急な上り坂にさしかかったところで俊雄はしゃがみこんだ。腹をおさえ顔をしかめる。歯を食いしばってうーんとうなり声を出す。こめかみから汗が流れる。
この日は起き抜けから何度も腹痛に見舞われていた。ねじれるような重苦しい痛みだ。墓参りは別の日にしようかなとも考えたが、今日をのがすともう一生来ないかもしれないと思えたので無理をして家を出た。俊雄にとってはこの墓参りは二十年前からの懸案だったのだ。
墓地はもうすぐそこだった。あと五十メートルほど坂を上れば入り口になる。しかしここへきて痛みだけではなく、激しい便意をもよおしてしまった。痛みをこらえながら尻にも力を入れなければならない。
その時、目の前の家の玄関が開いて中から四十歳ぐらいの女が出てきた。
俊雄は反射的に「トイレを」と叫んでいた。うずくまって、顔をしかめたまま、右腕を伸ばし、「トイレを」と叫んだ。
「トイレを貸してください。お願いです、トイレを」
女は俊雄をのぞき込み、その顔色の悪いことに驚いて、
「さあさあどうぞ」
と俊雄を抱えるようにして家の中へ連れて入った。
二十分ぐらいはたっただろうか。俊雄はすっかり回復してトイレから出てきた。ふーと長い息を吐き、短い廊下を歩いて玄関へ戻ってくる。
女は玄関のドアを開けっ放しにして三和土に座って待っていた。
「どうもすいませんでした。本当に助かりました。なんとお礼を言っていいか」
俊雄は深々と頭を下げた。
「もうよろしいんですの」
「はい、どうにかおさまりました」
「相当苦しそうでしたわね。顔色も悪くって心配しましたわ」
「いやいや本当にどうなることかと思いました。ありがとうございました」
何度も礼を言って俊雄は女の前を通って外へ出た。のどが渇いていた。汗と下痢とでかなりの水分を失っている。体は正直だ。水が飲みたい。冷たい水がほしい。しかしそこまでは言えなかった。
女が鍵をかけているのをぼんやり眺めていると、表札が目に入った。かまぼこ板ぐらいの木の板に墨字で『森川』とある。
「森川さん?」
思わず口に出た。ちょうど女の後ろ姿に呼びかける格好になった。戸惑ったように振り向く女に、
「偶然ですね」
と俊雄は微笑みかけた。
「いえね、今日は友人の墓参りに来たんですが、その友人も森川っていうのですよ」
「あらそうなのですか」
「二十年前に亡くなったんですが、ちょっと事情があって墓参りに来られなかったんです」
話しながら俊雄は、そうだようやくここまできたんだと思いながら墓地の方へ目をやった。
「事情というのはたとえば遠くに住んでおられたとか」
女の問いにすぐには答えなかった。梅雨が明けたばかりの七月の太陽を浴びて止まらない汗をてのひらでぬぐう。
「あら、ごめんなさい。余計なことをお尋ねしましたかしら」
「いえ、かまいません。少し込み入ったことがありましてね。それでなかなか……。それよりあなたのお名前を聞かせてください。のちほどしっかりとしたお礼をしたいもので」
「お礼なんて必要ありませんわ」
「お名前はなんとおっしゃいますか」
「あたしですか。森川雪枝と申します。でも本当にお礼なんて結構ですから」
雪枝は胸の前で小さく手を振って断りの意思表示をした。そしてそのままゆっくり坂を上り始めた。
「雪枝さんも墓参りですか」
俊雄は雪枝の隣に並んだ。
「いいえ近道ですの。駅まで行くときはいつも墓地を通りますのよ。それに」
「それに?」
「あなたのことがちょっと気になるものですから」
俊雄は雪枝の横顔を見た。きれいな人だなと思った。透き通るような、それでいて存在感のある水晶のような美しさだった。
「そうだ、こんなものがあるんです」
俊雄はそう言ってズボンのポケットから一枚の紙を取り出して雪枝に見せた。それにはこれから行こうとしている墓地のおおざっぱな地図が描かれてあった。入り口から一本の道が伸びていて途中でふたつに分かれている。左側を行けば森川の墓だ。しかし分かれ道と森川の墓以外は何もなくて全体の広さも直線の距離も分からない。以前墓参りに来たという友人が今日の俊雄のために描いたものだった。
「僕はこれからこの地図をたよりに森川の墓を探さなければならない」
俊雄は笑った。
墓地の入り口には古ぼけた平屋の花屋があってお参りに来る人のために水と花の世話をしていた。その平屋の中から腰の曲がった老婆が、
「ようこそお参りで」
と声をかけてきた。
雪枝は微笑みながら近づくと供花を一束買い求めた。それはもう何百回も繰り返しているような自然な流れだった。
「あたしが案内いたしますわ」
供花を胸にして雪枝は俊雄に言った。
「あ、ありがとうございます。しかし」
「ご迷惑かしら」
「いえいえそんな」
俊雄は戸惑った。近くに住んでいるからこの墓地のことは詳しいのだと言われても、墓の案内人なんて聞いたことがない。それにあたしが勝手にしたことですからと言って花の代金を受け取ろうとしないのも気になる。
狭い墓地だった。入り口から全体が見渡せた。真ん中にやや広めの道があり、途中からふたつに分かれている。地図の通りだ。
雪枝は墓地に入ってからさらにゆっくりと歩くようになった。
「あたし、真夜中にここを歩いても平気ですのよ」「お墓って触れていたら気持ちよくなりますわ」「亡くなった人たちが思い思いに話しかけてきます。あたしには聞こえるんです」
そんなことを言って俊雄を驚かせた。
「二十年前に亡くなられたご友人はご病気でしたか」
「いや」
「それでは事故か何かで」
「いや、違います」
分かれ道までやってきた。ベニヤ板で作られた棚にはバケツとひしゃくがいくつか並べられてある。雪枝はそのうちのひとつをまるで自分の持ち物のようにさっと手に取って蛇口から水を満たした。そして分かれ道を右へ曲がろうとする。
「こっちですよ」
俊雄は左側の道を指さして言った。
「いいじゃありませんか。たいした遠回りではありませんから」
雪枝は微笑んだ。淡い藤色のブラウスに真っ白なレースのスカート。左手に供花、右手には水の入ったバケツ。すっかり墓地の中に溶け込んでいる。
一方の俊雄は手ぶらだった。腹痛はおさまったもののまだ体に力が入らないせいもあって少し猫背に歩いている。歩きながらどうも変だなと首をかしげた。何かに騙されているような気分だった。さっさと森川の墓参りをして帰りたかったのにわざわざ遠回りをしてもったいつけられているようだ。本当にここに森川の墓があるのかと怪しくなってくる。
「待ち遠しかったでしょうね」
雪枝はひとり言のようにつぶやいた。
「二十年も待ってらしたんですよね、そのご友人は。どうしてもっと早く来てくれなかったんだって」
「まさか」
「どうして今日まで待たせたんだって」
俊雄ははっとした。実際に森川の声を聞いたような気がした。体の震えがぶり返して冷たい汗が流れる。
「何もわざと今日まで引き延ばしていたわけじゃないんです。なかなか気持ちの整理がつかなくて、それで結局二十年かかってしまったんです」
俊雄は話し出した。
「森川は自殺でした。首を吊ったんです。その頃僕と森川は地元で居酒屋をやってました。東京の大学を出て五年くらいたってたかな。ちょうど駅前の再開発が始まりましてね。店の数が減ったおかげでけっこうはやりました。昼は森川、夜の酒の方は僕が担当してました。でも森川はもともと土地持ちのおぼっちゃんだから一所懸命働かなくてもよかったんですよ。だから店は僕が中心でね。その居酒屋だって森川の持っているマンションの一階で始めたんです。空けておいても仕方ないだろうってそそのかしてね」
俊雄は一息入れた。体中が汗ばんで気持ち悪い。隣を見ると雪枝は涼しそうにしていた。バケツの重さも感じさせないし日差しの強さも感じさせない。白い肌は透き通ったままだ。
「このあたりじゃありませんか」
雪枝は立ち止まった。
俊雄も足を止めた。雪枝があまりにも自信ありげに歩くものだからすっかり安心してしまって遠回りしていたことも忘れていた。地図で確認するとたしかにそのあたりまで来ていた。
俊雄は近くの墓をひとつひとつ見て回った。知らされていることは何もない。ただ森川という名字だけがたよりだった。
「ありませんね」
俊雄はため息をついた。
「いい加減な地図だから仕方がない。分かれ道のところまで戻ってひとつずつ当たります。雪枝さん、本当にありがとうございました。もうけっこうですから」
俊雄は雪枝からバケツを引き取ろうとするが、雪枝はさっと身をかわしてさらに先へと歩き出した。
「雪枝さん、もう本当に結構です。あとは僕ひとりで探しますから」
「いえいえあたしはかまいませんのよ。それよりそのご友人のことをもっと聞かせてください。お店が順調だったのにどうして」
「うーん。それは」
俊雄は左右に並ぶ墓石のひとつひとつを注意深くのぞき込みようやくあっと声を上げた。
「あったあった。ありましたよ。これですよ」
森川の墓は道沿いではなく少し奥まったところに、しかも腰くらいまでの草に囲まれて立っていた。見つけにくいはずだった。
正面に「森川家の墓」と彫られてあり、側面に戒名が並んでいた。ところどころ石の欠けているところがあり全体が右へ傾いている。
小さい墓だな。
それが俊雄の第一印象だった。なんだこんなところに入っているのか、金持ちの家なんだから墓のひとつぐらい立派にしておけよといういらだたしい感情が起こった。雪枝から花を受け取り正面の水差しに入れた。バケツの水をひしゃくですくって何度もかけた。墓がずぶぬれになっても水は残った。最後はバケツをひっくり返して回りの草に振りかけた。
「ああよかったよかった。これでようやく肩の荷が下りた」
俊雄は晴れ晴れとした表情で空を仰いだ。太陽はちょうど真上に来ている。俊雄の影も雪枝の影も小さい。
数珠を持つこともなく手を合わせることもなく俊雄は森川の墓を離れた。墓の前に五分も立っていなかった。空になったバケツは俊雄が持った。来る時よりもだいぶ体も楽になっていた。
「お役に立てましたでしょうか」
「十分です。十分すぎます。雪枝さんがいなかったら見つけられなかったと思います。本当に助かりました」
「それでそのご友人はどうして」
「は?」
「どうして自殺なさったんですか。お金持ちでお仕事も順調だったのに」
墓地の入り口まで戻って振り返ってみるともう森川の墓がどのあたりだったのか分からなくなっていた。それでいいんだと俊雄は思った。もう二度と来ることはないだろう。
来るときは雪枝に引っ張られるようにしてゆっくりゆっくり登ってきた坂もいざ下ろうとすると大した傾斜ではなく距離も短かった。雪枝の家を含めて五軒しか並んでいなかった。
「おでかけの途中にすいませんでした」
俊雄はなおも一緒に歩こうとする雪枝を制した。
「そうでしたわね。あたし駅まで行くって言ってましたわね」
「ええ」
「今日は地元から来られたのですか」
「いえ、あそこはもう関係ありません。今は隣の県に住んでます」
「それじゃ遠いですわね」
「車とバスで二時間ぐらいですよ」
「二時間ですか」
「どうかしましたか」
「いえね、今度の土曜日に近くの神社でお祭りがありますの。夜はけっこうにぎわいますのよ。お祭りはお好きですか」
「大好きです」
「お店もたくさん出ますし行列もありますし。大道芸や狂言もありますわ」
「ほお」
「でも二時間は遠いですわね。よかったらご一緒にと思ったのですが」
雪枝は俊雄の目を見ていた。今までとは違ってはっきりと俊雄の方へ顔を向けてしゃべっていた。それからはっと口に手を当てて、
「あ、あたしってなんてことをお願いしてるんでしょう。ちゃんと奥様もおられる方に」
とはにかんで下を向いた。
俊雄はあえて否定しなかった。
雪枝の首筋にも汗が流れていた。光る汗だった。光りながら次々と藤色のブラウスの中へ流れ込んでいった。
夕立があって涼しくなるかと思ったら逆に蒸し暑くなってしまった。歩行者専用になった通りには人があふれていた。若者たちや家族連れそして露天商。保存会の人たちはそろいのTシャツをきてPRに忙しい。
まだ明るい空に花火が上がった。宵宮の始まりを告げているようだ。
五時の待ち合わせを決めたのは雪枝だった。駅からの地図を描いて待ち合わせ場所を指定してきたのも雪枝だった。駅前のパーキングに車を入れて俊雄はその通りにやってきた。涼しい格好でどうぞという希望には白地に青のラインの入ったメッシュのシャツとベージュのチノパンで応えた。
一週間前のあの日はきつねにつままれたような一日だった。夢ではないかと何度も思った。ただ、自分が雪枝に好意を抱いたことだけはたしかで、再び会えるこの日を楽しみにしていた。
大鳥居の前で十分ほど待っていると雪枝がやってきた。浴衣姿だ。意表を突かれて最初は分からなかった。胸のあたりで団扇を仰ぎながらゆっくりと近づいてくる。紺地に白のさざ波をあしらったその浴衣姿は一瞬目立ったように感じたものの、すぐに祭りの中に溶け込んで自然な景色に変わった。そういえばこの前墓地を歩いた時もしっかりと墓地の中に溶け込んでいた。やはり不思議な人だ。
「ありがとうございます。本当に来てくださるかどうか心配でしたのよ」
雪枝は弾んだ声で俊雄に呼びかけた。薄化粧のほおが丸くふくらむと顔全体も丸くなる。
「こちらこそ先日はいろいろと助けてもらってありがとうございました」
俊雄はひとまず礼を言ってから、まいったなあと体をのけぞらせた。
「まるで別人だ」
「雪枝です」
「はははは、こりゃまいった」
俊雄はさらに大きく体をのけぞらせて雪枝をながめた。浴衣の下には細身ながらも弾力のある生身の体が感じられて思わず手が伸びそうになった。
「体調はもうよろしいんですの」
「おかげさまで。今夜はぜひこの前のお礼がしたいのです。さっそくですがこれをうけとってもらえませんか」
そう言って俊雄はバッグの中から包装紙にくるまれた長細い箱を取り出して雪枝の前へ差し出した。
「でもまさか浴衣だとは思わなかったなあ」
「洋服の方がよかったかしら」
「いえいえどちらも素敵ですよ。でもこれはやっぱり洋服でないとなあ」
雪枝はしばらくその軽い箱を眺めてから、見せてもらっていいかしらと言った。
「どうぞどうぞ。そうだビールを飲もう。あのベンチに座りましょう。雪枝さん、ビールは」
「あたしはけっこうです」
雪枝がていねいに包装紙をほどいているあいだ俊雄はビールを飲みながらそのしぐさを眺めていた。そして中から真珠のネックレスが現れた時、どうだとばかりに雪枝の方へ体を向けた。
「これはどういう意味ですか」
「お礼です」
「お礼にしてはちょっと」
「遠慮しないで受け取ってください。気に入らなかったらすぐに交換しますよ」
紙コップのビールをあっという間に飲みほして俊雄は雪枝の顔をのぞき込んだ。
「本当にいただいても」
「ぜひ」
雪枝は箱の中からネックレスを取り出すと、両方の手首をひねるようにしながら首にかけた。
さざ波模様の浴衣の上にネックレスが垂れ下がった。とても不思議な取り合わせだったが、それでも雪枝ははずそうとせず、こうしておきましょうかと胸の合わせを少し開いて浴衣の中へネックレスを入れ込んだ。
なかなか日は落ちなかった。蒸し暑さも引かない。時々歓声が上がっているのは大道芸人がパフォーマンスをやっているからだ。
相変わらず雪枝はゆっくりとしたペースで歩いていた。俊雄はもっと早く歩きたかった。少し先を急いで雪枝をうながしてみても反応しない。
俊雄はネックレスに対して雪枝が思ったほど関心を示さなかったのが不満だった。もっと恐縮して欲しかったし、もっと喜んでほしかった。あるいは最後まで拒否して突き返してくれてもよかった。いずれにしても大きな反応を期待していたのに、あっけなく受け取って首につけたかと思うと、浴衣の中へ入れ込んでそれっきりになっている。
「森川は気の優しいやつでしたよ。気が優しいというか気が弱いというか。どちらかと言えば陰気でね、商売人のタイプじゃなかったな」
雪枝が二十年前の話にだけ関心を示してきたので俊雄は仕方なくその話をした。
「古くからのお知り合いでしたの」
「いや、東京の大学時代に森川の下宿で酒を飲んだりしたのが始まりだったかな。同郷だったから親しくなったんです。ぼくなんか一万円ちょっとのぼろぼろのところに住んでたのにあいつはサラリーマンが住むようなワンルームマンションにでかいテレビやオーディオセットを買い込んで優雅に暮らしてた。うらやましくてね。それに森川は、あ、森川森川ってなんだか雪枝さんのことを呼び捨てにしてるみたいで変だな。あいつ、にしましょう。あいつ、でいいでしょう。どうせもう死んでいないんだから」
俊雄は雪枝の胸元を見た。ネックレスはじかに雪枝の肌に触れている。そう思うと興奮してきた。
「それでその居酒屋は何年ほど続けられたんですか」
「三年くらいかな。三年もしたら客には飽きられるし、こっちも飽きてくる。いくらもうかるっていったってたかだか居酒屋ですからね。しれてますよ。それでもっと大きなことがしたくなったんです」
「大きなことって何を」
「はっはっはっは」
俊雄は大げさに笑って勢いよく雪枝の肩に腕を回そうとした。肩をつかんで力強く引き寄せる。そのつもりだったが空振りに終わった。
雪枝は素早く身をかわして前方へ移動している。そんな雪枝を見て俊雄はやられたとばかりにまた大きな笑い声をあげた。
とうもろこし、金魚すくい、わたがし、りんごあめ。やきそば、ヨーヨー、かき氷、フランクフルト。
俊雄はお面の店の前で立ち止まった。一番端に吊るされてあるひょっとこに顔を近づけながら自分もまたにゅーと口をすぼめてひょっとこの顔をまねた。店の若い女の子は笑った。回りの客も笑っていた。しかし雪枝は笑わなかった。もっと大きなことってなんですかと真面目な顔で尋ねてくる。
俊雄はしばらく考えて、
「あいつは金持ちのお坊ちゃんだから適当にやってりゃよかった。働かなくても十分に食っていける。でも僕は金がほしかった。いい車に乗りたかったし旅行もしたかった。うまいものも食いたいし女にももてたい。ギャンブルもしたい。できればマンションのひとつも欲しかった」
ひょっとこの顔は元の俊雄の顔に戻っていた。
「それで」
「株を始めたんです。でも所詮は素人の火遊びですよ。あっという間に数百万の借金ができてしまった」
金魚すくいの水槽の水が西日を受けてきらきらと輝いていた。明るい色の金魚たちは同じ方向に回っている。銀色の小さな椀も宇宙船の片割れのように回る。店番の太った男は汗っかきのようだ。しきりに団扇を仰いでいる。
「それで」
と雪枝はまた先をうながした。
「僕もばかでしたよ。今度は先物に手を出したんです。損を取り戻そうと思ってね。それでまた大損です。結局その時はあいつに助けてもらってなんとかなりました」
俊雄は水槽に指を突っ込んで出目金を追い回しながら店の男に、一本くれと声をかけた。ポイを受け取ると水槽のふちにしゃがみこみ、そのままアヒルのように前進しながらせっかちに出目金を追った。
「助けてもらったっていうことはそのお友達に借金を肩代わりしてもらったということですか」
「もちろん返すつもりでしたよ」
「いくらほど」
「一千万だったかな」
「大金」
「畑を売ってくれた」
「でもどうしてそこまで」
俊雄はアヒル歩きのまま水槽を一周した。ポイは半分以上ちぎれていた。
「くそっ、逃げ足の早いやつだな」
もう一本ポイを買ってようやく一匹すくうことができた。狙っていた出目金ではなくてだいだい色の小さな一匹。それでも俊雄は機嫌を良くした。店の男にありがとうと声をかけ、すくった一匹を水槽に戻して立ちあがった。
「保証人としての義務を果たしてくれたということですよ。でも迷惑をかけました。合わせる顔がなかった。意地でも返してやろうと思いましたがその時にはもう居酒屋もやめていて何もすることがなかった。ぶらぶらしてたら気が滅入ってくる。それで町を出たんです。しばらくしたらあいつが死んだって連絡が来た。それから二十年ですよ。先週ようやく墓参りをして僕の中では区切りがついた。まあようやく解放されたというか」
「やっぱりそのご友人はお金のことが原因で」
「うーん。それがよく分からない。その時はそうだろうと思って心苦しかったですよ。だからなかなか墓参りに行けなかった」
日が陰るようになって少しずつ家族連れが目立ち始めた。浴衣姿が多いのがこの祭りの特徴なのだと雪枝は言う。たしかにそうだった。みんなゆっくりと歩いている。
大衆遊技場と書かれた横幕の中には射的とわなげとスマートボールの店が並んでいた。
いっちょうやるかと俊雄は射的の前に立ち、一人分の金を払った。銃の先にコルクを詰めて右手一本で構える。少し前のめりになり片目をつむる。そして引き金を引く。流れるような動作だった。
コルクはキャンディーの箱に命中した。箱は勢いよく後ろに倒れてそのまま棚から落ちた。お見事お見事と雪枝は歓声を上げる。俊雄は二発目三発目を続けて放った。どちらも景品には当たったが今度は倒れなかった。それから銃を雪枝に手渡して、真ん中よりも少し下を狙うようにアドバイスした。しかし雪枝にはむずかしかった。コルクがどこへ飛んで行ったのか分からないほどの的はずれな結果だった。
俊雄は満足そうに笑って雪枝を先へと促した。そして大衆演芸場の幕を出るときさりげなく雪枝の腰に腕を回した。
「あらあらあら」
と雪枝は反応する。あらあらあらと声には出したものの別に嫌がる様子もなく、前を向いたまま成り行きに任せている。
「魅力的な人だ」
俊雄は雪枝をのぞき込んだ。
「どうしてこんなに魅力的なんだろう。どうしてですか」
「そんなことあたしに聞かれても」
「でも本当に不思議だ。一週間前に一緒に墓参りをして、今日はこうやって祭りを歩いている。それも雪枝さんの方から、お墓を案内します、お祭りはどうですかって誘ってきた。僕はそれに乗っかってどんどんと雪枝さんに魅かれていく。いったいあなたは何者ですか」
腰に回した俊雄の腕が雪枝の胸まで上がってきた。
「あらあらあら」
と今度は雪枝はひじで拒んだ。
「ハッピーに生きようぜっていうのが僕のメインテーマなんですよ。泣いても一日笑っても一日。だったら笑わなきゃ損だ。そうでしょう」
「自殺なさったご友人の分までですか」
「いや、あいつは関係ない。あいつのことはもういいでしょう。湿っぽくなるばかりだ。湿っぽいのは嫌いなんです。暗い話もいじけた話も嫌いだ。これまではあいつのことを考えて悪かった悪かったって落ち込むこともあったけどもう吹っ切れた。もう余計なことは考えません。あいつは勝手に死んでいったんだ」
ようやく日が落ちて祭りは夜の明るさへと変わっていった。見物客の浴衣にはすべて蛍光塗料が塗られているようだ。団扇の風で輝きが飛び散る。
「腹が減ってきましたね。何か食べませんか」
俊雄は雪枝に尋ねた。
「食べるなら座ってゆっくり食べたいわ」
「それじゃあ任せてください。祭りはもうこれくらいでいいでしょう」
俊雄は雪枝の体を強く引き寄せて駅の方へ向かった。今夜はハッピーだと何度も言う。そして、北海道へ行きませんか、別荘があるんです、一週間ぐらい北海道でゆっくりしませんかと繰り返し誘っていた。
すぐには返事できませんが必ず連絡しますという雪枝の言葉を信じて俊雄は待っていた。一ヶ月はあっという間に過ぎた。何度か催促のメールをしてみたものの返信はなく、電話には全く出なかった。
北海道の別荘は三年前に手に入れた。別荘といっても実際は駅前に建っている二DKのマンションで、将来北海道に事業を展開した時の事務所代わりになればと思って購入したものだった。別に北海道でなくてもよかった。雪枝と一緒にいられるならどこでもよかった。
十月に入りこのままだともう会えないのではないかと不安になった俊雄は行動に出た。連絡が来ないなら仕方がない。こちらから押しかけていくしかない。
雪枝の家の前で待ち伏せすることにした。よくよく考えてみれば雪枝のことはほとんど知らなかった。簡単な事務の仕事をしているということ、一人暮らしだということ。借家だということ。それくらいだ。
久しぶりに雪枝の家の前に立つとあの日のことが思い出された。本当に腹痛で大変だった。祈るような気持ちで雪枝にトイレを借りて事なきを得た。それが随分と前のような気がするのだ。親しくなってまだ日が浅いのに俊雄の中で雪枝はもう扱いに困るほど大きな存在になっている。
今日はいくつかの仕事をキャンセルしてあわてて昼間からやってきた。今日を逃すともう一生雪枝に会えないような恐ろしい気持ちだった。それは、体調が悪い中でも無理して森川の墓参りにやってきたあの日のせっぱつまった気持ちとよく似ていた。
ドアホンで不在を確かめてから俊雄は缶ビール片手に森川の墓に参った。それは全く予想外の行動だった。気持ちにけりがついたのでもう墓参りなんか必要ないと思っていたのに体が自然に動いているのだ。
今度は迷わない。一直線に森川の墓へ向かう。
意外にも墓には花が供えられてあった。真新しい花だった。ここ二、三日の間に供えられたものだろう。
急に寒気がした。あわてて墓を離れてもう一度ゆっくり近づくとそこには花はなかった。間違えて隣の墓をのぞき込んでいたのだ。やれやれだ。
改めて森川の墓の前に立つと俊雄は石に彫られた戒名を指でなぞりながらにやにやし始めた。
「おまえのおかげでいい人に出会えたんだ。報告するよ。雪枝っていうんだ。偶然お前と名字が一緒でな。近くに住んでいてこの墓地をよく知ってるからってこの前案内してくれたんだ。一目惚れしたよ。まったくやられてしまった。その日から雪枝さんのことばかり考えてるんだ。分かるかい。なあ、森川。心が別物になってしまったんだ。お前には悪いけど人生はやっぱり楽しまなきゃつまんないよな。死んだら終わりだぜ。死んだら終わりだ。これからお前の分まで楽しんでやるからな。雪枝さんと一緒なら楽しくなりそうだ。間違いない。楽しくなりそうだ」
俊雄はずっとにやにやしながらひとり勝手にしゃべって墓を離れた。
八時を回った。雪枝の家から少し離れた薄暗いところで立小便をしているとうしろに人の気配を感じた。それで振り返ったらちょうど目の前を雪枝が通り過ぎようとしているところだった。
「あ、雪枝さん」
小便を途中で止めて俊雄は声をかけた。暗がりの中からぴょんと雪枝の前へ飛び出る。
「雪枝さん、僕ですよ」
「え?」
「僕です。俊雄です」
相手が俊雄だと分かると雪枝は、あら〜と声を上げてなれなれしくうでをつかみ、自分の方から胸を押し当ててきた。
驚いたのは俊雄の方だった。まさか抱きつかれるとは思わなかった。それに雪枝が墓地の方から帰ってきたことも驚きだった。たしかに墓の道は近道だからよく利用する、真夜中に歩いても平気だとは言っていた。しかしこの時間になると墓地はもう完全に闇の中だ。そんな中から音も立てずに現れてくるとやはり恐ろしいものを感じる。
俊雄の気持ちを察するように雪枝はふふふと笑った。
「トイレをお貸ししましょうか」
「あ、いや、大丈夫。もう済んだ」
「それじゃビールでもいかがですか。冷えてますよ」
「いやいや、結構だ。もう帰る」
帰る、と口にして俊雄は現実に戻った。帰ってはいけない。そうだ、帰ってしまったら何もならない。北海道行きの返事を聞くためにやってきたのだ。帰ってどうするのだ。
「雪枝さんを待っていたんだ」
俊雄は力強く言った。
「あなたがなかなか返事をくれないから待ちくたびれて押しかけてきた」
そう言って俊雄は雪枝の腕をつかもうとした。雪枝はそれをかわして家の中へ入る。
着替えて出てきた雪枝は真珠のネックレスをしていた。胸の前でそれは十分に存在感を示していた。しかし喪服だった。喪服の黒に真珠のネックレスがわがもの顔にへばりついている。
俊雄はまた体がこわばった。いまさっきなれなれしく胸を当ててきた雪枝とは明らかに別人が目の前にいる。
「大丈夫ですよ。ちょっと脅かしてみただけだから」
雪枝はそう言って俊雄の手を握った。
「ほらね、暖かいでしょう」
「ああ」
「俊雄さん、夕飯は」
「まだだ」
「それじゃご一緒にいかがですか」
雪枝はこわばったままの俊雄の手を引いて歩き出した。
『こころ』という名のその店はカウンターだけの小さな店だった。十人も入れなかった。マスターとママはもともと近くの商店街で魚屋をやっていて、十年前にこの店を開いた。雪枝はその時からの常連だった。
カウンターに座って手持無沙汰にしていたマスターとママは雪枝たちを迎えるとゆっくり立ち上がって手を洗った。
はも付け焼き、くじら尾の身造り、のどぐろ、もんごういか造りなど魚料理が豊富だった。雪枝が適当に五品ほど注文した。
生ビールを一気に飲み干してようやく俊雄は落ち着きを取り戻した。北海道行きの返事を迫る。
「雪枝さんがうんとうなずいてくれたら僕はこの店の酒を全部飲み干します」
「なんですかそれは」
「喜びの表現です。北海道が不足というなら海外へ行きましょう。海外が不足なら宇宙へ」
さすがに雪枝は笑った。
「それじゃお言葉に甘えておねだりしてもいいかしら」
「もうどこでも言ってください。月ですか、火星ですか」
「あなたの」
客が一人入ってきた。近所の常連客だった。いつも遅い時間にひとりでやってくる。雪枝に手を振り、俊雄には頭を下げて離れた席に座った。
「あなたの」と雪枝は仕切り直しをした。
「あなたの生まれ育った町が見たいわ。あなたが若いころに遊んでいた町。二十年前に居酒屋をやっていた町。借金を作って逃げ出した町」
俊雄は一瞬不思議そうな顔をしたが、すぐにお安い御用だと答えた。
「でも変な人だなあ。北海道より僕の地元ですか」
「あたしまだ俊雄さんのことよく知らないものですから、もっともっと知りたくて。生まれ育った町を歩けば分かってくるんじゃないかなと」
「そんなもんかなあ。あまり乗り気はしないけどまあいいや。ここからだと高速に乗ったら二時間足らずだからいつでも行けますよ」
「電車でお願いします」
「車は嫌いですか」
「いえ、大好きです。でも今回は電車で。朝早くに出ましょう。七時ごろに出て朝の涼しいうちに歩いて、昼ご飯をどこかで食べてそのあと現地解散ということで」
「ははは、それじゃまるで年寄りのハイキングだ」
「了解していただけますか」
「昼に解散ってのは物足りないけどまあいいでしょう。了解しました」
「ありがとうございます」
「さあ、了解したところでもう一度乾杯だ」
俊雄はワインを注文した。
清潔感があって落ち着いていて魚がうまくて器もいいと俊雄は店をほめ倒した。そして浴衣も似合うしワンピースも似合うし喪服も魅力的だと雪枝を持ち上げる。
「近いうちに社長をだれかに譲って引退しようと思ってるんだ。もう十分稼いだからな。株の配当だけでも相当なもんだ。あとは悠悠自適です。何だってできますよ。無人島のひとつやふたつ簡単に買える。まあその気になったら港町をまるごと乗っ取ってリゾート地にすることだってできる。どこかの町長になって大暴れするのもいいかもしれないな。でもね、金っていうのはひとりで使ってもさびしいものなんだ。やっぱりだれかに楽しんでもらわなきゃ。楽しんでもらって喜んでもらって、それではじめて値打ちが出る。そう思いませんか、雪枝さん」
雪枝さん、というところに俊雄は力を込めた。
「欲しいものがあったらなんでも言ってください」
俊雄の声は大きすぎた。
「雪枝さん、とってもいい方ね」
ママがからかい半分に声をかける。
「雪枝さんは僕の恩人なんです。苦しいところを助けてくれました。だから恩返しがしたいんです」
雪枝に代わって俊雄がうれしそうに答えた。
「あらあら、何があったのかしら」
ぎんなんの炒ったものがテーブルの上に置かれる。雪枝はひとつつまんで、
「お礼はもう十分です」
とネックレスに目を落とした。
「しかし本当に雪枝さんには世話になりっぱなしだな。あいつの墓を探してもらったり祭りに誘ってもらったり。今日はまたこんないい店に連れてきてもらって。だから僕の方からは北海道へ」
「北海道は一度リセットしてくださいな」
「それじゃあ車の一台でも」
「必要ありません」
「着物を仕立てましょうか。お好きでしょう」
「もてあまします」
「雪枝さん、そんなに遠慮ばかりしてたら体に毒だ。欲望は満たすためにあるんだから」
俊雄はグラスワインを一気に飲み干し、炒ったぎんなんを殻ごと口の中へ放り込んでがしがしと噛み砕いた。雪枝が笑うので調子に乗ってもうひとつ、さらに大きな音を立てて噛み砕いた。
「こんどの日曜日よろしくお願いしますね」
「七時に駅前で待ち合わせだったな」
「大丈夫ですか」
「朝の七時ねえ……」
俊雄は苦笑するしかなかった。旅行でもないのに朝の七時に待ち合わせて電車に三時間ほど揺られて、具体的にどこを見て回るわけでもなくただ町の中を歩いて昼過ぎには解散するのだという。今までこんな形のデートをしたことがなかった。相手が雪枝でなかったらばからしくて付き合ってられない。
「俊雄さんは夜の方がお好きなんですよね」
見透かされていた。
「だんぜん夜だ。昼間は建前の世界だから疲れる。ビジネスのための時間だ。夜は解放区。街もにぎやかになるし人間も面白くなる。女はきれいになるし男はだらしなくなる。刺激があって退屈しない。こうやって飲んでたら昼なんかいらないって思うときがあるな」
俊雄はせわしなく手を動かしていた。雪枝の腰に回したり肩を抱いたりほおをなでたり。また料理を口に運んでいたかと思ったら雪枝の小皿にも適当によそい分けてかいがいしく世話を焼く。
コケコッコーと鶏が鳴いた。鳩時計ならぬ鶏時計が午前零時を知らせる。後から入ってきた客がそれを聞いてさっと勘定を済ませて帰っていった。ママの片づけも早い。
「それじゃあわれわれも」
と俊雄は雪枝を見た。
「まだいいじゃありませんか。お急ぎですか」
「お急ぎではないけれど」
俊雄はちょっと戸惑った。店じまいを始めているのに雪枝は悠然と座っている。メニューを眺めてまだ何かを注文しようとしている。
「雪枝さん、これからもう一軒どうですか」
俊雄は早く店を出たくなった。感じのいい店ではあったがここにいてはなかなか自分のペースにもっていけない。
強引に勘定を済ませて外へ出た。
真夜中のつめたい風がふたりの背中を押す。
雪枝はまた俊雄を驚かせた。麦わら帽に緑色のTシャツ、ハーフパンツに運動靴。それにリュックサックを背負ってやってきたのだ。小学生が昆虫採集に行く格好だ。若く見えるのではなくて幼く見える。約束の七時に五分ほど遅れて駆け足で俊雄に近づき、おはようございますと頭を下げた。先生に挨拶をするように。
俊雄はTシャツにサマージャケット。下はスーツパンツ。二人の格好は全くかみ合っていない。
快速から普通に乗り換えて三時間でその駅に着いた。俊雄は少し緊張していた。駅に立つのは二十年ぶりだった。借金を作ってこの町を出てからはたまの法事に帰ってくるだけで、それも車で来て用が済めばさっさと戻っていた。地元を意識することはなかった。あえて忘れようとしていたくらいだ。
当時再開発中だった東口はショッピングモールやホテル、マンションが立ち並んですっかり様変わりしていた。駅前ロータリーには庭園が作られ、噴水の水が涼しげに飛び散っていた。車道も歩道も広くなり、全体に明るくなった。人口の増えたことが一目でわかる。
何気なく東口へ出てきたものの、俊雄はあれっと思った。雪枝が先を歩いている。自分はそれにつられて歩いている。改札を出て東口へ向かったのは雪枝だった。いくつかある道の中からロータリーへ下りる階段を選んだのも雪枝だった。庭園の真ん中にある噴水の下で立ち止まり、振り返って手招きをする。
「俊雄さん、なにぼんやりしているの。ここが気持ちいいわよ」
水しぶきの明るさでTシャツが透けていた。
俊雄が近づくと雪枝は反対側へ回って姿を隠した。
「こっちこっち。こっちへいらっしゃい」
声で呼んでいる。
「鬼ごっこでもするつもりか」
「捕まえてごらんなさいよ」
「よし」
俊雄は小走りに噴水を半周した。雪枝は先回りして姿を隠す。俊雄は走る。雪枝も同じ速さで走る。距離は縮まらない。暑くなってくるだけだ。
雪枝の後ろ姿は少女そのものだった。飛ばされそうになる麦わら帽子を頭の後ろで押さえながらぴょんぴょんと跳ねるように逃げていく。
三周したところで俊雄は息が上がってしまった。白旗を上げた。
「降参したらあたしのいうことを聞かないとだめよ」
「ああ、なんでも言ってくれ」
「あたしね、お商売を始めようと思ってるの」
ふたりは少し離れたところに腰を下ろした。。
「ほう、何の商売かな」
「さて何のお商売でしょうか」
「雪枝さんが商売か……」
とっさに思いつくものは何もなかった。雪枝と商売は意外な組み合わせだった。
「食いもの屋だったら任せてくれ。もうかるコツを教えるぞ」
「はずれ」
「だったらブティックかな。そっちの方だったら知り合いを紹介しよう」
「それもはずれ。商売って言ったのが悪かったわ。教室なんです」
「教室」
「そう」
教室と言われてもなおのこと思い浮かばなかった。物を売る商売よりも似つかわしい気はしたが具体的なイメージは湧いてこない。それでも少し考えていると、不意に涼しい音が聞こえてきた。俊雄には耳慣れない音だったが、オカリナだとすぐに分かった。清らかな世界がぱっと広がるような気がして俊雄は目を閉じた。
『里の秋』『赤とんぼ』
二曲流れてきた。
聞き終わると俊雄は拍手をしながら雪枝に近づいた。うまいもんだなあと隣に座った。
「リクエストOKよ」
「教室っていうのはこれの」
「ええ。あたしこれでも結構有名になっちゃったの。いろんなところで演奏しているうちにこういうものにも誘われてね」
雪枝はリュックの中からCDを取り出した。
『フルートで聴く日本の童謡』
ジャケットにはフルート奏者五人の顔写真が写っていた。裏には製作スタッフとサポートメンバーの名前。ピッコロ、リコーダー、木琴に続いて『オカリナ・森川雪枝』と印刷されていた。
「へえ、大したもんだ」
「もらってください」
「ありがとう」
「それで周りの人がね、オカリナ教室開いたらどうだって言ってくれるんだけど、言うばっかりで肝心のお金の方は応援してくれないのよ」
「はっはっは。分かった分かった。いくら必要なんだ」
「この際思い切ってもう少し大きな家に引っ越したいと思ってるの。防音の部屋も欲しいのよ。それとリビングね。練習が終わったあとみんなにくつろいでもらうの」
「遠慮なく言ってくれよ。いくら必要なんだ」
「すいません。あと二百万ほど足りなくて」
「二百万? その程度でいいのか。一桁間違ってないか」
雪枝は噴水の影から出て歩き出した。
どこへ行くのだろうと俊雄は思った。付いていくしかない。
ぐんぐんと気温が上がっていくのが分かる。空気が重くなっている。
オフィス街を抜けて旧商店街の通りまで来ると右手にあのマンションが見えた。そうだ、あのマンションだ。あのマンションの一階で二十年前森川と一緒に居酒屋をやっていたのだ。借金を作って店を離れてからは近寄らなかった。意識的に遠ざけていた。やはり二十年ぶりになる。再開発中はこのあたり全体がにぎわっていたが、いざ再開発が終わると途端にさびれてしまった。銀行や農協が東口のビルへ移り、スーパーも移転して完全に人の流れが途絶えた。商店街組合の動きも鈍くなりいつしか旧商店街と呼ばれるようになった。
「コーヒーでも飲んで一休みしよう」
俊雄は少し頭が痛かった。その頃俊雄がよく行っていた喫茶店は二軒とも店じまいしていた。仕方なく東口へ戻って全国チェーンのコーヒー店に入った。
オカリナ教室のことはそのあとほとんど話題にならなかった。もう少し具体的になったら話しますと言ったきり雪枝は口を閉ざした。
「教室ができたら俊雄さんを一番弟子にしてあげるわ」
それだけだった。
三十分ほど休んでふたりは店を出た。そして再びあのマンションの前へやってくる。マンションはかなり老朽化していた。間近で見るとコンクリートのひび割れが目立ち、ぼろぼろに欠けているところもあった。ベランダの手すりは錆びて茶褐色になっていた。二階三階にはファミリータイプの部屋が十戸ずつあるのだが、そのほとんどにカーテンがかかっていなかった。「空室あり」の看板も錆びてめくれ上がっている。階段は狭くて暗いし雑誌の山が邪魔をしている。一階はシャッターが下りていた。シャッターの前には自転車が無秩序に止められていて、その自転車もまた錆びている。前かごはごみ箱同様で臭いもきつい。
最初は懐かしそうにながめていた俊雄もしばらくして考え込んでしまった。こんなにみすぼらしい姿になっているとは想像していなかった。
雪枝は真ん中あたりに立ってシャッターと向き合っている。不意に手を伸ばし、ドアノブを握って手前へ引くような仕草をした。あたかもそこに入り口があるかのように。
「おお、そこだ」
と俊雄は叫んだ。
「そのあたりに入り口があったんだ。客席をビアホールみたいに見晴らし良くしたのがよかった。料理をみんな大盛りにしたのも当たった。器もでかくした。BGMはお客さんの笑い声だった。土日に貸切のパーティーが入るようになって水曜日を休みにした。何もかもがうまくいった。気持ちよかったな」
「マスター、ビールちょうだい」
雪枝が振り向きざまに手を上げて俊雄に声をかけた。
「そう、そんな感じでお客さんにかわいがってもらったんだ。ああ、やっぱりなつかしい。雪枝さん、もう一度言ってくれ」
「マスター、ビール」
「おお、そうだ」
俊雄は目を閉じて大きく息を吸った。あのころは無我夢中で働いていた。毎日毎日いい汗をかいていた。充実していたし疲れなんて感じなかった。だからあのままでよかったんだ。でもある時ぽっと欲が出てしまった。魔物だ。どうしてだろう。どうしてあんな気持ちになったんだろう。もうかった金を一気に膨らませてやろうと思った。それが簡単なことだと思ったんだ。
「マスター、ビールおかわり」
雪枝は手を振っている。
あいつがいなかったら大変なことになっていた。よく助けてくれたもんだ。やさしいやつだった。やさしすぎたんだ。だから死んでしまった。あいつが死んで俺は助かっている。あいつが死んだとき俺は内心ほっとした。借金は返さなくていいと思った。一千万。今だったら返せるぞ。すぐにでも返せるぞ、森川。もう一度ここで居酒屋をやろうじゃないか。森川!
太陽が昇るにつれて刺すような暑さに変わっていった。体の中からどんどんと水分が抜けていく。少し暗くなってきたなと思ったら急に眠くなってきた。マンションが傾いていく。
十五分ほど眠って俊雄は目を覚ました。雪枝のリュックを枕に日陰に横たわっていた。額には濡れたハンカチが当てられていて、となりからは雪枝が風を送っている。
「あれ、どうしたんだ」
「倒れたのよ。熱中症だわ」
「ああそうか」
「どこまで覚えてるの」
「ビールを持って行こうとしたところまでは覚えてる」
「誰に持って行ったのよ」
「だれって、注文をくれた客さ。マスター、ビールって手を上げて」
立ち上がってシヤッターにもたれかかるとようやく現実に戻った。
「ちょっと夢を見てた」と照れ笑いを浮かべた。
「ここから離れよう。また倒れてしまいそうだ」
「そうね。でも歩けるの?」
「大丈夫だ。夢を見てすっきりした」
夢の中で俊雄は森川に呼びかけた。もう一度一緒にやろうじゃないか、もう一度夢中になって働こうじゃないかと。
大丈夫と思って歩き始めたがひざが震えていた。雪枝に体を支えてもらってどうにか前へ進むことができた。二十年前を振り返ろうとする自分が情けなかった。とっくに死んでしまった森川にまだしばられている。墓参りぐらいでは清算されていない。
「次はどこへ行くんだ」と俊雄はいらついた。ふーふーふーと短い息を繰り返す。
「ごめんなさいね。あたしが無理なお願いしたものだから」
「そうだあんたが悪い。あんたが素直に北海道へ行ってくれてたらこんな思いをしなくて済んだんだ」
歩きながら夢の続きを見ていた。借金の保証人を頼んだ時の森川の驚いた顔があった。大丈夫だ、信用してくれと繰り返し頼んで判をついてもらった。借金が膨らんでどうにもならなくなった時の森川の冷めた顔があった。すまん、俺はすっからかんだと告白して森川の前を去った。そのあとすぐ土地の売買で成功したのにそれは夢には現れない。地方のスーパーを買収して資産を増やしていったのにそれも夢には現れない。夢はこの町で終わっている。
駅の喫茶店でレモンをかじりようやく俊雄は冷静に話せるようになった。
「あなたがシヤッターの前に立った時にどきっとしたんだ。あいつが現れたのかと思ったよ。それでくらっときた。それからあとはよく覚えてない」
雪枝はふふふと笑った。
「またあなたに助けられたな。今度こそしっかりお礼をしなくちゃ」
「あら、いまさっきお願いしたんだけど。まさか忘れたんじゃ」
「覚えてるさ。オカリナ教室だろ。今ちょっと吹いてくれないか」
「ここじゃだめ」
「でも不思議だ。こうやってしゃべっていても現実のことだとは思えないんだ。あなたを疑っているわけじゃない。そうじゃないけどなんだかだまされているような気がするんだ。最初からだまされ続けているような」
「やっぱりオカリナ吹きましょう」
雪枝はリュックの中からオカリナを取り出し、前かがみになって俊雄の耳元で小さく音を出した。
か細いオカリナの音色は耳元からじわっと俊雄の胸にしみ込んだ。
約束通りふたりは一緒に昼ごはんを食べた。冷やしうどんとざるそば合わせて九百五十円の地味な昼食だった。
相変わらず雪枝はオカリナ教室のことは話したがらなかった。ただ二百万円の応援のことは素直に喜んで何度も礼を言った。もっともっと応援したいという俊雄に、お返しが大変だからと断った。
「少しばたばたしてるので北海道はまたの機会に」
「なんだかうまく断られたな。でもあきらめないぞ」
「今日はこれで解散ね」
「本当にこれで解散なのか」
「約束です」
外へ出ると俊雄は迷わずタクシー乗り場へ向かった。
「雪枝さん、その帽子を貸してくれないかな」
俊雄は麦わら帽子を指さして言った。
「似合わないわよ」
「いいんだ。人質としてとっておく。今度いつ会えるか分からないからな」
「ふふふふ」
「また家の前で待ち伏せするから覚悟しておくように」
「ふふふふ」
雪枝の背中でリュックサックが揺れる。
先頭のタクシーに俊雄が乗り込んだ。
一ヶ月は何もなかった。俊雄もこれくらいは覚悟していた。メールしても返信がない。電話には相変わらず出ない。何度か家の前で待ち伏せしてみたが帰ってくる気配がなくて根負けしてしまった。『こころ』にも顔を出してみた。しかしあの日以来来てないということだった。マスターもママも雪枝のことはよく知らないと口をそろえる。十年来の客なのに意外と冷たい反応だった。オカリナのことも知らなかった。CDを見せると驚いていた。CDの発売元へも電話してみたが、当時の担当者が退職しているのでよく分からないという返事だった。演奏者個人への問い合わせには答えられないという。CDを確認すると十年前の製作になっていた。もらった時には気付かなかった。同姓同名の別人かもしれない。雪枝についてはほとんどなにも知らないじゃないかと改めて思う。本当に森川雪枝という女はいたのだろうか。
リセットボタンを押してはじめからもう一度やり直したかったが、それが二十年前からなのか、数か月前からなのか自分でも分からなかった。雪枝に会いたい。そして森川にも会いたいと思った。
十一月のさわやかな日曜日だった。俊雄は最初に森川の墓参りにやってきたあの日と同じ時間に家を出て、同じ時間に雪枝の家の前へやってきた。何かが分かるかもしれないと思ったからだ。
玄関に近づいて、あれっと声を上げた。表札がない。『森川』の表札がなくなっている。引っ越しは考えられることだった。思い切って大きな家へ引っ越したいと雪枝も言っていた。オカリナ教室の話が急に進んだのかもしれない。それにしても不自然だった。目の前の家はもう何年も空家になっているかのような寒々しい感じを漂わせていた。雨戸は錆びていかにも立て付けが悪そうだったし、玄関のドアは塗装がはがれてめくれ上がっていた。そのドアにぶら下がっている水道ガス停止のチラシは黄ばんで丸まっている。もともと古い家ではあったが、こんなに傷んでいるとは感じなかった。
嫌な感じのまま俊雄は坂を上ってあの日と同じように墓地の入り口の平屋で花を買う。
老婆に尋ねた。
「あそこの森川さんは引っ越されましたか」
「だれかな」
「森川さんですよ。この坂を下りたところの」
「森川……」
老婆はしばらく考えて
「ああああ、あのお嬢さんねえ、そういえば顔を見ないねえ」
「連絡を取りたいんだけどなあ、おばあさん、何か知ってるかな」
「さあ、分かんない」
「親しいんでしょ」
「花を買ってくれるからねえ」
老婆は奥へ戻ろうとする。
「よく墓参りをしてたんだな」
「毎日だよ」
いやそれは通勤で、と言いかけて止めた。
森川の墓、森川雪枝、墓参り。
俊雄は空を仰いだ。なんでこんな単純なことに気付かなかったんだ。一直線につながっているじゃないか。
バケツ一杯に水を汲んで森川の墓へ向かった。これで三回目になる。今日が一番緊張している。
森川の墓、森川雪枝、墓参り。
だが待てよ。あいつは独身のまま死んだはずだ。兄弟もいなかった。恋人を紹介されたこともないしそんなうわさも聞いたことがない。
墓の前まで来て俊雄はまたあれっとあたりを見回した。場所は間違いない、ここだ。ここからこうして草をかき分けて森川の墓を見つけたんだ。
森川の墓がなくなっていた。墓石だけではなく境界のコンクリートも消えていて、そこにははじめからなにもなかったかのようにただ土が広がっていた。
俊雄は何もない空間に腕を突き出して何かに触れようとした。もちろんなにも触れるものはない。
どういうことなんだと首を振りながら花屋まで戻ってきてそこでまた息をのんだ。花屋がない。今さっき花を買った平屋の建物がまるごと消えて更地になっている。
あわてて坂を駆け下りようとした時、腹に痛みを感じた。俊雄はとっさにしゃがみ込んだ。しゃがみ込むと一気にあの日の痛みがよみがえってきた。ねじれるような重苦しい痛み。腹をおさえ顔をしかめる。歯を食いしばってう〜んとうなり声を上げる。
汗が出てきた。息も乱れてきた。
来い来い、もっと来い。もっと来たら雪枝に会える。我慢できなくなったら雪枝にトイレを借りることができる。もう一度やり直すことができる。もっと来い。
しゃがみこんだまま俊雄は腕を伸ばした。伸ばした先には雪枝がいるはずだ。あの日のように。
|