清掃会社の作業員である俺は、スーパーでの夜間の作業をおえて駐車場に向かっているとき、スナック浪のホステス里佳から、携帯に電話があった。ひどく慌てた様子ですぐには意味がつかめず「どうしたんな」と問いかけても「ママがえらいことやねん。どうしよう、どうしよう」と繰り返すばかりだ。かなり興奮している様子なので気を落ち着かせて、なんとか理解できたのは、ママのなっちゃんが客とのトラブルで傷害沙汰となり、駆けつけたパトカーで連れていかれたらしいのだ。
電話がきれたあと「どういうことや……」俺は携帯を胸のポケットにしまいながら呟いた。
浪は俺も常連客として顔を出す店だが、素人っぽさと愛嬌のよさで客を呼んでいるママのなっちゃんが、しかも七十歳になる彼女が傷害沙汰をおこすなど、信じられないことだ。俺は、とりあえず浪の店にむかって車を走らせた。
ワンボックス型のポンコツ軽自動車は、ハンドルを切るたびに積み込んだ床洗浄機具のポリッシャー、洗剤容器の缶などがぶつかり合い悲鳴に似た金属音をたてた。まだ人影のない明け方の街をフルスピードで飛ばし、スナック浪のまえまでくると、店の表は兵庫県警と明記のある黄色のテープが張り巡らされていて、店内に入ることは不可能だった。えーっ、ほんまかいや。思わず声に出して言い、俺は電話をかけてきた里佳の慌てぶりを納得すると同時に、これは普通ではないなと改めて思った。
肝心のなっちゃんはどこの警察署へ連れていかれたのか、情報が少なすぎる。朝の散歩中なのか、俺の姿を見て寄ってきた近くに住む顔見知りの男の話では、深夜の一時ごろパトカーのサイレンの音に初めて騒ぎを知った。表へでるとパトカーは三台もきていて、すでになっちゃんはそのうちの一台に乗せられていて、救急車に乗せられた人物も誰だかわからなかったらしい。しかし、なっちゃんが救急車に乗らずにパトカーに乗せられたのなら、そのかぎりでは彼女が加害者ということになる。
「あのママがそんな事件を起こすわけがない、相手が大げさに騒いだに違いない、すぐに釈放されて帰ってくるやろ」
顔見知りの男は、楽観的なことを言って立ち去った。
そのとき携帯が鳴った。ふたたび里佳からで、それによると、なっちゃんは東署へ連れていかれたらしい。それなら、いまから面会にいくと言うと、里佳はとりあえず会って相談をしようと言った。それに従い、俺は里佳の待つ喫茶店までふたたび車を走らせた。
喫茶店の駐車場に車をいれ、店内に入ると里佳が手を挙げて俺を招いた。四人がけのテーブルを囲んで、心配してかけつけたのだろう常連客の顔もある。よく見ると里佳の夫の岩見までが、神妙な顔つきでいた。岩見は暴力団員なのだが、なぜか女房の里佳には頭があがらない恐妻家で、夫婦でいると存在感が薄い。
「なんで、こんなことになったんや」
顔をみるなり問いかける俺に、里佳は「悪いのは辰巳や」といった。
辰巳は六十歳なかばで、浪に出入りをし始めたのは、二年ほどまえからだ。そのうち、夜ごと顔をだすようになり、好みの女客がいれば傍によっていき、貴女に惚れた、自分の探し求めていた女性にやっと巡り会えた、などと歯の浮くような言葉を連発しては、交際を求めていた。そんなところから客の間では、鼻持ちならぬ女たらし、とヒンシュク顰蹙をかい、特に男客のあいだでは、すこぶる評判が悪かった。
大方の常連客には嫌われても、辰巳はこの界隈の男たちには見かけない、垢抜けてこざっぱりした服装をしていた。そのうえ、大柄で体格もよく背が高くて、頭髪はロマンスグレーの一見優男に見える。とくに女には物腰柔らかなために、浪に出入りする女たちの評判は悪くはなかった。しかし、なかには、辰巳の女に接するときの、わざとらしい猫なで声には吐き気がすると、毛嫌いする者もいたから、すべての女たちに好感を持たれていたわけでもないようだ。
そんな奴に男を知りつくしたはずの、なっちやんがなぜ気を許したのか。多分に女に接するときの労を惜しまない、辰巳のマメすぎる行動と、自称健康食品セールスでありながら、大工から内装まで玄人はだしでこなす器用さだと、俺は思うしかなかった。
一年前になるが、なっちゃんが店舗の改装をすると言いだしたときにも、それを耳にした辰巳は専門業者に頼めば高くつく、自分ならその三分の一でやってやる。などともちかけた。実際に業者の二百五十万円の見積もりに対して、辰巳は総額六十万円で引き受ける、などと大口をたたき、彼の話を疑問視していた、なっちゃんを安値で納得させて改装をおこなったのだ。
その折に「耕介、あんたも手伝い」と言う、なっちゃんの一言で、俺は辰巳の手伝いとして散々こき使われたのだ。そのときのことは、いま思い返してもムカつくのだ。内装張りの、助手をしたときのことだ。壁の張り替えの際には、接着剤の容器を足場から落とした挙げ句に、せっかく張り替えた床のカーペットを駄目にしたことがあった。そんなとき辰巳は俺に対して、不器用者、うすのろ、役立たず、などと声を荒げて罵倒した。それも、なっちゃんのいるところで、頭ごなしに罵ったのだ。
もともと、俺は釘一本もまともに打てない不器用者なのは、自分でも認めるが、なっちゃんの目前でぼろくそに罵倒されたことで、男としてのメンツが丸つぶれになった。あのときから、俺は辰巳に対しては激しい敵意をもった。それまでにも、なにかと、なっちゃんの歓心を買おうとする辰巳に対する嫌悪の思いがあり、それらが次第に増幅して、顔を見るだけでもムカムカするのだった。
さらには、店舗改装の折には、照明器具や椅子などを新品を購入せずに、リサイクル店を物色しては安価で買ってきて、なっちゃんから新品が買えるほどの金額を請求するなど、小狡さも見せつけられた。
俺は辰巳を人間としても信用できぬ奴だと思い、なっちゃんに、あの男に深入りはせぬ方がよい。と折につけて忠告してきたが、彼女はその都度、俺の嫉妬心からの告げ口と勘違いしたのか「心配せんでもええから」と言って、取り合わなかった。
そんな、なっちゃんも、辰巳に手を焼いていることがあった。それは酒癖の悪さだ。最初のうちは猫を被って自重をしていたのか、そういうこともなかったが、浪に出入りして一年も過ぎたころから、深酔いをすると居合わせた客に難癖をつけては、暴力を振るいだした。時には暴れだして手がつけられなくなり、パトカーを呼ぶこともしばしばだったらしい。いわゆる酒乱というやつなのか、普段は懇意にしている相手にさえ酒量がすぎると、途端に人が変わったように暴力を振るうものだから、次第に浪に出入りする飲み仲間からも敬遠されていたようだ。
こんども、深夜になって最後に残っていた客と、悶着をおこして暴れだしたらしい。すでに里佳は退店したあとで、勝手にカウンターのなかにまではいり、目についたアイスピックを持ち出そうとした辰巳を、なっちゃんは必死で止めようとしたらしい。酔っているといえども相手は大男、小柄で女のなっちゃんとでは端から勝負にならないだろう。一旦は取り上げたアイスピックを、ふたたび奪われそうになり、もみあううちに、はずみで手に持っていたアイスピックの先端が辰巳の腹を刺したというのだ。
傷は二センチほどの深さで、大怪我ということもないのだが、居合わせた客が出血に驚いて百十番に電話をかけたために、パトカーが三台もくる騒ぎになった。挙げ句、なっちゃんは辰巳を刺した傷害容疑者として、警察に連行されたというのが、ことの顛末らしい。
里佳の、あんたがくると、ややこしいから、という言葉で岩見だけをのこして、待っていた四人は俺の軽トラックに乗り込んだ。
東署に着いて受付で用件をのべると「あんたら、容疑者とどういう関係なんや」係の警察官はいかにも胡散臭い奴らだといわんばかりに我々四人の顔を舐めるように見ながら言う。
さらに警察官の話だと、なっちゃんはここにはいなくて、神戸の水上署に留置されているとのことだ。なんでも、尼崎には女性用の留置所がないために、神戸まで連れていかれたらしい。
「ちかごろは女も、ようけ犯罪犯しよるのに、尼に女の留置所がないて、なんでやねん」同行した常連客の男が声高に愚痴るのを、警察官は一瞥して「逮捕されてすぐの面会は、できるかどうかわからんから、明日にした方がよい」と説諭した。
七十歳のなっちゃんに、留置所の環境は身にこたえるやろ。俺はすぐにも、とんでいって会ってやりたかった。
俺がなっちゃんと知り合ったのは、阪神大震災の翌年のことだから、かれこれ十年もまえになる。そのころの俺は、大阪で工事現場などの警備員として勤めていた。あるとき、飲み屋で知り合った男から震災景気で尼崎にいい儲け口があると聞き、あっさりとそれまでの職を捨ててこの街にやってきた。焼けつくばかりの、真夏の余韻を引きずっている九月の始めだった。もともと自らの職業に情熱や使命感などをもつタイプでないから、一銭でも手にするカネが多い方がいいと即刻決断をしたのだった。そのとき俺は四十五歳で未だ独身だった。
男から紹介された勤め先は、尼崎の工務店だった。俺は面接の結果、時給千二百円で即刻運転手兼人夫で働くことになった。ところが工務店というのは看板だけで、実態は各地の工事現場へ人夫を送り込む飯場だった。おまけに、寮費だの食費だのと差し引かれると、大阪で警備員だったころの方が、収入面でも勝っていたのだ。数日してそれに気づいた俺は、こんな職場は性に合わぬとすぐに、退職を決意した。
土日曜日をあいだにいれて一週間ばかりいて、いさぎよく辞めてみたものの、たちまち、その日から寝る場所もない身となった。素性もよく知らぬ男の口車にのった、自らのそそっかしさを悔やんでみたところで、いまさらどうしようもなく、あてもないままに俺はふたたび大阪へ戻るしかなかった。
やってきた時とは正反対に意気消沈して電車の駅へむかう途中、商店街のはずれにある喫茶店のまえを通りかかった。その浪という店名に、足が止まった。
つい六、七日にまえのことだ。初めて降りたった電車の駅から、目的の工務店を探して歩いていたときのことだった。男から手渡された、先方の住所を記入した紙切れを頼りに、大体の方角に見当をつけて歩き始めたものの、どうも方向を間違えているような気がして仕方がない。駅の時計が十一時を少しまわっていたのをチラッと思いだし、なるべく昼飯時を避けていくべきだろうと、少々焦りかけていた、そのときに道を尋ねた店だ。それに、落ち着いたら必ずくるつもりで、密かに愉しみにしていた店でもある。
あのとき、開店前なのか木製のちょっと重厚な造りのドアがあいて、なかから女が、アンドン行灯型の電光看板を運びだしてきた。看板は金属製で、みた目には結構重たそうだ。ドアのまえから地面までが二段の階段になっていて、引きずるわけにもいかず、顔を赤くして看板と格闘をしている。女は小柄だし、なおさら、見てられない。
「よし、手をかしたろ」俺は反射的にかけ寄り、女に代わって看板を出してやった。
「やっぱり、男の人やな」感心しながら礼を述べる女に、毎日の出し入れ大変やろと言えば「夜はお客さんが、入れてくれるんよ」と笑った。
俺は女に紙切れをみせ、そこに書かれた住所への道を尋ねた。
女は素顔なのに皮膚が艶やかで、紙切れをのぞき込む髪の匂いが、俺の鼻腔をくすぐる。それに、黒っぽいシャツの広く開いたノーブラの胸元から覗く乳房に、俺は目を奪われた。うわぁ、すごい巨乳やんけ! しかも、小柄で色白のグラマーときたら、俺の好みにピッタンコや。これから面接にいくというのも忘れて、俺は不謹慎な妄想に囚われた。
「これから面接にいくんや」俺の言葉に、女は「ちょっと待って」といって店内に入り、すぐにでてきて、手に持ったこの地域の地図を広げた。女と並ぶ格好で地図をのぞけば、多分このあたりやわ、と川の流れる堤防の下あたりを指し示した。
「橋を渡ったあたりまでいったら、そこでまた聞いて頂戴」といって俺の顔をみあげる。美人というより、愛くるしい顔立ちだ。僅かにあけた、うす桃色の唇からこぼれる白い歯並びが、俺を無性にそそりたてる。〈アカン、もう理性が吹っ飛びそうや〉道を尋ねた礼もそこそこに、俺は女から逃げるように歩き始めた。
教えられた道を歩きながらも、初めての給料を手にしたら、一番に、浪というあの女のいる店へいくぞ。俺も店の看板のだしいれに毎日通いたい。まだ雇われるかどうかもわからないのに、俺は心に決めたのだった。
もう一度あの女に逢いたい。このまま通り過ぎて電車に乗るには、切なすぎるやないか。目のまえのドアを押し開けたら、ええだけやのに、ふところが無一文やとは情けなすぎる。
皆が朝食を食っているのを横目に、事務所へいき退職を申しでたとき、居合わせた怖面の親方は慰留するどころか「ワレ冷やかしできたんか。やる気がないなら、すぐに出ていけや!」と、俺に一喝しておいて、現場へむかう人夫らを運ぶマイクロバスを見送るために外へ出ていった。
親方に引導を渡された以上、ここにいても飯はあたらへん。朝飯を食ったらすぐに現場へ出発するので、飯を食わずに事務所へきたけど、こんなことなら朝飯ぐらい掻き込んでくればよかったな。こんなところ、一刻もはやく、出ていくににかぎるで。おるだけ時間の無駄ちゅうもんや。
そのまえに、たとえ四、五日分でも、働いた分の賃金は受け取ってからや。僅かな日数にしろ、当座の飯代や宿代になるくらいのカネは、払ってくれるものと期待をしていた。なのに、使い回しの茶封筒で渡されたのは五百円玉一個だけ、なに、これ、ワンコインとはどういうことよ! 気色ばむ俺に、事務担当の親方の女房は、寮費を日割りで計算して、朝晩の食費代と昼弁当代を差し引いておいたから、と、こともなげにいい、三ヶ月の試用期間中は時給七百円やからな、と付け加えた。
そんなアホな。最初に、なにも聞かされてへんやないか。俺は、もっと文句を言いたかったが、親方が戻ってくれば、今度は、ぶん殴られるかも知れない。そんな恐怖心が先に立ち、黙って引き下がるしかなかった。
まだ開店前なのか、店の看板も出されていない。女が店にいるかもわからないが、もし、いるなら珈琲の一杯も飲んだろか。ポケットを探れば百円玉二枚と十円玉一枚、茶封筒の五百円玉とあわせても七百十円ナリ、これが全財産という惨状だ。硬貨をズボンのポケットに入れると、茶封筒を両手で丸め、腹立ち紛れに路上に投げ捨てた。
ここから梅田までの電車賃が二百二十円として、四百円の珈琲代を払っても、なんとか大阪までたどり着ける。店のまえに立ち、なんとも情けない限りの計算をしていると、いきなりドアが開いた。
この前の女が顔をだして、俺と目が合うと「あら」と言って、ちょっと驚いた顔をした。女は、これから店の電光看板を運び出すところらしい。
偶然にしてはうますぎる再会やで、まるでドラマの筋書きみたいやないか。こうなったら、カネがないかて、しょぼくれた顔してられへん。
「お早う、このまえは、ありがとう」
俺は敢えて快活に挨拶を交わすと、つかつかとドアに歩み寄り、店内から看板を外に運び出してやった。
「ありがとう、今日はどうしたん? お休み?」
「たったいま、失業してきたばかりなりけり〜」
女の問いかけに、気持ちとは裏腹に少しおどけて言った。
女は、とにかく店のなかへ入って、と俺をうながした。一瞬、躊躇したが、なるようになるさ、となかば捨て鉢の思いで女のあとについて入った。カレーの匂いが鼻をついて、朝飯抜きの胃袋が鳴った。
女は縞模様のスパッツをはいていて、なんだか縞馬を連想させたが背後から眺める尻の曲線は肉感的で、そのリアルさにおもわず見入ってしまう。
女が振り返った。反射的に視線を外した俺は「ええ感じの店やんか」と店内に目を泳がせる。
「お客さん、カレー食べない。朝から仕込んでつくったんやけど味見していって」
女は人懐っこい笑顔で、そう問いかけた。
「カレーは、俺の大好物や」
答えたものの、珈琲代ならともかく、カレー代までもふところ勘定するまでもない。どこかにカレーの代金を表示してはないかと、店の壁に視線を這わせるが見あたらない。
喫茶店のカレーなら六、七百円やろ。珈琲を取りやめ、カレーだけにすれば、なんとかいけそうや。もしものときは店を飛び出し、駅まで猛ダッシュを決め込めば四、五分で着く。女もカレー一皿で警察を呼ぶこともないやろ。けど、これは最悪の選択や、絶対にやりたくない。
俺は胸中の不安と闘いながら、ドアを背にした止まり木に腰をおろした。やがて、女がおしぼりと水を入れたグラスをカウンターの上におき、厨房へとって返す。ほどなく、大盛りのカレーライスが運ばれてきた。「えらいボリュームやな」と言うと「お客さんは若いから、そのぐらいは食べられるでしょう」と言い、スプーンですくったカレーを口へ運ぶのを傍らに立ち、にこやかに眺めている。
「よかったら、おかわりしてもええんよ」と、女の言葉に俺はぐっときたが、僅かな持ち金がない、とも言えない。こんな思いをするなら、最初に事情をうちあけておけばよかったと、しきりに後悔をした。
「珈琲も入れるね」
女は少し離れたサイホンのところへいき、珈琲をたて始めた。〈もうあかん、絶体絶命や……〉「あの……」思わず腰を浮かせる俺に、女は顔をこちらにむけ怪訝な表情をする。
「ママ、俺な、失業中で金欠やねん。カレー代なんぼか知らんけど、いま、これだけしかないんやわ」
腹を決めた俺はポケットに手を突っ込み、所持金のすべての七百十円を掴みだしカウンターの上に置いた。その弾みに十円玉が転がって足下に落ち、俺は慌ててかがみ込んで、見つけた十円玉を拾い上げるとカウンターのうえに戻した。その時の俺は、恥ずかしさと格好の悪さで、気が動転していて何を言ったか覚えていない。
「最初に失業中ときいたときから、カレーご馳走しよと思っていたんやわ。男がそんなおどおどしてたら、みっともないやろ」
なんちゅうええヒト女なんや、それやのに、この俺ときたらアホもええとこや。内心で、食い逃げを考えたことを大いに恥じ入った。
「ママ、悪いなぁ。通りがかりの素性不明の人間やのに、こんな親切にしてもらうやなんて、このカレー代は出世払いで絶対に払いますよって」
「アハハ、期待せんとまってるわ」
女の茶化し言葉に、俺が頭をかいていると、
「お客さん、どんな仕事でも、できるん?」
こんどは、俺の顔をのぞき込むようにして、問いかけてくる。
「ああ、何でもしまっせ。飼い犬の世話係から墓掘り人足まで、こうなったら仕事を選んでられへん。けど、なんか、ええ仕事ありまんの?」
女の問いかけに、俺は真顔で聞き返す。彼女の話によると、店の客で清掃会社の人間がいて、誰か人おらんか、とか言っていたから、よかったら紹介をしてもいい、と言った。しかも、住み込みの寮まで完備しているとのことで、いまの俺には願ってもない条件だ。
「俺、河田耕介といいます。河はさんずいの河、田は田んぼの田で、耕介の耕は畑を耕すの耕です。よろしく頼みます」
改めて自己紹介をして、俺はカウンターに両手をついて頭をさげた。
「あんた、耕介っていうの、そう……」
「あの、なにか……」
「いや、べつに……あ、清掃屋さんに電話をしてみるわね」女はそう言うと早速カウンターの隅へいき、壁際にあるピンク電話のダイヤルを回した。
それから一時間ばかりして、俺の面接をするために一人の男がやってきた。男はみたところ五十歳前後と思われ、さしだした名刺にはクリーンハウスなる社名と、代表竹田進とある。双方を紹介しおえると、女はカウンターのなかへ去り、俺は竹田と名乗る男と、テーブルを挟んでいわゆる面接をした。
竹田はそこで、仕事に慣れるまでの試用期間中の時給や、入寮の条件や規則など一通りの説明をすると「言うても掃除でっさかいなぁ、すぐに慣れますわ」といって、いまから寮へ案内しますと言った。
ドアが開き、ふたり連れの女客がはいってきたのをしおに、俺と男は腰をあげた。
「ありがとうママ、世話になったなぁ、落ち着いたら、また飲みにくるわ」
店をでるときに声をかけると「頑張りやぁ」女はカウンター越しに、こぼれるばかりの笑顔をむけた。
当時は、昼間は喫茶で夜になるとスナックに切り替わる店が多く、浪もそういう店であった。
車に乗り込み走り出すと「親切なママさんでんなぁ」と、俺はハンドルを握る竹田に話しかけた。
「気のええママやろ。あれで六十歳やで、けど、歳を感じさせへん愛嬌と面倒見のよさから、通う客は結構おるんや」
竹田は前方をみつめながら、相づちをうった。六十歳やてか、年増はわかるが、あのプリプリした体の張りようからして、どうみても五十歳前後にしか見えへんなぁ。彼女が自分と十五歳も歳の差があることを、すぐには信じられなかった。
やがて案内されたのは、競馬場の近くで、さきの震災でよくぞ倒壊を免れたものだ、と思わせる古ぼけたアパートだった。なんでも清掃会社の所有だとかで、その二階部分の一室が俺に貸し与えられた。さらに中古ながら、寝具一式が貸与されるのも、着の身着のままの俺には感激ものだった。
なんといっても屋根のある寝場所と、仕事にありつけたのはありがたい。俺は改めて浪の女に感謝すると同時に、給料日には何をさておいても顔を出して礼を言わなければ、と思った。
ところが、それから一年ばかりが過ぎて、予期せぬことがおこった。清掃の仕事にもなれてきたころ、突然に会社が倒産して、経営者の竹田は夜逃げをしてしまったのだ。事情はよくわからないが、浪の女の話では、金策に困っていたところへバブルのころに三重県に買い込んだ土地を売り損ねて、二束三文となったのが原因らしい。支払いが残っていた店の飲み代も、踏み倒していったとか。いずれにしても、俺はまたもや寝場所と職を失う憂き目にあったのだった。
「とりあえず今夜から、店の奥で寝たらええわ。布団はないけど毛布があるし、いまの季節ならまだそれでいけるやろ」
「ママ、厚意は嬉しいけど、そんな迷惑かけられへん」
「そんなこと言うて、あんた、どこかアテがあるのん?」
「男一匹、寝るとこぐらい、なんとかなりますやろ」
「あほ、なに格好つけてんの。取りあえずウチの言うようにしぃ、仕事がみつかるまで、朝一緒に買い出しにいくの手伝いや」
女の親切は身にしみるが、少々厚かましい気がして、ハイそうしますとは、言いにくい。そんな遠慮にも、女は清掃屋を紹介した自分にも責任があるから、気にかけなくてもいいからと言って、俺を感激させた。
その夜から、俺は女の厚意により、浪の店で寝泊まりすることになった。俺にとり、とにかく仮寝の宿ができたことになる。十一時をすぎるころ、その夜は俺が店の電光看板を消して、店内に運び入れた。
やがて午前一時をまわり、最後に残っていた数人のお客が帰ると、女は俺を促し、照明の消えた店内の奥に向かう。厨房の横のドアを開けると二帖ばかりの土間があり、日本酒や洋酒の入った箱やビールケースが、人が横になって通れるだけを空けた状態で積まれてあった。
最後の客を送り出した後、女は一気に酔いがまわったのか何度もよろめいてはビールケースにつかまり、そのつど俺は「ママ大丈夫?」と背後から声をかけながらささえた。
酒類の積まれた物置の奥に、四畳半の和室があった。部屋へはいると、その季節でもないのにホーム炬燵が部屋の真ん中におかれてある。炬燵の上には、テレビでよくみるタレントが、満面の笑みで缶ビールを持つビールの宣伝用うちわとケントの箱、それに吸い殻が山盛りの灰皿とが、もう何日もそのまんまのようにおかれてある。
壁際には、女物の派手な店着がかけてあり、化粧道具の並ぶ姫鏡台が置かれていて、いかにも酒場の控え部屋といった雰囲気だ。さらに片方は押し入れだが、襖は開けられたままで上段には茶色の毛布がたたんで置いてあり、昼寝でもするのか籐の枕がのせてある。下段には電飾をつけたままで、無造作に箱に詰め込まれたクリスマスツリーや、掃除機がおかれているというより、放り込まれているといった按配だ。
女はホーム炬燵のまえに横座りすると、ケントの箱から一本ぬいて口にくわえた。俺はすかさず着火したライターを、煙草に近づける。彼女は煙草に火がつくと、吸った煙を目を細めて吐き、片手で靴下を脱ぎ始めた。色白の太股があらわになり、酔っているとはいえ、男の目を意識しない女の大胆な仕草に、俺はどぎまぎしながらも、平静心を装おうと努めた。
「耕介、水を汲んできて」
いきなり、女が俺の名を呼びつけにしたのには戸惑ったが、酔ったうえでのことだろう、と聞き流して店の厨房へとってかえし、目についた水割りグラスに水道水を汲んで戻ってくると、女は仰向けになった状態でよこになっていた。
俺は女の背中に右手を差し入れて起こしてやり、グラスの水を口元へもっていき飲ませてやった。
「耕介、しゃんとしぃや、生きている限り、また笑うこともあるからな」
グラスから口を離すと、女は俺の目を見つめて話しはじめた。職を失った俺を、励ましてくれているのはわかるが、酔ったうえでの説教はごめんや。適当に頷いていると、いきなり女が俺の左頬にビンタをくれた。
「ウチの話まじめに聞いてんの?」
「ちゃんと聞いてますがな」
俺は神妙に答えながら、尖らせた女の唇に、抗しきれない、なにか強いパワーで吸い寄せられていくように感じた。
ズームアップするみたいに、女の顔がぐぐっと迫り、我にかえったときには、俺は女に唇を重ねていた。すぐに女の反応が気にかかり、からめていた舌を緩めると、逆に俺の舌が相手の口中に絡み取られていった。しめた、意志が通じたようや。間違っても、あとで叩き出されることはないやろ。俺は女をかき抱きながら、安堵した。
彼女はまったく抵抗するどころか、ながいキスのあと、自ら衣服を脱いだ。まるで、枷を外されたみたいに弾きでた、豊満な乳房に俺は圧倒された。
それは均整がとれ、弾けるような若い女の体とは違った、熟成しきったエロスを感じ、俺は激しくそそられた。やや弛みを帯びた腹部、それに下腹部の薄い陰毛の翳り、やけに白い太もも、それらが限りなく俺を挑発する。
両の乳房に挟まれ、息苦しくなるほど顔を埋めながら、俺はなにか懐かしいような不思議な思いに浸った。さらに乳房とは対照的に小さな、薄桃色の乳首を口に含んだ際、とてつもなく遠い昔に、体験したような、母乳を求めて乳首をまさぐった、記憶の幻みたいなものが蘇ってきた。
「ママ綺麗や、ほんまに綺麗や」乳房から腋を、さらに腹部と舌を這わしながら俺は何度もそう囁いた。すると女は「ウチは浪子や、浪子言うて」とうわごとみたいに繰り返す。
「浪子……」俺は求められるままに耳元で囁く、女も俺の名を呼び激しく反応した。
虚脱感と少しの嫌悪感、これまでセックスのあとといえば、俺は必ずこんな思いに襲われた。それなのに、いまは後悔の念にかられていた。
通りがかりの素性もわからぬ男に、仕事の心配や寝場所の世話までしてくれた女ではないか。相手が酔っていたとはいえ、まるでゆきずりの娼婦とのように関係を持ったことで、淡い罪悪感のようなものが俺を責め立てた。
「なっちゃん、あ、ごめんママ……」
呼び方を言いなおそうとする俺に「なっちゃんでええよ、ウチはどこでもそう呼ばれてきたんやし」
ホーム炬燵にもたれるように横座りの姿勢で、飲み残しのグラスの水を飲み干した女は、そういいながらケントの箱から一本抜き取り口にくわえた。火をつけてやろうと、俺がライターに手をのばすまえに、女はライターを手に取り火をつけた。一服めの煙を旨そうに吐くと、煙草をくわえたまま、脱ぎ捨ててあったシャツを拾い上げ袖を通す。
上半身はシャツで覆っても下半身は裸体のままで、ほとんど露出している乳房や、わずかに白毛の混じる陰毛の生え際は限りなくエロチックで、俺はこの女のためになら何でもできる、と思うくらいに惹かれた。
「ママ、あ、いや、なっちゃん俺、謝ります」
「なんで謝るん? なにか悪いことでもしたん? 」
女はくわえた煙草を手に持ちかえ、神妙な面持ちの俺を見る。
「今晩のことは、成り行きいうたら無責任やけど、俺な、なっちゃんを知ってからずっと好意をもっていたんや。それは信じてや」
「耕介、成りゆきに理由なんかあらへんよ」
なにをくだらんことを言いだすのか、といった顔で女は俺を見た。言葉のやり場にも目のやり場にも窮して、俺は目を伏せるしかない。
「ウチ帰るわ」
女は戸惑う俺に、服を着るから向こうをむいて、と言って俺に背中をむけさせた。ところが、目のまえの姫鏡台に、こちらに背をむけて服を身につける彼女の姿態が、映っているではないか。ショーツを穿こうと少しかがんだときの肉感的な尻が、ど迫力で鏡面いっぱいに映るのを、俺は固唾をのんで見つめた。
時計が午前三時を指そうとしていた。なっちゃんの家は、競馬場に近い藻川の堤防下あたりの建て売り住宅だと、いつだったか清掃屋の竹田から聞いたことがある。それにしても、こんな夜更けに彼女をひとりで帰らすのは心配だ。
物騒だから送ろう、という俺の言葉を、家まで自転車で四、五分だからと、彼女は頑強に断った。
「ほんなら、明日の朝八時にくるわね」
店の外まで送ってでた俺は、彼女に念を押されて一緒に買い出しにいく約束を、すっかり忘れていたのを思い出した。まかしとき! 返事を返そうとしたが、すでに彼女の自転車は、大声をだすのを気が引けるくらいに遠ざかっていた。
翌朝、目覚めると、明かり取りの窓から朝日が差し込んでいた。時計に目をやると、すでに八時をまわっているではないか。俺は毛布をはねのけて飛び起きた。ここで下手をうてば、時間も守られへんいい加減な奴と烙印を押されてしまう。こんなことで、なっちゃんの信用を絶対に失いたくはない。
ふらつく足取りで控え部屋をあとにトイレにいき、用をたしたあと洗面所の鏡に映る顔をみて、寝起きの顔ながらあまりの締まりのなさに、蛇口をひねりほとばしる水で何度も顔を洗った。
手元に顔を拭くタオルがないのに気づいたが、備え付けの手拭き用タオルを使うのも気がすすまない。やむをえず、犬がよくやるように顔を左右に激しく振り水滴を飛ばした。
店内に入り、カウンター内にあるシンクまでいき、水切り棚にあるグラスに、なみなみと水道水を注ぎ一気飲みをした。それでも、いまいち目覚めすっきりとはいかない。
昨夜久しぶりのセックスに張り切りすぎて、パワー全開したのがこたえたようや。〈そろそろ、なっちゃんが現れるころや、しゃんとしとこ〉俺は平手で両の頬をパチパチと叩いて気合いをいれ、次いでウオーミングアップのつもりで、両腕をぐるぐる回した。
そのとき、店のドアが開いて、なっちゃんが入ってきた。手に箒とちり取りを持っている。
「おはようございまーす」寝起きのしょぼくれた顔を悟られまいと、俺はあえて陽気に挨拶を交わし振る舞った。
「あら、起きたん、おはよう」彼女は俺の顔をみると、目をまるめてちょっぴり驚いた表情をした。七時半ごろに店にきて、表の清掃をしながら俺が起きるのをまっていたという。叩き起こせばよかったのにと言えば、若いから少しでも寝させてあげようと思ってと、昨夜の酔態などみじんも感じさせぬ笑顔をむけた。
いよいよ、買い出しに出かけることになった。なっちゃんのために、なにか役にたたねばと思っていたから、俺はいまこそ出番と張り切っていた。
なっちゃんは前後に大きな籠をつけた電動式の自転車に乗り、俺は客がおいていったまま、取りにこないという自転車を引っぱり出し、それに乗って出かけた。行き先は庄内の豊内市場だという。雨ざらしのままで、おかれていたせいなのか、自転車は走っていて時々、チェーンがガリガリと音をたてた。
軽やかに先を走るなっちゃんに遅れまいと、懸命にペダルを漕ぐこと約二十分ぐらい、阪急電車の踏切を越えると、途端に買い出しの車や人々の数が増えた。さらに市場の周辺に近づくにしたがい、狭い路は人であふれていた。
鮮魚店の店頭に積み上げられた冷凍の鰻の蒲焼き、足下に並ぶエビを詰め込んだトロ箱。マグロの切り身を両手にもち、だみ声を張り上げる店員と掛け合う客など、こんな活気に満ちている場所は俺にはちょっとした驚きだった。
なっちゃんが買い物をする店はだいたい決まっているみたいで、目的の店までは、あまり脇目をふらずに歩くから、俺は見失うまいと離れずついていく。
なっちゃんは買い込んだ品物を、自分では持とうとはしない。俺の両の手が、どんなにふさがっていても、買い込んだ品物を俺に持たせた。
ここには、スーパーみたいに備え付けのショッピングカートなどはみあたらない。仮にあったとしても、カートを押して歩く余地などはない。俺は持ちきれなくなると、一旦自転車置き場まで戻り、荷台に品物を押し込んで、再びなっちゃんの姿を探して市場内をかけずりまわった。
そんな買い出しも、俺には苦にはならなかった。むしろ、なっちゃんに、あれこれと酷使されることが楽しく思えた。日曜日の定休日以外は、雨の日でも、俺一人で買い出しにいかされた。そんなときに限って、到底、一台の自転車には積み込めないと思える品数を書いたメモを、なっちゃんは俺に渡すのだ。
雨でびしょ濡れになりながら、サドルのうえにまで品物を載せた自転車を押して店に帰ってきても、彼女はとりたてて慰労の言葉をかけることもなかった。それどころか、一息つく暇もなく店内の掃除をするように命じた。俺はそんなときも、なんら不満に感じることもなく、二つ返事で行動した。なっちゃんの、意のままになる男であることが、なんとなく心地よかった。
一ヶ月ばかりがたち、なっちゃんは俺に中古の軽ワゴン車を買い与えて、買い出しにいくようになった。客のなかに中古車の販売業者がいて、格安で購入したのだ。
車で出かけるようになると、なっちゃんは助手席に乗って話しかけた。以前は、なじみの客のなかには、自分の車で買い出しにいってやろう、という者がいたが「決まって帰りにラブホテルに誘うんよ」そういって口を尖らせてみせた。
そんな話を聞かされるたびに、俺はひどい嫉妬を感じながらも、それでどうしたんな、などと話の先を促し、手をのばして彼女の太ももをつねってやった。なっちゃんは大げさに痛がり、俺の耳たぶを引っ張って怒ったふりをした。
煙草を吸わない俺は、狭いキャビンで煙り責めに遭うのには閉口したが、それでも、買い出しの往き復りの車中は、結構楽しいひと時でもあった。
ある日、いつものように、買い出しに出かけたときのことだ。なっちゃんが買い込んだ品物を車に運び入れて、再び市場内に戻ってきたときのことだ。
人混みのなか、なっちゃんの姿をみつけ、そばへ近づこうとして思わず足を止めた。彼女のそばに見知らぬ男がいて、しかも互いに打ち解けた様子で談笑しているではないか。男は黒色の眼鏡をかけ、しかも鼻の下に髭を生やしているために、人相や年齢はよくわからないものの、背が高くて、なっちゃんは男を仰いで話している。
俺は二人の間に割ってはいるのを少し躊躇したが、男が何者なのか、なっちゃんと、どういう関わりがあるのか、知りたくて近寄っていった。
二人の会話の声が聞き取れるくらいに近づいたとき、俺に気づいたのか、なっちゃんがこちらを向いた。
「店のチーフや」なっちゃんは俺をみると、男に紹介をした。俺は何を言っていいかわからず、無言で会釈をした。
「こちら、昔ウチが大阪のミナミにいたときに、お世話になったんや」
つづけて、なっちゃんが俺に男を紹介すると、男はニヤリとして頭をわずかにさげた。なっちゃんの口から、初めて聞かされる過去の話に、俺は興味をもった。
俺が戻ってきたのをきっかけに、二人は別れてそれぞれ反対の方向へ歩き出した。別れ際に「がんばりや」男が声をかけると、なっちゃんは「ありがとう」と笑顔で答えていた。
「さっきの人とは、市場でよく会うのんか?」
買い出しを終えた帰りの車中で、俺は先ほど会った男のことを話題に、なっちゃんに話しかけた。実際には、さきほど聞かされた彼女の過去を、もっと知りたかったのが本心だった。
「滅多に会わんわ。今年の正月あけに会って、今日で二度目や」
「ふうん、そうなんや。何屋さんなん?」
市場に買い出しにくるからには、定食屋か飲み屋だろうが、なんとか、なっちやんが過去について語らないかと、遠回りに問いかける。
「曽根で居酒屋やっているんや、始めて五、六年になるかなぁ。ウチも一度だけいったことがあるわ。そのときは炉端焼きやったんやけど、いまは普通の居酒屋になっているみたいや」
そういうと、なっちゃんは思い出したようにポーチからケントの箱を取りだし、なかから一本ぬいてくわえると火をつけた。
「耕介、駅前のケーキ屋に寄っていくわ」
「オーケー」
なっちゃんの指示に、俺は軽く返事を返す。喫茶店用のケーキは、なっちゃんがお気に入りの園田駅前のケーキ屋で仕入れているのだ。
結局、なっちゃんは俺が期待しているほど自分の過去を語らず、話の腰を折られたかたちで、それ以上この話題を続けることを諦めた。
夜のスナックでも、俺はカラオケ機器の操作をしたり、酔客同士の諍いの仲裁もすれば、折をみて洗い物をするなど、様々の雑用をこなした。そんなところから事情を知らぬ客は、俺をマスターと呼ぶことも再三あったが、そのつどチーフです、となっちゃんは客に訂正をするのだった。
彼女にすれば、十五歳も歳が離れていて夫婦とは思われたくなかったのだろうが、酔客相手にいちいち言い直すのが、俺にはなんともおかしかった。
ある夜のこと、十時をまわったばかりで、十人ばかりの客がカラオケのマイクをまわして歌い、これから店が盛り上がろうという時刻だった。男二人連れの客が入ってきた。みかけない顔で、二人は店内をヘイゲイ睥睨するように見渡した。その態度から、俺は彼らが普通の客ではないなと感じた。
「いらっしゃい」なっちゃんが笑顔で応対するが、二人は、にこりともせず止まり木に腰をおろした。男二人のうち一人は四十代で坊主頭、あとの一人は二十代と思えた。
彼らはビールを注文したあと、若い男が俺を手招きしてカラオケをかけろと言った。順番にいれますから少々お待ちをと、丁重に応対したが、いますぐにかけろ、かけられないなら、こうしてやる。若い男はそう言うがはやいか席を立ち、カラオケ機器のところへいくと電源コードを引き抜いてしまった。
俺は慌てて「営業妨害は困ります」と言って制止をした。ところが俺の言葉に男はますますいきりたち、いきなり殴りかかってきた。まともに左フックがきまり、俺は反動で尻餅をついてしまった。
「ウチのチーフに何をするんや! あんたら店に、やから言いにきたんか!」
カウンター内から飛び出してきたなっちゃんは、無様に尻餅をついている俺の足をまたいで男と睨み合っている。
「ママ、ワシら気ぃよう遊びにきただけやで、それを、おまえとこのチーフは営業妨害やぬかしたんや」
「何を言うてんや、あんた器械のコードを抜いたやろ。ちゃんと見てたで!」
男の言いがかりに、なっちゃんは一歩も引かない。
「ママ、よう言うたのう」
「ああ、なんぼでも言うたるがな、女や思て、なめとったらあかんで!」
なっちゃんの剣幕に、男も虚をつかれたかたちで、一瞬恫喝の言葉が途切れた。
方や、男の一撃で戦意をそがれた俺は、いきなり暴力をふるう彼らに対する恐怖心で小便をちびりかけていた。どうせ初めから金をせびるのが目的やろ。下手に抵抗せずに、幾らかの小遣いを握らせて追い返せばすむことやないか。尻餅をついたまんま、そんなことを思っていると、いきなり後ろから両脇を持ち上げられて立たされた。
みると坊主頭の男ではないか。
「悪かったのう」俺にそう言うと仲間の男にむかって「もう、やめたらんかい」と制止をした。
「ママ、ごめんな、おい、謝らんかい」
坊主頭は自分が謝ると、仲間の男にも命令した。見え透いた芝居をしやがって、俺はそう思ったが黙っていた。
「チーフにも謝ったりや」
なっちゃんの一言に「チーフ、すまんかったのう」俺を殴った男はそう言ったものの、頭まではさげなかった。
坊主頭の男は、なっちゃんに「勘定や」とズボンのポケットから無造作に取り出したしわくちゃの千円札三枚を渡した。そのあと、名刺を、なっちゃんと俺に渡して「ワシこういうもんや、よろしゅうな」といった。
「ええ、ママやのう、気にいったわ」
坊主頭の男は、店を出るときにそう言うと、にやりと笑って俺の背中を叩いた。彼らが店外に出ていくと、居合わせた客のなかから一斉に拍手が起こった。暴漢に対して一歩も引かぬ、なっちゃんの凜とした態度を皆が賞賛しているのだ。俺はもう、いたたまれずに、トイレへ逃げ込んだ。薄暗い白熱球の下で、改めて男が渡した名刺をみると、仰々しく太字で岩見五郎とあった。
その夜は客もいつもより早く引いて、十二時まえに電光看板の灯を消した。閉店後いつものように、なっちゃんは俺の寝泊まりしている控え部屋へやってきた。どんなに閉店が遅くなろうとも、なっちゃんは、この部屋へきて煙草を一本吸ってから帰るのが常だった。
「なっちゃん、ほんまに役にたたんと、ごめん」
俺はホーム炬燵のまえに座ったなっちゃんに、両手をついて詫びた。ちんぴらやくざから一発くらっただけで、腰砕けになってしまったことの格好の悪さより、なっちゃんから役立たずの烙印を押されるのを、俺はなによりも恐れた。
「まぁ、誰にも怪我がなかっただけ、よかったわ」
なっちゃんは、そういって煙草に火をつけると、ながながと煙を吐いた。
「俺はあかんたれやなぁ、チーフの値打ちないわ。それに比べて、なっちゃんはさすがやなぁ、ママの貫禄十分や」
俺の弱腰を責める、なっちゃんの言葉が出てこないのに耐えきれず、自ら思いを口走った。
「耕介、あれでよかったんよ、もし連中と店のチーフが掴み合いになってみぃ、チーフに味方して加勢する者もでてくるやん。そうなったらお客を巻き込んで、えらい騒ぎになるやんか」
「けど、なっちゃんに、もしものことがあったら……」
「ウチはええねん、自分の店を守るには、自分が体を張らな誰も守ってくれへん。体を張ってこそ店を守れるんや」
なっちゃんの言葉に、俺は恥ずかしくて、言い訳の言葉も出ない。
「耕介、なにを情けない顔してるんや、あんた立派にチーフを努めたんやで」
「そう、言われてもなぁ……」
「もし乱闘騒ぎになってたら、パトカーはくるわ、店のなかは滅茶苦茶になるわで、しばらく店閉めなあかんところや、耕介が辛抱してくれたおかげやで、なんにもなくて済んだんは」
なっちゃんは、言いおわると続けて「耕介とウチとふたりで、体を張ったんや」といって俺に微笑んだ。
「なっちゃん、ほんまにそうなんか」
「そうやで」
なっちゃんはそう言い、煙草を灰皿に押しつけて消した。俺は彼女のそばににじり寄り、顔を近づけた。ニコチンの臭いの残る、なっちゃんの唇にそっと触れ、それから長いキスを交わした。
その行為を序章のように、俺はなっちゃんに挑んでいった。
それから数日がたち、予約しておいた美容院へいく、と言うなっちゃんの言いつけで、俺は一人で買い出しに出かけた。
市場では、なっちゃんから渡されたメモ用紙を片手に、大方の買い物をすませた俺は、朝飯のつもりで、市場内にある立ち食いうどん屋の暖簾をくぐった。市場に買い出しにくる客の多くが、夜の遅い水商売に携わる人たちということもあって、十時前後という時間帯にもかかわらず、結構混んでいた。
俺は、百円硬貨三枚をカウンターの上におき、かけうどんを注文したあとで、何気なく隣に目をやり驚いた。横でうどんを啜ってるのは、このまえ、なっちゃんと親しげに立ち話を交わしていた黒めがねの男ではないか。
この男に出会ったことで、俺はふたたびなっちゃんの過去を聞き出そうと興味がわいた。店員が二十円の釣り銭をもってきたので、ついでに天ぷらをトッピングする。
「こんちは、いつぞやはどーも」
声をかけると男は一瞬驚いた顔をしたが、俺一人だとわかると「店は繁盛しとんか」などと話しかけてきた。
「ウチのママとは、どういうお知り合いでっか」
「うん、なっちゃんとは、ミナミにいるころからやよって、二十年以上になるかなぁ」
男は箸をとめ、過去を懐かしむような表情をした。そこへ、注文のうどんがきた。
「ミナミて、大阪のミナミでっしゃろ、そら初耳やなぁ」
俺は、うどんに七味を振りかけながら、さらに話を聞き出そうと、ちょっと大げさに反応してみせた。
「それで、ウチのママはミナミでなにをしてましたんや」
いよいよ、なっちゃんの過去を知るための、核心に近づいてきたぞ。俺は、つゆをたっぷり含んだてんぷらを箸で崩しながら、男の言葉を待った。
「ワシがマネージャーしてたパチンコ屋へ、男と住み込みできよったんや」
「男て、夫婦でしたんか……」
よくスポーツ紙で目にする〃夫婦者住み込み〃のパチンコ屋の求人広告を俺は思い浮かべた。
「九州の福岡からとか聞いたが、男がだいぶ若く歳が離れてたから、駆け落ちしてきたんやな、当人らも、こういうことはハッキリ言わんし、こっちも根掘り葉掘り聞かんからな」
「せやけど、パチンコ屋でも就職するとなると、身元はちゃんとせなあきまへんやろ」
「身元など、どうにでも言えるがな。パチンコ屋に住み込んでくるのは、ほとんど訳ありの人間なんや」
うどんを食い終わった男は、そこまで話すと「ええママやから、頑張って支えたって」俺に声をかけて、いこうとする。まだまだ、なっちゃんの過去について聞きたいのに、このまま男と別れるわけにはいかない。慌てて残りのうどんを啜り、天ぷらのころもが浮かぶつゆまで、鉢に口をつけて流し込み男の後を追った。
男は大きなビニール袋を両手にさげて、ゆっくりとした足取りで先をいく。片方の袋からは、束ねた青ネギが今にも落ちそうなほどにはみ出ているが、気にかけるふうもない。俺は男に追いつくと、そこら辺でお茶でもどうです。と誘った。いきなりそう言われ、男は怪訝な顔をむけた。すかさず「これもご縁です、生意気ですが、ご馳走させてください」と言うと、男は表情を緩めて頷いた。
目についた喫茶店に入ると、男も気を許したのか「カフェオレ」などと好みの注文をした。
「なっちゃんは、男が自分より十歳は年下の姉さん女房で、いつも男を耕介、耕介と呼び捨てとったが、傍目にも妬けるほど仲はよかったなぁ」
「耕介……、男の名は耕介言いましたんか」
「そや、確か履歴書には耕すの耕介と書いたったなぁ」
まさか、なっちゃんの昔の男の名が、俺の名前と同じやったとは……。
「それが続けば、よかったんやがな……」
「と、言いますと?」
「一年ほどして、男が急に死んでしもうたんや。線の細い優男やったから、もともと持病でもあったんと違うかなぁ」
マネージャーの俺が火葬場へは同行したと黒メガネの男は言った。
連れの男が死んだ後、なっちゃんはパチンコ屋のオーナーに目をかけられて、系列のカラオケラウンジで、雇われママとして働いていたらしい。黒メガネの話によれば、店員が十人もいたというから、中規模の店だったのだろう。たまには芸能人なども来店して、カラオケ愛好家のあいだでは、それなりに名の知れた店であったらしい。
「ワシらの若い頃には、トランジスターグラマーいう言葉があってな、ちっちゃくてボインで可愛い女のことをそう言うたんや。若いときの、なっちゃんは、まさにそんな感じやったから、客の間でもようもてていたなぁ」
黒メガネは言いながらニタニタとする、笑うと鼻の下の髭のせいか一層スケベ顔になった。
そうして、なっちゃんはその店に数年いたのち、オーナーの肝いりで、尼崎の園田に、いまの店舗を買ってもらい、独立したのだそうだ。
いまどき店舗まで買ってもらうとは、いいオーナーでしたんやな、と感心すると、黒メガネは、これよ、なっちゃんは、これをフルに活用したんやな、と右手を俺の鼻先につきだし、親指と小指を触れたり離したりした。
調子づいた黒メガネは、自分が飲み屋を始めてから、ここへきてなっちゃんと再会した経緯に話が移った。そんな話はどうでもよいから、俺は勘定をすませると黒メガネと別れて帰路についた。
そうか、なっちゃんは駆け落ちして大阪へきたんか、最後にオーナーの女になっていたいうのが事実としても、生きていくために選んだ道やろ。俺の過去についても、何一つ聞こうともしないのは、彼女にも他人には言えん過去があったからやろ。それにしても、駆け落ちした男の名前が俺と同じ名前とは、偶然過ぎる話やないか。ハンドルを握りながら、俺はしきりに黒メガネから聞いた話の内容を反芻した。
店に戻ってみると、店の前に見慣れぬ車が止まっていた。入り口の真ん前に止めやがって! 俺は舌打ちをして、その車の後ろに駐車した。
店内に入ると、この前の夜に店に因縁をつけにきた、岩見がいるではないか。さらに、なっちゃんと並んでカウンターに若い女がかけている。俺の見知らぬ顔だった。
「よう、このまえはすまんかったのう」
岩見は俺の顔をみると、右手を挙げて馴れ馴れしく声をかけてきた。あの夜にみせた、威圧感をもろに表した顔からは想像もできない穏和な表情で、一瞬身構えたものの、俺は言葉につまり「あ、どうも」などと間の抜けた応答をした。
「この子な、里佳ちゃん、こんど、お店を手伝ってもらうことになったから」
なっちゃんが女を紹介すると「里佳です、よろしく」若い女は腰をおろしたまんま俺にむかって、ちょこっと頭をさげた。
ホステスを雇い入れるなど、事前になにも知らされていなかった俺は、型どおりの挨拶をすると表にとめた車から、買い出してきた品物を店内に運びいれにかかった。
「チーフ、あいつワシのヨメなんや、あんじょう頼むわ」
表に出てきた岩見は、しきりに坊主頭を撫でながらそう言うと、あとから出てきた里佳という女とともに車に乗って立ち去った。
早速、俺はなっちゃんに、岩見の女を雇い入れることをタダ質した。あんな連中に関わることで、店が客から敬遠されることを危惧したのだ。
ところが、なっちゃんの思いは違った。自分の女がいる店で、岩見も、嫌がらせや恫喝などはしないだろう、と言うのだ。それに、あの里佳という子は、芯がありそうや。ウチと耕介のふたりより、若い子がいれば店に華を添えるしな。といって俺の心配を打ち消した。
俺は警備員のとき、話が通じているはずの暴力団員から、恫喝や嫌がらせを受けた覚えがあった。いつ豹変するかわからないのが、彼らなのだ。なっちゃんの考えは甘いと思ったが、素人の俺と違い彼女は水商売のベテランだ。俺はなっちゃんの考えに納得し、もしものときは体を張って、彼女のためにこんどこそは命までもかけてやろうと決心をした。
これまで浪の客層はどちらかといえば、ほとんどが中高年者で占めていた。そこえ里佳がきてからは、確かに二十代から三十代の客層が増えていった。
里佳は客あしらいもよく、いつもキビキビとしていて、なぜこんな女が岩見の女房なんや、と不思議で仕方がなかった。そのことを、なっちゃんに話したことがあるが、耕介あんたなんか、女のことはなんにもわかってないねん、と逆に小馬鹿にされた。
岩見も時々顔をみせたが、酒は一切くちにせずに、ウーロン茶を飲みカラオケを二、三曲歌うだけですぐに帰っていくのは、すべてが、なっちゃんの思惑どおりだったといえる。
いつだったか、里佳に岩見が酒を飲まないのは、なにか理由があるのかと尋ねたことがある。すると里佳は、浪の店には一人でくることと、絶対に酒を口にしないこと、と約束させたんや、もし破ったら別れるからな、と念をおしてある、と言って笑った。いかな岩見も、女房には頭があがらないらしい。
夜のスナックでは、なっちゃんを贔屓の高齢の客同士が、張り合って諍いになることもあった。酔ったうえでのこととはいうものの、つかみ合いになることもあり、なだめにはいる俺の一番苦手な役目だった。そんなときに岩見が居合わせたりすると、仲裁に入ってくれて両者をうまくとりなしてくれるのには助けられた。
とは言っても、一人暮らしの老人で、この店にきて、なっちゃんと喋るのが唯一の楽しみとする老人客も多かった。四、五日顔をみせない老人がいると、なっちゃんは俺に、その客の家に様子を見にいかせた。
以前に、毎夜顔を見せていた老人客がぱったりこなくなり、十日ばかりのちに自宅で死亡していたのを発見されたことがあった。それ以来、なっちゃんは高齢の一人暮らしの客には、ずいぶんと気を配っていた。
そんな日々が四年ばかり続いた、ある日のこと、いつものように閉店後に俺の部屋へきたなっちゃんは、どこかいつもと違っていた。
きちんと正座をしたなっちゃんは、手に持ったタバコにライターをちかづけてもさえぎり「話があるんや」といった。その真面目くさった表情から、俺がなにか不始末をしたんやろか、と心中気になり座りなおした。
「耕介、びっくりしたら嫌やで、結婚することにしてん」
そういうと、なっちゃんはこちらの顔を探るようにじっとみつめる。
「……結婚するて、誰がいな」
「ウチや、この歳やし迷ってんけどな……」
なっちゃんは言いながら、少しはにかんだように視線を落とし、話しはじめた。
「結婚するて、ほんなら、この店はどうするんや」
「このまま続けるやん、結婚いうたかて、先方の家に入り込むわけやないんよ」
なっちゃんは、そう言うが、相手が通ってくるんなら愛人の関係やろ。それがなんで、いきなり結婚なんや。
合点がいかぬ俺の顔色を察した、なっちゃんが話たところでは、相手は店の顧客である中古自動車屋の田尾という男で、一ヶ月後に二人で海外旅行にでかける予定だという。
田尾は七十歳前後だと俺はみていたが、週に一度くらい顔をみせる程度の客だ。
酔ってはしゃぐこともなく、キープしたVSOPの水割りを小一時間かけて二、三杯飲む程度だ。気がむけば里佳が「田尾さんから」と瓶ビールにグラスを持って俺のところへくる。それを合図に、俺は、戦後の昭和二十年代に流行った歌謡曲のカラオケを、かけてやるのだ。いつもおなじ曲で、それを一曲歌い帰っていくのだった。
物静かで、このあたりには、似つかわしくない紳士だと思っていたが、再婚の相手探しをしていたとは、恐れ入った。すでに商売は息子に譲っての隠居暮らしだと、言っていたのを俺も覚えている。
唐突であっても、なっちゃんが幸せになってくれれば、それでええやろ。俺となっちゃんの間には雇用主と使用人の関係以外に、なにも存在しないのだ。
肉体関係はあっても、互いに相手を恋人だとか夫婦だとか、一度だって確認しあったこともない。自分となっちゃんの間には、互いを束縛しあうものは一切ないのだ。
なっちゃんは一ヶ月後に結婚すると言ったが、二人の関係はそんなにあっけなく終わるもんなんか。違うやろ、二人で力をあわせて、浪の店を支えてきたんと違うのんか、なんやもう、狐につままれているみたいやないか。
「なっちゃん、俺そんなん嫌やで!」
俺はとっさに彼女を抱きすくめるとながいキスを交わした。これがなっちゃんとの最後になる、とは絶対に思いたくなかった。なんでやねん、なんでこないなるんや! その思いが、俺を異常に攻撃的にさせ、彼女が苦しがってもがくほど、力を入れてかき抱いた。
なっちゃんもまた、結婚の告白をしたにも関わらず、俺を拒もうとはしなかった。
なっちゃんから、結婚の告白をされて一月近くがたった。一ヶ月後には、田尾と新婚旅行へいくと聞かされていたから、いよいよタイムリミットだ。
俺は悩み抜いた挙げ句に、浪の店から離れることを決心をした。その最大の理由は、俺には、なっちゃんを幸せにする、などと大口を叩く資格がないと自覚をしたことだ。この身以外に、なにもない俺にくらべ、なっちゃんの結婚相手は、それなりの資産家だ。張り合ったところで勝負は初めからついているのだ。
死ぬほど好きや言うたところで、資産やカネのまえには、ちょろこいもんやなぁ。己を自嘲することで、俺は自分を納得させるしかなかった。
店を辞めるからには、まず自立しなければならない。俺は新聞の折り込みの求人広告に清掃屋の仕事をみつけて、密かに面接にいった。清掃屋なら経験があるから有利だろうと思ったのがあたり、即決できまった。寝る場所も電柱につるしてあった貸屋探しのチラシをみて、阪神電車の杭瀬駅ちかくに、少し古くて汚れた感じだが家賃四万円のアパートをみつけた。杭瀬は戦災を免れた古い町並みと、戦後の闇市とが混在したような街だったが、震災後の再開発により最近はかなり変わってきていた。
そんなある日、岩見が店の外に俺を呼び出した。岩見は、ママにつくしてきたチーフが、こんなかたちで店を辞めるのは承伏できん。なんなら相手の男に、ママから手を引くように話をつけてやろか、と言った。
俺が店を辞めると知り、心配をした里佳が岩見に話したのだろう。そんなことをすれば、本当になっちゃんの怒りを買い、出入り禁止どころか、二度と現れるなと縁切りを言い渡されるのが目にみえている。気持ちはありがたいが、納得して決めたことだから、と相手が気を悪くせぬように丁重に断った。
それから一週間後に、着替えを詰めたバッグ一つで、俺は四年の間過ごした浪の店をあとにした。店をでる際に、なっちゃんが「ごめんな、わたしの我が儘で」と言い、いつも給料をいれてくれる茶封筒を差し出した。俺は黙って受け取ったが、その折の彼女の何かを訴えるような瞳がいつまでも心に残った。
あとで封筒を開けると、三十万円の札が入っていた。借りたアパートの敷金には十分過ぎたが、これが手切れ金かと思うとやりきれなくて涙がでた。
新居のアパートに引っ越した夜、なっちゃんのことを思いオナニーに耽った。彼女とセックスをしたときの、あらん限りのいやらしい妄想をかきたてイクとき「なっちゃーん」と声にだして叫んだ。
それから二年余りがたったある朝のこと、夜勤明けで帰りの俺のもとに、唐突になっちゃんから電話がかかってきた。
「耕介、むかえにきてや」
電話の声は、なっちゃんだとすぐにわかった。
「ひさしぶりやなぁ、元気なん?」
「あほ、なにを懐かしがってるねんな。ウチなぁ、県立病院に入院してるんや、それで退院するから迎えにきてて頼んでるんや」
なっちゃんが入院してたとは、また、なんの病気になったんやろ。それでもまぁ、おれのことを忘れずに迎えにこい、と電話をかけてきたのは嬉しい。せやけど、なんでや、旦那はどうしたんや?
まぁ、とにかく、いくしかないな。なっちゃんがこいというからには、自分を必要としているのやろ。幸いに今夜は明けで仕事も休みや、退院は午後からだというから、帰って一寝入りしてからいけば十分だ。
俺は四帖半一間のアパートに戻るや、もどかしくGパンとTシャツを脱ぎ捨てた。締め切った部屋のなかは、朝っぱらから蒸し風呂状態だ。流しの窓を開けると、途中の自動販売機で買った発泡酒のタブを引き一気飲みした。
そのあと、トランクスひとつで敷きっぱなしの万年布団に体を横たえると、俺はそのまんま深い眠りに落ち込めばよいのだが、暑さでなかなか寝付かれない。クーラーの調子が悪く、一週間もまえに家主に連絡したのに、いまだに修理する旨の返事もない。足下においた扇風機の風が、股間から脇の汗を吹き飛ばして心地よい。いまのうちに眠らねばと目をつむると、睡眠をとっていないこともあり、いつしかまどろんでいた。
汗にまみれて目覚めたのは、窓から容赦なく西日が差し込む午後の二時にもなろうかという時刻。体全体の気怠さを振り払うように起き上がり、とりあえず流しへいく。コップ代わりに置いてある酒のワンカップの容器を手に取り、水道の蛇口に近づけて栓をひねる。ほとばしる水を並々と注ぎ、目をつむり一気に飲み干した。まる一日使っていない水道水は生温く、とても寝覚めの水などと言えたものではない。
なっちゃんを迎えにいく時間が気になったが、この暑い最中に帰りはしないやろ、退院の時刻は四時か五時頃だろうと勝手に決め、一息ついたところで、いまからいけば丁度よい時間帯ではと、体の汗臭さが気になったが、脱ぎ捨てたGパンとTシャツをのろのろと身につけた。
県立病院へいき、知らされていた病棟へいくと、なっちゃんはすでに外出の服装に着替えて、俺がくるのを待っていた。
「遅うなってごめん、待たしたんかなぁ」
久し振りやね、と感動的な再会の場面を期待していたのに、なっちやんは俺の言葉にはかまわず、荷物を持つように言いつけると先にたって歩いた。
病院の駐車場に止めていた車に、荷物を積み込み終わると、なっちゃんは助手席に乗り込んだ。「えらい臭うなぁ」と顔をしかめる彼女に、清掃屋の車や、洗剤の臭いもするがな。と言いつつ車をだした。
「入院してたのに聞くのも、けったいやけど、変わりなかったん?」
俺は前方をみつめたままで尋ねた。
「店に顔も出さんと、なにしてたんや」
なっちゃんは、俺の問いかけには答えずに、まえを見つめたままで言った。相変わらず自分勝手の物言いが健在なのに、俺は少し安堵した。
浪の店に着くと里佳が出迎えた。「チーフ……」彼女は俺の顔を見ると、そう言ったきり涙ぐんだ。胸中話したいことがいっぱいあるのだろうが、泣かれるのは苦手だ。「まえより綺麗になったなぁ。ええ彼氏でもできたんか」と軽い調子で言った途端に、そばにいる、なっちゃんに思い切り足を蹴られた。
「痛っ」声をだしかけ、なっちゃんの目配せに店内に目をやると、岩見がカウンターにかけて、所在なく煙草をふかしているではないか。なっちゃんは俺を睨んで「あほ」と小声で叱った。
久し振りになっちゃんに叱られ、改めて俺は浪の店に戻ってきたことを実感した。
なっちゃんは「ひとりで店を開けさせて、ごめんやで」と里佳が入院中も、店を開けていてくれたことを労っていた。
店内に入ると、なっちゃんはすぐに手洗いにいった。その間に、俺は岩見に無沙汰の挨拶を交わし、なっちゃんの病名を里佳にそっと尋ねた。里佳は少し言いよどんだが、肝臓がわるかったみたい。といったあと、彼氏と別れてから、お酒の飲み方が凄かったから、と言った。
「ママがこんな目に遭うてるのに、もっとはよ顔出さんかい」
俺の顔を見ると、岩見が怒ってみせた。
「あんたは、もうええから、黙っとき」
里佳が頭ごなしに、岩見を叱った。
「チーフ、今度はママから離れんように、しっかりみたれよ」
岩見はそう言って、里佳に叱られた腹いせなのか、思わず顔をしかめるくらいに、俺の肩を強く叩いた。
里佳によると、なっちゃんは、あの自動車屋の社長と半年もまえに別れたらしい。それを知っていたなら、もっと早く浪へきていたのに。半ば意固地になり、一切浪に近寄らなかったことを後悔した。
なっちゃんは、退院したその日から店に出ると言ったが、そんなに慌てなくても、体調を整えてからにしては、と里佳と俺が説得をして家に帰らせた。
その夜、俺は浪が閉店するまで店を手伝い、そのあと、なっちゃんの自宅へ駆けつけた。十二時を過ぎた深夜だというのに、なっちゃんは寝ずにいた。
俺を迎え入れたなっちゃんは「お風呂沸いているから」と言って真新しいタオルを渡した。俺は何も言わなかったのに、なっちゃんは風呂まで沸かして待っていてくれた。彼女もまた、俺がくるのを予想して待っていてくれたんや。二年余りも逢わずにいても、依然と変わらない、なっちゃんに俺は感激した。
風呂場にいくとき、ダイニングキッチンの隣の部屋の少しあけた襖のむこうに、布団が敷かれてあるのが垣間見えた。
風呂のないアパートにいるために、夏場はシャワーで過ごすのだが、久し振りに湯船につかり、石けんとともにおいてあったヘチマの束子で、思いっきり溜まっていた垢を落とした。
すっきりした気分で風呂からあがると、脱衣場に男物の浴衣がおいてあった。別れた男のものでは、と一瞬よぎったが、着てみるとよく糊がきいていて気分がよかった。
ダイニングキッチンへくると、なっちゃんも浴衣の寝間着を着ていて、緩めに合わせた胸元から乳房が盛り上がっている。椅子にかけた浴衣の裾が割れて、組んだ太ももの白さが眩しくかぎりなく俺を挑発した。「ビール飲む?」なっちゃんの言葉に「ビールはいらん、それよりこのおっぱいが欲しい」
彼女が病み上がりというのも構わずに、俺は軽々となっちゃんを抱き上げ、隣室へむかった。
朝目覚めると、カーテンを通して明け方の光が差し込んでいた。隣に寝ている、なっちゃんの白い裸体が、その明るみのなかに次第に鮮明になっていく。僅かに開いた唇の淫らさ、太古の山並みのように隆起する乳房、弛みを帯びた腹部、未だ弾力を失わない臀部の肉付きが、俺の妄想を駆り立てた。その姿態に誘引されるままに、俺は、眠っているなっちゃんに体を重ねていった。
その翌日、夜勤を終わってアパートに帰り、これから眠ろうとしたとき、買い出しにいくという、なっちゃんからの電話があった。
「もう、仕事をしても大丈夫なんか」と言うと「始めから大丈夫や」いつもの負けん気の返事が返ってきた。
寝るまえの一仕事とばかりに迎えにいくと、なっちゃんは助手席に乗り込むや車内が臭いといい「また買い出し用の車を買わなあかんなぁ」といった。
俺は「うーん」と曖昧な返事を返し、車を走らせた。というのも、このまま、いまの清掃屋の仕事を続けるべきか、それとも元のように浪のチーフとして、水商売に戻るのか迷っていたからだ。
里佳の話だと、近頃はお客が減ってきていて、以前のように十五の席が満席になるのは、週に一、二回あるなしだという。チーフが戻ってくれば、またお客が増えるかも、と言った。それは里佳のお世辞にしても、再び俺が店に戻ることで余計な人件費がかさむことになる。それより、清掃屋の仕事を続けながら、朝の買い出しなどを手伝ってやることの方が、なっちゃんにとっても負担がすくなくてすむのではないか。
俺は帰りの車中で、なっちゃんにそのことを話すと、なっちゃんも本当のところの思いは、そうであったのだろう。事情が許す限り、毎日店に顔を見せることを俺に約束させて承諾をした。
その翌日から、俺はなっちゃんとの約束を実行した。夜勤明けのときは、現場から浪へ直行して、なっちゃんの買い出しに同行した。昼間に仕事がある場合は、夜のスナックに必ず顔をだし、手伝うものがあれば気軽に動いた。それらの行動はすべて無給であったが、むしろ、なっちゃんにつくすことで密かな充実感を味わっていた。
以前を知る客は「チーフよう戻ってきた」と、ふたたび俺が浪に顔をだしたことを喜んでくれた。
スナックに顔をだしたときは看板までいて、なっちゃんを自宅まで送っていった。そうして、三度に一度はセックスをして帰るようになっていた。それでも、なっちゃんが退院をしてきた最初の夜以外に、俺がなっちゃんの家に泊まることはなかった。なっちゃんが傍目に男の出入りを気にかけたこともあるが、それなりに節度を保たねばと、俺らしくもない考えを持ったからだった。
なっちゃんが連行された翌日の午前、俺は里佳とともに、神戸の県警水上署へむかった。
事件は新聞の地域版にも小さく報道されていて、何人かの浪の常連が、なっちゃんを励まそうと同行を望んだ。しかし、面会は二名と制限されていて、とりあえず俺と里佳の二人がいくことになった。
水上署は、JR元町駅から海岸へむけて、歩いて十分ほどのところだった。夜間の仕事を終え、そのままシャワーも浴びずに出かけてきた俺は、電車に乗るのには多少気が引けた。それでも電車にしたのは、業務用洗剤や床用ワックスの臭いが染みついた車に長時間乗るのは耐えられない、電車でいこうよ、という里佳の意見に従ったからだった。
水上署の受付で面会の手続きを申し込むと、午前中は取り調べがあるから、面会時間は午後からだということだった。日に四組かぎりの受付だとかで、順番は一番目だった。
そこで、近くで里佳と昼食をとることにして、一旦水上署をでた。昼の一時近くに署に戻ったが、二時になっても面会の呼び出しがない。しびれを切らせて受け付けに確かめると、尼崎東署から担当の刑事がまだ到着していないということだった。
何やかやと忙しがって、なかなか来よらん。受付の警官は誰に言うともなくつぶやいた。仕方なく掲示板に張られたポスターや、告知文などを何度も意味もなく眺めて時を過ごし三時近くになり、ようやく面会室へ案内された。どうやら担当の刑事はこなかったらしく、なっちゃんの取り調べは夜になるようだった。
面会の部屋は四畳半くらいの空間で、無数の小さな穴が円形に空けられた樹脂板で真ん中を仕切られていた。その奥に留置所に通じる通路がみえ、感じから多人数がいる大部屋のように思えた。
こちら側に椅子が二脚おかれていて、俺と里佳は案内した警察官の指示で、腰をおろしてなっちゃんが現れるのを待った。
しばらくして、なっちゃんが婦人警官に伴われて現れた。なっちゃんは二人の顔をみると、「ごめんな」と言い、その顔は我々に心配をかけまいと、努めて平静を装っているようで俺の胸を締め付けた。
里佳が店の様子や差し入れについて話すと、なっちゃんは下着の替えを頼んだあと「迷惑かけるけど、耕介と相談をしてやって」と言った。その疲れた表情を見て、俺は、なっちゃんをこんな目にあわせた辰巳にたいして、改めて怒りを感じた。
なっちゃんは連行されたときに、警察官が一方的に傷害犯としてあつかったことや、事情を説明しようとしても一切とりあってくれなかったことへの恨みつらみを、俺と里佳に訴えた。
「言いたくないことは、黙ってたらええのや」
里佳の言葉に、俺も「そや、なっちゃん黙秘しや」と同調した。
「そんなんはあかんわ。傲慢やととられて、かえって厳しくされるだけやよ」
付き添いの婦人警官が、半分はこちらの二人にきかせるふうに「お母さんは、いい人で真面目やから、本当のことを一生懸命に話したらきっとわかってもらえますよ」などと慰めを言う。
「なっちゃん、大丈夫やで、悪いのは辰巳やろ。すぐに帰してもらえるよ」
樹脂板のむこう側にいるなっちゃんが、たまらなく愛おしく思えた。接見台の下で下半身が勃起していた。俺は、彼女が釈放されて戻ってきたら、思いっきり抱いてやろうと思った。
その日から、俺は時間があれば、なっちゃんと面会するために水上署へ出かけた。そのたびに受付の警察官が露骨に、また、おまえか、といった顔をした。ときには、今日の面会の申し込みは締め切った、と断られることもしばしばあった。
なっちゃんは二十三日間の留置の末に、三十万円の罰金で釈放されることになった。俺は、夜間の仕事が予定より長引いて、時間ぎりぎりに港湾近くの現場からかけつけた。尼崎の検察庁へ迎えにいった里佳と俺の顔をみるなり、なっちゃんは「ごめんやで」と言ったあと「耕介、ウチを迎えにくるのに、なんやその格好」と、汚れた仕事着姿の俺を見て口を尖らせた。
「悪い、仕事が遅うなって、着替える間がなかったんや」
言いわけをしながら、なっちゃんが予想に反して元気なのに、里佳と顔を見合わせながら安心をした。
スナック浪の店に戻りドアをあけると、クラッカーが弾け、待ち構えていた常連客たちによる、なっちゃん釈放祝いの会がはじまった。誰かの買ってきた花束が、大きな花瓶に入れられてカウンターのうえにおかれている。集まってきた十人たらずの馴染みの客らが、勝手に冷蔵ケースからビールを取り出しては乾杯を繰り返した。
定食屋の親父が、冷蔵庫から取り出したありったけの卵を使ってだし巻きを作り、それを大皿にてんこ盛りにして厨房からでてくると、歓声があがった。すべてが店のビールや酒であり、肴の材料も冷蔵庫の中をさらえたもので賄われているのだ。なっちゃんには、まさしく自前のパーティなのだが、彼女はよくしゃべり終始にこやかな表情を崩さず、本当に嬉しそうであった。
辰巳が現れるのを心配する者もいたが、俺は二度とここへはこない気がした。もし現れたなら、今度こそ、体を張ってなっちゃんを守ってやろうと決意をしていた。
盛り上がった宴も、夜の九時になると皆は帰っていった。最後に里佳が帰るときに「チーフ、ママを一人にささんといてな、頼むわ」と言った。俺が軽く片手をあげるのを見てドアを閉めると、間をおかずに外から施錠する音がした。
宴のあとのカウンターの上にはビールビンが転がり、大小の皿やグラスなどが置きっぱなしのままだ。室内の照明を落としたあと、俺は二個のグラスに真っ赤なワインを注ぐ。グラスを持ち四人掛けのボックス席にいる、なっちゃんのところへいった。グラスの一個をなっちゃんの手に持たせると、俺は傍らに腰をおろした。おもむろに、なっちゃんの手に持つグラスに軽くあて、改めて祝杯をあげた。
「耕介、ウチのことアホやと思てるやろ」
「誰が思うか、そんなこと」
言いながら俺は、なっちゃんの小さな唇を、自分の指先で軽くなぞる。うっすらと野苺に似たワインの香りのする唇に、俺はそっとキスをした。そのまま引き寄せてかき抱くと、唾液にまみれた互いの舌が軟体動物みたいに蠢きながら絡み合う。唇を離して「なっちゃん、もう離さへんで」耳元で囁けば、彼女は俺の背中に回した手で、コツンと頭の後ろを小突きふたたび唇を合わせた。
ながいキスのあと俺は、なっちゃんをソファーに横たえた。彼女の衣服は乱れてブラジャーをつけない乳房は露出し、ほとんどめくれあがったワンピースから、息づかいとともに仄白い腹部が波打っている。
俺は作業ズボンのポケットに、カッターナイフがあるのに気づいて取り出すと、絡まっているワンピースにそっと近づけて、刃先を布にあててすうっと引いた。なっちゃんは「あっ」と小さく声をあげるが、構わずに辛うじて彼女の身を隠す布に刃先を走らせた。そのたびに小さく悲鳴をあげて身をよじる、なっちゃんをみて、俺は次第に異常な興奮を覚えた。
いつも強気で、俺の頭のあがらない、なっちゃん、次々と男をつくり俺をないがしろにしてきた、なっちゃん、いま、そのなっちゃんが俺の手のなかで、身をよじり悲鳴をあげている。
最後に僅かに局部を覆うショーツを切り裂いたとき「ああっ」なっちゃんが呻いた。カッターの刃先が皮膚を傷つけたのだ。見る見るショーツの白い布に鮮血が広がっていく。
俺は赤く染まったショーツを剥ぎ取り、内股の付け根を流れ出る血に唇を押しつけて吸った。口中に充満する血の生暖かさと舌先にざらつく陰毛の感触、なっちゃんの嗚咽する声、俺は押し寄せる、うねりのような射精衝動を抑えきれずにいた。
|