大阪市の橋下市長が文楽への補助金カットを打ち出して、今文楽はその存在意義を問われている。文楽ファンとして何か言わなければと、かねがね思っていたが、関西テレビの特集「文楽のゆくえ」を見て、私の考えていることを述べてみたいと思った。
市長が問題にしているのは国や市などの補助をあてにしないで自力で頑張れ、技芸員が公務員化している、ということであるようだ。しかし退職金もボーナスもない技芸員は、公務員やサラリーマンと断じて同じではないと主張していた。組織としては様々な問題点を抱えていることも少しわかった。この際それらを洗い出し、このピンチをチャンスに変えたいと、勘十郎さんがコメントしていたのは、頼もしい限りであった。
違和感を覚えたのは、テレビに映った公演中の客席。私はここ数年、文楽劇場の昼夜全公演を観ているが、あんなガラガラであった日はなかったように思う。
大阪では年五回の公演のうち、中学、高校の団体観賞を中心とした「文楽鑑賞教室」や、子ども向けの「夏休み文楽特別公演」、勤め人対象のレイトショーなど、それなりに観客取り込みへの努力はなされていると思うのだが、しかし、そのことをどれほどの大阪人が知っているだろう。
問題は大阪人の無関心なのだ。ある意味、橋下発言はそれを代表するものでもある。
文楽は近世の大阪に生まれた芸能で、扱う題材が古代や中世のものであっても、すべて近世(つまりその時の現代)に置き換えて上演している。当時の人々にとっては歴史上周知の事件を、現代に置き換えてみせてくれる訳だから、とてもリアルに感じられたことだろう。
はじめ私の違和感はそこにあった。世話物の心中物など、男女の悲恋を扱ったものはまだしも、時代物で、主君の子の身代わりにわが子の首を差し出す、など、とうてい受け入れられなかった。
しかし時代は変わっても、文楽が描くのは厳しい封建制度の中で苦悩する人間の姿。今ならとうてい受け入れられないことも、そのような時代、そのような立場であったなら、という想像力を働かせてみれば、普遍的な人間の姿なのだということがわかる。
大阪人は新しいもの好きに見えて、心の底はとても保守的で、封建的であるように思う。
侍は主君のために、商人は主人のために、わが身を犠牲にする。ほんの少し前までそうだったのだ。義太夫で語られる言葉は、かつての大阪言葉。私たち大阪人は、その語りのなかに、祖父母の口調の片鱗を見出す。少し懐かしく、かなり鬱陶しい。自分の中にある前近代的なものを見せつけられることは、「進歩的な」大阪人にとって、あまり愉快なことではないのかも知れない。
大阪人の文楽への無関心には、いわば近親憎悪的なものが潜んでいる。
それは「文化」として距離をおいてみることができないくらいに、まだ生々しい。
私が文楽ファンになったのは、東京出身の友人に誘われてのことだった。劇場内でも、大阪弁より標準語の会話がよく聞こえてくるように思うのは、気のせいだろうか。
「歌舞伎は頑張っている」と市長は言う。私は歌舞伎も好きであるが、文楽との違いを挙げるとすれば、まず、歌舞伎は世襲の世界であるということが言える。御贔屓筋という強力な後援会組織を持っている。が、文楽は基本世襲ではない。強力な後援会組織もないのではないだろうか。
だが、その分、隔てがない。毎年正月三日の初公演の前には、文楽劇場を取り囲む長い列が出来る。黒門市場から鯛が届き、人形による鏡開きが行われるのだ。人形手ずから、集まった人々に酒が振舞われる。そんな時は、普段舞台の上にいる人たちが、声をかけられるほど身近に、うろうろしている。
そして一番大きな違いは、歌舞伎は生身の人間が演じるということ。歌舞伎ファンがお目当ての役者を追いかけることはあっても、文楽ファンが、お目当ての人形を追いかけることは、まずない。文楽ファンは、人形のようにおとなしい。
しかしこの人形の美しさに私ははまった。
人形の無表情が無限の表情を持つ瞬間がある。観客が自身の感情をそこに投影することができるのだ。もちろんそれは、熟練の技芸員の、三業相まった至芸の力によって、初めて可能になることである。
現代ものの新作を、という声があるが、私は少々心配している。文楽は、封建時代という時代の制約の中で、その不自由の中における人間の苦しみ、喜びを扱っている。それを物言わぬ人形が表現する。一体の人形を三人の人間が遣う。文楽の魅力とは、もうほとんどこれ以上の不自由はないだろうという、極限の状態の中から生まれる美にあると思うからである。
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