たべごろ   高橋 陽子


 

 夜の風がすうっと体に浸透していく。携帯電話の時計を見ると二時を指していた。
「もう二時やわ」
 私は隣にいるまーくんに言った。
「うん」
 彼は私と手を繋いで歩いている。私の家に向かう途中である。歩いている人は私たち以外にいない。家やマンションの外灯が、うっすら彼を私に見せてくれる。彼は私を見ていなくて、ただただ、前を見てわたしの手を握っている。
「ここら辺が一番、いいやろう。光が一番つよい」
 踏切の前で手を放した。たしかに踏切には赤や黄色の光が夜中でも射していて明るい。こっちを見ている。よかった、顔、ちゃんと見てくれた。
「うん。ええよ、ここで」
 私は携帯電話を取り出しカメラ機能を起動させた。
「じゃ、撮ろう」
 私の携帯電話を奪い取り、どこの場所が一番私がよく写るかかざした。ここじゃないな、もうちょっとこっちかな、と電話を持ちながらうろうろしている。
「もうええやん。とりあえず一回とろう」
 線路に座っている私に焦点を合わす。
 ピピッと焦点を合わす音がなって、シャッター音がした。私をとってもらった。
「どう」
 綺麗に可愛らしく写っていればいいな、と期待しながら画面をのぞき込む。顔が丸く浮腫んでいる気がする。彼からはこんな風に私が見えているのか。
「まぁ、暗いわな。よくわからんけど、私やね」
「そうやな」
 といって光が強そうな、明るい場所をまた探し始めた。私はまた線路に腰掛ける。線路は冷たい。さっきまでお酒を飲んで火照っていた太ももを丁度いい具合に冷やしてくれる。足元にあるゴツゴツとした石を拾う。土臭くない軽い石。シャッター音が何回か聞こえる。
「あぁ、ここ。ここがいいわ。ここが一番写る。ここにきて」
 言う場所にいく。たしかに電気だらけで眩しい。
「じゃ、まずは普通に」
 隣に来る。二人の顔が近い。
「笑顔で」
「はい」
 私は口が精いっぱい広がるくらいに口をあけ、いま、一緒にいていることの嬉しさを表わしたつもり。ピピッ、といってフラッシュが光る。わくわくする。
「これ、どう」
 見せてくれる画像は、私は笑っているけれど彼の目は楽しそうじゃなかった。
「もう一回」
「えー。もういいやん」
「もっと笑いいや、なんなん、このぼんやり顔」
「写真映り悪いねん、俺」
 二回取り直して、もういいやん、いやや。と言われたので二人ともあんまりいい表情じゃないけれど、納得した。
「記念やしね。いろいろ」
 といって私は線路の上を歩いているまーくんを撮った。
「最後だしね」
 といって手を繋いで踏切から離れてまた私の家に向かって歩き出す。
 猫がいた。暗くて何色なのかわからないが、単色の猫がこっちを見てじっとしている。
「最後だし」
「うん。わかってるって。こうやっているのも最後」
「うん」
 坂をのぼりながら何回もお互いに、最後であることを確認し合った。もう、私たちは終わりになる。坂をのぼりきったら私の家が見えたら、もう会わなくなる。今この風景より真っ暗なところにいくんだ、これから。しばらくは私と彼も真っ暗になるんだ。握る手が強くなる。強く返してくる。ゆっくり歩いて出来る限り一緒の時間を長く過ごしたかったが、誰もいない、見てくれない二人なんだなあと一番輝く自動販売機を眺めて思うと、ここでいいや、と思った。
「もう、ここから一人で帰るわ」
「あと少しやけど。いいの?」
「うん」
 顔は見ないように答えた。彼はちょっと間があって、
「わかった。じゃぁ」
「うん。じゃぁ」
 といって手を振った。去っていく背中を見てみたかったが余計な思い出になるので早歩きで家まで歩いた。

 自分の部屋でまだ洗濯してなかった部屋着の匂いを嗅いだ。彼の部屋とタバコと皮膚の匂いがした。鼻に服をくっつけて息を吸う。彼と私の思い出が浮かんでくる。この服は着ないが今日は枕元にこれを置いて寝よう。匂いが薄れて私の部屋の匂いと混じればいい。明日、必ず洗濯するから。枕の上に服を置いて電気を消して目を瞑った。

 一週間前。
彼は毎日グラタンを食べに来ている。店に私がいないときも私が作ってあるグラタンを注文する。グラタンと大瓶ビール。
それを食べると家に帰って寝ている。朝の六時に店に来て、七時には帰って風呂に入って夕方まで寝て仕事に行く。彼の冷蔵庫には水と発泡酒ばかりで、あとレトルトのカレーとサバの缶詰がひとつずつある。
 まーくんの仕事は午後の六時から始まる。そこで何かまた食べているんだろうけど、私はグラタンを食べているところしか見たことがない。あとは酒のあてになるピーナッツや乾きものぐらいだ。
「食べたいもんとかないの」
 と聞くと、お酒でいいねんという、体は細いのにお腹だけがでている中年体型だ。
 まーくんの部屋には本が沢山ある。ビジネス本や漫画、バブルの時に流行っていたと思うハードカバーの小説。特定の作家が好きそうで全部大事にとってあった。私からしたらただの、展開と落ちが同じの小説家。十何年も前の週刊誌。あと思い出がつまったカセットテープと白いアルバム。学生の時につかっていた授業のノート。流行遅れのスーツ。
「思い出ばかりに囲まれてる部屋やな、ここは」
 と言うと、
「置いておく場所がないから、持っていくしかないねん」
「捨てたりしないの?」
「捨てる発想がないねん」
 と言っていた。その顔が皺だらけで眼が黒い。黒目の配分が多いのが羨ましい。

 彼がお風呂に入っている間に携帯電話が鳴った。最近一緒にいるときによく電話がかかってきている。出たらいいのに出ないから、あとでこっそりと見ると別れた奥さんからだった。私はその画面を眺めた。見たいのか、見てしまったからショックで目を背けるのもできないのか、ずっと画面を見ている。見ているうちから何回も掛けてきている。いいんだけれど。それは。話す事もあるだろうし、仲もいいから。まーくんも私に気を使ってでないんだろうけど、私も同じことするし、いいんだけれど。いいんだけれども、頭の後ろが重たくなる。
 彼には結婚歴があり、私にはない。歳もひとまわり違う。別れたといっても長い歴史はこの元夫婦にはあるんだな、と思う。いまでも連絡をとっている。月に一回や二回は会っているのも知っている。でも愛情はないという。彼の嘘つきなところ。
 私は彼のことが好きだと思う。彼以外に性欲がわかないからそうだと思う。もう二年にもなるから、私には付き合いが長いほうだと思うし、喧嘩もしたし、よくわからない事で怒られたり、怒ったりした。離れた時期もあったけれど、今思えば、ただの喧嘩の延長でやっぱり私は彼の元に、彼も私の元に戻って今に至っている。彼が私の近くにいないときは、私も男の子と遊んだりしている。そうやって私は、バランスをとっていたが、ここ最近はこの元夫婦のやりとりに敗北感に似た思いがでてきている。

 風呂から出てきた彼はタオルで髪の毛を乱暴に拭きながら私の隣に座った。そして綿棒に手を伸ばそうとしたので私は彼の上にまたがった。
「なぁ」
「なに」
 太ももが濡れている。
「耳かきするん。やったろうか」
「いいわ。なに、どうしたの」
 両手で私の膝小僧をなでる。
「今日、なに食べたん」
「いつもと同じ、グラタンです」
 そう、と言って腕をつかむ。
「なぁ、電話、かかってきてたで」
「あそう」
 また綿棒をとろうとしたので代わりにとって乱暴に左耳に刺した。
「やさしくしてな。いややけど。非常にこわいのだけど」
 うん、ほんまは耳かきされるの好きなくせに、と思いながら乱暴にしたろか、やさしくしたろか、ちょっと悩んだ。
「いたくせんといて」
 念を押されたのが鬱陶しく、やっぱり頭が重い。綿棒で耳の穴の入口でトントンと軽く叩いて、言いたくない単語を言った。
「けいちゃんから、電話! かかってきてる!」
 と言って耳を噛んだ。
「あそう」
 と言って私の腕をつかむ。私と彼の目の焦点が合わない。彼が何処を見ているのか分からないから、黒目ばかり見ている。私の右目と、彼の左目が合わない。その逆も一緒。
 私は彼の考えてることがわからないもどかしさで彼の耳を噛む。
唾液が少なかったのか味かしない。
反応は無い。
今度は右の餃子の形の耳を噛む。
耳たぶを舐める。産毛を感じながら産毛を唾液で濡らしてそれを舐めとる。耳の輪郭に沿って舐めて吸う。耳の上部の軟骨を噛む、しゃぶる。皮膚の味が出てくるまで同じことを繰り返す。たまに濃いのが食べたくなったら耳の穴に下を入れる。あまりくちゃくちゃ、と音はださない。大事に、大切にねぶる。
餃子の耳に飽きたらまた左の耳も噛む。噛む、というか、味わう。舐めるし、吸う。耳の匂いと角質の味がその人の匂いを凝縮している気がする。私は相手の耳に執拗に固執する癖がある。耳を食べる事が出来るのなら食べたい。けど、この皮膚の匂いが好きだから食べきれない。食べたら、匂いがしなくなるから我慢する。その時性欲が湧く人しかしない。好きじゃなくなったらその耳もいらなくなる。
私が噛んだりしゃぶっているときの彼は無抵抗で、痛い、とも言わない。耳の穴をいじってるときだけは痛いっていうくせに。これをしたら、私の怒りが収まると思っているんだわ。
まだ、私は彼の耳を味わいたいって思っていられてる。

一通り舐め終わるとやはり私は満足するのか、彼に抱きついた。いつもなら私の耳に「堪能して頂けたでしょうか」と、問いかけるのに、言わない。頭の匂いも嗅ぐのが好きなので黙って嗅いでいる。なんでこんなにこの人の匂いが好きなんだろう、落ち着くんだろう、と考えながら匂いが出尽くすまで楽しんでいた。
彼が私を起こす。
「なぁ、そろそろ、本気でちゃんと言わなければ」
「はぁ」
 私はとろんとしている。匂いを味わいすぎて気持ちがいいのだ。彼の顔を見ると眉毛がまっすぐ一文字にきちんと整っている。思わず手で眉毛をなぞる。
「あれ、眉毛、どしたん、整えてる」
「うん」
「自分でしたの?」
彼にはちょっとの間があった。間で、何をいうか分かってしまった。
「けいちゃんに」
彼からこの単語を聞くのは心臓がどきどきしてしまう。
「そう」
というのが精一杯になって顔を見ないように逃避しようとして、また耳を咥える。ひと噛みしたところで彼がいう。
「ここにけいちゃん泊まってん」
聞きたくない単語が二つも混じった。動きが止まると気持ちがばれてしまうので、耳を強めに噛んだ。
「ショックを受けてらっしゃる」
聞いてくるので噛み返す。分かっているのに、言う。
「はぁ、嫌なことですね。眉毛整えられて宿泊されて」
舐めて噛む。なんか印でもつけたいわ。お気に入りの餃子の耳、これ私のん。
 なんで眉毛整えてるん。きちんと。
 なんで泊まってるん。
 なんでか分からんし、きっと教えてくれても文章が脳みそに一回通るだけで分からんから、聞かれへん。この耳噛む事しか出来ひん。
「幸せにすることなんかできんわ」
 何回か聞いたことある言葉なので、またそれ言う、と思う。
「はぁ」
 しっかりして、と言わんばかりに腕を掴んで、私を揺らす。
もう一度、はぁ、という。
「ちゃんと線引きしなければ。もう、こうやって会うのはやめよう」
これも前に聞いた言葉なのでそれほど落ち込むことはないが、だんだん口調が強くなってきているのでちゃんと聞かないとなぁ、と思って、彼にまたがっていたのを下りて隣に座った。
「何回目やろうか、同じこと言われるの」
「んん。三回目、かなぁ」
 三回も同じ言葉を言われて、はい、わかりました、と了解して、また同じ調子に会って、また言われている。頬をつねる。クーラーのせいで彼の頬は冷たかった。また、わかりました、という前に言ってみたいことがあった。
「結婚というものしてみたいんやけど」
「えぇえぇ」
 誰と、と言われたので、あなたとですけど、というと、また、
「えぇえぇえぇ」
と否定的な答え方をする。恥ずかしがっているのも、嫌がっているのも、出来ない事も分かる答え方。言ってみたかっただけやのに空気が変わってしまった。
「暖簾に腕押し、糠に釘」
「え」
「反応なしやん」
「うん」
もう一度同じところつねる。赤く腫れろ。
「痛い」
私の方が痛いわ。
彼の手を掴んで私の服の下に入れて乳房を触ってもらう。
「噛んで」
 彼は何も言わずに乳首を噛む。服がかぶさって噛んでる顔が見えない。
「もういっこも噛んで」
噛む。
今度は服をめくって顔をみる。
「じゃぁ、次は舐めて」
繰り返してもらう。口に咥えているのを見ながら間違いのないようにゆっくり考える。

知ってた。最近グラタン食べないの。毎日、欠かさず、ずっと食べてきたのに、たまにうどんを食べている。グラタン食べ過ぎて吐きそうって、言ってたの、覚えてる。吐く、なんて言わなかったのに。そういう時期にきたんだ、私たち。
まだ咥えている乳首を放して、と言う。
乳首から離れた口が言う。
「俺、やっぱりけいちゃんとまた仲良くするわ」
それ言うたら、納得すると思ってる。この言葉聞いたらわかった、っていうのん、しってるくせになぁ。会ったことないけれど強いわ、けいちゃん、は。
「わかった、て言うわ」
グラタン最近食べへんし。もうしんどいし。三回目やし。未来ないし。これから何もないし。そのたびに心が傷ついて、そのたびに人間不信になってるし。
「そうなの」
けど。
「お願いがあります。最後に手を繋いで外を歩きたいし、写真も撮りたい。普通の人たちみたいな事、してみたい、です」
自分の顔が紅潮しているのがわかる。
「今すぐ? 眠たいんだけど、もう。今すぐ布団に絡まりたいんだけれど」
別れたいんちゃうの、終わりたいんじゃないの。今すぐに。
「今日じゃなくていい、次の休みの日でいいから。そん時がほんまに最後の日。店にきてもいいけど、私の時間にはこんといて。あいたくなるから、耳、食べたくなるから」
 少しの間をおいて、
「いいよ、わかった。次の休みの時が、最後」
 と言った。目が、片目だけれど合った気がした。
 よれよれに移動して布団に入っていく彼を追って私も一緒に布団に絡まる。
「なぁ。グラタン、飽きたん?」
 真っ暗な布団の中で目を見る。みずみずしさが分かるから、そこら辺が目の位置だと思う。顔を触って確認をする。
「ううん。ずっと、飽きない。たまにうどんが食べたくなるだけ」
 余計に混乱してしまうけれど布団の中の匂いが彼の匂いで充満しているので気持ちよくなって、どうでもよくなる。良い匂い。
「じゃぁ」
 私は彼の耳をもう一度舐めてしゃぶった。次は舐められないかもしれないから、思いっきり味を覚えとかないと。舐めまくって味わって、私の皮膚からも同じ匂いと味がしたらいいのに。
 まぁ、最後やしね、といっていつもどおりのセックスをして、本当に最後にしようと決めていたのがよかったのか、よく濡れた。彼が果てたのと同時に寝たのでティッシュで拭いて、抱き合い、無意識に足を絡んでくる。整えられた眉毛を撫でて髪の毛を撫でて反応がない寝顔をみてキスしてもう一回、耳を舐めて置いてあった部屋着を紙袋にいれて、電気を消して一人で帰った。

 部屋で布団に絡まりながら、足にさっきまで彼が絡んできた足の重さが自分にまだ残っていた。あ、まだいるんだな、と思っていたら、腰にも肩にも彼の重さを感じた。二人で寝ている感じになる。このまま跡になって残ったらいいのに、朝になれば消えてなくなる。
 こんなもんなんやなぁ。
 もういいや、もう、この人といても辛いこと言われるだけだと思い、週末は違う人と遊ぼうと決めた。

 三か月前。
私がつくったグラタンを毎日食べに来ている。店の売上げのために家にいっても同じのは作らない、というか、彼の家に調理器具が無いので私は作ってあげる気持ちがない。
 けいちゃん、の存在を知ったのは、私の事を「けいちゃん」と言ったからだ。
「誰なん、それ」
 おお、ドラマでよくみる展開だなぁ、と思ったのでわくわくして聞いた。
「あ、元おくさん」
 さらっという。
「そうなの」
 あ、喋る口調が似てきたんや私。
「嫌なもんやね、間違えられると」
「そうなの」
 さらっと。
「そうなの!」
それからけいちゃんのちゃんとした名前を聞いた、圭子という。へぇ、私には未だに名前でちゃんづけで呼ばれたことないわぁ、と思ったことと、私にもケイちゃん、と呼んでいた人がいたことを思い出したけれど、それは言わないでいいことだから黙っていた。

 ある日の夜、店に懐かしい人がやってきた。私の方のケイちゃんだった。
「久しぶり」
「久しぶり、どうしたん?」
 やっぱり、どこか老けた感じかするなぁ、とまじまじ顔をみる。お互い様。
「食べに来た」
 と言って笑顔で座った。あぁ、そのおいしそうな顔は変わってないなぁ。楽しくてしんどかった懐かしい私の感覚が出てきて胸が熱くなる。
「なに食べるの?」
 冷たい麦茶を出して聞く。
「焼き肉定食と、納豆」
 すぐ返事が返って来た。いつも食べてた同じメニュー。グラタンは嫌いなメニュー。
「うん。わかった」
 と奥の厨房で、納豆に黄身だけを入れながら、確か焼き肉の味付けは濃い目でニンニク沢山入れるのが好きだったなぁと思いだして、ご飯も大盛りにしてあげた。
「ありがとう、これ、懐かしいわ」
 といって口を大きく開けてご飯を入れる。大きな口、変わらんなぁ。
「お前んとこ、変わらんな、おいしい」
「ありがとう」
 懐かしさにかまけて、今何しているとかよく喋った。喋りながらも、私は、ここが嫌やったんやなぁとか思ってしまった。喋り出したら止まらない。私の話を聞かない。けど、嬉しそうに喋るので聞いてあげたい、と思う。私の事、お前、お前という。束縛が凄くて携帯もいつも見られていた。そうやって自分の欲求を無くしすぎて辛くなって別れた。四年もつきあったが、最後は警察沙汰になった。交番に泣きながら入ったこと、パトカーで駅まで送ってもらったこと。けど、友達が間に入ってちゃんと会って別れたこと。それを思い出してきたら、感覚を思い出したのか、嫌な気持ちになった。最後にちゃんとさようなら、と言っていたから、いま、普通に喋れるんやわ、と冷静になった。
「もう、あんときおかしくなってた」
「な。俺もお前もおかしなってたな」
 口の周りに焼き肉のたれが付いている。
「たれ。付いてる」
ケイちゃん、と言いたくなった。あぁ、といって乱暴に舌を出して適当にぐるりと一周させて舐めとった。
「器用やね、舌」
「お前もな」
 といって自分の耳を指して睫毛を触った。その行為をみてケイちゃんと仲良かった頃から急に今現在に戻った。食べ終わった後にケイちゃんは、
「お前、いま付き合ってる奴いてるんか」
 と言うので、
「いてるけど」
 と答えると、
「そう」
 といって伏し目になった。長い睫毛が目を隠す。
「お前、楽しないやろう。分かるねん」
 他にお客さんがいなくてよかった。ケイちゃんさすが、わかってるなと思ってしまった。

二年前。
毎日来ている人がいる。毎日瓶ビールとグラタンを注文している人がいるらしい。見たことないけど、一週間はずっときている。時間が合えば、いつもありがとうございます、と言えるのに。そんなに毎日食べていて、胃の中はチーズとベーコンとホワイトソースとビール色になっているんだろうな。ケイちゃんでもそんなに食べないのに。
どんな人なん? ってきいても仕事帰りの疲れてる人、普通のお客さん、と言う。普通の、グラタンだと思うけどなぁ。一つのもの毎日食べられる人がいて、それが私のグラタンなら嬉しいけど。

それからしばらくして私の時間にしか来なくなったグラタンの君。君、というのは私の事を、君、と呼ぶから。
「君がこれつくってんね」
「はい、そうです」
コップを洗いながら言う。
「毎日、飽きないんですね」
「今はね。飽きた、と思ったらもう絶対食べへん」
はっきりとした口調でいうので、コップを置いて君をみた。
「いつまで続くんかな。楽しみ」
目をみて言う。君はにやりとして、
「賭けてみる?」
と言う。
「そんなん、賭けしても私が、飽きた? って聞いて、ううん、とかうん、っていえばいいだけやん」
にやりとする。
「そうやな、でもこれはしばらく飽きんな。おいしいもん」
 ずっと褒められるのも恥ずかしくなるけれど、嬉しくて笑顔で、
「ありがとう。そう言ってもらえてうれしい、です」
 自分の顔がはにかんでいるんだろうというのが分かる。
「でも、そこらのグラタンと変わらん気がするんですけどね」
「違うで、おいしいよ」
 おいしい、とは違う言葉を聞きたかった。もっと具体的に言って欲しい。
「どこがちがうの」
「ううんとね、食べたい、と思うから、です」
 言葉の数が少ない人だな、と思った。
「そう、です、か」
それから君は来るたびにグラタンを食べ、色々話した。最初は、働いている場所とか、住んでいる所、何歳とか今日の新聞のこととか、ラジオで流れている曲のこと。英語が好きなこと、とかそんなたわいのない話。でもたまに、
「休みの日は何しているの」
 と聞いてきたので、これは探っているのだと感知して、
「遊んでるけど」
 一瞬、どうこたえるか迷った。
「男の人はいるの」
 どっちの答えが正しいのか分からないが、間をつくるのはやめて、
「はい、彼氏います」
 と言って、
「彼女は」
 と直ぐに聞き返した。
「いない」
 と直ぐに答えた。
その日はグラタンを二つ食べてくれた。食べ過ぎて吐かないのかな、と思った。奥さんと別れたけど、いまでもなんだかんだ仲よしだと言っていた。あまり興味が湧かなかったが、君は私の事、気になっているんだなぁとは分かった。あとでケイちゃんにお客さんで私の事、気にいってくれてる人がいるんよ、と自慢した。

君がグラタンをたくさん食べてくれるので隣にいたお客さんも注文してくれたりして、毎日毎日グラタンを仕込む。ベーコンと玉ねぎを炒めているときに毎回、君のことを思い出してしまう。君がグラタンをおいしそうに食べてくれるのを想像して、このグラタンも食べてくれたらいいなと、思いながらチーズをのせる。
ケイちゃんはあまり店に来なくなっていた。
家にいったときにご飯は作るし、そう頻繁に私の顔も、私の料理も見たくないし食べたくないからだと思う。私も思うから来てほしくなかった。
グラタンという存在が君になっていた。今日も食べてくれるかな、と牛乳とバターを混ぜながら、チーズをのせながら、来てくれるかな、おいしいって顔してくれるかな、と思った。

ケイちゃんといるときより君と喋っている時間の方が多くなっていて、ケイちゃんは君の話をすると機嫌が悪くなる。最近は家でご飯を一緒に食べてケイちゃんの耳を堪能させてもらっていたけれど、今はケイちゃんの耳を食べたい、とはあまり思わない。飽きたのかもしれない。
「耳、いらんの」
 膝枕して映画を見ながら言ってきた。
「なんか、もういい」
「じゃぁ、こっちして」
 自分の目元を指して私に促した。
私がケイちゃんの耳を舐めさせてくれる代わりにケイちゃんは、自分の長い睫毛をわたしに触らす。膝枕をしながら睫毛を目の形に沿って指で撫でるだけ。
指にパラッと毛を感じる。
パラッ。
パラッ。
右目に飽きたら適当に左目に変えてパラッと撫でる。
指で楽器を弾いてるみたいに撫でる。たまに睫毛を持ち上げたりして刺激を与える。
しばらくすると、うとうとしてきて静かに寝息を立てる。一緒に寝るときも眠るまで睫毛を撫でて、という。誰かに睫毛を撫でられるとすぐに眠たくなって、気持ちよく眠りにつけるらしい。簡単に寝ることができて羨ましい。ケイちゃんの睫毛は長くコシがあっていいなぁとおもいながら撫でる。早く寝てほしいなぁ。耳はいらんから、睫毛触るだけでいいや。

耳、いる?
いらん。
じゃぁ寝るから睫毛して、
 そんなことを言う日が多くなっていた。

反比例するように君の耳ばかり見ている。グラタンを頬張る時に耳はよく動く。耳は右と左と大きく形が違っていて、右の耳はつぶれていて餃子の耳になっていた。二つとも大きく立っている耳に、思わず、
「耳、なんかしたん」
と聞いた。
「昔、喧嘩して」
 にやっと言った。嘘なのが分かったが、言いたくないのも分かったので、
「そうなんや、喧嘩なんかするんやぁ」
と言って流した。話をしながら私の目は君の耳に釘づけで、形が変わってしまった餃子の耳は手で広げることが出来るんだろうか、耳垢は溜まっているんだろうか。どんな味がするんだろうか、舐めてみたいなと思って、思いすぎたあまり君にこの心の考えがばれてはいないか少し心配した。君は耳の事をいってから視線が気になるのかずっと右の餃子の耳をぶっきらぼうに触っている。私が触りたいわその餃子の耳、私に触らせて。見せて、中身。

 君が撮った写真を見せてもらった。夕日の写真。誰でも撮りそうな真ん中に陽がある写真を見た。
「きれいやね」
 何も思わんけど、大事そうにしている写真なのが分かったからそう言った。君は嬉しそうな顔をした。
「そう、思います? 俺もそう思う」
 笑顔で言うのでこっちまで笑顔になってしまう。
「何処で撮ったの」
「マンションの屋上で」
「へぇ。あそこ、登れるんや、上まで行けるんや」
「そうなんです。行けるんですよ。風が吹いて気持ちがいいんですよ。強すぎて飛ばされそうになるけど、誰もおらんし、何も無いし」
 顔が自慢げになっている。
「へぇ。そうなんです、か。そんなに良いなら行ってみようかな」
と言ってすぐに、
「ひとりで」
 と言った。
 この日も二つグラタンを食べてくれた。食べ終わったグラタン皿を洗うのも楽しい。焦げたチーズを綺麗にとって、汚れもなにもない白いグラタン皿をみると、君を想った。

 仕事が終わった帰り道に君のマンションがある。このマンションは誰でも入る事が出来た。エレベータ―に乗り、屋上に行こうと最上階の八階を押した。登り切ってもまだ部屋があり、右の奥に細い階段があった。
 君は多分もう仕事にいっているから屋上にいないだろう、と思ったが、いてくれるかもしれない、少し期待した。登ると、立ち入り禁止と書かれた看板をどけて中に入って行った。
 何も無かった。柵もない。吹き飛ばされたら落ちそうだ。人影も無い。風がびゅうびゅう耳元でなっているだけだ。
太陽が夕日になって落ちていく。桃色と青と薄い紫の空がみえる。しばらく空を見ていた。電柱もない、遠くにちらっと高いビルが見えるだけで、空が大きく見えた。屋上に慣れてきたのでゆっくりと下を見下ろす。いつも通る道が小さく見え、動くおもちゃに見えた。車も、人も小さい。動く音と喋る声はしっかりとここまで聴こえてくる。私の声は下界には届くか実験してみたかったが、バレるともう、ここには来られない気がするので止めた。屋上の真ん中に移動して寝転がる。誰も見てないし、真ん中ならいいか。
「う、ううん」
 伸びをして息をはいて空を見る。君はこの景色をみていたんだと思った。いまの季節とこの時間帯は良いだろうな。夏は日差しがきつすぎるし、冬は寒いだろうな。ごろごろ寝転がりながら君のことを考えて携帯電話をだし、寝ながらいまの目に映る風景を撮った。
桃色の割合が多い空が撮れた。
君が来たらいいのにな、と思った。
空を紫色が占めてきた。もう屋上を満喫したので降りようと思ったら君がいた。
「あ」
「どしたん、やっぱり来たね」
「うん。仕事は?」
「今日はもうちょっと遅れて行く日」
 そう、と言って君が階段を上ってくるのでもう一度屋上にいった。私は緊張して隣に座っていても脇や首や顔から汗がでてくるのが分かった。いつもは対面で喋っているけど、横に並んで話すのは初めてで気持ちが高ぶって耳の事言わんようにしとこうと思った。もう耳を見ている。
「あ、もう空が青くなっている」
「そうですね、もうすぐ暗くなるな」
「そうですね」
 わざと口調を真似た。

 いつもと見る角度が違うと何を話していいかわからなかったが、君がいつもより饒舌に喋るので頷くだけでよかった。君が本が好きなのもこの日分かった。同じ本を読んでいたので最後はこうだ、とか思い出すのに時間もかからず、すらすら言えたことに感心したりした。
 君が寝転がったので私も寝転がった。振り向くと右の耳がすぐ近くにあって、口に入れたくなった。
「耳、いつも見てるよね。変なん」
 意図を突かれたので、変なん、の意味が、私なのか餃子の耳なんか分からなかった。
「耳、おもしろい」
 口に入れたい衝動を殺して、
「手で触っていい?」
 と聞いた。
「手じゃなくて何で触るん」
 と笑いながら言って、いいよ、と言った。
 餃子の耳は冷たくて柔らかかった。私の手の体温よりも私の口の温度で、その冷たさを確かめたかった。
「変なの」
 と言うので、右じゃなくて左も触らせて、と言った。いいよ、と言ってうつ伏せになる。左の耳は立っている以外は普通で形のよい肉厚の耳たぶがあった。右の形と左の形を触感で手に覚えさせていく。形で押さえていくたびに口の中に入れたいと思った。

「すきなんです」
 と君が言う。うつ伏せになっているので表情がわからないが、私の事だろうと思う。あともう少ししたら私がいいそうになっていた言葉。
「私もですよ」
 という。
「耳が?」
「グラタンが?」
「私が」
「あなたが」
 と言って、
「食べたいなぁ」
 と言って押さえていた衝動を吐きだして君の耳を口に入れた。君は笑っている。私は右の耳がいいと言って仰向けになってもらって、舌で君の閉じている餃子の耳を開けた。


 

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