二週間   齋藤 貴子



 首の手術後二か月の入院生活を終えて我が家に帰ってきてひと月も経たないうちに今度は家でこけてしまった。二〇一一年の十一月のことだ。思わず首の心配をしたが、幸い何ともなかった。しかし何日か経つうちに背中の痛みがひどくなってきて、薬を飲んでも効かず、ついには痛みで気が遠くなりそうな感じがして救急車を呼んだ。
 一か月前まで入院していた病院に搬送され、MRI検査の結果胸椎の圧迫骨折と診断された。
 整形病棟の空きベッドが無いというので、とりあえず内科の病室に入れられた私に、
「圧迫骨折がひどいわ。二週間のベッド上安静」
 主治医は事も無げに言ってのけた。
 私は「はあ……」と返事をしながら何をどうすればいいのかわからなかった。

 着の身着のままで入院したものだから夫にあれこれ持ってきてはもらったけれど正直何もいらない状態でもあった。何せ動かれないのだ。
 看護師さんが、おしっこの管はどうする? と訊くので、付けたらずっとやよね? と言うと「うん。だったらそのつど採ることもできるよ。呼んでくれたら来るし……」と言ってくれたのでそうすることにした。
 そうか……。生理現象のことを忘れていた。
 圧迫骨折だなんて、聞いたことはあったけれどまさか自分がなるなんて。そう思ったとたん、えらいことになってしまったという不安が一気に押し寄せてきて、今までなんとなくハイになっていた気分がみるみるしぼんでいった。

 翌朝、看護助手の人が朝食を運んできてくれた。絶対安静だからもちろん起き上がることはできない。
「いい? 横向けるけど、体捻ったらあかんよ」
 丸太を転がすように体の向きを変えられた。ベッドと同じ高さにしたオーバーテーブルの上に、一口大に切った食パンと小袋入りのジャム。パックの牛乳。そして手のひらでギュッと絞ったのだろうと思える形状の小松菜のおひたしが、なんと串にさしてあった。
「ジャム、全部出しとくよ」
 言いながら彼女は皿の縁に手際よくジャムを絞り出し、牛乳のシールをはがしストローを差し込んでくれた。
 私は、パンにジャムをつけて口に運んだ。
 モソモソと咀嚼しながら牛乳で無理やり流し込んだ。串刺しの小松菜は一口食べると、ばらけて少しだけこぼれるが大半は串に残っている。自分ならこうはいかないだろうなと、妙なところに感心した。
 薬も横を向いたまま飲む。そこでハタと気づいた。吸い飲みとかいう先が細くなった水を入れる容器を貸してくれるが、それは口をゆすぐときに使う。蓋付きで尚且つそこにストローを入れる穴の開いたコップが要るのだ。寝たままの私には。
 午後に夫が来た時に売店で買ってきてくれるように頼んだ。
 二週間、と言った主治医の言葉を頭の中で反芻した。まだ一日が過ぎただけだ。
 体を拭いてもらいパジャマに着替えた。
 おしっこを看護師さんに頼むと、楕円形の浅い塵取りみたいなオマルをお尻の下にあてがってくれる。終わればまたナースコールを押す。命綱みたいなものだ。
 何もかもが人の手を借りなければできない。唯一自分の力でするのは食べることと排泄だけだ。
 昼と夜の食事はご飯を小さなおにぎりにしてあり、汁物はこぼれないようにとろみをつけてある。おかずはすべて串刺しだ。煮物も焼き物も、魚も切り身をさらに一口大にして串刺し。
 それもこれも慣れれば食べられるもので、少ない量のジャムで食パンを全部食べ切る工夫もできるようになった。

 三日目に整形の病棟に移ることになった。寝たままの私の体の下に、シリコン素材のようなシーツを敷き、看護師や助手の人たちが四、五人でシーツごとストレッチャーに乗せた。
 ひと月前に首の手術でお世話になったばかりだったから顔見知りの看護師さんたちが、「どうしたん?」と驚いていた。
 ストレッチャーが病室に入っていくなり、
「あらあ、新しい人が来やはるって聞いてて、どんな人かなって思ってたら若い人でよかったわ」
 と、頭の上で声がした。付き添ってくれていた義姉がよろしくお願いしますと挨拶をしていた。
 私は窓側のベッドにさっきと同じようにして移された。内科病棟にいたときは廊下側だったので、明るい陽射しがありがたかった。
 さっそくテーブルをベッドの高さに合わせてもらい、必要なものを手が届く範囲でそこに並べ、残りは枕元に置いた。
 部屋は四人部屋で、歓迎してくれた先ほどの人は私の向かいのベッドで、その人の隣にはお婆さんが寝ているらしい。私の横は空きベッドだった。
 声をかけてきた人はKさんと言って、時々ベッドに起き上がって携帯電話をかけている。聞くともなしに聞いているとどうやら孫を相手にしゃべっているようだった。
 仰向けで寝ている上に眼鏡をかけていないものだから顔がよく見えない。たまに、ベッドの傍まで来て話しかけてくれるのだがやはりぼんやりとしか見えない。
「若いんだからすぐに良くなるわよ」
 脚立から落ちて、背骨に破裂骨折という聞いたことのない損傷を負って三週間の安静ののちに手術をして、更に二週間安静という想像もつかない状態を乗り越えてきたKさんは、明るくそう言った。
 今はもう歩行器を使ってリハビリも始めていて、来週にはリハビリ病棟に移るらしい。
 翌日から私のリハビリも開始された。
寝たまま膝の曲げ伸ばしや先生に足首を掴まれた状態で蹴りを入れたり、を繰り返すだけだが、暇さえあれば自分でも動かしていた。

 空いていた隣のベッドに、転んで膝を打ったというお婆さんが入ってきた。九十八歳だというお婆さんは受け答えもはっきりしていて、付いてきた娘さんと思しき人にあれこれ指図をしていた。
 さっそくKさんが話しかけていた。
 この病院は大和郡山市内にあるので、患者さんはやはり郡山近辺の人が多いようだ。Kさんも、市内の○○町だと教えてくれたが市外に住んでいる私は住所を聞いてもピンとこない。九十八のお婆さんの家もKさんの近くらしくて、話が弾んでいた。
 このお婆さん、よく間食をする。
 カーテンで仕切られているし、私は寝たままだから見えないのだが、ガサガサと袋や包みの音が聞こえてくる。見舞いの人の出入りも頻繁だ。最初から付き添っていた人はやはり娘さんで、この人がまたお婆さんに自宅であったことを逐一報告する。
「生協の品物はどこそこに置いときました」
「きのう誰それさんが来てくれたよ」
「お見舞いの品はどうしましょうか」
 等々。そのたびに婆さんはああしろこうしろと指図をする。Kさんいわく、かわいらしいお婆さんだそうで、私は好奇心もあって、仕切りのカーテンを、昼間だけでも開けましょうかと訊いたが、それは要らないらしい。
 次の日の朝、看護師が「○○さん、どうしたん! 枕と、あらあ、シーツも……」と声を上げた。何事かと耳をそばだてていると、どうやら溶けたチョコレートが枕カバーやシーツに付いているらしい。
「夕べな、ちょっと食べたんや」
 悪びれもせずに答える声がする。
 昨夜、遅い時間に数人の面会者があった。話の内容から判断して、娘夫婦と子供たち、そして多分親戚の若夫婦だろう、狭いベッドサイドにひそひそ声が聞こえる。そのうち「これ、ディズニーランドのおみやげ」と、紙袋を開ける音やら、「こっちにお饅頭もあるよ」という声もしてきた。
 おーい、いいかげんにしてや。と思っていると追い打ちをかけるように、
「やっぱり粒あんやね」
「いや、わたしはこしあんのほうが」
「ばあちゃん、チョコクッキーもあるよ」
 もうどっちでもええやんか。
 晩ご飯も平らげた婆さんにこれ以上食わせるなよ、と心の中で叫んでいた。饅頭やクッキーやらと、私には目の、いや、耳の毒だ。
 そのディズニーランドのクッキーを夜中に食べたのだろう。食べこぼしたチョコが部屋の暖かさで溶けて、シーツを汚したのだろう。
 お婆さんは元気だ。娘さんに持ってこさせた新聞を隅から隅まで読んでいるそうだ。これはKさんの情報。カーテン越しに新聞をめくる音が聞こえる。近所の友だちだという老婆が二人、見舞いにやってきた。
「先生、先生」と婆さんのことを呼んでいる。やっぱりここでも持ちかけられた相談をテキパキと片付けていた。
 夕方整形の医者が来て、検査の結果膝に異常もないし、歩行器で歩いているようだし明後日あたり退院されますか、と打診した。すると婆さんは「あんたじゃ話にならん。あたしはずっとタケヒコ先生に診てもらってたんや。タケヒコ先生ならそんなことはいわはれへん」と取り付く島もない。タケヒコ先生とはここの院長のことだ。
 主治医は困ったような声で一応説得をしていたが、諦めたのかどうしたのか笑いながら退出していった。
 次の日、お婆さんは二階の内科病棟に移って行った。そのとき初めて姿を見たのだが、小柄で猿みたいな印象を受けた。
 さて、Kさんの隣の人はYさんと言って彼女もまた九十歳を超えている。確か九十四か五。どちらにしても大正初期の生まれだ。昼間はKさんがまめに声をかけているので何とか受け答えをするが、それ以外はたいてい寝ていて看護師に「起きといてや。晩、寝られへんよ」と言われている。
 朝食は看護師や看護助手が手伝っているが、昼と夜の食事どきには家族の人がやって来る。Kさんとの会話を聞いていると、昼食は長男のお嫁さんが、夕食は長男と次男が交代で受け持っているようだ。親が九十を超えているのだから息子たちも六十代後半か七十代だろう。寝たままの私にはどちらの顔も様子もわからないが、声だけは聞こえる。昼間に来た嫁さんの話をしているのが長男で、母親に話しかけながらゆっくりと食べさせている様子が目に浮かぶ。それに対して次男は、言葉遣いは優しいが食べさせるテンポが速い。「食べたか? 次いくで」といった調子だ。その上、仕事か何かで来られない時が多く、そんな時は長男が顔を見せている。それなのにYさんは、「なんやあんたか。久しぶりやな、どないしててん」と、しれっとして言う。
「夕べも来たやんか」
 長男は笑いながら答えていた。
 あとでその話を聞いたお嫁さんが、「いくつになっても下の子のほうが可愛いんやろね」とKさんに言っていた。
 私は天井を見ながら、それはあるかも……と思った。
 Yさんは看護師に体位を変えてもらうときいつも「げんろくが痛い」と訴える。
 これがまた私には気になって仕方がない。Yさんを見ることができれば「げんろく」が何のことなのか、ある程度はわかるかもしれないが、看護師とYさんのやり取りから想像するしかないのだ。
「イタイイタイ。痛い言うてるやろ。もう頼むから許してえなあ……」
「ほら、そうするからよけいげんろく痛いんよ。こっち向いて。はい、ちょっと上へ行くよ」
 そうして二人がかりで体位交換をする。
 Yさんはその間ずっと悲壮な声で「げんろくいたい」を繰り返している。
 いったい「げんろく」とはどこなんだろう。体の一部であることは間違いない。看護師に訊けばすむことなのだろうが、何もすることのない身には簡単に答えがわかってしまうことが面白くない。
 松尾芭蕉は三里に灸をすえる、と書いていたがあれはたしか脛だったと思う。
「ねえねえ、げんろくって何?」
 様子を見にきてくれる友人や義姉をつかまえては訊ねたが、みんな首を振るばかり。で、とうとうギブアップで看護師さんに訊いてみた。
「膝のことよ」
 子供のころ年寄りが「膝ぼし」とか「膝ぼん」と言っていたのは聞いたことがある。そうか、奈良ではげんろくと言うのか。解ったからといってそれだけのことなのだが。それからしばらくの間、「げんろく」はマイブームになった。
 もう一つ、Yさんは看護師さんを呼ぶとき、「ちょっとおねえちゃん」と言う。ナースコールは押さない。
 来てくれるまで廊下に向かって、おねえちゃんを連呼する。
 どれも急を要する用事ではないので、看護師も心得たもので「はいはい。どうしたの」と、急きも慌てもしない。Yさんの用は大抵「げんろくが痛い」だった。

 この整形の急性期病棟はとにかく忙しい。当然のことなのだろうが、昼夜を問わず廊下を走り回る看護師の足音や声が飛び交っている。それを聞いて、ああ手術が終わったんだな、とか、誰か検査室に行くんだなというのがわかる。
 看護師は声も大きくないとだめなんだろう。
 ところが、そのよく通る彼女たちの声よりさらに大きな歌声が、これも昼となく夜となく聞こえてくる。最初は、ん? 何だと思っていたら、Kさんが、
「しばらく静かやったのに、歌姫さん、また始まったんやわ」
 と困ったような、そのくせどこか楽しそうに歌声の主について話してくれた。
 それによると、Kさんが個室からこの部屋に移ったころから、すぐ隣で聞こえるようになり、「南国土佐をあとにして」の曲を延々と歌い続けているという。あまりうるさいので苦情が出たのか、ほかの理由でかはわからないが今はナースステーションの隣の部屋にいるらしい。
 私たちの病室からは三部屋ほど離れているはずだが、朗々と歌声は聞こえてくる。
「なあんごくう、とーさあをお、あーとにいしてえ〜」
 歌は初めは正規の歌詞なのだが、途中で他の歌詞が混ざってくる。それでもちゃんと終わるのだからおもしろい。壊れたレコードのように同じところを何度も何度も繰り返し、時にはセリフも入る。歌い終ると「今日はこれでおしまいです。ありがとうございました」と、あいさつまでする。
 夜遅くまで歌っていた日は翌日はしばらくおとなしい。歌姫は声だけ聴いているとまだ六、七十代のようにも思えるが、実際は結構なお年らしい。
 どんな訳で入院しているのか知らないがあんなふうに誰に憚ることもなく大きな声を出せたら、さぞかしすっきりするだろうな……と思う。

 寝たままでの、食事や歯磨きや薬を飲むことや、排泄にも慣れた。朝と夕方、看護助手の人が持ってきてくれる蒸しタオルで顔を拭く。熱いタオルを顔に乗せて目を閉じる。一日の始まりと終りが私の周りで過ぎていくだけだが、起き上がれる日に一歩近づいたのは確かなことだ。
 リハビリは毎日行われる。膝の曲げ伸ばし、思い切り蹴り返す、足を上下に動かすなどの繰り返しだ。その合間にリハビリの先生とあれこれ世間話をする。三十五歳だという彼には九歳を頭に四人の子供がいて末っ子は一歳になったばかりだという。
 奥さんの代わりに食事を作るときもあるらしい。得意料理は何だ、とか、こんなのを作ったことがあるよ、とか、ラーメンは太麺より細いほうがいいとか、どこそこのラーメン屋を知ってる? とか、食べ物の話で盛り上がる。
 向かいのKさんも同じ先生にリハビリを受けている。ただ彼女はもう歩行器で歩き回れるし、ときには杖だけで病室を出ていくことがある。
「あの先生、きびしいけど話してると楽しいでしょ。それに男前やし……」
 Kさんはリハビリの時間が待ち遠しいようだ。そのKさんも二、三日したらリハビリ病棟へ移ることが決まった。
「待ってるからね。早くおいでね。一緒の部屋になったらいいのにね」

 歌姫は飽きもせず歌っている。あるとき、違う歌が聞こえてきた。レパートリー増えたんやね、と看護師に言うと、童謡の歌集を渡したらね次々に歌い始めたんよ、と笑っていた。それでも最後は南国土佐の節で終わる。ある意味、見事だ。
 大きな声は歌姫だけではなかった。
 看護師長が、私の隣のベッドに新しい患者さんが入ると知らせに来た。あの「タケヒコ先生」のお婆さんが出てからずっと空いたままだった。
「それがね……ちょっとうるさい人なの」
「いいですよ、べつに」
「そう……。あんまりうるさかったら言ってね」
 師長はすまなさそうな、しかしほっとした顔で立ち去った。
 しばらくして遠くから咆哮が聞こえてきた。男性の声で「わしを殺す気かああ」と繰り返している。それ以外は「うおお」とか「うわおお」とか叫んでいる。その声がだんだん近づいてきて、看護師たちのなだめる声と「ひとごろしい」と言う声が入り混じって部屋に入ってきた。
「イタイイタイ。痛いって言うてるやろ」
「はいはい。動いたらよけい痛いよ」
「どうする気や。マリコ、マリコ」
「ここにいてるよ。ちょっと辛抱しいや」
「親がこんだけ痛がってるのにどこ行ったんや」
「居るっていうてるやろ」
「おまえらなあ、わしをこんな目に合わせてただですむと思うなよ」
「思うてへんよ。はい、ちょっと動かしますよ」
「ぐわああ! 痛い、死ぬう。訴えたるぞ。わしの主人は弁護士や、もう死んでおらんけどな」
 看護師たちの失笑が聞こえた。
 何で男性が来るんやと思っていたら、すごくドスの利いた声のおばさんだった。
 ちょっとうるさい人、ということだったがこれはちょっとどころではない。マリコと呼ばれていた人が、売店でとりあえず必要なものを買ってきますと言って出て行ったあとも看護師相手にずっと悪態をついていた。
 おまけに暴れ始めたようで、ベッドの軋む音がして仕切りのカーテンまで引きちぎられんばかりだ。「痛いっ」と看護師の悲鳴がした。「いややわ、引っ掻かれた」
そんなことにはおかまいなしと言うふうに、おばさんは聞くに堪えない言葉で罵りながら、仕舞いには助けてくれと言って泣き出した。
「やかましい!」
 咄嗟に怒鳴っていた。
 一瞬、静かになったけれどすぐ元に戻ってさらに叫び声はひどくなった。
 泣き止まない子供を感情のまま叱り飛ばしたような、嫌な気分だった。看護師の一人が顔をのぞかせて、ごめんねと言った。枕元のイヤホンを耳につけて首を振った。
 それにしてもこの先ずっとこんな調子なのだろうか。助けてほしいのはこっちだ。
 騒動の途中でやってきた息子が、何事?  というように私を見ながら「看護師さんも大変やなあ……」とぽつんと言った。
 それからほどなくおばさんはベッドごと連れて行かれた。台風みたいにやって来てあっという間に去っていったその間、斜め向かいのYさんのお婆ちゃんは、うんともすんとも言わなかった。息子に様子を訊いたら「寝てはるで」とのことだった。

 その後しばらくして、歌姫の高音とあのおばさんの低い唸り声がデュエットで聞こえてきた。どちらもおたがいを尊重しているんだろう。繰り返される同じ歌をうるさいとも、訳のわからない叫びを迷惑だとも思わないのだろう。

 動けない身には、聞こえてくるさまざまな音や声だけが唯一の情報源だった。廊下を挟んで向いは個室が並んでいる。そこからも様々な声が聞こえてくる。
「○○さん、熱測っておいてね」
「嫌っ!」
「○○さん、ガーゼ交換するよー」
「嫌っ!」
 思わず吹き出してしまった。
 声から察するに、若い男性のようだが、どんな兄ちゃんやねん、と想像した。私もあんなふうに言ってみたい。
 もう一人、ボイスチェンジャーで喋っているような野太い声の人がいる。低いうえに滑舌が悪いのか、話す内容はあまり聞き取れない。時々、若い女の子の声が混ざる。大抵女の子のほうが一方的にまくし立てている。娘さんなのだろうか、奥さんなのか。それとも恋人か、と勝手にあれこれ考えを巡らせては暇を潰している。
 窓から冬晴れの青い空が見える。
 夏に首の手術をして、一生金具が入ったままだし、圧迫骨折までやってしまい、他に病気もあって、みんなに迷惑かけて、こんな状態で生きてる意味などあるのだろうかと思うと涙が出てきた。
「神はその人が乗り越えられる試練しか与えない」
 そう言って元気づけてくれる人もいた。
 ならば、と私は問いたい。何のために試練を与えるのか、乗り越えた先に何があるというのか。
「いつもそばで見守ってくれているよ」
 とも聞かされた。ひねくれ者の私は、見守っているだけやったら猫でもするわ。と、心の中で毒づいた。
 神も仏もない、と思った。
 彼らはいつまでもそうして沈黙しているではないか。
 考えてもしかたないので、せっせと足を動かし、リハビリに励んだ。動かしてもいいのは足と頭だけ。ただし、頭は左右のみでたとえわずかでも上にあげることは禁止だった。

 看護師長がやってきた。また無理難題を吹っかけるのかと身構えていたら、看護学校の生徒たちの実習に協力してくれないかと言う。熱や血圧を測ったり、身体を拭いたり、シーツの交換などをするらしい。
「はあ、まあいいですよ」
 今回も深く考えずに返事をした。
 まさか前みたいなことはないだろう。
 叫びまくる学生とか?
 年配の教官と一緒に来たのは、前髪を今風に横にペタッと分けて、後ろでお団子にまとめたヘアスタイルの学生だった。自己紹介をして「よろしくお願いします」と微笑んだ。あさみちゃんという名前だったと思う。
 一日目は、熱と血圧と体の中の酸素数を測った。そのあと彼女は、出身地や好きな食べ物や家族や看護師を目指した理由など、プライベートなことを話してくれた。歳はまだ二十歳だという。
 昼食のあとまた来てくれて三時まで傍にいる。眠かったら寝ててくださいね、と言うけれどなんだか気になって寝ていられない。もちろん誰かが見舞いに来ているときは遠慮してくれる。
 次の朝、九時を過ぎたころにおはようございますの声とともに、五人くらいの学生がわらわらとやって来た。枕元のお掃除しますね、と言ってコロコロをかけたり雑巾でテレビ台やテーブルやベッドの柵やロッカーまで拭いてくれる。これは彼女たちの実習期間中毎朝続いた。
 午後からはシャンプーをしてもらった。
 入院してから体は何度か拭いてもらったが髪の毛はそのままだったので、ありがたかった。これも実習の一環なのだろう。寝たままで頭部分だけが取り外せて洗えるというベッドに移し替えられた。
 こちらは文字通り寝たままなので、頭部分がどうなっていてどうされるのか一向にわからない。まず、お湯はどこから出るのかと気になっていた。まさかそのつど運ぶのじゃあないだろう。あとで訊いたら枕元の一か所に、湯が出る装置があってそこにシャワーのホースを繋ぐらしい。
 きれいさっぱり、というわけにはいかなかったが、それでも何日ぶりかで洗ってもらい少しはスッキリとした。
 リハビリ病棟へ移ったKさんのあとに七十代くらいのおばさんが入ってきた。この人にも実習の学生がついている。このおばさんの旦那さんは、私やYさんの息子さんたちにはにこやかに話しかけるのに自分の奥さんにだけはやけにエラそうな物言いをする。
 いつもおばさんはしどろもどろで喋ってる。最後まで言う前に旦那がさえぎって、
「ああ、わかったわかった」とか「ええ?  なんでやねん」とか「そんなん知るか」と邪魔くさそうに答える。
 だからおばさんは実習生が来る昼間は、楽しそうだし口数も多い。しかしYさんと話をするわけでもなく、仕切りのカーテンは閉めたままだ。KさんがいなくなってからYさんは独り言が多くなった。
「今何時ごろや」と誰にともなく訊くので
「十時です」と答えると、そうか……と言いながら「十時、十一時、十二時、十三時……」と数え始める。律儀に「時」をつけて歌うように時を重ねていく。そして、
「……六十一時、六十二時、今日はこれくらいにしといたろか」
 と言ってYさんは静かになる。
 廊下の向こうからは思い出したように歌姫の歌う、南国土佐が聞こえてくる。ドスの利いた声の人はどうしたのだろう。抵抗するのを諦めたのだろうか。

 レントゲン撮影のためベッドごと一階へ移動した。首をひねって見渡すと順番待ちの外来患者が数人いた。通院しているとき、待合の廊下をベッドやストレッチャーが行き来するたびに、仰々しいなあと感じたが、まさに今、私を乗せたベッドはそんなふうに動いているのだ。
 順番待ちの人たちは私を見ているのか、ベッドを見ているのか、それとも何も見ていないのかわからない。
 レントゲン結果は良かった。骨もひしゃげた状態ではあるがそのまま固まっているらしい。リハビリ病棟へ移れる日もそう遠くはなさそうだ。首の手術のとき西三階病棟だったから今回もそこを希望した。
 看護師さんたちも顔見知りの人ばかりだし、と。師長は「うーん、ちょっとはっきりわかれへんわ」と難色を示したが、こっちには貸しがある。

 寝たまま薬を飲んだり歯磨きをするのにはとうに慣れた。食事を摂ることも苦ではない。ただ、おいしいと感じたことはない。

「あした、ベッドアップするで」
 リハビリの先生から伝えられて、思わず布団の中でガッツポーズをした。
 整形病棟へ入院してから十五日目だった。
 看護師さんにずっと世話になりっぱなしだった。シャンプーも二回やってもらった。シーツ交換などは私の体をあっちにゴロリ、こっちにゴロンと転がしながら実にうまく手際よく換えてくれた。清拭といって、体をきれいに拭いてもらったし、三日に一度は、
「おシモ、洗うわね」と下半身も丁寧に洗ってくれた。
実習生のあさみちゃんは、私の手や足をお湯に浸けてやさしく揉み解してくれた。若い女の子の手は綺麗だ。手の甲など一本の静脈も浮き出ていない。まあ、当然と言えば当然だが。
そんな彼女もやがて看護師としていろんな患者を看るんだろうな。
ベッドアップのことを伝えると、よかったですね、と喜んでくれた。あさみちゃんの実習も明日が最後だ。彼女がいる間に起き上がれたらいいのだが、こればかりはリハビリの先生が来てからだから何とも言えない。

翌日の午前中にあさみちゃんたちは教官と一緒にやって来た。それぞれ担当した患者に笑顔で挨拶をして出て行った。
リハビリの先生は午後になっても姿を見せない。きっと忙しいのだろう。もしかしたら明日になるのかもしれないな。冬の日は暮れるのが早い。そろそろ外が薄暗くなってきた頃、先生が来た。看護師さんも一緒だ。
「明日かなって思ってました」
「いやいや、今日やるで」
ベッド横のテーブルを退けて私の傍に看護師さんが立った。反対側には先生がいる。
「ほな、いくで。気分悪かったりしたら言うてや」
 ウィーンと音がして頭がゆっくり上がっていった。窓の位置が下がってきたようだ。
「どや? 気分は大丈夫か。目ぇ回ったりせえへんか」
「……はい。うわ、うわっ、何これ……えーっ、おわあ」
 訳の分からない言葉を発している間にもベッドは徐々に起き上がっていく。ただ 完全に起き上がったわけではない。ベッドの背もたれが斜めになったところで止まった。
 天井がやけに近い。
 頭が押さえつけられているようだ。
 首がめり込んでしまいそうだった。
「大丈夫? しんどくない?」
 傍にいるはずの先生や看護師さんがずいぶん下に見える。
 窓も、向かいのおばさんも、テーブルもカーテンも、だ。
 私は二階からものを眺めているような感じだった。そして何だかとても静かな気持ちがしていた。
「よし! 車椅子に乗るで」
 先生が力強く言った。
 ベッドの横で車椅子が私を待っていた。
 よっしゃあ、乗ってやろうやないか。

 

 

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