腹が立たなかった。腹が立ったのはそんなことにまったく気づかず眠り込んでいた自分にだ。あの二の舞は絶対にしないぞ。夜中に由美がどこへ行くのか必ず突き止めてやる。
 再び玄関で音がした。あれはまさしく玄関の扉が開けられた音だ。今、由美は玄関から出ようとしている。だが、私もそこから出ると、由美と鉢合わせをする可能性がある。私は裏口から出たほうがいい。そっと裏口の方へ向かおうとして何気なく部屋を振り返った。おや、今まで寝ていたはずの華子がソファーにはいなかった。みんなが起きだして、騒がしくなったので、きっと、台所の隅へ寝場所を移したのだ。
 私は風呂場の横の狭い廊下から勝手口の門扉を開け、路地へ出た。そこを通って、表通りとの交差する所までやってきた。そこで身をブロック塀に隠しながら、駐車場の前辺りを眺めた。そこには街灯はなく暗闇に近い。ときどき通る車のヘッドライトで、辺りが明るくなるだけだ。だが、由美の後ろ姿ならわかる。長年いっしょに暮らしてきたひとなのだから。あれは由美だ。間違いない。由美はゆっくりと遠ざかっていく。

 夕方に来た朱塗りの社のある公園への階段を再び登ることになった。由美の後をつけてきたら、ここへやってきた。というよりもここへ引っ張ってこられた。
 階段を登り切った所の両側に鉄の柱があり、笠のついた街灯が灯されている。それが鳥居のようにも、また、古代遺跡の柱のように堂々と立っていた。
 街灯の上には巨大な楠の枝が覆い被さっていて、その向こうは昼間とは全く違う無気味な暗闇になっていた。夕方、この公園の片隅に居候のようにして立っていた小さな社が、夜になると膨張してきて、公園全体を支配していた。そして、夕方、華子を連れて帰るときに読んだ社の由来がとぎれとぎれに私の脳裏に浮かんできた。社は鬼姫を祭ってあるのだが、鬼姫とはその昔、この辺りの豪族の美しい娘だったのだが、都から故あってこの地にやってきた貴族の若い男と懇ろになり、その彼が姫を裏切り、都へ帰ってしまった。姫は氏神にお祈りし、どうか私を鬼にしてください、鬼になって都へあの男を殺しに行かせてくださいと頼み込んだらしい。そのあまりの激しさに神は彼女を鬼にしてやり、姫は都へ行き、裏切った男を刺し殺し、自分も川へ身を投げて死んだということだ。それ以後、彼女のことを鬼姫さまと呼び、ここにお祀りし、縁切りの神さまとして敬われているということだ。
 ふっと、由美が赤顔の鬼の顔になり、憎しみのこもった眼でこちらを睨んでいるような気がした。
 とんでもないところへやってきた、早く帰ろうとも思ったのだが、この年になったら、もう逃げないぞ、とつい先頃思ったことを思い出した。何でもかんでも怖いものからは一目さんに逃げることばかりを考えてきた自分を恥じたのではないか。由美がここへ私を導いたのなら、私は、しっかりとここを見届けなければならない。
 公園の奥の社殿の方を見ると、そこにも一本鉄柱があり、街灯が点いていた。朱塗りの小さな木の鳥居が一つ鮮やかに浮き上がっていた。さらにその向こうの朱塗りの社殿がかすかに見えた。あの中に、縁切りの絵馬がぶら下げられているのだ。
 夕方訪れた場所なのに、来たことのない場所のような気がする。私は、そこに向かって歩く。まだ、社殿の中はよく見えない。ただ、その中からかすかなざわめきが聞こえてくる。女性たちの呪いの言葉が聞こえる。
「あの姑、女なのに女の気持ち、まったくわかっていない。嫁が店長といい仲になって、旦那から逃げたのはあなたにも原因があるのよ。お嫁さんの悪口ばかり言って、大切にしなかったからよ。それに、親の言うことを真に受けて嫁につらくあたった息子は大馬鹿ものよ。しょうもない男とはお宅の息子のことじゃないの」
 そんなふうに言っているように聞こえた。公園で聞いたトイ・プードルのおばさんのことだ。だが、それは私に向かって言っているような気がする。確かに以前の私はそうだった。だが、今は違うぞ、と思う。しかし、果たして……。
 私は、さらに社に近づいていく。足下がひんやりする。冷気が足を貫いて頭の先まで伝わる。心臓がぎゅうと縮んでいく。かすかな震えさえ生じた。辺りはまったく音のない世界なのに、社からの声だけがますますはっきりとしてくる。
 リーダーなのだろうか、祝詞らしいものを読みはじめる。すると、それに唱和するように女たちの声が続く。低い声が寄ると、力のこもった無気味な声となる。
「主人は、何度、言っても別れてくれません。別れてくれないと、何十年もあの人につくした自分の過去が報われません。退職金や年金の半分はもらわないと承知できません。裁判所の調停委員は、ご主人に何の落ちどもないのだから、離婚は成立しません、と言いますが、友人の借金の保証人になるのは落ち度ではないのですか。私への慰謝料より、友人の借金の方が優先されるなんて、絶対、認められません」
 簑田さんのおくさんの声だ。
「あなたのおっしゃるとおり。あなたが正しい」
 リーダーの声だ。それとも鬼姫の声か? でももうおくさんは心配は要らない。ご主人はすでに倒れたのだから。だが、待てよ、、そう考えるのは甘いのかもしれない。それがご主人の最後の抵抗かもしれない。こんな私をお前は見捨てるのか。もし、そうなら、お前は一生負い目を背負うぞ、と。
「負けちゃだめよ。男はなりふり構わず何でもしてくるんだから」
 女性たちの声はますます大きくなり力強くなっていく。
 その声なら、人が呪い殺されても仕方がないなあと思わせるほどだ。姿のない言葉の刃が四方へと飛んでいく。
 社殿の前が急に明るくなった。何か、数本の神木が燃やされているようだ。炎で辺りが明るくなる。女たちは二列に並んで、社殿の中央に向かって頭を下げている。前髪の多くは垂れ下がっている。
 女たちは手を合わせて口々に声をあげている。それぞれにやむにやまれぬ願いがあるのだろう。その後ろに、彼女たちの願いを裏切った男たちがいるのだ。
 私は、じっと女たちの後ろ姿を眺める。女たちの背はみんな広い。そこに炎の揺れが映っている。見ていると、それがどんどん濃くなっていく。頭のところから鬼の角が生えてきそうだ。
 一番後ろにいる女、あれはうちの由美ではないだろうか。よく似ている。あの後ろ姿は、私の由美の後ろ姿だ。それはそうだ。彼女を追ってやってきたのだから、由美がいても何の不思議もない。
 でも、私には呪われるほどの裏切りはやってはいない。浮気も、借金も、賭け事も、暴力も、何もやっていない。給料は全額を渡している。ときには手伝いだってやっている。
「何言っているのよ。この鈍感男。私を裏切りつづけているくせに」
 はっきりと由美の声だ。
 由美の顔はすでに鬼になって、私の前にぶら下がる。それでも私は由美を見つづける。
 由美が私に言った数々のことが思い浮かんでくる。
「食事のときにご飯粒を下にこぼすな」「手を洗ったとき、水滴を周りにとばすな」「私の机の上からハサミなどを持っていくな、持っていったらもとに戻せ」「上着やズボンは脱ぎっぱなしにするな」「手を頻繁に洗え、汚れた手でいろんなものを触るな」「見ていないテレビは消せ」「大きないびきをかくな」「どこへ行くと、いちいち聞くな」「私がそばにいるのに、居眠りをするな」「○○は見つからない。何処にあるか知らないか、などと聞くな」「私はあなたのためにいろいろしてあげているのに、あなたは私のために何もしてくれない」「私の注意などたいしたことではないと思っている」「ああ、苛つく、ストレスがいっぱい。もう耐えられない」
 由美の言うことはもっともだ。正直、その通りだ。だが、これでも、いろいろ言われたことは直そうとしている。今日もそうした。だが、ついついやってしまうのだ。なかなか直せない。ごめん、何とか直すよ。だが、直せる自信がない。「直そうという気持ちがないから直せないのよ」と由美が言うが、そんなことはない。気があっても直せないものは直せない。
「じゃ、別れましょう、別れてちょうだい」
「馬鹿を言うな。どこに、食事のとき、ご飯をこぼすから離婚するなどということがありえるか。絶対別れるものか」
「だったら、鬼姫さんに頼んで縁を切ってもらうわ。鬼姫さんは本当によく聞いてくださるんだから」
「おい、待て、それは止めてくれ。二度も女房に逃げられたなんて耐えられることではない」
「そんなこと、私の知ったことじゃないわ」
 足ががくがくする。立っていられない。ひざまずくと、砂地の感触が臑から伝わってくる。下から鬼姫さんの社を眺めると闇の中から朱色の鳥居と社殿が私に覆い被さってくる。まるで、鬼姫さんの尋問を受けているような気がする。
 どうする、いったい。何か名案がないのか。
 その時、ふと、神社説明の最後に、付け足しのように書いてあったことを思いだした。そこには、縁切りの神様は、また、縁結びの神様でもあるとあった。「縁を切るのは、いい縁が結べるようにするためです。だから、鬼姫さまは縁結びの神様でもあります」と書いてあった。
 そうだ。自分だって鬼姫さんに願い事をすればいいのだ。願いの強さは私の方が強いはずだ。神さんは願いの強い方をお聞き届けてくださるはずだ。
 私は何度も頭を地面に擦りつけ、社殿の中の鬼姫さまを拝んだ。
「どうか、私の悪い習慣とは縁が切れますように。そして、今の由美とは縁が切れませんように」
 同じ願いを何度も繰り返した。
「何してんのよ。あなた」
 後ろから由美の声に似た声が聞こえたような気がした。それでも、それを無視して、鬼姫さまにお辞儀を繰り返した。
「いやね、いったいどうしたのよ。気でも狂ったの」
 ようやく、後ろを振り返った。一本立っている外灯に照らされてそこに由美の顔があった。彼女は私を見おろし、懐中電灯で私の顔を照らした。
「夜中、私が、トイレに行って、出てくると、華子がくんくん鳴いてあなたが出て行くのを知らせに来たのよ、部屋にかえり、あなたが勝手口から出て行くのを見つけたの。華子といっしょにつけてきたら、こんな所へ来て、へんなことをしだして。認知症の徘徊がもう始まったの。そうなったら、さっさと施設へ入ってもらいますから」
 由美の不思議そうな、不機嫌そうな顔がそこにあった。
 また、その横には犬の華子がちょこんと座り、長い舌を垂らしながら荒い息をしていた。
 ああ、よかった、鬼姫さんは、早速、私の願いを叶えてくださったのだ。本当によかった。まったくよかった。
 頭を地面にこすりつけ、鬼姫さまに今度はお礼のお辞儀をしようと思ったのだが、由美が私を睨んでいたのでそれは止めた。
                                      了


 

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