話をしたくない。黒い深いところにひとりでいたい。でもたまには深いところから外にでて息をしたい。ぷはぁと息を吐いてそして隣に誰かがいたとしてもその誰かとはなしをしたくない。息をしあっている呼吸だけでいい。声をだして今、私がどんな状況にいて、元気だとか、相手に伝えることをしたくない。笑いたいけれど私が笑えば、笑う対象の人が何と思うだろう。クスクスと笑えばいいのか、いかにも本当におかしくてお腹をかかえて声をだしてあげればいいのか、笑いたいのを我慢して笑う苦し紛れのわらいかたがいいのか、どの笑い方をしてあげれば相手は満足なのだろう。笑うこと一つにしても気を使う。笑ってほしいのか、笑われたいのか、笑ってほしくないのか、笑えれば、笑うな、あぁ、五段活用まっさいちゅう。
これだけひとりがいい、というくせに友達、という人には普通に話す。普通って何の基準か分からないけれど、目立ちもせず、誰にも忘れられない程度に私は存在している。私立の女子高で私は、家をでてから学校に行き、学び、また帰宅する家の玄関まで存在している。いや、部屋に入ったら私は、私になるのかもしれない。私はいま懲役三年のうちの二年目を終わろうかとしている時期にきている。
「さきちゃん」
頬に張り付いている抜けた毛をいじっていた私に声をかけてきた。あ。授業は終わったんだなぁと目を友達だろうユイコに向けた。
「授業おわったんやね」
「うん」
ユイコが前の席にスッと座る。周りで椅子を引きずる音が聴こえた。ぺちゃくちゃと好きな人の事を話したり眠いといったり、なにがおかしいのかけらけら笑ったりの声が聴こえる。
「ご飯、今日学食いく?」
ユイコがいう
「いらんねん。今日ローソンで買ってきたやつあるからそれ食べる」
机の鞄かけにかけてあった袋からとろろそばとおにぎりを出してさっとラップを取る。ユイコはお弁当のふたを開けて箸を手で挟むと、いただきます、と軽くおじぎをした。
会話はない。
毎日会っているし授業は聞いていないし好きな人もいないしテレビの話もしないしネットでおもしろいものみつけたといっても、そのときにはさほど面白くなくなってるし、話す事がない。
無くていいのが楽でユイコといる。ユイコもそんな感じで私といるんだろう。一人になりたいときはお互いひとりでいるし、誰かとペアを組まないといけないときはユイコと決まっている。ただ黙ってとろろそばのとろろを飲み干し、ユイコは冷凍食品がたくさん詰まったお弁当をゆっくり時間をかけて食べている。
窓から見える空の色は薄い水色で、冬の晴れた日だなぁと思った。
昼休みが終わって午後の授業も終了して家に向かう。寒さが緩んで今日は陽が暖かった。ユイコは高槻方面、私は大阪市内なので駅でさよならを言う。言う、というか手を振るだけのさようなら。
私たちは四月で三年生になる。たまたまクラスが二年続けて同じになったけれど、そうじゃなかったら今もこうして一緒にいるだろうか。体育の時間になれば一緒に体育館に向かい、昼休みになれば顔を向き合って食べる。陽がでたら暖かいので校庭の芝生で食べる。もうすぐ暖かくなる。あの芝生が青々と茂っていたらユイコとお昼を食べよう、そんなことを思いながら淀川を眺めた。
喋りたい、女の子はたいていよう喋る。うちのクラスの人たちもよう喋る。いまの電車の中でもよう喋ってる。声を聞くのは女の子。違う学校の女の子も喋ってる。男子は喋ってない。喋ってるけど、そんなに皆に聞いて欲しいんかなぁっていうくらい大きい声で喋ってない。毎日なんでそんなに話す事あるんやろう、みんな。なんで学校でも喋って、喋り足らんくて、カラオケ行ったりマクドナルドいったりするんやろう。家ではしゃべってないんかな、みんな。
帰りの電車は学生だらけでうるさい。いろんな学校の人たちでうるさい。しょうもないことばかりしゃべってて面白くない。なんで笑ってるんかわからん。そんなに嘘笑いできてるみんながうらやましい。
友達っておらなあかんの、笑ったりしなあかんの、頷いたりしたらなあかんの、あんまり哀しくなくても可哀想やとおもって一緒にないたらなあかんの。話、きかなあかんのん。
なんにもおもしろいことなんてないやんか。
淀川の鉄橋の上にいる群れてる鳩に、ガラス越しからため息を吐きつける。夕暮れの橙色がみたいのに、もう暗い青になっている。柴島から天神橋筋六丁目の駅に近づくと地下にもぐって自分の顔がうつる。
電車にのって会話している人たちみてたらいつもそんなこと思うから電車乗るんは嫌いになった。自転車で通える高校にしとけばよかった。そしたら鬱陶しくおもわなかったかもしれない、でも、中学校一緒やった子と同じ高校行きたくなかったから遠いところ選んだんは私の責任や。三年間の懲役や、我慢や。
家に帰っても話す事なんかほとんどない。学校であったことも話す気がない。友達と言われるユイコとも今日ほとんど喋ってないし。テレビみて話しかけたりしてるおかあさんみたら哀しくなるけど、眠くなるまで隣には居るようにしてる。お母さんは喋らなくても、私をわかっていてくれる。
また一日が終わろうとしている。宿題や予習もしないで自分の部屋では音楽を聴いている。音楽は人の声が入っていない曲だけを聴いていて、ここ一年はタンゴを聴き込んでいる。何気にショップで視聴して、それを買ってからタンゴと言われるジャンルがあることを知って何種類かCDを買ったり、ネットで見たりして何回も聞いた。タンゴは私の頭の中で勝手にざわつき、安心させてくれる曲が多いから好きだ。バンドネオンの空気を入れるときのシュカー、シュカーという音を聴くと、自分も、バンドネオンも呼吸している気がした。
目を瞑れば明日になる。私はまた明日に電車に乗って学校に行く。もうすぐ三年目。ユイコとまた同じクラスになるだろうか。音楽を聴きながら眠りについた。
朝の御堂筋線は混雑していて改札を通ってから階段を下りると人の多さに毎日吐きそうになる。そう思っているのは私の他、そこにいてる人、ほとんどがそう思っているだろう。階段を見ながら降りて行くと頭の方に視線が刺さっているのがわかった。
ちょうど電車が来たので人の流れにまぎれて乗り込んだ。後ろから人が乗り込んでくる。いつもの光景だが、今日はなんだか強引に後ろにくっつくなぁと思った。
『次は動物園前、動物園前です』
アナウンスがそう伝えた瞬間、曲がり角なのか、電車がいつも揺れる。いつも揺れるのは分かっているから私も、周りの人たちもそう揺れない。違うのは揺れた時に制服のスカートの中にすっと何かが入って来たこと。体が急速に固くなっていくのが分かる。
傘かな。
今日は雨が降っていないはずだ。
この、私のお尻の真ん中にあたっているのは何か。そんなことを考えているとそれは動いてきた。
指だと分かると私の冷えたお尻を撫でてきた。優しく、気弱な感がした。お尻に力を入れるぐらいしかできなかった。指は更にお尻の奥に進む。私の中に、指が浸入してきた。前にいた人の背広の裾を摘んだが気づかない。指が中で動いている。首がうなだれてしまった。
動物園前駅に着いた。人が降りようとする。私もここで降りなければならない。何事もなかったように人の流れに沿って開く扉に向かう。
指は私の下着を少しずらして、いなくなった。ずらす時に「またね」という感じで下着を引っ張って放した。
携帯電話を鞄から出して手できつく握った。
誰もみていませんように。誰も私の様子が変だとわかりませんように。
歩きながらスカートの上を触ってずれた下着をなおした。
御堂筋線から堺筋線に乗り換えるために、みんなと同じように進む。手なれた感じで階段を下りる。
後ろは振り返られなかった。太くて乾いた指の感触だけがずっと私の体の中に残った。茶色い堺筋線も、紫の阪急線も、外の景色も水色なのか、曇っているのか雨なのか、分からない。すぐに座って、下をむいて髪の毛を触っていた。女の子の声が聴こえなくなったので、ここが降りる駅だと釣られて降りた。
学校に着いてもそのことばかり考えていて時間が過ぎるのが早く感じた。ユイコに言おうかなとおもったが、浮かれているような気がして言えなかった。帰りの電車は女の人がいるところに寄っていった。下着は汚いものに感じて帰りに新しい下着を三枚買った。ピンクと黄色の派手な水玉模様と、黒いレースと赤い下着を親に内緒で買った。
家に着いても今日の朝の事を考えてしまうのでイヤホンで耳を塞いで、自分からも塞いだ。明日は、普通に、何もない一日になる。いつも通り学校に行って、ユイコと少し話して終わる。いつも通り部屋でタンゴの曲を流し、聴きながら、『アディオスノニーノ』と『想いのとどく日』を聴くころには落ち着いたのか、耳に栓をしたまま眠りに着いた。
いつもの電車に乗るのは嫌だったが、早く行ったり、遅く行ったりすると、指の人に負けた気がするのでいつも通りに乗ろうと思った。毎日の風景。階段を下りていくと、視線をまた感じた。
こっちを見ている。自意識過剰になるのは嫌なので横目で確認した。
見ているのはスーツを着た男のおじさんだった。お父さんよりもずっと禿げていて丸い。メガネで目が見えない、見たくない。
まだこっちを見ている。
背を向けていても感じる。背中が熱くなっていく。電車がきたので乗り込むと後ろにその人が乗り込んでくるのが分かった。乗り込むと同時に私の腰を掴む。後から人が沢山流れてくるので誰もきづかない。
おじさんは私の腰を掴んで後ろにぴったりとくっついている。
『次は動物園前です』
いつもと同じようにアナウンスされると同時に電車が揺れる、と勢いよくおじさんは指をいれてきた。おじさん、と呼ぶのが嫌になってくるので、ここから気持ち悪い人に名前を変える。
そいつは私の中に入って来た。
私は汚いと思った。
私は、これがよく皆がいうてる穴かぁと思った。見たことはあっても、入ってくるときはこういう感覚になるんだなぁと、本当に思っていることとは違う、意識を少しずらした。自分でかわいそうだとは思いたくなかった。誰かが気づいた人が、可哀想だと思ってくれたらいい。
動物園前に着いた。
下着をまた少しずらされた。
降りるときに下着を引っ張られた。誰かにみられたかもしれない。見た人は私の事を可哀想だと思っただろうか。
一歩一歩、前を歩きながら、一歩一歩、歩くのをやめたかった。けれど歩かないと、誰かに見られてるし気持ち悪い人がこっちをずっとみているかもしれない。そいつは、それを眺めるのを楽しんでいるんだ。止まると負ける。
歩いて、何も無かったことにするしかない。私は、電車に乗り換えている皆と変わらない一般の女子高生です。たいしてかわいくない、目立たない人です。誰か、気づいても、私を見ないで。私に誰も関心をもたないで。
学校の門をくぐり、私は教室に着いてから直ぐにスカートの下にジャージを穿いた。この時期の教室は寒いから大抵の子はジャージを穿いて寒さをしのぐ。先生も何も言わない普通の光景。ユイコがもう教室に来ていた。
「おはよう」
窓際にいるユイコの座っている席までいって、おはよう、と告げた。ユイコがこっちを見上げる。
黒髪のボブヘアの前髪から見える目がとても澄んでいる。私を見るユイコの顔をみて、さらにほっとしてしまった。今日も可愛いなぁユイコは。
「おはよ。今日ジャージはいてるやん。さむいん?」
「うん、まぁ。ってか今日はさむくない?」
いつもと変わらない会話ができて、ユイコに今日の事をいおうと思った。
「なぁ」
こっちを見ている。まっすぐ、優しく私をみている。
「あんなぁ、今日なぁ」
言いかけては止まる。ゆっくり落ちついてしゃべらんと。
「今日、っていうか昨日もやってんけど、電車で、さ」
うん、といってまっていてくれてる。私の言葉で伝わるだろうか。ユイコは何をおもうだろうか、言葉が詰まる。
「勘違いかもしれないんやけど、私の」
と言って私は黙ってしまった。こうなると一言も言えない。あ、う、となってしまう。それを察したのかユイコは、
「授業中に手紙でも書いてよ。メールでもいいけど、手紙の方がいいわ」
と言ってくれた。
四時間目の授業が終わっても手紙もメールもユイコに渡すことはなく、いつも通り一つの机に椅子を並べてお弁当を食べた。今日は私もおかあさんがつくったお弁当だ。妹が遠足だからついでに詰めてくれた。ユイコは相変わらず冷凍食品が詰まったお弁当。ユイコが窓の外の景色を見ながら言った。
「春になったら前の芝生でお昼ご飯たべよう」
枯れている芝生の校庭は春になれば青々と茂っている。芝生と虫の匂いを鼻が思い出して匂いを嗅いだ気になった。そうだなぁもうすぐ三年やもんね、もうその前に春休み。あ、もう気持ち悪い人に会わなくて済むやんか。その前に三年を送る会、やなぁ。ってかもう、早く休みになればいいのに。そんなことを頭で考えながら私は、
「そうやねぇ」
といった。
六時間目が過ぎて掃除当番だったのでユイコは先に帰った。結局言えずに私は帰宅した。
淀川の鳩がいないときは気持ちをぶつける相手がいないので淋しい。吐く息が窓にかかって白くなっていく。流れていく景色を見ながら、私だけはそこに止まっているような気がした。懲役三年どころか、十年、誰からでも若いといわれる歳まで、私はずっと新しい懲罰をうけなければいけないのか、と真っ暗になった。
ユイコにもお母さんにも言えないが、試験休みになるまで気持ち悪いひとは毎日私の中に入ってきていた。階段を下りるときから、顔はみえないがいるのは分かった。私に突き刺さる、そこにいきたい、早く触れたい、という相手の気が私に毎朝絡まろうとする。階段を降りながらそれは、私の顔色を窺った。大きな黒い塊。私は下しか見られない。黄色い点字ブロックを見るしかできない。もう人ごみに立つころには私の後ろで絡まっている
抵抗した。
何本か早い電車に乗った事がある。それもしばらくして捕まってしまった。発見された時はお尻を痛いほど掴まれ、終わりには下着が喰い込むようにされて駅におろされた。怒られている気がして怖くなった。遅い電車に乗った時は、来なかった。そうすると私の出席日数が遅刻だらけになってしまう。けどそれでもまぁいいやぁ、と思っていたら、帰りの時間に合わせてそいつはいた。幸い、人が少なくて私の中には入ってこなかったけれど、隣にきた。私の手と、そいつの手が触れそうになる。私は咄嗟に腕を組んで手をわきの下に隠すと、脇から少しはみ出た私の指の爪をコツコツ、と音を立てて触って来た。目の前が暗くなっていくのがわかる。中に入られている時より気持ち悪かった。
女性専用車両にも乗ろうと試みた。御堂筋線の専用車両は前から四両目にある。階段を下りてそこの場所にたどり着くには距離があった。その間に、さりげなく腕を掴まれて専用車両じゃないひとつ前の男の人だらけの車両に乗らされた。そこでは確実に誰かに見られていた。車両の中で視線を感じ、降りても、誰も声をかけるどころか、私の顔を正面から覗き込んだ。誰も私を可哀想だとは思ってくれなかったのか。
ある時に私と気持ち悪い人の間に、女の人が入って来た。私はこの女の人が触られればいい、と思って気持ち悪い人がどうするのか見ていた。そいつは私に見せつけるように女の人の胸をもんでいた。女の人が抵抗して肘を立てたり、後ろを向こうとしている。こうして抵抗するんや、と私は勉強になるな、と思う。そいつはしぶとくブラウスのボタンを外して、ブラジャーが見えた。女の人は諦めたのか抵抗しない。女の人が私の視線に気づいた。私は目をそらしてしまった。駅に降りるときに、そいつは私のお尻を強く掴んだ。お前のほうがいいんだ、と言われた気がした。
地下鉄に張ってある痴漢防止のポスターが何も意味がないこともわかった。勇気をだせない。勇気をだして、何に発信するのだ。駅長室に行って、話をして、そいつが捕まり、家族に知られ、家族に可哀想だと思われ、学校にも知られ、担任の先生にも知られ、目立つ存在になりたくない。そいつが刑を終えて私を再び見つけたら、殺されるかもしれない。何か良い方法が、あれば、あれば。きっと、もう、無いと思う。
もう慣れてしまった。何をしてもあいつに捕まり、中に入られてしまう。会わなければ怒られてさらにひどい仕打ちをされるかもしれない。このことを考えるのも嫌で、疲れてしまった。そうか、これが絶望というのか、と理解した。何も希望が持てない。もうすぐ長い休みだから、気持ち悪い人も飽きてしまって違う人をみつけるだろうと、どこかで思っていた。私より可愛らしくて、大人しそうな人を見つけてその人に夢中になってくれないだろうか。誰かに存在をなすりつけたかった。もう、何もかものタイミングを逃してしまった。ユイコにも、お母さんにも言えない。自分があと少しだけ我慢すれば終わる、最低でも一年。あぁ、たかが一年。そう言い聞かせた。
春休みの間はずっと布団の中で足を動かしたり、起きたら友達と遊びに行くふりをして近くの公園の池を眺めていた。池にいる鳥や亀をみて水音を聴いていた。自分で触った事のない部位をあいつは触っている。今もいないのに、ずっと感触が残っている。手も胸も腰もお尻も中も、あいつの感触しかない。
私の春休みは、会わなくても毎日、そのことで頭が埋め尽くされている。会いたくないのに、思っている。考えたくないのに、よぎる。寝ても醒めてもこの事しかなくて、他の事が何もできていないのが分かっていた。卒業してからの進路の事、将来の事。生活をしていく事、学ぶ事。誰かを想う事、好きになる事。本当の気持ちの事。吐きだす場所が何処にもない。吐く息で言霊になって池が吸収してくれないかな。全部、包み隠さずいうから。
チュロチュロチュロと流れる一定のリズムが心地いい。この池の音を私の吐く息で乱れないかな。池の周りを散歩している笑い声が聴こえると、持ってきた音楽プレイヤーに切り替えてタンゴを聴いた。笑い声も私をみて笑っているわけではないけれど、私が笑われている気になる。みんなから遮断して、目に見えるのは池と亀と鳥の公園の風景、聴こえるのはタンゴ。匂いがするのは冷たい空気と緑の匂い。コンビニで買ったコーラを飲んで、皮膚が感じているのは名前もしらない好きではない人の指の感触。
一曲が終わって次曲が始まる静かな間に、チュロチュロチュロが聴こえてきた。
高校三年生になった。
ユイコとはクラスが違ってしまった。あぁ、三年連続じゃなかったね、と言って微笑みあう。
「ね、ちゃうね。残念。けど、まぁ、また、一緒にお昼たべようや」
「ね、そうだね」
といって別々に違う教室に向かい、別れた。忘れ物した時はユイコに借りられるから楽になったなぁと思った。ユイコのいないクラスになっても私は今まで通り、変わらず、目立たず、そつなく過ごそうと思った。
窮屈だと感じていた学校の中が三年生になると落ち着く場所になっていた。話しかけられたら話すし、聞きたいことがあれば嫌な顔せずに教えてくれる。女ばかりだからか男の子と喋って焼きもち焼かれることもないし、群れたりしない。トイレの手洗い場所が密談の場ではない。一人でいても暗い子だとは誰も思わないし、自分以外に興味がないのか、ほっといてくれている。電車で毎日あう他の学校の誰がかっこいいとか、今つきあっている人の話だとか恋愛話の人と、この三年間を糧にして大学への進路の事を考えている人、部活動に明け暮れている人たち、バイトに一生懸命で掃除当番もせずに帰る人。
私は、ずっと電車に乗りたくなくて、やっと落ち着く場所になった教室に、いてるのが好きな人。ここにいたいから、乗りたくない電車に我慢して乗っている。
まだまだあいつは私の後ろに立っている。
駅のホームに立って待っている。待つといっても三分ぐらいで次の電車がくる。後ろからずっと私を見ている。今日もかぁ、と首をうなだれると首に視線が刺さる。あ、うなじをみてるんやなぁと思う。電車がきて風が吹いて髪が流れる。髪を抑えようとしたときに自分とあいつがうつるので目をそむけた。あいつが笑うのが見えた。この行動もあいつにとってはたまらないのかもしれない。
電車の中ではもう、私という存在は何も無かった。人形であること、動いたり騒いだり抵抗したりしない事。たったの三分間だけなすがまま、されるがままでいること。目を瞑ったりしたら周りの人に気づかれて、可哀想だと思われたり、私がどんな顔をしているか見られたりするだけだ。
指がいつもどおりに中に入ってくる。いつもと同じ動き。同じリズム。中に入ってくるタイミングも同じ。下着をずらして私が人形になるのも、同じ。降りる駅なのもいつもと同じ動物園前。
降ろされて歩きながら下着の位置を器用に戻す。手慣れてきた。あぁ、終わった。歩いて階段を下りるときに声を掛けられた。私と同じ制服を着ていた。
「さきちゃん」
肩を叩かれた。優しいねっとりとした触り方だ。私の名前はそんな名前やったっけ、今。
「うち、同じクラスになった小松やで」
あぁ、見たことあるかも。新しいクラスになって、まだ顔と名前が一致しないけど、この人いたことあるわぁ。まだ通学の移動中なので頭が学校仕様に切り替えがうまくできない。黙っていると小松さんは、
「なぁ、さっき」
あぁ、もしかして。もしかしたら。
「触られてなかった?」
あぁいわないで、もう。
小松さんの口角が上がっていたので、少し笑われたような気がして目の前が重くなった。
私と小松さんは乗り換えの堺筋線の電車に乗らなかった。階段も降りることなく、人の流れの邪魔にならないように道から外れた。見られたのと、恥ずかしいのとで足がもつれて動きづらかった。
「だいじょうぶ? さきちゃん」
引っ張られるように近くのベンチに二人で座った。電車が何度もきては、沢山の人が吐きだされるようにでてくる。
小松さんの顔が見られない、よく見たくない。
左側にいる小松さんは私の顔を覗き込んで言った
「なぁ、きもちよかったん?」
さっきよりも目の前が暗くなる。左側から濃い黒いものがどんどん出てくる。
黒い塊が私の左側から湧いてくる。こういう時なんて言えばいいの、お母さん。
「言いたくないんやったら、いいんやけどさ」
足をブラブラしているみたいだ。暗くて見えないけど私の足元がすうっとする。小松さんは私の腕をきつく掴んだ。私は、どう答えたらいいのか、わからない。私は、気持ちがいいのか、触られているのは私のなのだろうか、この答えがわからない。
「わからん、小松さん。こまつさんのゆうてることが、わからん」
最後まで言うまでに小松さんはもう一度、きつく私の腕を掴んだ。
「痛いわ、小松さん」
「うん」
小松さんという人が悪いのか、良いのかわからない。ただ、見られていたということが、ショックだった。しかもわたしの落ち着く場所にいてる人。丁度よく距離があって、ひとりぼっちでもない場所に私の一番知られたくない事を知っている人がいた。話したくないし、黙ってしまう。
小松さんとその日は一時間目の授業をすっぽかして遅れて一緒に行った。
毎朝、小松さんは私の近くにいた。同じ制服だし、あいつもわかっているだろう。私の後ろにいる小松さんを押しのけて私の後ろを陣取ったりする。
私が小松さんと喋っているときは後ろに立つけれど、なにもしてこないことが分かった。小松さん、ずっといてよ、と思うが彼女はたまに遅刻して毎日一緒の電車に乗ることはない。そういう日はあいつが張り切って私を触る。鞄はもっていないのか、右手で胸を、左手でお尻を力強く触った。
小松さんと毎朝学校にいくので、自然とクラスで喋る人が増えた。彼女は明るく、誰とでも会話が途切れることなく気まずくなく、屈託ない笑顔でいている。友達の多い小松さんは私と二人でいつもお昼ご飯を食べる。移動するときも私と共にいる。帰る時も一緒に帰る。小松さんがいてくれると私はあいつにあわなくて安心して帰れるし、学校にも行けるようになった。
ゴールデンウイークを過ぎた頃夏服に変わる。私はこの学校の夏のセーラー服が好きで、冬服と夏服の両方着てもいい期間になるとすぐに夏服に着替えた。小松さんも夏服が好きらしい。初日にお互い夏服で電車に乗った。私の姿をみて、小松さんが嬉しそうに、
「やっぱりね、この白と青の割合がいいんよね」
と私の制服を指していった。
「私は紺のカーディガンと合わせるんが好きやわ」
他の夏服を着ている生徒を見ていう。半袖のセーラーに紺の長袖カーディガンを着ている生徒が多い。私もその格好をしている。
「この脇腹がちらっと見えるんも可愛いとおもうけどなぁ」
寒いのに素肌を見せる小松さん。
「えー。下品」
ケラケラ笑いあう
「この制服、学校が出来てからずっと同じデザインなんやって」
「すごいな、この服考えた人。何十年たっても変わらず可愛いなんて」
「ね、わたしら卒業してもこれは変えんといてほしいわぁ」
電車の中で、そんな会話をした。淀川の鳩をみるのも忘れるようになっていた。
それでもやっぱり、あいつに制服を汚されたりした。セーラーは二枚あるのでこまめに洗濯をした。洗濯用の石鹸ではなくてベビー石鹸で手洗いをする。泡だらけなのに一枚だけのセーラーを汚れているところがないか丁寧にみて、流して、干して。乾いたあとに赤ちゃんのやさしくなるような匂いが好きだった。
今日は小松さんが遅れると言ったのであいつが後ろからきた。久々だったので電車に乗るのがこわかったが、いざ、いつもの定位置になると怒りが出てきた。抵抗してもいいんじゃないか。この制服を汚されるのも嫌だった。目に見える汚れじゃないけど、触れられるだけで、もう嫌だった。
鞄で抵抗した。
手で押し返された。
端の方に逃げた。ぎゅうぎゅうに詰まった車内でも着実に着いてきた。周りの人たちはなんでこの二人は同じところを移動するのだろうと思っただろう。視線があった。そうしていると動物園前に着いたので降りた。降りるときにスカートを引っ張られたが勝ったような気がした。
遅れてきた小松さんにそのことを話すと、凄いやん、といってくれた。
小松さんが遅れて一緒に行けない日は、私はあいつに抵抗しようと決めて何回か成功した次の日。
小松さんと一緒に電車に乗った。後ろにはあいつがいた。あいつは小松さんをどけて私の前に陣取った。
『次は動物園前、動物園前です』
いつものアナウンスよりまえに大胆に、まわりに見えるように私のスカートを捲りあげた。
周りの人も気づいているが、誰も助けてくれない。小松さんも荒々しい行動にびっくりしているのか見ている。
私。
あいつ。
小松さん。
三人が密着している。私はあいつと向かい合わせになって抱きしめられている。あいつの首の横から小松さんと目が合う。触られている私の顔をみている。いま指が中にはいってきてるんだけど、小松さん。なんで、いつも止めてくれないんだろう。
中に入ってきているのはあいつだけど、目の前にうつるのは小松さん。小松さんに触られているように思えばいいか、なんで、みているだけなの、小松さん。
お腹が痛くなる。あいつは私から指を抜き、私の腰をぎゅっとつかみ、背中も掴み、またきつく抱きしめた。人形みたいやなと思う。お腹が痛い。
あいつの首のあたりが臭い。小松さんは見ている。小松さん、もうすぐ着くけど。
小松さんが私の目を見て口角が上がったような気がした。体が熱くなっていく。笑っているのかな、可哀想だと思っているのかな、小松さん。
あいつの首のところに私の顔がある。ため息という息を吹きかける。思いっきり口を開けてあいつを噛んだ。
うっ、といって私を腕から話した。丁度ドアが開く。沢山の人が降りて、周りの人がこちらを見ているが、私たちのスペースが広くなってたので私はあいつに蹴りを入れた。
不細工に蹴ったと思う。パンツも見られたと思う。あいつはよろめくことは無かった。初めてあいつの顔をみた。
メガネをかけたスーツを着たおじさんだった。
降り際に流し眼であいつの指をみた。
指は濡れているのか光っていた。
小松さんが後から追いかけてきた。
「さきちゃんっ、まって」
と言ったが待たずに振り返らずにさっさと歩いて乗るべき電車より一本早い電車に飛び乗った。小松さんは乗らなかった。私は、ユイコにメールをした。
『今日、学校にきてる? 会いたいから、河原町にいかない? 今から』
ユイコは高槻市の駅で待っていてくれていた。普通列車にのって河原町に行った。
駅で会った時、ほっとしたのと、まっすぐに見つめてくる顔がやっぱり可愛いなぁと思った。
「さきちゃん久しぶりやね」
うん。違うクラスになっても会うって思ってたけど、会わないもんやねって、言いたいけど、言葉がでてくるのが億劫になって頷くだけになる。メールでは言えそうな気がするんだけど、話す言葉が上手く出てこない。文章なら途中で消したり、書き足したりできて、私の意思はわかってもらえるとおもうんだけれど。鼻でする、ため息しかできない。ユイコはそれをわかってくれているのか、電車のなかでも景色を眺めてだまっていてくれる。鼻のため息だけで、私の考えていること全部伝わったらいいのに。感じてくれたらいいのに。私も車窓を眺める。一緒の所をみていたらいいなぁとおもいながら、鼻でため息をついた。
河原町についたからといって、人がまた増えるだけで何も変わらない。同じセーラー服を着ているのが私とユイコの二人だけになるだけだ。
「やっぱり、川にいこうか」
私はユイコを川に連れて行ってまわりと同じように等間隔に座った。日差しがきつくなってきたなぁと頬が感じた。
ユイコは喋らない。
私も喋ろうとはしない。
石を転がしたりするけれど何もしない。
近所の池のチュロチュロチュロという流れる音もしない。
私は、私の思っていることがユイコにちゃんと届くか心配だった。私が選ぶ言葉がもし、大げさに聞こえたらどうしよう。大したことなのに、あまり大したことじゃなかったら、こんなこと話してもおもしろくないよな。
今度は口からため息がでる。ユイコが、そうやわ、といって、
「前から思っててんけど、なんでさきちゃんの夏服良いにおいするん? なんの香水つかってるん?」
といって寝転んだ。
「さきちゃんも、したら。気持ちいいで」
ひっぱられるようにして私も寝転んだ。あぁ、見上げた太陽がまぶしすぎて見えない。横にいるユイコの横顔を見る。満足げに目を瞑っている。私も目を瞑り、もう一度、あぁという。
「な、どうよ」
「うん。なかなかやな」
ユイコが私を見る。
私もユイコを見る。
ユイコがほほ笑む。
照れてしまって私は顔を反対方向に向ける。顔を見ない方が言いやすいかも。
「なぁ」
わたしが言いかけると、ユイコは、
「そっち向いたら聴こえへんねんけど。こっち向いて」
と制服のカーディガンの裾をくいくい引っ張るので、はぁっと息を吐いてユイコの方を向く。ユイコの目は見られないので髪の毛を見ながら喋り出す。
「なぁ、私さぁ。二年の終わりごろからずっと、毎日電車の中で触られててん」
じゃり、という。ユイコが体ごとこっちを向いてきた。髪の毛しか見てないのが視点がずれて、頬が見える。
「一緒のクラスになった子が、来てくれててんけど、それでも止めてくれへんかってん。だんだん、何もできひんのんが腹たって」
息を吸い込む。ゆっくりしゃべらな、聞きとれてないかもしれない。
「今日も、触られててんけど。お腹痛くなってきて。なんか腹たってきて。なんでやろう、なんで私が痛いおもいするんやろうって。今なら、怒れそう、勝てそうって思って」
息を吸い込む。
「で、今やわ。首ちかいし、これ、この首、噛もうかな、噛みたいな、噛めそう、噛めるんちゃうか、噛もうや、私! って頭が急にそうしたらっていうから、噛んだった。臭い首を」
ユイコの顔を見て、白い首をみながら、こんな白い首ならいくらでも噛むのになぁと、首に手が伸びそうになる。
「思いっきり蹴ったった。不細工やったとおもうけど、蹴ったった」
ユイコは私の髪の毛を撫でてくれた。
「わ、わかる? 私は口下手やから、あんまり漫画見たいにしゃべられへんけど」
撫でてくれるユイコが可愛くて私も体ごとユイコの方をむいて髪の毛を撫でた。本当は首を触りたかった。
「ふふふ」
「へへへ」
ユイコはまだ冬服にカーディガンを着ている。
「夏服にせぇへんのん?」
「うん。まだ、寒い時あるかも知らへんし。私は冬服の方が好きやし……。さきちゃんは、夏服になるのいつも、早いよね」
いつも、毎年、見てたんやなぁ、知ってたんやなぁと思う。
「あ、これ、制服、夏はベビー石鹸で手洗いしてるねん。これはベビー石鹸のにおいやで」
「良いにおいやわって、思っててん。けど真似したらあかんやろう」
「いいよ、してよ。同じ匂い、しよう」
くんくんと嗅いでくる。いややわ、こそばい、犬みたい。といってケラケラ笑う。私もユイコの制服をくんくん嗅ぐ。カーディガンせんたくしいやと言って笑う。笑い合う。
チュロチュロとは聴こえないけど、私たちの声は水の音みたいに心地よかった。
次の日から一人で学校にいき、あいつも後ろに並んだりはしなかった。なんだ、そんなものだったのか、私に対する気持ちは、と思った。それだけの人だったんだ、そう思えたら、思えたことが、体を楽にしてくれた。階段を下りるときと、電車が揺れる時はまだ怖い。小松さんには一人の方が楽だから、たまたま会ったら一緒にいこうと、言った。
私はクラスで独りでいる。
誰も可哀想だとかは言わないし、思っていないと思う。最初からみんなはそんな風に思っていなかったんだと気付いた。休み時間になれば喋りたかったら、誰かと喋るし、小松さんとも適当に喋る。
ただ、毎日ユイコとお昼時間を過ごす。ユイコと一緒にお昼ご飯を食べる。ユイコの教室だったり、私の教室だったりする。外の空気が気持ちいいときは校庭の芝生の上で、コンビニで買ったとろろそばと、冷凍食品ばかりで埋め尽くされたお弁当を並べて、寝転がったり、クラスでの出来事で笑ったり、一緒にタンゴの音楽を聴きながら一緒にいる。強い日差しと、青々としている空をみて、もう夏がきたなと、最後の夏が来たと思う。芝生の匂いと私たちの石鹸匂いがずっと続いたらいいのになぁと思いながら。
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