診療所の待合室は朝から混んでいた。二十畳ぐらいのそれほど広くない空間に、三人掛けの長椅子が、コの字型に三脚置かれている。天井近くの高い位置に据えられているテレビの中では、アナウンサーが少し興奮気味に、昨日のサッカーの試合について話している。
椅子はすべて埋まっていた。老人が半分以上で、小さい子供を連れた母親が一人と若い男性が一人。子供はおとなしくおもちゃで遊んでおり、男性は携帯をいじっている。高齢の女性たちは以前からの知り合いなのか、ぼそぼそと自分の症状について語り合っている。香苗以外には、テレビを見ている人はいない。何もすることがないので所在なげにテレビを見ていたが、ずっと顔を上げていたせいか、首の後ろが痛くなってきた。
昔ながらの民家を改築したこの町の診療所は、近隣の住民たちの寄合所になっているような様相である。名前を呼ばれて、診察室に入っていく。緊張で身体が強張っているのを見抜かれたのか、看護師に「カメラは初めてですか」と聞かれた。軽くうなずいて、固くて幅の狭いベッドに横になる。
半年ほど前から胃がしくしく痛んでいた。そのうち治るだろうと放置していたら、この一ヶ月ほどで痛みが増して、食事をするのが苦痛になってきたので、仕方なく重い腰をあげたのだ。
「肩に力を入れたら管が通りにくくなるので、楽にしてくださいね」
優しく注意されて力を抜こうとするが、なかなか思い通りにいかない。医者が鼻に麻酔をして、管を挿入する。痛みと違和感で気分が悪くなり、唾がこみ上げてくる。飲み込むなと言われているので、口元に置かれた銀のトレイに、何度か唾を吐いた。少しおさまってそっと目を開けると、目の前の小さいモニターに自分の胃が映し出されていた。カメラが胃の内部を行ったり来たりする。苦痛はずいぶん軽減されている。自分の胃の中を見ているなんて、おかしな気分だ。胃の表面は、薄いサーモンピンクで、粘膜なのか胃液なのか、透明なぬるっとした液体が表面を覆っている。綺麗とグロテスクを足して二で割ったような感じだ。
「それで、どうだった?」
正志は、ジーンズを脱ぎながら香苗に背を向けて尋ねた。築三十年は過ぎるだろうアパートの部屋は、砂壁が所々剥がれ落ちている。
「ちょっと荒れてるだけで、大丈夫みたい。ただピロリ菌がいたので、除去の薬もらった。四十歳以上だと、保菌者多いみたいよ」
「そうか、香苗今年で四十だしな」
取り入れて積み上げられた洗濯物を脇によけて、正志はごろりと横になり新聞を広げた。そっと立ち上がり、香苗は六畳の和室に続く台所に向かう。ジャガイモの皮を剥きながら、香苗は独り言のように呟く。
「でもね、半年後に再検査したほうがいいって。表面に皺があってその下にあるものが何かまだわからないからって」
「ふーん」
五つ年下の正志は新聞から目を離さずに、気のない返事をした。
胃の中で、きしんだ音が鳴ったような気がする。
香苗は、木のまな板の上に、剥いたジャガイモを置いた。そして剥きたてのジャガイモに、包丁を入れる。
「やっぱりもう子供は無理かな」
香苗は誰に言うともなく、小さく言った。その声にかぶせるように、正志がバサバサと音を立てて、新聞のページをめくった。扇風機が首を振って、室内の生温かい空気をかき混ぜている。香苗は、もう何も言わずに料理を続けた。汗が流れて、ほつれ毛が首筋にまとわりつく。包丁がまな板にあたる乾いた音が、妙に明るく部屋の中に響いた。
香苗は洋菓子屋の工場で働いている。割烹着のような白衣を着て、白の太いズボンを履く。髪の毛をひとつにまとめ白い帽子の中に押し込んで、マスクをする。皆同じ服装をしているけれど、後姿や遠目の動きだけで、すぐに誰か見分けることができる。ベルトコンベアの両側に、白衣の従業員が等間隔に並ぶ。スポンジのショートケーキが次々に流れてくる。
香苗は、パックからイチゴを出して、一つずつケーキの上に置いていく。止まることなく、延々とショートケーキが流れてくる。香苗の前に立っている新人アルバイトの小野という若い男性が手馴れぬようでもたもたしている間に、イチゴの乗っていないケーキが、次々に流れていってしまう。香苗は、小野のフォローのために、通常よりもかなり早いスピードでイチゴをパックから取り出し置いていく。小野が置いたイチゴが痛んでいたのに気が付いた香苗が、それを取り除こうとしたとき、ケーキに触れてしまい指の形がついた。香苗の横に立って、イチゴに刷毛で蜜を塗っていた大柄な女性が、マスク越しでもわかるように舌打ちをして、そのケーキを掴んでごみ箱に入れた。香苗は今日、もう三回同様のミスをしている。少しでも指の形が付いたり、型の崩れたケーキはラインから排除されて、ごみ箱に入れられる。丁寧に飾り付けられたケーキは余所行きの顔をして、綺麗に箱に詰められる一方、ラインの脇においてある青いポリバケツの中には、失敗作のケーキが容赦なく捨てられ、原型を留めぬほどつぶれている。
「池澤さん、ちょっと」
昼休みの休憩に向かおうとした香苗は、工場長の男性に呼び止められた。香苗より一回り年上の工場長は、香苗を作業所の隅に連れて行った。
「辻さんからクレームがきたんだけどね」
工場長は、香苗の隣で舌打ちを繰り返していた女性の名前を挙げた。
「あまりミスが多いと、給料からの天引きも考えさせてもらうよ」
工場長は、香苗の顔を見ずに胸の辺りに視線をあてていた。香苗は無言で帽子をとって、頭をさげた。辻さんと何人かのパートさんが、こちらを見て何かを囁き合っているのが、視界の端に映った。
立ち仕事にずいぶん慣れたつもりだが、このごろ足のむくみがひどい。工場からアパートまでは、自転車で二十分ぐらいであるが、行きに比べて帰りはペダルがずいぶん重く感じる。香苗が帰り支度をして自転車を出していると、突然後ろから自分の名前を呼ばれた。振り返ると、アルバイトの小野が、立っていた。ひょろりとした身体に銀縁の眼鏡をかけて、少しうつむき加減である。
「あ、あの」
眼鏡をかけた小野の視線は定まらず、身体は少し揺れている。小野からはなかなか次の言葉が出てこない。
「どうしたの」
身体の薄さは、正志の半分ぐらいだなあと小野を見ながら香苗は思った。
「いや、その……今日は、僕のせいですいませんでした」
小野はようやく、絞り出すように小さい声で言った。視線が合ったかと思うと、すぐにそれてしまう。そういえば、小野が誰かと話しているのを見たことがないなと香苗は思った。
「ああ、気にしないで。小野くんのせいじゃないから」
「いや、でも工場長に怒られてたし」
「いいから、いいから」
香苗は自転車を押して歩き出した。その横を半歩ほど遅れて小野がついてくる。夕方になり、刺すような日差しは少し和らいでいるが、まだ空気はもわっとして蒸し暑い。首筋に汗がにじんでくる。
「小野君は大学生?」
「いや……浪人です」
少し間を置いて、小野は蚊の鳴くような声で答える。
「ああ、だからアルバイトはいつも午後からなんだね。午前中は勉強か、えらいね」
しばらく二人は無言で歩いていた。沈黙が続き、なんとなく気まずい空気になったので、香苗は自転車に乗って帰ろうかと思い、小野にお先にと声をかけようとした。
「いや、えらくないです」
あまりに間が長かったので、それが先ほどの返事だと気付くまで少し時間がかかった。
「もう僕二十過ぎてるし……仕事やめて再受験なんで、親には家にお金いれろと言われていて」
下を向きながら、小野は独り言のように言った。
「そうかそうか」
香苗は不自然なほど明るい声をだした。
「休憩時間によく本読んでるようだけど、参考書か何か?」
「ええ、まあ」
「私は英語が好きだったな。大学行きたかったけど、そんな余裕はないうちだったからね。高卒で事務員して、結婚退職して、今はパートのおばさんよ」
その間に離婚一回、流産二回、そして今は転がり込んできた男の家政婦かな、と香苗は自嘲的に心の中で言ってみた。
「あの……ケーキもったいないですよね」
小野の言葉が唐突だったので、香苗は面食らった。
「えっ?」
「ちょっと指の形が付いただけで、捨てられてしまって」
「ああ、でも仕方ないよ。他人の触れた跡が付いてるなんて買いたい人いないよ」
相変わらず小野はほんの少し遅れて歩いている。二人の影がアスファルトに長く伸びていた。
「でも捨てなくても……。僕が食べるのに」
捨てるぐらいなら食べたいのだろうけど、お金をだして買いはしないでしょう。香苗は少し苛立った。交差点の信号が赤だったので、二人は足を止めた。
「あの、ピース・オブ・ケーキってわかりますか」
小野の話は、前置きもなくころころと変わっていく。
「昔習ったわね。ケーキ一切れって意味でしょ」
信号が変わったので、香苗は自転車にまたがった。
「それじゃお先に。お疲れさま」
小野がまだ何か言いかけていたような気もしたが、振り返らずに力強くペダルを踏んだ。
毎日夜になると、香苗はラジオのチューナーを合わせる。十五分間の英会話の番組を聞くのが学生の頃からの習慣で、唯一続けている勉強だった。
番組が始まって五分ほどたった頃、玄関の扉の開く音がした。
「めしは?」
正志が作業着を脱ぎながら部屋に入ってきた。汗の臭いがぷんと鼻をつく。いつもより一時間ほど早い帰宅だ。香苗は慌ててスイッチを押し、ラジオを消した。
「すぐ作るから、少しだけ待っててくれる?」
正志は無言で、着ているものを脱ぎ散らかしてパンツ一枚で浴室に向かう。背中が不機嫌な様子をしている。香苗は急いで台所に行った。
「おい、湯入ってないぞ」
正志が浴室から顔を出した。
「ごめんなさい、今日はシャワーだけじゃ駄目かな」
ゆっくり湯につからないと疲れが取れないんだ、と以前正志が言ったのを聞いたことがある。案の定、浴室から洗面器か何かを壁にぶつけたような大きな音が響いてきた。
夜は窓を開けているけれど、網戸からはほとんど風が入ってこない。枕元の扇風機が首を振り、部屋のぬるい空気を撹拌している。隣の家のテレビの音が、薄い壁を通してかすかに聞こえてくる。香苗は上を向いて布団に寝転がり、薄闇の中で木目の天井を見ていた。雨漏りしていたところが、シミになって広がっている。じっと見ていると、そのシミがどんどん大きくなってきて、天井一面に広がり壁をつたって、その黒い影に飲み込まれそうになる。慌てて固く目を閉じる。
高卒なんてうちの家系には誰もいませんよと、どこからか別れた夫の母の声が聞こえる。だから片親で育った娘を嫁になんて貰うんじゃなかったのよと、義母は香苗が作った料理をそのままゴミ箱に捨てた。母さんには悪気がないんだ、全部君のためなんだよ、と言う以前の夫の声もする。二回続けて流産したとき、入院先に来た義母は、香苗を出来損ないと呼び、離婚届の緑の紙を投げつけた。
大きな石の塊が胸の上に乗っているようで、息苦しい。思い切って目を開けると、今度は天井に無数の瞳が浮かんでいた。何十という目が、一斉に香苗を見ている。身体を動かして視線から逃れようとするが、見えないロープで縛られたようにぴくりとも動かない。辺りの音はすべて消えており、香苗は目を閉じることもできない。覚悟を決めて目の一つをじっと見返していると、その視線は和らいできて、何か以前から知っているような懐かしさがじわじわと身体の中に広がってきた。突然赤ちゃんの泣き声が頭の中に直接響いた。香苗の腕に何かが触れる。それは柔らかい幼児の手のひらだ。
気が付くと、天井は元の木目に戻っていた。赤ちゃんの泣き声がまだかすかに聞こえるが、そう言えば隣の部屋に住む奥さんがこの前まで大きな腹をしていたので、おそらく子供が産まれたのだろう。
横に枕を並べて寝ている正志に手を伸ばす。そっと二の腕に触れると正志は薄く目を開けた。
「何?」
「怖い夢見たから……」
香苗は正志の脇の下に顔をくっつける。そのまま胸に手を乗せた。正志はしばらく身じろきをせずじっとしていたが、疲れてるからと低い声で言って、香苗に背中を向けた。壁の向こうから赤ちゃんの泣き声がひときわ大きく響いた。
昼休みの休憩は、専用の部屋がある。畳敷きの部屋に炬燵机が置いてあり、パートの女性たちはお弁当を持ってそこに集う。時々店からカステラの切れ端や、チョコレートの塊の差し入れがあり、女性たちは蟻のように群がる。
香苗のことを工場長に話した辻さんはパートの中では一番の古株で、女性たちは辻さんを中心に話に興じる。香苗は遠慮がちに隅の方に座って、所在なく愛想笑いを浮かべていた。
「ねえ、一緒に住んでいるのは、弟さん?」
カステラの切れ端を咀嚼しながら、辻さんはいきなり香苗に話を振った。
「見た人がいるのよね。あなたが男の人と一緒に家に入るところ。あなた以前は確か一人暮らしだって言ってたと思うけど」
辻さんはよく通る声で言って、香苗の顔を覗き込む。かなり威圧感がある。周りの女性たちは興味津々で香苗の答えを待っていた。
「あ……彼です」
香苗は伏し目がちに答える。場は一瞬ざわついた。
「へえ、そうなの。ずいぶん年下のようだけど」
正志は童顔なので、若く見られがちである。
本当はこの人お金持ちなのかしら。あんなアパートに住んでいて、そんなはずないじゃない。女性たちがひそひそと話す声が、香苗の耳に届く。
「五歳違いです」
ふーん、と言って辻さんは香苗の全身を舐めまわすように見た。冷たい汗が、香苗の首筋から胸元をつたう。お手洗いに行くので、と誰に言うともなく言って、香苗は部屋を出ようとした。
身体で釣ったんじゃないの。
工場長はいつもあの人の胸ばかり見てるわよ。
このごろアルバイトの男の子とも一緒に帰ってるみたいよ。
さすがねえ。
年考えなさいっていうのよ。
わざと聞こえるように言ってるとしか思えない、辻さんたちの声が香苗の背中を追いかけてきた。
「とにかく困るんだよね」
三時になると、十五分の休憩時間がある。その時間に香苗は工場長に呼ばれ、倉庫に連れて行かれた。
「君が風紀を乱してるって苦情がきてるんだよ。何か心当たりはあるの」
工場長は、脂ぎった身体に汗をかいているのか、向かい合っていると強い臭いが鼻をつく。
「私は、なにも……」
「パートさんたちが、池澤さんとは一緒に働きたくないって言ってるんだよね。今後気を付けてよ」
「はい……」
「わかったら、もう行っていいから。あ、ついでに棚の上の小麦粉の袋持って行ってよ」
香苗は工場長に背中を向けて、棚の上に手を伸ばした。その時、いきなり脇の下から手が差し込まれ、胸を一瞬鷲掴みにされた。そのまま工場長は、何もなかったかのように黙って倉庫を出て行った。
「い、池澤さん」
何度か名前を呼ばれて香苗は気が付いた。振り返ると、アルバイトの小野が後ろに立っていた。
「あの、あの、よかったら傘使ってください」
昼過ぎから降り出した雨は、まだ止む気配がなかった。雨具の用意をしてこなかった香苗は、そのまま自転車に乗ってこぎだそうとしていた。香苗は、小野を見て少し微笑んだ。
「いいよ。傘さして自転車は危ないから」
小野は、香苗に差し出した傘を引っ込めようとしない。遠くから辻さんが見ているような気がして、香苗はそのまま自転車を押して歩きだした。小野は雨に濡れながら、香苗に傘をかぶせるようにして、ついてくる。困るんだけど、と言いかけて、香苗はこの気の弱そうな男を振り返った。小野は突然振りむいた香苗に驚いて、また挙動不審に身体を揺らし始めた。
二十歳か……。産まれていれば、この男の子ぐらいだったかもな。
香苗はそのまま前を向いて、歩き始める。
「小野くんは、何学部志望なの?」
「ほ、法学部です」
「そう。将来は弁護士とか?」
「僕、中学校のときいじめられてたんです。それで、家にも居場所がなくて」
小野は、雨の音に消されてしまいそうな小さな声で話した。
「弱いものを守れる力が欲しいです」
二人はしばらく無言で歩いた。雨足が強まり、傘にあたる雨の音が大きく響いた。
「あの、いつもミスを庇って貰ってすいません。今日も工場長に呼び出されたのは、僕のせいですよね……」
突然、喉の奥から何かが込み上げてきた。
平気だと思っていた。男性経験なんて数えきれないほどあるし、思春期の女の子じゃないし、胸を触られるぐらい全然どうってことないはずだった。
香苗は立ち止まって、身体を這うようなぞわぞわとした感じと、吐き気が収まるのをしばらく黙ってやり過ごした。
「あの、大丈夫ですか」
香苗の様子に、小野はうろたえた。
「うん、大丈夫……。ピロリ菌がまだ消えてないだけだと思う」
「ぴろ、り…?」
不可解な様子をしている小野にかまわず、香苗は続けた。
「ねえ、小野くん」
「はい」
「大学、絶対受かってね」
小野は少し面食らったようだったが、顔に笑みを浮かべた。
「わかりました。ア・ピース・オブ・ケーキです」
香苗も少し笑った。
「それって、楽勝! って意味でしょ」
「なんだ、知ってたんですか」
二人は顔を見合わせて笑った。初めて小野と目が合ったなと香苗は思った。
香苗はいつもパートの中では一番早く工場に着く。始業前に準備をしていると、工場長が近づいてきた。
「仕事のことで話があるから。今夜飲みに行こう」
工場長の視線が、作業着を通して香苗の身体を這いまわる。
「あの、話はここでは駄目でしょうか」
香苗は手を止めて返事をした。
「いや、ちょっとここでは。それに池澤さん、今日誕生日でしょ。一人で家に帰っても淋しいでしょ」
履歴書に書いた生年月日をしっかりチェックしていたようだ。面接のときに、離婚して一人暮らしだと話したので、今でもそうだと思われているらしい。
「一人じゃないので」
そのとき、おはようございますと声がして、パートの女性たちが連れ立って入ってきた。工場長は顔をしかめて、その場を離れた。
昼休みの休憩室で、香苗は今日も皆の話を聞くともなしに聞いていた。
「そういえば、池澤さん今日誕生日なんだってね」
辻さんが、たった今思いついたかのように言った。どうやら朝の工場長との会話を聞かれていたようだ。ほかの女性たちは話をやめて、薄笑いを浮かべて辻さんと香苗を見た。
「一緒に住んでいる彼とお祝いするんでしょう。ケーキ持って帰ったら?」
一人のパートさんが、青いポリバケツを運んできた。その中には、指の形がついて売り物にならないケーキが、数個入っていた。
「ほとんど池澤さんのせいで、破棄されたものだからね。責任とれば? 十分食べられるでしょう」
辻さんは手掴みでポリバケツからケーキを取り出し、無造作に半透明のポリ袋に入れた。ほとんど握り潰さんばかりに、わざわざ一つずつ力をこめて掴んでは袋に入れた。
「はい、どうぞ」
香苗の目の前に、ぐしゃぐしゃになったケーキの入った袋が差し出された。香苗は無言で目の前に突き出された袋を見ていた。女性たちが皆、香苗を見ている。たくさんの目が香苗をじっと見つめている。
「どうぞって言ってんのよ」
辻さんは香苗の手をとって、無理やり袋を握らせた。
十時をまわっても正志は帰ってこない。何時に帰るかメールで尋ねてみたけれど、返事もない。部屋の隅のごみ箱には、昼間辻さんに渡されたケーキの入った袋が捨ててある。香苗はその袋をしばらく見つめていたが、思い立って拾い上げ、袋の中身を皿の上にあけた。
ろうそくを立てなくっちゃ。
蚊が何匹が香苗の周りで羽音を立てている。手ではらって、香苗は蚊取り線香を取り出しボキボキと短く折って、原型を留めていないケーキの上に四本、突き刺した。ハッピーバースデーのメロディーを口ずさみながら、蚊取り線香に一つずつ火をつけた。煙が四筋ゆらりと天井まであがる。
香苗は生クリームを人差し指で掬って、その指を舐めた。それから、苺をつまんで口に放り込む。スポンジを千切って手で掴み、口の中に押し込んだ。指と唇が生クリームでベトベトになる。
線香の灰がぼとりとケーキに落ちた。
灰の付いたところを掴んで口に入れようとしたとき、玄関の引き戸が開く音がした。正志が部屋に入ってきた。
「コンビニしか開いてなかったけど」
正志はコンビニの袋を机の上に置いた。そして、蚊取り線香が立てられている潰れたケーキに目をやった。
「何だよ、これ」
「ん、蚊がうるさかったから」
正志の買ってきた袋を開けると、モンブランが二つ入ったパックが出てきた。
「こんなので、ごめん」
正志は香苗の向かいに腰を下ろして、パックをあけてモンブランを取り出した。香苗はしばらくその様子を見ていたが、「あ、お皿」と呟いて台所に行った。
二つ並べて敷いた薄い布団の上に、香苗と正志は並んで仰向けに寝ていた。電気を消しても、月明かりのため部屋は薄ぼんやりと明るい。半分雲に隠れた月が、窓の外に見える。
「あのなあ」
正志が低い声で言った。
「来月から正社員になれそうなんだ」
耳元で蚊がぶーんと音を立てるので、香苗はぱちんと両手をたたいた。手のひらに、潰れた蚊がくっついていた。
「そしたら、考えよう」
「何を?」
正志はしばらく黙っていた。窓から差し込む光が、少し明るさを増した。
二人ともしばらく動かなかった。
正志がぼそりと言った。
「籍とか、子どもの事とか」
香苗は、窓の外に目をやった。黒い雲が流れて、満月が顔を出していた。
ピロリ菌除去のためには朝晩二回七日間、何種類かの抗生物質を服用する。今日で七日目、服用が一段落する。香苗は、錠剤を五つ、水で喉の奥に流し込み、工場に向かった。
工場はいつも通りで、アルバイトの小野は相変わらず要領が悪いし、辻さんたちは香苗に冷ややかだ。
香苗がベルトコンベアに向かって黙々と作業をしていると、工場長が香苗の後ろを通りかかった。
「池澤さん、今日なんか調子いいじゃない。昨日楽しいことあったんじゃないの。今日はミスなしでいけるだろうね」
通り過ぎながら、工場長は香苗の尻をなでた。香苗の向かい側では、小野がまた失敗して、ケーキに指の形を付けている。香苗はそのケーキを掴み、ポリバケツに入れずに振り向いて工場長の顔に叩きつけ、言った。
「イッツ・ア・ピース・オブ・ケーキ」
工場長は、一瞬何が起きたのかわからずに目を白黒させている。辻さんたちも驚いた顔で、香苗を見ている。小野が笑って親指を立てた。
その光景を見ながら、今夜で薬が終わるなと、香苗はぼんやり考えていた。
(了)
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