私と夫は自宅の一階で爬虫類を扱うペットショップを経営していたが、三年前に廃業した。今では、元店舗を物置代わりにしている。久しぶりにその中へ入ろうとシャッターに手をかけたら、重くて動かない。どうやら錆びついてしまったようで、ギシギシと大きな音だけが響く。なんとか出来た隙間に手を入れて前後に揺すると、やっと巻き上がった。
ガラス戸を開け、薄暗い中へ入って壁伝いを歩き、蛍光灯のスイッチを手のひらで探し当てた。明るくなると店内を見渡した。水槽や爬虫類ケージは、営業していた時と変わらない状態で、未だに放ってある。ふと近くのケージに視線をやると、蛇の抜け殻が転がっていた。それはオブラートのように半透明だが、鱗の模様がはっきりと残っている。私はここにいた生きものたちを思い出した。それらのほとんどは閉店セールの安値で販売したが、ワシントン条約の規制にかかり、今では輸入出来なくなったものや、長く飼って愛着のあるものは徳島県のY遊園地内にある小さな水族館に預けた。
店を始めたのは結婚と同時で、今から二十四年前だ。開店当初からペットショップといっても犬や猫ではなく、直輸入した熱帯魚、爬虫類を売っていた。当時は爬虫類を扱う店が少ないことや珍しさもあり、順調に業績が上がっていった。年月を重ねるうち、ワシントン条約の規制などで輸入可能な生きものが減ってきた。その影響からか商売に陰りが出てきた十年前、ワシントン条約の国内法に違反したとの疑いで警察の捜索を受けた。夫は任意で取り調べを受け、大きく報道された。捜査が終わると検察庁へ書類送検された。その結果は不起訴となった。この事件以来、夫は嫌気がさしたようで商売に身が入らなくなり、店を私と従業員に任せて飲み歩くようになった。それでも七年間は店を続けたが、とうとう赤字で儲からなくなったので閉めたのだった。
今日シャッターを開けたのは、地域の小学校で行われる納涼大会の屋台に、金魚すくいを出してほしいと言われたからだった。店をやっている時から毎年頼まれ、廃業した今でも近所づきあいもあり断れない。
私は金魚を入れる桶を探そうと通路を進んだ。去年の夏、奥の壁に立てかけたはずだ。思った通り桶が見つかったので、それを担いで表へ出ると、散水用の水道蛇口をひねった。ホースで水を浴びせたら、うっすら覆っていた埃は簡単に流れていく。このまま干しておけば、真夏の太陽がすぐに乾かしてくれるはずだ。私は乾くまで、金魚や、すくい網のポイなどを仕入れに行くことにした。店をやっていた当時、仕入れや配達は車の中で一人きりになれる貴重な時間だった事を思い出した。客や従業員、五人の子どもなどの大勢に囲まれた暮らしをしていて、自宅と店が同じ場所ということもあり、四六時中が落ち着かなかった。今は、夫が相続した九戸の小さなワンルームマンションの管理と清掃が私の仕事で、静かで自由な時間に恵まれている。私はガラス戸に鍵をかけると、店舗横のガレージで車に乗り込み発車させた。
納涼大会が終わり桶を元に戻して自宅へ上がったら、夜の十時半だった。リビングでは長男で高校三年生の涼人(りょうと)と二男で中学二年生の悠馬(ゆうま)、三男で六年生の仁(じん)がいつものようにくつろいでテレビを見ている。社会人の沙紀(さき)と大学生の泉(いずみ)、二人の娘たちは、まだ帰宅していなかった。私は納涼大会の屋台で買った焼きそばを食べるように言い、湯をはろうとバスルームへ行った。五分ほどでリビングへ戻ると、なにやら涼人と悠馬が言い合いをしている。
「だから、早く片付けろって」
背の高い涼人が、悠馬を見下ろした。
「これ終わったらするやん。見えへんからどいて」
寝そべった悠馬が、テレビを見ながら怒鳴り返す。
喉が渇いていた私は、気にも留めずに「喧嘩せんといてよ」と言いながら、二人の側を通り過ぎた。冷蔵庫から麦茶を出して喉をならして飲んでいると、ドンと振動がした。
「ママぁ、大変、たいへーん」
仁が顔を紅潮させて走ってくる。
「どうしたん」
「悠馬が指痛いって」
「なんで?」
一息ついてほっとしていた私はいっぺんに不機嫌になった。
様子を見にいくと、悠馬は床にうつぶせになり、手を押さえて嗚咽をもらしている。涼人は顔を強張らせて突っ立っていた。
「どこが痛いの」
「右の小指……」
痛がる指を見たら、赤く腫れている。私は折れたなと思い、涼人をにらんだ。
「まさか、殴ったん」
「殴ってへん。俺は片付けろって、悠馬に投げただけや」
彼は床に転がる悠馬の大きなスポーツバッグに目をやった。
「いったい、どんな投げ方したら、こんな事になるわけ。涼人は高校生のくせに、体の小さい弟にこんなことして、あーもう」
「知らん。片付けへん、こいつが悪いねん。だいたいサッカー部でキーパーやってるくせに取るのん下手すぎや」
涼人は捨て台詞を吐いて、上の自分の部屋へ駆け上がった。後ろ姿に向かって「屁理屈言うたらあかん。謝りなさい」と叫んだが、返事はない。
「悠馬、病院行こか。土曜日のこんな時間やし、診てくれるとこ電話で調べるわ」
「俺、キーパーやのに。夏の大会に出られへんかったら、みんなに迷惑かけてしまう」
立ち上がった悠馬は小指を手のひらで支えて、大粒の涙を流した。
「まだ、出られへんとは決まってないやん。取りあえず早くいこ」
私は口先で慰め、病院へ行く用意に取りかかった。
病院では急患が入り、診察までかなり待たされた。悠馬の小指は案の定、骨折しており、全治四週間との診断だった。悠馬は楽しみにしていた夏の大会を見学する羽目になって落ち込んでしまい、慰めても口を利かない。
帰宅すると深夜二時近くになっていた。
「悠馬、かわいそうに。成長期やから、すぐに治るって」
帰宅して仁から事情を聞き、心配で一人起きて待っていたという長女の沙紀が慰めた。
「お父さんから連絡ない?」
私は夫の和樹が帰っていないので、沙紀に聞いた。
「メールも電話もないよ。今日は遅いね」
「明日の日曜はゴルフやから遅くならへんと思うけど。一回、沙紀の携帯からかけてみて」
「わかった」
沙紀は携帯電話を操った。
「出ない。電波届かんやて」
「そう。お母さんも病院から何度か掛けたけど、繋がらへん」
和樹はペットショップ廃業後、大阪の都心部で雑貨の輸入卸業を始めた。今朝出かける際、仕事の後に取引先の人と飲みに行くが、遅くはならないからと言っていた。
私からの電話に出られない時は、いつも合間を見てコールバックをくれた。だが、今晩は何度も電話をしているのに、一度も掛かってこない。もしかしたら何か悪いことが起こったのでは、と心の中が波だつ。私は自分でそれを鎮めた。ただ電話を掛けられない、それだけなのだ、と。
結婚生活を続けるなかで、心を乱さない術がいつの間にか身に付いた。私の心模様は子どもたちに伝染してしまう、良くも悪くも。だから、心が不安定になることが、私は一番怖い。
きっと寝ている間に帰ってくるだろうと思い、ベッドで一人眠った。
朝起きて隣のベッドを見たら、和樹の帰った様子はない。玄関に置いてあるゴルフバッグは、と確認したら昨晩同様に立っていた。何の連絡もなく外泊するなんて、廃業してからの七年間はなかったことだ。やはり、何かがおかしい。事故にでもあったのだろうか。だが、事故にあえば免許証や名刺を財布に入れているので、警察や病院から連絡があるのではと思う。
まさか、浮気では……。十年前の警察沙汰で荒れた当時、和樹は浮気をした。それが私にバレ、ひと騒動おきて収まってからは、浮気しているような素振りを感じはしなかった。
電波が繋がらないのは、きっと携帯電話の電池がなくなっているのだろう。そのうち、ばつの悪い顔でひょっこり帰ってくるはずだ。その時は「いらん心配をかけんといて」と嫌みたらしく言ってやるのだ。
私はそう決めると、気持ちを切り替えて洗濯をすることにした。
夕食の後片づけを終えても和樹は帰ってこない。夕べ誰と一緒だったのかを知らないので、彼の会社で働いている平川に電話をした。平川の話では、得意先のAという人と飲みに出かけたらしい。Aと連絡を取ってと頼んだが、日曜日だからなのか電話に出ないという。
いくらなんでもおかしいので、沙紀と相談して近所の交番へ行ってみることにした。
外は夜になっても蒸し暑かった。このところ熱帯夜が続いているので、今夜も寝苦しいことだろう。いったい和樹はどこで何をしているのかと、腹だたしい気持ちを並んで歩いている沙紀にぶつけた。
「どこに居てるんやろうね、うちのお父さんは。なんで電話もくれへんのかな」
「ねぇ、ママ、もしかしたら、お父さんはどこかで死んだんちゃう。だって、おかしすぎるもん、黙って姿消すなんて」
「それはないわ。生きてるって」
「なんで断言できるの、ママは」
「だって、死んだらわかる気がするもん」
「どうわかるん?」
「どうって言われてもなぁ」
「霊感?」
「ママには霊感なんて全然ないわ。でも死んでたら絶対わかる」
私は何の根拠もなかったが、彼は生きているという不思議な確信があった。それは説明出来ない感覚だった。
交番には二人の警察官がいた。近くの若い警察官に「相談がありまして」と声をかけた。カウンター前のパイプ椅子を勧められて、沙紀と並んで腰かけた。
「実は夫が帰らないんです」
私は土曜日からの経緯を話した。うん、うんと相槌を打って「ご主人さんの意志で自ら蒸発した、なんて事はないですか」と聞かれた。
「それはないです。だって、父が大好きなゴルフに行かないなんてあり得ないです。熱が出てても、薬飲んで行ってたんですよ」
沙紀は語気を荒めて即答した。
「そうそう、うちの人は三度の飯よりゴルフが大好きなんですわ。大事な得意先の人との約束をスッポカスのもあり得ないです」
「そうですか」
警察官はうなずく。
「交通事故で死んでたりしたら、連絡ありますよね」
「昨日からは死亡事故は起きてないですよ」
「じゃあ、交通事故死は除外やね」
質問した私は沙紀を見た。安心した様子はなく、不満そうに口を尖らせている。
「私たち、どうしたらいいのですか」
「今晩は遅いので、明日、本署へ行って届けを出して下さい。本人の顔写真を忘れずに。あと、身体的な特徴なども思い出しといて下さい」
二人で警察官に礼を言って、交番を出た。
「どん詰まりやね」
「困ったわ」
二人で顔を見合わせると、黙って歩き始めた。家までの道のりは行きよりも長く感じた。熱帯夜の寝苦しさは、いっそう身に堪えそうだった。
あくる日の月曜日、私は朝一番にS警察署へ行き、家出人捜索願を出した。捜索願を出すことになった経緯、家を出た際の服装や腕時計などの所持品、身体的特徴などを聞かれた。また、どこかの警察署で保護されていないかと調べてくれたが、該当者はいないという返事だった。
家に帰ると、平川に電話をした。急病で和樹は休んでいる事にしたと報告を受けた後、土曜日の晩に和樹と一緒だったAと連絡が取れたと話しはじめた。Aの話では深夜一時頃に飲み屋を二人で出て、すぐに別れたという。
「Aさんと別れるとき、どんな様子やったのかな」
「僕も気になって聞いたのですが、『明日ゴルフやから、はよ帰るわ』といつも通りやったそうです」
「するとその時点では、ゴルフに行くつもりやった」
「そうでしょうね。Aさんと別れてから何かあったに違いないですね」
「いったい何があったんかな。酔っぱらって誰かと喧嘩してしまい、怪我したのかな」
「あり得なくはないでしょう。でも、前後不覚になるような泥酔ではなかったらしく、うちの社長の足取りはしっかりしてたと。そやから、行方不明だと話したら、Aさんはびっくりしてましたわ」
「びっくりどころか、私には青天の霹靂やわ。いったい、どこへ消えたんやろ……」
「僕、今晩、社長がAさんと行った飲み屋で話聞いてきます。役に立つかわからないけど」
「そうやね。お願いするわ」
電話を切ると体が急に重くなり、ソファーに倒れこんだ。これ以上打つ手が見つからないので、どうしようもない。どこからでもいいから、何か連絡が来るようにと祈った。
火曜日の昼過ぎ、私の携帯電話が鳴った。表示された番号を見たら、下四ケタが1234だ。S警察ではないが、多分どこかの警察署の電話番号なので緊張して「もしもし」と声を出した。
「島尾亜矢子さんですか」
「はい、そうです」
「わたしはC警察、刑事課の中本です。ご主人のことで電話させて頂きました」
「はい」
「土曜日の深夜、正確には日曜日から、うちで島尾和樹を拘留してます。本人がね、奥さんに来てほしいと言うてます。出来たらすぐに来署して下さい。それで面会の前に奥さんの事情聴取をしたいので、話はその時にさせてもらいます」
「私の事情聴取を……。拘留って、いったい何をしたんですか」
「詳しいことは来られた時に」
「あの、家出人捜索願を出したから、私のことがわかったのでしょうか」
「捜索願出しはったんですか。どこの警察署です?」
「S警察ですけど」
「そしたら、うちからSに連絡入れときますわ」
「なんで、昨日S警察ではわからなかったんですか?」
私は頭が混乱していた。
「逮捕されてからの四十八時間は、拘留している署しかわからない仕組みなんですわ」
「逮捕……」
私の頭は真っ白になり、話が頭に入ってこない。何度も聞き返しながら、中本刑事が言う和樹のために持参する物を震える手でメモして通話を終えた。
十年前、ワシントン条約に関する「絶滅のおそれのある野生動植物の種の保存に関する法律」違反の疑いで警察の捜査が入った時は、家宅捜索だけで逮捕はされなかった。任意の事情聴取が何度かあり、その都度、和樹が警察署へ出向いた。
今回は何をしたのか。
今は生きものを扱う仕事をしていないので、ワシントン条約に関わる法律に触れるようなことはない。それ以外はまったく思い当たることはなく、一刻も早く事実を知りたくて急いでC警察へ向かった。
C警察署の二階に刑事課はあった。中本刑事を訪ねてきたと告げると、事務所横の和室に案内された。広さは三畳ほどで、折りたたみの会議テーブルと椅子が二つずつ、扇風機が一台置かれていた。窓際の明かり障子はほとんどが破れ、ガラス窓から陽が差し込んでくる。流れ落ちる汗をバッグから取り出したハンカチでぬぐう。今日はこの夏一番の暑さになるでしょう、というテレビの天気予報を思い出した。
腰かけると、椅子が畳にめり込んでしまい不安定に揺れる。座り心地を良くしようと前後にずらしていたら、ノートパソコンを手にした男性が入ってきた。
「電話した中本です」
私は立ち上がって頭を下げた。背が高く、がっちりした体躯の中本刑事はノートパソコンを会議テーブルへ置いた。それだけで部屋の中は狭苦しく感じられ、また汗が噴き出てくる。彼は何度も手間取りながら、パソコンから伸びた電気コードをコンセントへ差し込み、扇風機のスイッチを入れた。私は座ってそれを眺めた。
「暑いですな」
ひとり言のように呟いた中本刑事は私の真向かいに座り、ノートパソコンを立ち上げた。黒髪の中に混じった白髪を見て、年齢は五十歳過ぎだろうと思った。
「ご主人は日曜日の一時十三分、住居侵入の現行犯で逮捕されました」
「住居宅侵入って、どこの家に」
「青山祥子いう人の家ですわ」
私は名前を聞いて耳を疑った。驚いて言葉が出ない。
若い男が入って来た。紙コップを私と中本の前にそれぞれ置くと、すぐに出て行く。
「あの、青山さんとうちの人は知り合いです。なんで逮捕されるような事になったのでしょうか」
「青山さんの家の勝手口から、無断で入ったんですわ」
「留守中にですか」
「違います。家にいた青山さんが通報したんですわ」
「あのね、青山さんとうちの人は愛人関係にあったのですよ。それで、私たちは十年前に揉めて……。今も二人は別れてなかったなんて、私、ずっと騙されてたんやわ。アホや」
「いや、二人とも別れたと言ってますわ。青山さんは三年前、ご主人は二年半前と、認識している時期はズレてますけど」
「だったら何で家に……。ほんとの事をお願いですから教えてください」
私は中本刑事の目を見た。
彼は紙コップを手にしてひと口飲むと、説明を始めた。
島尾和樹は土曜日の深夜A氏と別れた後、タクシー乗り場へ歩いていると、青山祥子とばったり出会った。立ち話をしているうちに口論になり、青山祥子が「今からあんたの家に知り合いのヤクザ行かせるわ。ほんで、奥さんに私らの事言うてやる」と捨て台詞を吐き、タクシーへ乗り込んだ。それを聞いて逆上した和樹は青山祥子を別のタクシーで追いかけ、彼女の家に乗り込んだところ通報され、逮捕となったという。
「うちにヤクザを行かせるって、なんの為に? まったく意味がわからないです。私にバラしたいのなら、青山さんが自分で来ればいいでしょうに。だいたい、ヤクザなんて言葉を使って脅すと、警察に捕まるのでは」
「そうですな。青山さんの家まで追いかけんと放っといて、言葉通りに家にヤクザが来たら、捕まるのは反対でしたな」
「ほんまにアホなことして」
中本刑事は表情を変えずに、軽く頷く。
「二人は愛人関係にあったのですし、これは一種の痴話喧嘩みたいなものでしょう。私にとっては、ホンマに腹だたしい事やけど。こんな場合でも住居侵入に当たりますか」
「住んでいる青山さんの通報で駆け付けた警官の現行犯逮捕なので、なんとも仕方ないですわ」
私は和樹の行動が理解できなかった。別れた女とばったり会うのは仕方ないとして、なぜ口論になるのか。ヤクザを行かせるという脅しを受ける理由もわからない。本当は青山祥子とヨリを戻そうとしたからではないのだろうか。
私は大きくため息をついた。首振り扇風機の風が、前髪を揺らすので、手でなでつけた。その時、あの感触が不意によみがえった。ペットショップをやっていた時に感じた感触を。
開店のためにシャッターを開けた後、ケージの電球を点けながら、死んでいるものはいないかと一つずつ確認していく。死んだものを見つけると、それを取り出す。掴んだ爬虫類の死体は、外側の鱗が固く硬直している。だが内臓は柔らかくて、ぶよりとした気持ちの悪い頼りなさが伝わってくる。持ち上げると口や尻などから赤黒い体液が滴り、冷たい爬虫類にも血液があることを思い出す。私は手早くゴミ箱に投げ捨てる。その瞬間、手のひらの感触は消え去り、私は生きものが死んだことを忘れる。
「大丈夫ですか」
中本刑事が私の顔を覗き込む。
「ええ」
私は紙コップを手にして口をつけた。薄い麦茶だった。
「では、事情聴取を始めましょうか。まず、氏名、生年月日、住所を教えて下さい」
私が答えると、中本刑事はパソコンへ打ち込んでいく。
「そしたら二人の出会いから教えて下さい」
「えっ、そんな昔からですか。二十六年前になりますけど」
「そうです。出会ったいきさつから話して下さい」
これは時間がかかりそうだな、と気が重くなった。
「出会いは私が短大を出てデパートで働いていた時です。紳士服売り場に二年いた後、販売促進部へ配属になりました。販売促進部の企画で、様々な種類の犬を集めて展示する催事があり、その時の業者で期間中に駐在していたのが和樹です。入ったばかりの販売促進部の仕事は現場での雑用が多く、私たちはしょっちゅう話をしていました。催事が終わってから付き合うようになり、それから二年後に結婚しました。結婚と同時にペットショップを始めたので私は退職して、手伝うようになりました」
それから、一年後に長女が生まれて、今では子どもが五人いる事を話した。
「以前に、ワシントン条約の事件があったね」
中本刑事がうながしてきた。
「はい。十年前です」
「不起訴やってんね」
「そうです。でも新聞やテレビなどマスコミに大きく容疑者と報道されたから、私らの人生変わりましたわ」
「どう変わった?」
「本人には身に覚えのない事だったので、憤りが大きかったみたいです。トマトガエルというのがワシントン条約で規制されています。それが引っかかって警察沙汰になったのですが、トマトガエルには亜種がたくさんあるので。ワシントン条約にかかっていない種類の方、亜種のトマトガエルをうちは輸入したのです。ですから税関に出したインボイスにも和名はトマトガエルと書き、学名はきちんと亜種の分を書きました。通関の際の検査もそうハッキリと説明して、実際に問題なかったのです。でも、警察は生きものの事を何も知らなくて。警察は証拠としてうちから持って行ったトマトガエルを博物館へ鑑定に出しました。その結果間違いなく亜種だとなり、やっと疑いが晴れましたけど。この事件で、『俺らは、お上に目をつけられたら最後、白いものも黒にされる。ワシントン条約は厳しくなる一方や。俺が法律守っていても、またどんな事で疑われるかわからん。そやから生きもん扱うのはリスクが大きい。もう、やってられへん』と仕事への情熱を失くしてしまいました」
警察、警察と私が言っても、中本刑事は顔色ひとつ変えない。
「それからは店の仕事を私や従業員に任せる事が多くなりました。夜に飲みに出ると朝帰りが多くなり、おかしいとは思っていましたが、私は店や子どものことで忙しくて。たまに口論になりましたが、私が文句を言うと黙って出て行ってしまい朝帰りするので、見て見ぬふりをしていました。でも、まさか浮気しているとは思わなかったのです。今思うと馬鹿みたいですけど、『うちの夫に限って』と高を括っていたのです」
中本刑事は「ちょっと待って」と再びパソコンを打ち始めた。これまでの私の話を整理して入力するようだ。
「で、その浮気相手いうのは、青山さんやね」
「はい」
「なんで『うちの夫に限って』と信用してたのに発覚したんですか」
「電話ですよ。うちの人の携帯が鳴ったので本人へ持って行くと、表示された番号を見て出ないのです。おかしいと思ったのですが、すぐに忘れました。それから二週間経った頃、家にいたずら電話が頻繁にかかるようになって。たいてい子どもが出たのですが、『もしもし』と言うとすぐに切れてしまい、気持ち悪くて。それでナンバーディスプレイの電話機に変えたら、番号に見覚えがあることに気付いたんです」
「ようわかったね」
「不思議ですけれども、並んだ数字の字面が頭に残っていました」
「またいたずら電話がかかってきたので、うちの人に出るように言いました。子どもたちの手前、渋々という感じで出ました。私がそばで耳を澄ませていたら『奥さんに言うてやる!』と叫ぶ女の声が聞こえたのです。それで、ハッキリわかりました。でも、『間違い電話やった』とシラを切ってましたけど、顔が引きつってましたからバレバレですよ」
私はふっと鼻で笑って続けた。
「あとはいたずら電話の番号を着信拒否して、浮気の証拠をこっそり探り出しました。簡単にゾロゾロ出てきたので突きつけてやりましたわ」
「それでどうなりましたか」
「最初は色々言い訳して認めなかったのですが、すったもんだの末に、最後は『スマン』謝って、相手の青山さんと別れると言ってくれたのです。それで、しばらく様子を見てたら、朝帰りもなくなったので、言葉通り別れたと今日まで信じていたのです」
私はここまで話すと、残りの麦茶を飲んだ。西に傾いた日差しのせいなのか、興奮したせいなのか喉が渇いていた。
「では、公正証書のことは何も知らないのやね」
「公正証書って」
「ご主人は青山さんに対してお金を払うという公正証書を巻いたんですわ。そのことで口論になり、追っかけたと言うてます」
「公正証書を巻く?」
「巻くとは、公正証書を作成することですわ」
「私にはまったくわかりません。いったい何のお金を?」
「ご主人の話では、青山さんと別れ話をした後、彼女からの電話に出ないでいると、事務所や仕事の取引先へ『島尾さんと連絡つかなくて困っている。なんとか取り次いでほしい』と、しつこく電話されて困ったそうやな。それで仕方なく会って『周りの人を巻き込むのは止めてくれ』と言うたと。その時、お金をくれたら止めるからと青山さんが提案したので、ご主人は仕方なく承知したと言ってます。そうすると次は、二人だけの口約束やったら信用ならんので、公正証書を作成してくれないと困ると言いだした。電話攻勢に疲れ果てていたので、これで、切れるんやったら、と言われるがままにしたと」
「後先考えんと、勝手なことして」
「もう一度聞きますが、ご主人が青山さんと別れたと言った後、実際はずっと付き合っている事を本当に気が付かなかったんですか」
「知りませんでした。十年前に、その人は私の世界から消えましたから。抹殺したんです。存在していない人のことなんて、わかるはずがないでしょう。今回の件も、私にとっては亡霊が出たのと同じです。全く怖くない亡霊ですけど」
中本刑事は抹殺という言葉に反応してか、目つきが険しくなった。私と目が合うと、すぐに元の表情に戻り話題を変えた。
「では、家庭でのご主人はどうですか」
「子煩悩ないい父親です。子ども達は、皆、大好きです」
「ほう。家族サービスをよくしているんですね」
「よそと比べたら、どうかわかりませんけど。月に一度は、家族で出かけています」
「では今の奥さんの気持ちは、早く家に帰って来てほしいということですね」
「……」
私は扇風機の風に煽られる前髪を再び撫でた。死んだ爬虫類をつかんだ感触は消えていたが、私は何匹も、いや何十匹、何百匹も捨ててきたな、と頭に浮かんでくる。関係ないことなのに、なぜ今の状況で思い出してしまうのだろうか。私は頭がおかしくなったのかと腕を組んだ。
「疲れましたか」
中本刑事は背筋を伸ばした。
「いえ、大丈夫です。でも家に早く帰って来てほしい、とは思いません」
私は口から出た自分の言葉に驚いた。
「えっ」
怪訝そうに中本刑事が顔を覗き込んでくるので、私はうろたえた。
「自分のしでかしたことの始末は、ちゃんとしてもらわないと」
今度はとっさに取り繕った。
「そしたら入力するから、少し待って下さい」
中本刑事は納得したのか頷いて、パソコンに向かった。しばらく経つとパソコンから印刷した紙を持ち、「では調書を読むから、間違いがないかよく聞いて下さい」と朗読を始めた。
「私が夫、島尾和樹と出会ったのは、今から二十六年前です。当時私が働いていた……」
今まで中本刑事に話した事が文章にされ、長々と読み上げられる。
「……このように家庭では良い夫であり、良い父親です。一日も早く家に帰れるようにと、私は心から願っています」
中本刑事は読み終えて顔を上げると「これで間違いないですね」と私の顔を覗き込んだ。最後の一文は違うなと思ったが、「はい、間違いないです」と答えた。それから調書に署名、捺印をした後、「では今から面会に行って下さい」と中本刑事が立ち上がった。私も立ち上がったら、差し込んでくる西陽が目に入って身体がふらついた。今の自分の身体と頭は昨日までと違っていて、思いもよらない事ばかりが起きる。しっかりしないといけない、自分自身を奮い起たせ、中本刑事の後をついて行った。
廊下の突き当たりにあるドアの前まで来たら、中本刑事が「ここで名前言ったら会えるからね」と踵を返して去った。ドアを開けたら、事務机が一つだけの狭い部屋に警官が一人いた。名前を告げると「差し入れは?」と聞かれた。持ってくるよう言われた突っ掛けサンダル、Tシャツ、ジャージーのズボン、下着のパンツを出した。男性は一つずつチェックして紙に書き込んでいく。長男の涼人が学校で使っている体操服のジャージーしかなかったので、仕方なく持ってきた。それを目の前で広げられた時、ズボンに刺繍された「島尾」という字が目に飛び込んでくる。涼人が汚されたような気がして、思わず私は目を背けた。男性はそれには触れず、「これはダメやから抜きますね」と腰回りの紐を抜いて私に渡した。私が身分証明書として出した免許証を確認すると、署名、捺印をするよう言い「ここから入って下さい」と奥にあるもう一つのドアを指した。
ドアのノブを回して押すと、思ったよりも重くてなかなか開かない。体重を掛けて押し開けようとしたら、「防音仕様やから重いんですわ」と、後ろから手伝ってくれた。
「すみません」と、礼を言って中に入ると、壁に貼られた標語が目にとまった。
ちょっと待て グラスに映る 家族の笑顔
今の酒 後悔するのは 明日の朝
一読してから三つ並んだ椅子の真ん中に座った。目の前にいくつもの空気穴の開いた透明なアクリル板があり、向こう側と隔てている。
間もなく音もせずに向こう側のドアが開き、和樹と制服を着た警官が入って来た。警官は置いてあったキッチンタイマーをセットしてこちら側に向け、「二十分やからね」と横のパイプ椅子に座った。
アクリル板越しに見た和樹は、髪はボサボサで無精ひげが生え、頬が落ち込み虚ろな眼をしている。小さな丸い穴から、吐き気のする体臭が漂ってきそうだ。じっと彼を見据えた。長い沈黙の後、私が口火を切った。
「青山とずっと付き合ってたんやね。私を騙して」
「とうに別れたわ」
「とうって、いつやの。本当に別れたのやったら、留置場に入るような事はしないと思うわ。追いかけて勝手に家に入るなんて、どう考えてもおかしいわ」
「おかしいやろ。俺もわからん」
「わからんって、どういうことよ。だいたいヤクザを行かせるなんて脅しを真に受けて、あんたは阿呆や。何か脅されるような悪いことをしたん」
「してない」
「だったらこんな事になった理由を教えて」
「あることを亜矢子にバラしてやると言われて、頭に血が昇った。とにかく止めさそうと思って。俺は家族を守りたかったんや。亜矢子や子どもらに知られたくなかったんや」
「あることって、公正証書のこと?」
「そうや。誰に聞いたんや」
「中本刑事」
「そうか。バレたんやな」
「あんたのやった事は、家族を守ることではない。家族を守るつもりやったら、飛んで家に帰ってくる筈。言い訳せんといて」
「すまん」
「いったいヤクザが何を言いにくるわけ? バラしたいのなら青山本人が来ればいいのに、なんでヤクザなんて出すん?」
「わからん」
「わからん、わからんばっかり。わからんのは私のほうやけど」
私が睨むと、和樹は下を向く。
「アイツは俺が一番恐れることを知っている。それは家族を巻き込んで、メチャクチャになることや。それにヤクザを出したら怖がる思たんやろ」
和樹と青山の親密な関係が「アイツ」という言葉から思い知らされ、一瞬、言葉を失ったが、悟られないように平静を装った。
「追いかけて家に入って、どうするつもりやったん」
「今思うとわからん。ただ、止めさせんとあかんという思いで頭の中は一杯やった。俺の前で電話したからな、ヤクザいう奴に」
「それ、中本刑事に話した?」
「うん、言った」
「本当にヤクザなんやろか。電話の相手は」
「そのヤクザの男も事情聴取に呼ばれたらしいわ。刑事の話では、暴力団関係者に間違いないやて」
「そう」
「アイツが電話かけてた相手が判るまで、俺、泥棒か痴漢やと思われてたんやで、刑事に。俺が嘘を付いてるって、決めつけられて。もっと早くわかれば、ヨンパチで出られたのに」
「ヨンパチって?」
「四十八時間や。亜矢子、B先生に電話して接見に来てもらって。頼むわ」
知人の弁護士の名前を挙げた。
「こんな件でお願いするのは嫌やわ。恥ずかしい」
「とにかく電話して」
和樹は深く頭を下げて動かない。
私は答えずに、キッチンタイマーを見た。すでに十二分経過している。
「それはそうと公正証書って、どんな内容?」
「どんなん言われても」
「ほんとの事を教えてくれんと、私は何も出来ないよ」
「こんなとこに入ってしまったから、もう亜矢子に隠し事は何もないねん。でもな、今は頭が回らんねん。詳しく思い出せん」
「自分でやった事がわからないなんて、今さら言い逃れせんといて。公正証書のいきさつは、さっき刑事さんに聞いたわ」
「なんて聞いた?」
私は手短に先ほど聞いた公正証書の話をした。
「そうや、その通りや」
「じゃ、公正証書は手切れ金いうこと?」
「まあな」
「いくら払ったん」
「いっぺんに払うと、亜矢子にバレるやろ。それで、二万五千円ずつを十年」
「それって、総額いくらやの」
「三百万」
私はため息すら出ない。毎日、毎日、一円のお金も無駄にしないよう、切り詰めた生活をして五人の子どもを育てているのに。
私は横の警官を見た。彼は手にしたファイルに目を落とし、存在を消している。しかし、じっと耳を澄ましているのに違いなかった。
タイマーは残り三分を切っている。
「子どもらには、何て言ったらいいの。 お父さんは警察に捕まったって言うの」
和樹は考えているのか、返事をしない。
「上の二人には言うよ、本当の事。沙紀と泉はすごく心配してるから、嘘を付いたらきっと不審に思うわ。涼人はどうしよう」
私は独り言のように続けた。
「沙紀と相談してから、涼人に話すかを決めるわ」
そして沈黙の後「子どもらには、入院した言うといて。沙紀と泉にもな」と和樹は呟いた。
キッチンタイマーの音がジリジリと鳴った。
「終了!」
警官は勢いよく立ち上がるとドアを開け、和樹を連れて出た。向こうのドアが閉まる前に「明日も来てや」と和樹が叫んでいた。
一人残された私は立ち上がってドアに近づく。ドアノブを掴んだら、また死んだ爬虫類の感触がよみがえった。掴んだドアノブを思わず離して、凝視した。それは銀色の金属で出来た変哲のない物だが、触った時の感触は確かに爬虫類の死体だった。今、触れたように感じた爬虫類の死体は、きっと蛇だ。そういえば、私の一番嫌いな死体は蛇だった。生きている蛇は、一つ一つの鱗をしなやかに美しく波立たせて動く。それが死んでしまうと途端に、得体のしれない物体へと変化してしまう。
私は自分の神経が麻痺したような気がして、不安になる。
思い切って体重をかけてドアを開けると、さきほどの警官に黙礼して外に出た。
自宅へ帰ると弁護士のB先生に電話をした。事情を話したら、今日中に和樹に会いに行ってくれることになった。これから私はどうすればいいのだろうか。身体と頭は重いが、じっとしていたら足元から崩れそうだった。とにかく出かけている子ども達が帰ってくるまで、いつものように過ごさないと。
そう決めると、冷蔵庫を開けて夕飯の準備を始めた。
調理をしていると、悠馬と仁が帰ってきた。
「パパは見つかった?」
二人揃って聞いてくる。
「うん見つかったよ。パパは怪我して入院してたわ」
「どこで? どんな怪我?」
小指を骨折している悠馬が顔を曇らせた。
「ママの知らないとこで怪我したから、よく知らないわ。怪我の方は十日くらいで退院できるって」
「どこの病院? 僕、明日お見舞い行くわ」
仁は和樹の居所が判って安心したのか、笑顔だ。
「遠い病院やから、無理やね」
「遠いってどこ?」
「車で三時間くらいかな」
私は咄嗟に嘘を付いた。
「遠くても、夏休みやから大丈夫やもん。僕、行きたいし」
「子どものお見舞いは駄目やねん。その病院は」
「ふーん」
仁は納得いかない顔付きで私を見つめる。悠馬は疑いの眼差しだが、質問はしてこない。
「もうすぐご飯やから、先にお風呂に入って」
何とか話題を逸らそうと、二人を急き立てた。
夕食が出来たころ部活帰りの涼人が食卓に付き、バイトから泉、そして沙紀も仕事から帰ってきて子どもたち全員が揃った。
「今日のおかずは何?」
食いしん坊の泉が箸を並べながら、聞いてきた。
「ソーメン」
「まさかソーメンだけ?」
「野菜炒めもあるよ」
「ほかは?」
「昨日の残りの肉じゃが」
「手抜きやなぁ」
「ウルサイ。今日はお父さんのことで時間取られてね」
「パパの居所わかったん?」
泉が叫び、涼人と沙紀は不安そうに顔を見合わせている。
「パパは入院してるんやで」
仁が横から得意げな声を出す。
「入院ってなんで?」と泉が目を見開いた。
「怪我したんやわ」
「大丈夫なん?」
「まあ怪我は大したことないみたい」
「でも、入院したのなら大怪我やん」
私と泉の会話を聞いて、沙紀が眉を寄せた。
「まあね。詳しいことは後で話すから、とにかく食べよう」
私は話を打ち切るために椅子に腰かけ、箸を手にする。子どもたちも「いただきます」と食べ始めた。
食事の後片づけを終えると、リビングでテレビを見ている悠馬と仁を子ども部屋に追い立てた。二人は「夏休みやのに、まだ寝るのは早い」と不服そうだったが、何とか言い聞かせた。
ちょうど風呂から上がった沙紀が冷蔵庫を開けているので「話がある」と私の座るソファーに呼んだ。
「話って、お父さんのことやろ」
「当たり」
「怪我って、事故?」
「お父さんは怪我と違うねん」
「やっぱり。なんか怪しいと思ったわ。ママ、ご飯の時、全然話題にせえへんから」
「驚かんといてね。お父さん、今C警察にいてるんやわ」
「警察?」
沙紀の身体はソファーから飛び上がった。
「沙紀はもう大人やから、本当のことを話すね。お父さんは青山祥子の家に勝手に入って、住居侵入で捕まった」
「青山祥子って、もしかしたら……」
「そう、十年前に揉めた人」
「わたしが中学生の時にお父さんが浮気して、離婚するとかで夫婦喧嘩ばかりしていた。その相手の?」
「うん」
「お父さんとその人、まだ続いていたんや」
「二、三年前に別れた言うてるけど」
「別れた相手をわざわざ追いかけて、そんなことする?」
「おかしいよねぇ」
「うん、絶対におかしい」
「お母さんも疑問やけど、今それはどうでもいいねん」
「なんでやのよ」
沙紀は気色ばんだ。
「なんて言うのかな。私の中では十年前に抹殺したから、もう亡霊やね。きっと夏やから出たんやわ」
私は自分の言葉に笑った。
「笑いごと違うって。しっかりしてよ、ママ」
「ごめん。でも可笑しくて……」
「笑ってんと、詳しい経緯(いきさつ)を話して」
沙紀が真顔で聞くので、今日の出来事を公正証書の件以外、説明した。公正証書については、まだ詳しいことがわからないし、子どもたちにとって父親が逮捕されたことだけでも衝撃なのだから、金銭についての余計な心配はさせたくなかった。
泉もいつの間にか側に来て、真剣に聞いている。
「で、お父さんはどうなるわけ」
「わからんわ。明日弁護士のB先生に聞いてみる。今日会いに行ってくれた筈やから」
「ママ、離婚して!」
黙っていた泉が顔を赤くして怒鳴った。
「ほんまや、何で十年前に離婚してくれへんかったん」
沙紀も思い出したように同調した。
「十年前、沙紀と泉は『離婚せんといて』と、私らが喧嘩したら泣いてたやん」
「それはね、子どもやったから。今はもう大人やし。わたし達、二十歳超えてるわ」
「そうやね。あんた達がこんなに大きくなったのに、お父さんは何してんやろう」
「ママも同罪やわ」
沙紀が私を睨んで続けた。
「今度こそ問題から逃げんといて、お願い」
「逃げんといてって、意味わからんわ」
「この十年、ママが何も問題がないように振る舞うから、お父さんは好き勝手にしてきたんやわ。その結果がこれ」
「問題ってどんな? 私には問題はなかったから逃げようがないわ。でも結果的に騙されてたけどね。沙紀は、なんでお母さんのせいって言うの。泉もそう思うん?」
「パパが悪いのは間違いないと思うよ。けど、今回はガツンとやらなあかんやろ」
泉は拳を振り上げた。
「そうや、ママも変わらんと」
「ほんとやわ、成長して」
二人の娘は興奮した面持ちで、私に迫ってくる。私は答えられずに、たじろいだ。
「二人で責めんといて、お願い。今日はなにかと体調が悪いから」
私は死んだ爬虫類を触った感触が、今日不意によみがえった事を話そうかと迷った。誰かに聞いてもらい、頭が正常かどうか確かめたかった。しかしこんな時に二人を心配させてはいけないと思い、喉まで出かかったが飲みこんだ。
「涼人、こんな夜にアンプ繋いで弾き始めたし」
沙紀がギターの音が響く天井を指した。涼人が夜遅くにギターを弾く時は、ストレスがある場合が多い。きっと、今日の和樹の入院話を聞いて、不審を抱いているのだろう。
「涼人呼んできて」
「わかった」
泉が階段を軽やかに上がっていく。すぐに、涼人と二人で戻ってきた。
「どうしたん、何の用」
ギターを止められた彼は不機嫌だ。
「お父さんのことやけどね」
私はもう一度、今日の出来事を話した。
「今日のオカンの素振りでオカシイとは思ってたけど。アホやな、オヤジは」
涼人は意外にも明るく言った。
「涼人、腹立たへんの」
泉がいきり立つ。
「えっ、俺、どうすればいいん」
泉の形相に困惑したようだ。
「三人とも落ち着いて聞いて。悠馬と仁には入院で押し通すから、ホントの事は話したらあかんよ」
「仁はともかく、悠馬は不審に思う筈やわ」
沙紀は首を傾げた。
「あいつ、勘いいからな」
涼人の言葉に沙紀と泉が頷く。
「どんなに怪しんでも、嘘を付いてよ。悠馬が知ったら仁に話し、仁はよその人に話す伝言ゲームになるから。こんな事、誰にも知られたくないからね」
「そうやわ、あの子らの口に戸は立てられへん」
沙紀と泉は納得したようだ。
「部活の合宿代を今週末に払わんとあかんねん。俺、オヤジに頼んでたんやけど。お金どうなるん?」
「あんたの心配はそれかい」
二人の娘が一緒に突っ込む。
「すっかり合宿代の事、忘れてたわ。ちゃんとお母さんが渡すから安心しなさい」
涼人の登場で場が一気に和んだ。それで和樹の話は終わり、皆それぞれの部屋に戻った。
一人残された私は沙紀と泉に言われたことが、心に引っかかった。私が変わらないといけないなんて、自分自身では思いも寄らなかったからだ。どうすれば良いのか解らなかった。そもそも変わる必要があるのは和樹の方ではないか。そう思うと、だんだん腹が立ってきた。私は何も悪いことはしていないのに……。モヤモヤした思いで胸がいっぱいになってくる。
心を落ち着かそうと、ダイニングテーブルの上を何度も拭いた。拭いても拭いても汚れが取れない気がして、額から汗を流しながら強く擦り続けた。
翌日の午前中、B先生から電話があった。B先生の話では、逮捕された当初は、窃盗などの目的で侵入したと警察に思われていたので、取り調べが大変きつかったらしい。だが和樹の言い分を警察が裏づけ捜査した結果、青山祥子と長年にわたり愛人関係にあった事や、彼女が別れ際に暴力団関係者へ電話をした事実が判明したので状況が変わった。和樹は、何も考えずに付き合っていた頃のように勝手に家に入ったことを通報され、悔しがっていたという。今後の見通しは警察が和樹に同情的だということもあり、検事の前で住居侵入を認めれば罰金ですむだろうとの事だった。
私はB先生の話を聞いて「罰金ですむ」ということは、この場合は良いことなのだと理解した。検事の前で否認すると起訴されて裁判にかけられてしまう可能性が高くなる。それは避けたいし、また和樹も望んでいないと説明された。
B先生との通話を終えた私は、平川へ電話をした。昨日は和樹の居所がわかった事だけを伝えたが、他は何も言わなかった。仕事の事もあるが、和樹が警察署に留置されている事を知らせるべきか迷うので、取りあえず状況を聞いてみる事にしたのだ。
平川の話では国内の販売は滞りないが、商品の輸入手続き等は和樹がほとんど一人で手掛けていたので、分からない事が多いらしい。長期で留守をするのなら連絡を取れないと困るので、和樹の電話がほしいと訴えてきた。私は彼に伝えるからとだけ答えた。
和樹との面会へ行く用意をして家を出た。午後の暑い太陽は日傘で遮ることは出来ず、皮膚を焼かれていくように思えた。電車に乗ると、顔や首元の汗を拭いた。火照った顔に触れると、私の身体は生きていると実感した。変温動物の爬虫類ではない、身体中に温かい血が流れている。昨日のような感触は何も感じられないので、もう大丈夫だと安心した。
C警察署で面会の手続きを終え、接見室のドアに手を掛けようとしたら「百二十三番!」と係の男性が奥の方へ叫んだ。向こうで「百二十三番」が連呼されている。私はドアを開けて中へ入った。
和樹が警官と共に入ってくるのが、透明なアクリル板越しに見えた。昨日差し入れたTシャツとジャージーを着ている。髪はボサボサで顔色が悪く髭はますます濃くなり、薄汚れたホームレスのようになっていた。
「百二十三番って、あんたの事やの」
「そうや。ここでは名前はないねん」
「だったらジャージーの名前、他の人に見えんようにしてよ。涼人のやから」
「Tシャツで隠れてるから、見えてへん」
タイマーを二十分に合わせた警官は昨日と同じように横に座って、手にしたファイルに視線を落としている。だが、会話を聞いているに違いない。
「B先生に電話で見通しを聞いたわ。それで取り調べは終わったん?」
「だいたい終わったと思うわ」
「そしたら、ここを出られそう?」
「俺も出たいから、昨日B先生に聞いてん。法律では拘留決定に対する不服申し立て、準抗告いうやつがあるんやて。でも、ほとんど認められへんらしいし、俺の場合見込みないって」
「ということは、十日間ここにいるん」
「そうや、仕方ないわ」
和樹はB先生に会ったからか、昨日よりも落ち着いていた。
「仕事のことやけど。平川君には、どう話したらいいの」
「何か言うてるか」
「うん、困っているらしいわ」
私は電話で聞いた内容を伝えた。
「指示したい事があるし、明日、面会に来てもらって」
「この事を知らせていいんやね」
「そうや」
「弁護士以外は、一日一回しか面会出来ない規則らしいわ。同時に三人まで入れると聞いたけど。平川君が面会に来るのなら、私はナシにするわ。一緒にここへ来るのは嫌やもん。時間も二十分しかないから、ちゃんと話でけへんしね」
「仕方ないな。明日は平川だけでええわ」
「わかった。で、B先生に弁護を頼んだのよね」
「いや、頼むつもりはない」
「何で?」
「お金もかかるしな。付いてもらっても、結果はあまり変わらんみたいや」
「そうなん。で、公正証書を巻いたいうヤツは、払ってたんやね」
「先月までは払ってた」
「まさか、これからも払う気?」
私は気色ばんだ。
「それも相談したんやけど、ここ出たら訴訟を起こすわ」
「どんな?」
「払わんでいいようにする裁判や。公正証書の中身は、俺がアイツからお金を借りたので、それを返済するいう事が書いてあるねん」
「ホントに借りたん?」
「借りる訳ないやろ。不倫のお手当や手切れ金は法律上認められへん。社会の秩序が乱れるからな。だから金銭貸借にしたんや」
「裁判で勝てるん?」
「B先生は『難しいと思いますが、やってみましょう』やて。公証役場で作ったものは、簡単に反故には出来けへん。これまた社会の秩序が乱れるからな」
「秩序を一番乱してるのは、あんたやで。わかってるん」
「わかってる。ここにいたら嫌でも反省してるわ」
和樹は言葉とは裏腹に、怒ったように語気を強めた。
その瞬間、私の手のひらが気持ち悪くなる。なにも触っていないのに、爬虫類の死体の感触がする。やはり、私はどうかしているようだ。感触が消えるようにと両手を擦り合わせた。
「どうしたんや」
黙っている私を見た彼は、不審な顔付きをした。
「ねえ、徳島へ移した生きものたちは、元気にしてる?」
「いきなりなんでや」
「急に気になってね」
「だいたいは生きてるで。高いヤツは死んでへんから、そんなに損はしてへん」
「損か得かを知りたいのではないわ。私らが店をやってた時、たくさんの生きものを殺してきたやん。でも殺したとか考えてたら、生きもの商売なんか出来へんから、ずっと気に留めてなかったけど。でも忘れていたのに思い出してしまったら、何か気持ち悪くて」
「アホか、殺したことは一度もないで」
「でも死んでいったし」
「死んだら損するねんから、生かすための努力を必死にしてきたわ」
「今さら損得はどうでもいいねん。この話はもういいわ」
噛み合わない会話になり、金銭勘定ばかりの和樹とは感じるものが違うのだと痛感した。今日までどうして気付かなかったのだろうか。
残り時間は五分あったが「もう帰るわ」と言って席を立った。和樹は驚いたようだが「あさって来る時、涼人らが読んだジャンプ、マガジン、サンデーの今週号持って来てな。取り調べも終わったから、暇やねん」とねだってきた。私は無視して接見室から出て行った。
家に帰って平川へ電話をした。彼は大変驚いたが、私の他言をしてくれるなという願いに同意した。
子どもたち全員と夕食を済ませると、昨日のように沙紀と泉が話をしたそうな様子でリビングにいる。涼人は以前と様子は変わらず、何も和樹のことは聞かずに、食後すぐ自室へ引き上げた。
「悠馬、仁、早く風呂に入るか、上で宿題やるかしなさいよ」
沙紀が母親のように追い立てる。
「夏休みやから、今日は宿題やらんでええねん」
仁が憎まれ口をたたいた。
「夏休みの宿題、早く終わらせたら後が楽やん。八月三十一日に『手伝って』泣きついても今年は手伝わんよ」
「そんなん頼まんし」
「ホンマやね」
二人はしばらく言い合いをした後、あきらめた仁は自分の部屋へ上がっていった。悠馬は風呂に入ったので、やっと話が出来ると泉が口を開いた。
「ガツンってパパに言ってきた?」
「いや、言ってないわ」
「なんでよ」
娘二人は声をそろえた。
「色々と話すことがあったし、時間が二十分しかないからね」
五分前に出たことは黙っておいた。漫画本を持って来てほしい、と和樹にねだられたことは知られたくない。
「反省してるんかなぁ」沙紀は思案顔で首を傾けた。
「お父さんが本当に青山いう女と別れたのか、ちゃんと調べんとあかんよ」泉は命令口調だ。
「調べるいうても、どうやってしたらいいの。刑事さんの話では二人とも別れたと言ったらしいし、もしも未だに付き合っているのなら、たぶん警察へ通報しなかったと思うわ」
「ママは甘い」
「そうかな」
「お父さんを問い詰めて反省させ、二度と女の問題を起こさんよう言い聞かせんとね。ママが何もなかったような顔をしてたら、きっとお父さんは、ほとぼりがさめた途端、また浮気に走るよ」
私に詰め寄る泉に同調した沙紀が大きく頷く。
「浮気は二度としないように言うから。心配せんといて」
私の言うことを和樹が素直に聞くのだろうかと疑問だったが、やはり二人の考えは正しいように思った。
「頼むよ、ママ。これは夫婦の問題やねんから。わたしら子どもには、どうにも出来へんもん。お父さんが帰ってきたら、『傷ついたんやから!』って泣いてやるけど」
「わたしも行方不明の時、死んだのかと心配して夜も眠れんかったもん。お蔭で一日中、心も身体もしんどかったわ。お父さんには『なにやったん!』とまず怒ってから、『もう二度と心配させんといて』と反省するように大泣きする」
私も和樹の前で泣けばいいのだろうか。それよりも、娘たちと涼人に話したことを和樹に言ってないので、家に帰ってくるまでには伝えないといけないな、と私は思った。
「明日も会いにいくの」
平川が面会に行くことになった、と私は説明した。
「三人いっぺんに会えるんやったら、わたしも行こうかな」
沙紀がなぜか声を弾ませた。
「うん、行こう! みじめな姿をわたしらに見られたら、きっとお父さんは反省するわ」
「でも、土日の面会は無理らしい」
成り行きに困った私は、なんとか回避させようとした。
「そうなん。仕事休んでまでは行かれへんし」
沙紀が言うと、泉も納得したようで安心した。
土日の面会が出来ないのは本当だったし、平日でも毎日は行かないだろう。短い面会時間内で和樹に「ガツン」と言える自信はない。なぜなら、彼がそれで変わるとは思えないからだ。だが、娘たちの望むように、私自身が変わらなければ、とは全く思わなかった。
悠馬が風呂から出て来たので自然に話を終わらせたが、二人は言いたいことを吐きだしたようで、すっきりした面持ちになり自分の部屋へと去っていった。
私は仕事の予定を確認した。土曜日に新たな入居者が引っ越してくることを思い出したので、明日の斡旋業者との打ち合わせなどの段取りを考えて眠りについた。
平川が面会に行った次の日の金曜日、中本刑事から電話が入った。火曜日に和樹は検察庁へ送られ、罰金十万円を払うと帰ることが出来る予定だと聞かされた。その十万円を月曜日に差し入れに来るよう指示された。
和樹の帰宅日が決まると、私は不安と安堵が入り混じった妙な気持ちになった。帰ってくる事は、悠馬と仁のために良い事だと思う。彼らは、私と姉二人の様子から何かあると訝っていた。仁は「子どもが行かれへん病院ってどこなん? ホンマは入院してないんやろう、パパ」と何度も聞いてきた。私はシラを切って「すぐに退院やから」と今まで押し通した。
沙紀と泉、涼人たちも心配だった。公正証書の事以外の事実をほぼ話したので、和樹に対する感情は、今まで通りにはいかないだろう。言っていたように二人が泣いて和樹に気持ちを訴えたら、以前のような親子関係に戻れるのだろうか。そうだとしたら心配はないが、やはりわだかまりは残る気がする。そう思うと、悠馬と仁のように嘘を付いて、隠し通した方が良かったのかもしれない。また、和樹と私の関係はどうなるのだろうか。いろいろ深く考えると、またあの感触が手のひらに起こりそうだった。私はなんとか気持ちをそらせた。
新たな入居者が明日に引っ越してくるので、私は最後の清掃などの雑用をこなさないといけない。段取りを考えたら、今日は面会へ行く時間はなさそうだった。
マンションへ行った私は、和樹の事件を忘れようと、一心に清掃に打ち込んだ。なのに、ふと頭に浮かんでしまう。その度に、気を紛らわせようと必死に身体を動かした。そうしないと、爬虫類の死体の感触が手のひらによみがえるからだ。
掃除を終えた後、自宅最寄り駅のスーパーで食料品を買った帰り、いつもは乗らないタクシーを使うことにした。身体がだるい上に荷物も多かったこともあるが、公正証書の件を思い出すと、倹約するのが馬鹿らしく思えたからだ。
歩くと十五分ぐらいだが、タクシーだとあっと言う間に自宅近くまで来た。次の角を曲がると、五軒目が家だ。止まる場所を運転手に伝えてメーターを確認し、財布を出そうとバッグをまさぐっていたら、車が角を曲がったとたん急ハンドルを切った。だが間に合わなかったらしく、タクシーは何かを踏んづけたようだ。
「イタチが飛び出してきましたわ。夕暮れで見にくいさかい、轢いてもうたわ」
運転手はバックミラー越しに、悔しそうな表情で言い訳をする。
後ろを振り返ったら、道路の真ん中にゴミのような物体が見えた。多分、死んだのだろう。タクシーはすぐ家に着いたので、急いで降りた私は、店とは横並びにある門扉横のチャイムを鳴らした。
「お母さんやけど、誰かいる?」
「おかん。どうしたん」
悠馬がインターホン越しにのんびりと答えた。
「新聞紙とスーパーの袋持って来て」
「何で?」
「イタチを轢いてん」
「イタチ? どうやって」
「お母さんが轢いたん違うわ。乗ってたタクシーが轢いたの」
玄関ドアの前でバッグの中の鍵を探していた時、ドアが開いた。悠馬が新聞紙とレジ袋を持っている。仁も後ろから顔を覗かせていた。私は荷物を家に入れると、すぐに先ほどの道路へ引き返した。悠馬と仁もついてくる。
轢かれたイタチの前に三人で立った。西に傾いた夕陽は異様に明るく照りわたり、横たわる死体を赤茶色に浮かび上がらせている。胴体の後ろ半分は潰れ、道路に血を流していた。その死体に仁が素手で触ろうとする。
「あかん! 汚い」
私は手を払いのけた。
「なんで。かわいそうやもん」
不服そうに口を尖らせる。
「お母さんが、やるから」
レジ袋を手袋のように持ち、イタチをつかんだ。温もりが、手のひらに伝わってくる。まだ身体は柔らかく、つい先ほどまで生きていたのだ、と知らしめてくる。私はイタチがレジ袋に上手く入るよう、ていねいに裏返した。
「新聞紙、いらんかったやん。イタチどうするん」
悠馬が生意気に言った。
「捨てるよ。このまま放っておくと、また轢かれてぐちゃぐちゃになるからね」
「えっ! 捨てるん。どこに」
「ゴミとして、捨てるけど」
「可哀そうや、ゴミにするのん」
仁が怒って、私の背中を軽く叩く。
「でも仕方ないって。死んでしまったんやから。可哀そうや思うから、お母さんはこうして拾いに来たんよ」
「そうや、お墓作ろう」仁が得意げに提案した。
「お墓ってどこに?」気乗りしない私はレジ袋を手にして、家へ歩き始めた。
「家の庭」
「うちに庭なんて、ないけど」
「あるよ。玄関の前に」
門扉から玄関までは三歩しかないが通路があり、そこは敷石以外、店の反対側にあるガレージまで土になっている。たぶん、庭とはそこのことを言っているのに違いない。
「あんなとこに埋めて、猫とか来て掘り返したら困るわ」
「大丈夫。僕が深く掘るから」
「なんで、お墓を作りたいん。うちのペットでもないのに」
「死んだとこ見たら、可哀そうになったし。だいたい、ママのタクシーが轢いたんやろ。ママにも責任がある!」
仁は私の手から、レジ袋を取って駆け出した。
「俺もゴミとして捨てるんは、どうかと思う」
悠馬も仁の後を追って走っていく。
「勝手なことしたら、あかん」
私は二人の後ろ姿に叫んだ。
家に着くと、二人はプランター用に使っているスコップで、土を掘り始めている。
「そんなんで深く掘れる?」
「うん、僕力あるから」
仁は額から汗を流しながら掘り、右手の小指を骨折している悠馬は、左手で土をかき出している。
「冷蔵庫に買ったもの入れてくるから」
私は二人を残して家に入った。
しばらくすると、泉が帰ってきた。
「あの子ら、なにやってるん」
「イタチのお墓作り」
私はイタチを轢いた出来事を説明した。
「あんな場所に埋められたら、ちょっと気持ち悪いな。でも一生懸命掘ってるの見たら、よう言わんわ」
「ホンマやな。お母さんもそう思うわ」
私が玄関ドアを開けると、深さ、幅ともに、私の手のひらを広げたくらいの穴が出来ていた。
「浅いわ。この倍くらいは掘り」
「僕、疲れた。ちょっと休憩しよ」
「貸して」
私は仁のスコップで掘り始めた。粘土質のような層が表われ、思ったように掘り進まない。スコップの先で表面を削り、崩れた土を悠馬がすくって出す。これを黙々と続けた。まぶしかった夕陽はいつの間にか沈み、気がつくと周りは暗くなっている。
「もういいんちゃう」
そばで見ている仁が言った。
「俺もそう思うわ」
悠馬の小指を巻いた包帯は、土で汚れている。
「埋めようか」私はレジ袋に目をやった。
「うん」悠馬と仁が声を揃えた。
三人で穴を囲んでしゃがんだ。門扉横の電灯が薄暗く穴を照らしだす。私はレジ袋から、そっとイタチの死体を穴へと転がした。レジ袋越しに触れたイタチの身体は先ほどの温もりが消え去り、固くなっている。毛があるのに爬虫類の死体とよく似てるな、と一瞬思う。
「埋めよう」
悠馬と仁が土をかぶせ始めた。茶色の身体は、かぶさった土で黒く変わっていく。
「お母さんにもやらせて」
私も土をイタチにかけてやった。イタチの身体が土で埋まると「全部かけてやり」と、悠馬にスコップを渡した。すぐに土は元の場所へ戻り、表面は前よりふくらんだ。
「お墓の目印」
仁が彼の手のひらほどの石を持ってきた。悠馬がそれを埋めた土の上に置き、手を合わせて拝んでいる。
「なにやってるの」
帰ってきた沙紀が門扉を開けて入ってきた。
「あっ、お姉ちゃん。イタチのお墓やから、踏んだらあかんで」
仁が沙紀に説明した。
「なんでここへ?」
「ママが捨てるって言うから。そんなん可哀そうやんなぁ。生きてたんやからな!」
「轢かれて死んだなんて、可哀そう。仁の言う通り心痛むわ。いい事思いついた! お姉ちゃんがお線香持ってくるわ。みんなで拝もうよ」
「そうや、そうしよう」
仁は小躍りした。
沙紀はライターと線香を持ってくると、火をつけて石の前に立てた。
「俺もやる」
「僕が先や!」
「悠馬からやで」
沙紀が言うと、二人はおとなしく従った。悠馬は沙紀の真似をして、石の前に線香を立てた。
同じように線香を立てた仁は、「次はママやで」と、ライターを手渡してくる。線香を持った私は火をつけた。そして皆と同じ場所に立てると、目をつむって合掌する。
思い返すと店で死んだ生きものたちは、みなゴミにしてきた。こうして弔うことなど思いつきもしなかった。
「ごめんね」
私は胸の中で、この手で捨てた生きものたちを偲んだ。線香の香りを吸いこむと、気持ちが落ち着いて心地よくなっていく。
「お父さんがどこかで死んでいたらわかるって、この間、私言ってたでしょ」目を開けると、沙紀に話しかけた。
「うん」彼女が頷く。
「そんなふうに思うなんて傲慢やな、と今は思うわ」
「パパの入院の件で、そう思うようになった?」
沙紀は悠馬と仁の手前、入院と言ったようだ。
「それもあるけど。まあ、ようわからんけど変わったわ」
「そうなん」
「ただいま」
振り向くと涼人が、ギターを背負って帰ってきた。
「なにしてるん」
彼も不思議そうに聞いてきた。イタチのお墓のいきさつを話すと「ふうん」と関心なさそうに家へ入っていった。
「さ、私らも中入ろうか。蚊にいっぱい刺されたわ」
三人をうながして、私は立ち上がった。
月曜日、銀行で十万円引き出すと、和樹の面会に行った。受付係の警官に差し入れとして十万円と替えの服を渡し、接見室へ入った。
和樹は警官と入ってくると「ジャンプは持ってきてくれた?」と座りながら聞いてきた。警官はタイマーをセットしてこちらに向け、横に座って書類を読み始める。
「ジャンプなんて、持ってきてない」
「まあ、ええわ。明日で帰れるからな」
「罰金の十万は渡したから」
「おう、すまん」
明日出られる喜びからだろうか、表情が明るい。
「明日、お風呂屋さんに寄ってから帰ってね。今の姿は子どもらに見せられへん」
「亜矢子、車で迎えに来てくれるんやろ。検察庁に五時前に来てや」
「明日は来られへんわ」
「なんでや」
「悠馬の病院に行かなあかん。予約してるから」
「悠馬の病院って、どうした」
私は和樹が行方不明になった日の出来事を話した。
「小指の骨折なんか、すぐに治るやろ。予約を変更したらいいやんか」
「あのね、悠馬を診てくれた先生の診察日を予約したわけ。悠馬、早く治してサッカーの試合に出たがってるの。親として、可哀そうや思わへんの」
「診察って午前か」
「そうやけど」
「そしたら、余裕で来れるやろ」
「無理」
「なんで」
「来たくないから」
和樹は黙って、私を見つめてきた。私も視線をそらさずに、彼の眼を見た。私たちは、しばらく睨み合った。
「私、あんたの母親と違うから、尻ぬぐいは出来へん」
「そんなん、言うんや」
和樹の声のトーンが下がった。
「自分のしでかした始末は、自分でつけてよ。大人やねんから」
「そんなもん、わかってるわ。それはそうと、子どもらは元気か」
「元気やで。けど、沙紀と泉と涼人には、このこと言ってあるからね」
「このことって、俺がここにいることか?」
「そう。公正証書の件は、さすがによう言わんかったけど」
「子どもらには言うな、って頼んだやん。なんで言うたん。俺、どんな顔で帰ればいいねん」
彼は顔を伏せ、鼻をすすって泣き出した。しばらく黙って、私はその姿を上から見下ろした。
「今さら泣いても仕方ないわ。私を責めるのは、筋違いやろ。こうなったのは、あんた自身の行いが悪いからやん」
返事もせずに、和樹は泣き続ける。ふたたび沈黙が続いた後、タイマーを見ると残り時間は三分だった。
「もう時間がないわ。週末は子ども会の夏祭りで金魚すくいを頼まれているから、仕入れと準備を頼むよ。桶は店に入れてあるから」
彼はTシャツの袖で涙を拭いて、やっと顔を上げた。
「それ、こないだ終わったんと違うんか」
「終わったのは、小学校でやる納涼大会。今度は子供会のぶん。しっかりしてよ」
「そうか。ここにいたらボケるわ」
「最後に大事な話があるから。私の前では二度と『アイツ』いう言葉を使わんといて。わかった?」
「えっ」
「ちゃんと聞いて。もし使うようなことがあったら、あんたとは別れるから」
「……わかった。もう絶対に言わん」
「それと、もちろん解ってる思うけど、『アイツ』を成仏させてよ。でないと……」
「終了!」
警官が勢いよく立ち上がった。
「でないと、なんや」
叫んだ和樹は警官に連れられて、向こうへ消えて行った。
私は黙って彼を見送ると、ゆっくり立ち上がった。接見室から出ようと、ドアノブを掴む。汗ばんだ手のひらに、ひんやりとした金属の感触が伝わり、なんだか心地が良かった。
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