歩く男   西村 郁子


 バイトに向かう夕方、原付バイクで信号待ちをしていると、男が歩道を直角に曲がって行った。
 見知った男の姿に咄嗟に右手に力がはいった。しかし、男は反対車線側の歩道を歩き去っていたし、進行方向の信号も青に変ったので、サイドミラーに男の姿を映しておくことしかできなかった。
 後ろの車に軽くクラクションを鳴らされ、駿哉はカチカチと鳴るウインカーに従って左へ曲がった。
 源八橋を走ると大川沿いに咲く桜並木が、夕映えに光って目に飛び込む。バイトへ向かうこの道は絶好の花見ポイントだった。
 勤務先のタワー駐車場に到着した。
 ここはOBPと言われるビジネス街と寝屋川を隔てて向かい合っている。
 早朝、昼、夜の三交代制の職場で、駿哉は夕方から深夜まで週に五日働く。朝、昼は退職した六十歳代のおやじ達が働き、夜は大学生や駿哉のようなフリーターが入っている。寝屋川に沿って同じようなタワー駐車場が三ヵ所あり、延べにすると結構な人数が働いていると思う。
 ロッカーに鞄を入れ、制服のトレーナーに着替える。
 青いロゴ入りの制服は秋冬用で、夏になるとそれがポロシャツに替わるらしい。ズボンはジーパン以外なら私服でもよいということなのだが、定年前に総務部長だった男が現場の責任者をしていて、いちいちうるさいのでベージュの綿のスラックスを置いてある。ズボンを脱いでいるところへ昼勤務の人が入ってきた。
 男所帯だから狭い管理室に目隠しのカーテンすらないが、何も目に入らなかったふうに、レジのボタンを操作し始める。
 昼勤務は、中田というおやじだった。野球選手や芸能人のサイン色紙を集めるのが趣味で、コピーした色紙をやたらとお客に配っている。『色紙マン』とあだ名されているのを他の人から教えられた。
「ほな、よろしゅうたのむわ」と、引き継ぎの簡単な話を締めくくって、色紙マンは帰って行った。小柄で痩せているが、甲子園にでたことがある。高校野球の勝敗を報じる当時の新聞の切抜きを財布の中に入れており、色紙をあげた相手に何度も見せているところをみた。駿哉も直接見せられたことがあるが、五センチほどの小さな紙面に色紙マンの苗字が好守備のコメントとして載っていた。
 事務椅子に腰をおろした。
 時間がくれば帰れる。この仕事を始めたころは、それが新鮮な驚きだった。駿哉が大学をでて勤めた会社は、研修が終わるなり、現場に出され、以降体を壊して辞める去年の秋まで、残業のない日はなかった。
 三ヵ月近くここで働いていると、単調な仕事には向かないことに気づきはじめていた。車を出し入れするサラリーマンたちにかつての自分を重ねることもある。
 営業だった駿哉も会社の車で得意先を回っていた。進行中の工事でクレームがあると、夜中でも呼び出され走って行ったこともあった。
 五時。忙しくなるまで数十分の余裕がある。
 駿哉は後ろの壁に貼ってある住宅地図に向かい、源八橋でみかけた男のいた場所に、赤いボールペンで小さく印を付けた。印はすでに二十ヵ所近くついていて、銀橋や太閤園、JR京橋の北改札。都島本通りと広く分布している。
 男のことを気にしだしたのは、ここのバイトが始まってひと月ほどした頃だった。管理室にひとりでいると、普段は気づかないようなことにも敏感になってくる。たとえば、月の満ち欠けや日没の時間など、サラリーマンのときは空を眺める余裕などなかったものが、単調に流れる時間のなかでは感じることができる。
 駐車場に面した歩道は、信号機のある交差点からJR京橋駅の南改札まで一直線で七百メートルくらいだが、あまり人通りは多くない。それでも夕方になると、並びのマンションや民家に帰宅する人たちの往来が続く。その人たちの顔もなんとなく覚えてきたころだった。ひとりだけ、猛烈な早足の男がいることに気づいた。
 早足の男は午後八時二十分になると管理室の前をさっと通り過ぎていく。その服装はカーキ色の綿入りジャンバーに紺のスエットパンツで、中には白い肌着のシャツを着ていた。腰に黒のウエストポーチをつけ、前を睨みつけながら歩き去っていく。
 頭髪は薄く、一九分けといわれる髪型で、顔は赤黒くつやはない。とりわけ目が印象的で、奥目でちいさく三角にきった穴のような眼孔をしていた。一見、東南アジア人にみえる。ときたま、視線があっても無表情につき返されるだけで、正直、いまだに男が日本人なのかわかりかねる。
 カタっと音がしたので振り返ると、赤のBMWミニに乗っている若い男だった。ときどき大きな筒を持っていることもあるので、どこかの設計事務所の社員だと思うが、普通のサラリーマンとは雰囲気が違う。
「花見はした?」
 若い男が話しかけてきた。
「いやしてないっすね」
 受け取ったチケットを機械に通しながら言う。
「花見されたんですか」
 反対に質問する。
「これから夜桜バーベキュウに行かなくちゃならなくて」
「大阪城とかですか」
「帝塚山だよ。庭に大きな桜があってさ」
「帝塚山っていえば高級住宅街じゃないですか。すごい豪邸なんでしょうね」
「取引先の家だから仕方なく。とにかく美食家というか、いまだにバブルの時代を引きずってるような家だから、これ、もっていくのが仕事」
 そう言ってブリーフケースからのぞいているワインを指差した。
「高いんですか」
 のぞきこんだが、頭しかみえない。
「三万くらいかな」
「まじですか」
「でも、向こうが用意してるワインは三十万とか四十万のワインだからな」
 若い男は駿哉を羨ましがらせているのだと思うが、三年間いた建設業界の内情を思い返しただけで、息が詰まりそうになる。ちょうどこの若い男のように、大きい会社の社員から無理な仕事をふられ、現場からは突き上げられてばかりいた。
 早く行ってくれないかなと思うと、会社勤めのときの癖がでた。喋っている相手の鼻をみるのだ。鼻だけに意識を集中していると、どうでもいい話が耳に届かなくなり、芋虫のように鼻だけがもぞもぞと動きだすのだ。相手がどんなに怒っていても、鼻だけにしてしまえば何も恐くないし、辛くない。
 七時半をすぎると、平地のスペースの車はほとんどなくなった。タワーの駐車場に預かっている契約車も全部戻ってきているので、閉場の十一時までは何もやることがない。
 リュックから夜食を取り出す。家の炊飯器からご飯をよそい、残り物のおかずを詰めてきた。管理室にあるポットでお茶をいれ、冷たい鶏の唐揚げを齧った。ししとうに玉子焼きと、ちゃんと彩りもいいお弁当になっている。
 駿哉は我ながらぬるま湯に浸かっているなと思う。会社を辞めて半年過ぎたが、こうして母親の作った料理を当たり前のように食べている。もし、親の家がなかったら、すぐに何がしかのアルバイトをかけもちして、生活費を捻出しなければならなかっただろう。
 そもそも、自分から辞めると言えたかどうか、それさえ怪しい。
 ししとうをぼいっと一口で食べる。醤油とみりん、花かつおの旨みが口の中に広がった。どれをとっても駿哉の好物ばかりだ。
 まだ仕事しないのか、と顔を見る度小言を言っていた母親だが、バイトとはいえ働き始めたことでほっとしているのがわかった。夜食を持っていくようになったのをみて、わざわざ作ってくれているのだろう。
 次に食べたししとうが、えらく辛くてむせこんだ。ごほごほと咳がとまらない。涙がでる。少しおさまったので、お茶をひといきで飲んだ。
 ゆったり物思いに耽りながら食べるのはやめ、残りの弁当をかき込むように食べてしまった。
 壁の時計は何度みても、十分と進んでいないように感じる。やっと八時をまわったところだ。
 外にあるトイレに行くため、一旦、事務所の鍵をかける。誰か来てもわかるように、外のトイレの戸は閉じないようにノブを紐でくくってある。出たついでに、たばこを吸った。
 ふぅと大きく息を吐いたときに、男が視界に入った。夕方と同じ格好をしている。男が顔だけこちらを向けた。
 そんなことは初めてだったので、駿哉は肩をびくつかせた。
 すると男は鼻に皺を寄せ、上唇と下唇をひょっとこのように尖らせたではないか。それは、日本ではないどこかの国の嫌悪の表情のように思われた。
 な、なにを、とタバコを挟んだ指に力がはいる。小馬鹿にされたようで、気分が悪い。だいたい、いつもこっちが見ているのも気づいていない様子で前を通っているくせに……。なんで、今日に限ってこっちをみたんだろう。
 気分が収まらないまま事務所の鍵を開け、部屋に戻ると時計は八時二十二分を指していた。
 住宅地図に向かって腕組みをして立つ。赤い点と点を頭の中で繋げていった。それは歪な楕円の形をしているようにみえた。目撃された時間を加えると時計と逆回転で動いていることがわかる。
 十一時きっかりに駐車場の電気を落とした。同じ道路沿いにある駐車場のそれぞれの係りが手提げ金庫を持って集まる。それを一括して貸し金庫にあずけるのが、年かさのおやじたちの役目だ。駿哉は無言で金庫と日報を今日のシフトでいちばん年かさのおやじに渡すと、ヘルメットを被った。
 原付バイクに跨りながら、たばこに火をつけた。ジュッ、シバシバと火がたばこの中へ入っていく。指をたばこから離し、唇だけで挟んでおいて、鍵束を取り出すためパーカーのポケットに手をつっこんだ。ひっかかったのか、なかなか取り出せずにもたつく。
 するすると細い煙が立ち昇り、ヘルメットにあたって降りてくる。唾液の溜まった口の中を整理するためにも、一息大きく吸い込む。煙と唾液が入り乱れて気管と食道に流れ、間違ったものを吐き出そうと激しくむせ返った。
 慌てて手をポケットから出し、たばこを口から離すと、噴き出すように唾液とよだれが迸った。咳とともに息を吸い込むと次になかなか息が吐けない。涙と鼻水があとに続いた。
 やっと咳が収まり、肩で息をしながら涙と鼻水を掌で拭った。ぼやけていた視界がはっきりとし、と同時に西の空に爪きりで切りとった爪みたいな月が目に飛び込んできた。
 黄味がかった色の三日月をみているうちに、まっすぐ帰ろうという気持ちが失せてしまった。
 アクセルを回すと、なんとなく駅の方向へ走り始めた。
 五百メートルも進むと、JR京橋駅南改札がある。環状線のガードをくぐったすぐのところだ。ガードの脇に戦没者の慰霊碑が仏像とともにある。千羽鶴が絶えることなく供えられ、いつも新しい仏花が飾られている。
 だいたいいつも、客待ちのタクシーが数台並んで停まっている。何人かは車の外にでて、立ち話をしたり、たばこを吸ったりしている。もうすぐ終電なので長距離の客を狙っているのだろうか。そんな駅前を横目にその先の信号を左へ曲がる。
 踏み切りの遮断機が降りていて、車に自転車、歩行者が開くのを待っている。以前はもっと道幅が狭く、人と車が団子になって通過待ちをしていた。この街もよそと同じで、次に訪れたときには、何かが取り壊されていて少しずつ姿を変えていっているようだ。踏み切りを渡りきったところの交差点にしても、その昔はどぶ川だったときいた。その形跡を残しているのは、アンダーパスのようにえぐれた道路くらいだ。暗渠にはならず、水路を閉ざしてしまったため、もともとの川底が道になった。
 遮断機があがると、ゾロゾロと車も自転車も歩行者も進み始める。少し間隔が広まったところで、アクセルをふかし交差点を渡り、斜め左にある細い路地に入っていった。ホルモン焼き屋や立ち飲み屋が並ぶ、暗い路地に入ると、小便の匂いがつんと鼻についた。店からでた酔客が立小便をするからだ。
 この路地を抜けるとJR北改札と京阪電車の改札が交わるコンコースへでる。駿哉は手前にあるパチンコ屋の景品交換所の横の駐輪場にバイクを駐車した。
 明るい方へ一歩一歩近づくにつれて、ラジオのボリュームを上げていくように音が大きくなってくる。ゆるくカーブした角を曲がると駅のコンコースの横にでてきた。時間も時間なので、お酒を飲んでこれから帰るといった感じの人たちが、改札に向かっているのが多く目につく。それを道の両側に立つ、キャバクラやガールズバーの若い女たちが店に来るように声をかけていた。
 しばらく曲がり角に立って、それらのやりとりを見るともなく見ていた。やがて、酔客とキャッチの塊がふっといなくなる瞬間があった。駿哉の視界を隔てていた壁がなくなると、数十メートル先に立つ、看板もちの男たちの姿が目に入った。はっきりは見えないが、あの中に、男は必ずいると確信していた。どうしたものかと考えていると、看板もちの男たちに、にわかに動きがあった。うつろな顔をして前だけをむいている男たちに、近寄って話しかけている手配師のような男がいる。すると、ひとりふたりと看板を倒し始め、一列に歩き出した。
 手配師の男を先頭に看板を持った男たちが、駿哉の方に向かってくる。彼らに視点を置かないように気をつけながら、人待ちをしているみたいにパーカーのポケットに手を突っ込んで、遠くを探すふりをした。
 一列に並んだ男たちは誰一人、駿哉のことなど目にいれず曲がり角を曲がっていった。
 看板を持った男の中に、やはりあの男もいて、内心にやりとした。
 一歩下がって、歩いて行った方をちらっと見ると、バイクを停めたパチンコ屋のところで立ち止まって丸く集まっている。少しすると輪がほどけ、男たちは、看板を持って景品交換所のなかに入り、またすぐでてきた。でてきたときに看板はなく、それぞれ右に左に歩き去って行った。
 都合のいいことに、あの男は駿哉の方に歩いてきた。みつかってはいけないと、背中を向けて行き過ぎるのを待つ。ところが、行ったであろう方を見ると、そこにはいなかった。手前に階段がありそこをあがっていったのだろうか。急いで、階段を駆け上がった。
 男はあのいつもの感じで歩いていた。数秒しか見失っていないのに、走らないと追いつけないくらい先を歩いている。
 男はマクドナルドの店の前を通るとき、店の中をみた。駿哉もそのあとマクドナルドの前を通るとき、店の中をみてみた。別に何もない。
 この先の道はY字路になっていて、見失う恐れがある。すこし速度をあげて男の後ろ姿を目視した。
 Y字路の分岐のところには、お地蔵さんの祠がある。男は道の左側を歩いているので、おそらく左の道をいくものと思われる。
 やはり左だった。
 それにしてもすごいスピードだ。特別なことをしなくても、毎日ただひたすら歩いていれば、こんなに早く歩くことができるのだなあ、と妙に感心しながら後を追った。
 ひたすらまっすぐ歩く。片町口まできた。男は六車線道路をななめ横断している。深夜なのであまり車はこないが、もし車が続いたら、距離ができてしまうと思い、急いで渡った。
 その先左にはコーナンがある。最初の信号を右へまがると太閤園だ。
 わかった。
 銀橋から源八橋へと行くのだ。
 追いかけるのを止め、携帯電話を取り出して時間をみた。
 午後十二時五十五分。
 
 午前十一時。ハローワークのなかは、すでに結構な人数の来訪者でざわついていた。
 駿哉は受付でもらったカード番号Pのパソコンの前に座った。週に一回は、こうして求人情報に目を通しにくる。今まで何度か履歴書を送ったが、面接までこぎつけた会社は一社だけだった。門前払いばかりではなく、駿哉のほうから面接を断ったところもいくつかある。
 今度就職したら会社をやめたくないという思いが強すぎて、少しでも不安な気持ちになるとだめだった。小さな会社はアットホームさを強調してくるが、仕事に関してもアバウトなのではと疑ったりするのだ。
 面接を受けた会社は、英語ができるかと尋ねてきた。できませんというと、駿哉の履歴書の隅にボールペンで書き込みをしていた。
 突然、大きな声がフロア中に響いた。五、六十代くらいの男が、ハローワークの職員に向かって怒っているようだ。
――俺らは仕事が欲しいんやー
 そう言っているのが聞き取れた。
 そらそうだな……。少し口元が緩んだが、それを誰にも見られてなかったか気になり、まわりを見回した。皆一様に無反応で、無表情だった。
 ただ、男のまわりには人だかりができていた。職員も大勢集まっていて、ものものしい雰囲気になっている。もしかしたら、暴動の始まりはこんなふうなのかもしれないと思った。
 すると、向かいのパソコンの裏から、
「ほんま日本人は偉いのう」
 独り言のような声が響いた。
「首相がころころ変っても、一向に景気がようならんで倒産やリストラがあとをたたんでも、だれも政府に文句もいわん。フランスなんかみてみろ、すぐストしよるがな。日本人は文句がないからストせえへんのと違うぞ。まず自分にできることはせなあかんと思とるから、ぐっと耐えて、黙って仕事探しに来てるんや。暴動起こしてもなんにもならんこと分かっとんのじゃ」
 押し殺した声でしゃべっている。どうしても顔がみたくて、ゆっくりとパソコンのうえから向こう側をのぞいてみた。そこにはふたりの男がいて、片方はまったく無言で頬杖をつき目もつぶっていた。
 寝ているのかと思ってみていると、しゃべっていた男に、
「人のせいにしたらあかんって言われてきたからなあ。そういう時代に育ったもんは、自分の責任って思うんやろうな。けど、能力主義やとかいうて、出世も給料も勤続年数関係なしに会社が評価する時代のやつらは、自分以外は全部敵やと思て仕事してるんやないのか。せやから、みてみい。あっこでおがってるおっさんに誰も興味もっとらんやろ」
「そろそろ昼飯いこか」
 ふたりはすくと立ち上がり、出口へ歩いて行った。ふたりとも仕立てのよさそうなスーツを着て、背筋を伸ばして歩いている。昼食を食べたらまた戻ってくるようなそぶりだったが、出口をみていると、ハローワークの職員と言葉を交わしている。しかもその職員の上司のように何かを指示しているようにみえた。
 指示を受けた職員のあとを目で追っていると、もめていた男のところへ行った。男になにかを言うと、さきに歩き、あとに男が黙ってついて行った。なんともあっさり男がいなくなったので、取り囲んでいた人たちも間の悪そうな顔をして散らばっていった。
 しばらくパソコンの画面の上っ面を眺めながら、さっきのスーツのふたりのことを考えていた。ここにいるのは、職探しや失業手当の受け取りにくるものばかりではないんだなあと思うと、誰かれなく好奇心が沸いてくる。闇の仕事をリクルートしに来た人間が、フロアのなかを観察して、脈のありそうな奴に声をかけていたとしても不思議ではない。が、闇の仕事ってなに? と自問してみるが、ネットのなかの闇サイトじゃあるまいしと、すぐに打ち消した。
 心が動くような会社はひとつもなかった。とにかく働くか、満を持して仕事につくかの二択であるならば、駿哉は後者だ。一時的なつもりで仕事に就いても、働いてしまえば没頭してしまうに違いないと思うからだ。夢のある仕事をしたいと思うし、仕事で夢をみたいと、まだじくじく考えているわけだ。自分は何かやれるのではという希望のようなものがあるわけだ。希望の灯が消えてしまえば、定年になるまで下をみたまま働き続けなければならない、という強迫観念から逃れられないのだ。
 家に帰れば、母親にあれこれ用を言いつけられるので、直接バイトに行けるように弁当も持ってきた。夜食はコンビニで買うことにして、公園にでも行って弁当を食べようと席を立った。
 扇町通りをバイクで走る。扇町公園はあるが大きすぎて、気後れする。ちょうど、扇町公園の向かいにレストランのバーミヤンがあって、その横の道を入るとすぐに小さい公園があるのを思い出した。
 野崎公園という名だった。
 ビルに囲まれて窪地のようになっているそこを、ゆっくりと周回すると北税務署の看板がみえた。角を曲がり、南へ進むと読売新聞の印刷工場なのか、大きなトラックがバックでビル一階の搬入スペースに停まっており、荷台には新聞の材料になる途轍もなく巨大なロールがいくつも載っかっている。公園の南側にはバイクや自転車が停めてあるので、駿哉もその端へ停めることにした。公園の入口はポールが幾本も立っていて、自転車ですら入れないようにしている。
 一歩公園に入ると、結構な人がいたのだとわかる。ざっざという音に驚き足元をみると、下は白い砂地になっている。
 点在する桜の木の下には、置き忘れのブルーシートが広げられたままになっている。いや、置き忘れではなく、陣地取りのためだろうか。
 公園の隅のほうでは、ゲートボールをしていた人たちが、片づけを始めている。用具はきれいに片付けられたのに、地面に刺した旗はそのままである。「3」と黒字で書かれた白い小さな旗は、頑固者のおっさんのように、その場を譲ろうとしないように見えた。
 公園の内側に置かれたベンチは、どこも一人ずつ座っていて空きがなかった。あいているのは、公園の真ん中にある円形舞台のような、コンクリート作りの構造物の中にしかなかった。屋根は藤棚になっていて周囲は鉄の棒が広い間隔で柵になっている。中に子ども用のピンクの自転車がぽつんとあり、うっすらと地面にできた影は、メリーゴーランドの影絵のようである。
 ドスンとベンチに腰をおろすと、みんなから見られている感じがしたが、構わずにリュックから弁当箱を出す。
 中学校の時に使っていた四角い大きな弁当箱だ。蓋をとると、おかかの載ったご飯がぎゅっと音をたてて剥がれていった。蓋のほうにもおかかがひっついている。
 おかずのいわしフライがご飯の上にはみ出すように載り、玉子焼きと小松菜と揚げのお浸し、ポテトサラダで隙間なく詰め込んできた。思ったとおり、弁当箱の中身は入れたときのまま、どちらにも片寄っていなかった。
 最初のころは、犬のご飯かと思うようなぐしゃぐしゃの弁当だった。毎日やっているうちに、仕事で使っていた図面描きのことを思いだして、弁当箱の図面を書いて寸法を測ったのが、急速に上手くなったきっかけである。いまではコンビニの弁当などをじっとみて、どう入れているかなと観察するのが常になっている。
 ブルーシートのところへひとりのサラリーマンがやってきて、その上に座り込んだ。どうやら夜桜宴会の場所取りを命じられているらしい。駿哉の会社も北区にあった。この野崎公園のような公園が会社の近くにあり、そこが毎年の宴会場所だった。新入社員の駿哉たちが、場所の確保や酒、つまみの調達をしたのだ。
 サラリーマンはワイシャツ姿だった。背中を丸め携帯を見ている。
 ふと、自分たちの花見の場所取りは誰がしたのだろうかと気になった。駿哉は通常の業務のあと、スーパーに買出しに行かされただけだった。同期は数人いたと思うが、特に仲良くしていた何人かは同じく買出しの班だった。思い出せない奴が、場所取りをさせられていたのかと思うと、目の前のサラリーマンが惨めな奴にみえてくる。
 いややっぱり違う。あの時、買出しに行った同期の人間は、みんな辞めてしまっている。一年未満で辞めた奴らは、仕事に嫌気がさして。一年以上働いて辞めた駿哉ともう一人は病気になって、それが辞める踏ん切りとなった。そう、会社に残っている同期の誰かが、花見の場所取りをさせられ、今も会社に残っているということだ。
 だったら目の前のサラリーマンは、残る奴だ。
 サラリーマンが顔をあげ、駿哉の方をみた。その視線はしばらく駿哉のうえに留まり、その後、大きな伸びをした。立ち上がり、靴を履き、近くの鉄棒にぶら下がった。
 駿哉は残りの弁当をかきこむと、ばたばたと弁当箱をリュックにしまい立ち上がった。どこにいても何をしてもサラリーマン時代に引き戻される気がする。どうにかして、サラリーマン時代へ向かわない方法はないのだろうかと思う。さもないと浮かんでは打ち消すネガティブな思考回路の渦から抜け出せないのだ。
 そんなことを考えていると、
 あの男だ。北区税務署の道を歩いている男。
 一瞬、腰があがり、あとを追いかけようとした。
 しかし、よく見ると、その男は、いつも見かける男とは、まったくどこも似たところのない男の人だった。
 ベンチに腰を落とすと、がっかりしている自分がいることに気づく。
 どうして、あの男のことがこんなに気になるのか、額に指をあててみた。今、駿哉とあの男にどれほどの違いがあるというのだ。と、いう思いが沸いてくる。必要とされず、時間をもてあましている者同士。なのにあの男は、いつも動いている。
 そういえば、あの男は歩く男だなと思った。
 一日中姿を晒し、現実の裂け目をなぞっているかのように歩く。その姿はみえていても、誰の記憶にも残らない。
 できれば、駿哉も今はそうなりたいと思った。

 バイトが終わり、その足で、銀橋のたもとにあるドンキホーテへ行く。駐輪場にバイクを停め、店内をみてまわる。
 ここへきたのは、男を待ち伏せるためだ。昨日、この交差点をわたって、源八橋へ向かうのは確認できたので、ここから後をつければいいと思ったのだ。
 携帯の時計を何度もチェックしながら、ジグザグになった店内をみてまわる。少し歩くと陳列棚に路をふさがれるようになっているのは、この際、あれやこれやを買っておこうという気にさせる戦略だと思う。
 客は駿哉が想像していたほど多くはいなかった。この場所が京橋駅、桜ノ宮駅どちらへ行くにも少し離れているせいだろう。
 昨日とほぼ同時刻にドンキホーテの店先にでた。国道一号線に面しているので、車が間断なく往来している。
 駿哉のすぐ右手に銀橋がみえるが、数年前に同じ形状の橋が増設された。てっきり、古い橋は取り外されると思っていたのに、そのまま使われている。
 もう、来る頃だろうと、交差点の向こう側をみやると、なんと、すでに歩く男が横断歩道の手前で信号待ちをしているではないか。夜目にも挙動がどこか不審で、すぐにみつけられた。前を走りすぎる車を一台一台、首を振っては、睨みつけるように見送る仕草を繰り返している。まるで隙があれば、渡り始めようとしているみたいだった。
 信号が変るなり、急な前傾姿勢で突進してくる。近くにいた人が気味悪がって、身をのけぞらせていた。
 駿哉は少し興奮している自分を面白く思った。好きな女を待ち伏せしていて、その娘の前に出て行こうとしているときのような高揚感に似ている。
 歩く男が駿哉の横を通りすぎると、ただちに駿哉も体を回転させた。
 男は遊歩道の上をいつものように、早足で歩いている。黒いジャージの下の太腿はきっと、筋肉で堅くしまっているのだろう。最近、運動をしていない駿哉には、ジョギングのように少し飛ばないと、ついて行けない速さだ。
 路の反対側はラブホテルばかりで、桜宮駅と京橋駅を対角線にした四角の中に無数に点在している。近くに住宅地もあり、昼間などは、小学生がランドセルを背負ってホテル街の細い道を歩いていることがある。
 五百メートルほど行くと、信号がみえてきた。
 源八橋だ。
 男は源八橋を曲がらずに、信号をまっすぐ渡った。
 新たなルートか……。駿哉は駐車場の管理小屋の地図を頭に思い浮かべて、そこに赤い点を付けた。
 信号を渡ると道路は深く掘れている。ちょうどJR桜宮の高架下になるのだ。男は車の合間をみて、道路を横断した。さきほどのラブホテル街と景観を異にする高層の建物ばかりだ。
 約二十分くらい、駿哉はすっかり男の影になったつもりで何も考えず後ろをついていた。
 と、男が突然振り向いた。三角形の孔のような目がこちらを向いているが、どこを見ているかわからない。すぐ向き直ると、二度首を左へ大きく傾げて、そのまま左へ体が傾いた。ぐうっと旋回するようにふくらみ、駿哉の方に向かって歩いてくる。すれ違うとき、なにか因縁でもつけられるのかと、身構えていた。
 男は、駿哉の方へ体を傾けつつ、
「トゥムロス」
 たしかにそう聞こえた。
 男の声に噛み付かれたような衝撃が走った。男のひどい口臭も口から飲み込んだような気がした。もちろんどこも痛くはなかったし、口臭も臭ってはいないのに。なのに、左胸のあたりに拳くらいの凹みができたような感覚が残っている。
 振り向いたときには、男の姿はなかった。
「トゥムロス! トゥムロス!」
 と、男の声が聞こえてくる。
 暗闇に眼をこらしていると、奥まったところに大きな鉄製の門扉があり、それ自体はぴったり閉じているのだが、門扉に取り付けられた勝手口のような戸は開いている。声はその戸の内側から聞こえてくるようだった。
 しばらくその場で、中に入るかどうか悩んで立っていた。もし、男が襲いかかってきたら無傷では済むまい。
 しかし、男の声はなかなか止まず、駿哉も好奇心の方が勝ってとうとう中に入るため、足を一歩踏み出した。
 そこは市営の霊園であった。門の横に取り付けられているプレートをみて分かった。
 小さい戸を抜けると、外とは違う空気の匂いがした。そのなかに微かな磯の匂いも混ざっている。
 霊園のプレートには、大阪市立毛馬霊園と書かれていた。毛馬の閘門という淀川と支流の大川の合流する河川敷あたりなのだろう。
 男は霊園を貫く大きな道の真ん中で、腰を低く下げたドジョウ掬いのような格好で右左をゆっくり向いている。それは実によく訓練された武道の型のようであり、東南アジアの祭りの踊りのようにもみえた。
 道は下り坂になっているが、両側の墓所は徐々に縁を高くして、突き当たり近くでは大人の身長くらいの段差になっている。男は左側の墓所に登り、先へ進んでいる。
 駿哉は視界が開けているので、三十メートルほど距離を取りながらゆっくりついて行った。
 突然、男が段差を飛び降りて、視界から消えてしまった。地面に着地するまえに男の姿が忽然と消えたのだ。
 暗闇になじんだ眼で、男の歩いたところを小走りでたどった。この辺だと思った場所にきたとき、地面から突き出た堅いものに爪先をひっかけて、前のめりに転んだ。

 蛇口から水が流れる音、鍋の蓋がこすれ合う音、包丁で何かを切っている音、それらの音がどんどん大きくなってきて、駿哉は目を覚ました。
 昨夜はどうやって家に返ってきたのか全然記憶にない。こんなときは、たいてい二日酔いになっているはずだが、体には一切アルコールは残っていない。ただ頭の中に薄いガーゼをかけられたみたいに、何かを思い出そうとしても、糸口すらみえないのだ。
 数十秒なのか数分なのか、目を覚ましたその場で自分を取り戻すための格闘をしていたが駄目だった。あきらめて目を閉じると、顔の上に何かが覆いかぶさる気配がした。もう一度目を開くと、由布子の顔があった。
「駿ちゃん、起きなさいよ」
 由布子の白い指が駿哉の頬を軽く叩いた。
 駿哉はまたどこかへ行こうとする由布子の手を咄嗟に捕まえようと、腕をのばしたが間に合わず、宙を握る格好になった。
 その手を股間におろし、自分が勃起しているのを確かめた。
「由布ちゃん、こっちおいで」
 もうなにがなんでも今すぐ由布子を抱きたいのだ。起きて捕まえればいいのだが、体が重くて起き上がれない。
「なあなあ、由布ちゃん。頼むから」
 そう言うと、由布子は戻ってきてくれた。
「会社に遅れるって。朝ごはんも作ってあるから」
「じゃあここで食べるから」
 駿哉を見下ろして立つ由布子の足首をさすりながら言った。
 味噌汁の湯気とネギの香りが頭の上でした。由布子はお盆に朝ごはんを載せて、駿哉のもとに持ってきていた。
 駿哉は手をつかんで、横に座らせた。水色のブラウスのボタンを外し、由布子の乳房に手を置いた。
「もうどこにも行くな」
 駿哉は何かを言おうとしていた由布子の唇を塞いだ。
 由布子はこうなることを悟っていたように、静かに、けれど、情をもって駿哉を受け入れていた。
 こんなセックスは経験がなかった。からまったふたりの体は、溶け合って、一本の木になったようだった。少なくとも駿哉はそう思った。いつまでも続く快感と一体感からか涙が流れてくる。
「大丈夫?」
 由布子が涙に気づいて心配している。
 大丈夫だ、と言おうとしているのに声が出せない。
「あんた、大丈夫か?」
 ツンツンと何かの金属のような冷たいもので、鼻を突付かれている。
 由布子の声にしては、枯れているし、おばさんのような声だった。
 目を開けると更に真っ暗で何も見えない。また、頬に冷たいものがあたった。
「生きてるか?」
 そのとき初めて、駿哉は枯葉か何かの上で寝ている自分に気がついた。
「大丈夫っす」
 声の主は由布子ではなかった。
 顔の上を紐状の何かが上下している。先端に丸い物がついているので、顔にあたったのはそれだと分かる。
「どすんっと、えらい音がしたんで見にきたんよ。あんた、頭打ったんと違うか。頭打ってたら動かんほうがええよ」
 女は優しい声で駿哉の体のことを気遣ってくれるが、この女がおせっかいをしなければ由布子といれたのにと思うと、腹が立ってきた。でもよく考えれば、由布子が消えたのは気絶していたせいで女のせいじゃないと考えを修正する。
「ゆっくり頭とか腕や足、さわってみ。痛いとこや血でてるとこないか」
 駿哉は言われたとおり、頭、腕、腹、足と掌で触っていった。
「どこも痛いとこないっす」
 なぜか、次の指示をして欲しくて、女の言葉を待った。
「そうか。ほな、ゆっくり立ってみ。せやけど、ちょっとでもおかしかったら、すぐ横になりや。救急車呼ぶからな」
「はい」
 立ち上がって、
「大丈夫です」
 と、大きな声で言った。
「登れるか?」
「ここはどこですか……」
 二メートルはあると思われる鉄の箱のようだった。足の下には枯れ草のような感触があった。
「とにかく、さきに登っておいで」
 こんこんと縁を叩いて、梯子の場所を教えてくれた。
 駿哉が登りつくと、女が腕組みをして立っていた。黒っぽいウインドブレーカーに長い紐を持って、首には体育の教師が使っていたような笛をぶら下げている。歳は四十歳代と思われた。
「何して落ちたん?」
 まずそう聞かれるのが普通だと思った。
「散歩してたら、ここの戸が開いてたもんで、中に入ってウロウロしてたんです。道があると思って足を踏み出したら落ちたみたいです」
 女は怪訝そうに駿哉の体を見回している。
「怪しいもんと違います」
 急いでつけたした。
「分かってるわ。墓場でなに悪いことすんねんな。エジプトの墓じゃあるまいし、掘ってもなんもでてけえへんわ。あんたが入ってたのはゴミ箱や。ここの霊園は広いよって、枯れた仏花やお供えは全部この大きなゴミ箱に捨てるねん。それでゴミ箱ごとトラックで焼却場へ持って行くんよ」
 女はそう言いつつもまだ、駿哉の身なりを確かめるように見定めていた。
「ちょっとついておいで」
 駿哉は素直に後に従った。
「犬の散歩ですか?」
 外灯の下にきたとき、女の手にあったのが、赤色の犬のリードであることがわかったからだ。
「そやで」
 短かすぎて、次の言葉がでてこない。何か言おうとしていると、女は「こっちや」と言って、駿哉の背中に手をあてて軽く押し出した。
 そこは霊園の歩道から内に入った大きな墓所だった。奥行き五メートルはある縦長の墓所で、突き当たりに大きな墓石がある。下は玉砂利を敷き詰めてあり、両側は生垣で囲われている。その中央に男が三人、めいめい手に缶ビールを持って座っている。
 駿哉の玉砂利を踏む音に、三人がこっちをみる。別に険しい視線ではなく、あっさり仲間に入れてくれそうな一瞥だった。
「こんばんは」
 駿哉はさきに言葉を発した。
「こんばんは」と三人の方も口々に返してくれる。
 女は、
「ごみ箱から拾ろてきたで」
 そう言うと、駿哉の横をすり抜け、男たちの間にちょこんとしゃがんだ。そして、こっちへ来いとばかりに、顎をしゃくって横を指した。
 もう従うほかないような気になった。最初からこの集まりのメンバーだったかのように、円陣の途切れ目になっている男の隣に座った。座ると同時に、冷たい缶を手渡される。小袋に入ったミックスナッツもだ。薄明かりに缶に書いてある字を見るとハイボールと読めた。いただきますと言って、缶を開け、一気に三分の一くらい飲んだ。冷たい液体は胃袋を通過して臍の下あたりまで到達していた。それらが体内の熱に温められ、アルコールが一気に粘膜を透過するのが分かる。
「うまいっす」
 駿哉は誰にとはなくつぶやいた。四人はそれぞれ、にっこり笑う者、頷く者と声は出さずに答えてくれた。何か訊かれるものと思っていたのに、誰も話をしない。ただ、嬉しそうに缶を口に運び、つまみをぼりぼりいわせているだけなのだ。
 目がだんだん慣れてきて、まわりの様子が見えるようになった。相当広い霊園のようだ。霊園に沿って高速道路の高架があり、そのオレンジの照明が霊園全体を明るくしているのだった。
「ここはだれの墓なんですか?」
 そう訊ねると、いちばん歳かさの男が、
「孝徳天皇の女官の鶯式部の墓やけどね。移設されたんよ。昔は鶯塚いうて祠があってんけどね」
「昔からここが、この人の酔い覚ましの場所やってん。ねえ」
 女が付け足す。
「そう、僕ね、天満で酒飲んでここまで歩いてくるわけ。夏なんかちょうど、ほれ、あの石のベンチが気持ちいいの。ここで休憩してから家に帰ってたんや」
「みなさんはどういったお知り合いですか?」
「ぼくらは石屋の組合」夜目のせいだけとはいえないような、浅黒い顔をした男が言った。
「まじっすか」
 駿哉はそれがどういう意味かわからないが、驚いたような声をあげた。
「うそうそ、雀荘や。ひとりでやりに行ってて、そこで知りおうたんや」
「わたしはちゃうよ」
「せやな。姐さんとはここでおうたんやな」
「そう、忘れもせえへんわ。今日みたいにこの人らが酒盛りしてて、調子のってしもて、枯葉や紙に火つけだしてん。寒いいうてな」
 浅黒い顔の男が話を続けた。
「枯れた仏さんの花やなんやと燃やしてたら、えらい大きな火になってしもて、そのときこの姐さんがひとこと。
『わたしは別に社会的に失って困るもんないから、誰かきたらみんな逃げや』てね」
「だってほんまやもん、みんなびしっとした格好してたから、どっかの会社の偉やさんや思てな。実際、信金の支店長に、医者に、もう退職してるゆうてもゼネコンの部長さんやった人らやろ。ボヤ騒ぎや言うても新聞は喜んで書いてくれるわ。わたしには後ろに会社も銀行もないから誰も食いつかへんわ」
「お医者さんに支店長さんですか」
 駿哉は改めて男たちを見回した。
「ぼくはもう支店長やないよ。それに彼女かって居酒屋の女将やから同じやで」
 初めて口をきいた男が言った。
「君、なんて言うの」
 浅黒い顔の男が尋ねた。
「高木です」
「下は」
「駿哉です」
「ふうん」
 そういうと、胸元から手帳をだして何か書き始めた。
「お、これはおもろいもんができたで」
 手帳をこちらに向けて言った。
「なんですか?」
 駿哉は殴り書きの文字を読んだ。
「ローマ字でぼくの名前を書きはったんですよね」
「そや。せやけどこれにはもうひとつ読み方があるん知ってるか」
「分かりません」
「シューニャ、言うんや」
「シューニャ……。あっ、エスエイチはシュって読まれますよね。それでニャですね。それで……」
「サンスクリット語や。これはええで」
「なんですか。教えてくださいよ」
「くう」
 ぎょろっとした目を駿哉に向ける。
「シューニャは空という意味なんや」
「はあ……。あの色即是空のくうですか」
「そや、常に気をつけて世界を空であると観ぜよの空や」
「だからゼロや」
「はい、ゼロ……」
「数学でゼロは空のことやねん。せやから兄ちゃんの呼び名はゼロに決まりや」
「はあ、ありがとうございます。でもなんかゼロって、いまの僕のこと言い表してますよ」
「ゼロは何もないのとちがうよ」女が言った。
「ほんまですか」
「色即是空やがな」退職した男が言った。
「すべての物事、色のことや。それは空によって成立していて、空こそがすなわち物事っていう意味なんやで」
「じゃあ、いい名前なんですね」
「世界の中心でって、あったやろ。お前のこというんやで」
 はははは……とみんなが笑った。
「じゃあ、みなさんも名前があるんですね。
「わたしは智恵子でソフィア」
 女が言った。
「支店長さんはなんて言うんですか」
「もと支店長」真顔で答える。
 また、わははとみんなが笑った。
「順治なんでオーダーらしいわ。スペイン語」
「ぼくは継夫なんでボンドやて。でも、みんなとちごて継ぐって、ひっつけるって意味で接着剤のボンドや」
「じゃ……」
 と、みんなに名前を付けた男のほうをみた。
「ブラックシャフト」
 横合いからソフィアが言った。
「何でと思う。わたしがつけたんよ」
 男の方をみる。無反応ながら目じりが下がって皺がよっている。いまにも噴き出しそうだ。
「ゴルフクラブの名前からとったんよ。単に色黒いやろ」
「ほんまですか」
 もう一度男の方をみると、なるほど夜目にも相当色が黒いことがわかった。
 笑ってはいけないと思い、
「そうなんですか……。ところでソフィアさんの犬はどこにいるんですか?」
 犬になど興味はなかったが、話題を変えるための質問だった。
「墓の中で走り回ってるわ。この笛を吹いたら戻ってくんねん」
「ほう、それ犬笛ですか」
「ちゃうよ。ただの体育の笛」
 そこで沈黙になった。
 しばらく誰も話さず、くちゃくちゃと噛む音だけが聞こえた。
 駿哉もやっとこの場に居ることに慣れてきて、さっきの大きなゴミ箱の中でみた夢のことを思った。
 なんとリアルな感覚だったんだろう。由布子は肉体を持った生身の女そのものだった。触覚も匂いもまわりの音も駿哉の想いも現実だったのだ。
 また会いたいと思った。
 由布子は一年半前に別れた彼女だ。結婚するものと思っていたのに、突然別れを言われた。
 お互い就職して一年も経たない頃だった。約束しても急に用事ができたと断られることが増え、暗い顔をすることが多くなってはいたが、駿哉は心変わりをしたのだとはまったく思わなかった。そうなるのは体調や仕事のせいだと思い、心配していた。そして会うといつも、好きや、結婚しようとそればかりを繰り返していた。
 それは電話で告げられた。好きな人ができたから、駿哉と別れたいという言葉だったと思う。もちろん、納得などできなかった。時間は忘れたが、夜だった。今からすぐ行くと言うと、絶対来ないでと言われた。何度も何度も電話をして食い下がってみたが、別れたいの一点張りだった。
 数ヵ月、駿哉は毎晩酔いつぶれるまで酒を飲み、明け方家に帰ってシャワーと仮眠をして会社へ行くという生活が続いた。そんな時、全然会ってくれなかった由布子から会いたいと連絡がきた。
 カップルで一緒に旅行も行ったこともあるバスケ部の先輩が、自分の彼女から由布子の番号を聞きだして、由布子に意見をしたらしいというのは後でわかったのだが、駿哉と別れるのに会わずに別れるというのは、卑怯だと言ったらしい。
 その日、由布子をみてやっぱり大好きだと痛感した。こんなに好きなのに、自分のもとを離れて行ってしまうのかと思うと、胸を掻き毟られるような悶えを覚えた。駿哉は泣き通しだった。
 大学で知り合って、すぐに好きになったこと。付き合うまで何度も断られたこと。やっと付き合ってくれたこと。デートの帰り、由布子の寮のしたの芝生に座って朝まで喋っていたこと。由布子の考えることや言うことが、駿哉にとって、刺激になり方向づけてくれたこと。これほど求めてもだめなのかと、駿哉は由布子に頼んだのだ。
 由布子も泣いていた。けれど由布子は帰るところがあるのだ。
 当時、会社での仕事も駿哉がやりこなせる量をはるかに超えたものだった。部長肝いりの新規部署が駿哉ともう一人同期入社の新人ふたりで始まったのだが、部署に付けられたノルマが大きすぎて、新人の駿哉たちに十年目の社員と同じ額を当てられた。先に同期の方が、うつ病に罹り退職してしまった。残った駿哉が同期の分のノルマも背負わされることになった。
 そんな生活をしていたら体がおかしくならないほうが変だろう。辞めた同期と会ったときに、心療内科の受診を強く勧められた。診断は自律神経失調症だった。体温調整ができなくなっていたらしく、ずっと三十八度近い体温で生きていたらしい。医者からはすぐ休養との診断をくだされた。駿哉は病院をでた足で会社に病気療養の診断書を提出した。そうしてから、体温計を脇に挟んで、同期とふたりサーフィンにでかけたのだった。
 いまも体温は相変わらず調整できないので、体温計でたえずチェックして、体温があがると水風呂に入るなどして、さげなければならなかった。
「ゼロ、ゼロ、兄ちゃん、兄ちゃんてば」
 ブラックシャフトがずっと呼びかけていたらしく、気づいて顔を上げると、皆が笑った。
「わたしら都会の夜の研究ちゅうのやってんのや。どういうことかっていうと、深夜、オープンエアなお店の席に座って歩道とかをみてるやろ、そしたらマンホールの穴からゴキブリが這い出てくるねん。そやけど誰も気つけへんねん。一匹、二匹やないよ。そういうこと、誰も注意してみてないだけやねん」
「ほんまですか。気持ち悪いですね」
 ゴキブリときくだけで、ぞわぞわとしてくる。
「都会の地下は無数の穴と盛土と土管やケーブルで縦横に重層的に構築されてるねんけど、そんなん知る必要のある人間は少数でいいやろ。逆に言えば少数の人間だけが真実の姿を知ってるっちゅうことや。ひとりで全部を把握してなくても、そういう人間の集まりがあれば、昼間の地面の上で生活してる人間なんか意のままに操れるんとちゃうか」
「操られるんですか。別に知らんでいいことやったら、知らんままでもいいのとちゃいますか」
 権力とか金とかそういったものは、気力が充実していなければ、求めようとも思わないのだと思った。今の駿哉には、欲望がないのではないかとさえ思えた。
「もう、違うと思うよ」
 ソフィアが言った。
 何を受けての言葉なのか判然としなかった。ただ、箴言や禅問答のようなここの会話では、駿哉の言った「知らぬが仏」的な考え方では、もう収まらないということを言われた気がした。
「わたしはずっと、生きることがあきらめることやと思ってきた。しゃあないなって。失ったものは二度と戻って来ない。物でも人でも時間でも、な。せやけど、この歳になって、わかってん。あきらめる必要がなかったってこと」
「どうするんですか」
 他の三人は何も言わない。駿哉は仕方なく、この観念論のような問答に付き合うことにした。
「あんた、さっきゴミ箱の中でにったり笑ってたよ。ゴミ箱に落ちて、あんな幸せそうな顔してる奴、初めてみたわ」
 ソフィアは話は終わりとでも言うように、立ち上がってズボンについた土を払うようにパンパンと足を叩いた。
 同じようにみんなも立ち上がって、空き缶やつまみの袋を片付けだした。
「僕、笑ってたんですか……」
 驚いて聞き返した。
「あんなゴミ箱は、霊園のところどころに置いてあって、枯れた花やお供えをそこに捨てていくんや。週に一回、トラックで回収にきて、焼却場で燃やすねん。コンテナごとトラックに載せるんやけど、どうするか分かるか」
 ブラックシャフトが言った。
「いえ、分かりません」
「そんなんが知りたかったら、またここに来たらええわ」
 ソフィアは赤いリードを投げ縄のように回しながら言った。

 色紙マンが亡くなったとメールがきた。

 通夜は今夜で、明日告別式は、長柄斎場でとり行うと書かれてある。昼間の勤務と引き継ぎをしたときには、このことについて何も言われなかった。気がついたのは夜食を食べ終えた今だ。昨日まで曲りなりにも一緒の職場だった人の死が赤の他人の死と変らず扱われていることに違和感もない。人間失格のすごろくの目がひとつ進む。
 それとは別に、昨夜の霊園で奇妙な体験があったので、またそういう所へ行ってみたいと思った。色紙マンとも何度か無駄話をしていたし、携帯電話で回覧の情報を写真に撮った。
 
 長柄斎場は火葬場と告別式会場、四十九日法要とそれぞれの参列後の食事の施設も整った場所になっていた。それに敷地の中から毛馬霊園へも歩いていけるようになっている。天気は上々で葉の出だした桜の並木がさわさわと揺れる気持ちのいい昼だった。
 色紙マンは高校野球で甲子園にでたこともあり、地域で少年野球のコーチをしていたので、他の葬儀と比べると会葬する人は多い方だった。
 駿哉は焼香を済ますと、出口には向かわず毛馬霊園に通じる通路を歩いた。すると建物と建物の間を数人の男女が横切るのがみえた。それは霊園で酒盛りをしたソフィアやブラックシャフトだった。しかし、彼らの服装が斎場の職員としか思えない制服姿なのだ。
 彼らは作り話でからかったのだろうかと駿哉は思った。それにしても、視線があったのに、驚く様子もなく一般の会葬者に向けるような、静かな目礼をしただけなのはおかしい。
 彼らの方に向かって一歩足を踏み出したそこは、斎場とは地面の感触が違う粘着質な道だった。見えている景色に変りはないのだが、空気なのか音なのか、とにかく少し違うと感じる。さっきまであると確信していたものがないのだ。
 駿哉はちゃんと起きているし、夜でもない。だから、この前のように気を失っているわけでないことは確かだ。また、一歩足を前にだす。もう一歩違うほうの足を出す。

 今朝、由布子が起こしに来たのだった。駿哉はすごい二日酔いで目を覚ました。
「駿ちゃん、昨夜何時に帰ってきたの」と由布子がきいたので、駿哉は思い出そうとする。
 昨夜はいつものように、取引先の武部さんと居酒屋を三軒まわって、へべれけになってタクシーで帰宅した。
 駿哉は一歳半になる拓海の寝顔に酒臭い息をさせながらキスをした。次に隣に寝ている由布子の唇にキスをする。背広を脱ぎ下着のまま、由布子のそばに体をすべりこませた。
 由布子をうしろ抱きにして、乳房と下腹にパジャマのうえから手を置いた。駿哉の右手に当たった下腹の中には、二人目の子どもが宿っているのだ。由布子のうなじに唇を這わせ、髪の中に鼻を押しこんで頭の匂いを嗅ぎながら眠った。
 仕事はそう楽しくもないが、由布子や拓海や産まれてくる子のためになら何があろうとも養ってみせる。
 ああ、由布子。僕の半身。
 駿哉はぐっと腕を前で交差し、抱きしめる仕草をした。
 
 これは違う道なのだと確信した。
 これはまだ脳の中なのだ。
 
 色紙マンが亡くなったとメールがきた。
 
 朝から母親と父親の口論が聞こえる。
 駿哉はフローリングの上に敷いた煎餅布団の中で、その声を聞いていた。
 母親はいつもいらついている。もともと仲のよくない夫婦のうえ、ひとり息子の駿哉は、フリーターで就職口をみつけられないときているせいだ。でも、ふたりとも定年まで勤めあげ、そこそこ多い退職金をもらい、マンションのローンだって終わっているのだ。
 不満をかかえながら生きるのと、満足をしながら生きるのでは、それがたとえ同じ状況であろうと、世界は違うのだろうなと思う。
 葬式に着ていく喪服を借りに父親の所へ行った。何かを頼まれるのが滅多にない父親は、嬉しそうに洋服ダンスから喪服を出してくれた。サイズは合ったがズボンの丈が短かった。
 
 自分のズボンの裾を見ていた。長さがあっていない黒のスラックスは今朝、父親から借りた喪服だった。
 この奇妙な現象は、他人の身に起こったことだったら、何か頭の病気だと思うだろう。けれど、我が身に起こったことなので、どうもこうも否定のしようがない。由布子と子どもたちのいる場所から、両親の家で目覚めて、今日の斎場に来るまでの記憶が、一本のフィルムに収まってる感じだった。
 
 明るい霊園を歩いてみる。昨夜、落ちて気を失ったゴミ箱も、お酒を飲んだ場所も、そもそもどの道から霊園に入ったかもわからない。
 駿哉は休憩用のベンチに座って、携帯電話を取り出した。携帯のアドレス帳には、由布子の番号とアドレスが消さずに残っている。今、電話したら由布子がでて、パパ、今日何時に帰ってくるのと訊かれるんじゃないかと思った。
 アドレスをスクロールして、由布子の名前で止めた。左手に持った携帯を左手の親指だけで、決定していくと、由布子の番号が液晶に表示されるところまできた。
 これをもう一度、左手の親指で押せば由布子に繋がる。まだ同じ番号を使っていればのことだが。
 と、突然携帯電話がブルブルと震えだした。バイブにしている駿哉の携帯に電話がかかって来たのだ。
 出てみると、いくつか履歴書を郵送していた会社のひとつで、二次面接に来いという内容だった。筆記試験をするという。
 その会社はTMロジスティックスといった。配送業だと思うが、ロジスティックスという意味をちゃんと知らないと思い、切ったあとに携帯で検索して調べてみた。

――製造業における原材料調達から製品配送までの物流システム全般。 軍事用語で「兵站」
 と、あった。
 最後の兵站という漢字が読めなかった。再度、その漢字を検索した。
 兵站とは、へいたんと読み、軍隊組織が戦闘能力を維持するための必要な雑務全般のことだとわかった。
 調べついでに、昨夜の歩く男が言った言葉も調べてみようと思った。
――トゥムロス
 左手の親指で文字を打ち出す。
 該当はなく、かわりに出てきたのは、ティム・ロスという人名だけだった。
 それで墓と打ってみて、翻訳サイトを検索した。すると、フランス語でtombeと出てきた。トンブかツゥンブと読むのではないだろうか。
 駿哉は何か核心に近づいたような気して、腰がベンチから浮くのを感じた。
 ロスは損失と出た。でもツゥンブと発音するなら、ムロスを発音する言葉を捜さねばならないのではと思った。
 ムロス、ムロスと声に出して言ってみると、それはプレイスではないかなと思えた。ツゥンブプレイスがトゥムロスと聞こえた。
 いさんで、翻訳サイトで墓地を検索した。それはtombe-place ではなくCimeti?re、セメタリーだった。
 すっかり気抜けしてしまって、ベンチにどっともたれかかった。
 このたわいない所為で、すっかり由布子の番号のことは頭から遠ざかってしまった。親密さが去り、これまでのように過去という、どうしても行くことができない座標上の人に戻ってしまった。

 決して眠ってはいなかったと思う。けれど、まばたきの時間にあたりは真っ暗になっていた。
 駿哉は霊園の昨日酒を飲んだ砂利の上に座っていた。
 立ち上がったが、ふらふらして真っ直ぐ歩くことができなかった。
 体を探ってみる。
 暗闇でみえないが、どうもスーツを着ているみたいだ。財布、携帯もちゃんと持っていた。
 まだ駿哉は自分がどの座標上にいるのか判っていない。
 霊園の通路まででると、昨日……、昨日だと思われる日に入ってきた門がみえた。あそこから出ることが出来れば、なんとかなる。駿哉は鉛のように思い足を前に引きずるように出した。
 門をくぐると、そこにはちゃんと大川があり、車が走る国道があり、駿哉の知る道があった。
 
 国道一号線まで辿り着いた。
 ドンキホーテは昨日と同じように赤々と電気がついている。その前を通って、JR京橋駅へ向かった。バイクのときは一、二分の距離が徒歩で、しかも鉛のように感じる足では信号から信号まで途方もなく時間がかかった。それでも、ようやくJR環状線のガードの手前まできた。そこから右へ行けば京阪とJRの間の広場にでる。
 広場には人が大勢いた。フライヤーを持った飲食店のスタッフ、地面にシートを敷いて絵を並べて売っている人、占い師、ギターを弾いて歌っているグループ。その動かない人たちの間を点線のように連なってJRから京阪へ京阪からJRへ人がうねうねと動いている。
 駿哉は広場の奥の駐輪場前の植え込みに座った。その場所は広場の中の動く人、動かない人とはまるで違うところであった。
 駿哉の目の前の光景は縦横高さのキューブとするなら、駿哉の座るそこは駿哉を含め、一次元的、概念でしか存在しないところのように思えた。
 キューブの中の動きに明らかに反する動きをみせる人たちが現れた。二十代前半の男たち数人だ。ジーンズにスニーカー、パーカーにニット帽の服装からすると、いまの駿哉と同じフリーターのように見えた。
 彼らは広場の真ん中のマンホールに透明のビニール袋を被せ、その周囲をガムテープで留めた。ひとりが袋に手を潜りこませて、マンホールの穴に向かって殺虫剤を噴霧しはじめた。およそ一分くらいして手を抜くと今度は携帯をマンホールにかざして何かを写している。
 しばらくすると、あちこちから悲鳴が聞こえてきた。そして広場は走る人、足を地面に打ちつける人、叫ぶ人でパニックになった。
 地面には黒いものが無数に走り回り、それが人の足について這い登っていたりした。
 ギターを弾いていた人も絵を売っていた人も、していたことをやめ、恐怖の顔で身を縮めていた。
 殺虫剤をまいた男たちは、半分引きつった顔で笑っていた。
 パニックにあとから遭遇した人は、離れたところから携帯でその様子を写し撮っているし、その場で何かに加わっているのは、キューブの中の人たちだけである。
 駿哉はもう一方のキューブの外、一次元の淵に立つ人間を見つけた。それは、看板を持った歩く男だった。
 駿哉は立ち上がり、また一歩前にだした。重いだろうと覚悟していた足は嘘みたいに、普通に歩けた。
 逃げまどう喧騒の真ん中を歩いているというのに、駿哉の進むところは、どこまでも一次元的な直線であった。
 ふと、横のOLをみた。首を左右に振り、バッグをぎゅっと握り締めた姿、そしてその顔には恍惚とした表情がみてとれた。
 えっ、と思う。
 若いサラリーマンが小躍りしている。その顔もどこかしまりのない笑い顔であった。
 ひとりひとりの顔をみていく。なんということだろうか、彼らはひとりのこらず、喜びの表情をしているのだった。恍惚とする者。だらしなく笑い続ける者。よだれを垂らしながら舞い踊る者。
 マンホールの穴から沸きあふれでてくる黒いものたちは、なお数を増やし続けている。そして広場は一瞬にして数百の人で膨れ上がり狂喜の声で満ちていく。
 駿哉と歩く男との距離はどんどん詰まりつつあり、歩く男の三角になった孔の目は駿哉を見ているはずだった。
 歩くのにあわせて自然に振っていた手が駿哉の視界に入ったとき、その手は四角い木を握り締めていた。
 歩く男が持っていた看板だった。
 手から腕、胸、腹と駿哉は視線を動かす。
 最後に振り返って狂喜の中を見る。
 もう一度前に目をやる。歩く男はいない。
「トゥムロス」と言ってみた。
 看板を地面に伏せ、駿哉は猛スピードで歩き始めた。


 

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