サードアイ   阿井 フミオ




 電源ボタンをONにすると、テレビの画面上にほっそりとした美しい脚が現れた。一人掛けのソファーにゆったりと腰掛け、左脚が右脚の上になる形で長い脚を組んでいる。短いスカートの裾から太腿の三分の二が露出していた。
「雑誌の表紙やグラビア写真を選ぶとき、今はデジタルが主流だからディスプレイを見ながらするけど、私がデビューした頃は、まだフィルムやポラだったので、紙焼きしたものをミーティングルームの大きなテーブルの上に並べ、クリエイティブ・ディレクターやカメラマンといった主なスタッフの人たちが、業界用語をまくしたてながら選んでいく。マル、サンカク、ペケ、という具合に仕分けする。やがてテーブルの上に水溜まりのような塊が三つできる。そして同じ作業を幾度か繰り返す。ニュースで百人一首の競技シーンを見ると、いつもこのことを思い出してしまうわ。飛び交う言葉たち、当時の私には半分は意味不明。変なところに迷い込んでしまった、と思ったわ」
 グラスを持ち上げ、水色の液体をストローで一口飲む。グラスの表面の水滴が流れ落ちた。グラスをテーブルのコースターに戻すと、脚を組み替える。右脚が左脚の上になる。
「はじめての海外ロケが、ギリシャだったの。十年ほど前のことだけど。アトランティス伝説の島と言われているサントリーニ島は、もう一度訪れてみたいわ。エーゲ海で最も魅力的な島のひとつ、紀元前からの遺跡、火山活動が造りだした断崖の頂上に、白壁の家々が並んでいる、穏やかなビーチ、温泉まで湧いていて、苺のリゾットが美味しかった。
 宿泊したプライベートヴィラには大きなテーブルがなかったので、床に写真を広げて選考がはじまったの。B全ポスター、車内吊り、リーフレット、雑誌、新聞用といった媒体別に。カテゴリーごとに候補作がすでに七、八枚前後に絞り込まれていた。
 その時、スポンサーさんが、ヒロちゃんはどれがいいと思う、と声をかけてくれたの。異国ってどこか心を解放する力があるでしょ。クルー全体の雰囲気が、いつもと違っていたわ。
 それじゃ皆でいっせいに指差すことにしよう、ということになり、ヘアメイクさんやスタイリストさんやアシスタントさんも参加することになったの。ワインも少し飲んでいたし、まるでお祭り、だってギリシャですもの。
 すると私だけが、いつも一人だけ違っていたの。ポスターの時も雑誌の時も、それ以外の時も、一人だけ違う写真を選んでしまう。
 これはいいや、とカメラマンのYさんが笑うと、みんなお腹をかかえて笑うの。訳わかんない、でも楽しかった。
 それ以降、Yさんが撮影の時は、この方式になったの。
 お仕事をはじめて三年目、お酒もタバコも飲んでいい年齢になり、やっとポーズやウォーキングも形になるようになった。でも逆に経験を積めば積むほど不安にもなった。周りでは綺麗な子や個性を持った子がどんどん現れては消えていく。頼りになるのは自分の感性だけ、ひたすらそれにしがみつくことで、どうにかやってきた、というのが正直なところ。
 そんな時に、自分が自分に対して抱いているイメージと、他人が自分に抱くイメージとに、大きな差がある。人はいろんな角度から私を見ているのだ、ということ。このミーティングを通じてそのことを知ったの。そんなこと、それまでは想像したこともなかった。
 この時の体験がなかったら、お仕事を十年も続けられたかどうか自信がないわ」
 ゆっくりと脚を揃える。膝をしっかりあわせ、脚全体を軽く傾け、両手をその上に置く。細く長い指、爪は形よく手入れされている。装身具が一切ない、ブレスレットも指輪もネイルも。

**

 思い出す。たしかノストラダムスの終末説や、コンピュータの日付データに不具合が生じ世界中のシステムがダウンすると騒がれていた頃だ。あれも十年ほど前のことだ。会社の九階、第三小会議室だった。
「農業するんだって?」
「ええ、正確には、長野でレタス作りを手伝おうかと思っています」と、宇多が言った。
「退職理由が百姓するって、ユニークだね」
「大学時代の友人が、一緒にやらないか、と声をかけてくれたんです。彼のおやじさん、脳卒中で左半身が麻痺してしまったのですが、幸いなことに経過がよく、今なら息子にノウハウを教えられる、だから帰ってこい、と言ってきたそうです。
 それにホームページを立ち上げて、産地直販をする計画もあり、そっちの方は僕の方が詳しいし、最近あまり野菜、喰ってないから、健康にはいいかなぁ、という訳です」宇多は、ニッと笑った。
「面倒臭いから用件を済まそうよ。要は、宇多の辞意を撤回させろということだ。今朝、常務に呼ばれた。俺、今は人事じゃないのに、おかしな話さ。担当が気に入らないのなら、今度の異動で変えてやると伝えろ、いうことなので、一応言っとくよ」
「覚えていらっしゃいますか、面接のときの質問、『君が自覚している君の弱点はなんですか?』変なことを聞く人事の人だなぁ、と思いましたよ。両手両足で足りないぐらい就活したけど、そんなこと聞いた人は誰もいない。聞く方も答える方もだいたいマニュアルどおりの応対ばかりなのに」
「それでどう答えたの?」
「なんだ、覚えてないのか……」
「悪いね。十分ぐらいの面接で、人のなにが分かるというのよ。質問なんてその場かぎりのアドリブ、何を聞いたか、いちいち覚えてなんかないし、それで答は?」
「根っからポジティブなもんで、弱点なんて考えたことがありません。強いて言えば、それが私の弱点です」
「くだらねぇ回答、屈折しているね、それでよく通ったものだ」
「相変わらずですね。ところで、話は変わりますが、これ、分かりますか?」
 宇多が、幅三p程度、長さ十p強、厚さが一pはないスティック状の機器を、内ポケットから取り出した。表面はつや消しのシルバー、TOSHIBAのロゴマークの下に小さな液晶画面があり、サーチボタンが二列、さらに停止と再生のボタンが二つ並んでいる。最下部にVOICE・BARと印字されている。
「録音機だろう?」
「ICレコーダーっていうんです。最近テレビのインタビューシーンでよく見かけるでしょう。失言したアホな大臣なんかに記者連中が向けているのを。ちょっと前までは、社名の入ったマイクやテープレコーダーだったのに。小型軽量で、しかも音質が全然違うんです」
「それで?」退職の話はもうおしまい、というわけか、まぁ、いいや。二週間前に届出さえすれば、いつでも辞めることができる。それがサラリーマン唯一の権利だしな、と思った。
「川田さんってどういう人物なのですか?」
「超一流大学の法学部卒、若手エリートのなかでも突出した逸材。将来本社の役員候補の有望なひとり。そんなところかな」
「またトボケテ。なんでそんな人が、うちに出向してくるんですか」宇多が、またニッと笑った。アイツの笑い方、ムカつくな、と言った部長がいた。
「実はミーティングメモを取ろうと思いましてね、三ヶ月ほど前にこのレコーダーを買いました。川田さん、確かにお勉強はできたのでしょう、特に法律に関しては。しかし、彼のキャリアからして、うちの業種はまったく未知の分野、ど素人ですよ。知らないことがあって当然なのに、知らないことがある、ということを認めること自体が、どうも恥だと思っているようですね。かわいそうに、それって疲れますよね。その結果が朝令暮改。とにかく指示をきっちり記録しておこうと思って、はじめは自己防衛のつもりで録音したのですが……」宇多はここで一息いれた。そしておもむろに「自分の声、聞いたことありますか」と、独り言のように呟いた。
「質問の趣旨がよく分からんな。誰でも毎日うんざりするほど聞いているのと違うの?」
「すいません。録音した自分の声と、言ったほうが正確です」
「記憶ないね。考えたこともない」
「打合せ用のノートを補足する形で、レコーダーを利用しました。改めて聞いてみると、話し言葉っていい加減なものですね。言い間違いはあるし、同じことを何度も繰り返している。それもその都度、少しずつニュアンスにズレがある。一見、理路整然と論じているようでも、けっこう紆余曲折している。
 使い始めてひと月余りたった頃、営業販促PTの議事録を作成していて、あることに気がつきました。
 それは、『自分の声が、自分の声ではない』ということでした。
 イャホーンを通じて聞く声は、どこか他人のようでした。最初から違和感はあったのですが、それは録音機の性能の問題だと、漠然と思っていました。しかし、自分以外のメンバーの声は、自分が知っているそれぞれの声なのです。川田さんも大川も松島も中原ちゃんも……。
自分が認識している自分の声音と、他人が耳にするそれは異なっているという事実。それは自分によく似た異母兄弟が、突然現れたような気分でした。大げさに言えば『僕って何?』っていう気分です。積み上げていた積木の塔が、たった一つのピースを引抜いたために、崩れてしまった。またはじめから始めなければならない。でも不思議と苦痛じゃない。知らないでするのと、知っていてするのとでは、全然違いますよね、何事も。そんな時に友人からレタスの話があったのです」宇多はそこまで話すと一息いれた。そして、はにかむように笑った。微妙な間が生じた。
「ちょっと早いけど飲みに行きませんか。ご馳走して下さいよ」と、宇多が言った。
 腕時計を見ると、長針と短針が垂直になっていた。ひどく喉が渇いていることに気づく。
「いいね、じゃー、十分後に一階のロビーで」と、言って小会議室を出ようとすると、背後から宇多が声を掛けてきた。
「あっ、余談ですが、骨伝導っていうのが関係しているらしいですよ。我々は空気を伝わってきた音を、鼓膜を振動させることによって認識するのですが、声帯の振動は、それとは別に頭蓋骨を通じて直接聴覚神経に伝わるそうです。その結果、人が聞く自分の声は、その二種類の音がミックスされたものになるということです」
 会議室の扉を閉めながら、口早に話すハスキーな宇多の声が、宇多にはどんな音色に聞こえているのだろうかと、ふっと思った。

**

 最近、眠りが浅い。眠りと覚醒の境界を彷徨いながら朝を迎えることが度々ある。そんな時よく夢(?)を見る。しかも目覚めた後も断片ではあるが、その細部をわりと鮮明に覚えている。そんな経験は今まではなかった。それらの夢の断片をカードに書きつけていく。いつしか保存ケースがいっぱいになる。それらを取り出し、KJ法の要領でエピソードごとに分類し、並び替え、不要なものを除き、足りないところを補足していく。

 若い女が、大きなスタンド式の鏡に湯上がりの裸の全身を映している。身長165p、体重51s、スリーサイズが83―59―86、胸がもう少しあればいいのにと思うことがある。でもふっくらとした円錐系の形と上向きの小振りな乳首は、嫌いではない。髪は中学から長いストレートだったが、ギリシャの撮影当日に「君、髪の毛切った方がいいよ」って、いきなり現場でショートにされた。顔は、みんなからよく小さいと言われる。顔の作りの中では、唇が好き。それに歯並びも気に入っている。嫌いなのは目と鼻だった。奥目がちな大振りの目に太い眉、筋のとおった鼻。小学校の頃よく「合いの子!」とイジメられた。母にも祖母にも似ていない。親戚中を探しても、みんな扁平な顔と短足という弥生人的な体型をしている。長い間、自分はきっと貰い子なのだと思っていた。成人になり戸籍謄本を見る機会があったが、その後もその思いはトラウマとなって、くすぶっている。耳は長年、ロングヘアーに隠されていたせいか、あまり意識したことがなく、好きでも嫌いでもない。贅肉のない引き締ったお腹と腰、学生時代はバレーボールを、今は暇ができればスポーツクラブで泳いでいる。陰毛はどちらかと言えば濃かった。手入れをしないと、グリーン周りのラフのようになってしまう。鏡の中の恥毛は、水分を含み、雨に濡れた柳のようだ。「脚は、君のセールスポイントだ」と、シューズメーカー主催の美脚大賞を受賞した時以来、事務所の社長によく言われる。足元のベージュ色のカーペットの上に、たくさんの写真が散らばっている。昨日、原宿のスタジオで撮影したものだ。時々、何も着けず鏡の前に立つ。裸だと筋肉や骨格の動きがよく分かる。そのことに気が付いたのは、偶然だった。ギリシャロケから帰って、間もなくした頃のことだった……。

 都心の2LDKのマンションに住むようになったのは、ギリシャロケに行く二か月程前からだ。
社長の甥が急にUAEのドバイに赴任することになり、二、三年は帰ってこられない。その間、住んでみないか、と声がかかった。
彼が寝室に使っていた一部屋は持っていけないものの納戸代わりに使用すること、帰国時には速やかに開け渡すこと、その二つが条件であった。実質1LDKと同じだが、賃料も格安だったし、家具や装備もついていた。初めての一人暮らしには十分だった。
 ロケから帰ったら東京は花冷えがしばらく続いていた。五日ほどは事務所や広告代理店の担当者との調整で忙しく過ごした。
週が変わると急に気温があがり夏日となった。久しぶりの休日だ。十時までベッドで、ぐずぐずしている。午後二時に歯科医の予約を入れている。そろそろ起きようかと思ったが身体が重いので、朝食の前にシャワーを浴びることにする。浴室で籐製の洗濯籠に着ているものをすべて投げ入れる。その時、電話が鳴る。明日、化粧品会社のオーディションの結果が発表されることになっていた。早く分かったのかもしれない、よくあることだ。居間に行き、受話器を取る。応答がない。無言電話? 転宅して電話番号が変わった。新しい番号を知っているのは、まだ僅かなはず……。
「ママ」小さな女の子の声?
「どちらにお掛けですか?」突然、電話が切れる。
 受話器を戻し、浴室に戻ろうと振り返ると、クローゼットの前に立てかけてある大きな鏡に、全裸の私が写っている。
 笑うと鏡も笑う。思い切り顔をしかめると鏡も意地悪そうに顔面の筋肉を引きつらす。唇をかるく尖らせると鏡に小悪魔が現れる。思春期をすぎて、裸の自分をじっくりと見つめた記憶がない。広島の実家にも事務所の寮にも自分の個室はあったけど、それは完全な密室とは言えない、特に精神的には。『今、自分は一人なのだ』、それは生まれてはじめて知った解放感だった。

 ベージュ色のカーペットの上から、写真を一枚とる。そして同じポーズをとる。
 顔を正面に向け、身体を軽く左にひねる。そして左手を腰にあてる。二等辺三角形ができる。右手は伸ばし、手のひらを軽く握る。写真ではそこには白い皮のバッグがある。左脚をくの字に曲げ、右足の前にそえる。これは採用された一枚だ。
 次の写真を選ぶ。
 ジュエリーブランドのタイアップ広告用の一枚。ゆったりとした黒いレースのシャツ、ブラが薄っすらと透けて見える。大きめ目の丸首の胸元には、Y字タイプのダイヤモンドが輝いている。そして白いチュールスカート。足元は写っていない。両手を胸の前で組んでいる。正面と左右側面から撮った三枚組の連作の一枚。
 真似てみる。すると右腕が、乳房を軽く持ち上げる形になる。この作品がとても気に入っていたが、でもボツになった。
 目を細め、半眼の状態で、じっと鏡に見入る。どういう表情が、どういう仕種が、人にどういう感情を生むのか、この頃、少しずつ分かってくる。
 胸の前で組んでいた腕を解き、右の手のひらを頬に当て、首を軽く傾げる。鏡の中で所作が繰り返される。いつもと同じ、音のない映像の木霊。
 でも、いつもとは、何かが違っている。
 こちら側に私がいて、中間に鏡があり、向こう側にも私がいる。鏡に写っている虚像の私の周りに別の視線を感じる。それも一人ではない沢山の視線の気配。
 振り返る。もちろん誰もいない。見慣れたリビング、深いグリーンのソファー、首の長い白いスタンド、部屋の隅に観葉植物の鉢、その横には四十インチの液晶テレビ、天井にはエアコンの室内機が埋め込まれている。すべてドバイにいる家主の所有物だ。
 もう一度、鏡を見る。
 そこには、いつものスタッフたちと「VIVI」を抱えた多くの若い女の子たちがいた。たぶん読者だろうか? 人々は、まるで千手観音の無数の手のように同心円状に寄り添っている。そして、その人々の中心に私がいた。
 鏡の向こう側の無数の視線となった私たちは、目を細め、半眼で、じっとこちら側の私を見ていた。

**

「せる二十号」が出てきた。
 事務所の机には左右に三段と中央に一段の引き出しがある。前任者から引き継いだ時点で、鍵はひとつしかなかった。施錠できるのは、左側の引き出しだけだった。最下段はA4サイズが入るので、そこにはマル秘もしくはそれに準じる資料を入れていた。その一番奥に現在稼働している基幹系のコンピュータシステムの「要件定義書」がある。厚さ十pほどのファイルだ。今では、正式のマニュアルがあるので、なくても困ることはないのだが、一番苦労したのが、この定義書をまとめることだったので、なんとなく処分できずにいた。
 その間になぜか「せる」が一冊挟まっていた。

「ご覧いただきたいものがあるのですが、今、よろしいですか?」
 怜ちゃんが笑っている。室内には、珍しいことに二人しかいない。マーケティングと情報システムチームは大会議室で、新入社員の入社時研修を行っている。営業統括チームは別室で明日の全社会議の付議資料作りをしていた。もう一人、庶務の女性がいるのだが、おなか痛ということでお休みだ。ほぼ一ヶ月ごとの定例行事。
「宇多章司ってご存じですか?」
「知っているよ。レタス男だろう」
「レタスってなんですか?」
「退職の理由が、レタス栽培に従事するためという、元社員。宇多がどうかしたの」
「SB社のグループ会社の取締役になっていらっしゃいますよ」怜ちゃんが言ったSB社とは、IT企業の最大手のひとつだ。
「三十八歳ですって、すごいですね。うちだったら課長ぐらいかな。どうします、報告します?」
 彼女は、入社二年目に入ったばかりだ。主に広報関係を担当している。広報といっても、社内報の編集と新聞記事の切り抜き、そして外部からのアンケートなどの調整、内容別に担当部署を振り分け、回答を清書して供覧後、提出する。
 社外に出て行く情報をコントロールすることは重要なことなのだが、各部署の庶務担当者は日々の仕事に追われ、往々にして手を抜くし、期限も守らなかった。そのうえ間違いも多かった。ところが、彼女が担当するようになってそれらが一変した。
 怜ちゃんの父親は、親会社の専務それも人事担当役員である。出向組、特にキャリアにとっては、なやましい存在というわけだ。どこも部門長が預かるのを嫌がり、結局うちで面倒みることとなった。
 ちょっと天然気味ではあったが、おっとりとしていて、すれていなかった。とにかく笑顔が可愛らしかったので、利害関係のない男たちには人気があった。アンケートの回答が遅いと、直接、責任者のところへ行って、にっこりと微笑みながらおもむろに催促する。それだけで、業務改善となる。
 彼女は、月に二回程度、WEBを検索している。そこで宇多の経歴書の中に当社の名前を見つけたのだ。
「宇多のことは、特に報告する必要はないと思うよ。この仕事の目的は、商号や商標の侵害そしてWEB上の風評の把握だから。それに川田さんが、嫌味にとるかもしれないし……」
「営業の川田本部長ですか?」
「宇多は川田さんの部下だったんだ。『リクルートの退職理由の本音』によると、六割以上が人間関係だそうだ。レタスはたぶん方便。そういえば川田さん、宇多のことを慇懃無礼だと言っていたな。ちなみに吾輩は教条主義者だそうだ」
「キョウジョウって、なんですか」
「狂気のキョウに情欲のジョウじゃないよ。要するに融通がきかないっていうぐらいの意味かな」メモに「教条主義」と書く。「ハイハイって言わないのが気にいらないのかな。どうでもいいことだったらハイぐらい言うけど、どうしても譲れないことって、あるだろう?」
「私、出し巻き卵にお砂糖を入れること、譲れません。出し巻きにお醤油をかけて食べる人いるけど、そんなこと、信じられない」
 と怜ちゃんが口を尖らせながら言った。
「それはそうだ。お砂糖の入っていない出し巻き卵は、出し巻き卵ではない。ましてや醤油をかけるなんて出し巻きに失礼だ。出し巻き卵には、出し巻き卵のプライドがある。君の言うとおりだ」
 怜ちゃんが微笑みながら頷く。
「そう言えば、川田本部長のところよく人が辞めますね」
「川田さんも、うちに来てたぶん十数年。出向組でも一番の古参になるのじゃないかな。偉い人はいろいろな事業を経験した方がいいって、パパに言っておいてよ。あの人、温泉好きだから、次は別府あたりがいいよ」
「はい、分かりまちた」
 彼女は時々舌足らずになる。
「さっきから気になっていたんですけど、それって、猫ですか。それともフクロウ、やっぱり人間かしら? それにしても、どうして目が、三つもあるのですか?」
 怜ちゃんが「せる」の表紙を指さしながら言った。少女の胸像と花のブーケが、重なり会う無数の灰色の線で描かれている。コンテかパステル、あるいは、薬品処理をされた銅版画かもしれない。少女の髪形は、たしかに耳のようにも見える。モノトーンの画面に、少女の瞳だけが黄色く着色されている。その大きな三つの目がじっと正視している。
「女の子だと思うよ。『第三の目をもつ少女』って勝手に呼んでいる。いい絵だろう。二つの目だけでは見ることができないものが世の中には確かにあるよね。でも、第三の目をもつことでそれが見えるかもしれない……これも独断と偏見だけどね」
「そうか、3Dと同じですね。でも、もし私が三番目の目をもつことができるとしたら、前より後ろにあった方がいいな。新しくプリウスを買ったのですが、後部カメラがついていて、車庫入れがめちゃめちゃ楽なんですよ」
「赤いベンツはどうしたの?」
「あれはママの車、はじめは擦ったりするから古いのでいいって。でも燃費は悪いし、ECOじゃないし、毎日、新聞読んでいるから少しおりこうさんになったでちょ」と言って、ちょこっと舌をだし、笑いながら自分の席に戻っていった。

 帰宅途中の電車で、「せる」二十号を拾い読みしていて、書き込みがあるのを見つけた。「エッセイ」の最後のページ、その余白に小さな四角い文字が、びっしりと埋まっていた。それらは、私の字ではなかった。誰の筆跡だろうと考えたが、どうしても思い至らなかった。

『サードアイには諸説がある。その中でも有名なのは、インドにおける第三の目である。今でも、眉間にテッカという赤い印を付ける人を見かけることがよくある。これは、ヒンズー教におけるシヴァ神信仰の影響である。
 シヴァ神の伝説によると、瞑想ばかりしているシヴァ神に退屈した妻のパールヴァティーが、ふざけて後ろから両手で目隠しをしたところ、世界は闇に包まれ、生類が恐れおののいたため、それを救おうとシヴァの額の中央が裂けて、新しい目が生じたと言われている。そこから炎が噴出されてヒマラヤの山々を燃やし、世界を再び明るくしたという。
 奈良の若草山の山焼き、炎が麓から徐々に拡がっていき、やがて山稜全体が火に包まれる様子を見た時、この説話を思い出した。シヴァ神は破壊を司どるが、それは再生のための破壊なのだ。炎が焼いた大地に春になると新しい草花が芽吹く。』

 今年のゴールデン・ウィークは、後半の天候が不順だった。『時は今雨が下しる五月哉』連休が明けると、例年のことなのだが、社内の上層部がザワツキだす。三月決算の企業では、六月に株主総会が行われる。そこで役員人事が実施されることとなる。昨年、社長が変わり新体制になったばかりなので、今年は、サプライズはないだろう、というのが大半の見解であった。本来なら最重要機密のはずなのだが、不思議とよく漏れる。いずれ分かることなのに、初鰹に粋がる江戸っ子みたいに、この種の情報を少しでも早く入手することに、生き甲斐を感じる人たちがいる。ご苦労なことである。
「オジャマするよ」と言ってプロ・ゴルファーが入ってきた。彼もその一人である。真っ直ぐに傍まで来て、折りたたみの椅子を開く。そして「東尾ちゃん、お茶いれてよ」と庶務の女性に言ってから座り込んだ。見なければいけない稟議書が溜まっていた。長居されたら嫌だな、と思った。
「森村課長、特ダネですか?」マーケ担当の梅原課長が、身体を反転しながら言った。
「梅ちゃん、まぁ、そんなに慌てずに。お茶を一杯飲ませてよ」上機嫌に切り返す。
 森村さんは、当社でゴルフが一番うまい。社内コンペのハンディキャップはゼロだが、それでも三回に一回は優勝する。元甲子園球児で、東京六大学、社会人野球を経て、母校の野球部の監督をしていたらしい。地元ではかなりの有名人だということだ。そんな人が、なぜ当社にいるのか、その経緯を含め、よく分からない人だった。彼は、自宅近くの打ちっぱなし場で、私設のゴルフ教室を開いているらしい。教えるのが上手いらしく、親会社やグループ会社のゴルフ好きの幹部達が、幾人も通っているとのことだった。彼は、それらのお偉いさんを「俺の弟子」と呼んでいた。
 五十過ぎで、課長といっても部下はいない。仕入部門の本部長付の専任課長である。ラインで専任は珍しかった。とにかく働かないという評判だった。朝から晩まで順繰りに「俺の弟子」達のところを回って、ゴルフ談義をしているらしい。ゴルフで給料をもらっているので、いつしかプロ・ゴルファーという異名が定着した。とにかく顔は広かった。人事情報の入手源はその辺りであろう。悪い人ではないと思うが、お友達になりたいタイプではなかった。
「本社の東京支社長が変わるそうですよ。塩尻さんが監査室に異動で、後任は不動産事業の三井さん」と森村課長が言った。
 それは当社の社外取締役が変わることを意味していた。代々東京支社長が、二名いるその役職の一人を占めていた。非常勤役員の変更は、社員にはあまり影響がなかった。やれやれである。
「三井さんって、どんな人ですか?」営業統括チームの藤田係長が話に入ってきた。
「ゴルフは下手だね。いくら教えても上達しない。酒飲みすぎて、運動神経がアルコール漬けになったのかもしれんな。その癖、下手の横好き、俺の顔をみたら、先生、ゴルフに行きましょうよと言ってくる」
「三井さんも森村さんの弟子ですか。すごいっすね。今年はそんなもんすか」と梅ちゃんが揶揄気味に言った。
「梅ちゃんセッカチだね。早いと女の子に嫌われるよ。それでは、今年のメーンエベントと行こうか」
「待ってました、大統領!」梅ちゃんが煽る。
「実は、川田さん都落ちや、九州の山奥。陰謀説もあるが、震源地は不明、本社でも急に決まった話らしい。次の次ぐらいに、うちの社長というもっぱらの噂だっただけに、奴さん落ち込んでいるらしいよ」
「九州の山奥って、どこですか?」藤田が言う。
「別府観光開発、鶴見岳の麓の小さな会社や」
「別府、いいすね。今年の秋の旅行、湯布院にしましょうよ。いい温泉に旨い焼酎、最高やで。ついでに川田さんの表敬訪問をする。藤やん幹事やったな。企画、頼むで」
「梅ちゃんは、能天気でいいね。ここはノルマがないせいか。和やかだね、うらやましいよ。ところで、この話はまだオフレコだよ。ここだけの話」と、プロ・ゴルファーは、満足げに退場していった。ここだけの話は、たぶん今日中には全社に流布していることだろう。

「明日、お休みを頂きたいのですが」と、怜ちゃんが「休暇願い」を差し出した。承認印を押し、手渡す時に目があった。いつものように微笑んでいる。視線を外そうとしたとき、突然、彼女がウインクをした。マグニチュード6強並みの揺れ、不意を突かれて、思わず見入ってしまう。開かれている左側の目、澄んだ瞳に不思議な輝きが満ちていた。それはまるで『第三の目をもつ少女』の三番目の瞳のようだった。

 

 

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