朝が待ち遠しい   尼子 一昭


 

 玄関のチャイムが鳴る。
 歯を磨き、顔を洗ったばかりの私は、朝のこんな早い時間に誰なのだろうかと首をかしげる。その音にせき立てられて、急いで玄関の扉を開けると隣家の奥さんが立っていた。
「これを見て」
 私の顔を見るなり、奥さんはうわずった声を上げた。指差す動きでまだらに白くなった髪の毛がゆれている。
「何だ、これは」
 思わず大きな声が出た。
 家の前の三・五メートルの道路をはさんで向かい側は公園である。公園のフェンスにぴったりとつけて置いていた自転車が、これまでに見たこともない姿になっていた。
 自転車の前カゴに、茎の部分から切られた二十本以上の黄色い菊の花が入れられている。あふれるばかりである。後ろの荷台にも菊の花と、名前のわからない草花が積みあげられていた。
 それ以上にひどい状態になっているのはサドルであった。サドルは埃よけのため、使わない時にはスーパーで売っている透明な小さなポリ袋をかぶせていた。それが破られている。破られているだけではない。サドルの合成皮革が鋭利な刃物のようなもので切り刻まれていた。
「これはひどい」
 道路を横切り、自転車に近寄った。
「わたしのところの植木もやられているのよ」
 奥さんが背後から興奮した口調でしゃべりかけて来る。隣家は公園のフェンスにそって、植木鉢をならべ、ガーデニングのように草花を育てていた。その一角の菊の花が切られて、道路にも散乱している。私の自転車をおおっている菊花は、どうやらお隣の植木鉢から来たようだ。
「こんなことを、誰がするのかしら」
 奥さんが悲しげに、とぎれとぎれの声でつぶやいた。丹精をこめて育てた黄色い花びらを見つめている。
「あっちも見て」
 奥さんが五、六軒ほどむこうを見るようにうながした。その家も植木鉢をならべて草花を育てているが、一角が無残に荒らされていた。色とりどりの花と緑の葉や茎が地面に散らばっている。
「前には、うちで植えていた向日葵も切られたし、おかしな人がいるのだわ」
「むちゃをするなあ」
「この並びの角の人は、プランターの土ごと道路にぶちまかれたこともあるし、その手前のマンションでは自転車が何台も横倒しにされていたし」
 奥さんは、これまでにあったことを次々とあげた。私の自転車もかなり以前から被害にあっている。サドルにかぶせていたポリ袋が、夜の間に破られていることがたびたびあった。一週間から十日に一度の頻度である。だが、今回はその比ではない。
「これは使いものにならないな」
 私は切り刻まれて、垂れ下がった合成皮革を指でさわった。内部のスポンジ状の物質まで剥き出しになり、穴があいて、いくつかの塊となって道路に落ちている。
 眠気の残っていた頭がすっかり覚醒した。どうしようか。このまま、ほっておくのも納得がいかないし。
「警察に連絡しましょう」
「そうする。私、これから出かける用事があるので、いっしょに立ち会えないけど」
 奥さんが少しほっとしたらしく表情をゆるめた。
 十分ほどで、パトロールの警察官が自転車に乗ってやって来た。大柄で若い警察官は、耳ざわりなトランシーバーの音をさせて、私の前に立った。私は菊でおおわれた自転車を指し示し、隣家の植木鉢も説明した。
「そうすると、気がついたのは朝ですね」
「昨夜の寝る前の十時半頃、玄関に鍵をかける時に、外を見ましたが何ともなかったですから」
「なるほど、昨夜の十時半から今朝の七時半までの間と」
 警察官はメモ用紙に書きつけていく。
「どうしたらいいですか」
「被害届を出されますか。その場合、自転車を持って本署まで来てもらわなければならないし、被害額の見積もりも必要ですよ」
 サドルの取り替えが必要となるので、自転車屋へ行って見積書をもらって来なければならない。たぶん三千円程度だろう。
「犯人が捕まって、裁判になれば最後までつきあってもらわなければならないですよ」
「裁判にまでなるのですか」
「まあ、なればの話ですが」
 体育会系らしい健康に満ちあふれた気配をただよわせている警察官は私の表情をうかがっている。被害にあっているのに、その上、面倒なことをしなければならない。
「考えます。もし届を出すようでしたらお願いしますが」
「そうですか。どうするか、お考え下さい。まあ、本署には専門の相談窓口もありますから」
 警察官はメモ用紙に、被害状況、私の名前、連絡用電話番号などの必要事項を書き込むと去って行った。
 部屋に戻った私は遅くなった朝食を食べた。バターとジャムをぬったトーストをかじり、紅茶を飲む。被害届を出すために、見積書をもらってくるのが面倒だ。それよりも自転車をどうするかだ。サドルの取り替えをすればいいのだが、何年も乗っていて、かなりガタが来ている。特に前輪、後輪のタイヤが擦りへって、溝がなくなり、つるつるになっている。タイヤ二本とサドルの交換か。新品で安物の自転車を買うのとたいして価格は変わらない。どうやらここらが、この自転車の引退の潮時なのかもしれない。菊の花にもかざられていることだし。
 新しい自転車を購入した。思わぬところで、思わぬ出費である。ピカピカの光沢を放つブルーの車体を複雑な心境で眺めた。
 それから三日目であった。
 朝、いつものように玄関の扉を開けた。
「まただ」
 反射的に小さく叫んだ。自転車のサドルにかぶせていたポリ袋が引きさかれている。それだけではなく剥き出しになったサドルの上に、朝日を反射して銀色に輝く四角いシールが乗っていた。近寄って見るまでもなく、シールは最寄り駅の駐輪場に止めるための定期利用証であることがわかる。通常、車体の後輪のガードフレームに貼っているものだ。それをはがして、わざわざサドルの上に乗せている。今回は幸いにも皮革は切られてはいない。
 犯人の底意地の悪さを感じながら定期利用証のシールをはがして、後輪のガードフレームに貼り直した。夜の間も眠らずに見張っていれば、犯人を見つけることが出来るかもしれない。しかし、それは現実的ではないだろう。何日の何時に現れるのか、わからない犯人である。
 私は溜息をついた。これは何かのたたりなのか。日頃の行いが悪いので。これまでに他者が書いた作品の悪口ばかり言っていたことに対する罰なのかもしれない。
 町内の人々にも、こうした被害がないか聞いてみた。その結果、すでに一年以上も前から色々とあるようだ。植木が鉢からごっそり引きぬかれて投げ捨てられたり、スコップが消失したという話を聞いた。
 町内のアパートのある住人は、夏に朝顔をプランターで栽培していた。竹の棒を数本立てて、そこに蔦をからませて、朝夕に水を与えていた。そのかいあって花が咲きそうになった頃のある日の朝、根本からすべて切られていた。落胆した住人は、こんな気分が悪いところに住んでいられないと言って引っ越した。ひどい話が続々と出てくる。
 私の新品の自転車であるが、それから数日間続けて被害にあった。寝る前に気になって何もないかと安全を確かめるのであるが、朝、玄関を開けると変事を目にした。ポリ袋が引きさかれているのは無論のこと、それだけではなく駐輪場のシールが狙われていた。シールは再び貼り直せないように、跡かたもなく消えているのだ。困るので、再発行の手続きをして車体に貼りつける。すると次の日には同じことが起きて、捨て去られてしまう。再発行をくりかえす。タイヤの虫ゴムの黒いキャップも外されていたこともある。
 夜な夜な、私の自転車にまといつく悪意が腹立たしい。
 しかたなく警察署を訪ねてみることにした。
 警察署の広聴相談係では、定年間近を思わせる経験豊かそうなベテランの警察官が対応してくれた。
「困っています。何とかならないですか」
「わかりますが、犯人を逮捕するのは、現行犯でないと、むずかしいですな」
「誰かがやっているのでしょう」
「公園に悪ガキはいませんか。十人程度で常にたむろしている連中が」
 私は夏に花火を打ちあげたり、音楽を鳴らして騒いでいる若者達を思い浮かべた。
「いますけど」
「もし、そいつらがやったとしたら、なくなるまで四、五年はかかりますよ」
「そんなに」
「そいつらが成人して、そういう事をしなくなるまで。他の地域でもそういった例はあります」
「でも、そいつらがやったことにしては、していることが小さ過ぎですよ。悪ガキなら、自転車や植木鉢を乱暴に破壊しそうですが」
「いちがいに言えませんがね」
「酔っぱらいとか」
「それもあるでしょうが」
「防ぐには自転車を家の中に入れておけばいいのでしょうが、邪魔になって、そういうことも出来ないですし」
「まあ、そうでしょうね」
 所定の形式の用紙に記入してから、警察官は妙手なしといった顔をしている。これ以上、どうにも無理なようだ。
「今、お聞きしたことは上司に書類としてあげます。それから、あなたのおっしゃっている町内を重点的にパトロールしましょう」
「しかし犯行現場にばったりと行きあうのは難しいでしょうねえ」
「そうですね」
 私は警察署を後にした。
 家に戻った私は、熱い紅茶を飲みながら頭の中を整理した。一連の深夜に起きる事件ともいえぬ事件の犯人は誰なのだろうか。犯人像について考えた。
 草花を切り、自転車にいたずらを繰り返している。単独犯なのか、複数犯なのか、どちらだろうか。犯行は複数の人間がやるにしては規模が小さい。全てが同一犯なのだろうか。異なった犯人であるということも考えられるが、長期間にわたってやっていることが、ほぼ同じである。同一犯の可能性は高い。
 男であるか、女であるか。どちらとも言えないが。腕力にまかせて自転車を破壊するとか、玄関のポストや壁を傷つけるとかいうことがない。犯行に粗暴性がなく、細かさが目につく。また、草花は力まかせに引きちぎったものではなく、用意したハサミかナイフのような刃物で切っている。酔っぱらいの衝動的な犯行ではなく、計画性がうかがわれる。
 犯行は、この町内に集中しているらしい。今のところ他の町内からは同じような犯行があったと聞いていない。ただし、これは詳しく調査していないので、確かなことは言えないが。
 犯行の動機と目的は何であろう。どうやら私個人に対する恨みではなさそうだ。町内全体が被害にあっているところをみると、この町内に恨みのある者の犯行であるかもしれない。しかし、町内に対する恨みといっても、あまりに漠然としている。恨みや憎悪ではないのかもしれない。病的なもの。いわゆる理由なき犯行で、精神的な病気のための犯行という線も考えられる。
 ふうっと息を吐いて紅茶を飲みほした。名探偵であれば、事件の謎はたちどころに解き明かされて、犯人がわかるのだろうが、残念ながら私ではそうはいかない。
 さて、その後であるが、ここしばらくは自転車は無事である。警察官のパトロールの効果があったのか、あるいは深夜に犯行をやるには厳しい寒さの季節となったためなのか。しかし油断は禁物である。
 寝る前と朝一番には玄関を開けて外を確認する。何も変わったことがないのを見ると、何だか肩すかしにあったような気分になる。不思議とがっかりする。今日は自転車がどんな姿になっているのだろうかと、期待している私自身に気づく。何もされていないのが、物足りなく不満なのである。
 犯行を待ち望む、わくわくする気持。布団の中でも、朝が待ち遠しい。どうやら私はいけない病に罹ってしまったようだ。おかしな喜びに目ざめてしまい、どうにも困ったものだと思う。


 

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