「はい、お次の方、どうぞ」――法廷傍聴・初体験記れ故郷   奥野 忠昭



 裁判員制度も始まったことだし、一度、法廷を傍聴したいものだとかねがね思っていたのだが、どうもその機会が訪れない。「法廷傍聴へ行こう」という本まで買ったのに、まだ実現していない。これは意を決して行くしかないと思い、今度の月曜には必ず行くと予定を立てた。
 その月曜日がやってきた。よし行くぞと思いながら、どうも心が重い。何をつまらないことをやろうとしているのかという嘲笑の声も聞こえてきたり、一方で、裁判所というとどうも抵抗感を感じてしまう。この抵抗感っていったいなんなのだろう。行く必要のないところへ行くからなのだろうか。どうもそうではない。行く必要がないのに、新しい施設、例えば、家の近くに「YUFURA」という商業施設が出来たら、さっそくぶらりと行ってみたり、近くの公園で、殺された人が缶に詰められていたと聞くと、もう、そんな物が置かれているはずがないとわかりながらも、その公園へ行ってみたりする。
 やはり、裁判所というのは無意識に自分に威圧感を与えている存在なのか。
 今日行かなかったら、ひょっとしたら一生行かないかもしれないなどと大げさに考えながら、地下鉄に乗り、淀屋橋でおり、市役所の横から水晶橋を渡り、大阪簡易地方高等裁判所合同庁舎に到着した。
 褐色のやはり威圧感を与えるというか、親しみを覚えられないようなビルだった。ビルの横の門から中に入ろうと思ったが、門のところに警官のような帽子を被った守衛が立っている。まるで自衛隊の駐屯地のようだ。何の目的で来たのかとか、どこから来たのかとか、いろいろ尋ねられそうだ。
 しかし、門を入ろうとしても守衛は何もとがめなかった。ところが中に入って驚いた。朝日放送、読売テレビ、関西テレビ、NHKといった各テレビ局の中継車がずらりと並んでいる。皿のような白くて大きなアンテナが空に向かっている。裁判所というのは、こんな風にテレビ局がずっと来ているのか? 私は不思議に思い、再び、門まで引き返し、守衛にいつもあんな風にテレビ局の中継車が来ているのか、と尋ねてみた。 守衛は笑い、いいや、今日だけです。今日は、あの、前田とかいった検事がでっち上げの調書を作った事件があったでしょう。あれに関連した裁判があるからですよ、と言った。ああ、あの村木裁判に関わった事件か、それならもっと早く来て、傍聴券を得るために並べばよかった。もうその裁判は見られないだろう。でも、それに関わる裁判っていったい誰の裁判なのだろう。だが、それも今日の裁判の日程表がわかればすぐに判明することだ。私は、それについて詳しくは聞かずに、これもまた、ビルの横の入り口から中に入った。
 入ると少し広い玄関のようなところがあり、そこからずっと廊下が奥に続いている。廊下は薄暗い。地下通路のような感じだ。
 玄関には受付という囲いのテーブルがあり、後ろに守衛と同じ帽子を被った男がひとり、今度は座っている。裁判の見学に来たのですが、予定表というのを見たいのですが、と尋ねた。ああ、それなら、廊下をまっすぐ進んでもらうと正面玄関に行きますから、そこにあります、と言った。礼を言って正面玄関に向かった。
 さすが、正面玄関は広い。辺りを見回すが、どこに予定表があるのかわからない。私は、広いボードのような上に、一週間ぐらいの裁判の予定表が張られているのだと思っていた。だがそんなものはない。
 受付というテーブルの向こうに守衛が座っているのが見えた。普通のところなら、受付には若い女性がいるものなのだが、むつっとした男が座っている。これが裁判所だ、と思いながら、彼に近づき、尋ねた。
 あそこに、ファイルに綴じた今日の裁判の予定表がありますから、見てください、と言った。わかりました。でも、明日とか、明後日とかの予定表がないのですか、と私は尋ねた。ええ、それはありません。じゃ、明日とか明後日の予定を知ろうと思ってもわからないのですね。はい。
 私は、今日は予定表だけ見て帰るつもりだった。見たい裁判を探して、それが開廷される日に来るつもりだった。その計画がはやくも崩れた。じゃ、とりあえず、予定表を見て、今日の裁判を傍聴しようと思った。受付とは反対側の壁のところに行くとテーブルがあり、そこに、簡易・地裁の刑事裁判の予定表が二つのファイルに分けられて置かれている。すでに先客がそれを見ている。さらにその後ろに一人ずつ順番を待っている。私も、その後ろに並んで順番を待った。すでに十時半に近い。順番が来たので、そのファイルを見た。裁判長の名前が書かれ、今日行われる裁判が書かれている。どれが簡易でどれが地裁なのか全く区別がつかない。全て地裁の裁判のようになっている。見たいものがないか探した。十一時からの裁判で、しかも、最初の裁判を探した。「法廷傍聴へ行こう」の本に、見学するのなら、まず、最初の裁判がいいと書いてあったからだ。最初の裁判は「新件」とある。それから、途中のは「審理」、最後のは「判決」と書かれている。よし、これに決めたと「窃盗、および、傷害」の新件の裁判を傍聴することにした。その裁判は七〇六号室である。しかし、それはどこかわからない。再び受付に行き、どこか尋ねた。エレベーターに乗って七階に行って探してくださいとまったく機械的に答えた。これもまた裁判所だと思いながら、七階に行き、刑事事件の法廷が並んでいる箇所にある七〇六号室を探そうとした。ところが、刑事事件の法廷のところに来ると、数人の人が廊下にたむろしていて、これから法廷に入ろうとしている。すでに法廷への扉が開かれている。どうも、数名は団体で裁判所を見学に来ている人たちのようだ。私は咄嗟に彼らの中に混じってその法廷に入ることにした。それは何号室なのかわからない。何の裁判かもわからなかった。私の予定していた裁判は十一時からだ。まだ、二十分もある。それまで、この裁判を見てみよう、と思ったのだ。
 学校の教室ほどの小さな部屋だった。前方の二段ぐらい高いところに五十歳ぐらいのどこにでもいるおじさんのような裁判長が座っている。黒っぽい法衣を身につけている。その一段下に書記官がパソコンを前に座っている。書記官はパソコンで顔は見えない。さらに一段下、つまり我々と同じ高さのところに、教卓のような机が置かれ、それを前にして、被告が立っていた。まだ若い。紺のズボンに白いワイシャツ。若いサラリーマン風の格好だ。それから一メートルほど離れて、低い木の柵があり、我々傍聴者が座るところがある。被告を挟んで両脇に左側に検事のテーブルがあり、若い大学出たてのような検事が座っている。右側には同じようにこれも大学出たてのような弁護士が座っている。
 よくテレビで見る光景だが、検事も弁護士も若いこと、裁判官が一人であることが違った。
 中に入ったとき、裁判長がしきりに被告に向かって喋っている。裁判を途中で見ているので何が何だかわからなかったが、しばらくするとわかってきた。どうも被告は酒酔い運転でとっつかまったらしい。裁判長は被告に説教をしているのだ。「嫁さんに離婚され、子供に会いに行ったら会わせてもらえず、いらいらして酒を飲んだとか、そんなことは言い訳にはならん。いいか、酒を飲んで運転したらどんなことになるかわかっているだろう。もし、人でも轢いたらどないする。家族は悲しむし、……。あんたは親やろう。自分の子がひかれたらどう思う。……。反省しているのか、本当に」などと、ところどころで大阪弁の混じる口調で裁判長は喋っている。どこかで見た光景だ。いや、これは私が以前教師をやっていたころ、悪ガキを相手にしょっちゅうやっていた光景ではないか。へえっ、裁判長ってこんなこともするのか、と思った。でも、ちょっと親しみがわいてきた。それから次回の判決の打ち合わせを検事と弁護士とで行うとすぐに裁判は終わった。検事も弁護士も被告人も横の扉から出て行くと、「はい、次」と裁判長が言ったように思った。すると傍聴席の私の横に座っていた二人が立ち上がり、柵の扉を開いて被告席と弁護席に向かって歩き出した。驚いた。次の被告が私の横で待機していたのだ。これもどこかでよく見た光景だ。そう、待合室で患者が待っていて、名前を呼ばれると診察室へ入っていく光景である。
 すぐ、裁判が始まった。「名前は、生年月日は、住所は、職業は」とテレビでよく見る光景と同じだ。「もし尋ねられても答えたくなかったら答えなくてもよろしい。……」裁判長が被告人に言う。これもテレビと同じだ。
 その後、冒頭陳述というのが検事から行われた。これもまた検事になりたての、医者で言えば研修医のような感じだ。書いてきた書類を猛スピードで読み上げる。どうもその書類は裁判長にも弁護士にも配られていて、例え読まなくても実際の審理には何の影響もないのだが、一応、読むことになっているので読むといったことが露骨に現れているように私には思えた。弁護人は配られているペーパーを見ている。弁護士も同じく研修医と同じような感じの若い男だ。縞模様の入った紺の背広をきちっと着こなしている。
 私はこの人がどのような罪で裁判を受けているのか、低くて早口の検事の読み上げる陳述を必死で聞いた。かろうじて、十三歳の女の子のおしりをみんなの見ている前で触り、女の子が悲鳴を上げたので周りの人が彼をとっつかまえて警察につきだしたようだ。今度は弁護士が裁判長に何かを言った。これも声が小さいので、最前列にいる私にも聞こえない。私の耳が遠くなっていることはわかる。しかし、裁判は公開を原則としている。公開とは中身がわかってこそ公開だ。もし、暗号でやりとりされていたりすると、それは公開とは言わないだろう。だったら、もっと大きな声で言うか、マイクでもつけて欲しい。
 ただ、この裁判長の声は大きい。だからよくわかる。「今、弁護士さんが言ったこと、前もって聞かされていたか」と被告に尋ねた。被告は裁判長の言っていることがよくわからないらしい。裁判長は同じことを繰り返す。被告は頷く。それでいいのだな、と裁判長は念を押す。被告は再び頷く。あの被告は何を言われているのか理解していないようだ。ただ、頷けば審理が進むので、頷いたのに違いない。
 時計を見ると十一時に近づいている。それで、この傍聴はこれで打ち切ろうと部屋を出た。ただ、この部屋で行われる、この裁判長の今日の予定表はあとで記録しておいた。それをここに記してみる。
10:00〜10:40 道路交通法違反 新件
10:40〜11:20 大阪府公衆にいちじるしい迷惑をかける暴力行為等の防止に関する条例違反 新件 
11:20〜11:40 窃盗 新件
11:40〜11:45 詐欺 判決
13:20〜13:25 覚醒剤取締法違反 判決
13:30〜14:10 麻薬取締法違反 審理
14:10〜14:50 窃盗 新件
14:50〜15:30 公務執行妨害 新件
15:30〜15:35 公然わいせつ罪 判決
 これが一人の裁判長の一日のスケジュールである。まず、このように分刻みの予定が立てられ、それが予定通りに行われるということに驚いた。裁判とは犯罪事象の追求だろうと思っていた。事象の追求にはある程度の予定は立てられても、電車の時刻表のようなスケジュールはたてられないだろう。はやくに真理がわかることもあるし、真理追究に時間がかかることもある。これではまるであらかじめ決まった台詞で行われる芝居か儀式のようではないか。よく言って国会審議のようである。裁判長がもっとよく知りたいことが生じたり、あるいは、弁護士がもっと主張したいと思うことが起こらないのか。そのようなものは「審理」という形の中で行われるのかもしれないが、そんなものは例外の裁判だということがわかった。ほとんどが、冒頭陳述の次が判決といった、二回の裁判で終わるのだ。裁判の多くはベルトコンベアーに乗せられて製品化される商品のように、機械的に処理されているということがわかった。しかし、そのような処理を行う裁判長もたいへんだろう。もちろん、検事も弁護士も。
 さて、十一時に近くなったので、部屋を変えて別の裁判長の法廷へ行った。それは窃盗・傷害という裁判である。部屋は先程のより大きかった。教室二つぶんぐらいある。法廷にも大小があるのだ。前方二段上には裁判長の机があり、あとは先程と同じである。両脇の壁の上に大きなテレビがあった。部屋に入ると、両脇から警官に警護されて被告が座っていた。被告の腰には縄がかけられ、手錠をはめられている。三人が弁護席の前の長いすに腰掛けていた。
 前の裁判のように、仮釈放されて自宅から裁判所へ来る場合とこのように拘置所から警官に連れられて来る場合とがあるのだ。
 裁判長が入ってくるとみんなが立ち上がり一礼をして再び座った。私もそうした。裁判長は、三十代後半かと思われる、めがねをかけた面長の美しい女性だった。女性の社会進出は目を見張るものがある。裁判長は男だと決めてかかっていた私の固定観念を恥じた。 検事の冒頭陳述が行われた。この検事も若いが先程の検事よりももう少し年がいっている。三十代後半といったところか。声が大きくはきはきとしていて、冒頭陳述がよくわかった。被告は四十代ぐらいで小太りの頑丈そうな男だった。冒頭陳述によると、スーパーで万引きして捕まったようだ。窃盗、傷害というから、どこかの家に盗みに入り、見つかったのかと思ったのだが、ただの万引きか。それにしては警官に両脇を抱えられ手錠をはめられ、極悪人のように取り扱われているのに少し驚いた。
 被告人は、高校卒業後、職を転々とするが、長く続かず、今は無職で母親と同居し、母親に面倒を見てもらっているようである。近頃こういう男が多い。私の若い頃では考えられないことだ。いったい、世の中どうなっているのか。
 男はやや高額のものを万引きしたようだ。辺りを見回し、誰もいないので、それを隠し持って、スーパーを出たところで、別室の監視カメラで見ていたスーパーの店員が、彼の後を追い、出たところで彼を捕まえようとした。それで、被告は、スーパーの店員を殴りつけ逃走を企てようとしたのだが、傍にいた客達に取り押さえられ、警察に突き出された。現在、窃盗犯で捕まるのはおそらくこのような場合だろう。入った家の人に捕まるか、周りの人によって捕まるか、そのどちらかに違いない。一度逃げおおせた窃盗犯など捕まえる力は警察にはもうない。
 それが終わると、裁判長は弁護士に何かをいい、弁護士も何かを言っているが、裁判長の声は極端に低い。私にはまったくわからない。かなりの年齢の弁護士には聞こえているようで受け答えをしているのだが私にはわからない。ただ、それがどうも次の裁判の日程について話し合っているようだ、裁判長が何かを言うと、手帳をくって答えている。時々、今度は裁判長は検事の方を見て何かを言っている。すると、検事も手帳をくっている。そんなことが何度もつづき、では今日の裁判はこれで閉廷するということになった。被告は裁判中は手錠も縄も外されていたが、再びそれがつけられ、別のドアから出て行った。何だ、冒頭陳述を除くと、裁判長と検事と弁護士の日程の調整に時間を費やしただけのように思った。しかし、これが普通の裁判かもしれない。殺人や世の中が注目する裁判など例外中の例外の裁判なのだろう。
 昼食は裁判所の地下の食堂で、きつねうどんを食べた。二二〇円だった。玄関を出ようとして広場を見ると、まだテレビの中継車が並んでいる。朝、その裁判を予定表で見つけようとしたのだが見つけられなかった。それが予定表ではどのように書かれていたのか知っておきたかった。それで守衛に、あのテレビが取りに来ている裁判は何という裁判なのかと尋ねた。私もよくわかりません。あそこの掲示板に出ているでしょう、と道路から裁判所に入るところにある掲示板を指さした。私は道路に出るときにそれを見た。
 有印公文書偽造、同行使、有印私文書偽造、同行使、詐欺未遂、犯人隠匿、大坪弘道、佐藤元明、傍聴券のくじ引きを行うので、傍聴希望者は○時、○場所に集合のこととあった。
 家に帰って夕刊を見ると裁判の様子が詳しく載っていた。私の見た裁判とは全く違っていた。


 

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