小さな喫茶店だ。艶やかな木製のカウンターが厨房の前半分をカーブしながら囲んでいる。だが、客の座るところはそこしかない。
カウンターには私の他にもうひとり、女の客がいる。私はカウンターの端からその女の方を見た。女は三十五、六歳だろうか。髪の毛のウエーブが窓からの光で美しく輝いている。
あの女に間違いない。予想通りだ。女はこの喫茶店によく来ている。近くにあるお店にでも勤めていて、遅い昼食をとるためにやってきているのだ。いつもサンドイッチを食べている。今日、私は、彼女がここに来る時刻を見計らってやって来た。私は仕事を失ったのでいつも暇だ。だから来たい時に来られる。
私は先頃まで私立学校の教師をしていた。だが、そこを首になった。自分ではべつにたいした失敗をしでかしたとは思っていない。ちょっとしたミスをしただけだ。
土曜日の午後に写真サークルの会合があり、それが終わった後、二次会で少し酒を飲んで帰る途中、最寄りの駅から自宅までかなりあるので、駅の駐輪場に置いてあった原付に乗って帰ろうとした。スピードは自転車よりもゆっくりだった。ロードバイクに乗った若者は私を嘲笑うように振り向いて追い越していったのだから。それに三百メートルほども走っていなかった。突然、横の路地から小学校低学年ぐらいの女の子が走り出てきて原付に当たった。彼女は路上に転び、すねを擦りむいたようだ。だが、手をうまく使って頭が路上に打ちつけるのを避けた。ただ、おでこのあたりに少し砂が付いた。
女の子は泣きもしなかったし、すぐに立ち上がり、何ともない表情をした。きっと、自分が悪いのだと思ったのに違いない。私はたいしたことはないと考え、ほっとしたのだが、後ろからついてきた母親が携帯ですぐに警察に連絡し、警官がやってきた。いろいろ母親に状況を聞き、間違いないか、と私に念を押し、私が頷くと書類に何かを書き入れていた。母親はこの人、お酒の臭いがする、それをぜひ調べて欲しいと言った。警官は検査をし、陽性反応が出た。酒を飲んだら原付でも乗ったらいけないことぐらいわかっているだろう、と警官は居丈高に言った。少女の母親は私を睨み付けた。困ったことになった、と思った。 警官は、免許証を見ながら、住所は何処の、年齢はいくつのと尋ね、それをまた書類に書き入れた。
職業は? と尋ねた。私は、思わず学校の教師だと言ってしまった。どこの? と尋ね、私は正直に学校名を答えた。すると母親は、突然、いきりたち、そんなの信じられない。子供の命を守るべき教師が酔っぱらい運転で子供にけがをさせるなんて許せない、と怒りのこもった眼で私を睨んだ。絶対、週明けには教育委員会にも学校長にも言いに行くと言った。全く、正義の味方をしているといった自信満々の顔付きだった。教育委員会はだめです。私のところは私学ですから、と言うと、じゃ、理事長に言いに行くと声を荒げた。何度も謝り、治療費や何かは全部負担しますから何とか穏便に済ませていただけませんかと頼んだのだがだめだった。
原付に乗るとき、ちょっとは躊躇したのだが、これまでそれに乗っていて警官に呼び止められたことはなかった。ゆっくり走れば絶対大丈夫だろう、とたかをくくったのがいけなかった。
結局、理事長や学校長にも知れ渡り、酒気おび運転で人身事故を起こし、学校の名誉を著しく傷つけたということで依願退職という形で処理された。
十年ほど前までは、この程度のことで、教師が辞めなければならないなどということはなかった。ちょっとした注意を受けるだけですんだ。ところが、最近、世論の動向もあって、飲酒運転がやたら厳しくなった。それに、学校側としては、ちょうどいい時期に事故を起こしてくれたものだと、喜んだのに違いない。学校側は、小学部を縮小し、中・高一貫教育の進学校に衣替えをしようと考えているのだ。すでに、その方針で、小学校が一学年五学級編成のところを、新入生から三学級編成に減らした。そのぶん、中学校の募集人員を増やすことになったのだ。小学部から中学部へ上がる子供は、中学校からの入試でとった子供よりも成績が悪い。中・高校部の教師から、小学部を減らして、そのぶん、中学・高校を充実した方がいいという意見が強く出され、理事会でもそれが了承され、小学部を縮小しだしたのだ。それで、小学校の教師の半数近くが不要となり、中・高の免許状を持っている教師は、中・高校部へ異動させられたのだが、私のように小学校の免許のみの人間は扱いに困っていた。それに、年齢も高い、評判もあまり芳しくないというのだから何とか辞めさせたいと思うのも無理はない。また、実際、五十歳を越えると、小学校の現場は体力的にはかなりきつくなる。
私もそれをひどく感じていた。だから、学校側から、処分の打診があったとき、それでいいと受け入れた。組合の先生から、何とか抵抗してみましょうかという話があったのだが、それは断った。
すでに三十年近く、教師を自分なりに一生懸命やってきた。同じようなことを三十年もよくやれたものだと自分でも感心するくらいだ。教師は、新卒一年目でも、三十年目でも、ほとんど同じ仕事をする。もちろん、毎年、子どもたちの様子も、教えることも、少しは違う。機械的に処理できる仕事ではない。また、歳がいけば何々主任とか何々部長とか言われて雑用も多くなる。だが、中心の業務は、年齢に関係なく同じだ。それに、一年サークルで同じようなことが回ってくる。
仕事を辞めたとき、もう仕事はいい、もっと違ったことをやりたい、と思った。経済的には何とかなる。幸い、十数年前に死んだ父親が、貸し店舗を数件残してくれた。認知症で施設に入っていた母親の費用にその大部分を充てていたのだが、母親も一年前に亡くなった。今は全額私の懐に入ってくる。といっても、安い賃料で貸しているので、たいした額ではない。しかし、少々の貯金もあるし、退職金もある。一人暮らしなので、それだけでかろうじて食っていける。もちろん、今までよりもそうとう節約しなければならないことは致し方がない。
一人暮らしをしていると言ったが、以前、結婚をしていた。だが、妻は姑との折り合いが悪く、子供を一人連れて出て行った。母親と同居したのが悪かった。妻や息子と別れてすでに十数年になる。養育費も払う必要がなくなった。
仕事を辞めて二、三ヶ月は、解放されたような気分になり、毎日が楽しかった。朝、公園へ散歩に出かけ、喫茶店に入って、ゆったりとした時間を過ごすことが楽しかった。こういう生活を一度やってみたいと思っていたのだから。昼からは、スポーツジムのプールへ行って泳いだ。それも楽しかった。
だが、半年を過ぎるころ、突然、それがまったくくだらないことに思えてきた。プールで泳いでいても、これがいったい何になる、と思うと、行く気がしなくなった。散歩も同じことだ。こんなことをしていてはだめだ、と焦りに近い気持ちが出てくるのだが何をしたらいいのかがわからない。落ち込んでいる日々が多くなった。
だが、今は違う。気分がほんの少しだが高揚している。
喫茶店のカウンターに座っている女はサンドイッチを食べ終わり、コーヒーをゆっくりと飲みはじめた。話しかけるなら今しかない。私は、自分の席を少しだけ彼女の方へずらした。
「ねえ、昨日、駅の近くの交差点のところでお逢いしましたね」
私は、少し声を大きくして言った。私はそれを言いたくて、彼女の来るのを見計らってきたのだ。
女は少し首を傾け、私をじっと見た。鼻筋が通っていて、ちらっと見える首筋もまだ乳白色で艶っぽさを漂わせている。
「こんにちは、って挨拶したら、あなたもこんにちはって答えてくれたでしょう。ちょうど『カナリヤスーパー』の前の交差点のところで」
女はますます強く私を見つめるが、首を傾けている。
「覚えはありませんわ」
私を見る目が警戒の眼に変わった。私は少し慌てる。
「でも、あの辺りに行かれたでしょう。そうだな、夕方の五時半ごろ」
「ええ、まあ。でも『カナリヤスーパー』へは行っていません。だからその交差点を渡ったかどうか?」
「確か、あなただったと思いますよ。間違いありません」
「そうですか。それはどうも。でも私、全く記憶にありませんわ」
女はそう言うと、私を無視するかのようにコーヒーの残りを飲み始めた。もう、話しかけてくれるなという合図だ。私も彼女から目を離し、コーヒーを飲み始めた。何だか、軽いショックを受けた。私と出会ったことも、挨拶をしたことも、彼女の記憶にはまったくないと言う。彼女とは、口をきいたことはないが、この喫茶店でしょっちゅう顔を合わしていた。だが、それも彼女の記憶にはない。まったく、彼女にとっては私は存在しないのと同じことだ。
すると、三日前、これとよく似た出来事が二つ連続して起こったことを思い出した。
ちょっと読みたい本が出来たので、図書館へ行った。本を探しだし、カウンターへ持っていき、カードを出した。若い女性の館員がカードを器械に差し入れた。ああ、このカード、期限が切れています。新しいのをお作りいたしますので、身分を証明するものを何かお持ちですか、と尋ねた。私は財布を取り出し、中を探した。何もない。身分証明書は学校に返したし、保険証も家に置いてある。免許証も持っていない。
銀行のキャッシュカードを出し、これでどうでしょうか、と尋ねたが、それは通用しません、と言った。どんなものならいいのですか、と言うと、免許証とか、保険証とか、パスポートとか、と言った。保険証やパスポートなど持ち歩いている人はいませんよ、と言うと、みなさん、免許証をお見せになります、と言った。私は車には今は乗れませんので免許証は持っていません、と言うと、何もお持ちではないのですか、申し訳ありませんが、カードをお作りすることが出来ません、と言った。日本国籍のものが日本でパスポートがいるなどとは思いも寄らなかった。仕方がないのであきらめて図書館を出た。
何だか自分が何者でもないと言われたようで、厚い雲が心の中を覆いつくしたような感じがした。
帰りの駅に向かって歩いていると、半年前まで勤めていた学校の中学部の教師が交差点のところで佇んでいた。同学部ではなく、同じ研究部でもなかったので、それに年も彼の方がずっと若かったので、親しくはなかった。それでも、同じ学校にいたのだから、いろんなところで顔を合わせている。
私は、やあ、こんにちは、と言った。相手はちらっと私を見たが、まったく知らない人を見たような表情をした。怪訝な顔付きさえした。ちょうどその時、信号が変わったので、相手は私から目をそらし、何も言わず、向こう側へ渡ってしまった。
あの野郎、先輩が挨拶をしているのに、返事もしないで、と腹が立った。まるで、私などまったく記憶にないといった感じだった。
やっぱり、仕事をしないとだめか、と思った。仕事をしないまでも、何かをやらないと、社会から抹殺される。家でただぶらぶらしているような人間は大嫌い、そんなの死んだ人間とおんな同じよ、死臭が漂ってくるわ、と、以前、妻の恵子が何もしないで家にいる母親をなじって、そう言っていたことを思い出した。今の私は、以前の母親と同じだ。もし、恵子がいたならば、私に同じことを言ったに違いない。
だが、そう思ってみても、私はやはり働きたくなかった。何もしたくはない。
働くのが何故いやなのか? 自分でもわからない。きっと、元来、怠け者なのだ。勤めを辞めるとき、これで、心おきなく趣味の写真が撮れる。被写体が最もはえる時刻を見計らって撮りに行ける。プロと同じ条件で撮れると思った。だが、いつでも撮りに行けると思うと、撮る意欲が湧いてこなくなった。働いているときは、休日を待ちかねたようにして、カメラを提げて、いろんなところへ出かけたのに、何ということだ。
いや、それはちょっと違うかもしれない。カメラを始めてからすでに十五年は経つ。ところが、先日、投稿したカメラ雑誌の作品募集に同じクラブの、まだ、写歴五年目の若い女性が入選し、私は見事に落選した。これはどういうことだ、私はがっくりとした。以後、急にカメラにも興味を失った。あんなものに、何故、熱中したのか不思議なくらいだ。カメラ雑誌社にとっては私の写真など紙くず同然だ。だとすると、それを撮っている自分もまた、彼らにとってはまったく紙くず同然なのだ。
嫌に、悲観的なことばかりが浮かんでくる。苛つきさえ起こる。何に苛ついているのか? こんなゆったりとした生活をしているのに。
女はすでにいない。出て行くところを見届けたかったが、考え事をしている間に、店を出て行ってしまった。彼女は、もう、この喫茶店には来ないかもしれない。いや、きっと来るだろう。だが、来たら困る。私の今日のことが何ら彼女の行動に影響を及ぼさなかったということだ。来なければ来ないで、やはり私が目障りになったということだ。どちらも嫌だ。どちらであっても好ましくない。
店を出た。十月中旬のやわらかな日和で歩くにはもってこいの季節なのに、私には行くところがない。行きたいと思うところもない。
仕方がないので、喫茶店を出てからいつもの道を歩いた。辺りの様子はよくわかっている。だが、今日は少し奇妙な気がする。何だか辺りが白っぽい。空にしたって、雲がほとんどないのに、青くはない。黄砂にでも覆われているような空だ。道路の向こう側にあるスーパーの黄色い壁も少し白っぽい。その横の褐色のマンションもいつもの鮮やかな褐色ではなく、白色にくすんだ褐色だ。白内障にでもなったのだろうか。
歩道もまた薄汚れていた。そこに、灰色の拳大の石が落ちている。いや、石ではなく脇の分離壁のコンクリートの破片がこぼれ落ちたのかもしれない。
私は、突然、それを蹴りたくなった。足を上げ、それを思いっきり蹴った。途端、石は小犬になった。キャンという声とともに綱が引きちぎられ、子犬はサッカーボールのように宙に飛び、路上に叩きつけられた。小犬の眼から血が吹き出して路上を黒くした。何をするのですか、と女性の悲鳴が聞こえた。
途端、私は我に返った。足下や小犬が落ちた辺りを見たが、石も小犬もなかった。ただ、何かを蹴る仕草をしたことだけは確かだった。その感覚はあった。
車が歩道近くをスピードを上げて走っていく。排気ガスを含んだ生暖かい空気が鼻腔を打つ。急いでいるのか、スラックスにハイヒールの女性が私を押しのけて歩いていく。気分が悪い。歩道からどこかへ非難したくなる。
右側を見ると、ちょうどホームセンターがあった。このセンターには来たことがないが、前を歩いていた何人かがそこへ入っていく。私もつられて中へ入った。
中は大きな倉庫のようで、いろんな物が置かれていた。土曜日の昼下がりということで、人も多い。大きなワゴンにいっぱい物を入れて、人々は歩いている。しかし、楽しそうな表情をしている人は少ない。みんな沈んだ顔をしている。自分が沈んでいるので他人までそう見えるのか、百貨店や繁華街の客のほうがよほど晴れやかな顔付きをしている。
私には別に買うものなどない。場違いな場所へ迷い込んだといった気がした。ただ、ぶらぶらと歩いているだけだ。
花の苗売場から、犬猫用品の売場を通り、文房具売場、電気製品売場を通り、家具類売場へとやってきた。その向こうに、台所用品売場、さらにその奥には日曜大工、工具類売場が見えた。
一人の少年が左側の通路から突然に現れ、台所用品売場の方へと曲がった。少年と言っても十三、四歳ぐらい、中学生か。制服なのだろう紺のブレザーを着ている。だが、鞄は持っていない。少年と台所用品売場、ちょっと取り合わせが妙だ。それに、今日は土曜日だとはいえ、昼下がり、コンビニならともかく、少年がひとりでホームセンターをうろついているのも奇異に感じて、私は少し興味が湧いた。
こんなことでもおもしろいと思わない限り、おもしろいことなど何ひとつない。
少年は台所用品売場の奥で立ち止まっている。私は、家具売り場の端から彼を見つめる。台所用品売場の手前は、フライパンや鍋ややかんなどが棚につり下げられている。その向こうに、茶碗なども小さく見える。きっと、箸なども置かれているのだろう。我が家にあるものばかりで、見る気もしない。もし、それらがなければ、野菜を煮ることも、ご飯を盛ることも、お茶を沸かすことも出来ないのだが、見ていると苛立つ。
少年は台所用品の棚を見つめていたが、突然、何かを素早くポケットに入れた。買う物を見つけて、それをレジまでポケットに入れたのか、それとも……。少年は歩き出す。すぐに棚の向こう側へ行き、見えなくなる。
私は、少年が立ち止まっていたところへ急いで行き、その前に立つ。前には、ナイフや包丁が薄いプラスチック製の箱に入れられてつり下げられている。
少年は、母親にでも頼まれ、包丁でも買いにきたのだろうか? それとも、何か、ナイフの要ることが起こったのか?
ステンレスの刃が上からの蛍光灯で、白色にきらめいている。大きな出刃包丁がずっしりとした感じでぶら下がっている。ただ見ているだけなのに緊張する。大根を切り刻むように、人間の腕さえも切り刻めそうな気がする。小型のペティナイフもある。小さいが鋭い感じがする。
私は、すぐに少年のことよりもナイフの方に心が移った。
少年時代、ナイフを持っている友だちがいた。彼のナイフは柄の中に三種類ものナイフが折りたたまれていた。今で言えば、トレッキングナイフのようなものだ。友人はそれを持っているというだけでクラスのヒーローになれた。あいつ、凄いものを持っているとみんなが言い合った。学校にはナイフなど持ってきてはいけないことになっていたのだが、彼は大きな袋の中にそれを入れ、その袋を鞄の横に堂々と吊していた。私は一度、彼のナイフを持たせてもらったことがあった。ずっしりとした重さが肩にまで感じた。折りたたまれたナイフを引き出すと、刃が銀色に光った。私も欲しい、と思った。もしそれを持っていれば私を弱虫と思っている級友たちの考えを覆すことができるのに。だけど、父も母も絶対そんな物を買ってくれるはずがないとわかっていた。
私は、意識を記憶から現実に戻し、再びペティナイフを見た。するとそれが欲しくなった。家にも果物ナイフがあるのに、つり下げられているナイフの方がはるかに強力で鋭く見えた。果物の皮に刃を軽く当てただけで二つにすっと切れそうだった。家のナイフなどあれはナイフではなく、ただの鉄の塊に過ぎない。ナイフの先にはプラスティックの蓋がついているのも気に入った。刃の先が鋭くて危ないからだ。
ナイフを止め釘から外した。少年時代の欲求がようやく実現されたような気がした。
と、先程の少年の姿が再び思い浮かんだ。そうだ、彼もきっとこれを持ち去ったのに違いない。彼が手を伸ばしたのは、ここの場所だった。彼もきっとこの鋭さとこの美しさに魅せられたのだ。
私は、ナイフの箱を握りながら、慌ててレジの方へと小走りに行った。レジは三箇所あったが、少年は見えなかった。
金を払って出口へと向かい、出口のところで箱からナイフを取り出し、箱をゴミ箱に捨てた。ナイフを眼前へ持ってきてぐるぐると回すと、蛍光灯の光が水しぶきのように散った。刃のところをそっと撫でた。すべすべしていて今にも指先が切れそうで、痛いような感覚が腕に伝わった。
ホームセンター前の道に出ると、すぐ前を主婦風の女が通り、私の方を振り返り、眉間を縮めて、不思議そうな表情をする。私は再びナイフに触れる。いいじゃないか、このナイフ、と思う。
辺りを見回す。やはり少年の姿はない。彼はすでにホームセンターを離れたのだろう。きっと賑やかな方へ行ったのに違いない。私は迷わず、駅の方へと向かった。
ナイフを内ポケットにしまうと、刃が裏地の布を通して胸にあたり、身体全体が緊張した。
歩いていると、また、ナイフの出来事が浮かんでくる。今度は、私が教師で、学校へナイフを持ってきた子供の母親を問い詰めている光景だ。
親御さんの協力がなければ子供は育ちませんよ、と私が言う。時には、子供さんが何を持っているかぐらいは確かめてください、と言う。子供のものを触るとひどく嫌がるものですから、と母親が訴える。
自分の小学生の頃は母親に逆らうなどということはまったくしなかった。だが、あれは間違っていた、と今は思っている。また、親に意見する時もそう思った。だが、思ったことは言わない。まだ、小学生ですから、親は子供の持ち物はしっかり把握しておかなくてはいけませんよ、と言う。すみません、と母親は頷く。もうすぐ中学生ですから、推薦の時、スムーズにいかなければね。公立に替わってくださいなどと、もしも言わなければならなくなったら、たいへんですから。
母親の顔色が変わる。緊張したことがありありとわかる。推薦に影響するでしょうか、と尋ねる。その声はかすれている。母親をこんなふうにしたことに快感と嫌悪感が入り交じる。もし、教室内でナイフを振り回しでもしたら、それこそ大変ですよ、と私は言う。わかりました、よく子供に言い聞かせますから、と母親はさらに青ざめる。
車の警笛が耳元でした。驚いて車の方を見たが、何に警笛を鳴らしたのかわからない。赤い車がかなりのスピードで通り過ぎていった。
また、ナイフのことが気にかかった。上着の上から内ポケット辺りを押さえてみた。ナイフの感触が掌と胸の両方に感じた。いい感じだ。これがもし、ナイフではなく拳銃だったらもっと強い興奮が生じただろう。今度は拳銃が欲しくなった。ネットでモデルガンでも買ってみようか。
突然、肩に鋭い衝撃を覚えた。何だ、この野郎、どかんかい、と横から大声が飛んできた。五分刈りで、目つきの鋭い男が私を睨んでいる。どうも、すれ違いざま、肩が触れたようだ。目つきの鋭い男は、私が謝るのをじっと待っている。いつもなら、そういう人を見ただけで怖じ気づき、すみません、すみません、と頭をぺこぺこ下げるところだが、今日は黙って突っ立っていた。
人に当たっておいて、何や、その態度は、と男は怒った。私は、男を無視して前へ歩き出した。おい、と男は言った。何ですか、と私は振り向いた。何ですかはないやろう、と男はいっそう大声を出した。私は内ポケットに手を入れ、ナイフの柄を握った。まずいな、これは、と思った。慌てて柄から手を離したが手は内ポケットに入れたままだった。
私から当たったのなら謝りますよ、と言った。下ばかり向いて前を見てなかったやないか、と男は言った。私は無言で彼を睨みつけた。
自転車に乗った警官が私たちに近づいて来るのが見えた。あっ、警官だ、と私が声をあげた。目つきの鋭い男も警官の方を向いた。男の目が泳いだ。そわそわし出して、慌てて私から目をそらすと、前方へ歩き出した。私も黙って反対方向へと歩き出した。ほんの少し歩いてから後ろを振り返ったが、男はまっすぐ歩いていく。
もし、警官が通らずに、男が執拗に怒りつづけていたら、私はナイフをポケットから取り出していただろうか。まさか、刺しはしないだろう。いや、わからない。彼が殴りかかってきたら刺したかもしれない。
私はポケットからナイフを取り出した。刃の先のキャップを外し、歩きながら鋭い先端と切れそうな刃の銀色を眺めた。何かを刺してみたくなった。刺すものは何かないか? 私は歩きながら、刺すものを探したが、何も見つからなかった。
かなり以前、私は、どこかの道でナイフを振り回して大声を上げながらみんなに襲いかかっている夢を見たことがある。あれはまだ働きだして間のない頃のことだった。
今、ナイフで何かを思い切り刺せば、すっとして、心が落ち着くに違いない。何かを刺してみたい。再び、周りを見回すが、あるものといえば、電柱の脇に積まれている白いゴミ袋だけだ。だが、ゴミ袋を刺す気にはなれない。あれはカラスの領域だ。
苛立ちがいっそう膨れあがる。先程、肩に当たっておきながら、居丈高に私に怒鳴った男の顔がちらつく。あの野郎、私は、手に持ったナイフを少し上げながら、口の中で叫ぶ。彼の眼前にナイフを突き出すと、ナイフはきらりと光る。やるぞ、と怒鳴ると、男は途端に黙って、慌てて立ち去ろうとする。私は、彼の背に叫ぶ。ふざけるな、弱虫の豚やろうめ。
近くを通り過ぎる中年女性が、私の顔をじっとみて頭を少し傾ける。慌てて私はナイフを内ポケットへしまう。
また、黙って歩道を歩きつづける。横に公園の入り口が見える。そこから中を覗くと、中央あたりに藤棚があり、その下のベンチに、くすんだ灰色の野球帽を被った日焼けした男が着古した紺色のブレザーを着て、ぼんやりと空を見上げながら座っていた。立ち止まってしばらく彼を眺めていたが全く動く気配がない。彼はホームレスに違いない。この公園の奥には林があって、そこにブルーシートや小さなテントが張られているのを見たことがある。
彼は、ほとんどの時間、ただそうやって座りつづけ、ひたすら死がやってくるのを待ちつづけているのだ。
私はぞっとする。何だか自分を見ているような気がする。私と彼との違いは、ただ、私には家があり、布団があり、眠ることが出来るだけだ。私はこのように歩いていても、座っている彼とたいした違いはない。
苛立ちがまた大きく膨れあがった。甘えるな、何かやることがあるだろう。ボランティアでも何でも、と思う。だが、そんなことをやろうなどという気がまったく起こらない。
公園の横には学校がある。コンクリート三階建ての、少し灰色がかった校舎が道路に面して建っている。どこからかわからないが、子どもたちの声が聞こえる。私は、電車に乗っていても、道を歩いていても、学校があれば、必ず、それに目がとまる。長年、教師をしていた習性がまだ身に染み込んでいるらしい。ふっと、学校での出来事が、また、思い浮かんでくる。
あなたのお子さんは、残念ながら、特進コースへの推薦は出来かねます、と母親に告げている。
親の顔が厳しくなる。恨みのこもった顔だ。学校生活の最終場面で、いつも親たちの悲しげで憎しみのこもった顔に出会わなければならない。私が親に言う。お子さんに適するコースが一番です。それは特進コースではなく、一般コースです。
特進コースへ入れたくて、この学校へ入れたんです。それを今さら行けないなんて。母親は抗議の視線を私に送ってくる。私も出来ればクラス全員を特進コースへ入れたいんですが、学校の方針でそうは行かないんですよ、と力なく言う。中・高校部では、特別進学(特進)コースと一般コースとがあり、入試の時から、分けて取っていた。付属学校からの連絡進学では、特進コースへの推薦枠は小学部六年生の人数の三割だけだ。だから、五クラス合同で四月から数回、テストを行い、その合計点の上から三割を特進コースに推薦することになっている。一組は特進コースへ行ける人が多いんですってね、うちのクラスより四人も多いっていうのは本当ですか、と母親が尋ねる。私は黙っている。その通り、一組は一番多い。次は三組、その次は四組と五組、私のクラスは一番ビリ。子どもたちにハッパをかけるのが弱かったせいか、それとも、私の教え方が一番下手だったのか。
私は、何も無理をして特進コースに行かなくてもいいではないかと心のどこかで思っていた。学校生活を楽しくくらせばそれでいい、と。それがはっきり数字となって現れただけだ。
あの先生はだめ先生、子どもたちも、親たちもそう言っているだろう。やっぱり、競争社会では、競争に勝たなければだめだ。隣の子供、クラスの友達、みんな敵と思え。必死になって、テストでいい成績を上げるよう頑張れ。家庭教師をつけてもらえ、一日、六時間以上寝るな、それより多く寝ているやつは特進コースなんてあきらめろ。私は、そういって励ますべきだった。他の学級の担任はそう言っていたと聞いた。
私は、競争には向かない。競争をすればいつでも何でも負けていた。走りはいつもビリだった。麻雀、パチンコ、将棋、みんな最下位だ。学校の成績だってよくはなかった。
競争社会とは他者とけんかをする社会だ。けんかに勝つことだ。けんかはからっきしだめだった。強そうなやつが側に来ると、いつもびくびくして逃げ腰だった。そんな自分をもうひとりの自分が嘲笑っていた。
嫌なことを思い出した。口の中から水分が消えていく。どこかに自動販売機はないか。お茶でも飲まない限り、口の中が痛い。
駅に向かう歩道橋があるところに来た。歩道橋は高架の駅にまっすぐ繋がっている。人通りもかなりある。私は歩道橋を見上げる。陽がさすと、グリーンの柵がときどき銀色に変わる。ああっ、と思わず声を出す。そこに先程、ホームセンターで見た少年が佇んでいた。彼はじっと、人の来るのを見ている。尋常な見方ではない。餌を狙う豹のような感じだ。何だか心が高ぶる。興奮して身体がほてる。
私は、傍の階段を早足で駆け上がった。息が切れ始めたが、そんなのを無視して登る。上にたどり着いて、少年を見ると、彼は相変わらず、誰かを待つような姿勢でじっと駅の方を凝視している。
少年は、ポケットに手を突っ込んだ。きっと先程ホームセンターで手に入れたナイフの柄を握ったのに違いない。私も左の内ポケットに手を入れ、ナイフの柄を握る。さあ、少年は、これからナイフを取り出すぞ。腕が上がった。きらりと刃物の白さが私の目を打つ。彼は黙って人に近づいていく。彼は人を刺すぞ、悲鳴が上がるぞ。
何をしているんだ、早く彼の所へ行って、彼を止めなければ、と思う。だが、私の足は動かない。むしろ、悲鳴の上がるのを待ち望んでいる。ああ、教師失格だと思う。と同時に、いつまで教師をやっているんだ。お前はもう教師ではないぞ、という声もする。そうだ、私はもう教師などではないのだ。教師失格だったのだ。私は何を考えようと自由だ。
少年はいよいよみんなに向かう姿勢を整えた。ナイフを握り直した。私が何かをやるわけではないのに、私の中に、自分がこの世にいるという手応えを覚えた。さあ、悲鳴が聞こえるぞ。すでに私の心の中では悲鳴が聞こえている。
「やあ、お久しぶりで」
突然、後ろから肩を叩かれた。
お久しぶりで、と聞こえたのに、「いったいどうしたんです。そんな物騒な物に手をかけて」と言われたようで、どきりとし、慌てて内ポケットから手を出した。
振り返ると、先程公園で座っていたホームレスの男が立っていた。だが、公園で見たときとはずいぶん違う。灰色の野球帽、その下のよく焼けた顔、着古してよれよれになった紺色のブレザーに黒いズボン。公園のときと同じだ。だが、近くで見ると、それらはきれいに洗濯され、こざっぱりしている。それに、よく焼けた肌の色も、動作も、何だか生き生きとしている。ひょっとして彼はホームレスではないのかもしれない。
だが、どうして公園の男が私に声をかけてくるのだ。
「お逢いするのは何年ぶりですかな」と公園の男が言う。
「ついつい懐かしくなって、声をかけてしまいました」とも言った。
私は、男を無視して、少年の方を見たが、少年は駅の玄関の方を向きつづけているだけだ。手はだらりと下がっていて、ナイフなど持っていない。どうしたことだ? ただの眼の錯覚ということか。
「まだ、あの花屋の隣の喫茶店へ通っていますか」と後ろから再び声がかかる。
喫茶店? 男の方を向く。男と喫茶店で会っていたのか? じっと、顔を見つめる。
「私も、あそこへはよく行きました。会社への帰りとか、昼飯を食べにとか。あなたは、土、日には昼過ぎ、平日は六時過ぎによくあそこへ行っていたでしょう。私は、土、日にも働いていましたから。今も同じようにあそこへ」
「ああ」と私は答える。
そういえば、見たことがあるような気がする。
男は言う。
「あそこはよかった。何時間粘ってもマスターは文句を言わなかったし、カップを片付けにもこなかったし、マスターは愛想がよく、よく声をかけてくれたし。店はとても落ち着ける雰囲気だった」
男は私の顔から目をそらさないで、懐かしそうな表情をした。
私が、先程、喫茶店で、女に 声をかけたとき、女がまったく私を認知していなかったことにかなりショックを受けたが、私も彼女と同じようなことをしていたということか。女を非難できない。がっかりもできない。人の繋がりとはこんなものか。だが、どうして彼が私を覚えていたのか。
それにしても、このようなよれよれの仕事着のような衣服を着た男はいなかった。このような衣服で彼が来ていたのなら、いくら鈍感な私でも気づいたはずだ。
「今は会いませんね」と私は言う。
「もう、あの近くを通ることがなくなりましたから」と男が答える。
「転勤されたんですか」
「リストラですよ、あなたはもう会社にはいらないと言われました」
「それはどうも、たいへんなことで」と私は言葉につまる。
「そんなことを言われればそりゃこたえましたよ」と男が言う。
「……」何と応えればいいのか、ただ、黙るしかない。
「とにかく、会社の仕事が忙しくって、女性を口説いている暇もなかったものですから、家族はいません。それがせめてもの救いでした」
男の顔には寂しさが走ったが、怒りの表情はない。男はさらにつづける。
「チェーン店組織の安売り酒店の店舗指導員をやっていました。仕事は一生懸命やっていたつもりで、当然、会社は私を認めている、と思いこんでいました。それに、自分にはもっと能力がある。運が向けば業績など飛躍的にのばせるという自信もありました。自分のとらえ方が甘かったというか。期待どおりの業績を上げてはいなかったんですね。ショックでした。一時は、何をする気力もなくなった。それに、仕事を失えばまた新しい仕事をすればいい、と人は簡単に言うでしょうが、人間って、そう簡単にはいかないんですよ。お前はだめな人間だとひと他者から言われれば、そう簡単に立ちなおれませんからね」
男は、そこで表情を厳しくする。じっと私を睨む。何か言いたそうだ。
「ずいぶん変わられたのでわかりませんでした」と私は言う。
「何もかも失いましたからね、仕事も家も。私も変わったが、あなたもかわりましたね」と男は言う。
「顔付きもずいぶん変わられた、何かあったんですか」と男はつづける。
「そんなに変わりましたか」と私は言う。
やっぱり他人にもわかるほど変わったのか?
「ううん、言葉では言いにくいが、とても苛立つているというか、悲しんでいるというか」
男の言葉に心が動揺する。当たっている。でも、いったい何に苛立っているのか、何に悲しんでいるのか? 自分でもわからない。
「私も、あなたと同じように、職を失いました」
私は男に正直に話した。
心の重荷が少し軽くなったような気がした。職を失ったことはまだ誰にも言っていない。男が親しい人間に思えてきた。
そういえば、学校では他の教師達と親しげに語り合っていたが、心の芯から親しいと思えた人は誰もいなかった。みんな競争相手だった。
でも、まてよ、敵でもよかったのかもしれない。相手も私を敵だと思ってくれれば、彼らは少なくとも私の存在を認めていることだ。今は、敵さえもいない。今の方がずっと自分の価値はない。
「かなり参っているようですね。危ないな」と男が言う。
「そんなことはありませんよ」と私は反論する。
確かに苛立ってはいるが、危なくなどない。見損なうな、と思う。
うっすらと額に汗が滲んできた。暑くはないのに汗が出てくる。
「先日、この欄干から、飛び降りたやつがいてね、それも、リストラにあったそうで」
続いて、あなたと同じような顔付きをしていた、と言いたげだった。
汗がまた出てきた。
「そいつは生活に困っていたのでしょう」咄嗟にそう言う。
「いや、当座の金には全く困っていなかったようですよ、退職金もあったし、まだ、失業保険もあったし、子供もみんな独立していたし、ただ、奥さんを病気で数年前になくしていたようだが。危ないんですよ、リストラされて、半年ぐらいたったあとが。私にも経験がありますから。今までやってきたことの全てが否定されたような感じがして」
あなたもきっとそうだと言わんばかりの表情をした。私の顔をじっと見つめながら、男は、気をつけたほうがいいですよ、と言う。
汗が、額だけではなく身体全体から出てきたように思う。
その気持ち、分からないではない。私も、それほど熱心な教師ではなかったが、自分なりに努力はしたつもりだ。その最終結果がこれだ。私のクラスの子供たちも、彼らは彼らなりに努力はしただろう。だが、その最終段階になって、君は一般コースと言われ、時には公立学校へ行ったほうがいいよと言われる。
多くの者は小さいときからすでに挫折を味わわされる。人生とは挫折、挫折の連続かも知れない。
ふっと、またポケットのナイフを触わりたくなった。手を内ポケットへ突っ込むと、指先が刃に触れた。すべすべしているのに、かえって鋭さを感じさせた。
再び、ポケットからナイフを取り出して、何かを刺してみたくなる。ふうと嘆息を漏らし、気持ちを落ち着けた。
男は、公園の中の楠のように悠然としている。何の悩みもなさそうに見える。本当にこいつ、職を失ったのか?
「何か、思いつめているようだな、心配だな」
男は、しばらく私の方を見ながら声を出す。やっぱり、なんとかしなけりゃな、うんうんと、訳のわからない独り言を呟いた。それから、辺りを見回し、ああ、来ている、来ている、よし、と言ってから、私の方を向き、ここで、ちょっと待っていてくれますか、と言うと、慌てて小走りで駅の方へと向かって行った。私は、ただ、彼の後ろ姿を目で追うだけだった。
男の走る先に少年が目に入った。私が追ってきた少年に向かって男は近づいていく。
少年の異常に気づいたのだろうか。少年がナイフで何かをしでかそうとしているのを察知し、それを止めるために走り出したのだろうか。やはり私の予想通りか、もうすぐ、歩道橋の人たちは慌てふためき、驚愕の声を出し、惨劇が始まるぞ。
だが、男は少年に近づくと、彼に向かって何かを喋っている。いかにも親しげである。旧知の間柄のようだ。ときどき、男と少年はこちらを向く。どうも、男は私のこと言っているようだ。少年はさかんに頷いている。
男と少年はこちらに向かって歩いてくる。
「ごめん、ごめん。こいつとここで会う約束をしていたもので。こいつ、私の友だち」
男は少年を紹介した。
「友だちだなんて」少年は日溜まりのような柔らかな声を出して笑う。大勢の通行人が来たので男と少年は彼らの邪魔にならないように柵の方へ寄る。私も彼らの後につづく。
柵から下を覗く。路上までは五メートル以上はある。黒っぽいアスファルトは金属質に光っている。そこを何台もの車が通り過ぎる。
「あぶなかったな、あのときは」男も路上を見おろしながら言う。
「おじさんは、人の心を読む名人なんだ」少年が言う。
「こいつ、ここから飛び降りそうだったんだから」
「かなりやばかったなあ、あのときは」
少年は首を何度も縮めて恥ずかしそうにする。
「でも、おじさんに声をかけられ、ちょっと話しただけなのに、気持ちが何だかすっとして」
その気持ちわかるような気がする。この男と話していると、何となく緊張がとれるというか、苛立ちがおさまるというか。
「あっ、あいつがいる」少年が柵から後ずさりする。
「誰がいるの」私は柵から身を乗り出して歩道の方を眺める。
「先公。生活指導の。いるでしょう。ジャンバーを羽織って、身体の厳つい、がに股野郎が」
白いワイシャツの上に薄ベージュ色のジャンバーを羽織っている男がいる。格闘家のような頑丈な体格だ。顔付きは見えないが、自信満々の顔付きをしていそうだ。
男も、私の後ろから彼を見ている。先公と言われた男がゲームセンターの中を覗き込んだり、ファーストフード店を覗いたりしている。
「自分ところの生徒がいないか見回っているんです。ご苦労なことだ」と男は言う。
先公か、私もつい半月前まではそう呼ばれていた。何だか自分の姿を見ているようで嫌だった。彼もそんなことはやりたくはないだろうに。土曜日だと言うのに、自主的にやっているのだろうか。
「見つかれば、塾をすっぽかしてきたことがばれるよ。きっと親に言うに決まっているから」
「こいつ、今、反抗期さ」男はうれしそうに言う。
私は黙っている。気分が滅入る。あの男は、きっと、少年たちを見張りながら、自分をも見張っているのだ。教師は自分自身で自分を見張らなければならない仕事だ。それに少しでも失敗すると、今度の私みたいになる。
「ようやく、親に反抗できる力がついてきたってところかな」男はさらににこやかになる。
先公と呼ばれた男は、歩道橋には登ってこずに、商店街の歩道をまっすぐ歩いていった。
「さあ、そろそろ行くか」
男は少年に言った。少年はうれしそうに頷く。それから、私を見る。
「ね、おじさんもいっしょに来ない」
「どこへ?」
「ついて来たらわかるよ」少年が言う。
「袖ふれあうも多生の縁だから。いや、それどころか、昔、よく会っていたんですから、こいつもこう言っていることだし」
「へっ、知り合いだったんだ」
少年は私をしげしげと見る。
私もまた、彼らとはまだ離れたくはなかった。それに、彼らがどこへ行くのか知りたかったし、また、私には行く先はない。
彼らは構内に入っていく。私も彼らの後につづく。
「切符を買いなよ。一区間だよ。一区間」と少年が言う。男も少年も切符を買う。
「往復するだけですから、また、この駅に戻って来ますから」と男が切符を買うことを促す。
私たちは駅に入る。向かい側のホームへ列車が着いたのか、大勢の人たちが地下道から上がってきて改札へと向かっていく。男はその人並みに向かって、あれっ、と言う。男の視線の先を見ると、人の群れから少し離れたところから頭の毛が薄くなった男が登ってきた。私を誘った男より少し年齢が上そうに見える。きちっと背広を着込んでいる。私を誘った男は、やあ、お久しぶりです、と髪の薄い男に向かって頭を下げた。髪の薄い男はちらっとこちらを見たが、誰が声を出したのかと訝るような表情をした。それから、すぐに視線をそらし、私を誘った男を無視して歩き出した。お元気で、なによりです、と私を誘った男が再び頭を下げた。だが、髪の薄い男はもうこちらを見ない。我々の横を足早に通り過ぎていく。
「会社の元上司です。あまりに私が変わっていたのでわからなかったようですね」
男は私の方を向いて笑った。まるで楽しいものを見たといった笑いだ。
髪の薄い男のあの仕草は男に気づいている仕草だった。明らかに彼を避けたのだ。
何ということだ。いくら男がもう会社の人ではなくなったといっても、あの態度はひどすぎる。怒りが湧いてくる。だのに、男は何も言わない。ただ、にこやかに笑っている。そんなことに腹を立てたって、何の役にもたたない、と言いたげだ。
私たちは電車に乗り、二、三の駅でおりた。彼らはゴミ箱に手を突っ込み、漫画の雑誌や週刊誌を拾い上げては袋に入れた。私は驚きながら横でそれを眺めていた。彼はやっぱりホームレスだったのだ。でも、ただのホームレスではなさそうだ。それに、拾った漫画や週刊誌は、いったい、どうするつもりだろうか。
私たちは乗った駅よりもさらに一回り大きな駅で降りた。そこは都心に近い駅だった。多くの乗客たちが乗り降りしていた。
「あそこだっけ」と男が言う。
男と少年は大きなゴミ入れの前に立つ。少年は辺りを見回している。
「大丈夫です。駅員さんはいません」と少年が言う。
男はゴミ入れの前で一瞬、合掌をした。それほど深くはないが、丁寧なお辞儀だった。変なことをするものだ。だが、彼は何かに似ているな、と思う。どこかで見たような気がする。
男はゴミ箱に手を入れ、分厚い漫画本の雑誌や文庫本の漫画を取り出す。
「かなりあるな」
少年はそう言いながら、大きなエコバッグを用意していて、その中に一冊一冊を丁寧に入れた。
「さあ、あなたもやってみて。まだまだあるから」
男は突然に私にそうすることを促した。それはかなりきつい表情だった。でも、またやさしい表情にも見えた。
ゴミ箱に手を入れるなんて、とてもできない。私を知っている誰かが見ているかもしれないではないか。例えば、卒業生やかつての保護者が。
「やってみなよ、おじさん」と、少年は少し得意げに言う。
私はただ好奇心で彼らについてきただけだ。ゴミ箱に手を入れるなんてとんでもない。
私は首を振る。なぜ私がそれをやらなけりゃならないのか。私にホームレスにでもなれと言うのか。
男は軽い溜息をつく。
「あなたは、以前、何をされていたかは知りませんが、もうそんな世界には住んではいないんですよ」と男はさらにきつい調子で言う。
確かに、私は教師をしていた。でも、それは半年以上も前に辞めた。私はもう自由の身だ。言われないでもそんなことはわかっている。
でも、待てよ、と私は思う。私は今先程、卒業生が見ているではないか、以前の保護者が見ているではないかと思った。これって、私はまだ教師をしているということではないのか?
「あなたも住む世界を変えなければね」と、男はつづけて言う。
「住む世界?」
「まだ、以前の世界に居つづけていますよ」
「以前の世界って」
「新聞や雑誌を捨てる側の世界ですよ」
彼の言葉が、いやに心に響く。
「漫画本が一番いい値がつくんだ」と少年が言う。
突然、私が、内ポケットからナイフを取りだし、それを自分の胸に突きつけている光景が思い浮かぶ。教師の縛りなど、早く断ち切れ、とナイフを持っている自分が自分に言う。
「一度、別の世界へ出てみるのもいいものですよ」と、男は私を見て微笑む。
勇気がないのかね、たったそれだけのことをする、とナイフを突きつけている自分がもうひとりの自分に言う。
ゴミ箱に手を突っ込むなんてたいしたことではないじゃないか、と私は思う。
「私は、今じゃ、リストラされたことがかえってありがたいと思っていますよ。自分の力だけじゃ、なかなかこうもいかなかったから」と男がつづける。
何となく心がなごみ、ナイフの光景が消える。
「さあ、やってみましょうよ」と男が言う。
「やってみなよ、おじさん」と少年も言う。
こんなことぐらい難無くやらなければ、と私は思う。私はもう教師ではない。
ゴミ箱の上に身を倒す。と、自然と蓋の穴に腕が入り、それが下に落ちた。
中はひんやりとしていた。冷気が身を軽く震わせた。それに、手が入っただけなのに身全体が箱の中へ入っていくような錯覚を覚えた。更に手を奥に入れると、腕や掌から周りの雰囲気を感じることができた。暗闇の中で用済みになったものたちがうごめいていた。それは明らかに自分に似たものたちの世界だ。死者の世界と言っていい。だが、強い実在感はあった。手を入れていると、苛立ちが自然と消えていく。
底にあるものを掴もうとさらに奥まで腕を入れたが、何にも触れられずに、ただ空気を掴んだだけなのに、強い手応えを覚えた。
もっと深く腕を入れて、と少年が言う。ようやく底にあった文庫本を掴むことができた。取り出して少年に渡し、さらにまた手を入れ、今度は大きな漫画本を取り出した。手を入れるとき、心のどこかが崩れていくのを覚えた。それに、取り出した雑誌の表紙は、店先に並んでいるものと同じなのに、まったく別のものに見えた。
「今度はあそこ」
少年は先に立って歩いていく。ここは別の電車との乗換駅でもある。乗り換えの改札のところの少し横にゴミ箱が置かれている。
「あそこは難しいんだ。駅員が見ているから、捨てた物を拾うのさえ文句を言いやがる」と男は笑いながら言う。
乗り換えの改札は、ほとんど自動改札で、改札の端の部屋に駅員が一人いるだけだ。私と男はゴミ箱の周りに立ち、駅員からは見えないようにした。少年は一生懸命、捨てられた漫画本や週刊誌を拾った。
相変わらず、男は箱に手を入れるとき、合掌とお辞儀を繰り返した。私が不思議そうにそれを見ているのに気づいたのか、ああ、これ、と男は言った。
「これらはみんな、世間様からのお恵みだから」とつづけた。
私たちはかなりの駅を回り、たくさんのゴミ箱から三人手分けしても持ちきれないほどの本や漫画雑誌や週刊誌を集めた。そして、再び、出発した駅へ戻ってきた。
古本を扱っている店が駅の構内にあった。店に通じる改札まで特別に作られていて、駅から直接に古本屋に入れた。私もこの駅を度々使っていて、それに、古本屋があることは知っていたが、中に入ったこともなく、本は新刊書の書店で買うものとばかり思っていた。入り口には、普通の本屋と同じように週刊誌の棚があり、今日発売の週刊誌がすでに、安い値段で売られていた。拾ってきた本を全部売ると、思ったより多くの金が入った。男はそれを三等分にして私にもくれた。私は要らないと言ったが、男は無理矢理にお金をポケットに入れた。
「もらっときなよ」と少年が言った。
駅前の道に出た。陽はかなり傾いている。西日が片側のビルの壁を照らしているが、まだ、以前の鮮やかさではない。どことなく汚れた感じがする。だが、私たちのいる陰になっているところは、くっきりと見える。陰のところの方がはっきりしているなんて不思議だ。
「本日の仕事はこれで終わり」
男は少年に言う。少年は頷く。男が歩き始め、少年はその後につづく。まるで師匠と弟子だ。いや、そうではなく、いつかテレビで見た外国の村での、死にかけている病人の家族を慰めに行く老僧と少年僧に似ていた。
高い山の上の村で、道は山の尾根に沿って続いていた。風がひゅうひゅうと音を鳴らし、袈裟も大きくなびいていた。
前の男の上着の揺れが袈裟の揺れに見えた。そうか、先程、男が何かに似ていると思っていたのだが、それはあのときの僧に似ていたのか。
男と少年の後を私は追いかけるようにして歩いた。
「今さっき、歩道橋のところで、こいつ、やばかったと言っていたでしょう。あれ、行きたい中学校の入試に落ちて、それに、学校ではいじめにあったりして」男は私の方を振り向いて言った。
「俺、塾にも一生懸命行っていたし、それまで、他の者よりもえらいと思っていた」と少年が男に向かって言う。
「靴や鞄がプールに放り込まれたり、シカトされたり、廊下の掲示板に名前と、その下に死ね、死ね、と書かれたり。ほんとうに、切れかかっていた」とつづけた。
「歩道橋の欄干から下ばかり見ていて、危なかったなあ」と男が言う。
少年は歩道橋のときと同じように、首を何度も縮めて、苦笑を繰り返した。
「まだ小学生だったんでしょう」と私が尋ねた。
「この頃の小学校はそりゃ過酷なんだ」と男は言った。
それはよくわかっている、自分の領域ではないか。そんな質問をしたことを恥じた。
大通りをしばらく歩いた。交差点のところで折れ曲がったりもした。どこへ行くのか?
道路が、小山の真中をぶち抜いて通っているところへ来た。両脇が崖になっている。今まで平地だったのが、突然、小山が現れたのに驚いた。右側の小山は、上に手すりがあり、その向こうには滑り台の上部が見えた。どうも公園のようだ。ところが左側のそれは、小山の森になっていて、高い金網で囲まれていた。
「ここは昔、豪族の古墳だったそうだが、中世の終わり頃、辺りが戦場になって、武将たちの陣地になり、古墳が壊されてしまった。それでも、今は、市が史跡として指定している。だが、予算がないので、ほとんど手入れはしていない。立ち入り禁止にしているだけだ。でも、柵にはけっこう穴があいていて、中には易々と入れる」
男は、そう言うと、家並と小山の間にある細いどぶ川の縁を奥に向かって歩き出した。ぷーんと、どぶ川の臭いがしたが、それに混じって、どことなく懐かしい匂いもした。 奥に歩いていくにつれ、匂いが強まった。それは横にある小山の茂みから匂ってきた。 小山と言えば、私が小学生の頃、父はまだ小さな街にある工場で働いていて、その街から峠ひとつ越えたところの母の実家のある村で暮らしていた。家は山の斜面に建っていて、裏は竹藪で、その上は松林になっていた。家は、すでに古く、昔造りのものだった。すでにプロパンガスも使っていたが、父は、へっついでご飯を炊くとうまいと言って、ご飯炊きを私に命じた。それにへっついで燃やす落ち葉や枯れ木まで私に拾わせた。
学校から帰るとすぐに竹籠をしょい「さらえ」という松葉掻きの道具を持って山へ出かけた。松林に入り、斜面を「さらえ」で掻いていく。松葉が集まるとそれを抱えて上の道に置いてある籠の中へ入れた。それを繰り返す。
そうだ。あの松林は私の家のものではなく、村の誰か、他の人のものだった。でも、私が無断で入って落ち葉を取っても誰も文句を言わなかった。私が今日、駅でやったことはすでに子供の頃やっていたことだ。
私は松葉掻きの仕事は好きだった。松林に入ると、小鳥の声がし、それが谷にこだまして返ってきた。松林の上を吹く風の音もした。上を見上げると、松の間から青空が見えた。それは道や学校から見える青空とはまったく違っていた。穴底にある青空だった。見上げているのに下を覗いているような錯覚を覚えた。また、そのとき、微かだが、香ばしい匂いが漂ってきた。それを嗅いでいると、心がしんとした。
今、私の周りを取り巻いているのはあのときの匂いだ。懐かしい匂いとは枯れ葉の匂いだった。
街の中にでもこんなところがあったのか、私が来たかったのはこういうところだった、と思った。
前を歩いている男は、突然、ぴょんと前に飛んだ。少年も男と同じように飛んだ。飛んだところを見ると、ありがたくさん行列をなして、這っている。ありを踏まないために飛んだようだ。飛んでから振り返り、男も少年もそれをじっと眺めている。ありは、どぶ川のコンクリート壁を下から上へと列をなして登ってきて、小山の中へと消えていく。
「ありは、自分が他の者よりもえらいかどうかなんて考えないで、ただ黙々と自分の仕事をこなしている。人間だけがそういうことにひどくこだわる。つまらんね、まったく」
そう言いながら男は歩いていく。少年もその後をつづく。森の奥へと入っていくようだ。すでに小山と川との境にあった金網の柵は途切れている。誰もこんなところまで来ないと思ったのだろう。
辺りがいっそう静かになった。コンクリートの両壁に挟まれた溝の間から水の音が聞こえてきた。音は、昔、松葉掻きの山で聞いた谷川の音と同じだ。溝が深くなって、すでに水の流れは見えないが、音だけはいっそうはっきりと聞こえた。チィロチィロといった緩やかな音だが、それはどぶ川の音ではなく、すでに清流の音になっていた。
小川に沿った低い雑木が途切れたところで男は小山へと入り、三十度ぐらいの傾斜になっている坂道を登りだした。坂道といっても、獣道のようで、この男が歩くことで作った道だ。少年はいつのまにかナイフを取り出し、顔の前に覆い被さってくる蔦や蔓を切り裂いて歩いている。なんだ、やはり彼はナイフを持っていたのだ。だが、それはホームセンターで売られていたナイフではない。ひょっとして、今持っているナイフよりもよく切れるナイフをホームセンターで探していたのかもしれない。そんなナイフは売られていなかった。彼はきっとがっかりしたのに違いない。
私は彼の後を歩くので、周りの蔦や木々の枝に遮られることはない。横の雑木に手をかけて登る。
「大丈夫?」少年は私を振り返る。
「おじさん、汗出ている」とつづける。
「大丈夫さ。子供の頃、こんな坂ばかりのところで育ったんだから」
「でも、それって、ずいぶん昔のことでしょう。無理しないほうがいいよ。もっとゆっくり登りな」
「何の、これしき」と言いながらも、鼓動が激しくなった。落ち葉掻きの頃、こんな坂なら走って登れた。自分の育ったところを長年忘れていた報いだろう。
坂を登るのはかなりきつかった。でも、それは苦痛ではなかった。空気が鼻腔を通るときの感触が違う。吸うと身体の毒素をすべて洗い流してくれそうな感じだ。風が強いのか細い木は大きく揺れ、ざわざわと葉擦れの音がする。木漏れ日が辺りを温かくする。
すでに少年の姿も見えなくなった。森も深くなった。雑木の群れが時々大きく揺れた。ふっと、見知らぬ世界へ入っていくような怖ろしさを覚えた。少年の頃、ときどき感じた怖ろしさだ。
途中、ちょっとした広場があった。枯草も少なく草も生い茂ってはいなかった。だが、そこには男も少年もいなかった。私は、さらに上に向かって歩いた。風の舞う音が天空から聞こえた。
ようやく頂上に着いた。真中は少し平坦な広場になっていて、そこだけ手入れがなされているのか、落ち葉も少なく、雑草もなかった。広場を取り巻くように高い木が生えていた。見回すと、少年がその一本のところで、木の股に足を置き、枝を掴みながら立っていた。まるで彼が木の一部になったようだ。
いなくなったので驚いたよ、と言うと、少年はうれしそうに、だって、遅いんだからなあ、と言った。
そう言えば、私もよく木に登った。木の股に立つと、木の友達になれたような、木といっしょになれたような、木の中へ入っていけそうな、そんな気がした。
「あそこを見てみな」
少年は自分が立っているところから、少し斜め下を指さした。そこには枯れ葉がうずたかくつもっていた。まるで茶色の雪が降り積もったようだ。そこへ足を入れると、ちょうど積もった雪の中へ足を入れるのと似ていて、すぼっと中へ吸い込まれそうだった。少年時代、山で枯れ木集めをするとき、いつもそのような中を歩いた。
私は枯れ葉のよく積もっているところに少し近づいた。私が風を起こしたのか、風がどこからかやってきたのか、枯れ葉の中から白い羽毛が小さな虫となって飛んだ。それらは白く光り、すぐに水しぶきになってさらに遠くへ飛んだ。
枯れ葉のところをよく見ると、雀の死骸が幾つか落ちていた。羽毛だけになったものや、羽根と骨だけになっているものなど見られた。ただ、まだ、昨日死んだような雀も数羽あった。それらは枯れ葉を枕にして静かに眠っている。日頃、公園などで雀をたくさん見かけるのに、その死骸はほとんど見ないのが不思議だったが、こういうところで、彼らは静かにその生を終わらせていたのだ。
「この木は雀のねぐらなんだ。夜になるといっせいに雀が帰ってくる」
少年は得意げに言った。たくさんの群れの中から、熟した実が落ちるように、死をむかえた雀は枯れ葉の上に落ちていくのだ。私も、死ぬときはそのようにして死にたかった。
私は、近くの木の股に片足をかけ、身を上げようとしたが、足に力が入らず、少ししか上がらなかった。
「おじさん、危ないからやめておいたほうがいいよ」
少年が言ったが、それでも、私は片足を木の股にかけ、しばらくじっとしていた。
男が周りの茂みから一メートルほどの篠竹を一本手に持って現れた。篠竹は杖ぐらいの大きさで、すでにかなり乾燥していた。
「いいのが見つかったの?」と少年は木を降りながら華やいだ声を出した。
「ああ」と男は笑顔を送った。
男は、どこから取り出したのか、小さなのこぎりを持ち、木の切り株のところへ行き、竹棒を載せると、ポケットから何か紙切れを出した。紙には笛の絵と寸法が書かれていた。男は絵に合わせて竹を切った。手の動きは、滑らかで素早かった。
少年も残りの竹棒を拾って、節の近くで一度、竹を切り、それから、男の竹棒で長さをはかって竹を切った。同じ竹棒が二本出来た。
「なかなか上手」と男は言った。
少年はうれしそうだ。
「おじさんもする?」と少年は言った。
「いや、見せてもらうだけでいいよ」と答えた。
次に二人は枯れ枝や落ち葉をたくさん集めてきて、それに火をつけて燃やした。炎があがった。微かだが音も鳴っていた。炎の音は私の耳の中ではごうごうという大きな音になっている。それに、炎は辺りの空気まで燃やしているようで、周りが清浄になっていく。
彼らは先程切った竹をぐるぐる回しながら、竹筒を炎の上にかざした。竹筒の表皮から油が滲んできた。
男は時々塵紙を取り出し、竹筒を拭いた。少年も同じようにした。
竹は少し曲がっているから、まっすぐにしろ、と男は言い、竹を眼前に持っていき、片目をつむって、竹がまっすぐかどうか確かめた。少年も同じようにした。
男は、また、先程の設計図の紙を取り出し、細いマジックペンで、竹筒に印をつけ、少年の竹にも同じように印をつけた。それから、錐を取り出し、切り株を作業台にして穴を開けた。
男が穴を一つ開けると、錐を少年に渡し、少年もそれに習って一つ開ける。
「なかなか起用だ。いい腕しているぞ」と男は少年を褒める。
穴は全部で七つ空けた。最初は節のところから五センチほどのところ、それから、また五センチほど離し、今度は、一センチ間隔で六つの穴を並べて空けた。
次には小刀を出してその先で、穴の周りを削りだした。穴を大きくしているのだ。男は職人のように器用に穴を広げていく。
「最初の穴は特に慎重に、垂直に削れ、少しでも斜めになればきれいな音が出ないぞ。それから、少し前後に卵形にな。丸いのより卵形の方がよく音が出るんだから」
少年も自分の刃物を取り出し、穴を削りだした。ときどき、刃に陽があたり反射して私の目を射た。
少年の手の動きは少しぎこちない。やはり、持っている小刀はあまり切れないようだ。それでも、硬い竹を手なずけながらなんとかこそげていく。
穴を空けるのにかなりの時間がかかった。だが、私は退屈しなかった。周りから葉擦れの音や小鳥の鳴き声も聞こえたし、吸い込む空気も、酸素をしこたま含んだ新鮮なものだったから。
と突然、笛の音が聞こえた。音の方を見ると、男が、木々の中に立ち、今作ったばかりの横笛を吹いていた。切れ目のない、水の流れのような音色だった。ときどき、音程の不安定なところもあり、完成された笛とは言い難かったが、いかにも素朴な音色がした。心地よかった。森の木々が音を出し合っている、そんな感じがした。曲は、私もよく知っている「もみじ」だった。
澄んだ篠笛の音は森の静寂さの中でいっそう辺りの自然を映えさせた。
「心にしみます」
私は男に言った。
「そうですか、それはうれしい」
男は何度も頷く。
「コンクールなんかに出ないんですか」
私は思わず言った。
「コンクール?」
「横笛演奏のコンクールとか」
「興味ないな、そんなの」
考えてもいないことを尋ねられた、といった驚きの表情をした。
「おじさんは、時々、公園で笛を吹いているよ。作った笛をみんなにあげているんだ」と少年は言う。
男は再びよく知っている小学唱歌を吹き始めた。小学唱歌は森によく合った。
「いい曲だな。吹いていると涙が出そうになる。それだけで充分」男が言う。
少年も今作ったばかりの笛で「サクラ」を吹いた。
「なかなか器用なんだ、こいつ」男はうれしそうに言う。
「あれっ!」少年は途中で笛を吹くのをやめた。
「誰かがやってくるよ」少年がつづけた。
「市の職員だ。時々、見回りに来るんですよ。ひょっとして、誰かが、人が山へ入っていった、と告げ口をしたのかもしれん。いかん、お前たちは隠れろ」
男は鋭い声で少年に命令した。
「わかった、おじさんも、こっちへ」
少年は、私の手を引いて木々のたくさん生えている茂みへと誘った。辺りの木々の細い枝が私の頬を打った。私たちは、窪みに身を隠して、じっとしていた。頭の上には木々の葉っぱがたくさんあって、私たちを覆っていた。ただ、前方の木々の間から笛の男の様子が見えた。
男は、素早く、のこぎりや錐を落ち葉の下に隠した。
ベージュ色の作業服を着け、市のマーク入りの作業帽を被った五十ぐらいの男と、まだ市の吏員に成り立てのような若い男とが現れた。
「何しているんだ」
年齢の高い方が、広場の端で突っ立っている笛の男に言った。
「ここは立ち入り禁止でしょう。下の立て看板に書いてあるでしょう」と若い方がつづけて言う。
だが、笛の男は悠然としている。動じる気配はない。
「ただ、どんなところか見てみたかっただけです。好奇心が強いもので」笛の男は言う。
「見たいからといって、立ち入り禁止のところへ入ってもらっては困る」年のいった方が言った。
何だか怒りが込み上がってきた。何でもかんでも禁止、禁止とすればことがうまく運ぶと思っている。私たちが自由に出入りのできる場所は、もう、道路や駅や公園といった公共施設だけになった。近頃はカメラを向けただけでも怒鳴られる。自由にものさえ見られなくなった。
「火を燃やしていますよ。それに、この竹は、ここに生えていたものでしょう。これは明らかに窃盗ですよ」
若い方が得意げに言う。
「警察に引き渡しましょう。放火犯の常習者ということだってあり得ますからね」若い方がつづける。
私はそっと胸のポケットに手を当てる。今日買ったナイフが掌を打つ。それを持って彼らの前に立ちはだかりたい。何言ってんだ、お前たち。ここが市のものなら、市民が入って何が悪い。
「おじさん、どうしたの。動くとやばいよ」
「でも、あの人を助けなけりゃ」どうしたらいいのか分からないのにそう言った。
「大丈夫だよ。おもしろいよ、もうすぐ、笛のおじさんが動くから」少年が言う。
「動くって?」
「見ていたらわかるさ」
少年がそう言い終わった途端に笛の男は、あっ! と大声を上げながら、大きな木の上を指さした。笛の男の声があまりにも大きかったので、驚いてみんなの視線が高い木の先に行った。鳩ほどの大きさの鳥が一羽、その木の先に留まろうとしていた。少なくとも私にはそう見えた。だが、よく見ると、そこにはただ枝先の葉っぱが風に揺れているだけだった。指さされたので、目の錯覚が生じたのだ。きっと、市の吏員たちにも同じ事が起こったに違いない。
そのとき、微かに落ち葉のかさかさという音が鳴った。
「何もいないじゃないか」年齢の高い方がまだ上を見ながら言った。
「主任、主任」
若いのが歳いった方の肩を叩いた。それでも主任と呼ばれた年齢の高い方は上を見上げたままだ。
「主任、男がいません」
「なに!」
ようやく年齢の高い方は下を向き、先程、笛の男が立っていたところを見つめた。私も彼の動作につられてそこを見た。笛の男はいなかった。
先程の微かな音は男が逃げるときの音だったのだ。男の歩き方が上手なので、ほとんど音がしなかった。
「あれ、笛のおじさんがいない」と私が言う。
「ね、大丈夫でしょう」と少年は小声で答えた。
「おじさん、忍者みたいにすばやいんだから」と付け加えた。
市の吏員が木の先に気をとられている間に笛の男は森の茂みに隠れたのだろうが、私には、彼が森そのものへ溶け込んだとしか思えなかった。
「逃げやがったな、おい、森の中を探せ。私はこちらを探すから」
市の吏員たちは慌てて森の中へ入っていった。
「さがせるものか」と少年が言った。
しばらくは葉擦れの音や、木の枝のこすれ合う音が聞こえたが、それも静かになった。
「おじさん、俺たちも逃げよう。こちらの方から下へ降りられるから」
少年は私の手を引いて、獣道のような雑木の隙間に私を引き入れた。私は、内ポケットからナイフを取り出し、まといついてくる蔦や小枝を打ち払いながら降りた。それらを打ち払らうごとに気分がいっそうさわやかになった。
私たちはどんどん下りた。汗が滲み出てきたが、それがかえって心地よかった。
「ここまで来ればもう大丈夫。おじさん、元気だな。俺、負けるよ、ちょっと休憩だ」
少年は息を荒くして立ち止まった。どうしてこんなに身体がスムーズに動くのか自分でも不思議だった。まるで少年時代にかえったようではないか。
私は近くにある木にもたれかかった。上の方からさわさわという木の葉と風の混じり合った音が聞こえた。さらにその音に混じって、笛の音がした。谷川のせせらぎに似た音だった。
「ねえ、笛の音がしないか?」
少年はじっと聞き耳をたてていたが、首を振った。
私には、確かに笛の音が聞こえた。
「君も笛を吹くのが上手だよ。練習すれば笛のおじさんのようになるよ」
「おじさんも習ったら」
「いや、おじさんにはカメラがあるから」
珍しくカメラのことを口走った。自分でも不思議だった。
「さあ、降りよう。そろそろ家に帰らなきゃ。塾をさぼったことがばれるから。駅のロッカーの勉強道具を取って来ないといけないし」
少年はそう言い、再び歩き出した。
「家に帰るのさえたいへんなんだ」
「まあね」
少年はへへへと笑った。
私たちは森の茂みを易々と抜け出て、街の道路に出た。そこは、車がひっきりなしに走っていた。私たちは歩道を先程の駅の方へと歩き始めた。人々の数も増えた。だが、先程の街とは少し違うように思えた。辺りは白っぽくはない。歩道のところどころに植えられている立木の葉っぱは鮮やかなグリーンに見える。対面に見える病院の壁も真っ白になっている。
駅への道と私の家の方への道に分かれるところまで来た。
「私はこちらへ行くから」私が言った。別れるのが少し惜しい気がした。
「そう、また、A公園においでよ。おじさんが笛を吹いているかもしれないし。僕がいるかもしれないから」
「ああ、きっと行くよ。笛のおじさんに会ったらよろしく言っておいて」
「わかった。じゃあ、バイバイ」
少年は私に手を振ると、急いで雑踏の中へと消えていった。
私は、しばらく立ち止まって、少年が消えた辺りを眺めていた。何だかそこから、少年の吹く篠笛の音が聞こえてきそうだった。 了
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