もうこの二十年あまり、都会から都会へ職も二度、三度と転々と変えてきた。これからどうしたものかと実家に戻ってあれこれ考えている頃、村内にある神社の氏子の総代を引き受けて欲しいという依頼がきた。
「もう、こっちに住んでいるんやろ。そうなら、総代を引き受けてもらわんとな。ここに住んでいる限り、みんな務めているんや。いい返事待ってるで」と二つ上の芳次さんが家へ来るなり半ば強制的に押し付けるかっこうで、用件を伝えてさっさと帰っていった。
予期せぬ依頼であった。二年の間、氏子の総代長として神社の神事、祭りといった行事のとりまとめをしなければならないとのことであった。ずっと故郷を離れていた欣司にとって、まったく頭のかたすみにもなく、不意を突かれた感じだった。田舎に帰るということは、こういうことなのだと思い知らされた。
依頼があったあくる朝、目が覚めると、パンツの前が濡れていた。手で触ってみると、べっとりと相当な量だった。少しばかりアソコがまだ脈打っているように思えた。こんなことは何年振りだろう。ストレスかそれとも若さの証拠なのか、すこし複雑な気分である。それにしても変な夢だった。
それは、村の神社を焼き尽くす夢で、欣司の指示によって、大きなトンボが口から火を吹き、本殿や拝殿、社務所、周りにある木々を次々と焼き払うというものだった。大きなトンボといっても、それは普通の大きさではなく、形容するのにもなかなか難しく、あえて言うならゴジラ映画にでてくるモスラの半分かもうすこし小さいくらいか。欣司は真上にいる巨大トンボの顔を見上げた。どうして、トンボなのかわからない。どうやらそのトンボは彼の家来のようで、四本の長い羽をわずかばかり上下させて、浮いていた。表情というものがまったくない。複眼の目だから仕方がないことだが、どこを見ているか、何を考えているのかわからず、どう指示したらいいものか最初はとまどった。しかし欣司の指示にたいして的確に応えた。口から放つ炎は激しく、瞬く間に神社にある建物は燃え尽き、崩れていく。巨大トンボの全身を赤くさせた。神社のありとあらゆる物が灰となって、白い煙は夜空に吸い上げられていく。周りの木々も炭になって忘却曲線を描くようにかろうじて立っていた。匂いはまったくしなかった。神社の周りは眠りの時間なのか、しんと静まり返っている。参道から見ている欣司は、ただうっとりとその光景を眺めていた。まるで情事を終えたあとの恍惚感に浸っているような感じだった。
欣司は起き上がって、台所に行ってコップ一杯の水を飲んだ。窓を開け、ふっと息をついた。
実家に帰ってきて、すでに三ヵ月が過ぎようとしていた。最近はじめた週二日ていどのアルバイト以外はあまり外出していない。次の就職先を見つけるにあたって、インターネットと電話に頼る日々が続いていた。
失業中の欣司は不惑の四十をいくつか越えていたが、まだまだ仕事に対しての夢や情熱というものがあり、それなりにキャリアを積んできたという自負もあった。大学時代を含め名古屋で七年、大阪三年、東京十年、ニューヨーク二年と、大きな舞台で大きな仕事をやり遂げていったが、先の全世界の株暴落が欣司の仕事を直撃した。大きなプロジェクトを抱えた矢先の、あっという間の出来事で、プロジェクトは中止になり、その後まもなく会社は倒産した。不思議と落ち込みはなかった。不可抗力であったし、なにより欣司のまわりにも職を失った人がたくさんいたからであった。出会い頭の交通事故に遭ったと思えばいい。いずれにせよ、片田舎でこれからの人生を送る気持ちなどさらさらなかった。
そんな時に舞い込んできたのが氏子総代の依頼であった。生まれたときに烏帽子式(よぼしき)という儀式をうけている以上、氏子からは逃げられない。近い将来、いやでも総代を引き受けざるを得ない。母に聞くと、実家のまわりでも、総代を引き受けるために仕事をやめて、都会から故郷へ帰ってきたというところもあったようだ。
この一、二日というもの、からだ全体に重石を乗せられたようで、気分が沈んでくる。そういう時は、いろいろなことを考えるものだ。いざとなれば欣司は独り身だけに行きたいところに行けるが、どうしても七十半ばの母が気がかりになってしまう。
ふと居間から、縁側をはさんだ裏庭を見ると、引き戸の一枚ガラスに差す陽光の具合が、季節の移り変わりの気配を刻々と教えてくれた。帰ったのは七月のおわり頃だったか。セミの鳴き声と照り返された草木や庭石が眩しくて目を細めるしかなかったが、そこかしこからリーン、リーンと聞こえた秋の虫の音も終わりを告げ、今では縁側ちかくの南天に赤い実がなりはじめている。小鳥が実を摘み、空高く飛んでいくと、裏庭の向こう側にある柿の木の実が青い空に映えている。
ずっとビルとコンクリートに囲まれた生活をしてきた欣司にとって、忘れていた季節感と不意に湧いてきたある種の敗北感が相俟(あいま)って、背中からくるじわっとにじみ出てくる寂しさを感じずにはいられなかった。
もう昼ちかくの時間だ。母に頼まれていた、仏壇に供える御仏供(おぶく)さんがテーブルに置かれたままだった。すでに、盛ったご飯がからからになっている。近くの介護センターでボランティアに行っている母が、間もなく帰ってくる。
パソコンの電源を切り、パジャマ姿のまま仏間に入った。こんなだらしなさも、いつもの習慣になってしまった。鈴(りん)を鳴らし、仏壇に手を合わせ、御仏供(おぶく)さんをそれぞれの仏さんに供えた。そして、左に向いて神棚に、くるっと身体を反対に向けて、父、祖父母の遺影に手を合わせた。どの顔にも稟とした表情がうかがえる。後ろめたさがないわけでもないが、なにもかも自分を見透かされているようだ。ナムアミダブツと、形だけの簡単な勤めだったが、都会生活が長かった欣司には、なんとも言えない不思議な時間と思えた。
欣司を含む二十数名の氏子を持つ神社は、小さな村の中にある。神社じたいも、どこの村にでも存在するごくありふれたものだ。この辺りは、都があった京都から北東に位置し、鬼門の方向を指す。そのためか、昔から災いを恐れて、神事がしっかりと残っている。米どころであり、雪が深いというのもあったに違いない。周りの村々には、神事やお祭りが無形重要文化財として取り扱われているところもある一方で、若い衆がまったくおらず、神社の存続が危ぶまれているところもあるようだ。いまの彼の村ではそこまではいかないが、総代を受ける者の年がどんどん若くなっている。欣司が子供の頃は、総代を受けるのはたいてい定年に入った六十代くらいと決まっていたのだが。
十一月のある日曜日、新嘗祭(にいなめさい)という神事があった。気が進まなかったが、母は行けと言った。仕方がないので、顔ぐらいは見せといたほうがいいと思って、執り行われる時間よりも早めに出かけた。念のために、地味なスーツを着て、母に言われた通り、熨斗(のし)に神酒と書かれた一升瓶を持っていった。
数年ぶりの神社だ。表から行くには気が引けるので、裏からまわっていくことにした。境内に続く路地が三本あったのだが、うち二本が閉ざされていた。アパートと洋風の家が建てられていたのだった。欣司の家からいちばん遠い路地に入ろうとすると、一瞬、路を間違えたかなととまどう。曲がりくねった細い路は、一台分の軽自動車が入れる幅のアスファルトに覆われて、大きくカーブしていた。神社までつづく左右の竹林の雑木林も取り払われ、こちらにも赤みがかった南仏ふうの家が建っていた。うっそうとした繁みがなく、視界が広がっている。歩をすすめていくと、裏門の鳥居があって、すこし安心した。
新しく建て直された社務所に沿って境内に踏み入れると、拝殿に上がろうとする烏帽子をかぶった神官らしき人と、その後ろにつづく紋付袴を着た芳次さんが見えた。そして拝殿の前には白い衣装を身に着けた女官らしき中年の女性がムシロの上に正座していた。彼女の正面には大きな釜が置かれ、もくもくと白い湯気が出ていた。
ほっとしたのもつかの間、腕時計をみると、ちょうど開始時間になっていた。閉ざされた二本の路地のせいで、時間を食ってしまったのだ。
拝殿を囲むように、村人の氏子やその家族たちが今始まろうとしている神事を静かに見守っていた。村人がちらっと欣司の顔を見て、拝殿のほうに向きなおった。彼は軽く会釈しながら、みんなが並ぶはしに立った。奥の本殿に目をやると、すでに何本かの神酒が供えられていた。遅かったと悔やみながら、手に持つ神酒を背中ごしに隠した。
神官の祝詞(のりと)に合わせ、女官は笹の葉を束ねたものを両手に持ち、沸き立つ湯気の中で、さっさと左右にはらう。続いて、鈴を鳴らした。村人は一様に頭を下げていて、欣司も真似る。一升瓶の新酒がやけに重たく、右手で持ち、左手に持ち替え、落ち着いた気分にはなれなかった。
神事そのものは、一見そう複雑ではない。神官の祝詞(のりと)と、本殿にサカキを供えるという繰り返し。しかし、そこに難しさがあるのだ。欣司は、神官と向き合う総代である芳次さんの一連の動きに注視した。座ったり、立ったり、また扇子を出したりしまったり、どのタイミングでそうするのか。それにしても見違えるほど、芳次さんの姿は堂々として格好がよかった。子供のころはやんちゃ坊主で、よく女の子を泣かしていたところを見たものだった。今ではJAに勤めながら大きな田畑をつくり、三人の子供を持つ。しっかりと地元に根をはっているのである。
欣司は拝殿に上がっている自分の姿を想像してみるのだが、どうもだめだった。巨大トンボが空に浮かんで、複眼の目が一時も止ることなくくるくる動いている。神社を燃やした夢が、その想像を打ち消すかのようによみがえってくる。
神官と総代の芳次さんが拝殿をおりると、当番と言われる神社の世話役の何人かが、本殿から下げてきたお神酒を茶飲み茶碗に注いで、参拝者ぜんいんにふるまった。欣司もちょうだいし、その後の様子をうかがった。氏子たちはさっさと社務所に上がり、女、子供は帰っていった。この後どうしたらいいものか、社務所に上がるのにはすこし抵抗があった。誰とも話しを交わすこともないまま、手に持っていたお神酒を社務所の軒先に置いて、神社を離れた。
うつむき加減に先ほどの路を歩いていると、南仏ふうの家から、ビューンと車が飛び出してきて、「危ないじゃない」と言わんばかりの顔つきでキッと欣司の顔を睨んだ。三十代くらいの主婦だった。左右確認もせずに急にでてきたこのバカ女がと頭にカチンときたが、猛スピードで走り去っていった。後部に貼られている「BABY乗せています」のシールが一段と腹ただしさを増した。
ぐるりを見回すと、神社の周りも一変した。かつて路地のまわりにはうっそうとした木々があって、陽を通さず、じめっとした空気感をつくっていた。そこには、いろんなムシやヘビが棲んでいた。それが、子供ごころに怖かった。神社に入るということは、そういうことだと感じていた。
それが今では昔の面影というのがほとんど無く、ただあっけらかんとした人工的なものが目につく。切り売りされた土地、ぎりぎりまで新しい家々が迫って、それに道路が拡張されてしまっている。
これじゃ神社に棲む神さんだって、きっと息苦しさを感じているだろうな、と同情したくなってしまう。
*
ある日、神社を焼き尽くす夢を美崎に話した。
「ね、巨大トンボって、どんな奴?」
「うん。それが、君の背中にいる奴とそっくりでさ」
ねえ、ねえ、それで、もっと聞かせて、と美崎がせがんできた。
「じゃあ、ワタシの化身かしら」
「きっと、そうだ」
欣司は、トンボの顔に唇を押し当てた。せなか全面に描かれているトンボの姿は、赤と緑の網模様の絡んだラインで、不思議と威圧感はない。むしろ指輪やネックレスでみられるケルティックのデザインのような美しさだ。愛撫を重ねていくと、血はめぐりにめぐって、白い肌がだんだん赤くなっていく。「う、うん」という喘ぎ声が彼女の口から漏れてきた。よく彫り師も考えたものだ。汗腺から噴いた霧状の汗がトンボの姿を鮮やかに浮きだして、さなぎから成虫へいまにでも飛びそうな感じである。背中に別個の生き物が棲んでいるように見えた。
欣司は、トンボの顔を親指と人差し指でつまみ上げ、すこし噛んだ。
「痛いじゃない。もう、刺青フェチなんだから」
「いいじゃないか」
美崎を抱きしめながら、先日の新嘗祭のことを思い浮かべていた。儀式、芳次さんの立ち振る舞い、村人の顔、顔――。疎外感に似た感情を埋めるように彼女の髪に指を差しいれ、いたるところを嘗めまわす。快楽に堕ちていく冷めた熱狂という感じか。
「どうしたの。何かあったの?」
「ごめん、ごめん」
自分でもどうかしていると、頭を振った。
以前、東京にいた時だったか、接待の後に会員制のSМクラブへ連れていってもらったことがあったが、部屋に通されるなり辟易して帰ってきたおぼえがある。彼には並みの性の欲望というのはあるが、SМや倒錯といった性癖は持ち合わせてはいない。
美崎は振り向きざまに、ふんという娘のような表情をかいま見せた。細い肢体に長い髪を持ち、薄い唇と切れ長の目がいい。美崎は、デリヘル嬢である。それも刺青ありの女だ。三十三だという。欣司が故郷に帰って知り合った女で、もちろんその世界での付き合いだ。もう三回目になる。一回目はたまたまで、それからは指名した。決まって、隣町のホテルで会う。
「で、引き受けるつもりなの。総代っての」
美崎はベッドサイドのテーブルにあったコップを手にして、半身をひねり、こちらを向いた。
「さあ、気が重いなあ」
「どうして? 楽しいじゃない」
「楽しい? 女のキミにわかるのか」
「わかるわよ。うち、生まれたところが、海と山に囲まれた辺鄙なところで。でも、神社のお祭りの時だけは、たくさん賑わって。懐かしいわ」
「きっと、いいところだけを見てるんだよ」
「そうかしら」
目を丸くして、肩をすくめた。
しばらく会話はとぎれて、美崎と欣司は外の見えない窓に目を移していた。
「でも、うらやましいわ。帰れる場所があって」
彼女は欣司のほうを向いた。
「帰れる場所って?」
「うん、……」
そのあと何か言おうとしたが、彼女の携帯電話が鳴った。はい、はい、わかりましたと言って、通話を切った。「そろそろ時間ですって」惜しむようでもあり、割り切っているようでもあり、クスッと笑う。「いつも何か続きを話そうと思ったら、これだもの」
「で、次のとき、憶えているかというと」
「憶えてないのよね。だって、次に会う、保証ってないんだもの」
「それがいいんだ」
「そうかも……」
美崎はバスルームに入って、シャワーを浴びた。
意外にも週二日のアルバイトは、欣司の日々のもやもやした気分をすこしでも忘れさせてくれていた。目的は、お金ではないのだ。アルバイト先は業務用の食品スーパーで、仕事内容というと、納入チェックと品出しが中心で、忙しいときはレジに立つこともある。大半が飲食関係の客なのでほとんど一般の客に顔を合わすこともない。今の彼にとって、あまり顔見知りの人と会いたくない気分なので、都合が良かった。それに今まで経験してきた仕事とまるっきり違っていたことが、逆に新鮮な気分を味わうことができた。
午前中、大量の冷凍食品が運ばれてきた。「欣ちゃん、今日はとくに量が多いからチェックよろしくな」
店長の柳井さんが、同じ年ということもあり気軽に声をかけてくれる。東京にも住んでいたこともあって、波長が合う。
「いやあ、こんなものまで冷凍するんですね」
肉や惣菜、ありとあらゆるもの、一般に冷凍できないような野菜までもが入っている。ほとんどが中国製だ。
「今の時代、何でも冷凍よ。日本って、世界最大の食料輸入国って知ってた?」
「以前に事件がありましたよね」
「中国の餃子だろ。咽元すぎればなんとやらで、メディアが騒がなけりゃ、関係ないよ。大半の人間は、安いほうがいいに決まっている」
「それが現実ですか」
「うん」と柳井さんはうなずいて、検品する手を止め、欣司の方を向いた。「最近、地産地消って言っているけど、どうかなって。裏を返せば、それだけ、地球を食べつくしているんだよ、今の日本人って」
たしかに、と欣司は思った。以前に、大手食品メーカーのPRに携わったことをふと思い出した。各商品に有名タレントを起用している世間的に好感度の良い企業だ。商品開発やマーケティングに携わる彼らは優秀であったが、美味しい食品もさることながら、いかに売れて、コストを下げることが大命題で、消費者の健康、安全は二の次のように見えた。原材料名の表示義務などされてはいるものの、それは形だけで、消費者には見えない、いろいろな仕組みがあるようだ。たとえば香料や着色料は詳細に開示されていない。いわゆるザルなのだ。メディアは、その点を取り上げない。とくにテレビは。彼らにとって、広告をいただく大切なお客様なのだ。
「こういう仕事をしていていうのもなんだけどさ」柳井さんは肩をすくめた。「世界の多くの食べ物が、我々の胃袋に詰まっていると思うと、こんな俺でもぞっとする時があるよ」
「そうだよね。考えてみると、恐ろしいわ。国籍は別にして、そのうち、もう日本人っていなくなるかも」
「もう何もかもが留まることが許されない時代に入っているのかな、仕方がないけどね」
「いまで言う、グローバル主義ってやつだね。そんな僕も今まで転々として、浮き草みたいなもんで」
「俺もそう。ずっと転勤族なんだけど、まるで遊牧民みたいなものだよ」
二人は顔を見合わせて笑った。
*
パソコンを起動させて、インターネットを見る。今日も前の仕事関係の知り合いなどから返信メールが届いているが、いい返事はまったくなかった。あの株暴落以降、どこもかしこも不景気だ。日々の多くの時間をこんなものに費やしている自分がつくづくいやになってきた。自分には鬱の傾向はないものの、それでも鬱々とした気分が身体の内外から漂ってくるようだ。
数日前も、道すがら「おい……」と芳次さんに声を掛けられ、その顔が睨んでいるように見えた。たったそれだけなのに、欣司はカッと体が熱くなって、一言二言、言い返してしまった。いや、いま思うと、芳次さんは何も睨んでおらず、「おい」という呼びかけも聞き間違えていたのかもしれない。
居間の隅にかけてあるカレンダーを見ると、もう十二月。年内には、内定をもらうことは無理にしても、何社か就職口を絞り込んで採用担当者へ連絡しておきたい。そして、総代を受けるかどうかの返事をしなくてはならない。
視線を裏庭にやると、まばらな柿が日差しを浴びて、光ってみえる。今日は外に出るには絶好の日和だ。部屋に閉じこもっているよりも、二、三十分外へでも出て身体を動かしたほうが、すこしでも気を晴らしてくれて、今の自分には大切なことのように思えた。
家を出て、周りの家々の前をさっさっと駆け抜けて田畑の方をめざしてウォーキングの真似事をする。早冬の空気がすがすがしい。まだちらほら赤く染まっている山々を正面に、背筋を伸ばして腕を大きく振り、大股で歩く。
稲刈り後のワラ色に染まった田んぼをかたわらに、大きく深呼吸する。ワラの酸っぱい匂いを鼻腔に感じたからかもしれないが、この秋、何度かこの道を通っているにもかかわらず、赤とんぼの姿を見ていないことに気づいた。子供の頃は、山から下りてきた多くの赤とんぼの大群が稲穂にまとわりついていた光景をよく見たものだった。一見その光景におののき、稲に大きな被害を与えているにしか思わなかったが、逆に稲に付く小さな害虫を食べていたのであった。おそらく、この何年もの間に、消えてしまったのだろう。
しばらくすると、向こうから畑仕事の帰りだろうか、手押し一輪車を押すおばさんがやってきた。すこし早足で欣司は通り過ぎようとすると、「あれ、欣司ちゃんかいな」と声をかけられ、足を止めざるをえなかった。
「もしかしてと思ったら、やっぱりそうや」ほお被りしているため顔はよく見えなかったが、やはり神社ちかくに住むおばさんだった。一輪車の足を下ろし、まじまじと欣司の顔を見た。
「ご無沙汰しています」
「この前の祭りでもチラッと見かけたし。うちの息子に聞いたら、欣司ちゃんやて」ほお被りを取り、「よう、帰ってきたな。これで、お母さんも安心や」
欣司は黙って応じた。
「まあ、来年は宮さんの総代を受けてくれるそうやし。がんばってや」
えっ、と思わず声がでて、「いえ、仕事が向こうなんで……、受けるかどうか……」急な話に困惑して、しどろもどろで答えた。
「ここで生まれたんやで、こればっかはなァ。みんなが助けてくれるって。神さん事やで、きっと欣司ちゃんにも御利益(ごりやく)があるさかいに」
総代を受けるものと確信しているかのような話しぶりで、彼はすこしむっとした。そんな表情を察知したかどうかわからないが、「元気で長生きしてやある人は、やっぱ神さんを大事にしてきゃあたな」と、おばさんは目を細めて欣司の肩越しに何かを見ているかのようで思い返すようにぽつぽつと言った。もっと何か喋りたいような雰囲気ではあったが、それではと頭をさげ、一輪車の足を上げた。欣司はしばらくの間彼女のうしろ姿をじっと見ていた。
おばさんは、六十半ばで亡くなった欣司の父のことを間接的に言いたかったのだろうか。婿養子の父はサラリーマンで、仕事、仕事で、どちらかというと神社の行事には積極的ではなかったように思う。子供の欣司にはそんな素振りは見せなかったものの、何かの行事の後は、きまって誰もすわっていない食卓にひとり、温めたカップ酒をふうっとため息まじりに飲んでいたことを思い出す。この家に入って氏子になり、村の人と折り合っていくことのしんどさを感じて生きてきたのかもしれない。それは今の欣司だからわかるのだ。
田畑の挟まれた道を大股で歩きながら、村の人たちの顔を一人、二人と思い浮かべた。たしかに神事にまめな人は、七十、八十代の今でもぴんぴんして長生きしている。それもほとんどが、勤め人ではなく、農家の人たちだ。やはり、神さんという存在は、土地に根を下ろす人にこそ御利益(ごりやく)を与えてくれるのかもしれない。今の欣司にとっては、神さんの世話方になるかどうかという瀬戸際だけに、かすめるていどではあったが気になった。
それにしても、どうして自分は神社のことをこうも毛嫌いしてしまうのだろうか。あんな夢まで見てしまうとは。氏子総代を受けることに対しての拒否反応だけなのだろうか。仮に、自分が実家から通えるくらいのところで、いい職を見つけたとして、自分はやはり総代を受けるだろうか。子供の頃、あんなに好きな宮さんだったのに……。
師走に入ると、やたら気ぜわしくなる。まわり仏さんやおとりこしといった、この地方ならではの年末の仏事が待っているからだ。母は、「正月はあっという間にくるさかい。はよ、きれいにして、仏さんや神さんを迎えんとな」と、少しでも時間があれば、こそこそと家の中のそうじをはじめる。あいまに、寺や神社から届く案内を薄日が差す縁側で何度もじっと見る。この家で育った母でさえ、神仏の行事がこんがらがって、あかん、もう年や、とひとり呟く。丸まった母の背に淡い光が注いでいたが、それはあまりにも小さく映っていた。今は気を張ってボランティアに精を出しているが、いずれ近い日には逆の立場になるかもしれない。
神社も年始に向けて準備に入る。この日は境内の掃除だった。夏前に枝払いした木々や枯葉を、人家の離れた田んぼに移して燃やすという作業だ。軽トラックが入り境内の周りにある枝葉や枯れ草を積む。単純な作業だけに、あまり神経を使わず、周りの配慮もいらず、気が楽だった。
作業をしながら、境内のあちらこちらを見た。前の祭りではそんな余裕がなかったが、今回はできた。境内の中から周囲を見渡すと、境界線ぎりぎりまで新しくできた家々に囲まれていて、敵に囲まれているような圧迫感があった。境内の回りの数多くの木々が切られ、拝殿ちかくの神木といわれていたものまで、根元から切られていた。唯一の遊具であったブランコもあるにはあったが、錆びた支柱にたびたび重ね塗られた安物のペンキが浮きだって痛々しい。そして、氏子のみんなの顔と名前を一致させようとした。
「よっ」
後ろから芳次さんが声をかけてくれた。一瞬、まだ怒っているのかと思いドキッとした。
「この前は、すみませんでした」
「アァ、気にせんといて。それよりも、久しぶりやろ、宮さんは?」
「数年前に、何かの行事で来たくらいで。その前というと、小学生いらいかな」
「変わったやろ」
「なんかこじんまりしてしまって。昔の面影がなくなってしまったような」欣司は神木があった根元を指差した。「切ってしまったんですね」
「ああ、数年前になあ。かなり傾いてたさかいに。台風や地震でもきたら、拝殿を壊してしまうことになるから、やむなくなあ」すっかりおっさん顔になった芳次さんに、ちらっと子供の頃の表情がかい間見えた。「昔、よく遊んだなあ」
「遊びました。めちゃくちゃ遊びました」自分でも不思議なくらい声が弾んでいた。「大きな神木の影に隠れて、かくれんぼとか、懐かしいです」
外で遊ぶのが普通の時代に育った。子供のとき、とくに小学生のころは、すべてが宮さんだった。クラスの友達よりも、村の仲間といるときのほうが断然おもしろかった。いつも、誰かがいた。学校の授業が終わると家に帰らず一直線に向かった。ランドセルを拝殿の濡縁に放って、遊びに耽った。暇つぶしというのがなく、すべてが一生懸命だった。休みの日は朝から日が暮れるまでいた。遅くまで遊んでいると、どこかのお母さんだったか、怒って息子を連れ戻すこともあったっけ。石蹴り、かくれんぼ、鬼ごっこ、缶けり、メンコ、コマ。雨が降っていれば、社務所で将棋をやったり漫画を読んでいたりしていた。遊びはもちろん、けんかや団結心、先輩後輩といった上下関係の規律なんかも宮さんを通じて教えてもらった。
「爆竹もやったなあ」
なあ、なあ、という語尾を長くする喋り方は昔からの芳次さんの特徴で、周りの仲間から「おじさんしゃべりの芳」と言われていた。今では、それがぴたっと合っている。
「赤いやつですよね」忘れかけていた子供のころがよみがえって、自然と顔がほころんでしまった。お祭りのあった日、暖簾をかけるかのように木の枝などに幾本もの長い爆竹をかけて鳴らしたものだった。ちょうどその頃、隣村からも爆竹の音が届き、「さあ、これから、けんかや」と言って、高揚した先輩たち数人が武器となる木の枝をもって隣村に向かって走っていった。欣司ら後輩は留守ばん役で、先輩たちが帰ってくるのを待った。しばらくして、何事もなかったように「道で会うて、あいつら逃げ出しよったわ。意気地なしや」と手にした木の枝を、境内の真ん中にある焚き火の中に投げ捨てた。
「焚き火は?」
欣司は不意に思い浮かんで、芳次さんの顔を見た。
「えっ、焚き火?」
欣司の聞きたいことがすぐに芳次さんにわかったようで「あらへん、あらへん、もうどれくらになるかなあ」ジャンバーのポケットからタバコを出し、火をつけ大きくふうと煙を吐いた。そうやなあ、三年前ぐらいかなあ、と視線を落とし、右足のつま先で地面をこつこつ蹴りながら話しはじめた。
あの日も、祭りの日やったかなあ。いつもの通りに、伐採した枝葉を集めて焚き火をしはじめたんや。村の人たちは、家では燃やせないお札といったものを持ってきてたりしてな。しばらくするとパトカーのサイレンの音がだんだん近くなってきて、この辺りで何かあったんかなあと喋ってたら、この神社や。パトカーから降りてきた中年と若い警察官が近寄ってきて、二人とも帽子を脱いでペコッと頭をさげ「通報があったもので」と。聞くと、近所の通報で神社の焚き火を止めさせてくれ、ということやったんや。神事に焚き火は欠かせないのを承知していながら、中年の警察官は「こればっかりは……。近くに家が建ってくると、いろいろな問題が生じて。ダイオキシンや洗濯物が汚れるとか、いろいろとあるんです。何とかご理解いただけませんか。どこの神社さんも同じですから」と。もう、どんと焼きもできんようになった。
芳次さんは背を向けて、「すかすかやろ」と言った。「これもなあ、落ち葉が家に入ってくるとか、陽が入ってこんとか、どこからともなく苦情がはいってきて。もう何本切ったかわからへん。歯抜け状態や」
欣司は、南仏ふうの家から飛び出してきた女の顔を思い浮かべた。
「後から家を建てているくせに、文句ばっかりや。祭りに使っていた太鼓や鐘も使えんのやで。どう思う?」
今日の人家の離れたところで燃やすということも、違反には違いない。そのうちきっと指摘されるであろう。もう、神さんにまつわるものも家庭ごみと一緒にされる時代にとっくに入っているのかもしれない。
作業が終わって、みんなと一緒にお茶を飲むことになった。社務所に上がり、みんなで輪をかこんだ。まだ建て直されて日が浅いのか、い草の香りが鼻をかすめた。総代が上座へ、そして、長老から年の順で座っていった。欣司より年下の者もいたが、それでも後ろの下座に彼は座ろうとした。輪にはずれた部屋の隅には、女性二人が申し訳なさそうに座った。
いぜん掲げられていた明治天皇や昭和天皇、皇后両陛下の成婚写真は、さすがになかった。
こうやって面と向かい合うのは本当に久しぶりだった。口火をきるのは、やはり長老の役割なのか、今年の米の出来ぐあいや、今冬の雪のことや、折々にあった神社にまつわる思い出話をするのだ。みんなはそれに耳を傾けながら、うなずき、茶をすする。あまり多言はしない。
いろいろな話を聞いていると、この十数年の間に、神社の行事やお祭りのかたちも大きく変わってきたようだ。氏子の大半がサラリーマンということもあってか、行事は簡素にならざるを得なくなってきた。二人の長老は、神社の行く末を心配する。しめ縄にしてもそうだ。もち米を作る農家がほとんどなく、しめ縄を買ったらどうかという声がすこし前から若い者から挙がっているらしい。しかし総会に諮るまでもなく、長老たちは頑として首を縦に振らない。
欣司は、同世代のみんなの顔を近くで見ると、一様に老けているように思えた。顔にしわをつくり、すでに頭の薄い人もいる。長く会っていないせいもあるだろう。昔の思い出しかないのだ。子供のころの面影を残しているものの、それよりも印象深かったのは、それぞれの顔、姿が、彼らの父親にそっくりなのだ。欣司は子供のころの自分が迷い込んで、ここに座っているような気分を味わった。そして、年を取る早さというのが、地域によってこうも違うのだろうかと思った。
総代の芳次さんが、「栄ちゃん、玄ちゃん」と八十前後の長老ふたりに話しかけている。場がにぎわうと、それぞれの口から「栄ちゃんには、もっとがんばってもらわんと」とか「玄ちゃん、どうなんやろ」という言葉が飛び交った。名は栄蔵さん、玄助さんだったと記憶していたが、それにしても親の世代の二人に対して、ちゃんづけと話すとは。満面の笑みを浮かべていている二人の長老の顔は、どこかはしゃぐ子供のように見えた。どっちが年上年下なのかわからない。欣司はとまどいつつも、氏子の世界というのはこういうものだと理解した。
*
たったひと月だというのに、美崎とは長いこと会っていないような気がした。それは長い髪をばっさりと切っていることもあった。
「聞かないの? 髪切ったこと」
美崎はブラウスを脱ぎ、ブラジャーをはずした。長い髪で隠れていたトンボの姿が、あらわになり色あせて見えた。すこしやつれていた。はじめて会ったときから、彫り物を入れている理由を尋ねなかったように、今もあえて聞かなかった。どんな事情にせよ、だいたいの筋書きは見える気がしたからだ。お互いの過去をほじくり返したところで、何の足しになるのか。それに深入りするのも煩わしく、とても田舎臭いことのように思われた。
彼女は逃げ回っている、そのように感じとれた。それもずっと昔から。一度だけ、どうしてトンボを、と聞いたことがある。さあ、前にしか飛べないからかしら、と要領の得ない答えだったが、今ではなんとなくわかる気がする。
「意地悪な人ね」
そう言って、ベッドに横たわった。
欣司が積極的に応じないぶん、美崎は、軟体動物のように彼の身体に執拗に絡んできた。それでも彼女の身体はいっこうに温かくならず、いつもの霧状の汗も噴いてこなかった。トンボも赤く染まらず、さめた肌に沈んだままだった。
ペニスをくわえる彼女の顔を見ると、どこか遠くの何かを見ているようだった。彼女は何かに怯えている。けっきょく、二人のあいだの濃度も高まらず、欣司は冷めた興奮の中で射精した。
「ごめん。やり過ぎた?」
「いや、いいんだ」
美崎はもっと媚態をみせようとしたが、もうそんな気分にはなれなかった。
二人は並んで仰向きになり、天井を見つめていた。はじめて会ったように、彼女はいろんな話をした。
「これでも私、ふつうの勤めなんかもしてたのよ」美崎がささやくように言った。
「……」横目で美崎の顔をのぞく。
「でも、どこへ行っても、続くのは三、四ヵ月。よく持って半年ってとこ。健康診断、社員旅行、だめでしょ。夏場は薄着もできないし。トイレで手を洗っていた時だったかな。後ろでそわそわしている二人がいて、前の鏡を見ると、おたがい耳打ちしているのが見えたの。はっとした瞬間、二人はすっと外へ出てしまったわ。きっと汗で透けて見えてしまったのね。そろそろ、潮時かなって……」
「留まることができないんだ」
「そう、逃げてばっかり」
「俺だってそうさ」
住む世界の違う二人であったが、欣司はなぜだか、彼女の言葉に添うことができた。こちらに帰ってきて、都会で暮らしてきたことが遠い昔のように思えてきた。
欣司はベッドから下り、窓の方に向かった。
閉めたきりのカーテンで、外の様子はわからない。わずかばかりだが端のほうから、淡い光が射し込んできている。
「外へでようか?」
「えっ? 外へ」美崎は起き上がり、「ダメよ。外には用心棒が車で待っているわ」
「ずっと見張られているんだ」
「そう」美崎は欣司の隣に立ち、「あっ、カメムシ」と言った。カーテンの隅に頭をさかさまにしてくっついている。「どこから入ったのかしら?」
「そら、表のドアからだろ」
久しくカメムシを見たことがなかった。カメムシが多いと、その年は大雪になるという。子供のころに見た、一面の雪景色がぱっと頭の中で広がった。
「ねっ、知ってる? 何かで読んだのだけど。カメムシって、ビンの容器に入れといたら、自分の出す臭いで死んじゃうって」
「へえ。そうなんだ。あまりにも自虐的だな。逃げられなかったら、死んじゃうってことか」
「かわいそう」
美崎はやさしくティッシュに包んで、表のドアの外へ放した。
*
年内さいごの行事、鳥居に飾るしめ縄づくりの日がやってきた。欣司にとっては、総代を受けるかどうかを返事しなくてはならない日でもある。空には薄日が差しているが、手足が冷えるくらい寒い。おーさぶと、背中を丸めた氏子が十名ほど集まる。
社務所の広間にビニールシートが全面に敷かれた。そこに、今秋に収穫し保存された、多くのもち米のワラが置かれた。いざ作ろうとしても若い世代だけではできない。熟練の経験が必要になってくるのだ。
みんなは、栄蔵さんと玄助さんを待った。それでも準備だけはしておこうと、ワラを大人の腕ぐらいの太さに小分けして、片方を縛る。瑕のあるところは撥ね、きれいにそろえておく。そして、小分けしたワラをいくつもつくり、それを木づちでたたく。柔らかくするためだ。欣司も見よう見まねでやってみるが、手がかじかむこともあって、手際よくつくれない。不揃いでかたちもぶさいくだ。
何度も手に息をはーっと吹きかけながら、先日、栄蔵さんから教えてもらった言葉を思い浮かべていた。それは「音連(おとづ)れ」という言葉であった。昔の人は、山から里に下りてこられる目に見えない神様を、かすかな音の変化を感じ取ってお迎えしていたという。そして大木に宿ってもらおうと、稲の魂の力を利用して、大木に藁を縄状にしてしばりあげた。それが神木であり、しめ縄のはじまりだという。
神が音を連れてくる、「音連れ」という言葉を美しいと思った。今の生活から遠ざかった言葉だった。
しばらくして栄蔵さんと玄助さんがやってきた。二人の「ソラ!」という掛け声で始まるのだが、数人がかりのまるで綱引きをやっているような格好だ。
小分けしたワラをまず、編んでいく。一本は左まわりに、もう一本も左まわりにひねり、この二本を右まわりで絡ませていく。欣司はその一本をひねるのだが、「力が足りん! もっとひねらなあかん」と栄蔵さんの声が飛ぶ。見かねた玄助さんも力を貸してくれ、相手のもう一本と身体をぶつけあいながら絡ませていくのだ。長くし、中心を太くさせるためには、小分けしたワラを中央に差し込んで、ひねって、それを何度も繰り返す。
なによりも力の入れ具合と相手との呼吸を合わすのが重要で、一瞬でも力を抜くと、「アカン! ワラが膨れとる。しっかりやれ!」と栄蔵さんから活がはいる。寒さをとっくに忘れて、全身に汗をかいてきた。
「いいよ、その調子、気を緩めるな」栄蔵さんの声に、みんなの心がひとつになってきた。こんな気分ははじめてだ。
規定の四メートルの長さになったら、最後のひねりだ。玄助さんが手のひらに唾をぺっぺっとかけ、二本のワラを寄り合わせていく。一見かんたんそうに見えるが、経験を積まないと難しいらしい。すぐにでも折れそうな玄助さんの身体だが、実際は違っていて、針がねが入っているほどの強じんさを持っているとのことだ。ぴんと背筋を伸ばすと、職人のようにキマっている。
ほっと息をつこうとしたら、栄蔵さんがニコッとして「欣司ちゃん、終わっとらへんで。もう一本あるんや」と言った。さらに小分けした一本を左にひねりながら、さきほどの出来た二本に右まわりで絡めていく。絡ませる段を間違えると、かたちはもちろんのこと、まとまらなくなるので「慎重に、慎重に」と栄蔵さんの掛け声に合わせて絡ませていく。
「神様がいる限り、誰かがこうやって作らんとなァ。作らんと、もう神様がいなくなってしまうんじゃないかと思うんや」と栄蔵さんは誰にともなく言う。
四メートルのしめ縄がまるまると太っていき、いま産声を上げようとしている。「よっしゃ、完成じゃ」と玄助さんの声が弾んだ。青いビニールシートに、交尾をしている大蛇が横たわった。
ぞくぞくっとした身震いが欣司に走った。
参道の鳥居にしめ縄を取り付け、紙垂(しで)をはさみ、ようやく完成した。
みんなが後ろに下がり、一列になって見上げた。長老の二人は、しげしげと目を細めて見ている。隣にいた芳次さんが「どんなもんです?」と二人に声をかけると、「うん、ええやろ」「そやな、立派なもんや。これで、いい年を迎えられるわ」と栄蔵さんと玄助さんが答えた。「欣司ちゃんも、よう頑張ってくれた。これで宮さんも安泰。来年はもっと、ええしめ縄をつくってくれるはずや」と栄蔵さんが欣司の隣に来て彼の肩に手を置いた。玄助さんや、芳次さんもこちらを向いて微笑んでいるようだった。
欣司は「どうも……」と、ぺこっと頭を下げた。
みんなは、しめ縄を見つづけていた。境内にはゆく年をなごりおしそうな雰囲気が漂っていて、しーんと静まり返っている。すると遠く後ろのほうから、かすかに電車の走る音が聞こえた。それは北へ走る電車のように思えた。
欣司は後ろを振りかえり、どうしたわけか、その電車には美崎が乗っているように思った。その時、美崎を見捨てたような気持ちがふっとよぎった。
彼女は、生まれ育ったところを「一方が海だから、何にもないし、逃げられないところ」と言っていた。それでも彼女は、日本海に面した故郷に帰っていくような気がした。美崎という名は源氏名ではあったが、字は違っていたとしても、音としての本名は同じだったのではないだろうか。
そんな考えに至ったのは不思議としか言いようがなかった。
「どうかしたか?」
栄蔵さんは欣司の顔を覗きこんだ。
「いいえ、何も」首を横に振って、「このまえ、話されていた音連れ、いい言葉ですね」
「そう思うか」と栄蔵さんの頬がゆるみ、「耳が遠いワタシだが、この死ぬまぎわの年になって、不思議とな、山から里へ下りてこられる神様の音が聞こえて来るときがあるんや」
「へえ、すごいですね」
「すごくあらへん。もう先がない年寄りやで、欲がなくなったぶん、聞こえてくるんや」と笑う。
欣司は、山から下りてきた多くの赤とんぼの大群の光景を思い起こしていた。赤とんぼは、どこへ行ってしまったのだろう。それは柳井さんが言っていた「もう何もかもが留まることが許されない時代」のせいなのか。
そんな柳井さんも転勤で、もう会うこともないはずなのに「またな」と言って、東のほうへ行ってしまった。
しかし、と思う。その一方で訪れるものがあるはずだ。欣司は、こうやって故郷に帰ってきたのも、もしかしたら音連れの縁というものかもしれないと思った。いま、こうやって欣司の周りには、多くの氏子の仲間がいる。
ちらちらと雪が降りはじめて、しめ縄にも落ちた。
「そな、仕舞おうか」
玄助さんが言って、全員、鳥居の前に一列に並び、会釈して、かしわ手を打った。
「今年の冬は、雪がたくさん降りそうやな」
栄蔵さんはそう言って、氏子のみんながそろって空を見上げた。
了
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